<資料と解説>
日本人はなぜ、地震常襲列島の海辺に「原発銀座」を設営したか?
- 3・11原発震災に至る原子力開発の内外略史試作年表
-
Why Japanese Put up Strings of Nuclear Plants along
Their Quake-Prone Archipelago?
- A Historical Chronology of
the 3.11 Fukushima Nuclear Disasters -
佐々木 洋
要旨:
歴史は繰り返さないまでも、その韻を踏む。小論は、第二次大戦前夜から3・11原発震災が起こるまでの、わが国の原子力開発の経緯を歴史的に理解する予備作業として、わが国内外の安全保障と原子力開発の展開史を鳥瞰する年表を試作してみた。核兵器の開発戦略から完全に分離された、純民生用の「原子力の平和利用」としての原子力発電は、わが国を含め、存在しない現実に照らし、原発の開発の歴史を、核兵器の開発との関連を意識して編集に努めた。3・11の経験を踏まえて、内外の原発の歴史を検証することのなかには、わが国の良識派をもって自任する人々が共有してきたと思われる世界観や歴史観を問い直す課題も含まれる。
(キーワード:軍産複合体 核開発 東西冷戦 スターリン体制 核燃料サイクル 六ヶ所村)
【1】世界現代史および日本現代史の分水嶺としての3・11原発震災
2011年3月11日に東京電力福島第一原子力発電所で起きた同時多発的原子炉事故、あるいは石橋克彦のいう「原発震災」(地震による原発の放射能災害と通常の震災とが複合・増幅しあう破局的災害)が、世界と日本の原子力発電の歴史における大きな分水嶺になることは間違いない。
わが国の原発問題の必読書、吉岡斉(2011)『新版 原子力の社会史』(朝日選書)が指摘するように、私たちは福島原発震災に関して、「なぜそれがソ連で1986年に起きたチェルノブイリ事故に次ぐ、史上最大級の原子力事故に発展してしまったのかについて、基本的に考え直す必要がある。そのためには歴史を検証する必要がある」(同書398頁)。同書は、日本の原子力開発利用の歴史を、草創期から、3・11原発震災までをカバーする鳥瞰図的な通史として描いた労作である。こうして私たちは、幸いにして、わが国の原発問題を考える際に、どうしても不可欠な、日本の通史的な座標軸を与えられている。
福島原発震災は国際社会にも多大な衝撃を与えた。オバマ政権は、空母ロナルド・レーガンを派遣し、トモダチ作戦を展開した。『琉球新報』は、「兵士の献身的な働きぶりには敬意を払う」としつつも、「半面、彼らが所属する海兵隊が戦後沖縄でどれだけ傍若無人に振る舞ってきたのか。その点にも思いを巡らせてほしい」と指摘した。米誌WSJは、日本が、米国の現代戦を研究する上で「思いも寄らない実験場」となり、米海兵隊当局者は、トモダチ作戦が、「最悪の戦争シナリオに対する米軍の対応を研究する上で有益だったとの認識」を示したという1。また、菅政権による浜岡原発の停止措置は、横田や横須賀の風上にある浜岡を懸念する米国の意向であったとも言われる。
平和憲法をもつ日本は、原子力基本法、非核3原則、NPT条約加盟などから「核武装の意向」を否定してきた。日本人の多くも、わが国の核武装はありえないと考えてきた。ところが、日本が原発大国化してくる過程で、国策としての「再処理-国産高速増殖炉路線」は、一度も見直すことなく現在に至っており、2006年3月からは、青森県六ケ所村に建設した大型再処理工場でアクティブ運転を始めてきた。こうして大規模なプルトニウム利用計画を堅持する日本は、かねて、内外から、核武装の意図を疑われてきた。日本はすでに核兵器製造に必要なものの大半は入手しているし、核兵器の運搬手段に転用しうるロケット技術も確保している。3・11はこうした日本で起きた原発震災であった。それゆえ、わが国の原発問題の歴史的な検証は、日本の現代史にとどまらず、日本がおかれた国際関係の歴史的なかかわりのなかに位置づけて進めていく必要があろう。
そこで筆者は、第二次世界大戦の前夜から3・11原発震災が起こるまでの、わが国の原子力開発の経緯を理解する予備作業として、わが国内外の安全保障と原子力開発の展開史を鳥瞰する年表を試作してみた。年表は、核兵器の開発という軍事戦略から完全に分離された、純民生用の「原子力の平和利用」としての原子力発電が、歴史的に存在しなかった現実に照らし、原発の歴史を核兵器開発との関連性を意識して整理・編集に努めた。
3・11を経験したあとで、内外の原子力発電の歴史を検証することのなかには、わが国の良識派をもって自任する人々が共有してきたと思われる世界観や歴史観を問い直す課題も含まれる。
拙論の主眼は、3・11原発震災を、内外現代史の分水嶺として理解する一材料としての年表を試作することにあるが、以下に、筆者が、年表の時系列的なフォローでとくに考慮した視点について3点に限り概略し、次いで作表レイアウトと主要な参考文献について述べておきたい。
【2】歴史は繰り返す:歴史アナロジーの素材として
年表の作成で着眼した第一は歴史のアナロジーである。歴史は繰り返す。あるいは、マーク・トウェインの格言が示唆するように「歴史は繰り返すことはない。だが往々に韻を踏む」。
地震国であり被爆国でもある日本が、3・11原発震災を起こした歴史を検証するためには、原発もしくは原子力エネルギーが、いかなる世界史的な所産であるのかに関し、もう一度、アジア・太平洋戦争の敗戦という原点に立ち戻る必要があると思われる。
日本軍が、泥沼化していた中国戦線に加え、1941年12月の真珠湾攻撃とマレー作戦により、東南アジア全域と太平洋にまで戦線を広げたことから、第二次世界大戦は、まさに日本によって、人類史上空前の「真の世界戦争」へと発展した2。米国は、1941年3月の武器貸与法の制定により、中立政策を放棄していたものの、パールハーバーにより、国内になお残る「孤立主義」や厭戦ムードが跡形もなく消え、原爆開発に向けて軍産学を総動員する「マンハッタン計画」が本格的に動き出した。日本こそが、「核の時代=プルトニウムの時代」を引き寄せる陰の主役になったのである。
加えて、対日原爆投下がなければ、原爆の完成も、それゆえ副産物としての原子力発電もなかった。ドイツが核開発を断念したことは、1942年半ばに判明しており、ナチスの原爆開発は連合軍による43年12月のノルウェー重水工場破壊によりとどめを刺されていた。だが、ドイツの降伏が間近に迫った1945年4月に、米軍は日本への原爆投下先を決める目標委員会でその対象を絞り込んでいく。かくして、ナチスより先に原爆を作るという「マンハッタン計画」の競争が、日本が降伏する前に原爆を完成させ、実戦で使用する競争へと転換する。原爆開発の中心人物レスリー・グローヴス将軍らは原爆が使用される前に日本が降伏するのを死ぬほど恐れていた。使用せずに終戦となればマンハッタン計画は容赦のない調査と非難にさらされる懸念があったからだ3。
原爆投下直後の8月20日、スターリンは核開発のための特別委員会議を設置、米国の核独占の打破に動き出し、直ちに日本大使館の駐在武官を広島に派遣、原爆被害を調査させ、9月にはその報告を受けている4。広島・長崎の原爆用ウラニウムはベルギー領コンゴ産だった。コンゴ産の枯渇を懸念して米国は南アフリカ産の確保に動いた。ソ連では1947年まで国内にウラン鉱が発見されず、これがソ連の原爆開発を制約しており、かくしてウラン鉱をもつ東欧諸国の専制支配が死活的な課題となるとともに、囚人と帰還捕虜のソ連兵を拘禁する「原子力収容所」の突貫建設工事が始まる。ソ連の過酷な東欧支配は、ウラニウムの安定確保を含めて説く必要がある5。こうして、米国指導者の「想定外」に早くスターリンは原爆と水爆を完成させるが、この間1946~47年には、核開発を最優先する飢餓輸出のため、ソ連では100~200万人の餓死が生じたといわれる6。冷戦の起源はここにある。日本は米ソの核開発競争の狭間で米国側に寄り添う形の戦後史を歩み始める。
1999年12月の米AP通信社「20世紀最大ニュース」が、 世界ジャーナリストと米「メディア館」来館者の双方による意見集約の結果、世界大恐慌でもなく、第二次世界大戦でもなく、まさに、「広島・長崎への原爆投下」をそのトップに挙げた。ここには、20世紀とは、核の時代であるという世界認識が示されている。太平洋を制して実現したパックス・アメリカーナの淵源は核にある、というメッセージでもある。歴史のアナロジーからは、2011年3月の原発震災は、日本人に世界史としての「核の時代」を終わらせる課題と責任を受け止めるよう求めている。
【3】日本の「原子力村」の「社会主義」的な特性
第二の着眼点は、「ソ連型社会主義」あるいは「スターリン体制」の歴史アナロジーである。
吉岡『社会史』は、わが国の原発事業の拡大は「社会主義計画経済を彷彿させる」といい、日本の電力会社は「ノルマ達成の優等生であった」という(同書143~146頁)。吉岡は、原子力開発を所管する旧通産省・現経産省の「統制経済」的な流れをくむ国策遂行のスタイルに注目する。この点は非常に重要な指摘である。ただし、筆者は、わが国の原発事業が「社会主義」的であるという場合、そこには、比喩的な意味にとどまらない、歴史的に実在したソ連型「社会主義」に強く規定された側面があるという、実体的な意味があったことに踏み込んだ検証が必要であるように思う。
「安全無視」と「人権軽視」の端的なモデルがソ連の核開発であった。それは、スターリンによる核開発体制が、ジョレス・メドヴェージェフおよびプリンゲル/スピーゲルマンによれば「奴隷労働」に、加藤哲郎によれば「奴隷包摂社会」に立脚していたからである。スターリンが死ぬ1953年まで、ソ連社会はまさしく、ソルジェニーツィンが描いた「収容所列島」をなしており、「自由」な研究者と囚人研究者と膨大な数の強制労働収容所の囚人労働者からなる「原子力収容所」が、スターリン時代の核開発の拠点であった。こうした「原子力収容所」では、「自由」なはずの研究者もまた、「学者奴隷Scientific slave/ученого раба」としての、あるいは「囚われの身」の自己を見出すことになる7。
こうしてソ連が原爆と水爆とで追いすがり、大陸間弾道ミサイルで一時期、リードするという鍔迫り合いの中で、米国の原水爆の開発のあり方が、そして、原発開発のあり方が、多かれ少なかれ制約を受けてきた。スターリン亡きあと、「収容所列島」は解体され始めたが、核開発施設の厳格な閉鎖性(閉鎖都市)は結局、ソ連解体まで続いた。こうした、スターリンなき「スターリン体制」により、私たちがいかに強く制約されていたかが分かるエピソードをひとつ紹介しよう。
1957年9月末、スプートニク1号打上げ5日前、英国史上最大のウィンズケール核事故の一か月前、世界反核運動が盛り上がるなか、カナダで第1回パグウォッシュ会議があった約3か月後に、ソ連ウラルの閉鎖都市チェリアビンスク-40で兵器用プルトニウム生産炉の使用済み核燃料の爆発事故が起きた。キシュチュム核事故、識者にはウラル核惨事として知られる。3・11によりキシュチュム惨事を想起したロシアのある核技術者は、地震国の日本で「水を満杯にして冷却する使用済み核燃料の貯蔵タンクを同じ建屋内の原子炉の真上に配置し」、「まるでぶら下がった状態」においた福島第一の沸騰水炉の設計を知り、震えあがったという(後述のジョレス『金曜日』論文)。
ウラル核惨事は、事故を隠蔽したいソ連当局ばかりか、その公表が与える自国の軍拡政策への否定的な影響を懸念した米英当局によっても、ゴルバチョフのグラスノスチまで封印され続けた8。
フルシチョフは、20回大会におけるスターリン批判から2年後の1958年3月、米ソ英が原水爆実験を続けるさなかで突然、一方的に核実験停止を宣言し、米英に実験停止へ同調を呼びかけた。ソ連当局の内外への雪解けが進み、ソ連による「平和攻勢」が本格化したと見られた。ところが、ソ連は、米英が同調しないことを理由に9月に核実験を再開する。米英はソ連の「平和攻勢」に対抗し、11月から向う1年の実験停止を逆提案した。かくて実験応酬を経た10月末にジュネーブで核実験停止会議が開かれ、実験探知で難航したが、以後3年間3国が大気圏内実験を自発的に停止するに至った。この間、米軍のビキニ環礁でのブラボー実験の後、日本の原水禁運動を含め世界各地に反核運動が広まりを見せていた。また、報道の表面には出なかったが、核開発に伴う深刻な被曝が当局者にも意識されつつあった。ソ連の「水爆の父」サハロフは被曝していたし、事故続きの現場を視察していたソ連中型機械製作省(原子力省のカモフラージュ名称)のヴャチェスラフ・マルィシェフ大臣(往年のソ連戦車部隊増強の責任者)は被曝がもとで57年1月に若死にしている。
興味深いことに、58年3月のソ連の一方的な核実験停止宣言の理由のひとつがが、実はキシュチュム核事故によって、今日、マヤーク再処理工場として知られるチェリャビンスク-40のプルトニウム生産炉が停止したことだった。当時、マヤークのプルトニウム生産炉はソ連の主力の核兵器生産施設だった。キシュチュム事故により使用済み核燃料の貯蔵プールの一部が破壊され、プルトニウム生産炉がひどく放射能で汚染されため、核兵器生産に重大な支障が生じたのである。プルトニウム生産の回復・増強のため、ソ連は急遽、別の閉鎖都市であるトムスク-7とクラスノヤルスク-26のプルトニウム生産炉の増強を図った。米軍U2偵察機の高度飛行空域がこれらの上空であり、米軍と米諜報機関がキシュチュム事故を知らない訳はなかったと思われる。
ジョレス・メドヴェージェフによれば、確認できる公文書はまだないが、この間の核実験の停止措置期間により、ソ連は核兵器生産能力を修復する僥倖に恵まれたはずだという9。
3年間の核実験停止中に「平和共存」が試みられ、59年9月には米ソ首脳がキャンプ・デイヴィッドで会談し、フルシチョフは国連で軍備全廃を提案するに至った。しかし、フルシチョフの「平和攻勢」は中ソ対立の激化と中ソ原爆協定の一方的破棄、U2機撃墜事件、ベルリンの壁構築、キューバ危機と続く国際緊張激化の中で色褪せていく。それと共に、「社会主義国」が保有する核兵器の「防衛的性格」の内実が浮びあがってきたが、わが国の「平和愛好」勢力の一部はこれに適切に対応できず、原水爆禁止の国民的運動に分裂が惹き起こされるという禍根を今に残すことになる。
スターリンは、1948年6月に西ベルリンへの陸路・水路を完全に封鎖した。西側は大空輸作戦をもって封鎖を阻止した。スターリンのこの強硬策に併行して、チェリャビンスク-40でプルトニウム生産計画が進展しており、ソ連は翌年8月、原爆実験を成功させる。
フルシチョフが3年間の核実験停止のあと1961年9月に実験を再開したのはベルリンの壁構築に対する国際非難に抗してのことである。これに対して野坂参三共産党議長は、ソ連擁護の声明を出した。以後、同党はソ連と中国の核実験を「自国防衛のために余儀なくされた」ものと説明し10、大切なことは「真の敵を明らかにする」ことであるという立場でわが国の平和運動を指導していく。
1961年8月原水禁世界大会は、中ソの代表団を含めて、大会後に「最初に核実験を再開する国は人類の敵」であると決議した。同じ8月の末日にフルシチョフが核実験再開を発表し、9月に対抗する米国が実験を再開すると、10月にはソ連が50メガトン級の史上最大の水爆を爆発させた。死の灰=フォールアウトが世界中に広がり、日本でも放射能雨が問題になった。ソ連社会主義の無神経は止まることなく、翌年8月には原水禁世界大会の開催中に実験をやってのけた。ここに、友党及び「平和愛好国」の核実験に反対できない立場と、「いかなる核実験」にも反対する立場が生まれ、2年後に中国が「自国防衛」の核実験に成功すると、わが国の諸運動の系列化が一段と進んだ。
筆者らの世代が大学に入学し、学生運動の洗礼を受けたのがちょうどこの時期に当たる。
中国が大躍進政策を強行した際、2~3千万人の餓死者を出したと言われているが、その真因は、乏しい資源を核開発事業に傾斜配分し、強引に人民公社化したことにあるという11。
中ソの核兵器は、キューバやベトナムの防衛の役に立たなかった。札幌から800キロ西方のウスリー河中洲=珍宝島で1969年3月に中ソ武力衝突が起き、8月までに八岔島と新疆でも国境紛争が続くと、当時、文革の只中だった中国はソ連の核攻撃を恐れてソ連主敵・対米協調に転じ、主要軍需産業を重慶など内陸に疎開させる三線建設を強化した。世界一長い中ソ国境に沿って相互に百万人の大部隊が対峙する時代が到来した。ソ連は、中国の「侵略」を恐れ、中ソ国境沿いを走るシベリア鉄道に代替する、第二シベリア鉄道(バム鉄道:第二次大戦終結により中断したままになっていた)の建設を再開し、コムソモールに大動員をかけ完成を急いだ。キッシンジャー補佐官の1971年訪中と1972年ニクソン・毛沢東会談の舞台裏である。宮本顕治共産党委員長が「中ソの行動が無条件に防衛的とは簡単に言えなくなった」と釈明したのは、ようやく1973年7月のことだ12。
以上は一例に過ぎないが、3・11からもう一度内外の現代史を振り返ってみると、私たちの常識的な歴史観には、随所に再検討を要する場面の多いことに気づかされる。
【4】核燃料サイクル=六ヶ所村に「核のゴミ捨て場」を必要とする論理
第三に、わが国の原発問題で看過できない論点のひとつに、国策として追及してきた核燃料サイクルの構築計画と保守派や国家主義者の核武装願望との関連にかかわる問題がある。
わが国の原発問題を分かりやすく説いた解説書、鈴木真奈美(2006)『核大国化する日本―平和利用と核武装論』(平凡社新書)がかねてから指摘するように、「日本はなぜ核武装が疑われるのか」は、日本の原発問題の最大の問題のひとつである。同書は、「核兵器については、NPTに参加すると否とにかかわらず、当面、核兵器は保有しない措置を取るが、核兵器製造の経済的・技術的ポテンシャルは常に保持するとともに、これに対する掣肘を受けないように配慮する」と述べた、1965年5月の外務省内部文書『わが国の外交政策大綱』の存在を重視する(同書192頁)。そして、この立場が今なお隠然たる影響力をたもち、日本政府が、米国と粘り強く交渉を重ねた末に再処理権を獲得し、その後も、核保有国並みの再処理工場、ウラン濃縮工場、高速増殖炉を維持する努力を傾注してきた経緯と符合することに着目する。
この立場のルーツのひとつは、わが国の原発事業草創期の総理大臣であり、旧「満州国」で計画経済・統制経済を導入した「産業開発5カ年計画」を推進し、東条内閣のもとで商工相として戦時統制経済を指導した、国家主義的な政治家・岸信介の思想と政策に行きつく。1957年5月に岸は、国会で「現憲法下でも核兵器の保有は可能」と発言した。岸信介(1983)『岸信介 回顧録』廣済堂出版によれば、岸は57年5月に外務省記者クラブで、「『現憲法下でも核兵器の保有は可能』という私の発言は、日本政府の見解として公式に記録にとどめられることになった。私は憲法解釈と政策論の二つの立場を区別し、それぞれを明確にしておくことが日本の将来において望ましいと考えたのである。この憲法論は今日なお有効に作用している」と自負している(同書311頁)。
岸はまた、1959年3月の参院予算委員会においても、この立場を敷衍し、「防衛用小型核兵器は合憲」と主張している。1994年に新聞報道で明らかになるまで極秘にされていた先の、1969年外務省内部文書のエッセンスを「国家主義者」岸信介の立場と重ねてみると驚くほど平仄が合う。岸のこれら一連の発言はわが国保守派の、とりわけ「国家主義者」らの核武装願望を正当化する主張の根拠として生き続けてきた感がある。
日本の国策としての原子力事業は、1956年策定の原子力委員会による、最初の『原子力研究開発利用長期計画(「長計と略」)』から、高速増殖炉の国産化を最終目標とし、商用炉はその「つなぎ」と位置づけてきた。この立場は、ほぼ5年毎に改定されてきた『長計』と、近年の『原子力政策大綱』においても大筋で継承されてきた。ところが、鈴木『核大国化』が指摘するように、わが国が再処理の技術的な困難をよく理解せずに、自前の核エネルギーとしての高速増殖炉の国産化、あるいは「プルトニウム燃料サイクル」の確立を目指したことが、近年の日本のジレンマ拡大につながっている。1970年代に「石油危機」に見舞われたことなども含めて、「プルトニウム燃料サイクル」に将来のエネルギー確保の夢を託した国は日本に限らなかった。原子力先進国の多くが日本と同じ道を選択したことがあった。しかし、日本以外の大半の国々はその道から足を洗って久しい。
だが、わが国はなお、「再処理――高速増殖炉路線」を追求し続けている。同書によれば、その理由のひとつは、『原子力政策大綱』の策定委員が、再処理は、「国際的に認められた貴重な既得権」であり、「一度失えば二度と戻らない権利」であると見なしているからだという(同書199頁)。
こうして下北半島の付け根にある六ヶ所村に、再処理工場、ウラン濃縮工場、低レベル放射性廃棄物埋設センター、高レベル放射性廃棄物貯蔵管理センター、使用済み核燃料貯蔵プールという、核燃料サイクル基地と呼ばれる核施設が集中的に設置された。これら諸施設は、全体として実質的に放射性廃棄物をため込んでいく性格をもつ施設であることから、六ヶ所村は「核のゴミ捨て場」と呼ばれることもある。しかも、本年2012年秋に操業開始を予定する再処理工場でプルトニウムが作られたとしても、それは、いよいよ使い道のない無用に長物になりつつある。すなわち、六ヶ所再処理施設を稼働させる合理的な理由はないといって過言でない。
【5】レイアウトの考え方と主要文献
1)レイアウトについて
試作年表は原則として、左辺に国際的ないし対外的な関連を、右辺に日本の国内的な関連事項を配置した。しかし、空白を作らないために、むしろ国内的な事項を左辺に、国際的な事項を右辺に記した例外もある。
左辺と右辺の両側にまたいで表現したケースが相当数ある。これは、核開発をめぐる内外の歴史上で極めて重要と思われる事項に該当する。
年月の表示については、事項の生じた年月に応じて配置してあるが、同一月に複数の事柄がある場合、それは、必ずしも当該事項が生じた日時の順序通りに配列していない場合があることに留意されたい。また、事情が生じた月を特定できない場合、あるいは、現時点で月が判明できていない事項について、各年の最後に、月の表示なしに配置したケースがある。
2)海外諸国の事項の掲載基準
試作年表には、わが国の原子力開発に関連の深いと思われる諸国の事項を中心に収録してある。
米ソ英中仏の核大国は、核保有帝国として共通の特性、即ち、「安全無視」「人権軽視」「隠蔽体質」の特性を持つ。いずれの核保有大国も、核兵器開発の過程では、植民地帝国として、あるいは内国植民地保有帝国として、原住民の人権や健康を無視し、真の核開発計画を隠蔽して、核爆発実験を強行してきた。中国での公表資料はないが、米ソ英仏の核帝国では、多くの自国兵士が事実上、モルモットとされ、被曝してきた。これらに関する代表的な事項を年表に収録してある。年表は、ソ連のみならず、米国の核開発管理がいかに杜撰なものであったか、その一端を示してある。
原発の「安全神話」の危険性は、こうした核兵器開発の「安全無視」や「人権軽視」や「隠蔽体質」に通底していると考えるべきではないか。
英仏の事項の件数が多いのは、わが国の電力会社が英仏に、長期間、使用済み核燃料の再処理を委託してきたこと、また、それに関連して、日欧間のプルトニウム輸送への懸念が、非常に大きな国際問題に発展してきたからである。
中曽根康弘は、1954年度「原子力研究予算」で、科学者の「頬を札束で叩いた」ことは良く知られているが、わが国の電力会社には英仏再処理施設に対して、「札束」をかざして、再処理を委託してきた経緯がある。基本文献のひとつWilliam Walker著の書名がNuclear Entrapment(核の罠)となっているのは、英仏国民の多くが、日本の原発のゴミ捨て場になりかねない使用済み核燃料の再処理という外注・下請作業について快く思っていなかった一端を伺わせる。日本国民には、斜陽化する英仏核保有帝国の財政難を、安くない再処理委託費をもって糊塗してきた歴史もある。
中国の核開発の草創期についていえば、同国はソ連科学都市ドブナで1956年に発足した共産圏共同原子核研究所の第二の大口出資国として核物理学の世界的権威、王淦昌ら専門家千人を派遣しており、1958年には早くもソ連提供の北京の原子炉で初の核連鎖反応に成功している13。だが、中ソ蜜月期は短く1960年にははやくも対立が公然化し、前述したような対峙に発展していく。
わが国の「原発銀座」に勝るとも劣らない、原発の集中立地にともなう危険と不安が、韓国においても「世界最大の核密集団地」の問題として重大化してきている。
また、地球温暖化問題と原発ルネッサンスとのかかわりについても、アル・ゴアの「不都合な真実」や「ホッケー・スティック問題」なども含め、時系列的な展開が分るように努めた。筆者には、現時点で「地球温暖化問題」を論評するだけの知見はない。しかし、様々な資料を読み漁った印象からすると、「地球温暖化」が国際問題化してきた背景や動機のひとつに、ビジネスチャンスを求める膨大な過剰マネーの存在が関わっていたのではないかとの懸念を否定しきれない。
3)参考文献
文献一覧を試作年表の巻末に示した。前述のような年表試作の座標軸を構想するのに最も参考になった文献は、吉岡斉(2011)『新版 原子力の社会史』、Peter Pringle & James
Spigelman,(1982), The Nuclear Barons(邦訳『核の栄光と挫折』)、David Holloway (1994), Stalin and the Bomb (邦訳『スターリンと原爆)』)。歌田明弘(2005)『科学大国アメリカは原爆投下によって生まれた』、『高木仁三郎著作集』、鈴木真奈美(1993)『プルトニウム=不良債権』、それにメドヴェージェフ双生児、とくにジョレス・メドヴェージェフの一連の著作である。
時系列資料の点検・検証に欠かせないのが、中国新聞社編(1995)『年表 ヒロシマ』、ドキュメント「核のない世界へ-被爆60年と原水爆禁止運動1945-2005」編集委員会編(2005)『ドキュメント核兵器のない世界へ-被曝60年と原水爆禁止運動』、日本原水爆被害者団体協議会日本被団協史編集委員会編(2009)『ふたたび被爆者をつくるな:日本被団協50年史:1956-2005』、産業学会編(1995)『戦後日本産業史』、毎日新聞社(1997)『20世紀年表』などである。日本原子力文化振興財団(1961)『原子力開発三十年史』はわが国の「原子力村」側の資料として重要である。
文献上で、欠かせないのが地域住民の目線である。筆者が手にしえた作品はまだごく少ないが、中村勝男(1982)『熊野漁民原発海戦記』と斉間満(2002)『原発の来た町-原発はこうして建てられた/伊方原発の30年』には強く胸を打たれた。日本の原発問題をミクロネシア諸島の人々から見た文献が、フォトジャーナリスト豊崎博光の大作『マーシャル諸島 核の世紀 1914-2004』である。
『高木著作集』は多方面で非常に示唆的であるが、日本の原子力開発プロジェクトの根幹にあたる、例えば原子炉本体や循環システム系などを、三菱系や三井系、日立系の各原子力グーループが分担しており、重大事故の多くが各接合部分の不具合に起因するという指摘は非常に重要である。
核開発問題にかんするジョレス・メドヴェージェフの著作でとくに重要なものは、双子の弟ロイとの共著『知られざるスターリン』の第二部「スターリンと核兵器」および第三部「スターリンと科学」である。第二部は第1章「スターリンと原爆」、第2章「スターリンと水爆」、第3章「スターリンと原子力収容所」からなっており、このうち、第3章の「原子力収容所」は、20世紀の世界史を大きく制約し、また21世紀の今をも、かなりの程度規定し続けている「旧ソ連社会主義」という存在が、いかなる社会であったのかを理解するうえで非常に重要な問題提起を含んでいる。原子力開発や原発問題に関心をもつ論者にとって、同書は、『チェルノブイリの遺産』と並ぶ必読文献であるといって差し支えない。ジョレスの本職は歴史家ではないが、核時代としての東西冷戦を理解するうえで、この上なく示唆的である。そこで、試みに、「スターリンと原子力収容所」のうちのエピローグの一部を以下に紹介する。
「原子炉、工場、実験場、全てのインフラ等の諸問題を実際に解決した早さについては、紛れもなく収容所が主役を演じている。収容所は、機動性に富み、本質的には奴隷労働であるが、熟練労働の、ユニークで巨大な供給源であった。が、だからといって収容所の存在が正当化できるだろうか? もちろん、ノーである。もしスターリン型の国家政治と経済が収容所その他の強制労働のシステムなしにでもやってゆけておれば、ソ連にはあれほど火急に原爆や水爆の必要性はなかったであろう。スターリンのテロルとスターリンの収容所が、それ自体が、他の全世界への恐怖と脅威とを生み出していたのである」(現代思潮新社版邦訳書214-215頁)。
愛国的ロシア人研究者のなかに、ジョレス・メドヴェージェフのような、自国ソ連の核保有を、「アメリカ帝国主義に対する防衛的なもの」とは必ずしも考えない論客がいることを、わが国の民主派諸氏や「自虐史観」批判派の諸氏はどう考えるだろうか。
【6】結びに代えて
筆者は原子力開発や原発問題の専門家ではない。むしろ門外漢ないし全くの素人である。それでいながら、ある事情を契機に本試作年表の作成に取りかかり、この年明けで9か月目に入った。
3・11から10日ほどたったある日、ロンドン在住のジョレス・メドヴェージェフから、近刊のエッセーが届いたなかに、被災者への見舞いのメッセージが含まれていた。ジョレスは、『チェルノブイリの遺産』や『ウラルの核惨事』の著者であり、1960年代には弟ロイや、サハロフやソルジェニーツィンらと共に、ソ連反体制異論派を代表する人物であった。党と似非科学者による遺伝学・農学支配を告発したジョレス著のサミズダート(地下出版物)であるThe Rise & Fall of T.D.Lysenko (邦訳は『ルイセンコ学説の興亡』河出書房新社刊)の米国での公刊はソ連当局の逆鱗にふれ、彼は、1970年に精神病棟に隔離される。幸い、世界の科学者の抗議により釈放されたが、1973年に英国への研究出張中にソ連国籍を剥奪され、今日までロンドンを拠点に執筆活動を続けてきた。筆者はジョレス著Soviet Agricultureの邦訳版(『ソヴィエト農業』北海道大学図書刊行会刊)の訳者でもある。
たまたま3月下旬に『週刊金曜日』編集部でジョレスの手紙のことを紹介すると、同誌発行人から、ウラルの核惨事やチェルノブイリ、TMI事故との関係でフクシマを考察する寄稿依頼を託された。86歳のジョレスは二つ返事で快諾、3週間後には英文と露文のテキストをメールで送信してきた。
原子力発電のメカニズムに疎い筆者は、ジョレス論文を待つ間、原発の仕組みや内外の原発開発史についてにわか勉強を始めた。どうにか訳稿にこぎ着いたのが、同誌5月20日号に掲載されたジョレス・メドヴェージェフ特別寄稿「キシュチュム・チェルノブイリ、そしてフクシマ」である。
にわか勉強と訳業を進めながら、3・11フクシマは、ある意味で、真珠湾攻撃並みに、あるいはヒロシマ・ナガサキ並みに、衝撃的な世界史的事件ではないかという印象を強くした。
筆者には3・11原発震災を決して他人ごとにできない、もうひとつの個人的な接点があった。下北半島のむつ小川原地域で住民と共に巨大開発に抵抗していた六ヶ所村の元村長、故・寺下力三郎氏との出会いである。1970年代初頭に筆者は、苫小牧東部開発に関する研究チーム(故・池田善長教授を主査とするチーム)の一員として六ヶ所村を訪ねた。支持者から「六ヶ所村民が開発難民となる羽目にでもなったら、村長は豆腐の角に頭をぶつけて死ね」と言われたと、まさかの時に「豆腐を買う小銭」が入っているという茶封筒を示しながら、寺下氏は、私たち一行に、地域住民を見下す「新全総」計画の無謀さを懇切に説明してくれた。国策に翻弄され続ける六ヶ所村民の苦悩を抜きに、わが国の原子力開発を語ることはできない14。下北半島を「原子力基地」「原発のメッカ」にしようとする構想が水面下から浮上した1968年9月以降の、為政者たちの一連の発言を、例えば1969年8月、83年12月、84年7月の発言を、本年表を手掛かりに辿っていただきたい。
本年表は、完成に程遠い試作品である。日夜、チェックと改善に努めてきたが、なお多くの至らぬ箇所や間違いが含まれている可能性が高い。機会を見てより適切な資料づくりに心掛け、後日、Web上などを通じて改訂を試みたい。
注
1.『琉球新報』2011年6月24日、Wall
Street Journal, June 21,
2011.なお、農文協ブックレット(2011)『復興の大義』<Part 1>座談会での宮入興一発言も参照されたい(同書24頁)。
2.拙稿「「百年に一度」の2008年恐慌―日本人が「戦争」を選んだもう一つの理由―」『労働運動研究』復刊25号、2010年4月。大江一道『世界近現代史III世界戦争の時代』山川出版社322頁。
3.春名幹男「原爆から原発へ―マンハッタン計画という淵源―」『世界』2011年6月号。Peter Pringle & James Spiegelman
(1981), The Nuclear Barons, Holt,
Rinehart and Wibston.(ピーター・プリングル&ジェームス・スピーゲルマン(1982)、邦訳『核の栄光と挫折』。
4.下斗米伸夫(2011)『アジア冷戦史』26-27頁。
5.米英のウラン独占とベルギー領コンゴの重要性はJonathan Helmreich (1986), Gathering Rare Oresの第1章を参照。ソ連のウラン確保と東欧の死活性はジョレス・メドヴェージェフ「スターリンと原子力収容所」『知られざるスターリン』191-197頁とNorman Naimark (1995), The Russians in Germany, pp.235-250を参照。ドールステルマンやペインターは冷戦初期の米英による南アフリカ産ウラン鉱の排他的確保こそ、南ア白人政権のアパルトヘイト体制の支柱だったという。Thomas Borstelmann (1993), Aparthheid's Reluctant Uncle. の第7章とDavid
Painter (2010), ‘Oil, resources, and the Cold War’ in Leffler & Wested, ed,
The Cambridge History of the Cold War.,
p.487-488.を参照されたい。
6.下斗米伸夫、前掲書32頁、108頁。David Holloway (1994), Stalin and the Bomb, Yale UP, p.129. (デーヴィッド・ホロウェイ(1997)、邦訳『スターリンと原爆(上)』188頁)。
7.1962年度ノーベル物理学賞受賞者のL・D・ランダウは、核開発体制に組み込まれたわが身について、「学者奴隷」に貶められたと零したという。ランダウは1938年4月から1年間、実際に投獄された。ジョレス&ロイ・メドヴェージェフ『知られざるスターリン』180頁。Pringle & Spiegelman (1981)と同邦訳書の第4章冒頭。,加藤哲郎「20世紀社会主義は何であったか」(1998)社会主義理論学会編『20世紀社会主義の意味を問う』23頁。Holloway (1994), Stalin and the Bomb, pp. 43-44. (邦訳64-66頁)。なお、佐々木洋解題「メドヴェージェフ兄弟のソルジェニーツィンおよびサハロフとのトリプルな関係」、ジョレス&ロイ・メドヴェージェフ(2005)『ソルジェニーツィンおよびサハロフ』422-427頁も参照されたい。
8.ジョレス・メドヴェージェフ『チェルノブイリの遺産』第8章。
9.2012年1月2日付のジョレス・メドヴェージェフからの私信による。
10.『アカハタ』号外、1961年9月9日付。
11.Davies
& Weatcroft (2004), The Years of
Hunger, Macmillan.p.400. 下斗米伸夫(2011)はこの飢饉を核開発との関係で見る。前掲書108-109頁。
12.『赤旗』1973年7月6日付。
13.Pringle & Spigelman, The Nuclear Barons.p.278.
14.鎌田慧(2011)『六ヶ所村の記録』にも同じ「豆腐代金」のエピソードが登場する(同書上巻187-188頁)。
2012年1月10日脱稿