川上徹『査問』ちくま文庫版「解説」
本書は、一九七二年五月に日本共産党内で起こった人権侵害事件──後に「新日和見主義」事件とよばれる──についての、当事者の回想である。出版は九七年、四半世紀後に初めて公けにされた。著者の川上徹氏は、東大在学中にいわゆる代々木系全学連委員長をつとめ、共産党の指導する公称二〇万人の青年組織、民主青年同盟の中央常任委員であった。現在の不破議長・志位委員長らの経歴と似た、共産党のエリートコースである。それが突然「代々木の党本部」によびだされ、小部屋に軟禁されて二週間、「査問」という名の身体拘束・精神的拷問を受けた。釈放後も「隔離・再教育」と称して自由を拘束された。
しかもその体験は、著者一人のものではない。川上氏によると、「民青中央委員一〇八名中三〇名のほか、本部勤務員や東京、大阪を始めとする都道府県委員会、地区委員会の役員や勤務員に及び、さらに各大学の党や民青の組織にも広がっていた。査問の結果、処分らしい処分は出なかったものの『自己批判』だけは求められた、いわゆる『灰色』決着をみた者を含めると、全国で六〇〇名とも一〇〇〇名に及ぶとの説もある」(一四七頁)。当時外国留学中で、事件の詳細を帰国後に知った私の周囲にも、「査問」を経験して人生設計を大きく変えた人々がいるから、実際にそうであったろう。
トイレにまで監視がつく「査問」がどのようなものであったかは、川上氏および「分派」と疑われた人々の記憶に残された、「査問する側」の言葉が、雄弁に物語っている。
本書に触発されて、民青静岡県委員長で病気入院中に拘束された自分の場合を告白=告発した油井喜夫『汚名』(毎日新聞社、一九九九年)、『虚構』(社会評論社、二〇〇〇年)が出た。本書に登場する高野孟は当時の自分のケースを、有田芳生は八三年・九〇年に受けた「査問」体験を、それぞれホームページに発表している。「新日和見」事件後も共産党の「査問」が続いたことは、宮地健一、下里正樹らが記録を残している。
「査問」とは何かについて、川上氏は一般社会ではなじみがない「党内用語」であるとし、日本共産党規約の規律違反・処分条項「規律違反について調査審議中のものは、……党員の権利を必要な範囲で制限することができる」中の「調査審議」を挙げ、「正式に『査問』の意味内容を説明するのは、この四文字だけ」という。この「調査審議」は、一九六一年日本共産党第八回党大会の規約改訂で挿入され、現行規約にも残されている。その提案理由で、当時の松島治重幹部会員は「規律違反で査問中のものにたいしては、党組織防衛のため、また査問に障害がおこらないようにするため、必要があるばあいには、党会議に参加させないなど、党員権の制限をおこなってきました。これは、慣例として、おこなわれてきたものであります」と述べ、「慣例」を規約に明文化したものだ、と解説する。
「慣例」「伝統」は、戦前に遡る。共産党の公式党史である『日本共産党の七十年』(一九九四年)にも「査問」の記録がある。一九三三年末、宮本顕治らは大泉兼蔵(党名片野)・小畑達夫(同古川)を「スパイ」と疑い、「党の最高の処分は除名であるという確認のもとでおこなわれた査問中の予期しない小畑の急死」を招いた。当時の党機関紙『赤旗』三四年一月一七日号は、「党中央委員会は、査問委員会の報告に基き、片野古川の革命裁判の情況を全勤労大衆諸君に報告」し、東京市委員会書記局は「中央委員会による片野・古川断罪への革命的挨拶」を寄せ、古川=小畑の死には直接触れずに、「レーニンと岡野[野坂参三]の教訓」として「我々はスパイ挑発者を時としては死刑にすることが勿論絶対に必要である。だがそれを原則とすることは極めて不都合であり、誤である」という。
これらは「査問」が「革命裁判」「断罪」の 一環であるが、小畑は「査問」途上で急死したため「死刑」ではなかった、という弁明である。しかし、私が旧ソ連崩壊後に入手した、当時モスクワのコミンテルン本部に送られた日本共産党からの三四年秘密報告文書中には、「スパイは殺してもいい。然し其為にはその裁判官たる中央委員会が真に大衆の支持を享有し、信頼するに足るものである事」と書かれている。自主的大衆的な青年運動への志向を「分派」と疑われた川上氏が、査問者から「君が消えてくれるのがいちばんいいんだけどな」といわれて戦慄した背景には、この宮本顕治らによる戦前スパイ査問致死事件、五一年に不破哲三も連座し戸塚秀夫が自殺未遂をはかった国際派東大細胞査問事件に連なる「慣例」「伝統」があり、脳裏に浮かんだからであろう(安東仁兵衛『戦後日本共産党私記』文春文庫)。実際には「査問する側」に、当時の民青大阪府委員長・愛知県委員長など正真正銘の「警察のスパイ」が入っていた。民青はその後衰退の一途をたどり、当時の十分の一にまで落ち込んだ。自主的大衆運動の芽は、双葉のうちに摘み取られた。
では、なぜこのような理不尽な「査問」に、川上氏以下数百人が唯々諾々と応じ、しかもほとんどがそのまま「党」に残ったのだろうか? 共産党という組織に特有な「革命幻想=秘密の共同体」、その裏返しとしての「裏切り者にされる心理的強迫」は、本書によく描かれている。川上氏でさえ、それを吹っ切るのに四半世紀を要した。だが本書に即して言えば、私は川上氏自身の「査問した経験」(三五頁)に注目する。「こちら側」と「そちら側」が表裏一体で、「上級」の判断でいつでもおきかえ可能な中央集権組織であればこそ、第三者や弁護士の介在する余地のない「査問」「革命裁判」が存続しえた。
発刊当時、日本共産党は、川上氏が社長をつとめる同時代社出版物の『赤旗』への広告掲載を拒否し、著者を批判する論文「『新日和見主義』の分派活動とは何だったか───川上徹著『査問』について」(一九九八年一月二〇日付『しんぶん赤旗』)を発表した。そのこともあってか、本書は大きな反響をよんだ。ところが二〇〇〇年六月、共産党は、総選挙での「反共謀略ビラ」に対する「反撃ビラ」のなかで、「共産党に『査問』という制度はありません」といいだし、「『査問』といって何かこわいことがおこなわれているかのよう」なイメージを払拭しようとし始めた。二〇〇一年二月の米原潜による「えひめ丸」海難事故に際して、一般新聞が大きくワドル艦長に対する「海軍査問会議」の模様を報じている時、共産党の『赤旗』だけは「査問」ではなく「審問」と報じた。「査問」の起源がカトリックの宗教裁判=異端審問にあり、マルクスの共産主義者同盟第二回大会規約第四一条にもある秘密結社の「おきて」で(邦訳全集第四巻)、「鉄の規律」の軍隊・軍規用語であることを、隠そうとしたのだろう。
本書の中で、読者を最も感動させる場面は、川上氏の父母が「人権擁護委員会に訴える」と党本部に抗議し、ようやく釈放されるくだりである(一〇七頁)。結局共産党がおそれたのは、こうした「こわいこと」が外部にもれ、市民社会の論理に従わざるをえなくなることであった。その意味で本書は、その目的の一つを果たした。日本政府は、ハンセン病患者への長期の人権侵害と救済不作為を謝罪し「名誉回復」した。共産党が、党史上最大規模の人権抑圧事件の被害者たちに謝罪するのは、いつになるのであろうか?