『山本正美治安維持法裁判陳述集』解説(新泉社、2005年7月刊)
モスクワの街を歩いていると、東洋系の、日本人かモンゴル人かと見まごう人々に、時々出会う。思わず日本語で、話しかけたくなる。
本書に手記を寄せている、ヴィクトーリア・シャーリコワさんも、そんな一人である。父親は、本書の著者である日本人山本正美、一九〇六年生。いや、彼女の前半生ではずっと、アルクセーエフ・パーベル・ワシーリエヴィッチであった。母親は、ロシア人のアレクセーエヴァ・エフゲーニア・イワーノヴナ、一九〇七年生。ヴィクトーリアさん自身は、一九三二年六月二二日生まれ、当年七三歳になる。
私は、日本人を父親に持つそんなロシア人を、何人か知っている。ミハイル・スドー・マサオヴィッチさん、一九三二年七月一七日生まれ。アラン・ササキ・サダミノヴィッチさん、一九三五年五月一日生まれ。皆、二〇世紀日本社会主義運動史に名を残す、すぐれた日本人共産主義者の子供たち、いわば残留孤児である。一九九四年にミハイル・スドーさんの、二〇〇二年にはアランさんの日本のご親族を探し出し、ロシア政府から資料を取り寄せて命日と埋葬地を確定し、ご親族との対面を助けてきた。
ヴィクトーリアさんの一九三二年六月二二日という誕生日は、特別の意味を持っている。
コミンテルン(共産主義インターナショナル)のいわゆる「三二年テーゼ」が、ドイツ語版機関紙『インプレコール』に発表されたのは、一九三二年五月二〇日、五・一五事件の直後のことである。
当時の交通通信事情では、それが日本に到着するには、ひと月近くかかる。ドイツで反ナチス、日本の満州侵略反対の闘争を続けていた元東京大学医学部助教授国崎定洞が、ドイツ共産党日本人部の責任者として、平野義太郎、小宮義孝、堀江邑一、河上左京など、当時の信頼できる連絡ルートの複数の宛先に、ベルリンから秘かに送り届けた。
おそらく実弟河上左京のもとに届いたドイツ語原文を、京大を追われた河上肇が、徹夜で翻訳した。それが、一九三二年六月二八日付日本共産党謄写版パンフレットに、日本語で初めて発表された。七月一〇日付の『赤旗』特別号にも収録された。村田陽一による加筆・修正を経た日本共産党の定訳は、『インタナショナル』一九三二年九月一日号に発表された。ドイツ語の「アブサルーテ・モナーキー」は、「絶対主義的天皇制」と訳された。
つまりヴィクトーリアさんは、「三二年テーゼ」と共に、この世に生を受けたのである。
私がヴィクトーリアさんにモスクワでお会いしたのは、一九九八年六月、ちょうど彼女の六六歳の誕生日の頃だった。年齢よりもずっと、お若く見えた。その旅のことが、私の個人ホームページ「ネチズン・カレッジ」に、日記風に掲載され、公開され、過去ログのなかに保存されている(http://members.jcom.home.ne.jp/072286711/Living4.html)。
本書に収録された、ヴィクトーリアさんの手記「第二次大戦前夜、日本人の国際共産主義運動家を父に持ったモスクワ女性の思いで――戦前、戦中、戦後のロシアに生きて」が、『労働運動研究』二〇〇〇年四月号ム八月号に連載されたのは、私たちのモスクワでの出会いから、二年後のことだった。ヴィクトーリアさん自身が、九八年夏の私と藤井一行教授の紹介したスドーさんとの出会いを、手記のなかに記している。
そこにあるように、私と藤井一行教授は、自分の生まれた当時の父のことを詳しく知りたいというヴィクトーリアさんに、家族なら申請できる旧マルクス・レーニン主義研究所コミンテルン史料館の「山本正美ファイル」の閲覧をお勧めし、ロシア人にとってはそれ自体長く苦しいたたかいである正規の官僚的申請手続きを助け、父須藤政尾粛清の一件記録を得て亡父の「名誉回復」を果たした経験者ミハイル・スドーさんを紹介したのだった。
一九三七年に「日本のスパイ」として粛清されたスドーさんの父須藤政尾は、北海道出身で、北樺太オハ鉱業所、ウラジオストック港で日本人漁民・船員に働きかけ組織した労働組合指導者だった。ちょうど「三二年テーゼ」の頃、ウラジオストックでプロフィンテルンの汎太平洋労働組合を指導していた山本懸蔵に招かれ、モスクワに移った。ソ連共産党員として活動していたが、ミハイル=日本名ミノルさんが五歳の時に、「敵国日本人である」という理由だけで逮捕され、そのまま銃殺されて戻ることはなかった。ロシア人妻マリアさんも強制収容所(ラーゲリ)に入れられ、親戚に預けられたスドーさんは、孤児同様に育てられ、苦学して大学に進み、地質学の博士号までとった。
手記を読むと、ヴィクトリアさんの前半生も、ほとんどスドーさんと、変わるところはない。母イワーノヴナさんは第二次大戦まで生きていたとはいえ、父の背中どころか父が何ものかも知らず、学校の成績は優秀なのに、貧しくつつましやかな境遇で育った。物心ついて、自分のアイデンティティを求め、父の消息をソ連共産党中央委員会に訊ねるが、共産党にサボタージュされ、妨害され、ネグレクトされてきた。結婚して子供ができても、自分が何ものであるかを、子供に語りえないのである。
ヴィクトーリアさんの、ミハイル・スドーさんとは違った好運は、父山本正美が一九三二年末には日本に帰国したため、瞼の父との生きた再会がかなったことである。山本正美の党歴が、コミンテルンやソ連共産党・日本共産党の秘密記録にどのように記されていようとも、ともかく特高警察の拷問に耐えて、獄中・戦時も生きのびて、三〇年以上も経ってからではあるが、前半生の夢が実現できたのである。
だから、ヴィクトーリアさんは、書いている。「父、山本正美が一九三二年末に帰国せず、ソ連内にい続けたら、粛清に会わなかったとはいい得ないでしょうし、私自身どうなっていたかわかりません」と。
その再会にあたっては、山本正美の日本でのたたかいで結ばれた妻、山本菊代さんの献身的努力が決定的だった。一九六六年に、最初にヴィクトーリアを訪ねたのも、血のつながらない夫の実娘を捜し出した、山本菊代であった。そして、ヴィクトーリアは、父山本正美自身の口から、自分の出生の秘密と、その時父が賭けていた理想を聞くことができた。
革命家山本正美にとっては、クートヴェ入学以来のソ連滞在七年の大きな所産が、「三二年テーゼ」と、娘のヴィクトーリアだった。だが、どちらが大切かと問われれば、戸惑ったことだろう。
本書のほとんどを占める裁判記録は、「三二年テーゼ」に捧げられている。山本正美自伝『激動の時代に生きて』(マルジュ社、一九八五年)も、ほとんどが革命運動と戦略・戦術についての叙述である。末尾に三頁だけ「私事にわたって」とあるが、それも、土佐の水平運動の話が中心で、もちろんヴィクトーリアのことは語らず、「同志である妻」への謝辞も、とってつけたかのようである。
その点、妻山本菊代の自伝『たたかいに生きて』(柘植書房、一九九二年)には、「共産主義者と人間性」の一章があり、「義理の娘、ビクトリアとの出会い」も、率直に書かれている。夫正美は「社会主義ソ連だから心配しない」と強がりをいっているが、「消息は知りたいだろう」と本心を汲み取った妻菊代が、「三二年テーゼ」とならぶ「もう一人の我が子」を見つけ出すのである。
ここには、当時の日本の家族や性についての通俗道徳、男性と女性の感性の違いと共に、二〇世紀共産主義者の「公事」と「私事」の使い分けがある。山本正美にとっては、モスクワで全精力を傾けた「三二年テーゼ」と戦後の革命路線こそ「公け」の我が子であり、ヴィクトーリアは「私事」の、そのまた私的な「癒し」の我が子だった。
だが、私の経験では、この「革命的」「マルクス・レーニン主義的」公私区分こそ、一九八九年に「ベルリンの壁」を崩壊させ、九一年にソ連に死亡宣告を下した、当のものの一つだった。
先述したように、日本人では唯一山本正美のみが実質的策定に加わった「三二年テーゼ」を、ベルリン経由で日本に伝えたのは、国崎定洞だった。ドイツ留学中にドイツ共産党日本人部の指導者になり、そのままモスクワに亡命した国崎定洞にも、一九二八年一一月九日生まれの一人娘がいた。ドイツ人妻フリーダ・レートリヒとの間に生まれた、タツコ・レートリヒさんである。
そのタツコさんと、一九八〇年に初めてお目にかかったさい、教えられたことがある。こちらは運動史研究者として、一九三七年夏、国崎定洞粛清当時のモスクワでの記憶を聞き出したかった。しかし、十歳になる前に突然父がソ連の秘密警察に連れ去られ、「スパイ」の家族としてそのまま社会主義ソ連からナチス・ドイツに追放されて、西ベルリンで「日本人コミュニストの子」として差別され育ったタツコさんは、父が東京大学医学部社会衛生学の初代教授になるはずだったとか、一九三二年に日本の満州侵略とナチスに反対する「革命的アジア人連盟」を組織したといった話には、あまり興味を示さなかった。
幼い頃に父が書いてくれたという富士山の鉛筆画を持参して、その富士山と日本の山河、父の故郷九州の海について、しきりに知りたがった。父にとっては革命が「公事」で家族は「私事」であっても、父を奪われた娘にとっては、父の姿かたちの記憶、大きな手のぬくもり、父の話してくれた日本の海や山や住まいの情景こそ、まぎれもなく自分の存在と生き方をどうしようもなく拘束した「公事」だった。
ヴィクトーリアと同じく、タツコさんも、傍目には小柄で、日本人の顔をし、しかも日本語が全くわからないからこそ、もどかしく、切実なのである。
だから、一九八九年の自分の誕生日に「ベルリンの壁」が崩壊して再会した時、タツコさんは、部屋中に川上武医師から贈られた日本のカレンダー写真を貼りだして、父の国「日本」をなつかしんでいた。
ミハイル・スドーさんや、二〇〇二年に来日したアラン・ササキ・サダミノヴィッチさんの場合も、同じだった。
スドーさんのことは、拙著『国境を越えるユートピア』(平凡社ライブラリー、二〇〇二年)に詳述した。
アランさんの父は、岡山生まれの健物貞一。早稲田大学建設者同盟出身で渡米、一九二〇年代アメリカ西海岸で「第二の片山潜」といわれた、日系労働運動の輝けるリーダーであった。アメリカ共産党日本人部の理論的指導者だったが、アメリカの左派労働運動弾圧で国外追放になり、「労働者の祖国」ソ連に亡命した。いわゆる三〇年代ソ連在住「アメ亡組」の、中心メンバーだった。
アランさんは、二歳で父がスターリン粛清の犠牲になり生き別れ(一九四二年にラーゲリで死亡)、朝鮮人革命家の母リ・ボビャ(党名シェ・オク・スン)さんもラーゲリに奪われたため、「ササキ」という父のソ連での党名でしか、日本とのつながりを実感できなかった。だが、ソ連が崩壊し、娘のリュドミラさんの結婚に当たって自分の素性を娘に問いただされ、新生ロシア内務省に、おそるおそる父の探索の手紙を書いた。
それが、まわりまわってモスクワのミハイル・スドーさんに連絡がつき、私に日本での親族探索の依頼が来た。それを、例によって日本の新聞とインターネットに公開してよびかけて、出身地の町役場からの通報で、「アメ亡組」の健持貞一の遺児で、遺族が岡山で存命中と判明した。九〇歳を過ぎて生きていた岡山の叔母さんに辿り着いたのは、父の死後、実に六五年後のことである。
アランさんは、二〇〇二年五月に娘のリュドミラさんと共に来日し、ようやく父の墓前に、親族との再会を報告できた。その墓石には、「健物貞一、一九六二年没」と彫られてあった。その日付は、戦後も長く実兄貞一の生存を信じて消息を待ち続けた弟さんが、ついにあきらめて、町役場に死亡届を出した時だった。
本書のヴィクトーリアさんの手記は、自分の生きてきた道を、淡々と描いている。
フルシチョフの生産力増強計画は出てくるが、日本の「三二年テーゼ」や日本共産党の話は、一言も出てこない。幼時の苦しかった想い出も、父山本正美と会えた時の喜びも、玩具や住宅や美味しいソーセージの日常些事にからめて、記憶を蘇らせている。
だが、私たちはこれを、「私事」として受けとめていいのだろうか。ヴィクトリアさんにとっては、それが自分のたたかいそのものであり、その困難の多くは、父がソ連在住日本人共産主義者であったという、ただそれだけの理由で、その時代と環境から押しつけられたものであった。
その時代と環境の変革こそ革命であり「公事」であったという言い逃れは、ある時代のあるサークルの中では、可能であったろう。ただしそれは、「党員は、全党の利益を個人の利益の上におき、だれでも党の上に個人をおいてはならない」といった言説がまかり通った、二〇世紀のある時期の、ごくごく狭いセクトの中においてのみである。
ソ連崩壊後に初めて公開された、『レーニン全集』第五版にも隠匿され未収録だった、レーニンの書簡類がある。ヴォルコゴーノフ『レーニンの秘密』上下巻(NHK出版、一九九五年)に紹介された三七二四点の『レーニン全集』未収録資料の大きな部分は、内戦期のテロル指令と共に、妻クループスカヤを生涯悩ませた、イネッサ・アルマンドへの恋文の束であった。
最近刊行された分厚い『ポートレートで読むマルクス』(大村泉、窪俊、V・フォミチョフ 、R・ヘッカー編、極東書店、二〇〇五年)の目玉は、カール・マルクスが家政婦に生ませた私生児のその後と、妻イエニーが真剣に離婚まで考えた事情の、公的ドキュメントによる証明である。かつて『人間マルクス』(岩波新書、一九七八年)で話題になった史実の、四半世紀遅れの学術的追認であった。
山本正美の生きて活動した時代には、それらは「私事」とみなされ、政治的評価に関わることはなかった。
ヴィクトーリアさんの世代は、そのことで、苦悩を強いられた。
それに続く、後に残された世代は、それを「公事」として引き受け、かつての「私事」がなぜ政治路線の選択や政治権力の獲得に影響をもつようになったのかを、山本正美が「三二年テーゼ」に立ち向かったように、真剣に解明する必要があるだろう。
人間山本正美の名誉のために、菊代さんには生前お伝えしたが、これまで公けにしたことのない晩年の私的対話を、記録に残しておく。
一九九四年の初夏、私は夜中の二時頃に突然、山本正美さんから電話を受けた。一九七八年に「三二年テーゼ」について聞き取りして以来、そんなに頻繁にお会いしてきたわけではなかったが、ちょうど私が『モスクワで粛清された日本人』(青木書店)を公刊し、お送りしたばかりだったからだろう。
深夜の長い電話だった。山本正美さんは、途中で何度も声をつまらせて、号泣した。娘のヴィクトーリアさんをようやく日本に呼び寄せることができ、松戸の家はいま天国のようだ、と言っていた。
山本菊代さんから、正美さんの訃報が届いたのは、それからひと月もたたない、異国への旅の途上のことだった。正美さんも、悔いなき旅立ちだったろう。
山本正美は、やはり、「三二年テーゼ」の産みの親であると共に、まぎれもなくヴィクトーリア・シャーリコワさんの父親として、その生涯を全うしたのである。(了)