加藤哲郎「戦後日本の政治意識と価値意識」(渡辺雅男編『中国の格差、日本の格差』彩流社、2009年11月)
● もともとは、一橋大学社会学部、清華大学人文社会科学学部、中国社会科学院政治学研究所共催「中国の格差、日本の格差:格差社会をめぐる日中共同シンポジウム」(2008年5月17/18日、中文タイトル「社会発展過程中貧富分化問題与対策研討会」)第3セッション「格差社会における価値観とモラルの問題」の報告です。
(目次)
1 はじめにーー現代日本の「格差」問題
2 「貧富分化」の再定義――戦後日本の政治意識
3 「生活水準」から「満足度」「心の豊かさ」へ
4 「豊かさ」の動態化・個人化から「格差」へ
世界経済危機のもとで景気が後退し、アメリカ、ヨーロッパ、アジアの各地で大量失業の出現がみられるなかで、日本では「格差」という言葉が広がり定着した。しかしこれは、あらゆる領域で競争が激化した新自由主義グローバリゼーションのもとで、貧困や生活苦という客観的事実の全体像に眼を向けることを妨げ、問題の深刻さをやわらげる、支配のある種の情報戦用語になっているのではないか、というのが本報告の主張である。事実その後、2009年9月のリーマンブラザーズ倒産の頃から、「世界恐慌」という古典的経済用語が現れ、「格差」どころか「貧困」が本格的に問題にされるようになった。
「格差 かくさ」とは、中国語にもない漢字の日本語であり、英訳も難しい。日本社会特有の社会科学用語である。和英辞典で「かくさ」と引くと、「=〔相違〕a difference; 〔隔たり〕a gap」と出てくる(プログレッシブ和英辞典)。日中辞典で「格差」をさがすと、「差別」(デイリーコンサイス日中辞典)とある。中国語では、そのままでは使えない。そこで本シンポジウムでは、日本側の「格差」を中国語で「貧富分化」と表現している。
漢字の「差」の方はわかりやすい。differenceでありgapである。問題は「格」である。日本語の代表的辞書である『広辞苑』第6版では、「格=@のり。きまり。法則。規則。やり方。A身分。位。等級。『―が高い』『―づけ』」と出てくる。「格差」とする場合は、「A身分。位。等級」の意であろう。では、格差社会とは、前近代的な身分社会と同じなのか?
現代日本の用例で、あらかじめ留意すべきは、会社や金融機関・大学について「格づけrating」が広がり、小泉純一郎元首相が、国会答弁等で「格差は悪いことではない」(2006年2月1日)、「冷静に考えると日本は世界でもっとも格差が少ない」(2007年6月)などと述べたように、「競争competition」に近い意味でも用いられ、否定的意味とは一義的に言えないことである。政治の文脈では、むしろ「自由競争」「活性化」と結びつけられる場合もある。ただし、本シンポジウムで「格差社会」という場合は、「格差が広がる」等の場合のように、やはり否定的意味なので、「貧富分化」の意で用いることにしよう。
このことは、日本政府が各種公文書で「格差」を用いる場合の用例を検討してみると、いっそうはっきりする。結論的に言えば、「格差」は、「貧困」や「社会分化」を別様に表現するために用いられ、その存在領域は、@所得格差(賃金・労働条件、生産性・企業規模)→A消費・生活格差(男女・学歴・地域)→B資産格差(土地・家)→C情報・希望格差、等とひろがってきたことがわかる。またその広がりの過程で、もともと「貧富」を問題にしていたものが、徐々に「富=豊かさ」の方にシフトし、「貧=貧困」の存在を隠蔽する機能を果たしてきたと考えられる。
@ 例えば1960(昭和35)年版『厚生白書』では、以下のように述べられていた。
A これが、1966 (昭和41)年版『厚生白書』では、次のような表現になる。
B 1978(昭和53年)版の「国民生活白書」では、「豊かさ」「新しい暮らし」が唱われた。これに対する、民間の法政大学大原社会問題研究所編『日本労働年鑑』1980年版の批判は、「階層格差の拡大 『豊かさ』『新しい暮らし』の内実」と題されている。
C 1990(平成2)年版『国民生活白書』は、「第I部 ゆたかさの中の国民生活の課題 第2章 資産格差と国民生活」を「持てる者と持たざる者――格差の実態」と要約し、以下のように述べる。
D 2005(平成17)年版『国民生活白書』は、資料編で各種データを掲げるが、「ジニ指数」という経済格差を数量的に表現する国際的指標を用いることによって、「社会問題としての格差」を統計的に論じた。その詳細は省略するが、以下の文脈との関わりでは、@所得格差は「一億総中流」といわれた1980年代をも含めて拡大していると指摘し、A所得格差よりも資産格差が大きいこと、を抽出している。(http://www5.cao.go.jp/seikatsu/whitepaper/h17/01_honpen/html/sr02.html)
E 2007年『情報通信白書』になると、新しい種類の「格差」が指摘される。「ネット接続の有無で格差拡大も」と題する報道記事は、「情報格差」を問題にする。
それではなぜ、所得や資産の相違・差異が、「貧困」や「階級・階層」ではなく「格差」の問題にされたのだろうか。そこには、おおむね3つの問題がある。
その第一は、構造的問題の政治的隠蔽である。「貧困」ではなく「格差」という概念を政府が意識的に使用することにより、「貧困→階級対立→階級闘争」という左派の言説に対して、経済成長が国家的目標であるという国益の一体性、国民の一体性を示して、成長利益の再分配で解決可能な範囲内の問題として「格差」を焦点化しようとした。1955年以来10年ごとに行われてきた日本社会学会の大規模社会意識調査=「社会階層と社会移動」全国調査(SSM)調査において、日本社会の特質として所得と社会的威信の「地位の非一貫性テーゼ」が提示されたのも、これを補強するものとなった。ポスト高度成長期に入って、社会的流動性が弱化し、ジニ指数の拡大が見られても、「格差」の指標を多様化し、差異を個性や自由度と等置することにより、問題を「格差」の枠内におさめることができた。
第二は、生活意識における「一億総中流」の崩壊を、「貧富分化」=不平等の認識に及ぼすことなく、「個人の選択」「自己責任」の枠内に収めて不満を回収するレトリックである。1990年代に入って、いわゆる右肩上がりの経済成長=所得上昇のカーブは終わり、バブル経済は崩壊し、グローバル化の波が日本を直撃した。その「失われた十年」の階層分化を、なお「豊かな社会」の範囲内で扱い、社会的不満・不安と「不平等」増大を政治的に表面化しないようにする手だての一つが、政府やマスコミによる「格差」という論題設定(Agenda Setting)だった。
第三に、それはまた、高度成長とJapan as Number Oneを一度くぐった国民の側でも、受容しやすい論題だった。戦後価値意識の変容に見合って、「差別」意識も変わっていた。「焼け跡・闇市」の貧しい時代から、「豊かな生活」の時代にいったん到達したのだから、逆戻りはありえないはずだった。新自由主義主導のグローバル化のもとで「市場競争」は不可避であり、富者との「格差」は、上昇・成功をめざす下層貧者のバネ・活力になるはずだった。ソ連・東欧社会主義が崩壊したもとで、画一化を強いる「貧者の平等equality」は社会目標たり得ず、「公正equity, 公平fairnessな競争」こそが、社会発展の原動力になるはずだった。
本論文は、特にこの第三の側面を、戦後政治意識の変容と、その基層の価値意識の問題として扱う。ただし、政治意識と同様、ここでの価値意識も、丸山真男風「古層」ではなく、情報戦のなかでの一つの政治舞台となる表層レベルで扱う。
戦後日本の政治は、おおむね1945-60年の「イデオロギー政治」、1960年代以降の「利益政治」をベースとし、「平和」を所与とした経済成長を謳歌してきた。1955年以降、自民党の一党優位政治支配、いわゆる「55年体制」を続けてきた。1980年代に「資本主義か社会主義か」のイデオロギー対立にはほぼ決着がつき、1989年の「ベルリンの壁」崩壊・冷戦終焉で、国民の社会主義志向は極小化された。
この1980年代以降の政治意識には、筆者が「経済大国ナショナリズム」と「生活保守主義」と名付けた、利益配分型政治とは異なる要素が含まれている。ここではこれを「豊かさの政治Politics of Affluence」と名付けておく。その絶頂期は、Japan as Number One がうたわれたバブル経済期であるが、1990年代以降、特に「55年体制」崩壊とされる1993年細川内閣以降の政治は、「豊かさの政治」のヘゲモニーをめぐる与野党の政党再編、合従連衡が進められ、同時に「豊かさ」そのものの基盤がほりくずされるプロセスとなる。
シンポジウム報告で概観した政治過程は省略し、ここでは政治意識と価値意識のレベルのみを見てみよう
「豊かさの政治」は、池田勇人から田中角栄の時代にみられた所得再分配・利益誘導の政治一般とは異なり、その延長上にありながら、いくつかの新たな特徴を持っていた。
その第一は、「イデオロギー政治」や「利益政治」の時代とは異なり、ある程度の世界的視野を持っていた。「欧米に追いつき追い越せ」は基本的に達成され、世界資本主義システムの裾野には膨大な発展途上国の「貧困」があることが自覚され、他の国に比して日本は世界市場で優位に立っているという自信に裏付けられていた。「経済大国ナショナリズム」とよぶゆえんである。つまり、多少の「格差」はあっても、他国と比べるとましであり、日本で下層に属していても食べることに困るわけではなく、世界的にみれば恵まれた上層に属する、となぐさめることができた。
第二に、石油危機以前のGDP年10%成長は過去のものとなっても、高度成長時代に獲得された物質的富は、労働者世帯の家計をもうるおすものとなっており、現在の「豊かさ」を守りたいという「生活保守主義」が生まれた。政治的には、1970年代まで自民党は旧基盤の農村人口の減少で支持率・得票率を下げつづけ、一時は「多党化」「保革伯仲」まで言われたが、1980年代に支持率を回復し、「保守回帰」といわれた。それは、それまでの農村保守に見られた政治的知識の乏しい有権者を保守政治家が後援会組織でつなぎとめる「伝統保守」「強い支持」ではなく、都市の給与生活者層に経済成長を指導した実績を示し、野党に政権を渡すと現在の「豊かさ」を保証できないと脅す消極的支持調達で、「弱い自民党支持」「浮遊する保守」ともいわれた。
それは、この頃始まるイギリスのサッチャーリズム、アメリカのレーガノミクスなど、今日新自由主義のさきがけとされる先進資本主義政治の新しい流れと合致し、中曽根内閣の「臨調行革」「国鉄・電電民営化」の下支えとなった。日本の野党が一つのモデルとしてきたヨーロッパ型のケインズ主義的福祉国家が財政赤字などで行き詰まったことが、もともと野党革新勢力の基盤とみられてきた都市サラリーマン層の「保守回帰」をもたらした。
第三に、「戦後民主主義」や「イデオロギー政治」にはらまれた日本の前近代性・封建遺制の払拭は、世界にも前例をみない超高度経済成長により基本的に達成されたとみなされた。工業社会に固有の資本・賃労働関係、階級闘争の激化も、いわゆる「日本的経営」の労使協調で克服されたかにみえ、社会意識における「一億総中流」「新中間階層」論が、政治意識にも浸透した。欧米に比しての経済市場における不完全競争も、日本型「仕切られた多元主義」と理解され、政治における自民党一党支配は、主にアメリカの学者から、自由選挙と複数政党制のもとでの「日本型多元主義」「創造的保守主義」と礼賛された。かつてのイエ・ムラ型ボス支配は、職場の小集団主義や革新自治体の経験をくぐって「近代化・合理化」されたとされ、何よりも都市化・工業化による農業人口の減少、核家族化、73年第一次石油危機以降に急増する女性就労人口の増加が、貧富の差のない「中流社会」、近代化された「個人主義の時代」への移行の証左とされた。
第四に、「経済大国ナショナリズム」は、「一国平和主義」とも結びついていた。朝鮮戦争・ベトナム戦争は、実は日本の経済成長の隠れた基盤であったのだが、そこでは憲法第9条を持ち、軍事支出・自衛隊をミニマムにして成長できたことから、中東戦争やアフガニスタン戦争も「対岸の火事」と受け止め、世界はともかく日本は「平和で豊か」であり続けうる、そうありたいという意識が広まった。それは、かつて筆者が「紛争巻き込まれ拒否」型とよんだ、消極的平和意識であったが、自民党内でも、経済政策優先の「米国の核の傘、軽武装、経済安保」型対米従属・協調派が優勢であったため、冷戦崩壊・湾岸戦争勃発までは、政治的に大きな争点になることはなかった。
第五に、そのため政治的争点は、「経済発展の持続、景気の政治的誘導」に集中した。財政再建や消費税が争点化することはあっても、政治選択のおおきな基準は、グローバル市場のもとでも「経済大国」であり続け、国民の「豊かさ」を保証することであった。
この頃の各種世論調査は、そのことを如実に示している。そこでは、「物の豊かさから心の豊かさへ」の価値意識変容と共に、国民の政治意識の変化が示されていた。政党支持で「支持なし層」が増大し、「政治的有効性感覚」は衰退したが、1973-2003年の長期趨勢をると、最大の政治課題は「経済発展」と答える回答が増大した。ちなみに象徴天皇制については、昭和天皇についての「無感情」「尊敬」から、平成天皇の時代に入って「好感」が第一位になった(NHK放送文化研究所『現代日本人の意識構造』1−6版、NHKブックス、等参照)。
こうした経済主義的政治意識の昂進を支えたものは、政府とマス・メディアによる「豊かさ」指標の開発、いいかえれば、価値意識の政治的な誘導であった。政府による「生活水準」測定指標の開発と改革により、価値意識の変容がもたらされた。
もともと日本の近代化過程では、1901年、日本で初めての社会主義政党であった社会民主党の創立宣言(即日禁止)が「民主主義、社会主義、平和主義、国際主義」を唱ったり、1919年国際労働機構(ILO)加盟時まで、労働運動の主たる要求が賃金よりも「人格の承認」だった伝統があった。労働者が主人公になる社会主義よりも、使用者と労働者を対等のものと認めさせる平等主義的価値意識が根強かった。戦時産業報国会での労使一体での国民動員もこうした伝統を基底にし、戦後の企業別労働組合、労使協調へと受け継がれた。
そこでの生活意識に注目すると、戦時下での精神主義的「最低生活費」計算から、戦後の「生活水準」計算への科学化・合理化が、ひとまず現れる。次いで1960年代には、「生命維持=いのち」から「生活向上=くらし」への「国民生活」設計が現れる。これが1970年代に欧米なみの「社会指標 SI」として福祉や環境や余暇を組み込んで指標化され、1980年代には「国民生活指標 NSI」という「文化の時代の生活満足度」を世論調査等を用いて計測する手法へと洗練された。バブル経済の崩壊する1990年代以降は、「新・国民生活指標 PLI」という個人化・働態化・多様化された指標に細分化され、それが日本の「豊かさ」を示す指標となり道標とされた。以下、この価値意識誘導と変容の過程を見てみよう。
敗戦直後の日本は悲惨な状態にあり、「焼け跡・闇市・闇米」に象徴される飢餓的水準にあった。「貧困」からの脱出の方途は、ひとまず憲法第25条の「健康で文化的な生活」をめざす食糧確保・生命維持から始まった。
1947年施行の憲法25条(生存権、国の生存権保障義務)は、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。 2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない 」と規定した。しかも世界的には、世界保健機構(WTO)憲章が、「健康とは、完全な肉体的、精神的及び社会的福祉の状態であり、単に疾病または病弱の存在しないことではない」と述べていた(1946年7月22日61ヶ国が署名し1948年4月7日発効)。
戦後改革を経て、サンフランシスコ講和条約で独立した日本では、まずは政府が「生活水準」を設定し、飢餓や貧困から脱却し、経済発展により国民生活全体を引き上げていくことが目標とされた。経済安定本部を改組した経済企画庁の設立(1955年)、有澤廣巳編『日本の生活水準』(東京大学出版会、1954年)のような社会科学からの接近が代表的であるが、そこでは規範的意味を持つStandard of Living(生活標準)とLevel of Living(生活水準) を区別し、実態としての後者を客観的・統計的に測定する必要が説かれた。所得水準と消費水準を租税・貯蓄・再配分を考慮して国民所得統計から測定し、1952年までに戦前1934/36年次の水準を回復したことを確認したが、家計費に占める食料費の比率=エンゲル係数は、東京でなお80%近い現実が析出された(大川一司『生活水準の測定』岩波書店、1953年、都留・大川編『日本経済の分析』勁草書房、1953年)。
1960年の経済企画庁『国民生活白書』は、「生活水準」を世帯構成・所得構造・物価・消費生活・貯蓄・生活意識で分析し、家庭電化の「消費革命」が始まったと宣言した。「生活革新の先頭に立つ団地族」が生まれたことに注目し、農村から都市への住民移動による都市の「新生活」=地域格差が生まれたことを析出した。
ただしこの頃、世界的には、1954年国連生活水準委員会報告が国際的定義とした「構成・指標アプローチ(component/indicator approach)」がすでに生まれており、健康・栄養・教育・雇用・集合的消費・交通・住宅・被服・リクリエーション・社会保障・人間的自由度から成る11指標が作成されていたが、日本では未だ、物質主義的所得保障と、せいぜい家庭電化など消費生活に着目するのが、せいいっぱいであった。
様相を大きく変えたのは、池田内閣の「所得倍増計画」であった。もともと中山伊知郎の「月給二倍」論をヒントにし、1960年安保闘争による国論二分の危機を脱するために作成された政府の経済計画は、実際には10年計画の目標が7年で達成され、労働組合の国民春闘による賃上げが、それを後押しする結果となった。先に見た「イデオロギー政治」から「利益政治」への転換である。
1964年の東京オリンピックから70年大阪万国博覧会へのナショナリズムの回復、「3種の神器(電機洗濯機・冷蔵庫・テレビ)」から「3C(カラーテレビ、クーラー、自家用車)」への物質的「豊かさ」シンボルの転換が、その帰結であった。多くの国民は、毎年の春闘であがる賃金と、貯蓄による家計設計で、目標を定めた生活水準向上を実感することができた。ただしその影で、インフレ高物価、長時間労働、公害・環境破壊、核家族化が進行し、「高度経済成長の光と影」という両義的意味をもった。
1969年に、米国保健・教育・福祉省は、ダニエル・ベルを委員長にした『社会報告をめざして』を発表し、@健康・疾病、A社会的流動性、B物的環境、C所得と貧困、D公共の秩序と安全、E学習・科学・芸術、F参加と疎外、を大項目としたデータ収集にもとづく公共計画づくりを提唱した。1973年には、The OECD List of Social Indicatorsが発表され、@健康、A教育と学習、B雇用と勤労生活の質、C時間とレジャー、D個人の経済的条件、E物的環境、F社会的環境、G個人の安全と法の執行、H社会的機会と参加、の9項目を共通の「目標分野」に設定した。
この欧米の流れを受けて、いまや西側世界第二の経済大国となった日本では、1970年12月、経済企画庁国民生活審議会に社会福祉指標委員会(青山秀夫主査)が設けられ、翌年6月国民生活審議会調査部会(篠原三代平部会長)に組み込まれ、74年9月に最初の「暮らしよさ」の指標体系が作られ試算された。それが、「生活水準」に代わる新しい「国民生活」の考え方=「社会指標(SI)」である。
「社会指標──よりよい暮らしへのものさし」は、10の「社会目標(Social Goal)」のもとに、27の主構成要素、77副構成要素・188細構成要素・368個の指標をもつ「暮らしよさ well-being」の体系であった。10の「社会目標」とは、@健康、A教育・学習・文化、B雇用と勤労生活の質、C余暇、D所得・消費、E物的環境、F犯罪と法の執行、G家族、Hコミュニティ生活の質、I階層と社会移動と、アメリカ『社会報告』よりOECD『社会指標』に近いもので、かつての「生活水準」の中心であった「所得・雇用」は、「余暇」の後の目立たぬ位置についた。ちょうどその頃、日本では福祉と公害・環境汚染が政治問題になり、「くたばれGNP」が語られて、「いのちとくらしを守る」をうたった革新自治体首長が「シビル・ミニマム」を唱えていた。政府の「社会指標」策定は、そうした経済成長至上主義への疑問・不信に応える意味があった。
第一次石油危機による高度経済成長の終焉、アジア近隣諸国の輸出主導型工業化軌道への参入を見た日本政府は、いまやG7サミットの一員となり、一人あたり国民総生産でもアメリカ並みになったとして、さらに「豊かさ」の再定義を進めた。
1979年9月に国民生活審議会「生活の質」委員会報告(宍戸寿雄委員長)は「新版社会指標──暮らし良さのものさし」を作成し、石油危機で高度成長は終わったが「安定成長」に入り、「物の豊かさ」は基本的に達成されたとして「福祉国家」的色彩を薄め、「生活の質」に着目した。
高度成長終焉後の財政危機のもとで、革新自治体は衰退し、首長は自治省官僚にとってかわられ、労働運動も1975年公労協「スト権スト」敗北後は、「冬の時代」に入っていた。世界的には、イギリスのサッチャー政権、アメリカのレーガン大統領が「小さな政府」を唱え新自由主義「構造改革」が始まった。日本も国・地方とも財政危機で、行財政改革が緊急課題とされた。この頃家計では、「核家族」の学歴競争・受験教育が強まり、「エンゲル係数(食費)」から「エンジェル係数(教育費比率)」への移行が言われていた。そんな中で、「新版社会指標」は、「生活の質」を指標に加え、155の細構成要素・261指標にスリム化してヴァージョン・アップした。ここから「豊かさ」の意味は、「物の豊かさ」から「心の豊かさ」へとシフトし、「一億総中流」のもとで飢餓や貧困は過去のものとされた。
世界的に新自由主義が強まり、中曽根内閣のもとで第二次臨時行政調査会の行財政改革が進み、「活力ある福祉社会」「国際社会への貢献」が声高になった。「文化の時代」「『人生50年型システム』から『人生80年型システム』への対応」が語られるなかで、「社会指標」は、1986年3月、国民生活審議会総合政策部会調査委員会(福武直委員長)の「国民生活指標(NSI=New Social Indicators)」へと転換された。
NSIは、「社会目標」を網羅することよりも「課題発見型指標」をめざして8個の「社会領域」を設定し、満足感・中流意識・幸福感など「主観的意識指標」と、国際化・情報化・社会病理など「関心領域別指標」を設けた。8大「社会領域」とは、@健康、A環境と安全、B経済的安定、C家庭生活、D勤労生活、E学校生活、F地域・社会活動、G学習・文化活動で、審議過程では「アメニティ」が取り上げられ「ものの豊かさから心の豊かさへ」の「科学的」測定方法が検討された。国際化・情報化でカタカナ指標が増え、「家庭・社会の病理」では単身赴任・校内暴力・不登校なども扱った。規範性を薄め、現状点検の指針と位置づけ、「中流意識」も指標に採用した。臨調改革が進行するもとで、財政支出を伴う「福祉国家」の色彩は消され、自助自立、家族・地域コミュニティを重視した「福祉社会」風に組み替えられた。
国連は、1990年「人間開発指標(Human Development Index=HDI)、翌91年「人間自由度指標(Human Freedom Index=HFI)を発表した。「社会開発」と異なる「人間開発」とは「人々の選択を広げるプロセス」と規定され、日本は長寿・高学歴・高識字率が効いて、HDIは160か国中カナダに次ぐ第2位だった。しかし自由度を示すHFIでは、代用監獄制度や男女賃金格差で減点され40点満点の32点、トップ38点のスウェーデン以下北欧諸国がズラリと並ぶランキングでは15位、しかし、下位に新旧社会主義国・イスラム諸国が並び、High Freedom圏内にかろうじてとどまった。「平等」に代わって「自由」が指標開発の基底価値となった。「悪平等・画一主義」とされた旧ソ連など社会主義諸国の崩壊と、冷戦終焉で「自由主義市場」一色となった国際環境変化が、それを後押しした。
1992年6月、ブラジルで地球環境サミットが開かれ、世界180か国首脳、8000近いNGO/NPOが一同に会して「持続しうる開発」に合意したが、この頃宮沢内閣は、池田内閣『所得倍増計画』にならった『生活大国5か年計画――地球社会との共存をめざして』を発表、「所得」から「生活」へと「大国」シンボルを転換した。
宮沢内閣の「生活大国」風発想は、国民生活審議会総合政策部会調査委員会(今田高俊委員長)での10回の審議を経て、1992年5月の全く新しい「豊かさのものさし」=「新国民生活指標」に採用され、英語で「PLI=People’s Life Indicators」と題された。「生活の『豊かさ』とは何かが改めて問われている」として、「国民生活」ではなく「個々人の生活の豊かさ」を測るため、フレームそのものも、「社会目標」でも「生活領域」でもなく「活動領域」という主体的・能動的命名を得た。
その指標は、8個とNSIと数は同じだが、@住む、A費やす、B働く、C育てる、D癒す、E遊ぶ、F学ぶ、G交わる、と動詞化する。その8「活動領域」に@安全・安心、A公正、B自由、C快適、という「4つの評価軸」を設定し、この縦横軸による8x4=32のボックスにそれぞれ1-11個の指標を配する「選択の多様性」に応じた「個性的」設定であった。将来が不透明な世紀末にふさわしく、「構造変化指標」として「高齢化」「国際化」「集中化」「情報・サービス化」「クリーン化」を加え、女性・障害者など主体の違いやボランティア活動・リサイクルからパチンコ・カラオケまでを動的にとらえようとした。
もっとも指標の内部に立ち入ると、例えば「交わる」の数量化とは、「安全・安心」で婚姻率がプラス・離婚率がマイナスされ、「自由」で今度は同じ離婚率がプラスとされ、未婚率、交際費支出、奉仕活動時間、共同募金額、老人クラブ加入率、献血者数等がウェイトをかけてポイント化された。「快適」は交際時間と公民館数で測られるものであった。
PLIの目玉とされたのは、「地域別豊かさランキング」である。かつての「生活水準」型指標では、事実上「一人当たり県民所得」に収斂し、東京がダントツのトップ、大阪が2位だが東京の3分の2、最下位は常に沖縄でトップ東京の半分、という構図が変わらなかった。ところがモノサシを増やすと、1992年作成時の試算で「費やす」はコンビニエンスストアの多い関東が高かったものの、「住む」では北陸、「育てる」「遊ぶ」なら北海道、「癒す」「交わる」なら長寿の沖縄と、おそらく立案者の狙い通りの「多様化」が現れた。それを指数化した総合指標ランキングは、毎年新聞の1面トップを飾るようになった。
1998年度版でいえば、福井・石川・長野・山梨・富山・鳥取・東京・香川・島根・徳島がベストテン、かの「裏日本」がズラリとオモテになり、東京7位・大阪45位の心理的「分権化」をもたらした。最下位はこの年も埼玉で、初年度発表時に知事が経済企画庁に抗議した曰くつきであった。「遊ぶ」で最下位となった宮城県知事は、「カラオケボックスが多いことが偉いのか」と怒りを表明した。住民直接投票で米軍基地は不要と直接民意を表明した沖縄県は、なぜか「交わる」でも評価されず、前年同様総合ワースト2だった
ところが経済企画庁は、1999(平成11)年から、このランキングの発表を中止した。総合指標でたびたび最下位とされた埼玉県知事らの抗議を受け入れたものであった。ただし実際にはこの指標が廃棄されたわけではなく、今日でも新しい指標は作られていないから、行政上の指針としては、なお生きているのである。
こうした「豊かさ」指標の個人化・動詞化・多様化・競争化の流れは、1990年以降の「国民生活白書」のタイトルの変遷からもうかがわれる。
この過程で、ジニ指数に代表される「格差」――「所得」から「資産」に転移し、「ものの豊かさ」から「心の豊かさ」へと主観化されたーーに言及されることはあっても、それは、政府の社会政策・福祉政策に生かされるべき政治課題としてよりも、もっぱら「グローバル自由市場」のもとでの「個人の選択」「自己責任」に属する問題へと周縁化された。
そして、「100年に一度」の世界金融経済恐慌が勃発し、日本でも急速に広がった失業・貧困が「年越し派遣村」として問題になっているさなか、例年より遅れ2008年12月26日に発表された平成20年版も、「消費者市民社会への展望―ゆとりと成熟した社会構築に向けて」という、国民生活の実態からかけ離れたものであった。「貧困」はもとより、「格差」の存在さえ認めずに「自由競争」「自己責任」「所得水準よりライフスタイルの選択」の方向で走ってきた「国民生活白書」は、眼前で始まった「豊かさ」の崩壊、否定しようのない「格差」と「貧困」の出現に、方向感覚を失ったのである。
*注※ 本稿は2008年5月のシンポジウム報告にもとづくものであるが、執筆時期が筆者のメキシコ大学院大学現代日本論客員講義と重なったため、第3章以下の叙述には、既発表の拙稿、歴史学研究会1998年度研究大会全体会報告「戦後日本と『アメリカ』の影――『いのち』と『くらし』のナショナル・デモクラシー」(歴史学研究会編『20世紀のアメリカ体験』青木書店、2001年)の一部が用いられていることをお断りしておく。なお、本稿の英語版は、別途出版される予定である。