同志社大学人文科学研究所『キリスト教社会問題研究』第56号(2008年2月)所収追悼文、及び2008年3月16日「田中真人さんを偲ぶ会」寄稿追悼文


同志社大学人文科学研究所『キリスト教社会問題研究』第56号(2008年2月)所収追悼文

  

田中真人さんの学風と鮒寿司

 

         

加藤哲郎(一橋大学・政治学)

 

 


 田中真人さんが逝って半年、夏は久しぶりに、スウェーデンとドイツで過ごした。いくつか貴重な日本現代史の資料をみつけて帰り、それを一緒に解読してくれるはずだった人のぽっかりと空いた穴の重みを、思い知らされている。

 あれは、いつの頃からだったろうか。コミンテルンの歴史的研究から入って、国家論や民主主義論の視角からその理論的限界を論じるようになった私は、田中さんと書物や論文を交換する関係になってから、何かの会合で出会った。同じく学生運動をくぐり、党派は異なりながら、そうした党派そのものを超える必要で、意気投合した。東京と京都の運動の違いを、都市の景観や話し言葉、食のあり方、酒の飲み方の差異からあれこれこじつけて、「総括」したりするようになった。

 運動のスタイルばかりではなかった。運動や組織を歴史的に評価し総括する学問のスタイルにも、関東風と関西風があることを、思い知らされた。今ならちょっとした政治文化論だが、「テーゼ」や「前衛」を相対化し、革命や社会運動を、生身の人間たちの試行錯誤の合力として見るさいに、思考の刺激になった。

 ソ連が崩壊してしばらくたった頃、一緒にモスクワに、日本社会運動史の資料を漁りに行く計画をたてた。だがそれは挫折した。なにしろ私の方は、アエロフロートの直行便で朝方着くように手配し、現地留学生のナビゲーターをたて、効率的に史料館をめぐって、インタビューを組み合わせるプランだった。対する田中さんは、まずは舞鶴からナホトカ航路で入り、シベリア鉄道でスターリン主義の生まれる土壌をじっくり味わうプラン、ついで、大連から満州里経由で内モンゴルの砂漠からロシアの大地へ抜けるルートを見つけてきた。二人のタイムテーブルは合わず、計画半ばで破綻した。

 最後の数年間、タイムテーブルは、だんだんかみ合ってきた。東京で増山太助さんらの運動体験を聞き取るため、伊藤晃さん、松村高夫さんらに、実践運動家も多数加わった社会運動史の研究会がつくられ、田中真人さんも、関西から出てこられた。私や伊藤晃さんは、逆に同志社大学の田中さんの研究会に組み込まれた。

 あとで思えば、田中さんは、残された時間を逆算して、通ってきたのかもしれない。私たちは京都に他の用事にあわせて行く程度だったが、田中さんはほぼ毎月東京の会にかけつけて、特に運動参加者による体験談の例会では、とりわけ貪欲に質問し聞き取りをしていた。それでも新幹線ばかりではなく、中央本線を使ったり、途中から鈍行で飯田線や小梅線の縦断を楽しんだりもしていたが。

 私たちの研究会の成果は、加藤哲郎・伊藤晃・井上學編『社会運動の昭和史 語られざる深層』(白順社、二〇〇六年七月)という本に、なんとかまとめることができた。田中さんにも、「日本共産主義運動史研究・最近の十年」という総括論文を寄稿していただいた。次は、田中さんの編む番だった。

 亡くなる二週間前に、京大病院に田中さんを見舞い、よもやま話をした。意識は確かであったが、持っていった果物は食べられなかった。同志社大学での研究会の成果を書物にするプランだけは詳しく聞いて、事務局の皆さんに伝えることができた。あとは例によって、旅と食べものの話だった。田中さんが最後に所望されたもの、それは、やっぱり私の口には近寄りがたい、琵琶湖の鮒寿司だった。合掌!


2008年3月16日「田中真人さんを偲ぶ会」寄稿追悼文

 

 

田中真人さんが逝って、遺された者は…

 

 

加藤哲郎(一橋大学、政治学・現代史)

 


 田中真人さんが逝って1年、3月16日はぜひ出席したかったのですが、ちょうど中国に調査旅行中で、残念ながら出席できません。奥様はじめ皆様に、改めて哀悼の意を表すると共に、偲ぶ会のご盛会を祈念しております。

公式の追悼文は、同志社大学人文科学研究所『キリスト教社会問題研究』第56号に書きましたので、ここには、一つの想い出を書かせて頂きます。

2003年7月、私は長野県川上村の社会運動資料センター信濃の由井格氏所蔵、元日本共産党資料室員「水野津太資料」を整理・分類する調査で、不思議な文書を発見した。「信書」と書かれた古びた茶封筒の中に、中国語の手紙が4通入っていた。たまたま同行した私の助手許寿童君が中国からの留学生だったため、それは、第二次世界大戦末期の毛沢東自筆の野坂参三宛手紙2通、野坂の蒋介石宛手紙1通、及びその返事である蒋介石の野坂宛電文1通と判明した(後に『文藝春秋』2004年6月号に発表)。

 その旅には、田中真人さんも同行していた。私たちは毛沢東自筆の手紙発見に興奮した。いいだ・ももさんなどは、これで資料整理は切り上げ祝宴だと言い出す。だが田中さんは冷静だった。許君に頼んで、何が書いてあると聞く。誰が書いたかよりも、何が書かれているかが問題なのだという。そこで本格的に解読すると、それは戦後天皇制をどうすべきかの重要文書だった。やがて筆跡も鑑定できた。そのことをその場にいた伊藤晃さんらを含め確認できた。史資料を知悉し冷静な田中さんの一言が、大きな成果を導いた。

 この話には、後日談がある。「水野津太資料」中の毛沢東・蒋介石・野坂書簡を含む貴重な第一次資料は、松村高夫さんを介して慶應義塾大学図書館に収められた。所蔵者由井格さんは、所蔵庫を空けて水野津太の霊前に捧げる評伝の出版費用を捻出する必要があったが、国立大学では資金・手続きが困難だった(由井格・由井りょう子編『革命に生きる 数奇なる女性・水野津太――時代の証言』五月書房、2005年)。ところが慶應大学は、共産党内部の第一次資料は買い取るが、『赤旗』切り抜き帳や戦後から50年代の活字資料はいらないという。分量的には圧倒的な雑誌・新聞類は、せっかく整理したのに引き取り手がなくなり、由井さんの子供に部屋を空け渡す計画は宙に浮いた。そこで田中真人さんが動いてくれた。当時の新聞・雑誌や水野津太の書き込み入りスクラップブックを、同志社大学人文科学研究所資料室に引き取り所蔵してくれた。運動史資料の大切さと後生に残されることの意味を、深く理解できる人だった。

 日本の社会運動史研究が、田中真人さんを喪った意味は計り知れない。しかし、そうした努力を経て残された資料を解読・解析し、現代史の再解釈・再構成に活用することが、遺された者のなすべきことだろう。私もささやかながら、その事業に取り組みたい



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