社会理論学会2005年次大会報告、年報『社会理論研究』第7号(Nov.2006)


グローバリゼーションと国民国家――国家論の側から

 

 

 

                        加藤哲郎(一橋大学・政治学)

 


1 「国家論ルネサンス」の回顧

 

久しく遠ざかっていた国家論の世界に、再び取り組まざるをえなくなった。もともと私の政治学の最初の著作は『国家論のルネサンス』(青木書店、1986)であった。その後も『社会と国家』(岩波書店、1992)、『国民国家のエルゴロジー』(平凡社、1994、『国境を越えるユートピア』と改題・改編して平凡社ライブラリー、2002)のほか、『アエラムック 政治学がわかる』(朝日新聞社)の初学者用「国家論」を旧版(1996)、新版(2003)と書いているから、国家論を忘れたわけではない。事辞典類を含めれば幾度も書き連ねている。しかし、1989年東欧革命・冷戦崩壊、91年ソ連崩壊あたりを境に、「国家とは何か」を真剣に考える機会は少なくなった。

ひとつは、その頃から理論としてのマルクス主義国家論に限界を感じ、むしろ第一次史資料をもとに具体的な国家像・社会像を歴史的・実証的に解明する世界に入りこんだことであったが、いまひとつは、客観情勢、理論環境の変化であった。

 1970-80年代に、田口富久治氏や私が欧米の「国家論の復権」「国家論のルネサンス」を日本に紹介し導入した時、そこで「理論闘争」の標的に設定されたのは、一方でアメリカの行動論政治学、多元主義論の「国家論なき政治学」であると共に、他方でソ連から輸入されて戦後日本で大きな影響力を持った、レーニン『国家と革命』を聖典にした正統派マルクス・レーニン主義国家論であった。私たちは、フランスのルイ・アルチュセール、ニコス・プーランザスらの構造主義的国家論から出発し、当時の「ルネサンス」最前線のイギリスのボブ・ジェソップ、スチュアート・ホール、デーヴィッド・ヘルド、エルネスト・ラクラウら、ドイツのクラウス・オッフェやヨアヒム・ヒルシュらの「国家導出論争」、アメリカのジェームズ・オコンナーやエスピン・アンデルセンら『カピタリステイト』グループの議論を導入し組み替えて、レーニン主義の国家道具説=「国家は階級支配と抑圧の道具である」に対抗する国家関係説=「国家とは階級的政治的力関係の物質的凝集である」を、非マルクス主義を含む国家論のスタンダードにしようとした。ネオ・マルクス主義国家論とよばれ、正統派から多くの(しばしば政治的な)批判を得た。

 この方向で理論的に展開する際、国家をア・プリオリに支配階級の道具とするレーニン主義国家論は、マルクス自身のさまざまな国家観に立ち返ることで、容易に脱構築しえた。例えば『ドイツ・イデオロギー』の幻想的共同体の視角を復興し、『資本論』と経済学批判体系の資本・土地所有・賃労働から「国家によるブルジョア社会の総括」を経て外国貿易・世界市場に媒介する論理、とりわけ「利潤率の傾向的低下とそれに反対に作用する諸要因」を抽出すること、『フランスにおける内乱』の忘れられた視角=「国家の社会による再吸収」や具体的政治分析における階級分派論等々を再興し、アントニオ・グラムシの「国家=政治社会プラス市民社会、すなわち、強制の鎧をつけたヘゲモニー」の命題や「政治社会の市民社会への吸収」「機動線から陣地戦へ」の論理に繋ぐこと、等々でレーニン主義国家論とは異なる視角を提示し得た。 

 ところが、それでは眼前の資本主義国家の具体的機構や機能をどのように説明するかと問われると、「力関係」にはさまざまな水準とさまざまな制度的土俵があり、国家と市民社会ないし政治・経済・イデオロギーの区分、人種・民族・宗教、性・ジェンダー・家庭、人権・市民権・参政権、就業部門・職業・地位・階層、更には伝統・文化・メディア・情報・コミュニケーションなど、社会理論のあらゆる問題群が関わってくる。

 実際の「国家論ルネサンス」は、国家形態論、機構・機能論のレベルで、当時アメリカ多元主義理論の批判として登場したネオ・コーポラティズム論と結びつき、政労使関係の比較政治経済学や比較福祉国家論の実証的研究の方向に向かい、ラクラウらの「社会中心主義」に対するスィーダ・スコチポルらの「国家中心主義」の台頭を経て、やがて新制度論や公共政策論として新たな領域を切り開いた。

 国家の本質論レベルでは、そもそも国家道具説と国家関係説の分岐は、権力論における権力実体説から権力関係説への流れを底流にしていた。その権力理論に、バカラック=バラツの「非決定」権力論、スティーヴン・ルークスの第三次元権力論、ミシェル・フーコーの規律・訓練権力、ネットワーク権力論が入ってくると、社会運動論の集合行為論、資源動員論、新しい社会運動とアイデンティティ・ポリティクス、フレーミング論、イベント分析などの手法も動員され、政治社会学やコミュニケーション論と融合してきた。

 それらは、国家論に固有の国家本質・形態論、機構・機能論などの領域性を浸食し、希釈する機能を果たした。ちょうど、19世紀ドイツにおけるギールケ国家有機体説やイエリネックの国家法人説(美濃部達吉の天皇機関説の根拠となった)が、20世紀初頭にフランスのデュルケム、デュギーの分業国家論、社会連帯主義、イギリスのバーカー、ラスキ、マッキーヴァーの多元主義国家論へと換骨奪胎されて相対化し、アメリカの「国家論なき」政治過程論・政治心理学に引き継がれたように。

 ネオ・マルクス主義国家論も、ジェソップ、ヒルシュら経済学のレギュラシオン理論を採り入れコーポラティズムから政治経済学へと国家論としての固有性を保持する潮流と、ラクロウ、シャンタル・ムフらポスト・マルクス主義を自称し言説・審問理論からラディカル・デモクラシー論に主戦場を移す流れ、スチュアート・ホールらポスト構造主義、ポストモダン理論と結びいつてカルチュラル・スタディーズやポスト・コロニアリズムへと展開し国家論から離れていく潮流、等々に分岐していく。

 実際、伝統的マルクス主義の国家道具説にとっての最大の打撃は、ネオ・マルクス主義による経済還元主義・階級一元論・軍隊警察焦点論といった理論的批判ではなかった。社会民主主義とケインズ主義が結びついた戦後ヨーロッパ福祉国家、政労使コーポラティズムの盛衰でもなかった。1985年ソ連共産党書記長ゴルバチョフの登場に発する共産党一党支配国家の崩壊、1989年東欧革命、東西冷戦崩壊、91年ソ連解体という「現存した社会主義」の歴史的崩壊が、マルクス主義国家論の存立根拠を決定的に奪い去った。つまり、国家論を支えていた唯物史観や土台・上部構造論の方法そのものが脱構築され、ネオもポストもなくマルクス主義が影響力を失って自壊し、ケインズ主義や社会民主主義さえ、そのとばっちりを受けたのであった。もともとそれは、ロシア革命のもたらした影響力であったから、フランス革命以来のパラダイム転換と言ってもよいだろう。

 そうしたマルクス主義国家論の廃墟の上に、今日の日本では、「国家の来歴」や「国家の品格」を謳う、怪しげな「国家論」が跋扈することになった。改めて国家の「物理的暴力行使の独占」を問う、萱野稔人『国家とはなにか』のような著書が現れなければならなかったのは、そうした「短い20世紀」(エリック・ホブズボーム)における国家論の歴史的展開によっている。そこから改めて国家とその存立根拠を問う旅が始まる。

 

 2. 国家論の歴史的展開

 

 国家とは何かという問題は、政治とは何かという問題と相俟って、古典古代のポリス以来、長く論じられてきた。伝統的な議論では、国家を政治的意志決定の単位に置き換えて、近代国家以前まで遡り、「古代都市国家ム中世キリスト教普遍共同体ム近代国民国家」と位置づけるセイバインらの議論もあるが、プラトン『国家Politeia』『法律Nomoi』やアリストテレス『政治学Politika』で論じられた「国家」は、近代国家の起源となるラテン語のstatus、英語のstate に連なる社会から分離した支配機構ではなく、政治的共同体としての ポリスそのものであった(福田歓一『政治学史』東京大学出版会、1985)。

 古代ポリスは、ローマ時代のキヴィタス、レプブリカRepublica(英語のrepublic)からCommonwealthに連なる系列で、近代国民国家(modern nation state)が確立した時代に、その歴史的原型として古代国家や都市国家とよばれるようになった。

 同様に、日本語の「国家」も、聖徳太子の17条憲法〈604年〉中第4条末尾に「百姓有禮 國家自治」とあるが、「百姓禮有れば國家自ずから治まる」の意で、英語の百科事典では「when the people behave with propriety, the Government of the Commonwealth proceeds of itself」と訳されている。近代的な意味での国家とは、その内延と外包が異なる。「くに」ないし「政体」の意味で、昭和期に「国体」概念にまで純化される国家stateではない。

 近代的意味での国家stateを語るときに、日本でしばしば参照されるのは、ドイツ国法学の系譜である。戦前日本の法学・政治学に圧倒的影響を与えたドイツ国法学の系譜は、国家についての単純明快な説明を与えた。イエリネック『一般国家学』から美濃部達吉らを経て戦前日本に入った「国家の三要素」説である。

 この系譜では、「国家の三要素とは、領土、国民、主権である」と単純化され、俗称された。国家は、第一に、一定の区画された領域(Staatsgebiet:領土、領海、領空)、第二に、恒久的に帰属し一時的に離脱したり復帰したりできない人民(Staatsvolk:国民、住民)、第三に、対外的・対内的に排他的で正統的な物理的実力を持った権力(Staatsgewalt)ないし主権、から成るという。この三要素説では、主権国家であるかないかを実際に判断するのは他の国家なので、他国からの承認を第四の要素に挙げる場合もある。

 このような静態的・法学的説明は、初学者にはわかりやすい。今日国際連合に加盟する国家は200近くで、オリンピックやワールドカップになると台湾やパレスチナのような独立した主権国家といいきれない国・地域も登場する。中国13億人、インド11億人のような巨大国家もあれば、ツバル、ナウル、パラオ、サンマリノのように人口3万人にも足りないミニ国家も含まれる。これらは確かに領土と国民を持ち主権が認められている。

 無論、こうした外形的特徴をあげるだけでは、国家論としては不十分である。国家を政治的共同体の単位としてみると、近代国民国家は、中規模政治共同体といわれる。古典古代のポリスは、後に「都市国家」といわれたように小規模だった。生産活動は奴隷や女性に委ね、共同体を防衛し共同業務に参加する義務を持つ市民は、せいぜい10万人程度だった。それは、市民共同体全体が奴隷や女性を支配する国家であり、他の共同体との戦争や征服を繰り返した。いいかえれば、ポリスは政治的共同体であると共に軍事的共同体であり(重装歩兵の民主主義)、経済活動は個々の市民のイエ(オイコス=エコノミーの起源)に委ねられていた。そこから、国家の起源・生成を説明する論理には、他共同体略奪=征服説、私的所有=階級闘争説、軍事力集中=暴力自立説、共同体の合意=社会契約説など、国家の本質論に連なる論争がある。確かなことは、政治的共同体から支配機構が独立し、共同体内部に支配ム被支配の関係が制度化し自立してくることである。

 近代国民国家は、ヨーロッパ中世の宗教的・封建的秩序の崩壊の中から生まれた。古代ローマ帝国の衰退の過程で、キリスト教の支配する普遍共同体=「神の国」と大土地所有者の支配する割拠的な「地上の国」の二元的な政治構造がつくられ、「神の国」が「地上の国」の領域支配を認定し根拠づける、身分的に構成された社会が長く続いた。統治機構としての国家は、大領主である王や領主である家臣、僧侶、騎士、農民と連なる位階性的身分秩序を統御する家産・裁判権であり、分散していた。12,13世紀頃から農村手工業や遠隔地貿易の発展の中で商人や手工業者が領主に対する自治を求め、いわゆる自由都市が成立してくる。「都市の空気は自由にする」と言われたように、商工業ブルジョアジー(市民=第三身分)が、「神の国」を体現する宗教的権威(僧侶=第一身分)と「地上の国」で農民を支配する王権・領主(貴族=第二身分)を脅かすようになった。その中から古典古代文化の再興のかたちをとって人間精神の自由を謳歌するルネサンス、ローマ教皇の「神の国」独占に世俗世界での内面の自由、宗教的救済を対置する宗教改革の動きが現れ、「地上の国」の領域国家間関係の再編を通じて、絶対主義国家が登場する。

 国家stateの概念が確立するのは、絶対主義国家の形成を通じてであった。もともとラテン語のstatusは状態、身分を示す言葉であったが、13,14世紀頃から宮廷、宮廷財政を意味するようになり、イタリアのマキアヴェリ『君主論』(1532)では、被治者を含まない治者の権力機構を意味するようになった。ジョン・ボーダン『国家論』(1576)が、単一不可分の最高権力を意味する主権sovereigntyの概念を国家に付与し、王権に他の封建領主たちを従わせ、貴族や商工業者への租税の設定、官僚制と常備軍による治安維持の機構を肥大化させた。この世俗的に集中された権力を、「神の国」から授与されたものとして弁証するのがイギリスのロバート・フィルマーらの王権神授説であり、フランスでは王権の絶対性を聖書から導いたボシュエが、ルイ14世の「朕は国家なり」を正統化する。

 主権の概念は、対外的にはグロチウスの『戦争と平和の法』(1625)で自然法から基礎づけられ、神が存在しなくても守るべき主権国家間のルール=国際関係・国際法へと拡張される。国家は、他の国家との間で相互に主権と領土territoryの不可侵を認めあうものと観念される。30年戦争を経た1648年のウェストファリア条約が、主権国家間の関係のルール化(国際法)の端緒とされる。16世紀スペインのフェリペ2世、イギリスのエリザベス1世、17世紀フランスのルイ14世らが官僚制と常備軍を備えた絶対君主の典型とみなされ、重商主義政策で国内市場の整備と東インド会社等植民地領土の拡張も始まった。

 しかし、近代国民国家の確立には、絶対主義国家の持つ二つの限界を突破することが必要だった。一つは王権神授説をもとにした正統性の限界、いま一つは身分制をもとにした中間団体の存在(等族国家)を排除することだった。「地上の国」の集権国家は、国家が教権を独占することによって宗教紛争を内部に抱えこんだが、近代国家は、これを克服するために信仰の自由を保障し国家と教会を分離する。こうした正統性原理の転換には、トマス・ホッブスからジョン・ロック、ジャン・ジャック・ルソーへと連なる社会契約説が重要な役割を果たした。それは、イギリス、フランスでは市民革命を経て実現され、封建制の伝統をもたないアメリカでは独立戦争を経て商工業ブルジョアジーが台頭し勝利する。それは同時に、所有権の自由、営業の自由を基礎にし、同業組合的な狭隘性を脱した資本主義の発展に道を拓く。

 市民革命と産業革命が、近代国民国家の時代の到来を不可避にした。社会契約説は、ホッブスにおける自然権からの主権の弁証の段階では絶対王制をも根拠づける両義性を持ったが、私的所有権から抵抗権までを根拠づけ立法府としての議会をクローズアップしたロック、君主主権を人民主権へと原理的に転換したルソーを経ることにより、主権・領土の概念を「人民・国民」の概念と結合させ、領域内の市民=諸個人を主権者として認定し、人権・市民権を保護する国家の観念、法治主義、立憲主義、議会制、選挙制、公的官僚制・租税制度、警察・軍隊に正統的暴力を集中し国民軍を備えた国家機構を完成させた。もっとも「自由・平等・友愛」理念を広めたフランス人権宣言(1789年)でも、「有色人種」は市民・国民から排除されていた。国家が国民nation(民族)概念と結びついても、その国民とはいかなる範囲でいかなる権利・義務をもつかは、持続的に問われ続ける。それが、国家と市民社会の市民・国民を結ぶ、民主主義democracyの発達の問題となる。

 

3 近代国民国家論

 

 近代国民国家は、17-19世紀におけるヨーロッパ中心での国家形成state building, state formationの後、20世紀には非ヨーロッパ周辺の旧植民地・従属国にも広がり、現代世界秩序の最有力な政治単位、支配的な行為主体となる。他方で、王権神授説から社会契約論へと組み替えた正統性原理をも発展させ、その国民(民族)的一体性の実質を再生産し裾野を広げる国民形成nation building, national formationの過程で、自由権・普通選挙権から社会権保証を含む現代国家、自由民主主義国家へと転態していく。そこには、国旗・国歌・叙勲・国家儀礼、国語・公用語・文書書式、通貨や郵便切手の表徴、暦・祝祭日や記念日・記念碑の設定等が動員され、特に学校教育や徴兵制度が国民形成に重要な役割を果たした。その基底には、重商主義段階から市民革命・産業革命を経て世界へと広がった資本主義市場経済の展開と、20世紀における二度の世界戦争の経験があった。

 その過程では、国家の本質をめぐる、さまざまな論争と学問的営為があった。ヨーロッパ近代国家の成立期に、ロック的な社会契約論を思想的に受け継いだ自由主義の系譜は、国家を必要悪として認めた上での「国家からの自由」を唱え、立憲主義的に国民が国家活動を限定しようとした(夜警国家、立法国家、自由国家、消極国家)。他方、ルソーの「一般意思」を踏まえた民主主義の系譜からは、国家への民衆参加をもとに主権者としての人民が「治者と被治者の同一性」を求め、国家に市民社会における矛盾の調停と解決を求める(福祉国家、行政国家、社会国家、積極国家)。その態様は、現実の国家の展開に即して、またそれぞれの当面する国家の課題によって、歴史的に変化してきた。

 例えばアダム・スミス『国富論』(1776)は、後にフェルディナント・ラサールが夜警国家観とよび、今日の「小さな政府」論に連なるとされるが、当時のイギリスの重商主義政策に反対し、国家活動を市場ルールの設定、インフラ整備、治安維持、外敵からの防衛、学校教育などに限定しようとしたものだった。フランスでは、フランス革命とナポレオン戦争を経ても、国民主権と人民主権の葛藤を含む主権の根拠、正統性が問われ続けた、その中で、サン・シモンからオーギュスト・コントにつながる流れは、国家と市民社会の関係を実証主義的に解明する社会学的国家論に向かう。エミール・デュルケムは、『社会分業論』や『社会学的方法論の基準』で実証主義的社会学を確立すると共に、国家に「社会的分業の発展による機能的分化の統合の役割」を見出し、自殺論やアノミー論で社会病理の解明に向かう。この流れから、20世紀初頭に憲法学者・法哲学者として活躍したレオン・デュギーは、個人主義を否定する社会連帯主義の立場から、国家をも社会団体の一つとする社会学的国家論、多元的国家論に近づく。

 イギリスでは、J・S・ミルが、ベンサム的個人主義をもとに自由主義に市民教育と社会改良の視点を持ち込んだ。ダーウィン進化論を人間社会に適用したハーバード・スペンサーの社会進化論も、その複雑化・多様化の論理が自由主義と結びつくと共に、「適者生存」の論理で、自由貿易帝国主義から列強植民地分割の動きを合理化する。20世紀に入ると、バーカー、ハロルド・ラスキ、マッキーバーらの多元的国家論が、国家を社会団体の一つとしてその絶対性を否定し、さまざまな社会団体間の調停を国家の役割とした。

 ただし、こうした実証主義的・多元主義的アプローチは、国家を焦点化するというよりも、国家と市民社会との関係でも、市民社会の他の諸団体との関係でも、むしろ国家の重要性を相対化する役割を果たした。典型的には、20世紀の覇者となる新大陸の大国アメリカである。アメリカでは、19世紀の制度論的アプローチが政治の実際の動態を説明できないことから、20世紀初めの「集団の噴出」や「世論」の台頭を背景に、世論調査や心理学を用いた政治過程論・多元主義論・政治行動論が台頭し、「国家論なき政治学」が支配的になった。第二次世界大戦後の多元主義論・行動論政治学の全盛を経て「国家論のルネサンス」が語られるのは、世界的覇権が揺らぎ始めた1960年代末のことである。

 逆に、産業発展が遅れ、1871年まで統一国家をもてなかったドイツでは、国家を他の社会集団と区別し聖化する方向に向かった。フランス革命後に哲学者ヘーゲルが人倫的倫理の現実態としての国家を、家族ム市民社会ム国家という、諸個人の相互承認と市民の同業組合的結合から普遍性を体現する国家に上向する弁証法的展開の帰結として描き、理念化した(『法の哲学』1821)。経済学者フリードリヒ・リストは、ヨーロッパの後進国ドイツの経済発展を国家の強力な保護政策に求め(『政治経済学の国民的体系』1841)、法学者オットー・ギールケは、国家を生命・道徳を持つ身体と精神になぞらえた文化的有機体として説く。その国家有機体説を国家法人説に組み替えたのが憲法学者イエリネックで、国家に統治権を持つ法人格を付与して、立憲君主制の国家主権を国民主権に対置した。イエリネックに学んだ日本の美濃部達吉は、国家法人説を直接継承して、天皇を国家の最高機関とする天皇機関説を唱える。

 もっともドイツでも、20世紀初頭の自由主義者マックス・ウェーバーは、経済と社会の関係、支配と正統性の問題に着目することによって、国家を「ある一定の領域の内部で正当な物理的暴力行為の独占を(実効的に)要求できる人間共同体である」と、正統的暴力を独占する国家の問題に、改めて注意を促した。社会集団間の政治的闘争に国家の起源を見るルートヴィヒ・グンブロヴィッツやフランツ・オッペンハイマーの征服国家論は、19世紀後半の社会主義運動とマルクス主義の台頭と、その20世紀的展開であるレーニン主義国家論・共産主義運動に対する、非マルクス主義からの実力説的応答だった。日本でも1920年代に、大山郁夫や長谷川如是閑らによりオッペンハイマー説が持ち込まれ、イエリネックの国家主義やケルゼンの純粋法学に対抗する社会学的国家論として、マルクス主義国家論が流布する橋渡しの役割を果たした。同じ頃に、ワイマール共和制と社会権を弁証するヘルマン・へラーの社会的法治国家論に対抗して、政治の本質を友敵関係に見出し、例外状況における決断の意味を述べてナチズムの土俵となったカール・シュミットの市民的法治国家論も、マルクス主義に対抗して国家の究極的意味を問うものだった。

 

 4 マルクス主義国家論とレーニン主義国家論

 

 もともと社会主義・共産主義思想は、フランス革命の「自由・平等・友愛」理念の平等主義的継承だった。市民革命の「国家からの自由」が、私的所有・私有財産の自由、営業の自由を軸に資本の自由に収斂して、共同体的「平等・友愛」が蝕まれていくことに対する反発が、基底にあった。ロバート・オーウェン、サン・シモン、フーリエ、ルイ・ブランらの初期社会主義思想は、私有財産に対して財産共同体を対置し、資本家の工場を自給自足の共同体や協同組合、国営工場に転換しようとした。カール・マルクスと盟友フリードリヒ・エンゲルスは、既存の国家に依拠したり無視したりする初期社会主義の曖昧さに、資本家対労働者の階級矛盾と階級闘争の観点を導入して、批判的国家論を展開した。

 マルクスは、『資本論』(1868)に代表される政治経済学批判の体系を構築し、唯物史観から階級闘争論・イデオロギー論にいたる壮大な社会理論を構築した。その国家論は、ヘーゲル国法論批判における「市民社会の『国家形式主義』」の批判、現存国家の階級的性格の暴露が出発点になった。『ドイツ・イデオロギー』(1845-46)では、「国家は支配階級の諸個人が彼らの共通の諸利害を貫徹し、ある時代の市民社会全体が総括される形態」「特殊利益と共同利益の矛盾から共同利益が国家として幻想的共同性として独立する」と、国家を「幻想的共同体」とみるイデオロギー国家論を述べた。『共産党宣言』(1848)は、「近代の国家権力はブルジョワジー階級全体の共同事務を執行する委員会にすぎない」「政治権力とは、単に他の階級を抑圧するためのある階級の組織化された権力にすぎない」「階級区分が消滅し、あらゆる生産が全国民の広範な結合の手の中に集中されてくると、公的権力はその政治的性格を失う」と述べ、後世に大きな影響を与えた。『資本論』を含む経済学批判体系プランには、国家を資本・土地所有・賃労働の国民経済を総括し外国貿易・世界市場へ論理的に媒介する「国家の形態でのブルジョア社会の総括」とする見方もある。

 よく知られているのは、マルクス「『経済学批判』への序言」の、いわゆる唯物史観の公式である。

 
「人間はその生活の社会的生産のなかで、一定の必然的な、彼らの意志から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸力の一定の発展段階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的政治的上部構造がそびえたち、また一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのではなく、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである。社会の物質的生産諸力は、その発展がある段階にたっすると、いままでそれがそのなかで動いてきた既存の生産諸関係、あるいはその法的表現にすぎない所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諸力の発展諸形態からその桎梏へと一変する。このとき社会革命の時期がはじまるのである。経済的基礎の変化につれて、巨大な上部構造全体が、徐々にせよ急激にせよ、くつがえる。このような諸変革を考察するさいには、経済的な生産諸条件におこった物質的な、自然科学的な正確さで確認できる変革と。人間がこの衝突を意識し、それと決戦する場となる法律、政治、宗教、芸術、または哲学の諸形態、つづめていえばイデオロギーの諸形態とをつねに区別しなければならない」(1859,岩波文庫版)。

 

 これらを通じて、マルクス主義国家論は、社会契約説や一元的人倫国家論の虚構性を暴き、政治支配の最奥の秘密は生産諸関係にあること、生産諸関係に発する階級闘争が国家形態を規定し、国家はその社会で支配的な階級が他の諸階級を支配し抑圧する機構で、階級社会が終われば国家も死滅する、と宣言した。階級闘争・革命運動の目標は国家権力の奪取に向けられ、資本主義から社会主義・共産主義社会への移行は、労働者階級の権力を梃子に生産手段を国有化し、私的所有を廃絶して計画経済を導入する方向に定められた。

 19世紀後半の社会主義政党・労働組合運動の全ヨーロッパ規模での勃興がマルクス主義国家論の受け皿になったが、これを現実のプロレタリア独裁=社会主義国家として実現したのは、ヨーロッパ辺境でのロシア革命だった。ツァーリ専制権力と対決し、「支配階級の道具」としての現存国家を、前衛党ボリシェヴィキ率いる民衆蜂起で打倒した指導者ウラジミール・レーニンの国家論が、クローズアップされた。「マルクス主義の国家学説と革命におけるプロレタリアートの諸任務」と副題されたレーニン『国家と革命』(1917)は、ロシア革命からソ連崩壊に至る「短い20世紀」の間、マルクス主義国家論の聖典的位置を占めた。

 レーニン国家論は、マルクスの階級国家論の道具主義的側面を「階級対立の非和解性の産物としての国家」「階級支配の機関、一階級が他の階級を抑圧する機関」「常備軍と警察とは、国家権力の主要な力の道具」「民主主義もまた国家であり、したがって国家が死滅するときには民主主義もまた死滅する」「プロレタリア国家のブルジョア国家との交替は暴力革命なしには不可能である」「官僚的軍事的国家機構の粉砕」等々と特徴付け、革命後のソヴェト国家をプロレタリア独裁国家=「半国家」で「武装したプロレタリアートの統制と指導」のもとに国家が死滅する共産主義社会に向かうものと想定した。いわゆる国家道具説で、スターリン時代のプロレタリア独裁による民衆抑圧の論拠となり、中央集権的国有化で計画経済の硬直化を招く一因となった。

 もっともレーニンは、「国家が存在するあいだは自由はない。自由があるときには国家は存在しないだろう」とマルクス主義国家論を道具主義的に解釈したが、マルクス『ゴータ綱領批判』には「自由とは、国家を社会の上位の機関から社会の完全な下位機関に変えることにある。今日でさえ、いろいろな国家形態がどれだけ自由か不自由かは、その国家形態が『国家の自由』をどれほど制限しているかの程度による」とあり、「国家からの自由」の意義を認めていた。またマルクス『フランスにおける内乱』は、パリ・コミューンを「国家権力が、社会を支配し圧服する力としてではなく、社会自身の力として、社会によって、人民大衆自身によって吸収されたもの」「人民大衆の社会的解放の政治形態」と見なし、「国家の社会による再吸収」を述べていた。そこからは普通選挙権の獲得や「プロレタリアートを支配階級にたかめること、民主主義をたたかいとること」(『共産党宣言』)も十分抽出できた。マルクスが創立に関与したドイツ社会民主党と社会民主主義の系譜は、労働条件の改良と福祉国家をめざして階級国家論から次第に離れ、むしろ国家を市場調整の手段として活用するケインズ主義と結びつく(ケインズ主義的福祉国家)。

 

5 国家論ルネサンス

 

 二つの大戦の間のファシズムによる全体主義的国家統制・国民動員をまのあたりにして、ドイツ・フランクフルト学派のアドルノ、ホルクハイマー、フロム、ベンヤミンらの流れは、マルクスの説いた「幻想的共同体」国家を、心理学や美学・文化論をも用いて解読した。レーニンの同時代にイタリア・ファシズムと対決したアントニオ・グラムシの獄中での国家の洞察は、「国家=政治社会プラス市民社会、すなわち、強制の鎧をつけたヘゲモニー」という定式を残した。ここでの「市民社会」は教会や学校やメディアや組合などを含むもので、「ヘゲモニー」は知的・道徳的・倫理的指導=同意の調達・獲得を意味する。 

 グラムシはまた「国家の死滅」を「政治社会の市民社会への吸収」と述べて、パリ・コミューン期マルクスの「国家の社会による再吸収」の視角を再興した。これらを前提に、戦後フランスのアルチュセール、プーランザスらネオ・マルクス主義者たちは、国家を「階級的政治的力関係の物質的凝集」とする構造主義的・関係主義的国家論を、ソ連型道具主義国家論に対置し、国家論ルネサンスの焦点となった(国家関係説)。

 また、グラムシの陣地戦論、受動的革命論は、国家権力奪取の武装蜂起・暴力革命路線ではなく、市民社会内での知的・道徳的ヘゲモニーを基礎に議会を含む国家諸装置内部での政治的力関係を変革する西欧左翼の平和革命路線に連なった。国家道具説が軍隊・警察など国家の「抑圧装置」に関心を集中させがちなのに対して、国家関係説は、教会、学校、マス・メディア、労働組合などを「イデオロギー装置」として国家の市民社会に対する支配の一環に位置づけた(ルイ・アルチュセールの「国家イデオロギー装置」論)。

 その「力関係」の諸水準は、階級関係のみならず、階級内部の階層的関係、人種・民族的関係、男性の女性への抑圧や人間の自然に対するエコロジー的関係をも含むため、従来の社会主義政党運動や労働組合運動のみならず、民族解放運動、フェミニズム・エコロジーや反核市民運動、都市社会運動などをも国家と社会変革の重要な原動力として位置づけるようになり、ポスト・マルクス主義とよばれる(エルネスト・ラクロウ、シャンタル・ムフらの言説理論、ラディカル・デモクラシー論)。

 しかし、こうした動向は、1980年代以降、とりわけ東欧革命・ソ連崩壊をくぐることによって、いまいちど大きな転換を迎えることになった。

 ひとつは原理論レベルで、権力論が国家のみならずフーコー的な社会権力を問題にするようになったことから、もともとレーニン主義に色濃かった「革命の根本問題は国家権力の問題である」とする視点が相対化された。警察・軍隊・国家官僚制の権力と暴力の問題は基軸的位置を持つにしても、父と子、夫と妻、教師と生徒、医師と患者、組織のリーダーと一般構成員といったあるゆる関係性のなかに、権力が認められた。また、プロレタリア独裁を名乗った共産党支配が、実際には労働者や農民にとって抑圧的であり、党・国家官僚のノーメンクラトゥーラが政治的にも経済的にも支配階級となり、1930年代後半にはヒトラーのホロコーストと双璧を成すスターリン粛清が行われた。こうした歴史的事実は、「ブルジョア」社会学者ロベルト・ミヘルスの「少数支配の鉄則」や、歴史学者J・E・アクトン卿の「権力は腐敗する、絶対的権力は絶対的に腐敗する」の証左であると理解された。21世紀に入って「外務省のラスプーチン」佐藤優が体験的に描いた『国家の罠』『国家の崩壊』のルポルタージュ風リアリズムの前では、いかなる国家論の理論的命題も迫力を欠き、色褪せる。

 もう一つは、階級内部、いや国民にも人民にもつきまとう、共通利益と差異性の問題である。社会主義・共産主義運動は、原理的に人間の同一性・普遍性を根拠にし、共通利益・共通価値にもとづく連帯を基盤にしてきた。国家論においても、抑圧への民衆の抵抗や反乱、労働者階級の「統一と団結」を導くのは、差異性ではなく同一性であった。この点は、マルクス主義に限らず、自己利益にもとづき合理的に選択する諸個人やゲームの理論を前提する政治経済学や公共政策論においても、同様であった。そこに、現象学や構造主義をくぐったポスト構造主義から、デリダやドゥルーズ=ガタリの差異・差存・ずれの哲学が入ってきた。例えばデリダの「差異differance」は、インターネット上で、次のように説明される。

 フランス語の名詞 difference (差異)は動詞 differ に由来する。この動詞には「異なる」という意味のほかに、「遅らせ、先延ばしにし、留保する」という意味もある。そこで、eをaに変えることで、 differ の現在分詞形である differant を経由して名詞化した形となり、 difference で失われた「遅らせ、先延ばしにし、留保し、後にとっておく」という意味を担わされた名詞として differance が得られる。また、デリダは-anceの形からの名詞化であることから、ギリシア語でいう中動態のように、能動態と受動態の間で宙吊りにされた、再帰的なニュアンスを持つ名詞であることを示唆している。(differanceは能動・受動の差異の手前にあってその前提をなす自己差異化の運動を指す)。デリダはこのソシュール的な差異のあり方を痕跡として捉え、そこに時間的な遅れ、ずれを見出した。言語においてある語が何かを意味するとき、その語は、意味されているものの代わりに、我々に対してたち現れて意味する。代理・代表・表象する(represent)するということは、一方では代理なしでは現前(present)しないものを現前させることだが、他方では直接には現前させない、ということでもある。代理するということは、不在の形で現前させるということでもある。したがって、意味のあるところには、つねにすでに、他への参照、あるいは、他による媒介が働いている。そして、そこで不在の形で介在する他のものは、しかし、あくまでも、その記号とは異なるものである限りで、その記号自身によってはコントロールできないものであることから、そうした根源的な媒介性の関係、基本的な差異化の運動には、必然的にずれと遅れが孕まれざるを得ない。

 こうした主張の前では、階級や民族・国民といった概念は、本源的にその潜勢力を問われる。階級・民族の諸個人への解体と共に、諸個人のアイデンティティの分裂まで、社会科学は引き受けざるをえない。国家論も市民社会論も家族論もいったん脱構築される。

 ここから、新制度論・政治経済学による現代資本主義国家の機構・機能論の深化のみならず、近代国民国家そのものの根元的意味が問い直される。

 制度論・機能論の方は、比較政治経済学や公共政策論で精緻化されているが(新川敏光ほか『比較政治経済学』有斐閣)、いわゆる国民国家論批判も、盛んに行われている。ベネディクト・アンダーソンの「ネイションとはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体である」という問題提起が世界的に受容され(『想像の共同体』NTT出版)、スチュアート・ホールらのカルチュラル・スタディーズやポスト・コロニアル・スタディーズ、さらにはエドワード・サイードの西欧中心主義的オリエンタリズム批判やスピヴァクらのサバルタン論とも結びついて、国家形成と国民形成の区別、ナショナリズムの再検討(ホブズボーム、ゲルナー、スミスら)のみならず、かつて政治文化論として扱われた記憶と表象、伝承と伝統、言語・言説と再帰性、等々の世界がネイションの擬制を剥ぎ取っていった。

 政治経済学や福祉国家論では、こうした問題がパス・ディオペンデンシー(経路依存性)として比較の視座に採り入れられ、宗教的伝統や労働倫理、市民社会や公共圏、個人主義と集団主義、家族やジェンダーの問題も指標化され分析されるようになった。代表的にはエスピン・アンデルセンの『福祉資本主義の三つの世界』(ミネルヴァ書房)であるが、「儒教資本主義」論や「アジア型民主主義」論を媒介に、非ヨーロッパ地域の国家分析にも広がってきている。福祉国家Welfare Stateそのものが、戦争国家 Warfare Stateの戦時国民動員と密接につながっていた過去が精査され、新自由主義のもとでの勤労福祉国家Workfare Stateへのシフトが語られている。

 また、こうした差異やずれへの関心と類型化が、多国籍企業論やEU論・NGO論などに及ぶと、次に述べるグローバリゼーションと国民国家の問題に直接連なる。

 

 6 グローバリゼーションへのスタンス

 

 もともと近代国民国家の成立そのものが、ウェストファリア体制のもとでのヨーロッパ国際関係(宮廷間関係から国家間関係へ)の成立と平行していたから、グローバリゼーションは、帝国主義時代の本国・植民地関係、米ソ主導の東西冷戦同盟にも孕まれていたことはまちがいない。しかし、ほぼ1980年代の新自由主義台頭の頃から、とりわけ1989年の冷戦崩壊以降、従来の国際化internationalizationに代わってグローバル化globalizationの語が頻出するようになり、国家論は、21世紀に入って、新しい問題を抱えるようになった。それは、第一に、支配的な経済システムである資本主義と国家の関係の見直しであり、第二に、国家stateと国民・民族 nationとの関係の問題であり、第三に、グローバルな地球社会と国民国家という仕切り、政治単位の問題である。

  20世紀の末期に、グローバルな世界市場の拡大、自由貿易主義の主張と相俟って、「小さな政府」論が台頭した。アダム・スミス的な経済的自由主義の夜警国家観からすれば、国家は経済活動を自律的市場の「見えざる手」に委ね、度量衡設定や治安維持・対外防衛など最小限の役割に限定されるはずだった。ところがマルクス主義の説明では、それは絶対主義に対抗した勃興期産業ブルジョアジーのイデオロギーにすぎず、現実の世界史上の国家は、その時代に支配的な階級勢力の利害を国民的利益の装いでおおいかくし、既存秩序への抵抗は物理的暴力の独占で抑圧してきた。 実際、資本主義経済秩序と近代国民国家の歴史的関係をふりかえると、「夜警国家」や「小さな政府」の理念を貫きえたのは、ごく一部の先発国(英米)の例外的な時代にすぎなかった。それも、国外植民地からの暴力的な搾取・収奪や、国内における広大なフロンティアの存在を前提にしていた。とりわけ20世紀になると、マルクス主義の隆盛とケインズ主義の登場が相俟って、いずれの国でも国家の経済的役割は飛躍的に増大した(介入主義国家)。資本主義が世界のすみずみに広がって、国力はGNP(国民総生産)ではかられるようになった。

 さらに国家は、市場経済の発展ばかりではなく、人権・市民権の発展によっても活動領域を広げ、国家財政・要員を膨張させた。労働者や女性が政治に加わり、さまざまな社会運動や圧力行動に政府が応答を迫られた。こどもの教育や老人・社会的弱者への福祉供給が典型であるが、最低賃金や労働時間など労働条件も国家による規制が当たり前になった。

 限られた国家財政を軍需にまわすのか、経済発展・開発に投資するのか、それとも福祉や民生向上に重点をおくのかで、同じ資本主義経済を基礎にしても、異なる国家の型が現れた。北欧諸国に典型的な福祉国家や、日本やアジアにみられる経済成長国家である。20世紀のある時期までは、国家の経済的基礎を基準に資本主義国家か社会主義国家かと問題を設定する国家論が優勢であったが、東欧革命・冷戦崩壊・ソ連解体後の今日では、市民社会のいかなる要請に応える、どのような資本主義国家なのかが重要になる。

 現代国家論の第二の重要な問題領域は、国家stateと国民・民族nationのギャップ・ずれである。 ヨーロッパの近代国家は、もともと中世の数百に分散した領邦権力が絶対主義の中央集権化をくぐって30ほどに整理されて生まれた。その理念が国民国家で、国家は「過去における共通の栄光、現在における共通の利益、未来における共通の使命」(H・コーン)をもつネイションを基礎につくられるとされた。言語や文化を共有する民族が国民の一体感を保証し、その範域は、古代帝国に比すれば小さく、中世領邦国家に比すれば大きい、人口数千万人程度の中規模な政治的統合を可能にすると観念された。だが、第二次世界大戦後でもせいぜい50程度にすぎなかった近代国家が、民族自決の理念で旧植民地が独立し、アジア、アフリカで増殖して今日200近い政治単位となり、地球の国民国家的領土分割が、最終的に完成された。その過程で、さまざまな人種・民族で構成されるモザイク国家が多数派になり、そもそもネイションとはステイトのつくりだしたフィクションではなかったかという疑問がおこった。 一方で国家形成が先行して国民形成に苦しむ新興国家の現実と、他方で民族学・人類学のエスニシティ研究の発展によって、関に引いたネイションとは「イメージとして心に描かれた想像の政治共同体である」というB・アンダーソンの規定が、共通了解となっていった。

 第三に、社会主義の崩壊、東西冷戦終焉以降、グローバリゼーションが進んだ。伝統文化や宗教の違いを越えて、市場経済が地球的規模に広がった。多国籍企業となった巨大企業が世界のすみずみに入り込み、IMF(国際通貨基金)・世界銀行・WTO世界貿易機関)など国際組織の取り決めが、受け入れ国の経済や政治に大きな影響を与える。欧州連合(EU)のような一つの市場・通貨を持つ国家連合体が生まれ、NAFTA(北米自由貿易協定)、APEC(アジア太平洋経済会議)など地域別国家間組織も重要になった。移民・難民・外国人労働者が増大し、ヒトの流れも地球大になった。そのうえテレビやインターネットで、世界の情報は一つにつながる。NGO(非政府組織)・NPO(非営利組織)や市民の運動も地球的規模になり、ある国の出来事は瞬時に他の国に伝えられ、国内政治がただちに国際政治につながり、国際政治が国内政治にリンクするようになった。

 このような国家と国民の乖離、国民と民族のギャップ、資本と労働力の国際移動による領土や国境イメージの変容を背景にして、国民国家の「ゆらぎ」や「たそがれ」が語られている。しかも、2001年9月11日の米国同時多発テロ以降、軍事大国アメリカ合衆国が、グローバリゼーションのもとでの「世界の保安官」として、世界中に自国の価値観やルールをおしつけようとしている。

 そればかりではない。国家を中心とした政治そのものが限界につきあたり、国家論を超える新たな発想が求められている。21世紀に人類が先送りした20世紀の負の遺産として、核兵器と地球生態系危機がある。国益を求める競争が二度の世界戦争を生み出し、国家の安全保障を絶対視する軍拡競争が、人類絶滅を可能にする核兵器を集積させた。GNPと開発主義の競争は、経済発展の基盤でもある原料資源を枯渇させ、自然生態系を破壊した。こうした問題は、一つの国家による規制では限界がある。空気や水や土は地球全体でつながっている。

 国家間の国際政治ばかりではなく、地球市民による地球政治が必要になった。グローバリゼーションが進めば進むほど、国家統治にたずさわる政府(ガバメント)のみならず、国際組織や地域統合、NGO/NPO、企業、自治体・地域社会、市民が重合するグローバル・ガバナンス(地球統治)が問題になる。地域住民の分権・自治・直接参加の要求が高まり、ローカルな自立・分離の動きによっても、国家の絶対的・主権的地位はおびやかされる。国家の基礎には社会がある。社会がグローバルに広がり、ローカルな政治が活性化し、企業や市民のネットワークが地球をおおいつくした段階で、かつては絶対的と思われた政治単位・帰属対象としての国民国家の意味と限界が、改めて問い直されているのである。「国家の来歴」や「品格」が語られるのも、こうした国民国家のゆらぎへの懼れと不安が強まっているからだろう。

 

 七 グローバル・ガバナンスと<帝国>論の方へ

 

 こうした現実のグローバル資本主義と国民国家の展開のもとで、国家論の対応は、いくつかのタイプに分かれる。

 第一は、国民国家の終焉ないしたそがれ論で、資本主義のグローバル化が不可避的であるように、国民国家の衰退も不可避で、政治レベルでも国際関係から地球政治への移行が始まった、というものである。

 第二は、国民国家のゆらぎないし再編論で、グローバル化の影響は確かに深刻であるが、国民国家という政治単位の基軸性は失われず、歴史的に構成されてきた国際法・国際機構の役割が大きくなり、EU/NAFTAに続いてアジアでも地域統合が進むが、それは国民国家体系の再編というかたちで漸次的に進行すると見る。

 第三は、国民国家強化論ともいうべきもので、グローバリズムは国民国家の土台である国民経済や地域共同体を浸食し解体しようとするが、逆に国民国家を防壁にグローバリゼーションに抵抗する動きが強まる。宗教や文化がナショナリズムの基盤となって、地球はむしろ大分裂時代を迎えようとしている、とみなす議論である。

 これらの分岐は、現存社会主義と冷戦崩壊以後の新世界秩序の評価における楽観論と悲観論、グローバリゼーションについての帝国主義論・帝国論・新重商主義論・多国籍企業論、米欧日多極化論・アメリカ一国優位論(単極論)、アジア・中印台頭論、BRICS経済論(ブラジル、ロシア、インド、中国)などとも関わっている。

 悲観論は、グローバル世界市場の中での競争が、地球的規模での格差拡大とその頂点にあるアメリカ合衆国による世界支配を導くものだとする。つまり、グローバリゼーションは、一九世紀後半の自由貿易帝国主義から二つの世界戦争、東西冷戦の延長上にあり、実質的にアメリカナイゼーションだとみなす。この立場では、現代は、いわば新重商主義国家の時代であり、グローバル化とは国益と国益の衝突する戦場の地球化にほかならない。多国籍企業にもそれぞれ国籍があり、米欧日資本がそれぞれの国家と結びつき競争していると見る。これに国民国家を重ね合わせ、東西冷戦の終わった廃墟に、宗教的・民族的紛争が爆発する「文明の衝突」を見る議論も、その一変種である。

 他方、ヨーロッパばかりでなくアジア、アフリカの旧植民地地域にも国民国家が広がり、国際法・国際機関が飛躍的に整備され、国際連合総会でいわゆる非同盟諸国が多数になり大国の横暴を抑制してきた延長上で、モノ・カネ・ヒトの越境ばかりでなく情報交通体系も飛躍的に発達してきたもとで、グローバリゼーションを国民国家体系の相互依存の延長上に位置づけ、地球政治・グルーバル化を積極的に位置づける議論もある。

 この両極の議論を見据えたうえで、第三の視角を提示しようとするのが、一方で「グローバル・ガバナンス」論であり、他方で「帝国」論である。

 相対的に楽観的なグローバル・ガバナンス論は、相互依存と国際統合を、国民国家間の国際関係にばかりでなく、国家、企業、NGO、市民の異なるレベルのあいだの重層的関係にも及ぼす。「ガバナンス」を「協治」と訳す日本政府や「グローバル・ガバナンス」の基底に「グローバル市民社会」を想定し提唱して政府・企業・NGOの協働をよびかける国際連合の立場が象徴的だが、世界政府や国連軍にいたらずとも、地球的規模での重層的・複合的統治体を想定する立場である。このガバメントgovernmentを越えるガバナンスgovernanceの論理は、日本では「コーポレイト・ガバナンス=企業統治」という企業の社会的責任や企業倫理、遵法性(コンプライアンス)や説明責任(アカンタビリティ)、さらには企業文化・忠誠心(コーポレイト・アイデンティティ)の問題に矮小化されていくが、その発想そのものは、国民国家の活動に国民合意を調達する正統性が必要なように、長期的企業活動にも市場での顧客・消費者の同意を得て信頼を獲得するブランド・イメージが作用することの表明であり、翻って国家活動にも公共政策論から経営学の観点、納税者意識と原価計算、合理的選択、コスト・ベネフィット計算が入ってきた証である。

 同時に、ガバナンス論の台頭は、旧来の「変革主体」をめぐる論争に挑戦するものとなった。伝統的マルクス主義の系譜では、プロレタリアート=労働者階級の国家権力奪取・獲得、その前衛党としての共産党の規律ある組織化、民主主義革命から社会主義革命への労農同盟、インテリゲンチャ=知識人の役割、そこに至る過程の統一戦線・人民戦線といったカテゴリーが整然と作られていた。共産党の指導に従わない労働者は「労働貴族・労働官僚」、農民には富農=「クラーク」、知識人には「小ブルジョア的動揺性」といったレッテルが準備され、時には「人民の敵」と烙印され生命まで奪われた。「変革主体」たりえないものは「階級意識の欠如」「没主体性」として、疎外や物象化といった概念さえ動員されて「あるべき変革主体」が抽出された。

 しかし、革命と改良、階級と党の関係・ずれが問われ、とりわけ武装したプロレタリアートによる暴力革命の構想が意味を失った20世紀後半から、「国家権力の粉砕・奪取」といった概念が自明性を失った。マルクス主義の系譜では、議会や選挙の位置づけ、立法府と行政府の関係、法と裁判所の役割、政府の委員会や審議会への参加、平和憲法や社会立法の具体的提言と運用のような問題が、国家論からも変革主体論からも十分説明できない。民主主義や平和主義を「ブルジョア民主主義vsプロレタリア民主主義」「ブルジョア的平和vs社会主義的連帯」と称するような視角からは、プロレタリア国際主義や世界革命論はでてきても、一国的にも地球的規模でもガバナンスは問題にならない。

 そこに、地球的規模での「中心・周辺」関係を問題にする従属論や世界システム論が現れ、グローバルな階級階層構造が自由主義の系譜からも「南北問題」や「開発援助」として問題にされてくると、プロレタリア国際主義の論理は色褪せる。多国籍企業本国の労働組合や労働者が「自由で豊かな社会」を謳歌して消費者的・納税者的主体性を発揮しても、途上国の子会社の低賃金長労働時間や奴隷労働には関心を持たない。ケインズ主義的福祉国家がソ連・東欧の現存した社会主義国より労働者の権利や労働条件の面で進んでいたにしても、いわゆる先進国以外の地域には広がり得なかった。労働のあり方自体が変容し、かつて「統一と団結」の具現者だった現業ブルーカラー労働者は先進国では少数派となり、労働組合の主たる構成員は公務員やホワイトカラーになって「従業員」化する。何よりもサービス産業に従事する不安定労働者が増大し、先進国の労働組合の組織率は、長期的に低下した。「統一と団結」型の連帯にあきたらず、協同組合など互酬型の繋がりやアナーキズム型の抵抗も現れる。資本のグローバリズムに集権的国家権力で対峙し、プロレタリア国際主義で対抗する論理よりも、むしろローカルな地域での分権・自治から共同体的関係を復興しようとする動きも現れる。政治に即して言えば、古代ギリシャのミクロポリス、近代のメトロポリス・メガポリスに対して、グローバルな情報空間となったサイバーポリスまで出現したもとでは、フェイス・トゥ・フェイスの家族的・村落的コミュニティの方に、ナショナルな国家よりも確かな実在感が生まれる。かくして客観的・構造的な「変革主体」の想定そのものがリアリティを喪い、世界市場での「グローカル企業」や「一村一品運動」が模索され、近代主義以上に生産力主義的なマルクス風「溢れるばかりの富と自由の国=共産主義」のユートピアに代わって、エコロジカルで自然主義的な帰郷運動が始まる。ノマドやディアスポラへの注目、マイノリティや女性、最下層サバルタンの再定義、脱オリエンタリズムの多文化主義論やアジア的価値の見直しが、「文明の衝突」への対抗軸になる。

 こうした「変革主体」論の変容を見据え、「国民国家のゆらぎ」とグローバル・ガバナンスの言説に対抗しようとしたのが、アントニオ・ネグリ=マイケル・ハートの「帝国」論とスピノザ風「マルチチュード」の再発見であった。

 ネグリ=ハートの「帝国」については、かつていくつかの論文で詳しく論じたので、ここでは繰り返さない(加藤「マルチチュードは国境を越えるか? ──ネグリ=ハート『帝国』を政治学から読む 」『情況』2003/6、「グローバリゼーションは福祉国家の終焉か――ネグリ=ハート『帝国』への批判的評注」『一橋論叢』130-4,2003/10,「グローバル情報戦時代の戦争と平和――ネグリ=ハート『帝国』に裏返しの世界政府を見る」日本平和学会『世界政府の展望(平和研究第28号)』2003/11、など)。ネグリの『構成的権力』論も邦訳され、左派の抵抗の拠点になっているように見える。主権概念そのものの変容を説き、現代的君主制・貴族制・民主制の混合政体を資本のグローバルでフレクシブルな生政治的支配に見出し、基底にポスト・フォード主義的で非物質的なサービス労働、知的労働、情動労働の広がりをおくネグリ=ハートの議論は、確かに国家論としても、きわめて重要な問題提起となっている。

 『帝国』では曖昧だった、プロレタリアートでも人民でも国民でも市民でもない主体「マルチチュード」の含意も、新著『マルチチュード』(NHKブックス)では、具体的輪郭を見せてきた。こうした意味では、<帝国>論は、マルチチュードの顕現と見なされた世界社会フォーラム(WSF)「もうひとつの世界は可能だ」のネットワーク型運動の進展と相俟って、グローバル・ガバナンス論に対する対抗軸を形成している。それと萱野稔人『国家とはなにか』(以文社)がみずみずしく描く「物理的暴力の独占」という古典的とも言える国家観とは距離があるが、ミシェール・フーコー、ジャック・デリダ、ドゥルーズ=ガダリをくぐり、21世紀の「資本と国家」に真正面から対峙したという意味では、今後の理論的展開へのオープン・ソースになっている。

 21世紀に国家論が国家論として存続しうるかどうかは、「国家の来歴」や「国家の品格」を論じて浮遊するプチ・ナショナリスティックな言説に対して、「近代国民国家」と苦闘した知の歴史的伝統を踏まえ、グローバルな市場とガバナンスの展開を見据えて格闘できる土俵・アリーナをいかに設定し、情報戦におけるヘゲモニーを発揮できるかにかかっている。

 

(参考文献)

加藤「ネチズンカレッジ

加藤 「新版 国家論入門(『アエラムック 新版 政治学がわかる』朝日新聞社、2003)

加藤『国家論のルネサンス』青木書店、1986

加藤『社会と国家』岩波書店、1992

加藤『20世紀を超えて』花伝社、2001

加藤『国境を越えるユートピア』平凡社ライブラリー、2002

加藤「マルチチュードは国境を越えるか?──政治学から『帝国』を読む」(『情況』2003年6月号)

加藤『象徴天皇制の起源 アメリカの心理戦「日本計画」』(平凡社新書、2005書




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