尾崎行雄記念財団『世界と議会』第518号(2007年11月)<特集「国家」の本質と変容> 掲載


グローバルな地球社会のナショナルな国家

 

一橋大学大学院社会学研究科教授(政治学) 加藤哲郎

 


 一 はじめにーー近代国民国家

 

 いま地球上には、国家(state)とよばれるものが、国際連合加盟国でいえば一九二か国存在する。そのほか国連非加盟でもオリンピックやワールドカップにチームを出す地域があるから、おおむね二〇〇程度の政治単位に分けられ、運営されている。

 この数は、歴史的に変化してきた。第二次世界大戦終了後に連合国五一か国で作られた国際連合は、アジア、アフリカの旧植民地の独立で一九六五年に一一八か国になり、冷戦崩壊期の旧ソ連解体などで増殖し、今日の一九二か国になった。

 かつてドイツ国家学の系譜は、主権、領土、国民を「国家の三要素」と挙げたが、今日では、国際社会における他国家による外交的承認が、国家存立の重要な要件になっている。いわゆる近代国民国家modern nation stateである。

 もともと近代国民国家の成立そのものが、ウェストファリア体制のもとでのヨーロッパ国際関係の成立(宮廷間関係から国家間関係へ)と平行していたから、グローバリゼーションは、帝国主義時代の本国と植民地の関係、冷戦期の米ソ主導の東西同盟にも孕まれていた。学問で言えば、国家学・外交史から国際関係論・国際政治学が生まれた。

 しかし、一九八〇年代の新自由主義台頭の頃から、とりわけ八九年の冷戦崩壊以降、従来の国際化internationalizationに代わってグローバル化globalizationの語が頻出するようになり、国家についての政治理論は、新たな問題を抱えるようになった。

 それは、第一に、支配的な経済システムである資本主義と国家の関係であり、第二に、国家stateと国民・民族 nationとの関係での多様性であり、第三に、グローバルな地球社会と国民国家という仕切り・政治単位の問題である。

 

 二 「小さな政府」の理念と現実

 

  二〇世紀の第四・四半期、イギリス・サッチャー政権の頃から、自由貿易主義の主張と相俟って、「小さな政府」論が台頭した。それまでのケインズ主義的福祉国家が政府の荷重超過で財政危機を招いたとして、規制緩和と民間活力導入で公的領域を縮減し、国家の運営における効率性が求められるようになった。

 もともとアダム・スミス的な経済的自由主義の夜警国家観からすれば、国家は経済活動を自律的市場の「見えざる手」に委ね、度量衡設定や治安維持・対外防衛など最小限の役割に限定されるはずだった。ところが、資本主義経済秩序と近代国民国家の関係を歴史的にふりかえると、「夜警国家」や「小さな政府」の理念を貫きえたのは、英米などごく一部の先発国の、例外的な時代にすぎなかった。それも、国外植民地からの暴力的な搾取・収奪や、国内における広大なフロンティアの存在を前提にしていた。

 とりわけ二〇世紀になると、社会主義国家の登場とケインズ主義の隆盛が相俟って、いずれの国でも国家の経済的役割は飛躍的に増大した。二次の世界大戦における国民動員と総力戦体制が背景にあるが、金融財政政策を持つ資本主義と国有企業中心の社会主義計画経済が世界に広がって、国力はGDP(国内総生産)で測られるようになった。

 さらに国家は、経済発展ばかりではなく、人権・市民権、民主主義の発展によっても、活動領域を広げ財政・要員を膨張させた。労働者や女性が政治に加わり、さまざまな社会運動や圧力行動に政府が応答を迫られた。こどもの教育や老人・社会的弱者への福祉供給はもちろん、最低賃金や労働時間など労働条件さえ国家による規制が当たり前となった。

 限られた国家財政を軍需にまわすのか、経済発展・開発に投資するのか、それとも福祉や民生向上に重点をおくのかで、日本やアジアに多い開発国家、北欧諸国に典型的な福祉国家など、同じ資本主義経済を基礎にしても、機能的に異なる国家の型が現れた。

 新自由主義の時代に入っても、そうした国家の型は、経路依存性により、簡単には崩れない。グローバルな世界市場のもとで、金融は世界をめぐり、貿易障壁も低くなっているが、グローバル化に対する国家の対応は、さまざまにわかれる。

 三 国家と民族の不整合な増殖

 

 現代国家についての第二の問題領域は、国家stateと国民・民族nationのギャップ・ずれである。 ヨーロッパの近代国家は、もともと中世の数百に分散した領邦権力が絶対主義の中央集権化をくぐって三〇ほどに整理されて生まれた。その理念が国民国家で、国家は「過去における共通の栄光、現在における共通の利益、未来における共通の使命」(ハンス・コーン)をもつネイションを基礎につくられるとされた。言語や文化を共有する民族が国民の一体感を保証し、その範域は、古代帝国に比すれば小さく、中世領邦国家に比すれば大きい、人口数千万人程度の中規模な政治的統合を可能にする、と観念された。

 だが、民族自決の理念で旧植民地が独立し、アジア、アフリカで増殖して今日二〇〇近い政治単位となり、地球の国民国家的分割は最終的に完成された。その過程で、国家の規模も、中国やインドのような人口十数億の巨大国家から、パラオやモナコのような数万人のミニ国家までの、バライアティが生まれた。一民族一国家どころか、さまざまな人種・民族で構成されるモザイク国家が、圧倒的多数派になった。二〇世紀の国民国家は、国家という観念での一般化を困難にするほどに、多様なかたちで増殖した。

 新興諸国は、政治的に独立しても、経済的自立は困難で、旧宗主国や大国に従属するかたちが多かった。国旗・国歌、叙勲・国家儀礼、国語・公用語・文書書式、通貨や郵便切手の表徴、暦・祝祭日や記念日・記念碑の設定等あらゆる手段で国民統合を図り、ナショナル・アイデンティティを構築しようとする。宗教や建国神話、指導者崇拝も動員される。

 こうした国民国家の多様な出現を受けて、ネイションとは国家のつくりだしたフィクションではなかったかと疑問が出された。 一方で国家形成が先行して国民形成に苦しむ新興国家の現実と、他方で民族学・人類学のエスニシティ研究の発展によって、ネイションとは「イメージとして心に描かれた想像の政治共同体である」というベネディクト・アンダーソンの定義が広まった。より理論的にいえば、国家の強さは、軍事力や経済力によってばかりではなく、その国民統合力、文化的凝集性、マックス・ウェーバーの述べた「支配の正当性」やナショナル・アイデンティティによっても測られるようになった。

 

 四 グローバリゼーションと国民国家のゆらぎ

 

 第三に、社会主義の崩壊、東西冷戦終焉以降、グローバリゼーションが急速に進んだ。伝統文化や宗教の違いを越えて、市場経済が地球的規模に広がった。

 多国籍企業となった巨大企業は、中小国家のGDPを凌駕する売上高を持ち、世界のすみずみに工場と販売網を広げた。IMF(国際通貨基金)・世界銀行・WTO(世界貿易機関)など国際組織の取り決めが、受け入れ国の経済や政治に大きな影響を与える。

 欧州連合(EU)のような一つの市場・通貨を持つ国家連合体が生まれ、NAFTA(北米自由貿易協定)、APEC(アジア太平洋経済協力会議)など地域統合も進んだ。移民・難民・外国人労働者が増大し、ヒトの流れも地球大になった。そのうえテレビやインターネットで、世界の情報は一つにつながる。NGO(非政府組織)・NPO(非営利組織)や市民の運動も地球的規模になり、ある国の出来事は瞬時に他の国に伝わる。国内政治がただちに国際政治につながり、国際政治が国内政治を左右するようになった。

 このような国家と国民の関係、国民と民族のギャップ、資本と労働力の国際移動による領土や国境イメージの変容を背景にして、国民国家の「ゆらぎ」や「たそがれ」が語られている。しかも、二〇〇一年九月一一日の米国同時多発テロ以降、旧来の国家間戦争とは異なる国境を横断した紛争が生まれ、軍事大国アメリカが「世界の保安官」としてアフガニスタンやイラクに展開する、新しい事態も生まれている。

 五 グローバル・ガバナンスの必要

 

 そればかりではない。国家を中心とした政治そのものが限界につきあたり、国民国家を超える新たな秩序が求められている。

 二一世紀に人類が先送りした二〇世紀の負の遺産として、核兵器と地球生態系危機がある。国益を求める競争が二度の世界戦争を生み、国家安全保障を絶対視する軍拡競争が人類絶滅を可能にする核兵器を集積させた。開発主義の競争は、経済発展の基盤である原料資源を枯渇させ、自然生態系を破壊し、気候変動をもたらした。こうした問題は、一国家の規制では限界がある。空気や水や土は地球全体でつながっている。 国家間の国際政治ばかりではなく、地球市民による地球政治が必要になった。

 グローバリゼーションが進めば進むほど、国家統治にたずさわる政府(ガバメント)のみならず、国際法・国際組織や地域統合が重要になり、多国籍企業、NGO・NPO、自治体・地域社会、市民のネットワークが重合するグローバル・ガバナンス(地球統治)が問題になる。地域住民の分権・自治・参加の要求が高まり、ローカルな自立・分離の動きによっても、ナショナルな国家の絶対性はおびやかされる。

 国家の基礎には社会がある。社会がグローバルに広がり、ローカルな政治が活性化し、企業や市民のネットワークが地球をおおいつくした段階で、かつては絶対的と思われた政治単位・帰属対象としての国民国家の意味と限界が、改めて問い直された。

 国家の「来歴」や「品格」が説かれ、「美しい国」「愛国心」のナショナリズムが語られるのも、グローバル化のもとで、国民国家の「ゆらぎ」や「たそがれ」への懼れと不安が強まっているからである。経済のボーダーレス化、市場のグローバル化とは裏腹に、宗教や伝統文化へ回帰し、原理主義・分離主義に向かう傾向が世界的に強まった。 

 

 六 おわりにーー二一世紀の国民国家の行方

 

 こうしたグローバル化と国民国家のゆらぎ、ボーダーレス経済下で続くボーダーフル政治のもとで、国家の将来の見通しは分岐する。

 第一は、国民国家の終焉ないし「たそがれ」論である。資本主義のグローバル化が不可避的であるように、国民国家の衰退も不可避で、政治のレベルでも国際関係から地球政治への移行が始まった、国家主権や国籍の絶対性は弱まり無意味化し、二一世紀は地球市民権の時代で、人類はグローバル・ガバナンスに向かうという楽観論である。

 第二に、グローバリズムは国民国家の土台である国民経済や地域共同体を浸食し、文化的伝統を解体しようとするが、逆に国民国家を防壁にグローバリゼーションに抵抗する動きも強まるという、国民国家強化論もある。宗教や文化がナショナリズムの基盤となって、地球はむしろ大分裂時代、文明の衝突を迎えるとみなす悲観論もある。

 第三は、国民国家の「ゆらぎ」ないし再編論で、グローバル化の影響は確かに深刻であるが、国民国家という政治単位の基軸性は失われず、歴史的に構成されてきた国際法・国際機構の役割が大きくなり、二七か国に広がったEUのような地域統合が進むが、それは国民国家体系の再編というかたちで漸次的に進行すると見る、現実主義的見方である。

 これらの分岐は、冷戦崩壊後の新世界秩序の評価、アメリカ一国覇権論(単極論)、米欧日多極化論、アジアとBRICs(ブラジル、ロシア、インド、中国)台頭論、グローバリゼーションについての新帝国主義論、帝国論、新重商主義論などと関わっている。

 実は、こうした国家観の分岐、楽観論と悲観論の分かれ自体、論者の属する国が大国か小国か、北か南か、勃興期にあるのか没落期にあるのか、近代化・工業化がどこまで進み、民主主義がどこまで成熟したかにより、左右されるところが大きい。

 この意味で、私たちは、グローバルな地球社会の地球市民としての課題を抱え、ナショナルな国家のもとでの国民としての選択を迫られ、ローカルな生活圏の市民・住民・家族としての日常の間で、たえずアイデンティティが分裂し、悩まされているのである。

 


※ 本稿は、社会理論学会二〇〇五年度年次大会報告「グ ローバリゼーションと国民国家」(『社会理論研究』第七号、二〇〇六年)を、本誌のために要約・改稿したものである。国家の本質論などより理論的な問題は、同誌を参照されたい。



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