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時事通信社『世界週報』2003年12月2日号書評 

 

松野仁貞著『毛沢東を超えたかった女』(新潮社、1500円)

 

 

         評者 加藤哲郎(一橋大学大学院社会学研究科教授・政治学)

 

 


うまいタイトルである。表紙の顔写真がなければ、毛沢東夫人江青か、香港出身の新進女性政治家の話かと、誤解されるだろう。一部は当たっている。本書の主人公の映画女優劉暁慶(リウ・シャオチン)は、一九八八年から中国人民政治協商会議全国委員、つまり国会議員でもあった。

 だがよく知られているのは、日本でもヒットした『西太后』『芙蓉鎮』の主演女優、中国作家協会会員というアーチストの顔である。もう一つは、米誌『フォーブス』中国億万長者五〇人に選ばれた「富姐」で、二〇〇二年七月、一四五八万元(約二億一八七〇万円)の巨額脱税容疑で逮捕された、悪徳実業家としての顔である。

 実際、本書を読むと、女優の伝記というよりも、「改革開放」の波に乗り上昇した中国富裕階級誕生の物語である。より正確にいえば、政治と経済と文化が一体化しながら、猛烈な勢いで変容する中国社会の現代化にスポットをあて、その「光」が実は膨大な農村貧困層を犠牲にして形成された「影」と表裏一体で、今日なお矛盾が拡大し混沌としている様相を、活写している。そういえば、かの文化大革命で「四人組」を率いた江青も、女優出身だった。

 中国語でグローバリゼーションを「全球化」という。劉暁慶が、一九八〇年に初来日した際、北京映画撮影所を代表する彼女は、月給五〇元(当時約七〇〇〇円)だった。日本の大卒初任給が一〇万円の頃で、来日のための衣裳も撮影所から借りたチャイナドレス一着、スリットのほころびが恥ずかしかった。

 その屈辱をバネに、劉暁慶は、数々の映画賞を受賞しながら副業に精を出し、アメリカやフランスに招かれ、台湾や香港に進出し、やがて不動産を買い漁る。九〇年代には「億万富姐」として「毛沢東を超えた」と、挑発的な発言を繰り返す。その蓄財手法が、現代中国の「影」を浮き彫りにし、何ともおぞましい。「契約」観念の欠如、現金への執着、詐欺常習の「我行我素」。農村出身ながら「都市」戸籍を取得できたのが飛躍の原点だった話、上海派と北京派の指導部対立も参考になる。  

 一九五八年生まれの第一線ジャーナリストである著者は、「社会主義市場経済」の内実は、欧米以上の「峻烈な資本主義」だ、と喝破する。読者は、女優劉暁慶の立身出世と蓄財・醜聞の話を追いながら、知らず知らずに中国資本主義発達史を学ぶ。

 だが、劉暁慶は、毛沢東も江青も超えられなかった。目に余る悪徳ビジネスが、「上海派」朱鎔基首相の逆鱗に触れ、脱税で獄中につながれる。もちろん、他の「億万長者」たちへの見せしめである。この暗転が、資本家も党員に採用する中国共産党の内部改革と平行したことが興味深い。億万長者を輩出しても、有人人工衛星を成功させても、毛沢東が立ち向かった壮大な矛盾と格差はなお残され、むしろ拡大している。

 そして、それを仕切る「政治の優位」は、いまなお健在なのである。    



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