『沖縄タイムス』2001年6月5日、『アソシエ21・ニューズレター』2001年9月号掲載


非合法共産党資料に見る戦後沖縄の「自立」

 

加藤 哲郎(一橋大学大学院教授・政治学)

 


 本[2001]年六月五日付け『沖縄タイムス』文化欄に、筆者は、表題の小論を発表した。そのことも一つの契機となって、この一一月一七日(土曜日)に、これまで戦後史の中で埋もれていた非合法沖縄共産党をめぐってのシンポジウムが、開催されることとなった。アソシエ21・日本共産党研究会の由井格さんが中心になって準備を進めておられるようだが、この問題の奥行きは深い。

 たとえばこの原稿を、私はアメリカで執筆しているが、アメリカ西海岸の日系移民労働者の運動でも、沖縄出身者は独特の位置を占めていた。ご自身も沖縄出身の日系二世である専門家、サンフランシスコ州立大学ベン・コバシガワ教授、その父小橋川次郎氏から聞いたのだが、沖縄は戦前から海外移民の数が多く、日系労働運動の中でも、旧ソ連で粛清されたロングビーチ事件指導者「アメ亡組」やゾルゲ事件の宮城与徳らを排出した。第二次世界大戦中は、日本に忠誠を誓い強制収容所に留まる者と、アメリカ市民の証として志願従軍する者に分かれた。アメリカ共産党員を含む後者の志願兵のなかには、一九四五年以後の米軍沖縄直接占領に関わる者もいた。そこで一時的に親族や知り合いを支配する「勝者」の立場におかれた日系米兵の最初の便りは、「沖縄島の山河は激変した」というものだった。「日本復帰」の将来像は生まれにくかった。「アメリカ参入」論や「独立」論もありえた。それでも戦後西海岸日系運動の中心的指導者幸地新政らは、沖縄救援復興連盟を組織し、「独立論」や「ハワイ化」を排して「日本復帰」を願った。アメリカという国を、知り尽くしていたからだという。その軌跡は、以下の小論で述べた沖縄被占領地の非合法共産主義者の歩みと一部は重なり、一部は微妙に異なる。ちょうど「本土」でも、東京や関西の沖縄出身共産主義者の中でさまざまな議論があり、井之口政雄のように、徳田球一の「少数民族・独立論」を五〇年代半ばまで主張していた者がいたように。以下に再録するのは、その『沖縄タイムス』掲載文である。

 

 数年前に大学生向け教科書『日本史のエッセンス』(有斐閣)で戦後史を概観した際、沖縄をどう組み込むかで苦労した。焼け跡・闇市から戦後改革・サンフランシスコ講和、経済復興・高度成長という「本土」の同時代史の中におくと、どうにもすわりが悪い。やむなく米軍用地強制使用代理署名拒否訴訟の沖縄県準備書面を挿入して、「本土の独立=光」の「陰」として説明したが、「光と陰」の結びつきは、十分論じきれなかった。

 沖縄現代史を調べてみると、占領初期には「少数民族・独立論」「沖縄自決論」があり、「日本復帰」が必ずしも自明の方向ではなかったことに気づく。「独立論」は、沖縄出身の徳田球一が書記長である「本土」の日本共産党が提唱したもので、米軍政下の沖縄からいかにして「日本復帰」の展望が生まれ、島ぐるみの運動になっていくかは、なかなか見えてこない。政党政治も島毎に自生的で、「本土」の政党史とは全く様相が異なる。

 五月二〇日付け『沖縄タイムス』『琉球新報』等で報じられた共同通信配信「五〇年代沖縄に非合法共産党組織」という記事は、私が最近、法政大学『大原社会問題研究所雑誌』四・五月号に発表した論文「新たに発見された『沖縄・奄美非合法共産党文書』について」をもとにしたものである。

 今回見つかった資料は、当時日本共産党本部で沖縄問題実務を担当していた故高安重正氏の所蔵文書を、福島県在住の元共産党関係者が大切に保存していたものであるが、そこから見えてくる沖縄の五〇年代は、講和論争・原水爆禁止運動から六〇年安保闘争に連なる「本土」の「戦後民主主義」とも、朝鮮特需から「もはや戦後ではない」を経て家庭電化時代に入る「高度成長」の歩みとも、ほとんど重ならない。

 むしろ、戦後の朝鮮半島史や在日朝鮮人運動と並べてみると、「帝国」日本の「植民地・周辺」とされてきた地域・民衆の共通性が現れる。「本土」共産党の当初の「独立論」は、「米軍=解放軍」のイメージだけではなく、戦後再建された共産党が多くの朝鮮人活動家を抱えていた事実と、深く連動していた。

 七十点余の党内文書から浮かび上がるのは、当時の「本土」共産党史に解消できない、沖縄共産党の独自の歩みである。沖縄に非合法党結成を働きかけた奄美共産党自体、もともと「本土」共産党との関わりは薄く、奄美と沖縄をつなぐ「琉球地方委員会」を名乗った。五三年末の奄美返還時にようやく「本土」共産党と連絡がついた沖縄共産党は、軍政下の実情にあわない「本土」の極左的指令を敢えて無視し、土地を奪われた農民や「本土」と比較にならない低賃金・無権利の労働者を組織して「島ぐるみ闘争」に入っていく。

 新聞報道では沖縄人民党の背後の地下組織の存在や「本土」との暗号連絡がクローズアップされていて、それはそれで重要であるが、長く戦前戦後の各国共産党史や日本共産党文書を見てきた私には、むしろ、沖縄共産党の「本土」共産党とは異なる動きが、驚きであった。

 だから、米軍の「反共攻撃」と向き合う沖縄人民党を地下で指導していた共産党の存在が明るみに出ても、長く沈黙を守ってきた人民党関係者にとって、不名誉なことではない。「五〇年問題」で分裂し孤立した「本土」の共産党から相対的に自立した組織をもち、独自に島民と結びつき、瀬長亀次郎氏を那覇市長に押し上げる原動力になりえたことを、誇りとすべきだろう。当時の「本土」共産党の極左方針に従うだけの党であったならば、党員たちが復帰運動の先頭に立つことはできなかったであろう。

 逆説的ではあるが、「鉄の規律」を重んじ上級機関の決定の無条件実行を義務づけられる共産党組織でありながら、「本土」の共産党指導部が沖縄問題に無関心で無方針であったがゆえに、沖縄共産党は、自主的に活動することができ、復帰運動を支えることができた。こんな構図が見えてくる。

 沖縄共産党地下指導部の一員であった国場幸太郎氏を含む私たちの研究チームは、これらの学術資料を今後も公開していくが、沖縄史研究の深化に役立ってほしいと願っている。(katote@ff.iij4u.or.jp)


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