静岡県近代史研究会第25回総会記念講演(『静岡県近大史研究』第29号、2003年10月)
ただ今ご紹介いただきました加藤です。専門は政治学で、現代史のこともいろいろ書いていますが、本来は、二〇〇人の会で一〇〇人しか登録しないような状態がなったらどうするかといった問題の方が得意です。実は私も二〇〇人ほどの全国的規模の研究会を主催しているのですが、二年ほど前に会費未納入者が多いのでどうしたかといいますと、それまで郵送システムだった会報をインターネットのEメールに切り替えました。会のホームページを立ち上げて、そのことを名簿上の会員にすべて流し、今後どうしても葉書および郵送で資料がほしい人だけは連絡してくださいと断りますと、十数人の年輩の方が希望されましたが、それ以外はすべてメーリングリストに切り替えました。それまであった代表という役職は廃止し、世話人を地域別に置いて、私は東京の世話人兼ウェブマスターとして全体を運営しています。
これはある意味で、本日の主題の二一世紀と戦後史という問題にも関わってきます。私たちは何となく、会があれば会長がいて、幹事会や理事会があって、その下に平会員があるという組織のあり方に慣れてきました。これは、二〇世紀的な組織のあり方です。さらに言うならば、二〇世紀の戦争のあり方と関連していました。アントニオ・グラムシがいった「機動戦から陣地戦へ」とは、一九世紀的な奇襲型の戦争には機動戦の政治が必要だが、二〇世紀の国民戦争の時代には市民社会の要塞も強固になるので、政党や労働組合の組織が重要だ、という意味でした。私は戦争のあり方が、二一世紀に入って大きく変わりつつあると思っています。グラムシ流にいえば「陣地戦から情報戦へ」です。
戦争のあり方が変ると、実は政治のあり方、組織のあり方、経営のあり方も変わってきます。数ヶ月前のNHKスペシャル「変革の世紀」で、二〇世紀型組織の典型であったフォード社の変化を扱っていました。フォードは、決定権限を大幅に現場の方に降ろして、経営者はコーディネートするだけという風に変わりつつある、という報告でした。つまり正確な情報は現場が持っているのだから、現場の判断をもっと尊重しようという変化です。ですから先ほどの未納会員の話も、静岡にも時代の波が押し寄せているんだなあと感じながら聞いていました。私は、社会科学研究や歴史の見方でも同じような変化が起きつつある、しかしそれに対する新しい見方は確立されていない過渡的な状況にあると思っています。
今日の話しは、「二一世紀から戦後史を考える」ということです。会報に一応のレジュメを書いておきましたので、それに沿って進めますが、私はもともと政治学者で、現代史研究は政治を理解する上での一つの材料としてはじめたものです。山本義彦さんたちと一緒に研究会をやっていた一九九〇年頃までは、私はむしろ理論の担当で、歴史学の方に政治学の理論から問題提起する役回りでした。ただこの十年ほどは、旧ソ連の崩壊、冷戦崩壊、日本でも五五年体制の崩壊という大きな歴史的変動があり、ある事情から、歴史研究の方でも発言せざるをえなくなりました。
その事情というのは、戦前東大医学部助教授だった国崎定洞という医学者が、ベルリンに留学して、帰ってくれば東大医学部で社会衛生学講座をはじめて開くことになっていたのですが、ドイツでマルクス主義を学びドイツ人女性と恋におちて、そのまま日本に帰らないで演出家千田是也と共にドイツ共産党日本語部を結成、日本の中国侵略反対と反ナチの運動に加わり、プロイセン政府に弾圧されて三二年秋モスクワに亡命、その後行方不明になってしまいました。この人のことを、学生時代に知って興味をもち、卒業後のドイツ留学時に資料を集めていたのですが、そのころは一九七〇年代で、モスクワ亡命後のことはよく分かりませんでした。
ところが一九九一年にソ連が崩壊して、国崎定洞関係の資料が旧ソ連から出てきたんです。行方不明になった後、三七年に「日本のスパイ」として銃殺されていたのですが、その粛清過程が文書資料で分かってきたところから、二〇世紀の我々が常識としていた歴史の裏には隠された数々の問題があることが分かってきて、ドイツや旧ソ連で集めた資料をもとに、一九三〇年代在外日本人のネットワークを調べてきました。
当時「洋行・外遊」できた人には著名人や芸術家が多いものですから、最近は島崎藤村の息子島崎蓊助の生涯や、芹沢光治良・林芙美子のパリ留学、画家竹久夢二のドイツ時代などに入り込んでいます。もともと「平民新聞」の挿絵画家だった竹久夢二は、三三年一月ナチスが政権を取る時にベルリンにいて、日記にナチスの批判やユダヤ人への同情を書き残しています。こういう話は大変面白いのですが、しかし社会構造史中心の歴史学では、いままでは周辺にあり、歴史のエピソード、あるいは個人的な趣味や文学の世界ということで無視され、好事家だけがやるものとされてきたわけです。ところが特に現代史においては、案外重要なのではと、思うようになってきました。
私も公式の場でオーソドックスな歴史についてお話する機会があるのですが、上手くいくときといかないときがあります。レジメの冒頭に「失敗の教訓ーー自分でも面白くない現代史講義」と書いてありますが、これは、二年ほど前に外務省と国際交流基金から頼まれて、中央アジア諸国の旧ソ連から独立して一〇年が経ちこれから本格的に日本の事を学びたいという人たちに対して行った、戦後半世紀の日本政治史についての講演記録です。昨年亡くなられた法政大学の橋本寿朗さんが「戦後日本の経済」、私が「戦後日本の政治」ということで、二人でペアで中央アジア諸国をまわりました。
この「中央アジア日本研究セミナー」では、事前に講演原稿をチェックされました。ウズベキスタン語、キルギス語、カザフスタン語に翻訳する必要があり、現地の通訳はまだ日本語がよくできないし、日本史の概念や史実について詳しくないから、日本で翻訳し現地語訳を大使館経由で送る、だから原稿は事前に出してくれ、というのです。しかも全体が三〇分、通訳の時間が一五分なので、ぴったり一五分で終わるようなきれいな戦後日本政治史を書いてくれ、と頼まれたわけです。
それで苦労して、「戦後日本の政治ムム現代日本政治を考える視角」という、大日本帝国憲法の時代と日本国憲法の時代の対比、戦後は「五五年体制」という自由民主党が一党独裁ではないが長期に過半数の議席を占める保守支配を続いたこと、これに対して社会党を中心とした野党が憲法改正に必要な三分の二の議席を自民党に許さない抵抗力を保持したこと、サンフランシスコ講和で独立しても一九六〇年には安保反対闘争があり「イデオロギー政治」と言われたが、その後の高度経済成長により成長果実を再分配する「利益政治」が広がって田中角栄内閣で頂点になること、そのシステムが冷戦崩壊後の一九九三年細川内閣誕生まで続く、という教科書的な説明を十五分に縮めて作りました。個人名は総理大臣だけにするとか、具体的事例は時間がかかるし通訳も分からなくなるのではぶきました。日本の経済成長については日米安保条約があったから成功したという説と、むしろ憲法第九条の制約による軽武装、つまり財政を軍事費よりも投資にまわして成功したという二説があるという書き方で、一応戦後史をまとめました。
しかし、これは全然受けませんでした。正確にいうと、ウズベキスタン、キルギス、カザフスタンの首都で三回講演したのですが、最初のときだけ原稿通りにやったのです。ところが、戦後日本の政治というと、私たちは当然一九四五年から今までと考えますが、講演会場には日本に関心を持っている政財界人・研究者・学生が来ているのですが、その人たちにとって「戦後日本(Postwar Japan)」とは敗戦直後の日本であって、そこからどうやって貧しい国から成長していったかが知りたいのです。ところが私の原稿は、戦後は五〇年以上ありますので「五五年体制」とか、九三年政変とかまでずっと延ばしていたんです。ましてやそれを十五分で話したわけですから、質問が出てこないんです。ぽかんとして聞いている感じです。経済史の橋本さんも同じだったのですが、後で大学関係者に聞いてみると、現地の人たちが知りたい「戦後日本」とは、一九四五年からサンフランシスコ講和までの占領期のことで、現在中央アジアの国々が抱えている課題、つまり旧ソ連が崩壊して一応独立し市場経済に移行したが、資源も物もなく、周りにはロシアと中国という大国が存在し、しかも宗教的にはイスラム教が強い国で、新しい国造りのヒントを日本から学びたいわけです。そんな要望を外務省は事前につかんでいなかったものですから、最初の日はあまり盛り上がらず、出席者、学生たちにあまり関心を持たれない。これはまずいということで、ウズベキスタン大使ムムいま拉致問題で活躍している中山恭子さんという女性大使ですがムムから、これからは原稿を離れて自由に話していいという許可を得て、二回目からは原稿をやめました。傾斜生産方式とか日本国憲法の男女平等条項などを、原稿なしでメリハリつけて話すことによって、目を輝かせて聞いたり質問してきたりの対話ができるようになりました。
失敗の教訓とは何かというと、日本の一九四五年以降を私たちは「戦後史」はと言っているわけですが、それが六〇年近くなって、含意がふくらんで、受け手のイメージを介して様々に受けとめられるものとなっていることを自覚しなければ、学問的には使えないことです。
私自身、その種の通史として、有斐閣から『日本史のエッセンス』という本を出しています。「戦後」=一九四五年以降九五年までを通史として書いていますが、経済史の高度成長論や政治史の五五年体制論のような基本的な骨組みを前提にして、今日お見えになっている荒川章二さんたちが書いた大月書店の『日本現代史』なども利用しながら、沖縄、女性、環境問題、サブカルチャー等で流れを示す、執筆者の意図としては全体像を具体的イメージで示そうとするわけです。
ところが読者の反応は、別の形で表れてくる。神戸の学校の先生方が、有斐閣の本で古代から現代まで徹底的に読み直す研究会をやっていて、去年ようやく私の書いた「戦後」まで来たのですが、このグループからの一番大きな批判は、私の叙述の末尾の一九九五年阪神大震災のところに、豊かさの象徴であった高層ビル・高速道路が倒れ「敗戦直後の焼け跡・闇市が再来した」と書いたのですが、それに対して神戸の先生方は、「焼け跡はあったが闇市はない」というのです。そして、死者の数を「五千人以上」と書いたのですが、正確には六千三百何十何人になった、という具合です。これは重版で「六千人以上」と改めました。
その時はさりげなく書いた言葉が、現地の人にとっては、自分たちの体験が「日本史」として出てくるところを一生懸命読んで、あの時焼け跡はあったけど闇市はなかった、がれきの中でも仮店舗で商売を再開した、という話になるわけです。このようなかたちで、書き手の意図と読み手の置かれている条件とが切り結ぶ問題が、現代史、戦後史という体験者が生きている時代を語る場合には、必ず出てくるわけです。
別の形で有斐閣『日本史のエッセンス』で反応があったのが、東京大学茶道部というところからです。ある日突然、長い手紙がきました。この度茶道部創立五〇周年とかの記念会をやるに当たって、先生の『日本史のエッセンス』のなかの一九六八年東京大学についての記述の部分を茶道部の機関誌に引用させてもらいたい、という話でした。私自身は六八ム六九年学園闘争は、世界史と結びついた日本の戦後史の大きな柱と思っていますが、普通の歴史書ではあまり大きく扱われていません。とくに日本の学生運動は、アメリカやヨーロッパ諸国にくらべてあまり社会的なインパクト・歴史的遺産がなく、「団塊の世代」として企業戦士になっていくものですから、普通の戦後史の本では軽く触れられる程度なわけです。
私も特に力を入れたわけではないのですが、自分自身が知っていることもあって、元原稿では「大学闘争」という当時自分自身が語っていた言葉を使って、二頁ほどそれに費やしたわけです。編集者から、「先生、これでは通じません、紛争にして下さい」と言われて、本ではやむなく「大学紛争」としたのですが、当時の東京大学では何が問題であったのかということを書いたのです。ところが、たった二頁の叙述でも、その時代に学生生活を送った人にとっては他の書物よりも詳しく、かつ正確に書かれているということらしく、東大茶道部の記念行事に当たってその二頁分を是非会報にのせ当時の記憶を取り戻したい、ということでした。これは、全く執筆の意図とはずれているわけです。私自身は、「闘争」と書きたかったところを「紛争」と書いていわば自己規制したのですが、この部分がある人々にとっては非常に意味があり、そこで「全共闘」だけでなく「七学部代表団確認書」と私の本には出てくるのですが、そのあたりが茶道部の人たちにとっては重要だったらしく、強いリアクションがあったのです。これも現代史の難しさで、古代や中世とはちがい資料・情報は山ほどあります。そこからどの史実を選択しどんな意味を付与するかで、叙述が大きくちがってくるのです。
戦後史の研究では、そのような問題は避けられません。いま大学には、リタイアしたお年寄りの方々が見えるようになっています。教師は文献でしか知らないことを、その人たちは体験・記憶として持っていて、その意味づけのために話を聞くという場面に、しばしばぶつかります。そのような時に、私たちは、自分なりに考えてきた枠組みや理論が、現実との齟齬を来しているんではないかと疑問をもつ場合が出てきます。逆にお客様向けに、相手の人にあわせて話し、関連する事実や証言を積み重ねても、それだけでは歴史にはならないという関係の中で、どのような形で現代史ないし戦後史は語りうるかという問題になります。
その際、これは私が政治学を主たるフィールドにしているからかもしれませんが、私自身は戦後史・現代史、一九四五年以降の日本については、常に現実=今のほうから振り返るという思考で進めています。当事者が生きているということもあります、資料があまりにも多く、異なる資料をとれば別の解釈が可能なことが無数にあります。当事者の記憶といっても、それぞれの体験と史観が入っていますから、支配的な見解とぶつかり合うことがしばしばです。しかしそれが、五十年・百年と経つ内に淘汰されて、ある見方が残ったりする。ではそれはどのようにして残っていくのかを見ると、実は、その時々の社会や政治のあり方に大きく規定されている。従って、今自分がこのように時期区分し仮説として説明しても、あと数十年経ったら違っているだろうと思われることは、無数にあります。これは現代史研究の宿命でしょう。
その点で便利なものとして、レジュメでは2の「歴史学の政治学ムム永井和『現代史の時期区分論とその変遷 世界史と日本史』から考える」に、インターネットのホームページのアドレスを入れて置きました(http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/~knagai/josetu/jidai.html)。永井さんの一九九九年京都大学での講義ノートです。これは大変面白いもので、まだ永井さんは活字にされていないと思いますが、是非一度見ていただきたいと思います。
これは、岩波講座で日本歴史の通史が幾度か出ていますが、戦前一九三六年の『日本歴史』全十巻、一九六二ム六四年の『日本歴史』全二一巻別巻二、一九七五ム七七年に出た『日本歴史』全二三巻別巻三、それから一九九三ム九六年に出た『日本通史』全二一巻別巻四という四つの講座を内容的に比較して、いかに日本における日本史についての像・イメージが変わってきたかを分析している「史学史」です。その中で、近現代でいいますと、世界史では普通「古代・中世・近代」という大区分で語られる世界が、日本の場合には「近世」というややこしい時代が一つ入っているのですが、それがどのように処理されているか。また「近代」がどこから始まってどのように位置づけられているか、それから「現代」という時代が立てられているか、立てられているとすればいつからどのように位置づけられているか、という観点で永井さんは見ていったわけです。
すると、いろいろな問題が見えてきます。中世・近世の問題はここでは省略しますが、一つは『日本歴史』一九六〇年代版では「近代」がペリー来航、つまり開国から始まり日清戦争・産業革命まで、それとは別に「現代」が一九〇〇年前後から一九六〇年代までとなっています。ところが七〇年代版では、「近代」が明治維新からとなりまして、開国から十数年後ろにずれる。「近代」の終わりを敗戦までとし、「現代」は占領期から六〇年代までとしています。一九九〇年代の『日本通史』では、「近代」は一八五〇代から一九四〇年代、つまりまた開国に戻り、終わりを占領期としています。「現代」はどこからかといいますと一九五〇年代からとなります。これまで一九四五年の敗戦で区切っていたものが、占領期までを「近代」で通し、サンフランシスコ講和条約で独立してからが「現代」となります。そうすると、「現代史」はいつから始まっていつまでなのか、という問題となります。
よくいわれますが、アメリカで「戦後ポスト・ワー」は、ベトナム戦争後をさして使われることがあります。フランス語で「戦後アプレ・ゲール」といえば、第一次世界大戦後のことを指していわれたわけです。それが日本には第二次世界大戦後に入ってくる。同じ言葉であっても、地域で違ってくる問題があります。「八・一五で敗戦」といっていますが、沖縄に行けば通用しないという問題が、現在の日本の国土のなかでも出てきます。そのような問題を考えていくと、歴史における時期区分とか近代・現代の区分とかも、ある特定の視角から特定の形で位置づけられているもので、一般化には慎重でなければなりません。
ごく簡単に永井さん述べていることを引いておきますと、岩波講座の時期区分がなぜ違ってくるのかという問題は、歴史を見る見方、歴史を分析する方法=史観の違いからくるといいます。遠山茂樹さんや井上清さんの書物を使いながら、永井さんは、この時期区分が「開国」「一九四五年敗戦」と置くときには、どちらかというと日本社会は外からのショック・外圧によって変わっているという考え方が強く、世界史の中に明治維新や日本国憲法を位置づけるという考えにもとづいていることになります。それに対して「自生説」「内生説」といいますが、社会のなかでの階級闘争とか資本主義発展とかというメカニズムによって決まるという考え方では、近代は明治維新からはじまるし、日本において資本主義がどのように生成・展開したかが主たる問題になるし、戦後史でいえば高度経済成長による社会変化がクローズアップされるわけです。
かつて清水慎三さんが言いだしたのですが、戦後史にも二つの見方がある。一つは占領から日米安保、日米関係を軸とする見方で、私は「占領安保史観」とよびます。もう一つは高度経済成長を軸に見ていく「経済成長史観」です。私は複眼的視角で折衷説です。
「占領安保史観」でいきますと、一九四五年から「戦後」が始まり、五一年の全面講和か片面講和かの論争を経て、五二年四月にようやく独立します。しかしまだ国際社会に復帰していないので、鳩山内閣が日ソ国交回復を行い、それが国連加盟の土台となる。しかし画期としては四五年、五二年のあとに六〇年の安保改定、国内ではまだアメリカとの同盟に意見が分かれ、国会議事堂を三〇万人が取り囲こむようなデモンストレーションがあった。
こういう話でいくと、六〇年代までは分かりやすいのですが、その後をこの視角一本でつなぐと、無理が出てくる。七二年に沖縄が返還され、佐藤栄作にノーベル平和賞が与えられた、その後は七八年に日米防衛ガイドラインが作られ、日米安保条約は継続したままで日米韓軍事体制が生まれる、その後は、九七年新日米ガイドラインという具合です。しかし、四五年、六〇年のようなクリアーなインパクトは、後ろにいけばいくほどなくなる。
「経済成長史観」の方でいけば、もちろん一九四五年はひとつの大きなポイントですが、それは農地改革・財閥解体・労働改革など、その後の経済発展の土台をつくったことが重要になります。その上で、日本経済再建のために大内兵衛・有澤広巳らが吉田茂のブレーンに加わり作られた傾斜生産方式、経済安定九原則・ドッジラインを経て、朝鮮戦争特需により五五年くらいから急速な経済成長の軌道に入る、その過程で財閥は解体したが法人資本主義という企業集団同士の結びつきが生まれ、経済企画庁発足で政府の経済計画が本格化する、等々となります。
都合がいいことに、一九五五年は、経済成長の始点であると共に、ちょうど保守合同で自由民主党が発足する年です。日本生産性本部が生まれ、企業のなかでの新しい労使関係の基盤となります。またこの頃日本住宅公団が発足し、団地という当時の人たちにとって新しい居住様式が生まれたとか、スーパーマーケットという買い物の方式が生まれた、ちゃぶ台からテーブルへと生活様式が変わった、という話しを入れていくと、今日の日本につながる実感が持てるようになります。
この場合、時期区分は、一九五五年から七三年オイルショックまでが高度経済成長期で、六四年東京オリンピックに小区分が入る。東京オリンピックで新幹線が開通し、首都高速道路が出来た、今日のモータリゼーションの時代がはじまった、となる。オリンピックの中継のところで、一九五九年の現在の天皇が結婚する頃には、人々はテレビを見るため電気屋に集まったり広場にある大きな街頭テレビをみていたが、東京オリンピックの時には、白黒だが一家に一台のテレビが入るようになった、だから高度成長は、東京オリンピックと直後の不況で前期・後期に分けることができる、と説明する。六八年には西独のGNPを追い越し西側自由世界第二の経済大国になる。それが七三年オイルショック、七四ム七五年不況でマイナス成長になり、高度成長は終焉して安定成長へと移行する。ここに焦点を定めると、その次ぎは、減量経営・輸出洪水からバブル経済への展開となります。
ソ連崩壊後の「失われた十年」は、現在の学生たちにとっては現代ですが、これを説明するためには、七三年以降をどう見るかが、ポイントになります。私は八五年のプラザ合意を持ってきて、七三年・七九年の二度のオイルショックを、日本が欧米に比して素早く乗り切り、減速しながらも安定成長に移り、ビデオレコーダーや自動車でアメリカを追い越すほどの輸出大国になった、一人当たりGDPもアメリカ以上になったという話を入れます。
八五年のプラザ合意で、日本の円やドイツのマルクの価値を高くし、アメリカのドルを切り下げることによって新しい国際秩序ができた、例えばお年寄りがもらう年金額は、日本円では変わらなかったが、円の価値が二倍になることで国際統計上の位置が変わり、福祉国家の典型といわれたイギリスの年金より高くなったと話すと、円高効果・国際化の意味を学生たちも了解できます。その八五年プラザ合意の結果、土地と株価のバブル経済が踊り、そこに外圧として東欧革命・冷戦崩壊・ソ連解体という国際環境の変化が入って、九一ム九二年から「失われた十年」に入っていきます。こういうふうに説明していけば、「経済成長史論」として、現在までつながるわけです。
先ほどの敗戦、講和、安保、ガイドライン、沖縄返還、新ガイドラインという「占領安保史観」と、今説明した「経済成長史観」とは、問題設定も時期区分もずれているわけです。
そこで、「戦後史」全体としては、折衷史観といいますか、一九六〇年までは「占領・安保」が主要な問題になった「イデオロギー政治」、その後は「経済成長」の果実の分配が問題になる「利益政治」と説明して、いわば時期区分の指標そのものを、ずらしていくわけです。前者「占領安保史観」「イデオロギー政治」では、保守か革新か、日本国憲法と自衛隊・日米安保条約、東西冷戦構造の日本への反映が問題になりますが、後者「経済成長史観」「利益再分配政治」では、日米同盟は所与の前提となって、高度経済成長の評価そのものについての長い論争点、つまり国家主導型の成長、官僚の行政指導の成功か、市場の成功、つまり民間での企業集団・技術革新・日本的経営の成功かという問題、さらには欧米なら成長利益の再分配が福祉国家にまわったのに、日本は投資が投資をよぶキャッチアップ型企業国家で、福祉は置き去りにされて会社中心の企業社会になった、という話になります。
例えばウズベキスタンの人々に話す時には、日本の経済システムは、大蔵・通産を中心にした官僚たちが舵取りして、政府の財政、庶民から集めた郵便貯金を財政投融資というかたちで投資にまわし成功したんだという話として展開すると、政府はしっかりした経済政策をもって、官僚は市場の舵取りをしなくちゃいけない、という教訓になる。
ところが、こうした「日本株式会社」風のケインズ主義的経済成長物語にたいしては、いわゆる新自由主義の時代に入ると、異なる見方がでてきます。香西泰さんなどは昔からいっていたのですが、日本経済の成功は民間市場と経営努力のたまもので、政府は時に政策誘導である程度の役割は果たしたが、全体としてみれば、むしろ過保護で規制が強すぎ、市場が本来もっていた活力を抑えていたんだ、という議論が出てくる。経済史では岡崎哲史さんや野口悠紀雄さんの「一九四〇年体制論」です。
この場合は、例えば企業間の株式持ち合いとか、終身雇用・年功賃金・企業内組合の日本的経営とか、民間企業の自助努力のなかでつくられてきた習慣や、トヨタのカンバン方式など、市場メカニズムを中心として日本経済は成功してきた、という話のほうがもてはやされる。ウズベキスタンの人たちには、自由市場と起業家精神が大切だ、という話になる。
つまり、高度経済成長の原動力と意義についても、歴史評価は変わってくる。それにつれて「イデオロギー政治」の焦点であった日本国憲法第九条と日米安保の意味づけも変わる。古典的な「占領安保史観」でいけば、そもそも日本の高度経済成長は、朝鮮戦争特需で成長軌道に乗り、ベトナム戦争期にアメリカを肩代わりしてアジア市場を拡大した対米従属型・戦争寄生型成長になる。政治でいえば、吉田茂から出発して、岸内閣・佐藤内閣・福田内閣・中曽根内閣の流れを重視する。
ところが池田内閣・三木内閣・宮沢内閣といった流れには、憲法九条を楯に日米安保も「軍事条約」というより「経済同盟」と割り切って、戦前のような軍需産業に依らない軽武装・高投資型成長に読みかえる見方もある。皆さんも日本経済の成功の秘密はどっちだということになると、おそらく意見が分かれるでしょう。人によっても違ってくるし、実はその時々の日本経済の課題によってどちらが強調されるかが違ってきます。
なによりも、アメリカ政府が日本経済を見るときに、どちらを中心にして見ているかによって違います。昔は「日本株式会社」といって官僚主導型の閉鎖的市場を批判し、貿易・資本の自由化が進んでいくと「非関税障壁」、つまり日本市場の商習慣の問題だといいだした歴史がある。ところが新自由主義が強まり、グローバル化が進むと、日本の成功は市場の成功だった、しかしまだ「グローバル・スタンダード」までいってないからと規制緩和だ、構造改革が必要だ、日本的経営は終わりだ、となる。それで民間活力があり企業の創造力があった時代というということで、「プロジェクトX」の話になるわけです。
そうすると時期区分の問題は、とりわけ戦後史・近現代史を見ていく場合には、その時々、まさに今という過去を振り返る時点がどのような時代であるのか、それを振り返る人がどういう人でどこに焦点を合わせているのかということによって、随分違って見えてくるのです。
実は西洋史、世界史の世界でも、同じ問題はあります。もともと世界史の支配的考え方は、「古代・中世・近代」であり、その先にcontemporary historyやtoday's historyはなかったわけです。ところが二〇世紀に大学が世界中にできて、歴史学でメシが食える人がいっぱいできてきて、職業としての歴史学が生まれ、学会が生まれ、そして通説が作られ、学校教科書でも使われるようになった。学校という制度は、せいぜい二百年くらいの産物ですから、極めて近代的なものです。そこに歴史の商品価値が生まれ、子供たち・次世代に自分たちの記憶をどのような形で残していくのか、記録をどのような形で保存していくのかが問題となり、学としての歴史学が作られたわけです。
西洋史の場合には。第一次世界大戦で世界は変わったというのが、第二次世界大戦後の合意でした。ヨーロッパの古い大学だとmodern historyのままですが、一九四五年以降になって、どうも一四年の第一次世界大戦ないし一七年のロシア革命あたりから大きな変化がおこったようだということでcontemporary historyをいう人も出てきた。もっと新しいところを扱いたい、例えばヒトラーとかスターリンとか社会主義の問題などを扱いたい人は、twentieth centuryともいいます。「古代・中世・近代」とくると、どうしても「近代 modernityとは何か」という問題が出てきます。少しマルクス主義をかじった人が資本主義対社会主義、社会構成体とかいうと、すぐに論争の種になります。それに対して二〇世紀というのは、キリスト教世界の人にとっては、中立的な概念、いわば歴史の容器になります。
日本史では戦後史という概念が生きていますが、最近は昭和史も使われるようです。前近代では元号による時代設定がよく使われますが、私は天皇の代替わりによる明治史、大正史、昭和史、平成史という切り取り方は、二〇世紀よりも政治性があると思うので使いません。まだ二一世紀に入ったばかりですので、二〇世紀という中立的な器のなかで現代史をみるという場合には、様々な見方が全部入って、その中で切磋琢磨が行われ、ある歴史観なり歴史像が残っていくという可能性を秘めていると思います。その意味で未完です。
ところが、器を近代史でも現代史でもなく二〇世紀史にしても、日本の戦後史の場合と同じように、いろいろな問題がおこってきます。二一世紀から現代史を見るということは、二〇世紀とはどんな時代であったのかを見る問題になります。二〇世紀全体のイメージ、一〇〇年をどのように見るかによって、そのなかのある時代、世界の中の日本の見方が違ってきます。
例えば「戦争と革命の時代」という見方があります。E・ホブズボームの『二〇世紀の歴史』で扱われているし、いろいろな書物で使われる、第一次世界大戦、第二次世界大戦、東西冷戦時代、ベトナム戦争、湾岸戦争の流れ、そしてその過程でのロシア革命、東欧社会主義化、中国革命、キューバ革命といった歴史の見方です。しかし、この見方が有力だったのは一九九〇年頃までです。一九一七年のロシア革命によって生まれた新しい世界が、やがては資本主義を駆逐して世界全体が社会主義になるだろうという希望があったからこそ、戦争と革命の時代、しかも戦争のなかから革命が生まれる、帝国主義戦争を内乱へというレーニンの考えたような歴史の展望があった時代ですが、これは八九年の東欧革命、九一年のソ連崩壊により、崩れてしまいました。
それに代わって出てきたのは、例えば「科学技術革命の時代」、たしかに二〇世紀は驚くべき科学技術発展・生産力拡大の時代になるんですが、それにつきまとうのは人間と自然との関係、そのままいけば生態系が完全に崩れてしまうというもので、必ずしも明るいイメージだけにはならない。ちょっとひねって、「女性の時代」とか「大衆民主主義の時代」という括り方もあるのですが、地球全体を見ると家父長制支配が続いていたり、独裁の流れがあったりして、実感にフィットしない。要するに「二〇世紀の歴史」という中立的な器にまで大きくしてしまうと、こんどは何でも入ってきて、入ってきたものをどう整理するかということで、戦後史のところでいったような問題が出てくることになります。
そこで、何故そのような様々な議論・問題が出てくるのかを考えてみましょう。なぜある時期まで二〇世紀は戦争と革命の時代と考えられたんだろうか、ホブズボームはなぜ一九一四年から九一年までを「短い二〇世紀」と特徴づけたのだろうか、また「女性の世紀」とする人々は、そこにどんな意味を込めているのか、と見ていくことによって、もう少し違った位相から、二〇世紀、日本であれば戦後史をみることができるようになる。それがレジュメの3・4・5に書いたことです。
これは読んだ方も多いと思いますが、池田香代子さんとダグラス・ラミスさんの『世界がもし一〇〇人の村だったら』というベストセラーがあります。いま地球がどうなっているかを見ようとする場合に、非常に便利なものです。昨年九・一一以来、講義や講演のイントロで使うようにしているのですが、もしも六三億人住んでいる地球が一〇〇人の地球村(グローバル・ヴィレジ)だったらと圧縮して、「六一人がアジア人、一三人がアフリカ人、一三人が南北アメリカ人」「一七人が中国語、九人が英語、八人がヒンディ・ウルドウ語を話し、六人がスペイン語を話し」と日本語を話す人はほとんどいない話が出てきて、「一〇〇人のうち六人が村の五九パーセントの富を持っていて、その六人はすべてアメリカ人」で、最下層の「二〇人は世界の富の二パーセントしか持っていない」という話です。そしてこれが一番学生にはきくのですが、「一〇〇人の地球村のなかで、大学に行っているのはたった一人だけ」、あなたもその一人ですよ、という話をして、「コンピュータを持っているのは二人だけ、一四人は文字が読めません」としんみりとした話になる。
正確にいうと、このオリジナルは、「一〇〇人の地球村」という電子メール版で、この後にいろいろ書いていて、「あなたは屋根のついた家のなかにいられるから幸せだよ」と呼びかけます。それらの分析は、『歴史学研究』二〇〇二年一一月号の特集「対テロ戦争と歴史認識」に書きましたが(加藤哲郎「現代日本社会の『平和』」)、こういう形で地球を一〇〇人の村に縮めて、何人はどう、何人はどうと語ることによって、地球という物理的空間の有り様を身近に示すことに成功しています。この本は一二〇万部売れて、中国語、韓国語、フランス語訳が出ています。
これを真似して、吉田浩さんが、『日本村一〇〇人の仲間たち』という、今の日本を一〇〇人の村にしたらどうなるのか、というあやかり版を出しましたが、これも三〇万部売れました。これでいくと、一億三千万人の日本が一〇〇人の村だとすると、中国は九八九人、アメリカは二一三人の村となります。その一〇〇人の村に子供が一四人、働き盛りが六八人、六五歳以上のお年寄りが一八人、男は七八歳まで、女は八五歳まで生きる世界一の長寿村と出てきます。サラリーマンは一〇〇人のうち三五人で、年収一〇〇〇万円以上はたった二人だけという話です。これが面白いのは、最後に「日本村の掟」として、第一に、物事ははっきりいうな、第二に、他人の目を気にしろ、という文化的な特徴を挙げている。ステレオタイプなんですが、他の村とは違う日本村の特徴ということになります。これも一億三千万人を一〇〇人に圧縮して見ることによって、何となく日本村が分かったような気になる。便利な手法です。
ところが、「一〇〇人の地球村」型の発想には、決定的な欠落があります。時間の軸、歴史というものが完全に欠落しているのです。日本村で言えば、一〇〇年前だったら日本村は人生五〇年といわれていました。ましてや一〇〇年後にこの村がこのままであるはずはないのです。そのような歴史的パースペクティブが、「一〇〇人の地球村」にはないのです。つまり「一〇〇年の地球村」「一〇〇年の日本村」という発想で時間を入れていくと、人類が現れたのは四六億年前ですか、そのなかで日本列島がどのように変わり、どう変わろうとしているのかを考える必要があります。
もしも現在日本列島に一〇〇人いるとすれば、縄文時代には一人もいません、限りなくゼロに近いのです。奈良時代五人、江戸時代一〇人、明治時代に三〇人、その後急速に増えて二〇世紀の最後に一〇〇人になったという大きな図式になります。ついでに地球村の方も見ていくと、紀元前一万年は一〇〇万人、紀元がはじまったころで一億七千万人、二〇世紀のはじまりの一九〇〇年でも一五億人だったものが現在では六〇億人、一〇〇年で四倍になっています。
ここから戦後史に近づくためには、一九五〇年、二〇〇〇年、二〇五〇年推計という人口統計を使います。例えば一九五〇年の日本は、人口八三八〇万人で世界で五番目の国です。地球全体でまだ二五億人しかいなかった。ところが二〇〇〇年になりますと、日本の人口は一億二六〇〇万人に増えても、順位は九位に落ちます。日本以上にインドネシア、ブラジル、パキスタン、バングラデッシュなどが急速に増えたんです。
一九五〇年に八三八〇万人と書いているけど、その五年前の一九四五年に戦争が終わった時に、「一億総懺悔」といわれたのは何故でしょうか。この時「総懺悔」すべきとされた人たちのなかには、ようやく植民地から解放された台湾や朝鮮の人たちも入っていたのです。
二〇〇〇年から二〇五〇年と五〇年先を推計で見てみると、地球全体では九一億人になります。現在の一・五倍です。インド一六億人、中国一五億人、アメリカはまだ移民を受け入れて三・四億人。日本はどうかというと、ビッグテンから消えてしまい、一六位で一億人、かつての中国や朝鮮の人々を植民地としていた時期と同じになります。日本の人口が減るということは、どこかで変化があるわけです。それが二〇〇四年です。まもなくマイナスに転じると予測されています。
人口統計をさらに細かく見ていくと、大きな問題がいっぱい出てきます。いわゆる少子高齢化問題になります。例えば二〇五〇年の人口一億人になった時、一体一〇〇人の日本村に子供がどのくらいいるかというと、一〇〇人のうち一〇人しかいないんです。六五歳以上が三六人です。五四人の労働人口で子供と老人四六人を支えなくてはいけない社会になります。
人口学でよくいいますが、明治から昭和の初期、「人生五〇年」といわれた一九四五年までの日本社会の人口構造は、だいたいピラミッド型、底辺のところで子供がたくさん生まれるけれども、生き延びていく者は少ない。それが戦後の高度経済成長、医療技術の発達によって、釣り鐘型になります。乳幼児の死亡が少なくて、だいたい五〇歳くらいまではほとんどの人が生きて、それから少しずつ亡くなられる方がみえてくるけど、全体としては八〇歳くらいまで生きていくような釣り鐘型の社会になったわけです。
ところが、これからの二一世紀型日本社会は、人類史上今まで経験したことのない新しい社会の型になります。つぼ型とよぶのですが、生まれてくる子は少ない、そして十数歳から五〇歳くらいまでがつぼのようにふくらんでいる。その先もまたずん胴で平均八〇何歳まで生きているような社会で、二一世紀に日本社会が経験しようとしているのは、実は、人類が未だに経験したことのない、全く新しい社会です。それにどう国家・政府が対応していくかが、当然問われてくる。
ただし、新しい課題に対処の仕方がないのかと言うと、そんなことはありません。少子高齢化で労働人口が減るという問題に、ヨーロッパ諸国では、高度成長期に外国人移民を入れる形で対応してきてきました。女性が働くことによって子供の数が減るという問題にしても、フランスや北欧諸国では、政府が対応してきました。
日本の戦後史は、専らアメリカとの関係でつくられ、高度成長時代は欧米に追いつき追いこせといってきたけれども、二一世紀が少子高齢化のつぼ型社会になるのであれば、例えば北欧スウェーデンの歴史が、日本史にとっても重要になるのです。
スウェーデンでは、二〇世紀後半に一時子供の数が減って、バイリンガル教育まで保障して外国人を受け入れても追いつかず人口が減った時に、行き届いた保育所、二年間の有給出産休暇、一二歳までの育児休暇など、女性が働き続けることの可能な手厚い社会的保護を与え、人口増に転じてきました。政治にも女性にどんどん出てもらうというということで、当選した女性政治家には代理人制度、出産・育児で忙しいときには議員が指名した代理人が議員と同じ権利で発言・投票できるといった制度を作ってきました。
そのような努力が、地球社会、地球村の別のところで行われているのに、大いに学ばなければなりません。二〇世紀のように、まずはアメリカ、せいぜいイギリス、フランス、ドイツ、イタリアぐらいしか視野に入れない歴史では、役にたたないのです。
しかし、まだ二〇世紀は続いているという見方もあります。「長い二〇世紀」などといいますが、「戦争と革命の世紀」の延長上で、九・一一テロをきっかけに、ブッシュが「テロに対する戦争」を続けている。このように見た場合には、二〇世紀の学び方も違ってきます。国際政治学などには、二〇世紀を「アメリカの世紀」とする見方もあります。その際には、戦争のあり方そのものが二〇世紀の中で変わってきたことに、注目する必要があります。
現代の戦争、湾岸戦争以降の戦争を、冒頭で述べたように、私は情報戦と位置づけています。要するに戦争そのものが変わった、軍と軍、兵隊と兵隊が剣と鉄砲でぶつかり合い殺し合う一九世紀までの牧歌的戦争は、第一次世界大戦で、国民戦・総力戦に変わった。それまでの戦争は、グラムシ流にいえば、機動戦です。いわば軍隊や騎兵で奇襲する戦争です。しかし第一次大戦が国家対国家の国民総力戦になることで、塹壕戦・陣地戦に変わる。例えば食糧や石油がどのように補給できるかとか、国民がどう協力するかが、重要になりました。歴史学では国民戦とか総力戦といわれますが、グラムシ流にいえば陣地戦です。どれだけ強固な陣地を作るかが、戦争の帰趨を左右する時代ということです。この陣地戦型の戦争は、第二次世界大戦からベトナム戦争あたりまで続きます。
しかし、ベトナム戦争でアメリカがあれだけ兵力を送り空爆をしても、結局はベトナムを倒すことはできなかった。それでアメリカでは戦後とはベトナム戦争後という意味になりますが、それまでに、戦争に対する国民の支持・世論、兵士や民間防衛の志気が重要になってきました。アメリカ軍は、武器弾薬・正規軍の数では圧倒的だったのですが、国内に反戦運動・徴兵拒否をかかえ、わざわざアジアに出かけて膨大な犠牲者を出すことを、国民に弁明しなければなりませんでした。それに対してベトナムは、国土を守る志気と団結で、アメリカ軍を圧倒しました。しかも実際の戦争犠牲者は、核兵器こそヒロシマ以降使われませんでしたが、都市絨毯爆撃やナパーム弾・枯れ葉剤まで使われて、兵士の数より民間の人びと、女性やこどもが圧倒的になりました。
そこで、国際組織や国際法が飛躍的に発展したのが、二〇世紀です。侵略戦争はいけない、宣戦布告無しの奇襲はいけない、捕虜は人道的に扱わなければならない、毒ガスや化学兵器は使用してはならない等々、戦争にもルールが生まれました。国民や議会多数の支持を得て戦争を始めても、国際的には指導者の戦争責任が、個人として裁かれ罰せられる、戦争で自国の兵士を無益に死なせてはならないという、一九世紀の戦争観からは考えられない戦争観が生まれました。そのような段階での戦争が、情報戦です。
戦争をしても自国兵士を殺さないで勝てというのが、今ブッシュ大統領に課せられている至上命令です。それに対する解答が、衛星情報と電子機器を使ってオサマ・ビンラディンやサダム・フセインだけを狙う、そのためにはテレビ報道など情報操作・情報統制をも辞さない、国際世論に対しても国連決議とか「正義の戦争」で納得させ、多国籍軍とか同盟軍を募って協力してもらう戦争になってきているのです。
こうした情報戦の時代には、過去の戦争や日本社会への見方も、違ってきます。例えば一九四五年以降の静岡県で、戦争と平和をめぐる情報戦がどのように展開してきたのかが、重要な研究課題になります。さきほど静岡新報とか地元新聞の記事の展覧会について案内がありましたが、私は非常に興味があります。政府と民衆のあいだの情報の伝わり方が重要なのです。
今、国際的には、ブッシュのアメリカが単独行動主義・先制攻撃主義ということで批判されています。欧米ではアントニオ・ネグリ=マイケル・ハートの『帝国』=エンパイアーという本がベストセラーになっています。まだ翻訳は出ていませんが、最近東大の藤原帰一さんが『デモクラシーの帝国』という岩波新書を出されましたから、是非ご参照下さい。これは、ホブソンやレーニンが「帝国主義」とよんだ時代とも、二〇世紀後半に「超大国」とか「覇権」とかいっていた国際関係のあり方とも違った、新しい世界が生まれている、かつてのローマ帝国に匹敵するような新しい世界秩序が、グローバリゼーションのなかで生まれてきたという見方です。
このグローバリゼーションという視角から、一九四五年以降の日本や静岡県を見直した場合、おそらくいままでの静岡県の地方史・市町村史などで研究されてきたことも、違った風に見えてくるでしょう。たとえば浜松の楽器やオートバイはどう世界に流れたか、清水の港を通じて世界とどう結びつき、それは日本の食卓をどう変えたかも、興味深い問題です。
地域のお祭りやサブカルチャーは、必ず情報によって媒介されている。その情報も、地球のどこから発信されたものなのかが問題になる。戦後の日本は、サザエさんによっても、プロレスによっても動かされ、ジャズやロックによっても動かされてきたという問題との関連で、ローカルな歴史も見ていくことができる。そうすると、静岡の音楽と沖縄の音楽の違いといったものが、歴史の対象としても出てくるのです。
最後に三つだけ言って、終わりにします。岩波書店の『思想』一九九九年一月号の「思想の言葉ムム短い二〇世紀の脱神話化」を資料として入れておきました。実は、今日お話したかったことは、この短文の中で述べたことで、基本的に尽くされています。
一つは、歴史学が対象とする時間とか空間とは何かという問題です。前近代の人びとがなじんでいるのは、太陽や月の動きにあわせた自然の時間で、時計の針が入ってきて誰でも腕時計で時間を気にするようになった物理的時間は、二〇世紀的な現象です。ところがそのような物理的時間を超え、または物理的時間のなかにある一つのまとまりとして、社会的時間が設定されるようになりました。それが歴史学の扱う時間です。時には政治的な時間、例えば元号を持ち出して、自然的時間とは異なる物理的時間を社会的に再編成するのが歴史です。
同じことは、空間についても行われています。日本で「あなたにとって外国とはどこですか」と聞くと、これはNHKの調査がありますが、七〇パーセントがアメリカの白人という結果が出ています。次いでヨーロッパ諸国が出てきて、アジアの人が国内にいてもそれを外国人とは認めたがらない、不思議な二〇世紀的な日本人の感覚があるのです。それは、地球という物理的空間、眼に見え心に思い浮かべる自然的生活空間の外に、政治的な空間、あるいは社会的な空間があって、ある社会的な空間に社会的・政治的な意味づけをして「世界史・日本史」と語っているのです。その社会性は、何がその社会における重要な事柄であるのかを、だれがどう切り取るかで決まってくるのです。これが一点です。
二つ目は、その切り取り方です。何が正気で何が狂気か、何が病気で何が健康なのか、さらには何が合理的で何が非合理なのかという線引きは、これ自身が歴史的に変化します。視角の置き方によっても、ずいぶん違ってきます。
北朝鮮に拉致された横田めぐみさんは、予防院という精神病院に入れられたそうですが、それを日本の医学が扱っている意味での病気になったと考えるのは、大きな間違いでしょう。そのヒントは、ソルジェニツィンの『収容者列島』『ガン病棟』の中に、旧ソ連における歴史的事実として記されています。
しかし人は、時に狂気に満ちた人を正常と見なしたり、あるいは逆のケースもあるのです。あのヒトラーは選挙で選ばれたのです。天皇はみんなが崇拝していたわけです。そして、奇妙なことに、二〇世紀の前半に西洋の近代合理主義から見れば狂気にみえたヒトラーが支配した国、天皇が支配した国が、二〇世紀の後半には、なぜかもっとも合理的・効率的に経済発展を遂げる国になった。本当に一九四五年で狂気から正気に簡単に切り替わったのだろうか、という問題です。
そうすると、合理的な経済発展の過程に非合理的なものがどのように入り込んでいたのかという視点が当然に必要になる。ですから、この病気・健康、正気・狂気、合理・非合理といった線引きを、モーレツに働くサラリーマンと過労死、老人や障害者、沖縄やアイヌに眼を広げて、我々が今の時点でどのように考えるかが、二番目です
三つ目、最後になりますが、このように見ていきますと、実は二〇世紀史も戦後史も、ホブズボームが試論的に書いた本はありますが、ほとんど研究されていないといっていいと思います。
レジュメの裏側に、一九二二年九月に作られた日本共産党の英文綱領を入れておきました。日本共産党は一九二二年七月一五日にできたことになっていて、二二年の綱領草案はブハーリン等が作ったが天皇制に反対した先駆的綱領だ、とされてきました。この観点からの歴史も数多く書かれました。しかしそれは、一九三〇年頃に作られたフィクションであることが、旧ソ連崩壊後にモスクワの史料館を調べて分かりました。それがこの英語の二二年九月綱領です。創立時の党委員長は堺利彦ということになっていましたが、一番下で署名している書記長General Secretary Aoki Kumekitiとは、荒畑寒村です。もう一人の署名者Sakatani Goroが堺利彦で、国際書記International Secretaryだったわけです。書かれたのは一九二二年九月で、公開された旧ソ連の文書館には、今まで想像もできなかった、こうした日本からの報告書・資料が、いっぱいあるのです。
そのように見ていきますと、二十世紀に常識と思われていた物語が、実は史実ともかけ離れていることが、往々にしてあります。そして、そのような大きな物語の積み重ねの上に作られてきた現代史は、いったい一九四五年から始まるのか、五二年からなのか、近代は開国からなのか、明治維新からかなどという問題も、二〇世紀の意味が違ってくると、歴史的意味が違ってくる。
その意味では、少なくとも二つの視角、複眼的見方が必要です。鳥の眼と虫の眼と書いておきましたけど、鳥の眼で見る鳥瞰図、古代・中世・近代・現代という大きな話は、実は虫の眼による小さくローカルな研究を積み重ね、それを大雑把にきれいにまとめ上げたものです。そのまとめ方は、独占資本主義は何時から始まるとか、農村の寄生地主制をめぐる講座派・労農派の論争もありましたが、そのような議論の土台になる史実そのもの、虫の眼の世界が、実はまだまだ掘り起こされていない、知られていないことが無数にある。
ましてや二〇世紀は、文書資料も映像・音声の記録・証言も、無数にあるわけです。ある村の文書、ある職場の状況から一般化できないのは、当然のことです。そのなかでどうして戦後史が可能になるのか。鳥の眼で大雑把なおおまかな構図を作って、それを虫の眼で補っていくかたちが、どうしても必要になる、いわば仮説の設定です。静岡の地域史も、近く清水市と合併するのなら、清水市の資料をしっかり保存しておかないと、後世に残るのは、今の静岡市中心の歴史になりかねない。
このように鳥の眼と虫の眼の組み合わせから、戦後日本史や二〇世紀世界史を考える場合には、二一世紀の方からも見ていく必要がある。この点について、私はこの夏、庶民の戦争の記憶、戦争体験を、インターネットの世界で探りデータベースを作りました。びっくりしたのですが、膨大な戦争体験記・手記が、おじいちゃんの戦場日記とか、孫に伝える戦争の記憶とか、その種のものが、日本語でずいぶん入っている。昔の庶民の自分史には、近親者・関係者に配る自費出版が多かったのですが、今は、自分の歴史を子供や孫たちに残しておきたいという人は、無料で出来るインターネットの世界に、移行しているようです。ウェブ世界にデジタル・データとして保存していく動きが、意識的・系統的に日本中で行われるようになれば、二一世紀の現代史研究の条件は、大きく変わるだろうと思います。また、そうなればと願っています。 (了}