『別冊 歴史読本 日本史研究最前線』所収(新人物往来社、2000年5月所収)

 

「高度経済成長はなにを変えたか?」

 

加藤 哲郎(一橋大学)

 

 


 高度経済成長時代とは、戦後生産力水準が戦前最高時の水準を回復した1955年から、74年に国内総生産がマイナスに転じるまでの、約20年間をさす。資本主義世界全体も飛躍的発展を経験したが、日本の経済成長率は年平均10%の驚異的なものであった。

 それは、おおむね2期に分けられる。55年「神武景気」から「岩戸景気」を経て東京オリンピック後の65年不況にいたる前期と、66年「いざなぎ景気」以降再び回復して68年には西ドイツを抜いてGNP西側第二位となったが、73年秋の石油ショックで世界経済全体がゆきづまり、日本も「安定成長」への軌道修正を余儀なくされるまでの後期である。

 市場の成功か、政府の成功か?

 この時代の経済的成功については、学問的で政治的な論争がある。単純化して言えば、「市場の成功か、政府の成功か」で、民間大企業の設備投資と生産拡大が成長の原動力であったことは疑いないにしても、それを誘導した政府の産業政策や行政指導をどう評価するかという問題である。

 この時代に、経済構造・産業構造は激変した。農業が衰退し軽工業から重化学工業・サービス産業中心へ、保護主義的国内産業育成から資本・貿易自由化を経て大企業の輸出拡大・多国籍企業化へ向かった。

 民間企業の技術革新やいわゆる日本的経営に注目すると、それは先進国共通のフォード主義的大量生産・大量消費をベースにした「市場の成功」に見える。しかし高貯蓄率・財政投融資・政府金融や旧財閥系企業集団の株式持合に注目すると、傾斜生産方式・所得倍増計画・全国総合開発計画など「政府の役割」がクローズアップされ、戦前からの国家主導の「欧米へのキャッチアップ」の完成に見える。それも一時はE・ライシャワーら親日派から「アジアの近代化の模範」「ジャパン・アズ・ナンバーワン」ともてはやされたが、「小さな政府」を掲げる新自由主義が優勢になると、日米貿易摩擦・構造協議の火種となった。

 バブル経済期には日本的行政指導・系列・カンバン方式が評価されたが、バブルがはじけると「1940年体制」「総力戦体制」と戦中に遡って成長を支えた「官民一体」が問題にされ、「グローバルスタンダード」に反するとして「規制緩和」「リストラ」の対象となる。

 日本国憲法と日米安保条約が軍需に頼らない「軽武装」重化学工業化を可能にしたとする平和経済論もあれば、技術・貿易の対米依存を重視し、朝鮮戦争特需による復興、ベトナム特需をバネにしたアジア市場進出に注目する対米従属説もある。つまり成長評価そのものが政治的色彩を帯びる。

工業化・都市化で社会と生活が変わった

 しかしこの時代のインパクトは、経済発展そのものよりも、その国民生活に及ぼした変化にある。「高度成長の光と陰」と社会変動の評価こそ、日本史研究の本質的問題である。

 確かに生活は豊かになった。着物・もんぺ・軍服からスーツ・ネクタイ・スカートへ、ちゃぶ台でご飯と味噌汁からテーブルでのパン・牛乳・インスタント食品へ、木造住宅・長屋から団地・マンションへと、衣食住が変わった。1960年頃の「3種の神器=テレビ、洗濯機、冷蔵庫」から70年代「3C=カラーテレビ、クーラー、マイカー」へと、耐久消費財は充実した。茶の間がリビングに変身し、神棚にかわってテレビが「マイホーム」の中心になった。まだファミリーレストランやコンビニエンスストアは広がっていなかったが、都市近郊の団地に住みスーパーマーケットで買い物というライフスタイルが定着した。いわゆる新中間層が増大しサラリーマンの時代となる。「中流意識」「私生活主義」の誕生である。

 それは、高度経済成長期の「民族大移動」の産物であった。1960-75年の15年間で東京・大阪・名古屋の三大都市圏に1533万人が流入した。農業と農村が変貌して、50年に300万戸あった専業農家は70年85万戸に激減した。集団就職や出稼ぎで、過疎の農村には「3ちゃん農業」が残った。農村にも地域開発で工場を誘致し、コマーシャルを通じて都市型消費に組み込まれた。サラリーマン化した労働者は「春闘」賃上げを励みに満員電車で長時間通勤し働いた。いわゆる企業社会・日本的経営の原型は、60年代に輪郭ができていた。

 女性の社会進出が進むのは高度成長終焉後の70年代後半からだが、高学歴化・核家族化で「マイホーム」での女性の発言権は拡大した。成長の夢は子供たちに託され、高校・大学進学率が驚異的に伸び、偏差値や予備校・塾が登場した。

 とりわけ電話とテレビの急速な普及がコミュニケーションのあり方を変え、子供たちの遊びを変えた。週刊誌・コミックが普及し、平均身長が百年足らずで13センチも伸びた若者たちは、管理社会に反発してビートルズに熱中し、ベトナム反戦・学生運動の中で長髪・ジーンズ・ミニスカートを文化とした。高速道路・新幹線に象徴される素早い空間移動と、だれでも時計を持ち寸暇を惜しんで仕事に熱中する時間の凝縮・高速化が、高度成長期の時空体感であった。

「高度成長の光と陰」とその遺産

 そこから経済成長の「陰」も見えてくる。労働災害・職業病はもとより、後に過労死とよばれる「企業戦士の名誉の戦死」が生まれていた。超スピードの工業化・都市化で景観が変貌し、水俣病・光化学スモッグなど「公害」が告発され、自然環境・生態系破壊でも世界の先駆となった。伝統的地域社会の崩壊と核家族化は、都市型犯罪や心身症の温床となった。それらすべてが、有限な地球資源とグローバル化に依存する73年オイルショックで「油上の楼閣」だとわかると、トイレットペーパーを買いだめするパニックとなった。「キャッチアップ」は終わったのである。

 総じて高度経済成長は、日本列島に「受動的革命」をもたらした。平均寿命は1950-75年で男女とも15歳伸びた。「人生50年」「産婆に産湯をつかり、畳の上で死ぬ」生き方は過去のものとなり、出生も死亡も病院へと変化した。今日のグローバル化・情報化・少子高齢化社会の原型はこの期につくられて、21世紀に重いツケをまわしたのである。




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