2002年3月23日の本誌『Intelligenceインテリジェンス』創刊にあたって、筆者は、「幻の日本語新聞『ベルリン週報』を求めて──サイバー・メディアによるクラシック・メディア探索記」と題する一文を寄稿した。それから半年、本誌の魅力とインターネットの威力が結びついて、30年余の探求は、ついに実を結んだ。現物が出てきたのである。
探し求めてきた幻の新聞は、拙稿でタイトルに使った『ベルリン週報』でも、もう一つの可能性として付記した『ベルリン通信』でもなく、石版刷りの漢字で『伯林週報』だった。見つかったのは2号分だけであるが、想像通りの、ナチス台頭期ワイマール・ドイツ在住日本人の生態を映し出す、豊かな内容であった。しかも、同時期にやはりベルリンで刊行されていた、これまで全くノーマークだった『中管時報』という日本語メディア8号分をも、一緒に入手することができた。
以下は、本誌と20世紀メディア研究会への御礼を兼ねた、幻のメディア発見記である。
まずは、『伯林週報』発見を伝えた、私の個人ホームページ「加藤哲郎のネチズン・カレッジ」(http://www.ff.iij4u.or.jp/~katote/Home.shtml)でのインターネット報道を紹介する。現物に対面することができたのは、二段階のプロセスを経てであった。第一段階は、本誌創刊と拙稿掲載が、直接の契機であった。
この段階では、『伯林週報』という日本語新聞が確かに実在し、1928年2月から30年11月まで刊行されており(蛯原によると、1935年段階でも安達鶴太郎編集で継続)、その発行者が鈴木東民であると、確認されただけであった。3月28日にこの情報を寄せてくれた大庭定男氏は、日本国内のみならず、イギリス・ケンブリッジ大学図書館、ドイツ国立図書館東洋部、ベルリン日独センターなどに、私の探索を照会してくれた。これまでの私の海外探索ネットワーックに加えて、もう一つのネットワークが動き始めた。
その2か月後、ワールドカップの最中に、ついに表紙のみならず、本文とも対面できた。それは、ドイツからではなかった。東京在住の専修大学新井勝紘教授からの電子メールによってである。今度は、ホームページの威力によるものであった。
以下に掲げるのは、2002年6月15日更新の「ネチズン・カレッジ」トップである(現在は、http://www.ff.iij4u.or.jp/~katote/Berlin.htmlに収録)。
新井教授もホームページを開設しており(http://araizemi.fc2web.com/profile.html)、ご自身のホームページの中に、『伯林週報』『中管時報』現物をカラー写真で見ることができるコーナーを設けてくれた(http://araizemi.fc2web.com/pic/berlin.html)。
先に蛯原八郎『海外邦字新聞雑誌史』の写真から解読できた『伯林週報』1930年11月1日号は、通巻第3年37号であった。今回見つかった1931年4月5日号は第4年7号、4月12日号は第4年8号である。これは、何を意味するのか? 現代のコンピュータは便利である。20世紀の暦ならば、たちどころにカレンダーを検索できる。すると1930年11月1日は土曜日、31年4月5日・12日は日曜日、とでてくる。『伯林週報』と銘打つ以上、週刊であったろう。4月5日号が7号ということは、どうやら蛯原『海外邦字新聞雑誌史』の解説にあったように、1928年2月25日が創刊日で第1年1号、以後、このサイクルで、2月最終号を第1号として定期的に刊行されてきたことを意味する。
本誌創刊号の拙稿で述べたように、この新聞についてのこれまでの最も詳しい言及は、ルポルタージュ作家鎌田慧氏の手に成る評伝『反骨──鈴木東民の生涯』(講談社、1989年、講談社文庫、1992年)であった。その鎌田氏の定評ある調査も、『伯林週報』についての情報は、主として当時在独した島崎蓊助や川村金一郎からの聞き取りによるもので、「タブロイド判2頁」「手書きのガリ版印刷」「1部5マルク、50部位を本屋の店先においた」といった断片的なものだった。28年創刊時は2頁だったのかもしれないが、今回見つかった31年当時は18頁(内全面広告9頁)になっている。広告を手伝っていたという与謝野鉄幹・晶子夫妻の甥与謝野譲の営業手腕であろうか、この頃は軌道に乗り、発行部数も増えていたのだろう。
ただし現物には、販売価格は書かれていない。今日の日本のタウン紙や海外現地情報誌のように、広告料で稼いで無料配布だったのだろうか? いくら世界恐慌下の大量失業時代とはいえ、同紙の広告で見ると、Peltesohnという日本人向け下宿の部屋代が短期1日3マルク50(夫婦4マルク50)、長期月ぎめ75マルク(夫婦100マルク)、ダンス学校の個人教授が1時間3マルク50、独仏語個人教授授業料1時間1マルク50である。「1部5マルク」という鈴木東民の晩年の回想(高木健次郎インタビュー)は、どうみても高すぎる。5ペニヒか50ペニヒ、せいぜい1マルクであったろう。
ちなみに、筆者はこの『伯林週報』発見過程で、鎌田慧氏が『反骨』執筆のために生前インタビューした島崎藤村3男の画家島崎蓊助(1908-92年)の在独時代(29-32年)回想を含む大量の遺稿・遺品を、インターネットを通じて連絡を受けたご遺族から提供された。そのうち未発表の自伝「絵日記の伝説」は、蓊助長男島崎爽助氏と共に編集し、書物として刊行することができた(加藤哲郎・島崎爽助編『島崎蓊助自伝──父藤村への抵抗と回帰』平凡社、2002年9月)。しかし、島崎蓊助の遺品中には、残念ながら『伯林週報』は入っていなかった。
また、鎌田氏がもう一人の証言者とした、鈴木東民の同郷の後輩で1929-31年ベルリン大学学生として在独した川村金一郎(1908-99年)のご遺族とも連絡がつき、2002年11月には、岩手県盛岡市で、膨大なドイツ語史資料を含む遺稿・遺品を見せていただくことになった。本年夏の訪問時に見せていただいたドイツ時代の回想手記の中には『伯林週報』はでてこないが、別置されている遺品には当時の各種新聞が多数入っているとのことで、その中に含まれている可能性はある。実は、この「川村金一郎」は、本稿執筆中に気がついたのであるが、筆者がつい最近刊行した加藤哲郎『国境を越えるユートピア』(平凡社ライブラリー、2002年9月、原題『国民国家のエルゴロジー』平凡社、1994年)90頁で、当時のベルリン在住日本人反帝グループの全容解明の重要史料として写真を掲げた、村山知義の義弟岡内順三による1933年2月帰国時外事警察供述(内務省警保局『極秘・昭和8年中に於ける外事警察概要・欧米関係』)中に「日本人革命的共産主義者団」メンバーとして平野義太郎(当時東大助教授)、三宅鹿之助(京城大助教授)、藤森成吉(作家)と共に名前を挙げられた「河村某」と同一人物である可能性が強く、そうだとすれば、ますます「川村金一郎コレクション」は貴重なものとなる。
筆者の『伯林週報』発見の知らせとコピー送付に対し、鎌田慧氏も「まぎれもなく東民の筆跡で、それもプロのガリ書き(筆耕者)ではない書体で、そのころの東民の苦闘とベルリンでの日本人の生活がホノ見えるようです。御執念に感嘆させられました。ありがとうございます」と書いてきた。『伯林週報』が、周辺史料と共にさらに系統的に収集できれば、鈴木東民と日本ジャーナリズム史の研究にとっても、重要な史料となるであろう。
そこで、さしあたり今回見つかった2号分についてのみだが、『伯林週報』を知るための内容目録を作成した。以下の(1)(2)は、表紙に続く菊2倍判(A4よりやや大きくB4より小さい)全18頁のページ番号である。
● 新井勝紘氏(専修大学)所蔵ワイマール末期在独日本人資料目録 (2002年6月14日 加藤哲郎)
現物は茶褐色に変色しているが、新井教授による保存はよく、十分に内容は読みとれる。後半分は広告だらけだが、この広告がすこぶる面白く、当時の在独日本人の生活の匂いがする。
ニュースは、ほぼ「30、電通」=日本電報通信社3月30日付けのように、鈴木東民自身が最初の一年間ベルリン特派員を努め、その後もドイツ情勢を打電してきた通信・広告会社電通からのものである。学生時代に帝大新聞編集長をつとめた鈴木らしく、簡潔だが明瞭にニュースを編集し、日本の動向を伝えている。たとえば1931年4月5日号巻頭の「鈴木、床次の対立 政友幹部異動」は、「政友会幹部間に異動が行はれたが、鈴木[喜三郎]系の森恪氏が優勢となり、その他幹部の間に鈴木系が優勢となって来て、床次[竹二郎]系が閑却された観がある。今回の異動をきっかけに、政友会内に於ける鈴木、床次両系の対立関係が先鋭となって行くものと予想されている(30、電通)」といった具合である。政友会内部の人事抗争などドイツ語や英語の新聞には載るはずもなく、当時の日本の新聞・雑誌はシベリア鉄道経由でも3週間ほどかかるから、これら電信ニュースは、在独日本人にとっては貴重な故国の情報であったろう。
貿易商社関係での滞独日本人を意識してか、日本とドイツの経済記事が多い。また外交官や軍人、著名人らの入独・離独情報が載る消息欄には、在留者の住所移動も入っている。
ドイツ関係のニュースは、鈴木東民が日本の電通や『帝大新聞』等に打電・寄稿するかたわら、自ら分析し解説したものだろう。例えば「英雄身辺雑事」では、既に国会第二党になったナチスのなかで、総統ヒトラーとSA隊長ステンネスの対立を鋭く分析し、党内の矛盾をあぶり出している。後にディミトロフの国会放火裁判を日本に送信し続け、国外追放になった鈴木東民の面目が、よく現れている。
筆者の研究にとって貴重なのは、さりげない人事消息記事や、広告である。
ホームページにも記したが、広告「独逸語会話出張教授 Frieda Redlich, Berlin-Wilmersdorf. Holsteinisches Str.58-2, 電話Barana 5327(取次)」は、筆者自身が鈴木東民の紹介で、国崎定洞探索の旅のはじめに出会った国崎夫人フリーダ・レートリッヒの1931年当時の消息にほかならず、現在もベルリンで存命中の遺児タツコ・レートリヒさんにとって、3歳の時の住所と電話番号が判明したことになる。次のベルリン訪問の、大きなおみやげができた。
また発売元の「ストライザンド書店」の広告には、「日本学界のご愛顧30年、日本官公私立大学専門学校特に全国帝国大学図書館研究所の御用各種科学文学書専門雑誌類英仏その他欧州各国の書物雑誌は手数料なしに原価提供、日本人各位には破格大勉強型録無代進呈、書籍に関する御案内は勿論、科学文学方面大学研究所等に関する一切の御相談に応じます、珍書稀書蒐集は弊店独特の連絡、店内には最新刊書備付御閲覧に供します」とある。当時在独日本人約500人中100人以上を占める文部省在外研究員を上得意にした、伝統ある老舗書店らしい宣伝文句がならぶ。
この「ストライザンド」書店は、ワイマール共和国前半のマルク暴落期に、森戸辰男、櫛田民蔵、向坂逸郎らが強い円で原書を買いあさり、東大経済学部や法政大学大原社会問題研究所の蔵書の基礎をつくった拠点として知られている(脇村義太郎『回想九十年』岩波書店、1991年、271頁以下)。1930年当時の記録でも、例えば東北大学の文部省在外研究員新明正道の日記(山本鎮雄編・家永美夜子校閲『新明正道 ドイツ留学日記 1929-1931年』時潮社、1997年)には、「ストライザンドで本を探す」「ストライザンドに寄る」としばしば登場する。新明は、「大原研究所の写真や東大法学部の写真なんかをはりつけた壁のところへつれていって、日本との関係の密接なことを盛んに説く」「ストライザンドでアナルキスムス[無政府主義]の書物で、古いものを少し買う。マルクス『資本論』第一版が300マークで出ている。これも結局買うことにした。日本でも、この本なら売りたい時には十分原価以上に売れるのだ」などと記している。
社会史的に重要なのは、ベルリン在在日本人相手のジャパニーズ・レストランの広告である。所在地やキャッチコピー、広告図柄から、その雰囲気がしのばれる。「伯林東洋館、御料理会席仕出し 御寿司御弁当」「江戸前料理 松乃屋」「日本料理 フランス料理 会席仕出寿司弁当 常磐TOKIWA」「日支料理花月 夜は10時からダンス、ダンス中も別室で静かに御食事できます」と。今日でもベルリンの日本料理専門店は10店程度であるから、ワイマール時代の日本人コミュニティの浸透度がうかがえる。
この中の「花月」は、この頃、千田是也、島崎蓊助ら在独日本人反帝グループの芸術青年たちの、ちょっとしたアルバイト先になった。千田是也『もうひとつの新劇史』(筑摩書房、1975年)、山脇道子『バウハウスと茶の湯』(新潮社、1995年)、それに筆者らがこのたび刊行した『島崎蓊助自伝』にも出てくるが、左翼演劇の千田是也のアトリエを事務所にして、プロレタリア漫画出身の島崎蓊助と漆工芸家福岡縫太郎が加わったベルリン貧乏芸術家3人が、当時デッサウのバウハウスに留学して建築・デザインを学んでいた山脇巌・道子夫妻にも手伝ってもらい、「巴工房」という、今風にいえばインテリア・デザイン会社をでっち上げた。「仕事始めは、日本料理屋花月の装飾デスプレイであった。大改装して開店する花月の経営者張さんはガッチリ者の朝鮮人であったから、ゼニにはならなかったが、その代り当分ただでメシを食わせてもらう条件だった。……ジャン・ギャバン主演の『巴里の屋根の下』のドイツ語版の歌が流行して、『花月』の店でも盛んにそのレコードを流している頃だった」「タダメシの常連には、張さんもだんだん好い顔はしなくなっていたが、若くて美しい迪子夫人[山脇道子]が一緒の時はニコニコ愛想が良かった」と(『島崎蓊助自伝』94-95、97頁)。
実は筆者は、前掲『新明正道 ドイツ日記 1929-1931年』に「ベルリン反帝グループと新明正道日記」と題する解説を書いているが、新明正道の日記には、日本料理店で頻繁に日本人と会食する様子が、「お伴して東洋館」「花月にいったら中条[宮本]百合子の話を聞く医師の会」「ときわで蒲焼き」という具合に出てくる。新明日記にドイツ名で頻出するカフェ「ウィテルスバッハ」も、『伯林週報』に「自慢の維納料理、二階撞球場、日本人街中心、御会合歓迎、二階に日本人スポーツ会ピンポン倶楽部専有のピンポン室あり、月水金午後8時より競技」と広告を出しており、ベルリン日本人御用達の店であったことが了解できた。
ただ、同じく新明正道日記に頻出して、作家武林無想庵の妻文子が娘イヴォンヌ(後の辻まこと夫人)を連れて世話になっており、無想庵の日本帰国中に朝日新聞ベルリン特派員黒田礼二(=東大新人会出身の岡上守道)が文子と「不倫」関係に陥る日本料理店「藤巻」の広告が出ていない。どうやらナチスの台頭するドイツと軍部の台頭する日本の政治状況も反映して、在独日本人の中での贔屓の日本料理店も、政治的棲み分けがあったようである。
今回現物が見つかった『伯林週報』は、1931年4月の2号分のみである。本誌創刊号の拙稿に記したように、やはり当時の在外研究員で大阪市立大学教授を長く勤めた四宮恭二の著書『ヒトラー・1932-34、ドイツ現代史への証言』(NHKブックス、1981年)上巻245ページ以下には、「故鈴木東民氏がベルリンで在留日本人のために編集発行されていた小冊子『ベルリン通信』(たしかそうだったと思う)の中からそのまま拝借した資料」として、1933年1月ヒトラー政権成立までの「ドイツ歴代内閣一覧」、1933年3月5日現在の「画一化以前のドイツにおける主要政党とその政見要約」、「ヒトラー内閣成立までの主要ドイツ新聞とその政治的論調」等が収録されているから、1933年段階でも、鈴木東民は、ナチスに批判的な立場から『伯林週報』を刊行し論評し続けたことがわかる。
また、1931-32年頃、作家林芙美子のパリ遊学中の恋人となった後の建築家白井晟一が、当時ベルリン大学に正規学生として在学して美学を学んでおり、「鈴木東民のあとを受け、邦人相手の左翼新聞『ベルリン通信』を市川清敏とともに編集発行」、その後香川重信と共に「モスクワに渡り一年間滞在、この時帰化しようとしたがかなわず、1933年、シベリア経由でウラジオストックから敦賀に帰港」という記録が現れたので(『建築文化』1985年2月号、今川英子編『林芙美子 巴里の恋』中央公論新社、2001年)、その真偽をただす仕事も残されている。建築史・文学史研究による白井晟一の在独時期は、鈴木東民の日本帰国(1934年3月)以前であるから、東民を手伝い一緒に編集したのか、それとも東民から編集権を引き継いだのかが問題になる。
さらに、鎌田慧氏の聞き取りによる「東民が『ベルリン週報』を人手に渡した金が渡航費になった。ゲルトルードによれば、広告を集めたりしていたのは、与謝野譲だったという。彼は一高の出身者だった。日本の左翼運動が弾圧されたあと、裕福な家の子弟でドイツに逃げてきていた学生が多かった。『ベルリン週報』をひきうけたのもそのひとりだった。彼らの努力で、新聞はそのあとかなり拡大した」(『反骨』講談社文庫、171頁)中の「裕福な家の子弟のひとり」が、有澤広巳の紹介でベルリン大学経済学部に留学していた安達鶴太郎であることは、筆者自身が故安達重子夫人から聞き取り確認したが、蛯原八郎『海外邦字新聞雑誌史』は、1935年執筆時点でも『伯林週報』は安達鶴太郎により継続されている、と述べている。
しかし、筆者の時事通信社史等での調査によると、安達鶴太郎は、1936年にベルリン滞在のまま同盟通信発足に加わり(電通の通信部門が分離・独立した国策通信社、戦後の共同通信・時事通信の前身、安達は戦後の時事通信政治部長)、同年10月にはベルリン支局長になっている。ちょうどヒトラーが世界にナチズムの力を示威したベルリン・オリンピックの頃である。その時『伯林週報』は終わっていたのか、あるいは誰かの手に引き継がれ日独防共協定下で発行し続けられたのかは、今のところ全く情報はない。今後に残された謎であり、さらに多くの『伯林週報』現物が見つからないと、確定しがたい。今回の発見は、なお研究の端緒であるゆえんである。
新井教授の所蔵資料の中には、『伯林週報』と共に、『中管時報』というほぼ同じ大きさの新聞が入っており、これは、蛯原八郎『海外邦字新聞雑誌史』はもとより、筆者がドイツ国立図書館、ドイツ国立公文書館、ドイツ外務省文書館、ベルリン大学図書館・文書館、独日協会資料室、ベルリン日独センター、東京の国立図書館、国立公文書館、外務省外交史料館等々で長く探索してきた史資料にも入っておらず、これまで存在そのものが知られていなかった、ノーマークの日本語史料であった。それが実は、政治的には『伯林週報』なみに、いや量的に多いのでそれ以上に重要かもしれない、貴重な第一次史料であった。
「中管」そのものについては、『伯林週報』に1頁全面の広告が載っており、基本的性格がわかる。「中管 NAKAKAN Berlin W57, Elssholzstr.1, Tel. B7 Pallas 1234,Telegramm-address Nakakan-Berlin 1922年創立日本人共同購買組合、総而品物は市価より1割5分乃至3割安 営業科目:煙草、ピアノ、時計宝石、独逸書籍類、タイプライタア、医科学精微機械、写真器及付属品等、現像焼付双眼鏡鏡玉、英国製洋服地毛織物、教育映画及活動写真器、日独特産品貿易及卸値売、大学専門学校官公署御用達、汽車汽船切符公定値段御取次、旅券査証運送保険旅行事務一切、商船郵船ハーパーク中欧旅社代理」──要するに、在留日本人向け「よろず屋」である。当然、在独日本大使館を始めとした日本人コミュニティの中心となる。
『島崎蓊助自伝』を読むと、金貸しも、こっそりやっていたらしい。「千田のお父さん[伊藤為吉]から来た手紙が奇蹟を生む種であった。アメリカには千田の実兄舞踊家の伊藤道郎が一家を成しており、そこへ東京の古道具屋で蒐めた置物などをゴッソリ持って行き、何処かのホテルのロビーに展示して即売する計画だから、莫大な儲けは受け合え、その節はお前の方へも相当な送金ができる、と言ってきた。早速この手紙を持って日本人商店『仲管』に掛け合い、いくばくかの借金をすることに成功した」。これが、「巴工房」の設立資金となった。もっとも日本料理店「花月」の改装ぐらいでは商売にならず、「千田や私は『仲管』に相当な借金を残しており、敷居が高くて近寄らぬことにしていた」とある(94-95頁)。
つまり「中管」は、当時の在独日本人右派も左派も、政治に関心のない遊学組・芸術青年たちも、一度は立ち寄るコミュニティ・センターであった。その店の顧客用ニュースが、「中管時報」である。今回発見された、満州事変をはさむ8号分の範囲内でも、タイトルが漢字表記からひらがな・ローマ字に変わったりしているが、1932年のニュースが載った[Nakakanjiho]が通巻第11年とされているから、第1年は1922年、つまり中管開設時から発行されていたと推定できる。関東大震災前にやってきた森戸辰男、村山知義、福本和夫、岡田桑三らも利用したのだろう。ハイデルベルグに留学した羽仁五郎や三木清も、ベルリン詣でのさいに見かけたかもしれない。もちろん『中管時報』は無料であったろう。
1931年当時は、ほぼ隔週のペースらしい。ただし32年は月刊かもしれない。また、いつまで刊行されたかはわからない。以下に、今回見つかった8号分の総目録を掲げる。
●1922年創立日本人共同購売組合「中管NAKAKAN」ニュース
コマーシャル・ベースのペーパーではあるが、直接的な広告記事・商品案内は、意外に少ない。1931年4月29日号で言えば、「写真現像焼付は中管へ」という1行のみで、それも「桜のウェルダー蕾綻ぶ」という記事の末尾に、さりげなく組み込まれている。
むしろ、日本大使館の意向を踏まえた、在独日本人コミュニティ向け広報紙の性格が強い。「奉祝天長聖壽 本4月29日は天長節で当地大使館官邸にて午前遙拝式を設ける筈」とよびかけ、「メーデーと伯林 昨年一昨年のメーデーは流血の大騒をしたので、今年は警察側でいろいろ予防策を講じてゐるが、当日のルストガルテンは労働者と巡査でうまってしまふものと見らる。社民党は午前10時、コムニストは午後4時から」と、在留邦人が巻き込まれないよう、注意を促している。
同時に、在留者に対する、プラクティカルな生活情報を提供する。「経米帰朝が割安 シベリア線が高くなると寧ろ大阪商船経米の方が安くて気持よく有益となります。シベリア線でもワルシャワ経由には一等と三等しか連絡しませんからロシアの内だけはどうしても一等にするより仕方がありませんで、前後を二等としても伯林東京間千三百馬克[1300マルク](寝台は釜山まで)になります。此の値段ですと大西洋ツーリスト(日本船の一等室に比適とも云はるるやうに設備よし)、大陸横断一等、太平洋大阪商船一等、船は勿論食事付、かれこれ同じ値で帰れます、アメリカの内部でも国米とか小川ホテル、カフェーテリヤなどで暮せば大した入費も要せずシベリヤ経由と大差なくて経米帰朝が出来るやうです。時間のある方は是非御一考下さい」と懇切丁寧である。アメリカ経由は、有澤広巳が1928年に帰国する際のルートであり、藤森成吉は、1932年にこのルートを辿る。日本語でのこうした情報は、在留者にとって貴重で有益であったろう。
『伯林週報』と同様に、消息記事、会合等の知らせも載っている。「上野教授帰朝準備 去年来日独協会所長として日本政府より派遣せられ、日独親善に御盡力せられ日独学術界に大いに貢献され傍日本人会等にも種々御力添せられた京城帝国大学上野教授は近く帰朝せらるるそうです」──これは、本誌創刊号の拙稿注22で、『伯林週報』の周辺史料としてその遺品目録を紹介した戦後初代東京芸術大学学長上野直昭のことで、上野直昭『解后』(岩波書店、1969年)を読み解く一助となる。
こんなニュースもある。「伯林アマチュア野球団再起 二三年前発起して伯林ッ児を驚かした伯林アマチュア野球団は其後しばらく休息の体であったが、伯林週報の鈴木君の尽力で再起し、去る26日第一回練習をフェブリーナープラッツで行った。集った猛者達は仲々の元気、関東関西組に別れての猛練習であった。我と思はんものは来りて大いに気炎をあげられしと。本部週報社内」(31年7月28日号)──これだけだと、野球を知らないドイツ人への日本スポーツ紹介のほほえましいエピソードであり、『中管時報』と鈴木東民の『伯林週報』との共存共栄を示すニュースとなる。
ところが「二三年前」のベルリンでの初の野球紹介とは、川上武・加藤哲郎『人間 国崎定洞』(勁草書房、1995年)中の山田勝次郎証言(135頁)や千田是也の回想『もうひとつの新劇史』148頁にあるように、もともと蝋山正道・有澤広巳・国崎定洞・千田是也ら「ベルリン社会科学研究会」の若手学者たちの、親睦と気晴らしを兼ねたデモンストレーションであった。実技の指導者は、文部省派遣でベルリン体育大学に留学中だった、埼玉高校体育教師(柔道)工藤一三と推定できる。工藤は、ドイツではスポーツクラブが左翼政党により組織化されているのに衝撃を受け、29年に土屋喬雄と一緒に帰国後、講道館の「柔道赤化防止運動」を始める(「スポーツ赤化の正体暴露」『柔道』1932年3月号、工藤は戦後警察大学教授)。
しかし「ベルリン社会科学研究会」は、工藤・土屋の帰国した29年頃から、政治的実践活動に加わる「在独日本人反帝グループ」「ベルリン日本人左翼グループ」に転化し、この『中管時報』が野球再開を報じた頃には、岡内順三、小栗喬太郎など、赤色スポーツ運動に加わる若い活動家を擁していた。1931年7月、ちょうどこの野球再開記事が書かれた頃に入独した小栗喬太郎の遺稿集『ある自由人の生涯』(1968年)には、そうしたドイツの労働者スポーツ体験が詳しく描かれているが、小栗の親戚で作家の小中陽太郎が、小栗風葉と喬太郎を小説化するにあたって改めて遺品にあたったところ、「32.6 ドイツ共産党日本語部に加入、労働者スポーツ担当」と記したノートが出てきたという(小中陽太郎『青春の夢──風葉と喬太郎』平原社、1998年、322頁)。
鈴木東民は、すでに国崎定洞と一緒にドイツ共産党に入党した千田是也とならんで、そうしたベルリン左翼青年たちの兄貴分で相談役だった。そして、おそらくここで草野球を始めた在独日本人青年たちの多くは、31年9月の満州事変勃発以降、ナチスと日本の満州侵略に反対する「革命的アジア人協会」の中核になっていく(そのドイツ語機関紙『革命的アジア』の1932-33年総目録は、川上武・加藤哲郎『人間 国崎定洞』164頁以下)。
このように『中管時報』は、その記事の一つ一つが在独日本人の当時の生活を映し出し、社会史資料として興味深い。だが、学術的に最も価値があるのは、「破棄せずに集めておいて下さい」と書かれ、上記目録の8号すべてに参考資料風に付されている「独逸研究会」の報告である。
「独逸研究会」がどのような性格で、だれが加わっていたかは定かでないが、『中管時報』目録から推定できる参考資料集1−30の作成・発行の他、社会事業施設オスカヘレネハイム見学会、伯林体育大学構内説明及び現状スポート練習会、懸賞写真会、ツォッセン林間学校見学、モアビット未決刑務所見学会、ドレスデン・ザクセンスイス自動車ドライブ旅行、バルチック艦隊及びロシア都市遊覧旅行、スイス・イタリア旅行団等を、ひんぱんに組織・開催している。社会事業施設訪問や刑務所見学は、留学中の専門学者にも有益なプログラムで、たんなる観光・物見遊山の域を越えている。
日独協会、日本人会等公式友好親善団体の行事は別にニュースとして報じられているから、独逸研究会は、その下部組織ではない。事務所は中管事務所内とされていて、どうやらこの研究会は、この商店を利用する日本人滞在者・留学生の専門知識・技術を学際的に活用して相互に学びあう、今日なら「業際セミナー」にあたる親睦研究会のようである。
そう推定して独逸研究会の「1 独逸通信料一覧」から「30 独逸世相一覧其3」にいたる参考資料を見ると、すこぶる学問的で、よくできている。
例えば「3 独逸共和国政治組織一覧」「6 独逸法律発布に至る組織」や「27 大戦後独逸中央議会政党色別」「28 大戦後独逸中央議会選挙一覧」は、小党乱立で不安定だったワイマール共和国の政治構造・政治史の、今日でも十分役立つ政治学的分析であり、「5 今次独逸国銀行さわぎ図解」や「7 戦債及賠償問題の小鳥瞰」「8 Outpayment と戦債との相関関係」は、ヨーロッパ全域及びアメリカの第一次世界大戦後金融資本の絡み合いを詳細に分析して系列化・図解した、当時としては第一級の経済分析になっている。
「30独逸世相一覧」にしても、通俗的モダニズム文化のスケッチではない。「俸給生活者支出割合比」として「独逸週給生活者900人の家庭、平均一家族4.2人・週収入64マルク」の調査にもとづく「栄養費45.4%、電灯暖房住宅費17.5%、衣服洗濯12.7%、保健税金10.4%」という立派な家計分析であり、「手工業者百分比」は「裁縫師21.5%、靴屋14.7%、パン屋9.7%、指物師9.2%、肉屋8.4%、左官6.2%、鍛冶屋6.1%、床屋6.1%、煉瓦屋(建築)4.8%、鍵屋3.3%、……」という社会史資料である。
文部省専門学務局が発行し、当時の在外研究員に留学時に渡された『文部省在外研究員表』という資料がある。筆者が蜷川虎三(当時京大助教授、戦後京都府知事)宅でみつけた昭和4(1929)年3月31日現在の国別滞在者リストでは、ドイツ在留者は総計428人中151人、以下イギリス34人、アメリカ34人、フランス29人の順で、ドイツ留学は他を圧する。岡部福造(当時山形高校教授)の遺品中にあった昭和7(1932)年3月31日現在リストでは、計191人中ドイツ83人、イギリス23人、アメリカ21人、フランス21人である。
つまり、1930-32年当時のベルリンには、日本から自然科学・社会科学・人文科学にまたがるトップクラスの若手研究者100人以上が訪れており、文部省在外研究員としておおむね2年滞在していた。彼らの在外生活の互助ネットワークの中から、いくつかの専門的研究サークルができていたのだろう。その留学生活の成果・見聞を帰国して日本語に直せば、立派な学術論文として通用する時代であった。『中管時報』の独逸研究会参考資料は、「洋行」研究者にとっても、有意義・有益であったに違いない。おそらく新井教授のもとに古書店から持ち込まれた『伯林週報』『中管時報』も、そうした動機でドイツから日本へと帰国時に持ち込まれ、当時の「洋行帰り」の学者が、戦後まで保存していたものだろう──これが、今回発見された両紙の流入経路についての、筆者によるさしあたりの推理である。
『伯林週報』は1928-35年でおそらく数百号、『中管時報』は1922年から少なくとも10年以上刊行されたはずであるから、今回発見された現物資料は、ほんの一部分である。この発見をきっかけに、『伯林週報』『中管時報』のような戦間期在外日本人ネットワークの史資料がどこかに眠っていないか、全国・全世界の関心ある方々に改めて探索をよびかけ、筆者に情報を寄せていただくよう訴えるものである。
(かとう・てつろう katote@ff.iij4u.or.jp)