『情況』2006年6月号掲載(本来は、『党創立記念日』という神話」加藤哲郎・伊藤晃・井上學編著『社会運動の昭和史――語られざる深層』白順社、二〇〇六年七月、の未収録部分、詳しくは同書を参照)

 

国家権力と情報戦――「党創立記念日」の神話学  

 

 

加藤哲郎

 

 

 本号は、国家論特集とのことである。ちょうど他にも古典古代から現代にいたる国家論の変遷を「国家論のルネサンス・その後」という観点で整理する仕事があり、一応まとめあげたのだが(「グローバリゼーションと国民国家」『社会理論研究』第七号、近刊)、本誌には、敢えて別の主題で執筆した原稿を寄せることにした。

 二一世紀初頭日本の国家論情況をトレースしてみると、一方で、かつて筆者も本誌で論じたアントニオ・ネグリ=マイケル・ハートの『帝国』(以文社)や『マグニチュード』上下(NHKブックス)が紹介され(加藤「マルチチュードは国境を越えるか」二〇〇三年六月号)、萱野稔人『国家とは何か』(以文社)のような気鋭の力作、佐藤優『国家の罠』(新潮社)、『国家の崩壊』(にんげん出版)のようなリアルな体験報告も現れてきたが、情報世界で圧倒的影響力を持っているのは、藤原正彦『国家の品格』(新潮新書)のような国家有機体説の亡霊や、現代日本国家=象徴天皇制の「来歴」を辿る怪しげな議論で、女系天皇を認めるべきか否かが「論壇」の中心イシューになっている。日本共産党まで天皇制廃棄の旗を下ろし、天皇制そのものの意味を問う議論は、ゲットー化されている。

 そこで硬派の本誌には、昨年拙著『象徴天皇制の起源』(平凡社新書)で、第二次世界大戦中の米国情報機関が敵国日本国家を分析し「天皇を平和の象徴として利用する」戦略を採用する歴史的経緯を検討した流れの方で、この間「体制変革と情報戦――社会民主党宣言から象徴天皇制まで」(岩波講座『「帝国」日本の学知』第四巻「メディアのなかの『帝国』」、既刊)、「戦争と革命――ロシア・中国・ベトナムの革命と日本」(岩波講座『アジア太平洋戦争』第八巻、近刊)、「ヴァイマール・ドイツの日本人知識人」(東京大学出版会『日独関係史』第三巻、近刊)を執筆した際の副産物である、戦前日本マルクス主義国家論の「来歴」を辿った研究の一部を、寄せることにした。以下の一は別稿として発表される「『党創立記念日』という神話」の歴史的・実証的分析部分の要約であり、二以下が戦前日本マルクス主義国家論の蹉跌についての、筆者なりの診断である。

 二一世紀日本の国家論が、二〇世紀国家論の真摯な総括をくぐらずに、余りに安易にポスト・モダンと情緒的ナショナリズムに分岐し両極化つつあることに対する、筆者なりの疑問と自戒と抵抗の産物である。上述諸論文をも、併せて参照していただきたい

 

 一 日本共産党「創立記念日」の神話化

 

 二〇世紀の日本で、体制変革の中核にあったとされるのは、日本共産党である。戦前日本共産党の体制変革構想は、そのマルクス主義的「天皇制」国家分析と「国際主義」の標榜によって、日本の社会科学にも大きな影響を与えた。その「二七年テーゼ」や「三二年テーゼ」は、戦後も長く歴史学やマルクス主義諸科学の思考方法を呪縛し、わが国国家論の戦前における到達点、理論的出発点として扱われてきた

 これまでの通説的研究では、日本の共産党は、レーニンとボリシェヴィキのロシア革命に直接の影響を受け、一九二二年七月一五日にコミンテルン=世界共産党(共産主義インターナショナル、一九一九ム四三年)日本支部として結成され、以来、一貫して天皇制打倒・侵略戦争反対を掲げたものとされてきた。しかし、ソ連邦崩壊後の史資料の公開・発掘によって、これまでとは違った、さまざまな様相が現れてきた。ここでは、日本共産党の「創立記念日」設定を、国家権力に対する情報戦、メディア戦として考察する。

 日本共産党の「創立記念日」は、ア・プリオリに存在したわけではない。もともと非合法・非公然の秘密結社として発したものであり、さまざまなグループの小さな会合の積み重ねがあり、「創立大会」「創立綱領」「創立記念日」があったかどうかも、長く秘匿されてきた。コミンテルンや戦前社会運動史の史資料では、一九一七年のロシア革命とコミンテルン創立(一九一九年三月)後の早い時期から、「日本共産党」の言説が現れていた。それらの中のどの時点を「党の創立」とみなすかは、「日本共産党とは何か」という定義に関わるものであり、政治的に決定された。

 戦前日本共産党の非合法機関紙『赤旗(せっき)』で見ると、一九二八年二月一日創刊号「創刊の辞」冒頭に「日本プロレタリアートの最も優秀な、最も戦闘的な前衛分子の革命的隊伍たる日本共産党は、過去七年にわたり、常にあらゆる闘争の先頭に立ってきた」とあるように、一九二一年創立を前提としていた。これは、一九二一年六ー七月コミンテルン第三回大会でアメリカから入った吉原太郎が「日本共産党」代表として発言したり、二二年一月極東諸民族大会ヤカワ(高瀬清)報告が「日本共産党は一九二一年四月に結成」と報告したり、一九二七年のコミンテルン「日本問題に関する決議」=いわゆる「二七年テーゼ」発表にあたって「日本には既に七年前から共産党が存在していた」と述べてきた歴史に照応する。一九三一年までの『赤旗』は、「三・一五、三周年記念日」「十月革命記念日」等はキャンペーン(当時の言葉で「カンパニア」)するのに、七月一五日を特別に顕彰することはなかった。「党創立記念日」など、問題にされなかった。

 『赤旗』に「日本共産党創立記念日」が現れるのは、ようやく一九三二年七月五日の第八二号からである。直前の七月二日特別号に、コミンテルン機関誌『共産主義インターナショナル』ロシア語版三二年三月二〇日号掲載「日本の情勢と日本共産党の任務」の日本語訳が発表されたのを受けた、「持ち込め! 工場に! 農村に! 兵営に! 軍艦に! 新テーゼ説明=理解のカムパーニアを!」という記事中でのことだった。この「新テーゼ」とは、直後の『赤旗』七月一〇日特別号に全文が発表される「日本に於ける情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」、いわゆる「三二年テーゼ」のことである。「党創立記念日」の「発見」と「三二年テーゼ」発表は、情報戦において、ワンパックだった。

 この頃共産党は、八月一日の「国際反戦デー」を、数か月前からキャンペーンするのが恒例になっていた。そこに突然七月五日号で「八・一国際反戦闘争の準備闘争に於て、吾党の十周年記念週間カムパ(七月十五日ム八月一日)に於てこの新テーゼカムパは最も広汎に且つ精力的に遂行されねばならぬ」と、初めて「日本共産党創立十周年記念万歳!」が語られた。ちょうど三・一五、四・一六事件被告の統一公判が結審に近づき、七月一四ム二六日が最終陳述となっていた。「いよいよ最終陳述だ。時日は丁度吾党の十周年記念週間だ。ストライキとデモをもつて天皇の階級裁判に反対せよ!」と、ここでも「党創立十周年」がアピールされた。当時中央委員・宣伝煽動部長で獄中指導部とも連絡をとっていた岩田義道の執筆とされる。

 同じ一九三二年七月五日の『赤旗』号外で「一九二二年七月一五日に生誕した我が日本の党は十年の鉄火の試練を経ていま極東に於ける干渉戦争の帝国主義的突撃隊、日本帝国主義に対する名誉ある国際的プロレタリアートの義務の遂行に邁進してゐる」とあるが、それは、「三二年テーゼ」でコミンテルンから与えられた「警察的軍事的天皇制」と対比される文脈においてであった。それは、天皇制政府が「歴史的に虚偽である『三千年の伝統』」の名において、治安維持法違反の「国体の変革」を企てたとする共産党員に対して、「同志佐野、鍋山、市川には無期懲役を、同志三田村には死刑を、同志高橋、国領には十五年の懲役を、そして、その他の同志達には二十年乃至四年の懲役が求刑された。死刑、無期懲役を除く同志達の求刑年限は実に一〇二三年なのだ!」と、万世一系の「虚偽の伝統」に「革命の伝統」を対置する文脈で語られた。以後、この一九三二年七月前半の『赤旗』では、七月一〇日論説「党十周年記念の為のカンパーニアを起せ!」で「日本共産党は、すばらしい革命的高揚を示しながら強固な司令部を持たなかった為に決定的に打ち破られたあの米騒動の後に、ボルシェビキを持っていたソヴエート同盟の勝利せる革命の直接的影響の下に、日本プロレタリアートの切実な要求として一九二二年七月に組織された。そして同年十一月のコミンテルン第四回大会で正式にコミンテルン日本支部として確認された」と「同志市川の公判廷に於ける党史に関する演説」を引くかたちでキャンペーンされ、七月一五日『赤旗』第八四号宣言「日本共産党創立十周年記念日に際して、全日本の労働者諸君、朝鮮満州台湾その他の非抑圧植民地民衆諸君、陸海軍の兵士水平諸君に訴ふ!」で総括的に「党史」のあらすじが創られた。

 そのさい、幸徳秋水や大杉栄の時代は完全に無視され、一九二二年七月の党創立に続く画期は、いわゆる「二七年テーゼ」で、それが「日本に於ける革命運動の上に、第一の画期的転向を引起した」と言う。翌三三年から「権力による強制」の忌むべき言葉とされる「転向」が、ここではまだ肯定的意味で用いられていた。

 新テーゼ=「三二年テーゼ」が、それに続く「第二の躍進の門出」と位置づけられ、「人民革命の遂行」が高らかに宣言された。七月末に開かれた共産党の影響下にある左派労働組合である全協(日本労働組合全国協議会)第一回中央委員会では、「日本共産党創立十周年に際して送る挨拶」が採択された(『赤旗』八月一〇日)。当時公開されたメディアのうえでは、一九三一年夏に統一公判の模様から日本共産党「一九二二年七月創立」が報じられ、翌三二年七月の「十周年」に合わせて「七月一五日」がキャンペーンに乗った。

 しかしそれは、ここまでの流れからしても、きわめて政治的である。史実そのものであるよりも、「記憶」の再構成である。情報戦の観点からいえば、情報とは、メディア・プラス・メッセージである。この「一九二二年七月一五日党創立記念日」設定には、どのようなメッセージが含まれていたのだろうか。

 日本共産党側が治安維持法裁判の公開を通じて創立を「一九二二年七月一五日」とした起源を辿ると、一九三〇年一月二八日の徳田球一の第十回予審訊問調書に突き当たる。検察側は、ここでの徳田による「一九二二年七月創立大会」の供述をもとに、三〇年四月の予審終結決定書(今日の起訴状にあたる)にこれを採用していた。三一年七月法廷での党史についての市川正一の陳述(後に小冊子「日本共産党闘争小史」)もこれを追認した。

 こうした獄中での積極供述は、一九三一年の統一公判の場を情報戦の舞台に設定した、獄中指導部の方針によってであった。それは、国家権力の一部である裁判所の法廷を政治宣伝の舞台とし、メディアにするという、体制変革にとっては危うい実験だった。それも、法廷で裁判所・検察の方から「創立大会」の日付の確定を求められ、法廷委員会=獄中中央委員会が、三二年七月結審間際に「ともかく」「記憶しやすい日」七月一五日にしたものだった。それが、戦後に徳田球一・志賀義雄『獄中十八年』で権威づけられ、史実として一人歩きし、「創立を記念する日」となったものだった。

 それが史実であるかどうかについては、「正史」に依拠した犬丸義一が「歴史学」として論証しようとつとめ、高瀬清という「証人」を得て、ほとんど全精力を費やしてきた 。しかし、やはりにわか作りの「物語」ではないかと考える岩村登志夫、川端正久、松尾尊允、江口圭一らは、ロシア語やドイツ語・英語の史資料をも用いてその「神話」性を暴き、史実に近づいていった。筆者自身も、徳田供述・高瀬清回想に根本的疑問を持ち、史資料的にはっきりした「一九二二年九月日本共産党綱領」から創立を考えるべきだと述べてきた

 ちなみに、東京地裁統一公判の判決は、獄中中央委員会の苦心の産物「記憶しやすい日=七月一五日」を採用しなかった。一九三二年一〇月二九日東京地裁判決は「同党は最初大正十一年七月国際共産党支援の下に創立せられ」と、予審終結決定段階の「七月」の記述にとどめ、敢えて「一五日」と確定することはなかった。それどころか、翌三三年に宮城実裁判長の行った「私の経験より見たる共産党事件の審理に就て」と題する『思想研究資料』所収の講演は、仲間内の気安さからか、「大正十一年九月五日に日本共産党が成立」と何の典拠も示さず述べてはばからなかった。宮城裁判長自身が、「七月十五日神話」成立の経緯を、熟知していたのである

 にもかかわらず、徳田球一には、一九三〇年一月時点で日本共産党創立を「二二年七月」にすべき理由があり、三一年七月の佐野学・鍋山貞親・市川正一ら獄中中央委員会には、それを統一公判で公言し宣伝する必要があった。他方、一九三二年七月の風間丈吉・岩田義道ら獄外中央委員会には、「七月一五日」を「八・一国際反戦デー」と「新テーゼ=三二年テーゼ」発表に合わせ、「党創立十周年記念日」として顕彰し、キャンペーンに利用する意味があった。そして、それらの必要事由は、翌一九三三年七月には不要になり、以後は敗戦まで忘れ去られた。「神話」は、むしろ一九四五年以後に意味を持ち、政治的に機能したのである

 

 二  裁判所を情報戦に利用するという冒険

 

 一九三一ー三二年の治安維持法統一公判は、戦前日本共産党にとって最大の合法的情報戦だった。それは、非合法・合法の共産党系新聞・雑誌を宣伝煽動メディアとして利用するばかりでなく、裁判所という国家機構自体を一つのメディアに見立て、有罪・無罪の法的判決よりも階級裁判そのものの不当性を訴え、「ブルジョア宣伝」をも介して自分たちの主張の真実を民衆に届けようとする実験であった。それは、幸徳秋水らの「大逆事件」時代には大衆的規模では不可能で、言論・出版のある程度「自由」な国でなければ、情報戦としての効果を期待できないものであった。

 国家機構の一部としての裁判を情報戦のメディアに仕立て、政治宣伝の舞台とする発想自体は、別に目新しいものではない。日本の共産主義者が依拠したドイツのカール・マルクスは、一九世紀半ばのケルン共産党裁判でその模範を示しており、それは、被告弁護団長布施辰治の座右の書であった。「自由・平等・博愛」の国フランスでは、一八九四年ドレフェス事件があり、それは、大逆事件のフレームアップに遇った幸徳秋水等を助けた堺利彦・荒畑寒村・大杉栄らの寄る辺となっていた。

 しかし、一九二八年三・一五事件、二九年四・一六事件の日本共産党被告団の依拠した「模範国」はソ連であり、「準拠理論」はマルクス・レーニン主義であった。そこには資本制国家をブルジョア独裁と認識し、民主主義を階級的にブルジョア民主主義とプロレタリア民主主義に裁断して、ブルジョア民主主義を社会主義・共産主義=プロレタリア独裁のために利用するという「理論」があった。典型的には議会と選挙の位置づけだった。ブルジョア議会の「本質」はブルジョアジーの独裁であるが、プロレタリアートはそれを階級的暴露、労働者大衆への宣伝・煽動の場として利用できるとしていた。

 その「ブルジョア民主主義の革命的利用」戦略は、一九二五年の男子普通選挙権獲得に伴い、幸徳秋水の時代の「議会政策対直接行動」を止揚するものとみなされた。議会主義に埋没するのではなく、しかしアナーキストやアナルコ・サンディカリズムのように反議会主義、選挙ボイコットをするのではなく、議会や選挙を革命的に利用し宣伝・煽動の場とするものだった。階級裁判を情報戦の舞台とし、そこでの陳述を公開させ労働者民衆へのメッセージとする構想は、当時の日本共産党が依拠したコミンテルン「二七年テーゼ」の「党の大衆化」「プロレタリアートの政治的教育」に沿ったものだった。

 日本共産党事件の被告たちは、まさにその「二七年テーゼ」の「君主制の廃止」スローガンゆえに検挙され、法廷にあった。それは、第一次共産党の誕生を規定した山川均の「大衆の中へ」「共同戦線」、第二次共産党再建を主導した福本和夫の「分離・結合論」とは異質な、両者への批判の中で、コミンテルン=世界共産党から与えられたテーゼだった。それは、当代日本国家を「資本家と地主のブロックの手中」にあり、「日本国家のブルジョア的立憲君主制の解体」「封建的分子の政府よりの駆逐」による「ブルジョア民主主義革命の社会主義革命への急速な転化」「君主制の廃止」を掲げていた。

 一九二八年二月、普通選挙法にもとづく初めての選挙にあたって、テーゼに忠実に「君主制廃止」「日本共産党万歳」の旗を公然と掲げたことが、普通選挙法と一緒に立法された治安維持法違反での大量検挙につながった。そして、獄中の水野成夫ら「解党派」グループは、二九年春から「君主制廃止のスローガン」に疑問を持ち、日本の君主制を「皇統連綿二五〇〇年」「民族的信仰で国民的参拝の対象」「権力からの距離」「明治以来の発展の象徴」とし、「大衆は君主制廃止を求めていない」と断じて党指導部を批判していた。それは、大衆が天皇を「ただなんとなく国民的誇りにする」事実に着目したもので、伊藤晃によれば、そうした気分は当時の多くの党員に共有されていた。「多くの人の内心にわだかまっていた疑問と不安をはじめて口に出して語った」のが水野成夫だった10 。いうまでもなく、この水野成夫とは、辻井喬(堤清二)『風の生涯』の主人公のモデルであり、今日のフジ=サンケイグループの創設者で戦後「財界四天王」の一人である。

 当時は知られていなかったが、一九三一年春に佐野学に代わる日本共産党代表としてモスクワに派遣された野坂参三も、そうした疑問を抱いていた。筆者が外務省外交史料館で見つけた一九二八年六月一四日付聴取書は、「私一個の意見としては其『スローガン』の内君主制の撤廃其他一二の事項を当面の『スローガン』として掲ける事に異論を持つて居ます」と東京地裁検事渡辺俊雄に対して率直に述べていた。二九年四月四日東京地裁藤本梅一予審判事への第四回予審訊問調書でも、「君主制の撤廃及之に類する事項をスローガンとして掲け之を大衆の目前に現はす事に付いては異論を持つて居ります。斯かるスローガンを掲けるには一定の段階を経て居なければならぬのと訓練を経て居らなければならぬのに一定の準備か出来て居なかつたので今日直ちに大衆の前に之を掲ける事は誤りだと思つて居ります」11 ――水野成夫の批判とほとんど同じであり、時期的には野坂の方が早い。

 平田勲検事らは、水野ら福本イズム出身の中堅・若手インテリの理論幹部たちに、その反対の根拠を理論化させ、「日本共産党労働者派」の結成を誘導した。産業労働調査所で活動してきた野坂参三の「異論」情報は隠匿して、秋山高彦予審判事が一九三〇年二月二六日眼病の理由による「勾留執行停止」の保釈を決定、野坂は、翌三一年三月二一日に、風間丈吉ら獄外中央委員会の決定によって国外に脱出し、『亡命十六年』への道に入る。野坂参三は、統一公判では「不出頭、逃亡中」として扱われた。

 一九三〇年一月、徳田球一の予審訊問での戦術転換は、野坂参三調書は見せられなかっただろうが、水野成夫・是枝恭二ら「解党派」の予審調書、上申書、手記類を検察側から読まされてのものだった。そこから徳田は、「一九二二年七月党創立大会」を含む詳しい供述を始めた。その主眼は、当然「解党派」との対決点、自らモスクワに呼ばれて決定されたコミンテルン「二七年テーゼ」の「君主制廃止」スローガンの正しさを弁証することだった。沖縄出身の徳田が、水野や野坂のような天皇観をもたないだろうと検察側から想定されたかどうかは分からないが、検察側にしてみれば、徳田が「テーゼ」を機械的に繰り返して「君主制廃止」について語るのは、二九年前半までの七回の予審訊問から想定できた。それは、検察側の狙いにも合致した。治安維持法の構成要件である「国体の変革」「私有財産の否認」を率直に語るであろう指導的被告として、徳田球一の予審訊問調書(当時はそのまま証拠能力を持った)は、検察側の情報戦に活用された。

 おそらく検察側の思惑通り、いったん「答弁しませぬ」の自戒――それは堺利彦ら第一次共産党事件被告団の盟約でもあった――を破った徳田球一の予審供述は、詳細をきわめた。戦術転換を始めた一九三〇年一月二八日第十回訊問から、「二七年テーゼ」を最高指針として、そこに至る過程として「党史」を語った。一九一七年のロシア革命から説き起こし、近藤栄蔵、堺利彦、山川均、大杉栄の時代から、二一年日本共産党準備委員会、ML会、水曜会、暁民会、時計工組合、LL会等々初期の組織とメンバーの名前を具体的に挙げ、コミンテルンからの働きかけの「中心人物」としてヴォイチンスキーを挙げた。二二年初頭の極東民族大会についても詳細に「記憶」を再現し、そこでブハーリンから「天皇の廃止」を指示され「此指示は次の年に完成されたブハーリンの起稿に係る日本共産党『プログラム』の基調を示して居るものであります」と述べていた。「創立大会は一九二二年七月」は、その文脈で述べられたものだった。

 ここでの徳田の仮想敵は、水野成夫ら「解党派」であった。第一に、日本共産党は第一次共産党時代から一貫して「君主制廃止」を目的としてきたこと、第二に、それが「コミンテルンの権威」に裏打ちされたものであることを、自ら創作した「党史」で示すことだった。そのことが、徳田の供述に、虚実入れ乱れた「記憶」の動員と「記録」の混濁をもたらした。同時に、検察側の「党史」への介入を許した。検察側の狙いは、日本共産党が創立当初から「国体の変革」を目的とした非合法秘密結社であること、第一次共産党と第二次共産党は一続きで、それはソ連及びコミンテルンという外国勢力と結びついていることを論証することだった。一方徳田の方は、(1)「解党派」の攻撃する「君主制廃止」スローガンは日本共産党のレーゾン・デートルであり、(2)コミンテルン公認の日本支部=日本共産党こそ「唯一の前衛党」であることの論証に向かった。そこで、第一次共産党に遡って、「大逆事件の亡霊」を恐れぬ「日本革命の前衛党」を仕立てあげた。

 第一の君主制については、一九二九年五月二〇日の第二回訊問で、日本は憲法政治をもつ民主国で、君主制でもベルギーのような主権在民がありうる、「天皇は称号を授与する伝統的機関にすぎない」「天皇という形式が伝説時代より伝統的且宗教的力によって浮遊して居るにすぎない」、現代日本は資本主義国だから「形式は君主制であるが内容は巳に民主制である」という天皇機関説風議論を展開していたが、「解党派」の調書を読まされた三〇年一月二八日第十回訊問以降は、「二七年テーゼ」のブルジョア・地主ブロック権力論を忠実にくりかえすだけになる。

 この点では、獄中最高指導者佐野学の方が、徳田の第十回訊問の前日一月二七日の第十二回訊問で、「私は日本の皇室が日本国民によりて一種の家長的なものとして観念されて居る特徴を認めますが、之によりて君主政治と云う政治形態自身が、『プロレタリア』運動の利害と何等衝突しないと云う結論に達しないのです。只『プロレタリア』革命と云う見地に付て不充分の説明を為しつつ、突然君主制の撤廃の『スローガン』を掲げた事は、吾党を以て君主制の撤廃丈を目的として集まった団体であると云うが如き、『ブルジョア』の『デマゴーグ』を招いたのであって、此点に於て失敗があったと考えて居ります」と戦術的失敗をいったん認めた。

 ただし佐野は、一九三〇年三月二三日、最後の第一四回訊問では、「君主制問題に付て訂正」を求め、「君主政治は資本家地主の階級独裁の形式」「君主政治の実行者たる帝室の経済的基礎は大土地所有であって、帝室は社会的観念的に保守主義の中心」「解党論者の『君主制はブルジョア独裁と両立する如く、プロレタリア独裁とも両立する』と云う奇異な言葉は、到底吾々マルクス主義者に理解し得られませぬ」「解党主義者の君主主義的共産党など云ふ概念は二律背反的妄想」と、水野成夫ら「解党派」批判の文脈で軌道修正する。つまり、徳田の方が佐野より早く「解党派」批判の必要を認め、君主制についての供述の「訂正」も早かった。

 そのさい徳田は、「君主制廃止」を「党の伝統」に結びつけた。「私の供述は私自身の遣った所の仕事のみならず、之に関連して聞知した処の歴史的な事実をも含むのであります」「福本『イズム』の時代に於ては、特に二、三の事実に付て党の伝統と如何に相違し、如何に党を害したかと云う事に付て批判的見解を述べる」と、せいぜい十年の流れを「伝統」として一貫させようとする。そこで依拠したのがコミンテルンの「権威」であり、「コミンテルンの伝統」であった。「日本共産党の礎石は『コミンターン』によりて統べられたものであって、而して常に『コミンターン』の正しく力強き伝統を如何にして体得すべきかと云ふ事が努力の最大の眼目」だという12

 

  三 徳田球一はなぜ「伝統」を創造=想像したのか

 

 徳田球一には、このように自己の活動を「コミンテルンの伝統」に結びつけなければならない、特別の理由があった。徳田は、一九二六年末の第二次共産党再建から「二七年テーゼ」作成までの時期、福本イズムに傾倒し、モスクワにも福本主義者の一人として召喚され批判された。二七年、モスクワによばれた日本共産党代表団の中で、徳田と佐野文夫が福本和夫を支持し、渡辺政之輔、鍋山貞親、中尾勝男、河合悦三らと対立、コミンテルン指導者ブハーリンらの裁定で福本イズムがあっさり批判され、「福本、徳田、佐野(文夫)の三君は『コミンターン』の意見により当分党の重要なる地位に就かない事」になった。この事情は、佐野学が、三〇年一月一七日の予審判事藤本梅一に対する第七回訊問で詳しく述べていた。獄中党幹部たちのなかでも、周知のことだった。徳田は、「解党派」を批判するにあたって、特殊に「コミンテルンへの忠誠」を示さなければならなかった。

 そのため、徳田の供述は、第一次共産党時代を含めて日本共産党はコミンテルンに忠実に従い、一貫して「君主制廃止」を主張してきたという、今日からすれば、きわどいストーリーになった。それは、野坂参三、水野成夫、佐野学のような天皇制との感情的・理論的葛藤ではなく、むしろ「記憶」の断片に依拠した史実の改竄だった。

 その第一は、自分自身の参加した一九二二年極東諸民族大会の「日本共産党が為すべき行動綱領」のスローガンとして、「同志ブハーリン」から「(一)天皇の廃止、(二)普通選挙権の獲得、(三)言論、集会、出版、結社の自由、(四)天皇、大地主及社寺の土地無償没収及其国有、(五)高度の累進所得税の賦課」を指示された、という点である。この点は、つとに岩村登志夫、川端正久らによって明らかにされ、村田陽一も晩年には認めたように、「日本代表団採択綱領」ロシア語原文の実際は、「(一)政治制度の完全な民主化、(二)土地の国有化、自己の労働で耕作する農民に土地を引き渡し利用させる、(三)労働者による生産管理の条件の下での、大産業部門の国有化、(四)植民地と植民地的勢力範囲の解放」であり、ブハーリンも会議に顔を出したことはあるが、サファロフが主導したものであった。つまり、本当は「君主制廃止」も「天皇の土地没収」も「普通選挙権獲得」すらなかった。

 第二に、徳田はさらに「此指示は次の年に完成されたブハーリンの起稿に係る日本共産党『プログラム』の基調を示して居るもの」と述べて、一九二三年市川での日本共産党第二回大会で討議されたという「ブハーリン起草日本共産党綱領草案」への継承を述べる。その橋渡しとして設定されたのが、後の「七・一五創立記念日」を決定づけた一節である。

 創立大会は一九二二年七月に行はれました。此大会に於て決議されたる規約は、既に一九二三年の第一次共産党事件に於て押収された事がありますから敢て述べない事にします。次に綱領に付てでありますが、之は私たちがもたらした極東民族大会に於て支持された既述の内容を充分討議し決定する事が出来ず、何れ此創立大会後直ちに派遣さる、『コミンターン』第四回大会への帰国を待ってと云ふ事になりました。

 ここにも、大きな虚偽がある。この期に作られた綱領は、ソ連崩壊後に筆者がモスクワで発見した「一九二二年九月日本共産党綱領」であり、そこには「君主制廃止」など入っていなかった。徳田の党規約の供述も、第一次共産党治安警察法事件時に検察側が押収したほとんど唯一の物証である「英国共産党暫定党規」を「創立大会決定」として追認したものだった。これが後の犬丸義一らの研究に、規約中心の形式主義的「創立記念日」論議をもたらす。そのうえ、創立時の中央委員には、「堺利彦、山川均、荒畑勝三、近藤栄蔵、高津正道、橋浦時雄、私」と自分の名前をちゃっかり加え、後に第一次共産党関係者の顰蹙を買う。徳田は、二二年夏に中央委員ではなかった。「中央委員会の議長」職もなかった。二二年九月綱領制定時は「総務幹事」が荒畑寒村、堺利彦は「国際幹事」だった13

 したがって、第三に、一九三〇年一月三一日の第十一回訊問における、二三年二月の市川党大会、三月石神井大会についての供述も、いい加減だった。実際には市川大会では綱領討議はなかった。綱領問題を討議した同年三月石神井臨時党大会について、「私は出席しませぬ」としながら「後で聞知したこと」を、「審議の中心は勿論同志ブハーリンの綱領草案を基礎にしたものでありますが、最も問題になったのは君主の日本の政治及経済上に於ける地位及此制度の廃棄と云ふ事でありました」と、見てきたように語った。

 徳田供述は、「此『ブハーリン』の綱領草案は遂に正式に作用されるには至りませぬでしたが、既に極東民族大会の時に指示された闘争題目もあったので、大体に於て此綱領を是認し、先ずデモクラシー徹底の為めに普通選挙運動及一般労農大衆の政治行動に対しての党の政策を決定する必要に迫られたのであります」とし、その時の意見の対立は、三派に分かれたという。第一は、佐野学「普選大害論」をはじめとする山川、荒畑、佐野学の懐疑派、第二は、「私が代表します『コミンターン』の意見であって、即ち極東大会に出席した時に『モスコー』に於て決議した処の政策を代表するもの」、第三が、赤松克麿ら「社会民主主義的議会主義の是認」であったという。つまり、自分だけはコミンテルンの「君主制廃止」方針に忠実だったという。

 これも作り話である。当時モスクワに送られた報告書を参照すると、「大正一二年頃高瀬、川内等が帰国したので、千葉県市川に於て党大会を開き、両君から報告」を受け、「同年五月石神井に於て開かれた第二回大会では、綱領的問題の討議が主でした。其時第一革命か第二革命か即ち『プロレタリア』革命か『ブルジョア』革命かの問題に付討議し、結局『プロレタリア』革命との結論を得、続いて天皇の問題も出ましたが、其当時は山本懸蔵と私は今其事は論じない方が良いと主張し、結局夫れに対しては結論を得ませぬ」という、三〇年一月一二日佐野学第三回訊問調書の「記憶」の方が、歴史的には事実に近かった14

 徳田の「党史」創作のポイントは、二二年一ー二月極東諸民族大会でのブハーリン指示、二二年七月創立大会綱領討議、二三年二月市川大会、三月石神井大会までの第一次共産党の歴史を、「天皇の廃止」「君主制廃止」スローガンと「同志ブハーリン起草」の二つのキーワードで、「二七年テーゼ」まで直結することだった。そして、その間に、二二年一一ー一二月のコミンテルン第四回大会における「日本の党は『コミンターン』の認むる処となり」を配することにより、「日本共産党の礎石は『コミンターン』によりて統べられ」「『コミンターン』の正しく力強き伝統」と結びつくという「神話」だった。

 そのことにより、堺利彦、山川均、荒畑寒村ら一九三〇年当時は「労農派」に移っていた第一次共産党指導者は、もともと「党の伝統」からはずれた「分派」にすぎず、「山川イズム即解党主義」で、「山川イズム(極右翼)」も第二次共産党の「福本の理論的遊戯」「福本イズムの誤謬」も、すべてコミンテルンと「同志ブハーリン」によって正され「二七年テーゼ」に至る、という筋書きである。無論、「解党派」が前衛党に許されない「分派」であることは自明だった。後に徳田球一は、宮本顕治により、一九五〇年代初頭「所感派」の活動を全く同じ論理で裁断され、「党史」から抹殺されるのであるが、そうした「党史」の在り方自体は、一九三〇年初頭に、徳田球一自身がつくったものだった。

 第四に、その総仕上げが、二一世紀の今日まで続く、一九二三年三月石神井大会で討議されたという「ブハーリン起草二二年綱領草案」の問題である。

 佐野学第三回訊問調書(三〇年一月一二日)は、そこで「綱領的問題」が討議され「天皇の問題も出ました」とは言ったが、主たる論題は「第一革命か、第二革命か」で「『プロレタリア』革命と結論」と述べていた。そこには「ブハーリン」の名はない。佐野学はコミンテルン第六回世界大会選出の執行委員としてモスクワに滞在し、二八年末からのスターリンによるブハーリン批判と失脚(コミンテルン議長解任)を目撃していたから、「同志ブハーリン」の名ではコミンテルン・テーゼが権威づけられないことを知っていた。徳田球一は、二七年に自分を批判した「同志ブハーリン」にこだわって「党史」を創り上げたが、法廷委員会として市川正一が代表陳述するさいには、徳田の筋書きには決定的に重要だった「同志ブハーリン」の名は抹消されて、脱人格化した「コミンテルンの指導者」ないし組織体に「テーゼ」作成の役割を割り当てざるを得なかった15

 検察側にとっては、佐野学風「第一革命か第二革命か」では、堺・山川らの第一次共産党と第二次共産党の「二七年テーゼ」は直結しない。徳田の予審訊問供述だけでは公判維持が危ういからこそ、「七月創立大会」での立件には獄中の荒畑寒村ばかりか、党を離れた堺利彦、山川均、近藤栄蔵からも裏付け証言を求めた。徳田の極東諸民族大会「天皇の廃止」、石神井大会での「同志ブハーリンの綱領草案を基礎にした」天皇制討論だけでは弱かった。治安維持法の構成要件である「国体の変革」にあたる「君主制の廃止」を明示した物証が欲しかった。

 当時の徳田・佐野らの訊問のほとんどを担当した藤本梅一予審判事は、一九三〇年四月一日第二三回訊問で、饒舌な徳田球一の予審を締めくくるにあたり、創立時の日本共産党綱領草案も「同志ブハーリン」により作られたとする、徳田のシナリオ完成に協力する。いやたぶん、平田勲思想検事と藤本の仕掛けに、徳田はまんまと引っかかる。藤本は『共産党インターナショナル綱領問題材料集(一九二四年カール・ホイム発行独文ヨリ訳出)』収録という「日本共産党綱領草案(註、草案の序言的部分は全部同志ブハーリンの綱領草案と一致する)」なる文書を、徳田に示した。

一問 第一次共産党第三回大会ニ於テ審議サレタブハーリン起草ノ日本共産党綱領草案ト云フノハ斯様ナモノデナイカ。
此時判事ハ本調書ノ末尾ニ添付セル日本共産党綱領草案ト題スル文書ヲ示シ且ツ之ヲ読聞ケタリ16

 ここで示されたのは、今日様々な資料集に入っているいわゆる「一九二二年日本共産党綱領草案」の、おそらく伏せ字なしでの全文訳であった。徳田の答えは、二か月前に自分は石神井大会には出席していなかったと断っていたはずなのに、「イエス」だった。そこには「日本共産党はブルジョア民主主義の敵手であるとは云へ、過渡的スローガンとしてミカド政府の倒壊及君主制廃棄のスローガンを持ち、又普通選挙権獲得の為に戦はねばならない」と、徳田が極東諸民族大会で指示されたという「記憶」に似た言葉があった。政治的目標の第一には「君主制の廃棄」と明記していた。徳田は、飛びついた。自分の「記憶」に資料的根拠が与えられたと信じた。かくして「答 之ト同一内容ノモノデシタ。 被告人 徳田球一」17―― こうして、徳田球一にとっての、長い長い予審訊問は終わった。

 今日改めて振り返ると、いわゆる「二二年日本共産党綱領草案」は、一九二二年作成もブハーリン起草も史実として証明されておらず、露・独・仏・英語版とも一九二四年『共産主義インターナショナル綱領問題資料集』で初めて現れた。一九二八年まで続くコミンテルンの綱領討論のなかで、もともとブハーリン執筆の世界革命をめざす世界綱領草案ムムドイツ語版『インプレコール』一九二二年一一月二一日発表のもので、「資本主義の全般的危機」論の原型となったーーを二四年『資料集』に再録するさいに、「一般的部分は、ブハーリン同志によって提案されたコミンテルン綱領草案と基本的に一致する」とわざわざ注記され、「世界綱領」の下位綱領である「民族綱領」の事例として付された文書だった18 。一九二三年六月二一日、コミンテルン第三回拡大執行委員会総会議場でブハーリンが「私も参加した一委員会で作成された」日本の綱領草案に言及しているが、この時すでに日本共産党綱領草案が成文化していたか否かも史資料からは確認できない。おそらく一九二五年一月「上海テーゼ」決定時にコミンテルン極東部長ヴォイチンスキーにより初めて示され、荒畑寒村らにより日本に持ち込まれたものである19 。日本語では一九二八年『社会科学』誌の青野季吉「震災前後二三」に伏せ字だらけで紹介されたが、徳田球一と国家権力が合作した「党史」の物語の核心となり、戦後に「史実」として一人歩きし「神話」の城壁となった 20

 

 四 佐野・鍋山「転向」を導いたコミンテルン「テーゼ」の変転

 

 「党創立記念日」をめぐる情報戦は、「神話」構築に留まらなかった。たしかに徳田球一の第一次共産党=コミンテルン起源の「君主制打倒」綱領草案神話は、「解党派」水野成夫のような天皇制問題についての動揺には、ある種の反撃になりえた。なぜなら、この時点で水野・浅野晃らは、天皇制問題以外では、むしろ積極的に労働者階級の闘争を組む姿勢にあった。「日本共産党労働者派」は、自分たちこそ真の前衛党であり正しい共産党であるという自負を持って生まれた分派で、その志は、合法場面で共産党大弾圧後に生まれた大山郁夫・河上肇らの新労農党――やはり共産党からコミンテルンの方針に反するとして排撃された――とも相通じていた。

 統一公判での獄中中央委員会の陳述は、「党史」については検察側の各事件予審訊問終結書での記述がばらばらであったから、徳田球一予審訊問調書の線で統一され、主として市川正一が代表して述べる方向で統一された。メディアとしての裁判所の設定、統一公判の要求とそれを公然宣伝・煽動の場とするという獄中中央委員会の狙いは、この点では成功したと言って良い。公開裁判には二百人近い傍聴人がかけつけた。検察側は公判の公開を禁止し、天皇や君主制にふれることを禁止しようとしたが、被告団はかなり自由に共産党の主張を述べることができた。この点での布施辰治等被告弁護団の法廷技術は、特筆すべきものだった。

 だが、その背後にあるメッセージ、徳田の企図した(一)君主制廃止スローガンの一貫性・正統性、(二)コミンテルン公認の唯一前衛党、の法廷における具体的展開では、予期せざる事態が生まれた。もともと裁判所は、天皇や君主制に直接言及すること自体を禁じた。報道各社にも、その報道を禁じていた21

 第二次共産党再建時のほとんどの幹部が検挙・起訴され、水野成夫ら労働者派が保釈され活動を始めたもとで、獄外では、田中清玄らの「武装共産党」が警察官襲撃等極左戦術で国民から見放され、一九三一年にソ連から帰り再建された風間丈吉らの「非常時共産党」は、一方で大森銀行ギャング事件のようなスパイM=中央委員松村(飯塚盈延)主導の陰謀事件をひき起こし、他方で当のコミンテルンの新見解として、新たなテーゼ、一九三一年四ム六月『赤旗』に「政治テーゼ草案」を発表した。それは、獄中指導部にも相談されたが、混乱を導いた。公然たる宣伝メディアと設定された獄中中央委員会の統一公判陳述も、この獄外中央委員会の新決定に服さなければならなかった。

 統一公判開始直後、一九三一年八月一日に『無新パンフレット』になった三一年「政治テーゼ草案」は、コミンテルンの日本国家論の転換を示していた。「二七年テーゼ」の「日本資本主義評価の誤謬」「基本的変更」を率直に語り、「天皇制を倒せ」は述べたが、その天皇制国家は「金融資本独裁=ファシズムの道具」で、革命戦略は「ファシズム」に対する「ブルジョア民主主義的任務を広汎に抱擁するプロレタリア革命」だった。被告団が構成した法廷委員会の当初のシナリオは、革命戦略の決定的な点で、見直しを迫られた。

 これに対する佐野、鍋山、市川ら獄中指導部の意見書は、「スパイ水野等は七月テーゼ[「二七年テーゼ」]の意義の抹殺に狂奔してゐる」時に、「ブハーリンの直接参加によって出来たものであるから否定さるべきと云ふのは国際的権威国際的組織を全く無視したる小ブルジョア的学究論」で、「二七年テーゼ」は「単なるテーゼではなく一つの綱領の役割をもった」といいながら、「コミンテルンはかつて一度も誤謬を犯した事はない」から「古くなったとは云へるが誤謬であるとは云へぬ」とする、苦渋に満ちたものだった 22

 そこでは、徳田球一予審訊問供述が「正しさ」の担保としていた「同志ブハーリンの指導」が、当のコミンテルンによって否定されていた。そのため、市川正一の「党史」陳述は、創立時期こそ「一九二二年七月」を維持できたが、当初の徳田のシナリオに比して、不徹底なものにならざるをえなかった。徳田のシナリオで全史を貫く赤い糸であった「極東民族大会における同志ブハーリンの指示=天皇の廃止」を使うことが出来なかった。天皇への直接的言及は法廷で禁止され、「コミンテルンの指示」一般という抽象的かたちでしか、その「革命的伝統」を述べることはできなかった。

 その代わりに使われたのが、「綱領」は「テーゼ」より上位の決定であり、一九二二年にすでに天皇制に言及した「綱領草案」があったという、徳田の偽りの主張だった。

そのうえ、結審まぎわに、再びどんでん返しが待っていた。日本共産党が金科玉条にするコミンテルンの日本国家論が再転換したのだ。今度は、「政治テーゼ草案」の「金融資本独裁=ファシズム」説を否定して、天皇制を「絶対君主制」とし、「半封建的土地所有」を重視した「三二年テーゼ」である。革命戦略は、再び「ブルジョア民主主義革命の社会主義革命への転化」になった。ちょうどその発表の頃、獄中指導部のいう「創立十周年記念日」を迎えた。それは「新テーゼの発表」を補完するキャンペーンに利用された 23

 それは、「コミンテルンの指導」に忠実な徳田球一にとっては、安堵できるものだった。「政治テーゼ草案」とブハーリン失脚で足元が崩れかけた徳田の「党史」の物語は、「三二年テーゼ」でむしろ盤石の土台が築かれた。極東諸民族大会、「二二年七月創立大会」、「二二年日本共産党綱領草案」の二三年石神井大会討議、「二七年テーゼ」から「三二年テーゼ」までが、「天皇制の転覆」という「一筋の赤い糸」で完成された。

 しかし、獄中法廷委員会の中心にあった佐野学・鍋山貞親は、度重なるテーゼの変容で、最後のよすがである「かつて一度も誤謬を犯した事はないコミンテルンの指導」そのものに疑問を持つようになった。佐野・鍋山連名の「共同被告同志に告ぐる書」いわゆる「転向声明」は一九三三年六月八日付けであるが、疑問が芽生えたのはもっと早く、佐野の「心境変化」は、三二年一〇月一二日だったという。

 そこに、平田勲検事らが強力な揺さぶりをかけた。「創立十一周年記念日」を迎える前に、二人の「転向声明」は『改造』七月号に大々的に発表され、『中央公論』八月号も鍋山の手紙を掲載した。法廷闘争の苦心のメディア効果も、二大「ブルジョア雑誌」の物量作戦にかき消された。そこで二人の獄中最高指導者は、コミンテルンはいまや「蘇聯邦一国の機関化」し「無責任」だと告発した。これに「無条件服従」する日本共産党は「蘇聯邦防衛隊」に化し、「外観だけ革命的にして実質上有害な」「『天皇制打倒』を恰も念仏の如く反復」し、「幾多の欠陥を露呈」した、と公言した。

 『赤旗』は、「七月一五日創立記念日」を祝うどころではなくなった。佐野・鍋山の「天皇制打倒」スローガン拒否の論理は、獄中で徳田球一を動揺させた「水野成夫上申書」と大きくかわるところはなかった。「大衆は君主制廃止を求めていない」ことを認め、大衆が天皇を「ただなんとなく国民的誇りにする」現実を解くことができず、屈服していた。

 いや一つ、新たな論理が加わっていた。水野らの「日本共産党労働者派」は、なお階級闘争を否定せず、満州侵略には反対した。しかし佐野・鍋山は、日清・日露戦争を「アジア諸民族の覚醒と革命的闘争を早め」たと肯定し、それを「日本民族の強固な統一性」「皇室の連綿たる歴史的存続」に結びつけ、「日本が敗退すればアジアが数十年の後退をする」として、容易に排外ナショナリズムと軍部主導の侵略戦争に呑み込まれる論理となった 24

 いずれにせよ、佐野学・鍋山貞親に始まる獄内被告の地滑り的大量「転向」は、国家権力という法廷メディアから民衆へのメッセージを伝えようとした当時の日本共産党が、コミンテルンから与えられた国家論と革命戦略のめまぐるしい変遷によって翻弄された、悲劇の所産だった。それは、戦前日本マルクス主義の日本国家論・天皇論の脆弱性の証左だった。

 ただし、佐野・鍋山も一役買った「創立記念日」神話の方は、一九三三年以後獄中でいったん凍結された後、今度は「獄中十八年」と「三二年テーゼ」と結びついて、戦後に甦ることになった 。コミンテルンが最もセクト的戦略・戦術を採った時期の国家論も、日本帝国主義の敗北に救われて、戦後になお「権威」を保持しえたのである。


(注解)

1  本稿は、冒頭に断ったように、もともと「『党創立記念日』の神話学」と題して執筆された論文の一部で、長文になったため、「一九二二年七月一五日」とされてきた日本共産党創立記念日についての第一次史資料にもとづく歴史的・実証的再検討の部分を「『党創立記念日』という神話」と題して加藤哲郎・伊藤晃・井上學編著『社会運動の昭和史――語られざる深層』(白順社、二〇〇六年七月)に寄稿し、国家論・天皇制論上の問題を扱った部分を本稿にしたものである。もともとの原稿は、以下のように構成されていた。一 日本共産党「創立記念日」の神話化、二 「創立記念日」が顕彰されたのは戦前一九三二年のみ、三 「創立記念日」は法廷というメディアで作られた、四 一九二二年七月党創立は権力のシナリオ、五 『獄中十八年』で定着した「七月十五日」神話、六 徳田球一予審訊問調書による「党史」構築、七 獄中中央委員会と裁判所の駆け引きによる「創立大会」設定、八 裁判所を情報戦に利用するという冒険、九 徳田球一はなぜ「伝統」を創造したか、一〇 佐野・鍋山「転向」を導いたコミンテルン「テーゼ」の変転。本稿一の部分は、一−七の部分の要約抜粋なので、別稿を併せて参照されんことを望む。

2  典型的には、コミンテルンの「三二年テーゼ」と岩波書店刊『日本資本主義発達史講座』の時期的・内容的な「偶然の一致」。これについては、筆者もかつて論じたことがある。加藤「『三二年テーゼ』の周辺と射程」『思想』一九八二年四・五月、加藤「『三二年テーゼ』と山本正美の周辺」『山本正美裁判記録論文集』「解説」新泉社、一九九八年。

3  ここで通説的研究とするのは、今日でも存在する日本共産党の公式「党史」、『日本共産党の五十年』『六十年』『七十年』『八十年』などよりも、それを「史実」として裏付けようと学術的に論じてきた故村田陽一、犬丸義一らの研究を指す。本稿の主題との関わりでは、犬丸義一『日本共産党の創立』青木書店、一九八二年、犬丸義一『第一次共産党史の研究』青木書店、一九九三年が代表的である。

4  こうした問題の基本資料である山辺健太郎編『現代史資料 一四 社会主義運動一』みすず書房、一九六四年、村田陽一編『コミンテルンと日本』一−三、『初期日本共産党とコミンテルン』大月書店、一九八六ム九三年は、今日では批判的に解読されなければならないが、「正史の生まれ方」の素材として重要であるから、本稿でも適宜用いる。公判資料のカタカナ書きはひらがなに改める。

5  犬丸義一『第一次共産党史の研究』青木書店、一九九三年、高瀬清『日本共産党創立史話』青木書店、一九七八年。

6  岩村登志夫『コミンテルンと日本共産党の成立』三一書房、一九七七年、同「お天気と歴史――日本共産党創立神話」『思想』一九八四年一月、川端正久『コミンテルンと日本』法律文化社、一九八二年、松尾尊允『普通選挙制度成立史の研究』岩波書店、一八八九年、江口圭一『日本の歴史』一四、小学館、一九八九年、など。今日まで続く論争の焦点は、けっきょく犬丸義一の依拠する徳田球一予審訊問調書の史実としての信憑性、及び犬丸が聞き取りしてそれを跡づけた高瀬清回想(『日本共産党創立史話』青木書店、一九七八年)の評価に帰着する。本稿はそのうち、徳田球一予審訊問調書が如何にして書かれなければならなかったかを、情報戦の視点から検証するものである。筆者自身も、これらの資料の一部を、旧ソ連秘密資料として収集し公開してきた。加藤「一九二二年九月の日本共産党綱領」上・下、『大原社会問題研究所雑誌』第四八一・四八二号、一九九八年一二月・九九年一月、同「第一次共産党のモスクワ報告書 」上・下、『大原社会問題研究所雑誌』第四八九・四九二号、一九九八年八・一一月、「『非常時共産党』の真実 ──一九三一年のコミンテルン宛報告書」『大原社会問題研究所雑誌』第四九八号、二〇〇〇年五月、「モスクワでみつかった河上肇の手紙」 『大原社会問題研究所雑誌』第四八〇号、一九九八年一一月など。これらは筆者のホームページ「ネチズン・カレッジ」http://www.ff.iij4u.or.jp/~katote/Home.shtmlにも、一部画像入りで公開されている。また、これらのもとになったルガスピの日本共産党関係資料の集大成、ロシア社会政治史公文書館(旧ソ連共産党中央文書館)所蔵コミンテルン機密文書マイクロフィルム資料(全六一六ファイル、一三二リール)「日本共産党ファイル 一九一九ム四一年」が二〇〇四年に世界一斉に売り出され、すでに日本でも同志社大学人文科学研究所等で閲覧可能となっている。島田顕「モスクワのコミンテルン史料――スペイン内戦関連文書の現状」法政大学『大原社会問題研究所雑誌』五二五号、二〇〇二年七月、をも参照。  

7  『現代史資料 一八 社会主義運動五』四三八頁。

8  『現代史資料 一六 社会主義運動三』五九四頁。

9  前掲諸文献の他、徳田球一・志賀義雄『獄中十八年』(時事通信社、一九四五年)、風間丈吉『雑草の如く』経済往来社、一九六八年、鍋山貞親「非合法化の共産党中央委員会」『文藝春秋』一九五六年一二月特別号、志賀義雄『日本共産主義運動の問題点』読売新聞社、一九七四年、など参照。

10  伊藤晃『転向と天皇制』二一頁。

11  井上敏夫編『野坂参三予審訊問調書』五月書房、二〇〇一年、七四頁、三四頁。ただし同書所収の「野坂参三聴取書」は、外務省外交史料館で発見した筆者が編者に提供したものであり、それが荒畑寒村聴取書、福本和夫聴取書と一緒に綴じ込まれていた資料番号(I/4/5/2/3-5)が明記されなかったのは残念である。

12   以上及び以下での徳田球一、佐野学の予審訊問は、『現代史資料 二〇 社会主義運動七』所収。

13   この辺の考証は、前掲加藤「一九二二年九月の日本共産党綱領」で述べたので、繰り返さない。

14   前掲加藤「第一次共産党のモスクワ報告書」参照。

15   日本においてソ連共産党及びコミンテルンの「ブハーリン批判」がどのように受容されたかは、それ自体解明されべき問題であるが、ここでは徳田球一と佐野学の違い、三〇年一月徳田予審訊問の「同志ブハーリン」崇拝と三一年市川正一「党史」のブハーリン抹消の違いを指摘するに留める。

16  『現代史資料 二〇 社会主義運動七』一八一頁以下。

17   加藤『コミンテルンの世界像』青木書店、一九九一年、八〇頁以下、参照。

18   加藤「体制変革と情報戦――社会民主党宣言から象徴天皇制まで」岩波講座『「帝国」日本の学知』第四巻「メディアのなかの『帝国』」岩波書店、二〇〇六年、一二三頁。

19   筆者と犬丸義一の論争の核心も、けっきょくこの「二二年ブハーリン綱領草案」作成時期に帰着するが、故村田陽一の浩瀚な資料探索によっても、一九二四年以前の原文は見つかっていない。村田『コミンテルン資料集』第二巻、大月書店、一九七九年、資料一三九、同『コミンテルンと日本』第一巻、大月書店、一九八六年、資料六二の訳文末尾の典拠参照。和田春樹=アジベーコフ編『コミンテルンと日本共産党』ロシア語版、二〇〇一年、もこれを踏襲している。ただし、二五年一月「上海会議一月テーゼ」については、これまでの『現代史資料 一四 社会主義運動一』みすず書房、一九六四年、三四ム四五頁の東京地方裁判所検事局思想部編『テーゼ集第一』(一九三三年頃)の官憲文書しかなかったが、新たに発見されたロシア語原文がRGASPI「日本共産党関係文書」f495/op127/d120/22-35にあって、和田春樹=アジベーコフ編『コミンテルンと日本共産党』ロシア語版、二〇〇一年、三三三頁以下に収録された。この「上海テーゼ」に「ビューロー」の堺利彦・山川均は反対し、上海からヴォイチンスキーの指令を受けて帰国した荒畑寒村は、堺・山川説得をあきらめ、一九二五年四月五−七日に拡大ビューロー会議を開き「機関紙刊行の最急務」「上海会議のテーゼの演繹敷衍」「同志ブハーリンのJCPプログラムの配布」を決定した。この「同志ブハーリンのJCPプログラム」が前年『コミンテルン綱領問題資料集』露独英仏語版に公表された、いわゆる「二二年綱領草案」と推定できる。なお、二三年六月のコミンテルン第三回拡大執行委員会総会のブハーリン「コミンテルン綱領についての報告」にも「日本の草案は、私も参加した一委員会でつくられた」と出てくるが、そこでの「私の草案とほとんど一致する一般的部分」が「世界綱領」草案であり、「とくに日本を扱った部分に論争点がある。その論争点は、日本共産党の一部が直接にプロレタリア革命を志向しているのにたいし、他の部分は――私の考えではまったく正しいことだが――日本でははじめにブルジョア革命を経過しなければならず、そしてこのブルジョア革命はきわめて短い期間にプロレタリア革命に転化するであろう、と考えている点にある。……この意見の相違から、日本問題についての特別な討論をおこなう必要が生まれている」としている「民族綱領」部分が、どの程度成文化されていたかが問題である。論点が天皇制ではなく「ブルジョア革命かプロレタリア革命か」とする文脈からして、石神井大会で「第一革命か第二革命か」と討論された水準の、骨子についてのメモか、未完成の草案と思われる(村田編『資料集 コミンテルンと日本』第一巻、一五一ム一五二頁)。

20   公判準備は『現代史資料 一六 社会主義運動三』五七二−五八三頁。なお、布施辰治ら弁護団の側から見た統一公判の問題は、森正『治安維持法裁判と弁護士』日本評論社、一九八五年、参照

21   「政治テーゼ草案に対する佐野・鍋山・市川等の意見」『現代史資料 一四 社会主義運動一』四八五ム四八七頁。

22   この「三二年テーゼ」作成時のモスクワ・コミンテルン執行委員会内の事情と混乱についても、今日では新しい史資料が発掘され、「神話」が崩壊しつつある。前掲加藤「『三二年テーゼ』の周辺と射程」「「『三二年テーゼ』と山本正美の周辺」のほか、Toshio Iwamoto,The 1932 Theses of the Japanese Communist Party and the Koza-ha(Lecture Faction) ,The significance of the Russian published original text of the Theses, in Jahrbuch fuer historische Kommunismusforshung 1994, Academie Verlag, Berlin 1994、藤井一行「コミンテルンと天皇制――片山、野坂は三二テーゼの天皇制絶対化に懐疑的だった」『労働問題研究』復刊第一三号、二〇〇六年四月、参照。

23   佐野学・鍋山貞親「共同被告同志に告ぐる書」『改造』一九三三年七月、なお、福永操、伊藤晃の前掲書参照。

24   当初の構想は、ここから、アメリカ共産党日本人部の健物貞一、鬼頭銀一、鵜飼宣道らの天皇観を国外日本人共産主義者の営為として追いかけ、それが一九三四年にモスクワから渡米する野坂参三、一九三三年にアメリカ経由で来日するリヒアルト・ゾルゲ、ゾルゲの上海時代からの盟友尾崎秀樹、中国で活動するアメリカ共産党員アグネス・スメドレーらの活動と結びつき、四〇年代「ファシズム対民主主義」の世界的対抗の中で、アメリカ・ルーズベルト政権とソ連のスターリン、中国抗日戦争をたたかう蒋介石、毛沢東の戦後日本構想に組み入れられ、日本国憲法の戦争放棄とバーターで象徴天皇制に収斂していく道筋を負う予定であったが、それらは、他日にまわさざるをえない。簡単には、加藤「体制変革と情報戦――社会民主党宣言から象徴天皇制まで」にアウトラインを描いておいた。

25  ここでは、徳田球一『獄中十八年』が、統一公判を傍聴に来た特別の人物として唯一名を挙げた、新渡戸稲造の「松山事件」を通して、上記の見通しを簡単に述べておこう。徳田球一『獄中十八年』には、新渡戸稲造が統一公判を見に来た話が特筆されていた。その新渡戸が、一九三二年二月四日、講演先の四国松山で「我が国を滅ぼすのは共産党と軍閥である。そのどちらが怖いかと問われたら、今では軍閥と答えねばならない」と語ったことが、地元新聞に報じられた。満州事変後の愛国的風潮の中で、クエーカー教徒の新渡戸は、帝国在郷軍人会に呼ばれ、陳謝を余儀なくされた。その二ヶ月後に再びアメリカに戻り、翌三三年一〇月客死する(内川永一朗『晩年の稲造』岩手日報社、一九八三年)。新渡戸が日本共産党統一公判を傍聴に出かけた真意が問題となるが、本章の文脈からすれば、日本共産党の天皇観を確認に行ったと考えられる。別書で詳述したが、新渡戸は前年刊行の英文著書『日本――その問題と発展の諸局面』で「天皇は国民の代表であり、国民統合の象徴である[The Emperor is the representative of the nation and the symbol of its unity]」と明記していた(原書Inazo NITOBE,JAPAN: Some Phases of her Problems and Development, Ernst Benn Limited, London,1931, p.171)。このような天皇観は、日本共産党とは鋭く対立する。だがおそらく、新渡戸は統一公判での被告たちの機械的で外在的な天皇論、君主制打倒戦略が民意をつかむことはないと安堵し、先の松山での談話に連なったのだろう。天皇を日中・日米戦争へと導きかねない軍部のナショナリズムこそ、新渡戸にとって共産党より危険なものだった。そしてこのような天皇観は、政治的立場は異なるが、日本共産党では野坂参三やジョー小出(鵜飼宣道)の天皇の「半宗教的役割」への注目に通じる。戦後の「象徴天皇制」は、「三二テーゼ」的な天皇観が戦後も民意をつかむことができず、米国政府とGHQが「天皇の象徴性」を最大限利用して「天皇制民主主義」を定着させたものだった。以下おおまかな筋は、加藤「社会民主党宣言から日本国憲法へ――日本共産党二二年テーゼ、コミンテルン三二年テーゼ、米国OSS四二年テーゼ」『葦牙』三一号(二〇〇五年七月)、『象徴天皇制の起源』平凡社新書、二〇〇五年、及び「体制変革と情報戦――社会民主党宣言から象徴天皇制まで」、参照。

 

 

 


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