辻内鏡人さん追悼集『言葉』寄稿(2001年12月2日)

 含蓄のある理論家 

     

加藤 哲郎(一橋大学社会学研究科同僚)

 


 辻内鏡人君についての「私的追悼」は、あの「事件」の直後、告別式の夜に書いた。インターネットのホームページ「加藤哲郎のネチズン・カレッジ」に入れたので、多くの人に読んでもらった(http://members.jcom.home.ne.jp/katote/tujiuchi2.html)。本田創造先生も読んでくれた。お亡くなりになる直前に、心のこもったメールをもらった。そこで詳しく述べたが、僕と辻内君を結び、辻内君と本田先生をつないだのは、「事件」のちょうど20年前に不慮の交通事故で亡くなった、故松井坦君だった。だからここでは、「愛すべき好漢」松井君と辻内君に共通する。学びの姿勢についてのみ、記しておきたい。

 ホームページに書いたように、辻内君は、東大経済学部の大学院生時代に、僕の集中講義に出ていた。構造的経済史を身につけ歴史学畑で活躍したが、理論志向も強かった。僕は政治学専攻で、経済主義的な歴史解釈に批判的だった。松井君とレーニン『帝国主義論』と『国家と革命』の関係について議論したことを、「一つの国家論入門」と題して、『日本の科学者』1985年5月号に、大学院生向けに書いた。集中講義にも使ったはずである。

 経済学専攻の院生たちの前での経済還元主義批判であるから、こちらは挑発のつもりだった。民族や文化や差別の問題を経済構造から直接説明することの学問的危険を説き、マルクス『フランスにおける内乱』の「精神的な抑圧力」の独自性を強調した。すでに博士課程だった辻内君は、挑発に乗らなかった。ただし僕らの「ネオ・マルクス主義」に、直ちに組みするものでもなかった。アメリカ経済史を深く学んでいたから、階級闘争だけで人種差別が説明できないことなど、常識だったのだろう。すべてを説明する「大理論」よりも、実証研究から抽出する「中範囲の理論」を好んだ。いやそれ以上に、経済も政治も文化も社会関係であり、人間と人間の関わりであることを、深く理解していた。

 「事件」直前に出た『歴史学研究』2000年12月号の大会報告批判で、「記憶」の流行にふれて「現代人の期待や当為を安易に過去に投影する還元主義」を批判し、「歴史家もたまには歴史離れするのも必要だが、歴史的な視点を忘れてはなるまい」という。今年の大会報告批判を書きつつ、今度は辻内君に教えられた。含蓄のある理論家を失った。合掌


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