20世紀メディア研究会発行、紀伊国屋発行『Intelligence[インテリジェンス]』創刊号(2002年3月)掲載


 

 

幻の日本語新聞『ベルリン週報』を求めて

─サイバー・メディアによるクラシック・メディア探索記─

 

加藤 哲郎(一橋大学・政治学、katote@ff.iij4u.or.jp)

 

 


1 はじめに 

 

20世紀メディア研究会は、メリーランド大学プランゲ文庫の占領期雑誌記事を、CDムROMという新しいメディア媒体にデータベース化することから出発した。以後はインターネットから直接検索できるデータベースになるという。ネットワーク・シチズン=ネチズンとしては、大変喜ばしいことである。本誌『インテリジェンス』は、その学際的研究誌で、「専門分野からの研究成果」の寄稿を求められた。

ところが私の専門分野は政治学、すでに完成した試行番CD−ROMには、確かに「政治・法律・行政、経済、社会・労働」関係の膨大な雑誌記事索引が収録されていて 、本来ならそれを使った研究成果を寄せるべきなのだが、現代史研究をも一応カバーし概説書は書いてきたとはいえ、あいにく占領期は、専門的に調べたことはない。そのうえ2001年9月11日の米国同時多発テロ以降、政治学者として原理的に考察すべき課題が山積し、丸山真男の遺言「戦争は一人、せいぜい少数の人間がボタン一つ押すことで一瞬にして起せる。平和は無数の人間の辛抱強い努力なしには建設できない。このことにこそ平和の道徳的優越性がある」を受けて、日本における「テロにも報復戦争にも反対」の運動にコミットしてきたため、時間もとれない 。「政治とインテリジェンス」を理論的に論ずるのも一案だが、こちらの方はすでに、名古屋大学情報社会学部を中心に『社会と情報』誌が創刊されるにあたって、「政治と情報」という巻頭論文を書かせていただいた 。

そこでここでは、「研究成果」ならぬ「不成果」、すなわち周辺調査から数えると30年、本格的に探し始めてからでもすでに10年になるのに、いまだに現物を見たことのない研究対象について述べることによって、寄稿の責めを果たしたい。ただし手法は、ちょっとひねって、古典的メディアというべき新聞についての調査を、最先端サイバー・メディアであるインターネットを活用して進めるとどうなるか、という体験談を盛り込むことによって、20世紀メディア研究の21世紀的展開の一端を予示してみよう。

 

2 インターネットを利用した情報政治と政治学

 

 最近勝手に、「情報政治学」なる分野を開拓しようと考えている。社会学の「情報社会論」やコンピュータの「情報科学」、「E経済学」は隆盛をきわめ、日本ではなぜか政治学を包摂する法学分野でも、「法情報学」がすでに市民権を得ている 。しかし政治学では、「情報」概念は未だ本格的に理論化されておらず、それも「諜報・宣伝」や「政治知識」「世論」に附随して言及される場合が、ほとんどであった 。しかし現実政治の方は、20世紀にアントニオ・グラムシが述べた機動戦・陣地戦は情報戦段階へと展開し、「メディア=第4の権力」論や「ワイドショー政治」が語られるようになった 。典型的には、ヘゲモニー国家アメリカ合衆国における、大統領選挙の変容である。1928年の「ラジオ選挙」から、1960年のケネディを勝利させた「テレビ選挙」を経て、2000年大統領選挙は「インターネット選挙」と特徴づけられる。そこで当選したブッシュ大統領のもとでの9・11同時多発テロ以降、日本でも「テロにも報復戦争にも反対」のインターネット政治が高揚し、私は韓国2000年総選挙における「落選運動」なみの本格的開花期に入った、と診断している 。

「情報政治学」の対象は、「政治情報」ではなく「情報をめぐる政治」である。古くは明石大佐の対露工作、ゾルゲ事件のような諜報活動の政治的意味から、イメージ選挙、ワイドショー政治、小泉内閣メールマガジン、インターネット平和運動まで、すこぶる幅が広い。そんな問題を原理的に考えるには、歴史的事例に遡るにしくはない。私は「ネットワーク」をキー・コンセプトにした情報共有デモクラシーの政治学的意味を解析すべく、1920年代後半から30年代に海外に滞在した日本人の左翼的リンケージを追いかけて、ここ数年、モスクワ、ベルリン、パリ、ロンドン、サンフランシスコ、ロスアンジェルス、ニューヨーク、メキシコ等の日本人コミュニティと、それらのつながりを調査してきた。

そのさい、文献資料収集と現地調査の重要性はいうまでもないが、ほとんどはすでに死亡した関係者の遺族からの聞き取りと、遺品の中に含まれる断片的情報の収集・解析が、基礎的作業となる。

もともとこの研究は、私が大学卒業後に留学したドイツで、戦前東京帝大助教授としてドイツに留学した社会衛生学者国崎定洞のことを調べ、彼がなぜドイツ共産党に入党して帰国せず、ナチスの政権掌握でモスクワに亡命したまま行方不明になったのかを、考えることから出発した。1973年に、国崎定洞、勝本清一郎、藤森成吉、小林陽之助らが関わったドイツ語雑誌『革命的アジア』をベルリンの文書館で発見し、医学史家川上武らと共に、日本の満州事変とドイツのナチズムに反対して活動した在独日本人反帝グループとして、日本に紹介してきた 。そこでわかったのは、国崎定洞が1937年8月にモスクワで逮捕され、同年12月に「獄死」したところまでであったが、1992年にソ連崩壊後のロシアで、国崎定洞の粛清関係書類が発見され、国家論や比較政治の理論研究でしばらく忘れていたこのテーマに、改めて取り組むことになった。

1937年12月10日の国崎定洞の死因は、「獄死」ではなく「銃殺」だった。容疑は「日本のスパイ」で、クレムリンの奥深く隠されていたコミンテルンの個人ファイル、秘密警察の訊問書を読むと、当時の多数の在露日本人の名前が密告者・スパイとして現れ、またベルリン時代の「同志」であった有澤広巳・千田是也・勝本清一郎・平野義太郎・野村平爾らの名前も、コミンテルン=国際共産党の協力者ではなく、日本軍部と結びつく疑わしい「ブルジョア知識人」として秘密報告されていた。しかもその報告者は、日本のジャーナリストによる新資料発見で、日本共産党名誉議長野坂参三が除名される理由となった、野坂に密告されたもう一人の日本共産党モスクワ代表山本懸蔵であった。この疑心暗鬼と内部告発により自壊した在モスクワ日本人コミュニティの粛清連鎖をときほぐし、国崎定洞の在独時代の活動を改めて調べていくと、30年前の研究では想像しえなかったグローバルな問題が浮かんできた 。

そこで、「旧ソ連在住日本人粛清犠牲者・候補者一覧」と「1930年代在独日本人反帝グループ参加者関係者一覧」の二つのリストをデータベースとして作成し、私の個人ホームページ「加藤哲郎のネチズン・カレッジ」に収録した 。それを「現代史の謎解き」と銘打って、新聞等既成メディアとも提携し、関係情報を電子メールで寄せてくれるよう募ったところ、次々に新しい情報が集まり始めた。その経験は、「インターネットで歴史探偵」と題してすでに発表しているから、詳しくは、それを参照してもらおう 。

旧ソ連粛清犠牲者については、日本人須藤政尾、安保由五郎、ヤマサキ・キヨシ、健物貞一の遺児がロシアで発見され、須藤・安保、健物の場合は、日本の親族とも連絡がついた。サーカス団出身のヤマサキについては、サーカス研究家大島幹雄氏のホームページ「月刊 デラシネ通信」と提携して、「ネチズン・カレッジ」のなかの「2001年の尋ね人」のコーナーで、現在重点的に手がかりを求めている 。

ロシアで粛清資料を発見した松田照子、小石濱蔵、伊藤政之助らの場合は、インターネット上に資料そのものを公開し、松田・小石の場合はご遺族がみつかって、無実の罪による逮捕の名誉回復がなされたことを伝え、命日・埋葬地等をお知らせすることができた。

在独日本人反帝グループの場合は、著名人が多いために、インターネットによる情報収集は、いっそう威力を発揮した。これまで井上角太郎、岡田桑三、蜷川虎三、小林陽之助らのご遺族から電子メールで直接連絡を受け、それぞれ当時の日記や手紙・住所録など、貴重な原資料を提供していただいた。その一部は、ホームページに掲載して(例えば蜷川家提供の1928年5月ポツダムでの12人の在独日本人の記念写真)、他の関係者についての情報も収集できた。

国崎定洞と一緒に革命的アジア人協会で『革命的アジア』を発行し、反戦・反ナチ活動にたずさわった在独中国人、朝鮮人、インド人についても、千田是也の生前のインタビューなどでわかってきたので、その中間報告を、英語ページに発表した 。すると、当時京城帝大からベルリンに留学していた朝鮮人李康国(戦後北朝鮮民主主義民族戦線初代事務局長、朴憲永派として粛清)、アメリカ人作家アグネス・スメドレーと離婚した後『革命的アジア』に関わったインドの独立運動家ヴィレンドラナート・チャットパディアについて、韓国、ロシア、スウェーデン、イギリス、アメリカなどから、情報が寄せられた。李康国が帰国後の1934年に京城帝大助手になって、ドイツで知り合った助教授三宅鹿之助と共に反日運動を組織して逮捕されたこと(京城帝大赤化事件)、インド本国でも知られていなかったモスクワ亡命後のチャットパディアの粛清の事情(最期はレニングラード大学教授)も、明らかになった。

無論、こうした成果を得るには、既成メディアと提携して、インターネット上で情報を探索している事実自体が、広く知られる必要がある。また、ホームページが、多くの読者が定期的にアクセスしたくなるような、魅力あるものでなければならない 。

2001年10月27日、すなわち20世紀メディア研究会の創立研究会の夜に、一通の電子メールが舞い込んだ。「突然、メールいたします。私、島崎蓊助の息子・島崎爽助と申します。2年ほど前、父の残した遺品を整理中に加藤さんからの郵送物をみつけました。その後、放置しておりましたが、来年の秋頃、群馬県桐生市にあります大川美術館で父の回顧展が予定され、現在父の資料を再構築しているところ、友人から薦められた検索エンジン・Googleで父・島崎蓊助を検索し、結果として加藤さんのメールに辿り着いたというわけです。(Googleの検索はたしかに他よりすぐれているようです)」と。

これは、私のベルリン反帝グループ研究において、きわめて重要な意味を持つ。島崎蓊助とは、作家島崎藤村の3男で小説『嵐』の主人公、当時国崎定洞グループの最年少組の画家で、千田是也・勝本清一郎・藤森成吉ら反戦プロレタリア芸術家チームの一員だった 。1994年に千田是也が亡くなった後、私にとって当時の史資料鑑定を依頼しうる最も重要な助言者であった石堂清倫氏が97歳で亡くなった直後であったので、島崎家の新資料発見は、とりわけ貴重だった。早速連絡してお聞きすると、千田是也・勝本清一郎らと一緒の写真もあるという。近く本格的に、土蔵を調べさせていただくことになった。

そのさい、島崎さんに、真っ先におききしたことがある。当時ドイツで発行されていた日本語新聞『ベルリン週報』が、資料の中に入っているかどうか、探していただけませんか、と。これが、私が30年来捜している、幻の資料である。

 

3 幻の『ベルリン週報』『ベルリン通信』について情報提供を!

 

『ベルリン週報』について書かれたまとまった記録は、ドキュメンタリー作家鎌田慧の伝記『反骨──鈴木東民の生涯』(講談社、1989年)のみである。そこには、旧制二高出身で東大では『帝国大学新聞』を編集していた鈴木東民が、1926年に二高の友人有澤広巳を頼って渡独、電通特派員として日本に記事を送るかたわら、「大使館で日本人の往来をきいて、それをガリ板の新聞の記事にして売っていた」こと(川村金一郎証言)、「タブロイド判2ページの『ベルリン週報』である。日本の活字がないので、手書きのガリ版印刷である。『一部五マルクだったかなあ、おぼえていない。そんなに売れないんだけど、50部ぐらい刷ったんじゃないかな。本屋の店先においたんですよ。ひとりで編集からなんかで、忙しかった』と本人はテープの中で語っている」「島崎藤村の末子で画家の島崎蓊助によれば、『ベルリン週報』は、留学生にドイツや日本の情報を伝える新聞だった、という」とある。このように、鎌田の得た情報も、遺品のテープと当時のベルリン滞在者に聞きとりした、断片的なものである。

鎌田が取材でみつけた、鈴木東民本人が書いた先輩保阪貞義宛の1929年手紙には、「日本電報通信社の伯林特派員とう名義で伯林にとどまっており、事実電通社の仕事も致しておりましたが、私費留学生の資格ですから一文も手当をうけません。日本人相手の週刊新聞みたいなものを出したり、翻訳をしたり、時には独逸の雑誌へ頼んで書かせてもらったりして生活しております」とある。

ナチスの政権掌握後、ディミトロフの国会放火裁判の模様を日本に詳しく報じたうえで、1934年3月、鈴木東民はゲルトルード夫人を伴い帰国する。

「東民が『ベルリン週報』を人手に渡した金が渡航費になった。ゲルトルードによれば、広告を集めてたりしていたのは、与謝野譲だったという。彼は一高の出身者だった。日本の左翼運動が弾圧されたあと、裕福な家の子弟でドイツに逃げてきていた学生が多かった。『ベルリン週報』をひきうけたのもそのひとりだった。彼らの努力で、新聞はそのあとかなり拡大した、という」──以上が、1979年の鈴木東民死後に、鎌田が綿密な取材によって知りえたすべてである 。

実は私自身、1975年頃に、鈴木東民・ゲルトルード夫妻と二度ほど会って、聞き取りしたことがある。しかしその時は、もっぱら国崎定洞とその夫人フリーダ、遺児タツコについての情報収集に終始したため、八木誠三らの聞き取りでその存在は知っていたが、日本語新聞『ベルリン週報』について、独自に調べたことはなかった。

ところが、1991年のソ連崩壊で、国崎定洞の粛清に関わる旧ソ連秘密文書を入手し、国崎定洞・千田是也らベルリンで日本の満州侵略に反対しナチスの台頭とたたかった反帝知識人・文化人グループの全体が、日本の外事特高警察からひそかに監視されていたのみならず、コミンテルンからも「ブルジョア知識人グループ」として警戒されていたことを知った 。

改めて当時の関係資料にあたってみると、たとえば、小栗喬太郎の回想中には、国崎ら反帝グループが、片山潜と共にアムステルダム国際反戦大会に日本代表として出席するさい、「嬉野、安達と相談して、目立つように大きな日本文字で、そのビラを印刷することになり、日本人相手のニュースを出していた鈴木の家の石版印刷機をかりて、そのビラを沢山すった」とあった 。

その文脈で、勝本清一郎のナチス政権成立後についての回想、「ドイツ人の手では『ローテ・ファーネ』の発行が続けられなくなり、その最後の時期には日本人たちの手によってタイプライターが打たれたり、謄写版で刷られたりした時期があった。このことはドイツの歴史にも残らなかったろうし、日本にも伝えられていない」を読むと、日本語新聞『ベルリン週報』が、ドイツ共産党機関紙『ローテ・ファーネ』の周辺で、ある種の役割を果たしていたことが示唆されていた 。1935年に、彫刻家高田博厚が淡徳三郎と共に創刊・編集するパリの日本語新聞『日仏通信』への繋がりも、気になってきた 。

『ベルリン週報』は、どうやら政治史的にも重要な資料となりそうなことが、だんだんとわかってきた。それから日本とドイツで八方手を尽くして捜してたが、現物は発見できなかった。鎌田慧氏も現物は見たことがなく、鈴木東民のご遺族も持っていない。

 

 そこで、1999年のベルリン滞在中に。私の個人ホームページ「加藤哲郎のネチズン・カレッジ」に、特別の捜索欄をつくり、以下のようによびかけた。

 

どなたか、ワイマール期ドイツの日本語謄写版新聞、幻の『ベルリン週報』の所在を知りませんか?

 

● ここ数年のドイツと日本での調査で、どうしても見つからない資料があります。鎌田慧さんの『反骨──鈴木東民の生涯』(講談社)にも出てきますが、ワイマール時代後期からナチスの政権獲得期、1928-34年頃にベルリン在住の日本人向けに出されていた『ベルリン週報』という日本語新聞です。帝大新聞編集部出身で当時電通ベルリン特派員だった鈴木東民(戦後読売争議指導者・釜石市長)が創刊し、反帝グループの与謝野譲(与謝野鉄幹・晶子甥)、安藤鶴太郎(当時ベルリン大学学生・戦後時事通信政治部長)も編集・広告を手伝ったという謄写版(ガリ版)刷り──わからない人は、井上ひさし『東京セブンローズ』(文藝春秋社)をお読みください──のドイツ生活情報紙で、当初50部、最盛期には数百部ぐらい出ていたといいます。よく海外のジャパニーズ・レストランなどにおいてある、日本語のご当地情報紙の走りです。

● 政治的資料ではありませんが、これが当時の在独日本人の日常生活を知る上で重要だと考え、ずっと探しているのですが、どうしても見つかりません。鈴木東民夫妻には生前おたずねし、先日お亡くなりになった安達鶴太郎夫人にもうかがいましたが、確かに自分たちがつくったという記憶がありながら、現物は持っていませんでした。日本の外務省外交史料館所蔵の在独日本大使館関係資料・日独協会資料にも入っていません。日本人反帝グループのご遺族・関係者の聞き取りのさいは必ずうかがっているのですが、どなたも持っていません。

● 途中にファシズムと戦争の時代が挟まるとはいえ、現地のドイツならあるだろうと思って、こちらでも探しました。ベルリン連邦図書館、ブンデスアルヒーフ(ベルリン、コブレンツ)、ランデスアルヒーフ、ボン外務省史料館、独日協会、ベルリン日本センター、ベルリン大学等各大学図書館など、ドイツ中の関係アルヒーフに問い合わせ、実際にも資料にあたってみましたが、一部もみつかりません。ドイツの日本研究の友人たちにも頼んで探しているのですが、当時のドイツ語日本研究誌『YAMATO(大和)』などは連邦図書館に全号揃っているのに、『ベルリン週報』は、どこにもありません 。ハイデルベルグ大学の博学なヴォルフガング・シャモニさんも、その存在そのものを知りませんでした。どなたか、戦前ドイツにいらっしゃった方のお宅に、今となっては貴重なこの資料、何かの包み紙としてでも、眠っていませんでしょうか?

 

 それから一年ほどして、ある情報が寄せられた。京大助教授としてベルリンに留学し、戦後長く京都府知事をつとめた蜷川虎三のご遺族からであった。早速ホームページは書き直され、以下の一節をつけ加えた。

 

● 昨年このコーナーで探索した『ベルリン週報』について、同時期ベルリンに留学していた元京都府知事蜷川虎三氏(当時京大助教授)のご遺族から、同じくドイツに留学していた経済学者で、大阪市立大学教授を長く勤めた四宮恭二の著書『ヒトラー・1932−34、ドイツ現代史への証言』(NHKブックス、1981年)上巻245ページ以下に、「故鈴木東民氏がベルリンで在留日本人のために編集発行されていた小冊子『ベルリン通信』(たしかそうだったと思う)の中からそのまま拝借した」資料が収録されている、とご教示を受けました。残念ながら四宮氏も他界し、関係者も事情はわからないとのことです。この引用には、「当時ベルリンでこれを見て必要な箇所を持ち帰った」とありますから、少なくともヒットラー政権成立後の1933年3月時点で、その実在が証明されたことになります。皆様の情報提供を、切にお願いし期待いたします。」

 

現在のところ、この新聞の現物は、未だにみつかっていない。しかし、蜷川家からの電子メールを受けて、『ベルリン週報』ではなく『ベルリン通信』という名前だったかも知れないと、ホームページのタイトルに掲げたところで、全く予期せぬかたちでの、新たな情報提供があった。『婦人公論』の編集者からである。

そのメールによると、作家林芙美子の1930−31年留学時の自筆日記がこのほど発見され、同誌で特集するという。これまで論争のあった芙美子のパリ滞在時の恋人「S氏」については、あれこれ憶測されきた画家外山五郎でも、考古学者森本六爾でも、仏文学者渡辺一夫でも、建築家坂倉準三でもなく、建築家白井晟一だったことが日記から確定した、という 。

ところが、この白井晟一の経歴の中に、林芙美子とパリで別れた後にベルリン大学に通い、「鈴木東民のあとを受け、邦人相手の左翼新聞『ベルリン通信』を市川清敏とともに編集発行」とある、という知らせであった。

早速ドイツで足で調べた当時のベルリン大学在籍日本人学生名簿をチェックしたところ、1931−32年の名簿に白井の名があるのを確認して、同誌にはその事実を伝え、資料を提供した。あわせてホームページを再度書き換えて、以下の一文を付け加えた。

 

● いま私が没頭しているのは、なぜか白井晟一(しらい・せいいち、1905-83)という建築家の生涯。「本をさがす」から「日本の古本屋」、「インターネット古書店案内」などを駆使して、手当たり次第に文献を集めています。建築関係の書物は高価なのが悩みのタネで、今までノーマークでしたが、情報収集センターで探索中の「在独日本人反帝グループ」に関わるキーパースンの一人として浮かび上がったため。

● 発端は、ある編集者からのメール。本HP「現代史研究」所収の論文「ベルリン反帝グループと新明正道日記」では、林芙美子の1931ー32年パリ滞在時の『巴里日記』に出てくる恋人「S氏」を、海野弘説に従いパリ・ガスプ(在巴里芸術科学友の会)に属する「坂倉準三」としたのですが、最近林芙美子の当時の『自筆日記』が出てきて、「S氏=白井晟一」と判明したという情報。建築学界ではよく知られていたそうですが、文芸評論の世界では画期的な発見で、これを論じた昭和学院短期大学今川英子さんの論文も、送っていただきました。

● すると驚いたことに、「林芙美子の恋人S氏=白井晟一」が完璧に論証されているだけでなく、芙美子とパリで別れた白井晟一が、ベルリン大学に通い、「鈴木東民のあとを受け、邦人相手の左翼新聞『ベルリン通信』を市川清敏とともに編集発行」、その後香川重信と共に「モスクワに渡り一年間滞在、この時帰化しようとしたがかなわず、1933年、シベリア経由でウラジオストックから敦賀に帰港」という話まで出てきました。

● ここに出てくる『ベルリン通信』とは、本HP「2001年の尋ね人」で『ベルリン週報』として探しているものと、同一でしょう。あわててベルリンで調べた当時のベルリン大学在籍日本人名簿をチェックしたところ、白井晟一は1931/32年冬学期、32年夏学期に確かに在籍しており、本HPで長く探求してきた竹久夢二のユダヤ人救出活動に関わったと思われる井上角太郎 、在独日本人反帝グループの有力メンバー八木誠三、同じく有力メンバーで存命中の喜多村浩らと、同級生であることがわかりました。

● 新たなエキサイティングな謎が加わって、「現代史の謎解き」は、いよいよ混沌です。「月刊 デラシネ通信」で、大島幹雄さんが粛清秘密資料を全面公開した旧ソ連のサーカス芸人ヤマサキ・キヨシと共に、皆さんの情報提供を求めます。

 

早速読者からは、今川英子氏が典拠とした雑誌『建築文化』1985年2月号「白井晟一特集」など、基礎資料の提供があった。白井が『ベルリン通信』発行にたずさわり、しかもその後、野坂参三・国崎定洞・勝本清一郎・佐野碩の滞在するモスクワに向かったことが、確認された。これと、かつて鎌田氏に『ベルリン週報』について証言したことのある島崎蓊助の遺品が結びつけば、研究は、大きく進展する。

しかしなお、肝心の日本語新聞は出てこない。

本誌創刊にあたって、敢えて「研究不成果」を公開し、メディア研究の専門家諸氏のご教示・ご助言を乞う次第である。(katote@ff.iij4u.or.jp)


(以下注)

1   占領期雑誌記事情報データベース化プロジェクト委員会(代表 山本武利)、紀伊国屋書店製作。このCD−ROMには著作権が明示され、筆者もその著作権者の一員であるが、CD本体にもケースにも、製作年月日が入っていない。書物や雑誌・新聞とは異なるラジオ・テレビ・映像メディア、インターネットなどデジタル・メディア媒体の情報を、後世の研究者が収集・整理するさい、ある程度のスタンダードが必要になってくるだろう。インターネット情報でも、著作に引用される事例が増えて、筆者は積極的にURLを注記するようにしているが、移ろいやすいホームページのURLでは追試が困難なため、ダウンロード期日を明記している研究者もいる。筆者自身は、あらゆる媒体の署名論文に電子メールアドレスを付して、情報源・情報提供者よりも情報使用者の方に応答責任の明示義務を課すことを提唱し、一部はすでに実践している。加藤哲郎(katote@ff.iij4u.or.jp)「情報の森を抜けて、交響の丘へ」『季刊 アソシエ』第6号(御茶ノ水書房、2001年4月)、http://member.nifty.ne.jp/katote/associejoho.html。本稿でも、これに準じる。

2  丸山真男『自己内対話』みすず書房、1998年、90ページ。これを受けたインターネット上での筆者の特別サイトは、「イマジン」http://www.ff.iij4u.or.jp/~katote/imagine.html。

3  加藤哲郎「政治と情報──旧ソ連秘密文書の場合」『社会と情報』創刊号(編集顧問 小出昭一郎・北川隆吉・吉田民人)1996年7月、所収。同誌はその後廃刊になったらしく、一橋大学図書館には一部も入っていない。こうしたマイナーな研究雑誌の全国的利用可能なデータベース化・デジタル保存も、21世紀メディア研究の課題といえよう。

4  明治大学夏井高人研究室「法情報学」http://www.isc.meiji.ac.jp/~sumwel_h/、伊藤光郎「法情報学に関する文献案内」http://www.lib.meiji.ac.jp/serials/kiyou/no3/pdf/itou2.pdf。

5  前述加藤「政治と情報」では、政治学関係辞事典における「諜報・宣伝」概念から自立した「情報」概念の歴史的登場と変遷過程を概観し、近代政治学でもマルクス主義でも、猪口孝「情報」(日本政治学会1979年年報特集『政治学の基礎概念』、岩波書店)を例外として、理論的に未成熟・未確立であることを指摘した。インターネットとの関連では、ようやく、イアン・バッジ『直接民主政の挑戦──電子ネットワークが政治を変える』新曜社、2000年、横江公美『Eポリティクス』文春新書、2001年、などが現れた。

6  加藤『20世紀を超えて』花伝社、2001年、序章、参照。

7  加藤「インターネット・デモクラシーのゆくえ」『データパル2002』小学館、近刊。

8  川上武『流離の革命家──国崎定洞の生涯』1976年、川上武・加藤哲郎・松井坦編著『社会衛生学から革命へ──国崎定洞の手紙と論文』1977年、共に勁草書房。

9  これらについては、『モスクワで粛清された日本人──国崎定洞と山本懸蔵の悲劇』(青木書店、1994年『国民国家のエルゴロジー』(平凡社、1994年)、『人間 国崎定洞』(川上武と共著、勁草書房、1995年)と3冊の書物で述べてきた。

 「加藤哲郎のネチズン・カレッジ」http://www.ff.iij4u.or.jp/~katote/Home.shtml。

 加藤「インターネットで歴史探偵」『歴史評論』1999年5月号。http://member.nifty.ne.jp/katote/tantei.html。

 「2001年の尋ね人」http://www.ff.iij4u.or.jp/~katote/Monthly.html、大島幹雄「月刊デラシネ通信」http://homepage2.nifty.com/deracine/。

 「Global Netizen College」 http://www.ff.iij4u.or.jp/~katote/exchange.html.

10  私の「ネチズン・カレッジ」についていえば、『読売新聞』1998年2月5日にインターネット上での旧ソ連粛清犠牲者探索が大きく報道されて以来、重要な資料発見にもとずく情報収集・関係者探索を、新聞社・通信社と提携して進めてきた。この「現代史の謎解き」コーナーを一つの目玉として、現在では毎月数千人のリピーターが訪れ、累積22万ヒットをこえて、日本の政治学の最大サイトとして定着している。

11  直接この体験を小説として描いたのが、島崎蓊助「在独日本青年素描」『改造』1936年2月。

12  鎌田慧『反骨──鈴木東民の生涯』(講談社、1989年、後に講談社文庫、1992年)第3章。

13  加藤『モスクワで粛清された日本人』第8章。

14  佐藤明夫編『ある自由人の生涯──小栗喬太郎遺稿集』非売品、1968年、43頁。嬉野とは戦後の読売新聞論説委員嬉野満洲雄、安達は戦後の時事通信政治部長・編集局長安達鶴太郎。小栗風葉の甥喬太郎を主人公にした小説が、小中陽太郎『青春の夢』平原社、1998年。

15  勝本清一郎『こころの遠近』朝日新聞社、1965年、123頁。ただし、日本人グループによるドイツ共産党機関紙『ローテ・ファーネ』印刷の事実は、確認できていない。

16 高田博厚『分水嶺』岩波書店、1975年。

17  『YAMATO(大和)』はその後、日本国内での探索でも、現物がみつかった。当時京城帝大助教授としてベルリンに留学した上野直昭(戦後初代東京芸術大学学長)の収集品の中に、ほとんど完全なかたちで含まれていた。なお、上野家には、その他にも当時の大量のドイツ語新聞・雑誌が現物で含まれており、現在目録を作成し、研究用に使えるかたちに整理中である。メディア史研究、文化・社会史研究に役立つ貴重な資料と思われるので、以下に、加藤哲郎作成の目録のみを掲げておく。

  ● 上野直昭収集ワイマール期ドイツ語雑誌・新聞資料目録

<新聞>

Berliner Tageblatt 1927 (新聞)

Illustrierte Wochenschrift des Berliner Tageblatts(上記新聞の週刊付録)

 Moden Spiegel 1927/28 (モード・デザイン雑誌、約100部、裏面 Kunst Spiegel)

Haus der Garten 1928-31 (庭園・家具、約50部)

Film Zeitung 1927 (映画・写真、約10部、裏面Photo Spiegel)

  Jede Woche Musik (音楽、約20部)

Sport Spiegel (スポーツ、数部)

Technische Rundschau 1927/28(建築、約30部)

<社会>

Der Welt Spiegel 1926-31 (週刊グラフ雑誌、約150部、欠号あるが揃いはよい)

Berliner Illustrierte Zeitung 1925-31 (同上、約100部、欠号多い)

Zeit Bilder: Beilage zur Dossischen Zeitung 1925-31 (同上、約50部、欠号多い )

Muenchener Illustrierte Zeitung 1930 (同上、1部のみ)

Die Weite Welt 1925-30 (同上、3部)

<芸術・文化>

L' Illustration 1925/34/39 (総合アート雑誌、4部)

The Ladies Home Journal  1920/21 (裁縫・モード雑誌、約20部)

Funkstuende: Zeitschfift der Berliner Rundfunk Sende Stelle 1926 (放送、2部)

Iluustrierte Volksbuenen Zeitung Okt. 1927(演劇雑誌、1部のみ)

ULK 1927/28 (漫画雑誌 約30部)

Das Bayerland 1929 (自然、1部のみ)

Baukunst und Staedtebau 1930 (建築雑誌、1部のみ)

Deutsche Erde 1930 (自然、1部のみ)

Die Koralle 1930/31(自然、2部)

Bauausstellungs-Bild-Berichte 1931 (建築雑誌、1部のみ)

<アジア関係>

Sommerferien in Ostasien 1932 (広告?、1部のみ)

Mitteilungen des Deutschen Institute fuer Auslaender Aug. 1930/Maerz 1931 (2部)

Deutsch-Chinesische Nachrichten 27. Jan. 1932 (1部のみ)

Der Ferne Osten Dez. 1932 (1部のみ)

その他、広告、切り抜きなど

18  『婦人公論』2001年5月22日号「没後50周年記念特集 林芙美子 巴里の恋」、パリ時代の日記そのものは、その後今川英子編『林芙美子 巴里の恋』(中央公論新社、2001年)として刊行された。私自身は、「ワイマール期在独日本人のベルリン社会科学研究会」(『大原社会問題研究所雑誌』455号、1996年10月)において当時の文部省派遣留学生等の交流関係を調べたうえで、「ベルリン反帝グループと新明正道日記」(新明正道『ドイツ留学日記』時潮社、1997年、所収)では、宮本百合子の「大名旅行」と林芙美子の寂しい「洋行」を対比し、林芙美子の小説『巴里日記』に登場する恋人「S氏」については、海野弘説に従い坂倉準三と推定していた。坂倉も左翼反帝グループ(パリ・ガスプ)に属する建築家であったから、当たらずとも遠からずであったことになる。

19  加藤「ドイツ・スイスでの竹久夢二探訪記」(『平出修研究』第32集、2000年6月)参照。

 


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