至文堂『国文学 解釈と鑑賞』2003年3月号(68巻3号、71-77頁)掲載の草稿ネット版


芹沢光治良と友人たち──親友菊池勇夫と「洋行」の周辺

 

加藤 哲郎

 

  


『人間の運命』に描かれた日本ペンクラブ創設期の一齣

 

 芹沢光治良『人間の運命』第十巻「夫婦の絆」第十一章に、日本ペン倶楽部設立の場面がある。島崎藤村会長、有島生馬・堀内大学副会長、勝本清一郎主事らの執行部に、主人公「森次郎」も、会計主任に選ばれる。その設立総会の三日後(つまり一九三五年一一月末)、近所に住む女流作家「林扶喜子」が次郎の家に立ち寄り、こんな話が交わされる。 

「森さんはどうして、ペン倶楽部の発起人になったり、会計主任に就任したりなさったの。いけないわ。知らなかったけれど、藤村のお弟子だったの」
「ぼくは藤村の弟子ではないけれど……そうしていけませんか」
「藤村と菊池寛さんの仲のよくないことを、知らないの? 藤村の会の発起人や会計主任になったら、文藝春秋の仲間から嫌われるばかりか、憎まれてよ。それを知っていて、なるのなら、覚悟があるかもいいけれど……森さんは、ぼんやりしているから、一種の被害者でしょう──」
「それ、林さんの思いすごしでしょう? 林さんだって、ペン倶楽部の会員になっているではありませんか」
「ただの会員なら問題ありませんわ。だから、岸田国士さんは外務省の友人から設立委員になるように幾度もすすめられたが、ことわったという噂よ。第一、菊池さんは会員になっていないでしょう」
「ご注意はありがたいが……今になっては、もう手おくれですね……」と次郎は笑って加えた。
「ぼくは藤村とは個人的には関係はないが、専門が経済で、中央大学で貨幣論を教えたりしたので、会計にあかるいと思って、会計主任なんかに選んだのでしょうが……金には縁がないから、すぐに失格します」
「見ていてごらんなさい。今に藤村の会になるって……みんな言っていますから。副会長の有馬さんは、昔から藤村の親友ですし、主事の勝本さんは、藤村のお子さんがドイツ留学中の監督役を引き受けていたそうですし……文壇では森さんも、藤村の息がかかっていると、必ず思うわ……だから、これからよほど気をつけないと……お節介ですが、そのことをお話したくて──」
「ほんとうに、ぼくは気がつかなくて……ありがとう」
 次郎はこの女友達の友情を感謝した。文壇、文壇と、いつも気にして注意してくれるが、長い不遇時代の苦労から、本能的な智慧のように身にそなわった感覚で、呑気な次郎を見るにたえられなくて、本気に親切から注意するにちがいなかったから。(新潮文庫版『人間の運命(五)』439−440頁)。

 文学史の上では、平野謙が昭和文学史を画する「昭和十年前後」である。著者の分身である主人公「森次郎」に、林芙美子と推定できる「林扶喜子」が忠告するさりげない会話は、日本ペンクラブ設立時の内部からの文学的記憶として、菊池寛と島崎藤村の関係や、後の日本文芸家協会設立(これにも「次郎」=芹沢は会計として加わる)との関わりが問題なのだろう。そんな場面が、もともと文学には無縁で、大正・昭和初期に「洋行」「外遊」した日本人の群像と軌跡を追いかけ続けてきた政治学者の私には、すこぶる興味深い。

 芹沢光治良は一九二五年六月から二八年一一月まで、林芙美子は三一年一一月から三二年六月まで、フランスに「洋行」する。当時のヨーロッパ日本人社会は、広くて狭い。『人間の運命』では、林の「洋行」に芹沢が助言し、パリの日本人仲間を紹介したりするが、実際の二人の「洋行」では、パリばかりでなくロンドンやベルリン在住の日本人も、重要な役割を果たしていた。それも、当時の左翼運動や「転向」の影を伴って。

 

『人間の運命』の歴史描写と人物描写

 

 『人間の運命』の時代描写は、島崎藤村が『夜明け前』を馬籠宿に伝わる年内諸事日記帳「大黒屋日記」を下敷きに描いたような意味で、実証資料と史実に裏打ちされている。もともとフランスの出版社の依頼を受けて、「明治三十年代から昭和三十年代までの、日本の政治、経済、社会、外交、文化が、ヨーロッパの先進国のそれとともに判明するように、若い経済学者が巧みに工夫した」膨大な年表を、書斎の壁にはりつけて執筆したというから、「森次郎」の生きた時代についての記述は、信頼できる(『こころの旅』一九六九年、一三八頁)。この「若い経済学者」が、後に東京都立大学教授を経て東京都公害研究所長となる柴田徳衛であることは、『人間の運命』単行本第一巻「あとがきーー若い友柴田徳衛君へ」(一九六二年)でよく知られている。

 そればかりではない。著者である芹沢光治良自身が、旧制一高から東大経済学部を経て、農商務省勤務・フランス留学後に、中央大学経済学部で貨幣論を講じた社会科学者であった。実際、昭和初期の農村窮乏・恐慌、軍部の台頭、中国戦線の状況、東京大空襲についての記述などに、社会科学者らしい鋭い分析が見られ、いまやほとんど歴史知識を持たない大学生に読ませるには、格好の日本史教材である。

 ところが著者芹沢は、『人間の運命』に登場する人物には、モデルがないという。

「例えば、石田でも大塚でも田部氏でも挙げて、さてこの人々のモデルは誰かと問われても、私はただ当惑して、モデルはないと答えざるを得ないのです。モデルと考えられる人に迷惑をかけるという配慮からばかりではなく、実際に、小説の主人公は私のこころに生れた人物に過ぎないのですから」(「思い出すこと」『こころの広場』一九七七年、二〇六頁)。

 現代史研究の素材として『人間の運命』を読む、私のような読者は、著者のこの言明に戸惑う。

 なぜなら『人間の運命』には、(1)実名、(2)実名に近い作品上の名前、(3)A子、K氏のようなイニシャル名、(4)全くの作品上の名前、(5)無名の人々、が登場し、(1)首相や政治家、学者の名前は実名の場合が多いが、有名人でも(2)(3)である場合があり、(4)(5)であっても実在の人物に近いリアリティを持つケースがある。

 当時の東京帝大法学部教授でいえば、政治学の吉野作造は(1)実名だが、労働法の末弘巌太郎は(2)「末城教授」であり、憲法の美濃部達吉は(3)「M教授」という具合である。それも「モデルと考えられる人に迷惑をかけるという配慮」によって、主人公との距離で使い分け、一貫しているなら、わからないではない。

 しかし経済学部でも、最も近しい恩師糸井靖之、山崎覚次郎は(1)実名なのに、森戸辰男は「M教授」、河合栄治郎は「K教授」と(3)である。河合の「K教授」は、主人公と恋人「高場加寿子」の別離に重要な役割を果たしたからイニシャルかと思うと、自由主義者として弾圧されるさいには実名になる。

 (2)の哲学者三木清が「二木清」なのはフランス帰国時の芹沢への借金踏み倒しで、林芙美子の「林扶喜子」も主人公へのラブレターまがいで「迷惑をかける」と了解できるが、同じパリ留学仲間の国際法学者横田喜三郎は「横井」で、この原則に合わない。

 極端なのは大森義太郎で、当初は(5)「糸井助教授の研究室の助手」で、もう一人の助手有澤広巳と区別できないが、途中で(3)「新設の九州大学の助教授に任命」される「糸井助教授の助手のC」となり、主人公の「洋行」帰国後、処女作「ブルジョア」を褒める時には、九大を左翼事件で追われた評論家(1)大森義太郎と実名に変わる。

 芹沢の叙述は、一貫していない。「モデルはない」とはいっても、「有田氏」に義父藍川清成を、「田部氏」に石丸助三郎を、「森次郎」の家族や兄弟姉妹に実際の芹沢家の系図をオーバーラップして読まれるのは、著者も当然覚悟していただろう。要するに『人間の運命』は、島崎藤村『夜明け前』風に時代を大きく描く「大河小説」であると共に、登場人物には日本的「私小説」の趣があり、限りなく「モデル小説」「自叙伝」に近いのである。

 

親友菊池勇夫とベルリン社会科学研究会

 

 その中でも興味をひくのは、作者を髣髴させる主人公「森次郎」の一高・東大時代の親友で、末弘巌太郎の助手から九州大学に赴任する労働法学者菊池勇夫、作中の「池屋」である。菊池について、芹沢は、「長い旅路の伴侶」という追悼文を残している。

 「人生は旅であるといわれる。人生の旅に、私が旅だったという意識をもったのは、旧制の第一高等学校に入学して、上京した時である。あれから六十年近くなろうか。長い道中であり、さまざまな体験をした。その旅の間、いつも心をつなぎ、たがいに励ましあって、旅をともにした一人の親友がある。この友にめぐまれたことを、私は生涯の幸福だと喜んでいた。九州大学の元学長であった菊池勇夫君がその一人である」と(『こころの広場』七四頁以下)。

 『人間の運命』で菊池は、「法学部に入学した池屋」として、一高から東大に進学し一緒に勉強会を始めた仲間として出てくる。この読書会が機縁で、「池屋と生涯をちぎるような友情を結ぶ」。菊池は岩手県遠野出身であるが、「池屋」は「東北の城下町で武士の後裔として、折目正しく育てられ、鷹揚で内に厳しいものを秘めた育ちのよさが、全身にかおっていた」。高等文官試験受験を「池屋」に誘われ、「池屋」自身は法学部の研究室に残ることになったが、「次郎」と一緒に沼津で合宿して法律の勉強を助け、「次郎」は無事合格する。その後も「池屋」は、「次郎」の人生の曲がり角で、自由人への道を励ます助言者となる。たとえば役人をやめてのフランス留学、帰国後の中央大学就職のさいに。

 その菊池勇夫が、七五年に急死した。芹沢の追悼文では、一高時代の出会い、東大経済学部・法学部に分かれてからの読書会、一緒につきあってくれた高文試験受験勉強、パリ留学中の再会、そこで結核で倒れスイスで療養中に「ベルリンに向かう途中」、夫妻でスイスに立ち寄ってくれた時の感激、その後も続く家族ぐるみのつきあいが語られる。

 戦後日本を代表する社会法・労働法学者の一人である菊池勇夫は、『日本労働立法の発展』(一九四二年)、『労働組合法』(一九五四年)、『社会法の基本問題』(一九六八年)、『社会保障法の形成』(一九七〇年)ほか数々の専門的業績を残しているが、管見の限りでは、『労働法の開拓者たち』(一九五九年)、『戦後労働法の二十年』(一九六八年)など評論・随筆の類でも、芹沢との交友に立ち入った言及はない。だが菊池は、芹沢をスイスの療養所に見舞った直後のベルリン滞在で、在独日本人知識人・文化人の「ベルリン社会科学研究会」に加わり、マルクス主義文献に親しんでいた。

 この「ベルリン社会科学研究会」が私自身の研究対象で、二六年末に、当時の文部省派遣の若手学者たちが、東大新人会出身で法学部助教授蝋山政道の提唱で、経済学の有澤広巳、社会医学の国崎定洞、それに有澤と一緒の船で「洋行」した河上肇門下の京大谷口吉彦、高松高商堀江邑一ら、さらに朝日新聞特派員岡上守道、電通特派員鈴木東民、新劇役者千田是也らも加わって、マルクス、エンゲルス、レーニンらの文献を読む勉強会をもった。

 菊池勇夫は、同じく九大の舟橋諄一、東大の横田喜三郎、土屋喬雄、平野義太郎、京大の山田勝次郎、黒田覚、八木芳之助らと共に、これに加わる。二八年に菊池は、会の中心メンバーであった有澤広巳・堀江邑一らと同じく日本に帰国し、九州大学法学部の看板教授の一人になる。ただしその頃、すでに九大では大森義太郎、風早八十二らが左翼事件に連座し辞職していた。菊池勇夫は、東大に戻った有澤広巳と同じように、実践活動に距離をおき、学問に専念する。

 ベルリンに残ったグループには、菊池と入れ違いで京大の蜷川虎三らが加わり、東大医学部助教授を辞して革命運動に加わった国崎定洞と千田是也を中心に、急進化していく(詳しくは、加藤哲郎「ワイマール末期在独日本人のベルリン社会科学研究会」『大原社会問題研究所雑誌』一九九六年一〇月、加藤『国境を越えるユートピア』平凡社、二〇〇二年、など参照)。

 

林芙美子、白井晟一と在欧日本人左翼の接点

 

 林芙美子研究の世界では、芹沢『人間の運命』での「林扶喜子」への言及は、ほとんど問題にされていないようである。林芙美子の「洋行」は、一九三一年末、満州事変直後のことである。ヨーロッパの日本人社会でも、ドイツのナチス台頭とならんで、大きな政治問題になっていた。

 林芙美子の小説『巴里日記』には、日本に夫手塚緑敏を残して彼女が恋におちる「S氏」が登場する。「S氏」のモデルについては、画家外山五郎、考古学者森本六爾、仏文学者渡辺一夫、建築家坂倉準三など、さまざまな説が飛び交ってきた。私自身も、海野弘に従い坂倉準三説を検討したことがあったが(「ベルリン反帝グループと新明正道日記」、新明正道『ドイツ留学日記』時潮社、一九九七年)、最近芙美子の「洋行」時の自筆日記・書簡が発見されて、「S氏」は建築家白井晟一と確定された(今川英子編『林芙美子 巴里の恋』中央公論新社、二〇〇〇年)。

 芹沢『人間の運命』には、「林扶喜子」の訪仏時の模様とパリからの手紙は出てくるが、パリでの恋はでてこない。「森次郎」は、出入りの編集者からプロレタリア上がりの天衣無縫な女流作家の行状を忠告されて、「扶喜子」のきまぐれや「文壇」工作に距離をおく。

 ところが「扶喜子」ならぬ芙美子は、パリで左翼文化の洗礼を受けていた。恋人白井晟一は、この頃ベルリン大学美学生で、日本人左翼グループに関わっていた。三二年頃「鈴木東民のあとを受け、邦人相手の左翼新聞『ベルリン通信』を市川清敏とともに編集発行」した(ただし『ベルリン通信』の本当の名は『伯林週報』で、最近現物がみつかった。「加藤哲郎のネチズン・カレッジ」参照)。その後「モスクワに渡り一年間滞在、この時帰化しようとしたがかなわず、一九三三年、シベリア経由でウラジオストックから敦賀に帰港」した(今川前掲書)。

 この頃ベルリン在住の日本人は、学者は国崎定洞、芸術家は千田是也が中心になって、最高時三〇人以上の「伯林日本人左翼グループ」を作っていた。菊池勇夫や横田喜三郎が参加した読書会「ベルリン社会科学研究会」が急進化したもので、二九年に国崎と千田が入党しドイツ共産党日本語部を結成、帰国した平野義太郎・堀江邑一や河上肇の関わる日本共産党と、モスクワの片山潜・山本懸蔵・野坂参三らの仲介となった。いわゆる「三二年テーゼ」の伝達ルートである。白井も、その末端にいた模様である。

 林芙美子訪仏時の在欧左翼の中心は、日本ですでにプロレタリア作家として名を成した藤森成吉と、プロレタリア美術運動で検挙歴をもつ島崎藤村三男蓊助を伴い『前衛の文学』(一九三〇年)をひっさげ訪独した勝本清一郎、それに千田の三一年帰国と入れ替わりで入ってきた演劇の佐野碩らである。美術の島崎蓊助、竹谷富士雄、鳥居敏文、演劇の千田、佐野、土方與志、映画の川村金一郎、音楽の岡内順三(村山知義義弟)、二宮秀、建築の山口文象らのほか、河上肇・有澤広巳らの紹介で来独したベルリン大学留学生小林陽之助、小林義雄、喜多村浩、八木誠三ら「良家の子女たち」も加わっていた。

  最近島崎蓊助の在独時代の回想を含む遺稿が見つかり、私はご子息爽助氏と共に、『島崎蓊助自伝──父藤村への抵抗と回帰』(平凡社、二〇〇二年)と題して刊行した。一緒に活動していた小栗風葉の甥小栗喬太郎の場合は、小中陽太郎『青春の夢』(平原社、一九九八年)が詳しい。さらにこのグループは、パリに姉妹組織「ガスプ(在巴里芸術科学友の会)」を持ち、野村平爾、大岩誠、ねずまさし、大野俊一、嬉野満洲雄ら学者・学生と、内田巌、佐藤敬、坂倉準三、田中忠雄、吉井淳二、富永惣一ら若い芸術家が関わっていた。ちょうど芹沢光治良の留学時、セーヌ河の右岸・左岸で日本人コミュニティが分かれていたように、満州事変とファシズムの足音は、在欧日本人社会にも大きな政治的亀裂をもたらした。

 林芙美子は、帰国後も白井と文通し、三三年には日本共産党にカンパした疑いで検挙され、以後「運動」ときっぱり決別する。「森次郎」のように優柔不断ではなく、「文壇」生き残り戦略を貫く。

 

芹沢光治良と勝野金政の出会いと二十世紀体験

 

 芹沢自身は重きをおかない(5)の人々にも、面白い人物が紛れ込んでいる。

 『人間の運命』第八巻第一三章に、主人公「森次郎」の洋行時に白山丸で一緒だった大本教信者「西村」と、二六年春、ソルボンヌのキャフェテラスでばったり再会し、大本教ヨーロッパ総本部に連れて行かれて、フランス語版『オオモト』出版の手伝いを頼まれ断る場面の回想がある。ボージラル街の安下宿の三階が大本教パリ本部で、「瘠せた小柄な日本の留学生らしい青年が、部屋の隅で、熱心にフランス語の翻訳をしていた」(四、五〇一頁)。

 この場面の実際は、芹沢の随想「三岸節子さんと宮坂勝君」の中で、信州出身の画家宮坂勝と知り合う経緯の説明に出てくる。大本教の西村は実名で、実際はこうであった。

 「フランス語の大本教の宣伝誌をパリで発行するが、経済的に困る日本の留学生を紹介してくれと、手紙で依頼されたが、心当たりがなくて、ことわったところ、三週間ばかり後に、パリ大学の文学部の教室で時折顔を見る、小柄で痩せた若い日本人が、はじめて私に話しかけて、西村師を助けることになったと告げた。早稲田大学を中退して、パリで哲学を勉強しているということで、私に親しもうとしたようだが、当時、私は努めて日本人との交際をさけていたから、今ではその人の名も忘れたけれど、この哲学を勉強する学生から、同じ信州人の画家だといって、宮坂君を紹介された」とある(『こころの広場』一三〇ー一三一頁)。

 芹沢が名前を忘れたソルボンヌの「痩せた哲学生」は、結核で倒れる前の芹沢についての記憶を残していた。信州南木曾出身で、同郷の島崎藤村の勧めで、早稲田大学からパリ大学に一九二四ー二八年留学していた勝野金政である。

 「芹沢は郊外に住んでいて、学校に来る外は劇の研究をしており、毎週かかさず観劇しているといっていた。快適な家庭生活をしているらしく、日本に帰ったら何をするつもりかと聞いてみると、東大の経済を出て農林省の官吏になってはいるが、巴里遊学の後は故郷へ帰って社会学の雑誌でも出そうかと思っているといっていた。出身地は沼津で父が天理教にこって宣教師のようなものになってしまったため、一高時代は随分苦労したといっていた」「その頃彼は小説家になるとはいっていなかった」(『凍土地帯』吾妻書房、一九七七年、一四ー一五頁)。

 苦学生勝野金政にとって、芹沢は「ブルジョア」で「私とは大きなへだたりのある生活態度」だった。大本教はあくまでアルバイトで、やがてフランス共産党に入党し、二八年パリ警察に逮捕され国外追放となる。パリ大学での親友が高崎中学出身で画家修業中の井上房一郎(後のブルーノ・タウト滞日時のスポンサーで高崎哲学堂主宰者)で、井上の高崎中の先輩蝋山政道の紹介で、フランクフルト留学中の東大助教授平野義太郎を知っていた。平野は、勝野をベルリンの国崎定洞・有澤広巳・千田是也らのもとに紹介する。モスクワに行きたいという勝野に、ベルリン日本人左翼仲間はカンパで応える。

 無事モスクワに到着した勝野は、その文才と政治的能力を買われ、千田の父伊藤為吉の親友であるコミンテルン幹部会員片山潜の私設秘書となる。しかし当時のモスクワ日本人社会で、当時のもう一人の日本共産党代表山本懸蔵から「スパイ」と疑われ、一九三〇年秋、突如ソ連の秘密警察に逮捕され、一九三四年にモスクワ日本大使館に逃げ込むまで、ソ連の強制収容所生活を体験する。三四年夏帰国時に新聞でも大きく報じられ、『赤露脱出記』(三四年)、『ソヴェト・ロシヤ今日の生活』(三五年)など多くの体験記・小説を発表したが、戦後は故郷に戻って実業家として没する。私は、ベルリン左翼の国崎定洞のモスクワ亡命と三七年粛清死の真相を追って勝野金政逮捕の旧ソ連秘密記録を発掘し、『モスクワで粛清された日本人』(一九九四年)や『国境を越えたユートピア』で分析した。勝野金政・宮坂勝を通じても芹沢は島崎藤村とつながっていた。ただし勝野『凍土地帯』『藤村文学・人とその風土』(木耳社、一九七二年)が芹沢に届いた形跡はない。芹沢にとってはパリ時代の「痩せた哲学生」のままだったろう。

 注意深い本誌の読者なら、気がついた人もいるだろう。評論家山口昌男が、最近『新潮』誌上で論じた「二十世紀における『政治と文学』の神話学」で、「日本におけるソルジェニツィン」として発掘された「二十世紀文学」こそが、勝野金政帰国後のラーゲリ体験記『赤露脱出記』(一九三四年)であった(「二十世紀における『政治と文学』の神話学」『新潮』二〇〇一年一〇・一二月、〇二年二月号)。

 

林芙美子の政治性と芹沢の優柔不断

 

 冒頭の場面に戻ろう。林芙美子は、白井晟一を介して、勝本清一郎や「島崎藤村の息子」=蓊助がベルリンで左翼実践運動に加わっていたことを知っていた。その勝本が事務局を握り、『夜明け前』を完成したばかりの会長に島崎藤村を担いで、日本ペンクラブを創立したところに、何かを感じとった。

 芹沢光治良は、菊池勇夫を介して、当時のヨーロッパに東大新人会・京大河上肇の流れを汲むマルクス主義勉強会があったことは知っていただろうが、それがヨーロッパでコミンテルン「三二年テーゼ」を日本に送付するような実践組織になり、ハリコフの世界革命作家同盟大会(三〇年)に勝本清一郎・藤森成吉が出席・報告したような詳しい事情は知らなかったであろう。

 今日では『日本ペンクラブ五十年史』(一九八七年)に、勝本清一郎のプロレタリア作家歴も島崎蓊助とのドイツ同行も出ているが、『人間の運命』執筆時には、広く知られていたわけではない。芹沢自身は、日本ペンクラブの創立時に藤村から会計主任を頼まれたのは、藤村が芹沢の朝日新聞連載小説「明日を逐うて」の挿絵を描いた画家小山敬三の父と親しく、芹沢を信頼していたからだとしている(「或る女流詩人への手紙」『こころの波』一九七二年、二二一頁)。

 だが林芙美子との雑談で、あるいは『人間の運命』執筆時までの「明治にうまれた私たち世代の伝記」の読破の中で、そこに芹沢とは異なる政治的「洋行」体験をもつ人々と藤村のつながりを知り得たのであろう。「林扶喜子」の口から、もっぱら文藝春秋・菊池寛との文壇内のゴシップの装いで、「副会長の有馬さんは、昔から藤村の親友ですし、主事の勝本さんは、藤村のお子さんがドイツ留学中の監督役を引き受けていたそうですし」と注意させた。

 もうひとつ、『人間の運命』の日本ペン倶楽部設立をめぐる芹沢と林芙美子の対話で描かれなかったのは、かつて平野謙・本多秋五が執拗に問題にしてきた、勝本清一郎の「洋行」体験に秘められた「人民戦線」の思想である。

 三〇年ハリコフ世界革命作家同盟会議で「日本プロレタリア文学運動についての報告」を行った勝本は、三二年末ー三三年佐野碩と共にモスクワに滞在し、当時日本で支配的な蔵原惟人らの党派的路線を批判する「日本のプロレタリア芸術運動に対するテーゼ」を執筆する。だが、当時のコミンテルン日本代表で慶應大学の先輩である野坂参三から、待ったがかかる。野坂は勝本に「ロシアに長くいないで帰りなさい」「帰ってもナップ関係のものに会うのはよしなさい」「もし君が日本に帰ってブルジョア民主主義という立場からだけ主張してくれれば、日本共産党はそれで感謝します」と述べ、三四年帰国後の勝本は、この「人民戦線」の立場で島崎藤村を評価し、『北村透谷全集』に没頭したというのである(勝本清一郎『近代文学ノート』第4巻、みすず書房、一九八〇年、参照)。

 佐野碩も野坂参三も証言を残さずに没し、この野坂・勝本会見を裏付ける資料は、モスクワでもまだみつかっていない。だが「ベルリン社会科学研究会」から「ベルリン日本人左翼グループ」への国崎定洞、千田是也らの活動が、平野謙のいう意味での「人民戦線」に近かったことはまちがいない。

 一九三五年一一月、日本ペンクラブの創立は、夏のコミンテルン第七回大会「反ファッショ統一戦線」決議の直後だった。それをモスクワで担ったのは、野坂参三、山本懸蔵のほかに、ナチスの迫害でベルリンからモスクワに亡命した知識人、小林陽之助と国崎定洞だった。

 国崎定洞はモスクワに残りスターリン粛清の日本人犠牲者となるが、小林陽之助は、一九三六年七月、野坂の命を受けて密かに日本に帰国し、ベルリンで知り合った京都の『世界文化』同人大岩誠やフランス帰りのねず・まさしらを頼って活動していた。三七年末に逮捕され、獄死する。その小林・大岩らの供述から、勝本清一郎も三八年検挙され、日本ペンクラブ常任理事の仕事を中島健蔵に引き継ぐ。三一年「洋行」での白井との別れを体験し、苦い経験をつんで「プロレタリア」から「文壇」入り果たした林芙美子は、こうした問題に敏感だった。

 

 島崎藤村『夜明け前』の流れの「二十世紀文学」

 

 よく知られているように、『人間の運命』では、一九二五ー二八年の「森次郎」の「洋行」時代がすっぽり抜け落ちている。その時代に、芹沢が左翼運動に近づいた形跡はない。菊池勇夫や横田喜三郎も、マルクス主義の勉強はベルリンだけのようである。

 だがその周辺には、多くの左翼知識人・文化人がいた。東大経済学部糸井靖之の後継者で、芹沢とゼミも同期、大森義太郎と同じく「糸井助教授の研究室の助手」であった有澤広巳は、なぜか『人間の運命』では、三六年人民戦線事件で弾圧された労農派学者として一言されるだけである。有澤広巳は、「ベルリン社会科学研究会」で最もマルクス主義を深く学び、帰国直前に起こった三・一五事件との関わりで、政治的実践より学者としての研究を選んだ。同じ労農派でも、大森義太郎・向坂逸郎らと一線を画した。

 三三ー三五年は、プロレタリア文化運動体験者の「転向」の時代である。ベルリン、パリで「運動」に関わった多くの芸術家も沈黙を強いられた。芹沢『人間の運命』は、林芙美子の口を借りて、日本ペンクラブ創設期の隠れたエピソードを、記録に残した。

 芹沢光治良は「同伴者作家」と評される。確かに日本共産党やプロレタリア文化運動との関係では、そのように評される資格がある。だが「プロレタリア文学」の威光も色褪せた二一世紀に、敢えてその距離を問題にすることもないだろう。

 「自由主義作家」という評もある。だが思想としてのリベラリズムが根づかず、もっぱら経済理論上の「市場原理主義」と等置される文化風土では、必ずしも積極的意味を持たない。

 むしろ、山口昌男が勝野金政を評したのとはやや異なる文脈で、島崎藤村が幕末から明治の日本を大きく描いた延長線上で、芹沢光治良は「二十世紀文学」を拓いたものと解すべきであろう。

(一橋大学教授・政治学)


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