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白井久也編著『国際スパイ・ゾルゲの世界戦争と革命』

 

加藤 哲郎

 


  一九九一年のソ連崩壊まで、ゾルゲ事件研究の定番といえば、事件を摘発した日本の警察・裁判資料を網羅したみすず書房『現代史資料』全四巻だった。今をときめくアメリカ日本研究のC・ジョンソンも、占領期「プランゲ文庫」の方が有名なG・プランゲ博士も、イギリス実証史学の碩学ディーキン=ストーリーも、ゾルゲに惹かれ著書をものしたが、その資料的根拠をたどれば、日本での獄中供述だった。

 そこに、今回、NHK取材班『国際スパイ ゾルゲの真実』(角川書店)、第一回国際シンポジウムの記録である白井久也・小林峻一編『ゾルゲはなぜ死刑にされたのか』に続いて、第二回シンポジウム記録で旧ソ連資料を網羅した本書が加わり、長く流布してきた伊藤律供述端緒説やゾルゲ=独ソ二重スパイ説はもとより、もっぱら日本の特高資料に頼ってきた事件の解明を、抜本的に刷新する条件が整った。「もう一つの現代史資料」誕生で、これに第三回のドイツ資料、本書で名越健郎が紹介し、山本武利ら二〇世紀メディア研究会が精力的に発掘するアメリカ公文書館諜報資料、中国档案館資料、近年内外で進むA・スメドレーや野坂参三の周辺研究資料が加われば、当時のアジアにおける戦争と平和をめぐる情報戦の全容が見えてくる。

 白井の要を得た序論等日本側六本の寄稿では、ゾルゲ・尾崎事件と中西功・西里竜夫らの中共諜報団事件のリンクを追った渡部富哉の力作が光る。渡部は、ロシア側提供の「特高捜査員褒賞上申書」の綿密な解読で自説を補強し、日本共産党や尾崎秀樹により広められた事件発覚についての俗説=伊藤律端緒説を、完璧にくつがえした。ロシア側八本の報告も、よく知られた独ソ開戦や日本の南進政策についてのゾルゲ情報ばかりでなく、上海時代のゾルゲとスメドレー・尾崎秀実の関係、ゾルゲを派遣した上司ベルジンのスペイン戦争と粛清、ゾルゲの学問的業績とドイツ地政学ハウスホーファーの関係、ゾルゲ情報の実際の軍事的価値などを扱い、日本や欧米の研究では見えなかったディテールを明るみに出す。

 圧巻は「資料編」に収録されたA・G・フェシュン編著『秘録ゾルゲ事件──発掘された未公開文書』邦訳で、そこには、資料的に手薄であった二〇年代コミンテルンでのゾルゲ資料が含まれ、未発表の手紙・暗号電報一八六通が、収録されている。第一級の基礎資料で、例えば文書7からは、ゾルゲが二四年フランクフルトでリャザノフと面会しモスクワに引き抜かれた事情がわかり、これは、コルシュ、ルカーチらに留学中の福本和夫も一緒に加わった二二年社会史研究所での写真と相まって、彼が後にアドルノ、ホルクハイマー、マルクーゼ、ハーバーマスへと流れるフランクフルト学派の出自であることを確証する。

 専門知識のない若い読者は、近く公開される映画「スパイ・ゾルゲ」の監督篠田正浩の「日本人にとって『昭和』はいかなる時代か」から入るべきだろう。篠田を魅了した人間ゾルゲらの国際反戦活動のロマンと、今や世界の平和運動の定番となったジョン・レノン「イマジン」が、時代を超えて重なり通底するのに感動し、励まされるだろう。(社会評論社、4300円)

 

(『週刊読書人』2003年4月4日号掲載) 



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