2011年夏、瓜生洋一君・安田浩君追悼

 

 

 2011年夏休みのアメリカ、ヨーロッパの旅のあいだに、二人の親しい友人を失いました。一人は、大東文化大学政治学の瓜生洋一さん、『銅版画フランス革命史』(読売新聞社、1989年)、『フランス革命年代記』(日本評論社、1989年)の翻訳など、フランス革命を画像・表象や手旗信号機をも用いて研究するユニークな政治学者でした。1985年パリの世界政治学会に一緒に参加するずっと前から、多くを教えられてきました。パリでの1789年革命のニュースがフランス山間部の村に伝わるまで数ヶ月かかったという瓜生さんの話にヒントを得て、レニングラードでの1917年ロシア革命のニュースがシベリア奥地にどう伝わったかを調べてみたら、なんと数年かかったという記録がでてきました。どちらも「都(みやこ)では王様がかわったそうだ」という話で、「革命の想像力」の刷新に使わせてもらいました。2011年8月9日、ご家族に見守られて、永眠されました。実は私にMacを薦めてくれた先輩で、IT技術の師でもありました。東京外語大学留学生センターの外国人留学生用教科書『日本の政治』(1992年初版)を一緒に書いたのも、なつかしい思い出です。本サイト「リンク集」で「歴史家のためのパリ案内」を紹介してきた、政治学研究の先駆的ウェブサイト「URIU YOICHI's Laboratory」、ブログ「樹々のざわめき」は、お子さんたちの手で再建され、瓜生さんのお仕事を永遠に伝えるものになりました。心からご冥福をお祈りします。

もう一人、千葉大学歴史学の安田浩さん、長い闘病生活でしたが、9月10日に、ついに力尽きて亡くなりました。私は大学卒業後の研究会仲間でしたが、高校時代からの親友渡辺治さんが協力して仕上げた遺著『近代天皇制国家の歴史的位置ーー普遍性と特殊性を読みとく視座』(大月書店)が、ヨーロッパ旅行から帰ったら立派に仕上がり届いていました。最終校正はベッドの上で間に合ったとのこと、「この本が、多くの若い読者の手に渡り、何らかのヒントになれば」と結ばれています。残念無念ですが、本望だったでしょう。書かれた書物は『大正デモクラシー史論』(校倉書房、1994年)、『天皇の政治史』(青木書店、1998年)と歴史学の王道を行く重厚でオーソドックスな仕事でしたが、そのふところは深く、私が1998年に安田さんの本拠地である歴史学研究会の総会報告を頼まれ、「戦後日本と『アメリカの影』」を、「戦後歴史学」の脱構築を意識し、体位計測と体型変化というちょっとひねくれた視角で展開したところ、すぐに飛んできて「加藤らしくてよかった」と励ましてくれたのが、安田さんでした。留学生の皆さんが慕うように、学問的には厳しいが、暖かい人でした。本HP7月15日トップで、3・11フクシマを踏まえ、「戦後民主主義」を支えた「平和」意識に内在する(1)アジアへの戦争責任・加害者認識の欠如、(2)経済成長に従属した「紛争巻き込まれ拒否意識」、(3)沖縄の忘却、(4)現存社会主義への「平和勢力」幻想の「4つの問題点」に加え、(5)核戦争反対と核エネルギー利用を使い分ける二枚舌の「平和」、を歴史的に検討すると宣言しましたが、実はその「4つの問題点」は、『歴史学研究』2002年11月号に書いたように、今はウェブでも一部が読める安田浩さん「戦後平和運動の特質と当面する課題」(渡辺・後藤編『現代日本』第2巻、大月書店、1997年)を、下敷きにしたものでした。瓜生さん、安田さん、本当にお世話になりました。安らかにお休みください。合掌!

瓜生さんの訃報はアメリカ滞在中、9月はヨーロッパ4か国で、安田さんの葬儀にも出られませんでした。そしてドイツでは、本年1月7日に亡くなった親友 Dr. Jasim Uddin Ahmedの墓参に、ボンでの研究の合間を縫って行ってきました。イスラム教徒ですが、公営墓地の一角にムスリム専用の墓地があり、そこに花で囲まれて、わが友ヤシムは眠っていました。案内してくれたカローラ夫人の話では、タタミ1畳大の区画では、どのような宗教的儀礼も可能で、彼の好きだった盆栽を植えることもできるとのこと。日本式に墓標に水を遣って、白いバラの花を捧げてきました。合掌!


GO to HOME