芝田進午追悼集『芝田進午の世界』(桐書房、2002年6月)寄稿


「ドラマとしての人生」の完全燃焼  

 

加藤哲郎(一橋大学教員・政治学)

                     


 芝田進午さんに『ベトナムと人間解放の思想』と題する本がある。大月書店から1975年に出ている。私の出版労働者時代の末期に、企画・編集したものである。その頃私は、旧来のマルクス主義理論に疑問を持っていた。芝田理論は東独のコージングらと似て、ソ連型マルクス・レーニン主義の内在的批判を含み、日本のマルクス主義哲学では最良のものと思われたが、それでも東独で実体験した現存社会主義の矛盾を解けないことや、楽観主義的な科学技術革命論、組織論が気になった。その頃スターリン主義批判のシリーズを企画・編集していて、芝田さんにも伝統的マルクス主義の原理的・体系的批判の必要を説き、執筆を依頼した。芝田さんはうなづいて聞きながらも、私の挑発に乗らなかった。

 その代わりに出してきたのが、ベトナム解放とアリス・ハーズ十周忌を記念した論文集の案だった。その中の「アメリカ『独立宣言』の現代的意義」などは私の後の永続民主主義革命論ともつながるが、編集者として企図と異なる書物の出版に踏み切らせたものは、「ドラマとしての人生」という感動的な一文であった。抵抗する者の痛みと責任を、切実に訴えていた。以来、私にとっての芝田さんは、理論家から思想家・実践家に変わった。

 その後名古屋大学に移り、政治学者の卵になった私に、真っ先に声をかけてくれたのも、芝田さんだった。『マルクス主義研究年報』第2号(1978年)に、古在由重、島田豊、井尻正二といった人々と並べて、若輩の私の習作「ユーロコミュニズムの射程」を収めてくれた。私はそこでの理論的整理をもとに、書かせる側から書く側に身を移し、『国家論のルネサンス』(1986年)では芝田さんの世界構造論=矛盾論を「全般的危機論」の枠内に留まると名指しで批判もしたが、唯研大会等で同席しても、芝田さんは「そういう考えもありえますね」といった風情で、にこやかに受け止めてくれるだけだった。

 以後は専門分野の違いもあり、ほとんどお会いできなかった。それでも二度ほど交わる機会があった。一度は1988年頃、アメリカ留学中の私に突然手紙がきて、あなたがハーバードにいると聞いたのでぜひ探してほしいと、例の予防衛生研究所=感染研に関わる英文雑誌のコピーを頼まれ、お送りした。最後は今年の正月のことである。私のインターネット・ホームページが12万ヒットを超えて「ネチズン・カレッジ」に改組する際、日本の市民運動・住民運動サイトをサーフィンして、リンク集に加えた。芝田さんたちの予研裁判の会にもリンク依頼を出したところ、返事は芝田さん直々のなつかしいメールだった。

 四半世紀前の私の依頼に応えたような、鬼気迫る一節があった。「昨日私どものサイトのニュース欄を更新し、感染研・厚生省の反公共的・反国民的所業の新しい動きを暴露しました。感染研は、いよいよ《七三一医学者》の道を歩んでいます。予研=感染研を美化してきた科学者会議の感染研支部ならびに科学者会議は、この動きに抵抗できず、流されてゆくだけでしょう。小生は、昨年、科学者会議からきっぱりと退会しました」と。「ドラマとしての人生」の完全燃焼にこそ、芝田さんの真骨頂があったように思えてならない。



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