『思想』1999年1月号「思想の言葉」

 

短い二〇世紀の脱神話化 

 

加藤 哲郎

 


 太陽と月の動きに合わせた自然的時間、時計の針で均質に刻まれる物理的時間のほかに、社会的時間というべきものがあるとすれば、二一世紀は、もう始まっているのかもしれない。

 一九一四年の第一次世界戦争勃発から九一年ソ連崩壊までを「短い二〇世紀、極端の時代」と早々と総括し、描きだしてみせたのは、ロシア革命の年に生まれた歴史学者エリック・ホブズボームであった。彼が三冊の大部の著作(革命の時代、資本の時代、帝国の時代)で描いた「長い一九世紀」と比すると、「短い二〇世紀」は、二次の世界戦争を体験した「破局の時代」と、その後の東西冷戦が経済発展競争となった「黄金の時代」で構成される。しかしやがて「地すべり」がおこり、八九年東欧革命・冷戦終焉、九一年ソ連解体でサイクルを終えた、というのだ(邦訳『二〇世紀の歴史』上下、三省堂、一九九六年)。

 その著書の冒頭に掲げられた、アイザー・バーリン以下一二人のヨーロッパ知識人・芸術家の二〇世紀短評は、一九九二年に採られたものではあるが、辛辣かつグルーミーであり、物理的時間でも目前に迫った二一世紀の不透明性・不安定性とオーバーラップする。曰く「西欧の歴史におけるもっともおそろしい世紀」「虐殺と戦争の世紀」「人類史上最も暴力的な世紀」等々。科学技術進歩や女性の歴史的台頭から希望を語るさいにも、「人類がこれまで抱いた最高の希望を打ち出し、同時に幻想も理想もすべて打ち砕いた」(音楽家ユーディ・メニューヒン)と留保が付される。

 たしかに二つの世界戦争に冷戦を加えた暴力装置の増殖と人為的行使、地球を限りなく一つに近づけた科学技術と経済市場の発展は、同じコインの表裏であった。ホロコーストとヒロシマ──二〇世紀のなかでドイツと日本を特異なものとした二つの「極端な」体験は、それが「正常」の延長上での「極端」であったがゆえに、必ずしも「異常」ないし「非合理」と割り切れないものがある。事実、百年の長さで見ると、「破局の時代」に「異常な病理」を体験した二つの国が「黄金の時代」の「正常な」経済発展の優等生となった。そこに例外や断絶だけをみるのは無理があるから、一方に「ファシズムの近代化効果」や「一九四〇年体制」の議論が生まれ、他方でディープ・エコロジーの思想も生じた。二〇世紀の枠内で対立物と映っていたものが、人類史の尺度で測ると双生児にも見えてくる。

 だが、二〇世紀の実相は、まだ総括できるほどには、明確ではないのではないか。むしろ、ようやく冷静に振り返ることが可能な、とば口についたばかりではなかろうか?

 筆者はいま、ベルリンに滞在している。まもなく首都に復帰するこの街では、二一世紀都市への実験が様々に行われている。「ベルリンの壁」崩壊から十年近く、その物理的痕跡を見いだすことは難しい。しかし社会的な影はいたるところに見られる(「ベルリン便り」参照)。

 ホロコーストが非道な国家犯罪と認められたのは比較的早かったが、その全体像が明らかになったのは、実はその記憶が風化した「壁」の崩壊後、旧東独史料の収集・公開によってであった。ヒロシマの背後に日本の加害者責任をも併せもつ視点を常識とするには、戦後生まれ世代が過半を占めるまでの歳月を要した。ホロコーストと併行したスターリン粛清にいたっては、「短い二〇世紀」が終わってようやく史資料が現れてきたばかりだ。おまけに二〇世紀には、その「極端さ」ゆえに、様々な神話や伝説がつきまとってきた。神話や伝説の影に隠されていた史実を再現するのは、そう容易なことではない。

 この間モスクワやベルリンで、一九二〇・三〇年代の記録を収集してきた。主として在外日本人に関係する外国語資料だが、多くの日本語資料も世界の公文書館で閲覧できる。そこでは正常と異常が併存し、合理主義の極に非合理があったように、民衆の日常生活のなかに人種差別があり、戦争願望があり、指導者崇拝が生まれた。

 ホロコーストの端緒は、ベルリンでは三三年一月ヒトラー政権直後に、はじめは「正常な」日常性のなかで始まる。当地で手に入れた最新の研究は、それを淡々と日誌にする。二月一七日、ナチ突撃隊の一団がたまたま試験中の国立美術学校に乱入し、何人かのユダヤ人教授を追いだし、教授を守ろうとした学生たちを殴打した。その「突発的」出来事が四月一三日にはベルリン大学に及び、ドイツ学生団が大学からの「非ドイツ的精神」追放を決議し、ユダヤ人教授の講義ボイコットに入る(W.Gruner,Judenverfolgung in Berlin 1933-45,Edition Hentrich,1996)。コブレンツ連邦文書館の独日協会関係資料では、まずドイツ側のユダヤ人が役員からはずされ、やがて事務文書の末尾に「ハイル・ヒトラー」と書かれるようになる。それは「敬具」にあたる当時のナチスの定型コミュニケーション様式で、「非アーリア」日本人もそうした雰囲気になじんでゆく。

  二〇世紀の日本にも、様々な神話があった。たとえばモスクワのロシア現代史史料保存研究センターでみつけた一通の英文文書。一九二二年九月の日付があり、大きな朱印が押され、荒畑寒村・堺利彦が署名した、日本共産党の創立綱領だった。二〇世紀に信じられていたところでは、この頃モスクワでは天皇制廃止をうたった綱領草案がつくられ、創立期日本共産党はそれをめぐって紛糾し、権力に弾圧され、『獄中十八年』の英雄が生まれたはずだった。だがこの綱領には、君主制についての記述はなかった。そればかりか翌二三年以後の日本からの報告書類にも、普通選挙に積極的に加わるべきか否かという議論しかでてこない。日本の共産党が天皇制をまともにとりあげるのは、どうやら「二七年テーゼ」以降のようである(加藤「一九二二年九月の日本共産党綱領」『大原社会問題研究所雑誌』一九九八年一二月号以下)。

 この百年で生まれた歴史のねじれを解きほぐすには、人類史のタイム・スパンでのマクロな構想力と、一つ一つの出来事のミクロな検証の、双方が必要とされる。鳥の眼と虫の眼を併せもち、鳥瞰図と虫瞰図を一緒に作らなければならない。そして、二〇世紀の脱神話化とは、鳥と虫の間に人間の眼をおき、日常性のなかに併存した正常と異常、合理と非合理の境界線を引き直す作業にほかならない。叙事詩や英雄伝が書かれるのは、その後でも遅くはない。社会的時間は、類としての人間が定め、刻みつづけるものであるから。


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