『法政大学大原社会問題研究所雑誌』第509/510号(2001年4月・5月)掲載


 

新たに発見された「沖縄・奄美非合法共産党文書」について

 

<目 次> 

1 はじめに
2 奄美共産党の結成と沖縄共産党結成へのインパクト(1954年党史)
3 奄美共産党についての松田清氏所蔵資料
4 沖縄非合法共産党についての金沢幸雄氏所蔵資料
5 日本復帰方針をめぐる奄美共産党と日本共産党(1956年党史)
6 1958年における沖縄・奄美復帰闘争の総括
 

加藤 哲郎


 

1 はじめに

 

 第二次世界大戦後の日本列島の歴史の中で、沖縄は、特異な位置を占めている。1945年8月15日のポツダム宣言受諾・降伏そのものが、沖縄地上戦6月敗北の一帰結であったが、サンフランシスコ講和条約発効後も、アメリカ合衆国の直接軍政下におかれた。1960年代の日本復帰運動の高揚と72年の施政権返還後も、日米安保条約にもとづき駐留する在日米軍の7割の施設が集中している。

 戦後の沖縄史において、1950年代は、大きな転換期であった。当初占領軍は、沖縄・奄美・小笠原諸島を、台湾・朝鮮・樺太・千島などと同様の「解放」地域に含め、日本列島と切り離した。多大の犠牲者を生んだ沖縄戦の後、住民はいったん収容所生活を余儀なくされ、米軍の直接支配下で、思想・言論・集会の自由は厳しく制限された。日本国憲法は沖縄に及ばず、日本政治とのつながりも一時絶たれた。1951年9月締結のサンフランシスコ講和条約は、東西冷戦と朝鮮戦争を背景に、「本土」の独立と引き換えに、沖縄・奄美・小笠原諸島の米軍恒久支配を認めるものとなった。1953年のクリスマスに奄美群島のみは日本に返還されたが、アメリカのアジア支配の中枢基地となった沖縄の日本復帰は、ベトナム戦争期の1972年まで持ちこされた。当初は米軍を「解放軍」と見なし「沖縄独立」を唱える勢力もあったが、「島ぐるみ闘争」に代表される米軍基地との対決の中で、「祖国復帰」の方向がかたちづくられた。米軍の統治も「共産主義勢力との対決」を柱としたもので、社会運動は「本土」以上に困難を伴った。

 この時代に、沖縄・奄美で展開された非合法の共産主義運動については、1947年に創立された奄美共産党について一部の資料が公開されているものの、日本列島「本土」での日本共産党とは異なる歩みをたどったため、ほとんど知られていない。沖縄については、合法左翼政党沖縄人民党が存在し、それが日本復帰後の1973年10月に日本共産党に合流し「科学的社会主義の党への発展」とされたため、それ以前には共産主義政党がなかったかのように扱われてきた。

 筆者は最近、本誌で紹介してきた旧ソ連共産党日本関係秘密文書の収集・解読の過程で、1950年代の沖縄に実在した共産党についての、多数の第一次資料を入手することができた。また、その起源をたどると、奄美共産党の沖縄人民党への働きかけが重要であったことから、奄美と沖縄を結ぶ日本共産党琉球地方委員会の一時的存在が、沖縄における反米軍基地・日本復帰運動の重要な背景となっていることを知り得た。これらの歴史的意味については別稿で詳論することとして、本稿では、さしあたりこれら第一次資料の概要を概観し、かつ、その歴史を総括した基本文書を紹介することによって、沖縄における1950年代非合法共産党の存在に、光をあててみたい。

 ここで紹介する第一次資料は、大きく二つに分かれる。一つは、沖縄に比して相対的に早くから日本復帰方針をとり、沖縄における共産党結成に重要な役割を果たした奄美共産党についての、東京都在住松田清氏所蔵の資料である。いまひとつは、非合法日本共産党沖縄県委員会についての、福島県在住金沢幸雄氏所蔵資料である。ただし、両資料とも東京の日本共産党本部との通信・指令文書、本土の沖縄・奄美出身者、県人会等との関係文書を含むため、両者を一括して「沖縄・奄美非合法共産党文書」とよぶことにする。

 この命名は、非合法沖縄共産党の結成時から重要な役割を果たした宮崎県在住国場幸太郎氏によるもので、資料所蔵者の松田清氏は奄美共産党の活動・指導において、金沢幸雄氏は当時の日本共産党本部の活動において、それぞれに重要な役割を果たした当事者であるため、これら資料の収集・解読には、国場・松田・金沢氏に多くを負っている。

 また、本資料紹介そのものは筆者個人の責任で行われるが、本研究は、筆者や資料所蔵者を含む研究プロジェクトの産物である。奄美共産党については、松田清氏に筆者および森宣雄氏(大阪大学大学院生)がインタビューして確かめた、松田氏提供資料がベースになっている。非合法沖縄共産党については、金沢幸雄氏のもとに所蔵されていた資料を、加藤・森のほか国場幸太郎氏および鳥山淳氏(一橋大学大学院生)で整理・解読し、あわせて冨山一郎氏(大阪大学大学院助教授)と森氏で行った国場幸太郎氏への詳細なインタビュー、各人が収集してきた関連史資料を基礎にしている。

 以下ではまず、1954年1月12日の日付のある歴史的概観文書、金沢資料4「結成から現在まで 琉球における党の歩いて来た道」(手書き20ページ)を全文紹介し、それを解説するかたちで、奄美共産党関係松田資料、沖縄共産党関係金沢資料を目録風に掲げる。すると、金沢資料4をベースとしながらも、その後の政治的社会的変化に応じて書き直されたと思われる、1956年4月の金沢資料40「資料 戦後十年間における奄美の党の歩んだ道」(日本共産党奄美地区委員会、謄写版6ページ)、および1958年7月12日の松田資料18「沖縄・奄美大島における党建設とその活動」(日本共産党西南地方特別対策委員会、手書き31ページ)が、沖縄社会運動史研究にとって重要な意味を持ってくる。この二つの文書についても、金沢資料4「結成から現在まで 琉球における党の歩いて来た道」に準じて紹介し、1950年代沖縄・奄美非合法共産党についての概括的序説としたい。

 なお、資料紹介文中[  ]内は、筆者による解読上の補足である。資料紹介にあたっては、見出し・改行・句読点・漢字・送りがな等は原則として原文通りとし、明らかな誤字や考証による年号の誤り等は、[  ]で補足・訂正するかたちにした。

 

2 奄美共産党の結成と沖縄共産党結成へのインパクト(1954年党史)

 

金沢資料4 結成から現在まで 琉球における党の歩いて来た道

 

 一九四六年二月二日のマ司令部命令により、祖国日本から分離されてからアメリカ占領軍による占領政策が帝国主義的野望によるものであることを見抜いた琉球人民は占領直後、自然発生的な抵抗を組織したが一九四七年には奄美共産党が結成されて日本共産党の指導を受けつつ成長、沖縄に於いては(別項沖縄人民党についての報告[未発見]参照)沖縄人民党が結成されて日本共産党の影響を受けながら成長した。

 奄美共産党は合法大衆政党として奄美人民党の結成を準備したがこの計画も徹底的な植民地政策をとっているアメリカ占領軍によって拒否された。

 一九四八年二月、党は青年党員を中心に奄美青年共産主義青年同盟[奄美共産主義青年同盟]を非合法組織として結成して活動した。

 その後青共は党の指導によって発展的に解消し合法的な大衆青年を網羅した政治結社奄美青年同盟を結成し合法活動を獲得しようとしたがこれは同年八月アメリカ占領軍の命令によって解散を命じられた。

 アメリカ軍政府は住民を搾取し、産業を破壊し彼らの植民地軍事基地のための奴隷化を一層強化するために一九四九年五月食糧、衣料、燃料、農器具、肥料等の一躍三倍値上げを命令してきた。

 これに対し党は全力を傾けて食糧三倍値上げ反対闘争を全郡に組織した。この闘争は二ヶ月以上にわたって続けられ政府職員は全員知事以下辞表を提出して職場を放棄して議会も当局も各種の社会団体によって組織された値下げ陳情委員会に参加して、いわゆる官民一体という体制をとった。

 党はこの中で非公然と活動を展開し党の影響下にあった青年団、婦人生活ヨウゴ会、官公庁職員組合等を中心にこの闘争を一層全郡的に強化し、『三倍値上げ絶対反対』のスローガンをかかげて闘い抜き半官半民の食糧値下げ陳情委員会を全く郡民の自主的大衆組織として生活擁護会に発展させ全郡的の統一行動としての食糧闘争を反植民地生活権ヨウゴの人民闘争に発展させることに成功したがアメリカ軍政府は直接軍命令をもって生活ヨーゴ会を解散させると共に一時三倍値上げを延期してこの闘争を抑圧した。また、この後、党も一九五〇年三月、いわゆる「奄美共産党事件」なるアメリカ占領軍の弾圧にあって非合法組織として成長した。

 しかも党はたえず合法舞台の獲得を目指して闘い一九五〇年七月には奄美群島政府の発足を機会に大衆合法政党として社会民主党(委員長泉芳朗)を組織して日本復帰協議会を結成し、民族運動としての復帰運動を指導した。

 一方党は青年同盟の解散、人民生活ヨーゴ会の結成禁止、奄美連合青年団の解散、指導者の追放という幾多の圧迫にたえながら、労働組合、農民組合、小作人組合、借地借家人組合、青年団、婦人生活ヨーゴ会等々を組織して帝国主義アメリカ占領軍とその手先であり協力者である反動勢力と闘ってきた。

 一九五一年十二月には、アメリカ占領軍の命令によって奄美、沖縄、宮古、八重山の四地区群島政府が琉球統一政府として発足するや、奄美社会民主党は発展的解消を遂げて琉球に於ける唯一の階級的大衆的統一党としての琉球人民党を結成し奄美大島には、大島地方委員会が発足したのである。

 奄美共産党は日本共産党の綱領規約に準じて綱領規約をつくり日本共産党の指導を受けた。

 この指導は党機関の決定によるものではなかったと思うが同志徳田[球一]、野坂[参三]の意見または同意があったとの連絡であった。尚奄美大島からは同志久留[義蔵(義三とも表記)]を正式に連絡者として中央に派遣することを決定、中央との連絡にあたらせた。

 この結果、意見または同意を得た主なものは「奄美大島では党の綱領規約に準じて独自の活動が活発にできる単独の組織をつくってよい。活動については中央の戦術を学べ」と言うことであり、「党は軍政下では非合法組織にならざるを得ないので党の合法的な行動党としての合法政党(軍政府の認可する)をつくってよい」という奄美共産党の方針は同意された。

 奄美共産党では、沖縄大島出身の党員グループを通じて「沖縄、大島に対する中央の方針決定」を要望したが、この党員グループの提案は修正されて「南方諸島の独立と解放」(綱領二七[日本共産党第6回大会行動綱領第27項「朝鮮および南方諸国の完全な独立」、1948年4月1日『アカハタ』第26号])と言うことになった、と報告された。この要望がいれられなかったということが、その後大島・沖縄出身党員の多くを国際派分派に走らせた口実の一つになったらしいとのことであった。

 以上のような方針に従って奄美共産党は党の出版物(機関紙その他)を受け取り、党中央の方針に従って大島での方針を決定して活動を続けてきたのであるが、一九四九年頃から党活動の活発化と組織の拡大にともなって「奄美人民政府樹立」の綱領をもつ地方組織による革命運動では祖国復帰・民族解放と言う当面の重要要求を解決することはできないとの意見が強くなり、琉球の祖国復帰運動を民族運動として取り上げ奄美大島に於ける党組織を正式に日本共産党の下部組織としなければならないと考えるようになった。

 一九五〇年になって一九四八年の青年同盟解散事件(軍命令)後決定された既成青年団の指導権確立の方針が実を結び完全に奄美大島連合青年団の指導権を握ったので一九五〇年三月、まずこの青年団を中心にして青年ケッキ大会の形式で復帰運動を始めて大衆の前に提起し表面化した。

 しかしこのために、三日後には各社会団体内の指導的地位にある同志十数名が軍政府テンプクの「暴動を計画した」との嫌疑で逮捕投獄され、一時人心は復帰運動を表面化することを恐れた。

 一九五〇年秋、四地区内に群島政府ができ知事ならびに郡議の公選が実施されたので従来たてられていた合法政党結成の準備を始め泉芳朗を中心に社会民主党をつくり、群島議会には公認候補を立てて闘い社会民主党の基礎をつくり群議一、市議四名をもつに至った。

 一九五一年初め党は社会民主党を中心にして日本復帰協議会を結成してその指導権を握り、祖国復帰署名に始る活動を指導し党は民族運動としての復帰闘争に全力を傾けた。

 アメリカ帝国主義の植民地支配に反対する人民の抵抗組織は廿余万住民を一つの組織にまとめられ「信託統治反対」「条約三条撤廃即時完全復帰」のスローガンは小学校の子供まで絶叫するようになった。

 奄美大島では祖国復帰運動の拡大強化とその指導権確立によって「奄美共産党の組織を正式に日本共産党琉球地方委員会のもとにおける奄美地区委員会とする必要を感じ日本復帰陳情員を全市町村から派遣した際同志マツエ[松江謙志]を陳情員として密航させ、党本部に連絡させたところこの方針は承認されたとのことだったので一九五一年十月頃からその方針のもとに活動を続けてきた。

 しかし中央にはまだ正式機関としての指導連絡の責任者と機構はなく奄美出身の党員を通じての連絡が続けられた。

 一九五一年国際派の分派問題に際しては奄美共産党では党主流の方針を支持する方針を決定したが大島出身党員特に奄美共産党に党籍を有し中央との連絡の任務を帯びていた同志久留[義蔵]ならびにいわゆる「奄美共産党事件」で奄美共産党中央委員会の決定で日本に派遣潜行させた同志橋口[護]、徳田[豊巳]の三名が分パ活動をしていることがわかり前記三名からは分派組織より発行された文書が常に送られてきたので奄美共産党(当時は琉球地方委員会と言う)は機関の決定としてこの文書の配布を禁じ党組織を有する同志に対し自己批判して復党することを勧告し、もし復党しない時は連絡を絶ち正式なルートを確立することを決定した。

 その後、全同志が自己批判して復党したが、この分派活動のために中央との連絡は切断され半年以上も党中央の文書が入手できなかった。こうして一九五一年十月以降党中央の文書を入手し復党した同志を通じて連絡は復活した。

 この頃一九五一年秋党は琉球の信託統治方針がサンフランシスコ単独条約の調印によって確定的となり四地区(奄美、沖縄、宮古、八重山)群島の統合によるカイライ琉球統一政府設立の方針がアメリカ軍政府の命令によって明らかになったので党の指導下にある奄美社会民主党を発展的に解消して沖縄人民党と合同する方針をたてた。

 これについてはまた沖縄人民党中央委員の島袋[嘉順]氏が合同問題を持って奄美に来島した。これと同時に党は奄美大島を中心にしていた日本共産党琉球地方委員会を名実ともに琉球の統一組織にするために、沖縄に転住した党員を中心にして沖縄における細胞を確立し組織の拡大強化につとめた。琉球人民党の中央常任委員会には同志林[義巳]を常任委員として人民党本部に送りこみ党員はグループ活動を強化して琉球人民党を党の舞台として活動する方針をたて、まず大島地方委員会における指導権を確立した。

 一九五二[51]年一二月廿九日沖縄の那覇市で開かれた琉球人民党結成大会には大山[光二]と崎田[実芳]両同志(社民党中央委員)を参加させ明けて一月三十日には大島地方委員会を確立した。この時党は沖縄人民党の書記長瀬長[亀次郎]、組織部長島袋[嘉順]氏等に基本党の確立を説いたがこれは受け入れられず このため党は従来通り奄美出身者の党員を中心にグループ活動を強化した。

 こうして一九五一[52]年三月の琉球立法院議員の選挙には同志中村[安太郎]を人民党から立候補させたが、反動共の計画的な不正投票のために八〇票の差で次点になったが、不正選挙を摘発裁判に公訴して勝ち歴史的な事件として笠利投票区の選挙やりなおしをかちとり、同年八月再選挙の結果アメリカ帝国主義と売国比嘉民主党政府主導の選挙干渉をハネのけて売国民主党候補との決戦において大勝利をおさめた。

 また引続き行われた地方選挙には名瀬市から同志田原[忠義]、大山[光二(三津司とも表記)][佐野貴島(後に喜一と改名)]、三方村から亀山[和博]、古仁屋町から浜畑[秀麿]を人民党公認として立候補させ全員勝利した。

 奄美共産党では一九五三[51]年十月以降日本共産党の琉球地方委員会としての方針のもとに琉球地方特に沖縄の基地労働者を中心とする琉球の十万労働者の組織化に重点をおき奄美地区と沖縄の同志とが密接な連絡をもってアメリカ帝国主義の植民地化に対する闘争を組織する方針をたて合法面では人民党を始め各種社会団体議会を通じて労働法規の制定、条約三条の撤廃、即時祖国復帰、アメリカ軍の土地取り上げ反対、人権ヨーゴを訴え議会においては決議案などを上程するなど植民地政策をバクロし、これに対する抵抗組織の確立をはかり、非合法面では党員の獲得と組織の拡大と党の政策の合法面における実践化につとめ重点を当面基地労働者の組織において努力した結果、一九五二年六月には琉球において始めての日本道路会社スト闘争を組織し、ついに完全勝利をかちとったのである。日本道路ストは沖縄を始め全琉球の労働者を目覚めさせ、団結させる歴史的意義をもち一般人民にも植民地政策にめざめさせ、これに対する抵抗を組織する方向を与えた革命的記念闘争であった。

 労働運動と植民地反対闘争の革命的基礎はこれを出発点としてなされ、この労働者たちを中心として急速に成長し発展した。琉球地方委員会は琉球の労働者階級に根を張り、十分労働者を組織する基礎を確立し、琉球住民の民族解放民主統一戦線の基礎をつくった。

 松村組、清水組砕石工場、K.O.T[?]等々、これらのすべての闘争は党によって指導された。

 琉球地方委員会はほとんど奄美出身の党員によって構成され、沖縄細胞として活動したが、名実ともに琉球地方委員会になると共に正式には日本共産党の指し示す民族解放民主革命の達成のためにその一翼として琉球の祖国復帰による住民解放の綱領を決定し、党中央の承認をうけるため、一九五二[53]年七月沖縄に於いて琉球地方委員会を開催して、この方針を決定したが、この地方党大会はつねに革命え[へ]の道を共にして来た人民党の瀬長[亀次郎]書記長と島袋[嘉順]組織部長の両氏を始め他の沖縄出身者が[数字空白=「入党」?]として党の方針の実現をみた。

 この琉球地方委員会は党中央に対し(一)琉球地方委員会を下部組織として承認する方針を早く決定すること。(二)琉球地方委員会の地域綱領すなわち新綱領にもとずく行動綱領と党の規約にのっとる組織構成を確立する方針を決定すること、(三)中央に琉球ビューローを設置して琉球地方委員会の指導連絡にあたること、

これら三つの大問題を決定するために党中央に至急琉球の情勢報告することを決定したのである。

 その他琉球人民党を党の外カク組織としてではなく合法舞台として確認し、綱領規約の改正をはかること。

 一九五三年八月八日朝鮮帰りの戦争行商人ダレスは吉田首相と会見の際奄美大島の日本返還を声明した。

 当時丁度琉球地方委員会報告を討議中の奄美地区党大会はこの声明を検討の結果、地方委員会党大会の決定を確認し、即時無条件復帰、完全復興、沖縄小笠原返還の方針をたてて、組織の確立と指導部の強化をはかった。

 さらに復帰実現の見透しが大体明らかになった十月、十一月にわたって党地区機関は新しい情勢のもとにおける方針を討議したが、この結果、地区党機関は奄美地区の復帰実現後の情勢を分析して地区党機関は(1)琉球地方委員会から奄美地区機関をきり離し沖縄、宮古、八重山の三地区をもって従来の琉球地方委員会を組織すること、(2)中央に急いで琉球ビューロを確立すること、奄美地区に特殊の沖縄ビューローをつくること。(3)奄美地区機関を直接中央の琉球ビューローのもとにおくか、県党機関所属・大島地区機関にするかを決定してもらうことを決定し、(4)この機会に七月の琉球地方委員会の決定ならびに今回の地区党機関の決定を至急党中央に報告するように党地方委員会に提出した。

 一九五二[53]年十一月の末党地方委員会は中央から派遣された同志コクバ[国場幸太郎]が持って来た党中央の指導によって、中央に南方地域特別対策委員会がつくられたこと、(2)琉球の党組織はこの下におかれること、(3)現在の党組織とメンバーを正式な正規の手続きがとられるまで暫定的に認めること、(4)急いで正式な手続を完了する旨の指示を受けた。

 中央の示達にもとずいて党地方委員会は同年[53年]十二月四日に地方委員会を開催してこれを確認したが奄美地区の党機関については奄美大島の復帰の見透しが確定的になったこと、復帰に伴う沖縄地区と奄美地区との諸問題を検討の結果、奄美地区は現在の琉球地方委員会から離れ、党中央の決定に従って所属機関を決定することとなり、琉球地方委員会は沖縄、宮古、八重山、奄美の四地区から奄美地区を除いた三地区によって沖縄地方委員会を組織することになりこの報告のために同志崎田[実芳]を中央に派遣することを決定した。これについては別の報告によって明確にされていることと思う。

 一方党機関は十二月十三日の琉球人民党第二回大会において人民党の綱領・規約を改正すると同時に復帰にともなう奄美大島地方委員会の問題について討議したがこの詳しい内容は別に報告されたであろうのでここでは省略する。

 こうして十二月二十五日奄美大島の返還協定は日米両国政府によって正式に調印され奄美大島の復帰はここに確定した。

 この情勢の発展にともない党地区機関は先に決定を見た琉球地方委員会の決定に従い十二月二十七日に奄美大島における党組織を奄美地区委員会として党中央に報告し所属機関(上級機関)を明らかにすることを決め、さらに復帰後二ヶ月以内に行われる選挙対策のために同志崎田[実芳]を至急中央に派遣することに決定した。

 一方党地区機関は復帰が確定したために琉球人民党第二回党大会の決定に従い、人民党大島地方委員会第二回党大会を十二月二十七日に開催し解散するよう決定した。

 この頃党鹿児島県委員会所属の同志高橋[薫]が中央の指示をうけ来島しまた南方地域特別対策委員会の示達が到着し、さらに明けて一九五四年一月七日に中央の指示を受けて同志徳田[豊巳]が帰って来た。

 このために中央え[へ]の派遣を決定しすでに出発準備を完了して同志徳田[豊巳]の帰りを待っていた同志崎田[実芳]の出発は選挙対策の都合一時延期することに決定した。

 党地区機関は中央の指示を充分検討した結果、1、復帰後の組織問題について南方地域特別対策委員会が指示した沖縄との統一指導部確立の問題については一九五二[53]年十二月の琉球地方委員会の決定があるので、あらためて意見をあげると、(2)復帰後の奄美大島の新しい情勢とそれにともなう党中央の方針については、これを確認し、早速実践すること、(3)人民党大島地方委員会解消後は人民党を中心に結集した復帰運動の成果を一層発展強化するために党を中心にした統一戦線強化のために奄美大島完全復興の政治同盟を結成することを決定した。(4)地区党機関は民族解放民主統一戦線強化のための基本組織である、党組織の確立強化をはかり、合非活動を活発にすることを決めた。

 尚選挙対策については同志中村[安太郎]を無所属で衆議院に立候補させ、県議、市議、市長の補欠選挙についても党は独自の候補をたてる準備を進めている。

これについては別に詳細の報告があったと思うのでここでは省略し以上簡単に奄美大島における党組織の歩いて来た道を報告しておくことにする

                                                     以上

                        一九五四年一月十二日

 

 

3 奄美共産党についての松田清氏所蔵資料

 

 上に紹介した文書は、1953年12月に奄美大島が日本復帰を果たし再出発しはじめた直後の、奄美共産党の立場からかかれている。行論との関わりでは、以下の特徴を持っている。

 第1に、奄美共産党の創立は1947年で、当時の日本共産党中央の徳田球一・野坂参三らの了解を得たものとされるが、「日本共産党の綱領規約に準じて綱領規約」を持った別個の政党であった。当初の本土の共産党の方針は、奄美・沖縄を朝鮮・台湾と同列においた「南方諸島の独立」であり、日本復帰の方針はなかった(いわゆる占領軍=「解放軍」規定による沖縄独立論)。奄美共産党の場合は、「奄美人民政府樹立」を掲げた。

 第2に、奄美共産党は、非合法・非公然の党として結成され、合法面での青年同盟・社会民主党を通じて影響力を行使する方針をとり、それは「奄美共産党事件」のような弾圧を伴いつつ、1951年の日本復帰協議会結成を通じて奄美大島の政治に定着した。

 第3に、奄美共産党内では、1949年頃から「奄美人民政府樹立」の綱領をもつ独立革命運動ではなく、「祖国復帰」の方向での意見が強くなり、琉球の祖国復帰運動を民族運動として取り上げ奄美大島における党組織を正式に日本共産党の下部組織としなければならないと考えるようになった。つまり「日本復帰」方針は、本土の共産党の方針ではなく、奄美共産党が実践的経験の中で独自に見出したものであった。

 第4に、沖縄には1947年結成の沖縄人民党があったが、1951年の琉球臨時中央政府成立とサンフランシスコ講和条約締結を踏まえ、1951年12月の同党第5回大会で、奄美の社会民主党と合同し、琉球人民党となった。その背景には、奄美共産党の復帰方針とともに、沖縄人民党自身の日本復帰への方針転換があった。沖縄人民党内には、一時非合法共産党組織への拒否反応があったが、53年夏には瀬長亀次郎書記長ら幹部も入党し、日本共産党琉球地方委員会となった。

 第5に、1953年末に「ダレスのクリスマス・プレゼント」として奄美大島のみの日本復帰が決定したため、結成されたばかりの日本共産党琉球地方委員会は、沖縄中心に存続されることになった。当時の徳田派(多数派)日本共産党中央とも連絡がとれるようになり、奄美共産党とも連絡をとりつつ、日本共産党沖縄県委員会が活動するようになった。

 第6に、本土の日本共産党との関係では、当初奄美共産党の指導に当たった久留義蔵・橋口護・徳田豊巳らが(松田清氏も)いわゆる「50年問題」で「国際派」に属していた。そのため本土の共産党とは一時連絡が中断し、1951年11月以降、彼らが「自己批判」して「新綱領」支持の立場にたったのち再開したが、中央の「南方地域特別対策委員会」=西南諸島特別対策委員会と琉球地方委員会との正式連絡は、奄美復帰の直前、53年11月の国場幸太郎の来島以後のことであった。

  こうした奄美大島日本復帰にいたる奄美共産党の歴史については、松田清『奄美大島 日本復帰運動史料』(奄美史研究会、1968年)、松田清『奄美社会運動史』(JCA出版、1979年)が資料・証言をまとめているほか、中野好夫・新崎盛暉『沖縄問題20年』(岩波新書、1965年)、村山家国『奄美復帰史』(南海日日新聞社、1971年)、高安重正『沖縄奄美返還運動史(上)』(沖縄奄美史調査会、1975年)、新崎盛暉『戦後沖縄史』(日本評論社、1976年)、中野好夫・新崎盛暉『沖縄戦後史』(岩波新書、1976年)などでも言及されている。

 本土の日本共産党が『日本共産党の六十年』(1982年)以来、公式党史に戦後奄美共産党の活動を記したこともあって、その後、日本共産党奄美地区委員会『奄美の烽火 1947−1953 奄美共産党史』(1984年)、中村安太郎『祖国への道』(文理閣、1984年)、里原昭『琉球弧奄美の戦後精神史──アメリカ軍政下の思想・文化の軌跡』(五月書房、1994年)、崎田実芳『米軍政の鉄壁を越えて──私の証言と記録でつづる奄美の復帰運動史』(奄美瑠璃懸巣之会、1997年)なども刊行されている。

 ここでは、第一次資料に限定して、松田清氏所蔵の奄美共産党文書を目録風に提示し、これらを補足することとする。なお、1947年創立大会とその綱領については、松田清『奄美社会運動史』、中村安太郎『祖国への道』に詳しい記述があるが。なお、松田は47年2月の久留義蔵宅の会合を、中村は4月10日の中村宅の会議を創立大会と記しているが、公式党史『奄美の烽火』は、4月10日としている。

 

<松田清氏所蔵奄美共産党関係資料目録>

(○印は、松田清『奄美社会運動史』JCA出版、1979、所収)

 

●松田資料1 久留義蔵「大島民主化の為に」『自由』1947年3月号、謄写版3ページ

○日本共産党第5回大会 沖縄民族の独立を祝うメッセージ 1946年2月24日(松田清『奄美社会運動史』JCA出版、1979、資料1)

●松田資料2 刑事課極秘印付き 奄美共産党機関紙『ジンミンセンセン』食糧問題特集号(創刊号が押収され廃刊=松田証言)1950年1月 手書き20ページ(○松田『奄美社会運動史』資料2)

●松田資料3 日本共産党奄美中央グループ非合法小冊子『米軍政下の沖縄』1952年3月初版 謄写版25ページ(大衆団体カンパ用で執筆は橋口護=松田証言)

●松田資料4 同再版小冊子『アメリカ軍政政治下の琉球列島 沖縄・奄美大島』1952年4月再版 謄写版25ページ(執筆は橋口護=松田証言)

○日本道路争議団アッピール 1952年6月13日(松田『奄美社会運動史』資料14)

○琉球人民党大島地方委員会党内資料「日本復帰運動について」1952年10月(松田『奄美社会運動史』資料3)

●松田資料5 琉球人民党大島地方常任委員会政策小冊子「アメリカ占領軍の食糧政策について」ほか、『?(表紙欠)』2号、1952年12月、謄写版33ページ

○日本共産党中央指導部「奄美大島は日本に帰すべきだ」『奄美大島時報』1953年2月3日(松田『奄美社会運動史』資料4)

○「奄美大島の全面解放のために」『アカハタ』1953年8月27日(松田『奄美社会運動史』資料5)

●松田資料6 ビラ「日本共産党奄美地区委員会結成に際し全島の皆さまへ!」 日本共産党奄美地区委員会 1954年1月 謄写版2ページ(○松田『奄美社会運動史』資料6)

●松田資料7「奄美大島復興民主化同盟規約(草案)」1954年1月20日 謄写版3ページ=(○松田『奄美社会運動史』資料7)

●松田資料8「奄美大島復興民主化同盟 加盟申込書」 195[4]年  謄写版1ページ

●松田資料9 ビラ「奄美大島における衆議員の再選挙についての要望書」奄美大島復興民主化同盟 1953年3月25日、活版1ページ(○松田『奄美社会運動史』資料8)

●松田資料10 ビラ「市役所職員組合の皆さんへ!」日本共産党奄美地区委員会、[1953年?](超過勤務反対、28年度財政交付金削減)謄写版1ページ

◎ 「琉球対策を強化せよ」 『平和と独立のために』第349号、1954年4月1日(松田『奄美社会運動史』資料9に「琉球の情勢について」として収録)

○「奄美大島復興民主化同盟公認中村安太郎の選挙公約」1954年4月30日県選挙公報(松田『奄美社会運動史』資料10)

●松田資料11 小冊子 奄美大島復興民主化同盟・沖縄奄美大島問題調査会「地主勢力を倒し郷土の解放のために」[1954年?] 謄写版17ページ

●松田資料12 松田清「奄美大島の女性たち」『新女性』1954年8月 活版2ページ

●松田資料13 原文書き込み付き「南西諸島対策全国グループ会議録」1954年11月20日(松田氏が月本=高安重正等党名解読)、和文タイプ12ページ(1954年11月20・21日 日本共産党琉球グループ会議議事録として、高安重正『沖縄奄美返還運動史(上)』沖縄奄美史調査会、1975年、470ー506頁以下に収録)

◎「琉球の情勢について」『平和と独立のために』第392号、1955年1月27日(『平和と独立』復刻版下巻第二分冊、五月書房、2000年、松田『奄美社会運動史』172頁は上掲「琉球対策を強化せよ」と混同、高安重正『沖縄奄美返還運動史(上)』467−470頁の記述は誤り)

●松田資料14a 日本語小冊子「アジア諸国会議報告文書 原爆基地──沖縄」琉球問題懇談会、1955年3月 謄写版8ページ(平休助執筆=松田証言)

●松田資料14b 英文小冊子 OKINAWA AS AN ATOMIC BASE, Report by Discussion Group of Loochoo Islands 英文タイプ13ページ(上記の英訳版、平休助作成=松田証言)

●松田資料15 「沖縄小笠原返還国民運動の統一とその戦術について(草案)にたいする意見書」琉球G指導部、1955年10月、手書き10ページ

●松田資料16 「党活動の総括」 琉球中央G 白畑光敏 1955年11月11日 手書き23ページ=金沢資料35(グループ活動の欠陥、党の沖縄の実状についての不認識、54年6月に臨時G指導部を結成、11月全国会議で確立、左翼冒険主義、強大な党の欠如、食えなくなった常任活動、奄美と沖縄の機械的結合、党中央は自己批判せよ、共産党員であると同時に人間であれ)(○松田『奄美社会運動史』資料11)

●松田資料17 奄美地区委員会「参議院議員選挙総括(草案)」手書き8ページ(久留義蔵執筆=松田証言)=(○日本共産党奄美地区委員会「復帰後初の参議院選挙総括」1956年7月8日施行、松田『奄美社会運動史』資料12)

●松田資料18 日本共産党中央委員会西南地方特別対策委員会「沖縄・奄美大島における党建設とその活動」1958年7月12日 手書き31ページ(○日本共産党奄美地区委員会「沖縄奄美における非合法党建設とその活動」1958年7月、松田『奄美社会運動史』資料13、本稿所収)

●松田資料19 党内資料 「活動家必携 なぜアメリカ帝国主義は貿易の自由化をおしつけるか 甘味資源特別措置法は奄美の農民をギセイにし独占製糖会社をヨーゴしている」日本共産党奄美地区委員会農民部、1963年9月1日、謄写版8ページ 

●松田資料20 新聞記事「共産党奄美地区から総選挙予定候補として白畑三蔵氏を発表」『民主あまみ新聞』32号、1963年10月20日  活版1ページ

●松田資料21 草稿「奄美群島返還十周年を迎えて」 日本共産党中央委員会幹部会 袴田里見名(実際は崎田実芳起草=松田証言) 1963年12月15日[1963年12月25日『アカハタ』掲載草稿]、(付「共産党と奄美」=松田清・平休助による解説メモ、書記局決済文付き) 手書き5ページ

●松田資料22 現地の報告[1964年6月?] 手書き6ページ(自民党の分裂による沖縄政局の混乱、太田任命主席辞表提出、6・17沖対特別委決定事項)

  

4 沖縄非合法共産党についての金沢幸雄氏所蔵資料

 

 他方、奄美共産党の働きかけによって生まれた沖縄の非合法共産党については、合法政党沖縄人民党の影に隠れて、公然と語られることは少ない。それは、沖縄人民党自身が米軍から「共産主義者」として弾圧されてきた「反共攻撃」の歴史と重なり合い、人民党幹部が共産党員であることは厳しく秘匿されてきた歴史と関わっている。ようやく最近になって、当事者の一人である国場幸太郎氏が、「現代世界史の中の沖縄」(『現代思想』2000年6月号)、「沖縄の50年代と現在」(『情況』2000年8/9月号)などで、断片的だがその存在を語り始めている。

 この非合法共産党の存在と活動の軌跡を確認するために、既に紹介した「金沢資料4」を含む、金沢幸雄氏所蔵資料を、まず、目録風に紹介しておこう。 [  ]内は筆者の責任による解読上の補足であり、(  )内は文書中の見出しなど内容要約である。

 

<金沢幸雄氏所蔵沖縄・奄美非合法共産党関係資料目録(1953−57年)>

 

●金沢資料1 党文書「琉球人民党改正綱領草案」 1953年12月 謄写版17ページ 琉球人民党大島地方委員会(党綱領の改正はなぜ必要になったか、とくに改められている部分はどこか、アメリカ帝国主義は完全に琉球を植民地・軍事基地・奴隷化した、アメリカ帝国主義は琉球の独立国家を企んでいる、琉球の解放は祖国日本の解放・独立と不可分である、一般的要求、政治的要求、労働者の要求、農民の要求、社会的日常要求、教育文化の問題、琉球を解放するものは誰か)

●金沢資料2 「自由党代議士平井義一に対する現地情勢の聴取」 昭和28年12月15日 第3衆議院会館 手書き3ページ

●金沢資料3 党文書「琉球に於ける闘争について」 手書き3ページ+3ページ(中間1ページ欠、昭和28年12月末?)

●金沢資料4 党文書「結成から現在まで 琉球における党の歩いて来た道 1954年1月12日 手書き20ページ(本稿所収)

●金沢資料5 党報告書 琉球G 大村[=久留義蔵?] 1954年3月1日 手書き9ページ(奄美大島衆院選挙応援帰京報告、島民の生活について、職よこせについて、沖縄との関係について)<その末尾に、

●金沢資料6 党文書 「[1954年奄美総選挙]中村候補の各村別得票及順位票」 手書き表1ページ(名瀬市、三方村等)>

●金沢資料7 党報告書「琉球問題懇話会結成」 堀[=高安重正?] [1954年]3月11日 手書き6ページ

●金沢資料8 党報告書「アメリカ占領支配の破綻をばくろした沖縄立法員選挙」 堀[=高安重正?][1954年]3月21日 手書き8ページ(各党の新分野 今回の選挙の特質、アメリカの琉球支配体制は崩れ始めた アメリカはどうでるか、反米・日本復帰の統一戦線は拡大し発展する)

●金沢資料9 党報告書「昭和製作所 月本次郎[=高安重正]殿 南陽貿易 平良鉄男[=国場幸太郎]」 第119号[1954年]3月22日 手書き10ページ(党機関について、選挙闘争について、S確立について、雑件)

●金沢資料10 党報告書 「報告 [1954年]4月14日 田村[=高安重正?]」手書き6ページ(琉球Gの報告、奄美選挙に対するGの活動 メーデー対策)

●金沢資料11 党報告書 「報告  [1954年?]4月21日 田村[=高安重正?]」手書き7ページ

●金沢資料12 党報告書 奄美地区委員会アカハタ分局長宛 アカハタ京都支局長 峠田重次 [1954年5月?]手書き20ページ(4月27日那智丸出航、29日再選挙投票、5月12日日昇丸出港ほか)

●金沢資料13 党報告書「派遣隊の各個人別収支明細書」 [1954年5月?]手書き2ページ(松田清、林百郎、亀山幸三、峠田豊次ほか)

●金沢資料14 党報告書「報告書」 喜界班 報告者 鹿児島川島逸郎 工作期間 [1954年]4月22日ー4月29日 手書き8ページ

●金沢資料15 党文書「今後地区党の進む道」  [1954年5月?] 手書き6ページ(地区機関の強化、地区機関への定期報告、復興民主化同盟の全島的結集)

●金沢資料16 党文書「出張報告」 堀[=高安重正?] 手書き15ページ(選挙闘争の経過、財政関係について・

●金沢資料17 党文書「報告 レンケツキ 堀[=高安重正?] [1954年] 5・25−6・25」 手書き15ページ(沖縄の情勢、弾圧の強化、労働者の闘争、党組織G及大衆団体活動、機関紙)

●金沢資料18 党文書「徳之島伊仙村阿権の吉岡武二氏の土地闘争について」 [1954年6ー7月?] 手書き42ページ(関西から派遣された月形同志の報告、1954・6・19県指導部から奄美地区指導部への通達と意見書、1954年7月5日付け奄美地区指導部から県指導部宛回答)

●金沢資料19 党文書「現地党Vの方針、全人民大衆の力を結集して敵の凶暴な弾圧に総反撃せよ」  [資料19−21の執筆前、1954年10月下旬ー11月上旬?] 手書き22ページ

●金沢資料20 党文書「全国会議討論資料」 [1954年11月20−21日、三鷹]手書き38ページ(琉球解放の闘い、琉球に於ける米日反動の収奪と破壊政策、奄美大島における労働市民の窮乏、在日琉球同胞の窮乏、琉球に於ける民族闘争の発展、基地経済の破綻とファッショ政策の強行、党活動について)

●金沢資料21 党文書「当面する闘いの方向」 [1954年11月20−21日、三鷹] 手書き19ページ(復帰と復興闘争の統一、平和擁護闘争について、労農同盟について、日本国民の闘いとの統合について、統一戦線について、G確立について)

●金沢資料22  党報告書「月間報告その1 沖縄問題の発展」宮島[1955年]1月26日 手書き12ページ(沖縄問題の発展、在日沖縄人団体の動向、奄美復興問題、沖縄問題について、当面の方針)

●金沢資料23 党報告書「月間報告その2」 宮島  [1955年]1月25日  手書き10ページ(関西に於ける琉球出身者の分布並に生活状態、労働者の就業状態、Gの活動、選挙闘争について)

●金沢資料24 党文書「工作を結ぶにあたって」 [1955年2月総選挙時?] 手書き4ページ

●金沢資料25 党報告書「関西琉球G総会報告書」 茂岡 1955年3月31日 手書き7ページ

●金沢資料26 党書簡 山元名 [1955年4月一斉地方選挙後?] 手書き4ページ

●金沢資料27 党報告書「現地の情勢」1955年5月30日 手書き16ページ(沖縄の情勢、県民の窮乏と闘い、党活動について、奄美の情勢、復興闘争、党活動について、国内における沖縄問題の動き)

●金沢資料28 党報告書 「宮島様 報告 [1955年?]6月17日 G」 手書き5ページ

●金沢資料29 党文書「新しい体制についての意見」琉球G指導部 [1955年7月?]手書き5ページ

●金沢資料30 党文書 「昭和製作所 月本次郎[=高安重正]殿 南陽貿易 平良鉄男[=国場幸太郎] [1955年]7月31日」 手書き暗号文12ページ(大雨後のかすずけについて、ゆりについて)

●金沢資料31 党文書 国場幸太郎報告書(茶封筒入り手記、[1955年8月?])

(1)起訴状の写し 手書き1ページ(Government of the Ryukyu Island, Department of Police Charge Sheet, Date 15 Aug 1955,Kokuba Kotaro)

(2)今度の拉致事件における私の誤りについて 手書き9ページ

(3)事件の経過 手書き20ページ

●金沢資料32 党文書「沖縄における党建設上の誤りと欠陥について」[1955年秋?]手書き13ページ

●金沢資料33 資料「お願い」 留学生神谷尚(早大政経4年)、国吉真栄(中大法3年)、福地広昭(青山学院経1年)再渡航申請拒否事件手記 謄写版4ページ 1955年11月3日

●金沢資料34 党文書「党活動の総括」 琉球中央G 白畑光敏 1955年11月11日 手書き23ページ)[=○松田清『奄美社会運動史』所収資料11「白畑三蔵意見書」]

●金沢資料35 党文書「質問とお願い」 琉球中央G 白畑三蔵 中央常任幹部会御中 1955年11月16日 手書き7ページ(党籍の問題について、家庭問題の処理について、常任活動家の生活の問題について)

●金沢資料36 党文書「討論のまとめ」 琉球G指導部  [1955年] 11月17日 手書き17ページ(基地沖縄について、直轄植民地としての沖縄、沖縄返還の見通しについて、奄美返還の教訓、米軍政の弱点について)

●金沢資料37 党書簡 「琉球対策 高安様 [1956年?]2月1日 白畑三蔵」 手書き7ページ

●金沢資料38 党文書「沖縄返還国民運動の総括」1956年3月25日 謄写版7ページ(まえがき、 活動の概要 大会の概括、成果について、欠陥について、沖縄返還国民運動発展のために──沖縄県人統一の組織方針)

●金沢資料39 党文書「日本共産党奄美地区委員会 第一回地区党協議会一般報告(草案)」 謄写版17ページ 1956年4月(地区党協議会を開催するに当たって、党の統一と団結の問題、主な活動の成果と欠陥、地区党の建設のために、当面の闘争について)

●金沢資料40 党文書「資料 戦後十年間における奄美の党の歩んだ道」日本共産党奄美地区委員会 [1956年4月] 謄写版6ページ(本稿所収)

●金沢資料41 党文書「沖縄県人の組織について」 1956年7月19日 木津川地区市岡S 平良助次郎 中央委員会幹部会殿 手書き6ページ 

●金沢資料42 党文書 三光社 川田信夫殿 うるま商会 宮城幸雄[=国場幸太郎] [1956年夏?]手書き暗号文9ページ

●金沢資料43 党書簡「高安[重正]兄宛」 [瀬長亀次郎執筆?]  [1956年]9月28日 手書き4ページ[金沢資料42末尾に同封]

●金沢資料44 党文書「各党の沖縄対策、アメリカの世界戦略と沖縄基地、沖縄解放の基本的課題」 [1956年10月日ソ国交回復後?]手書き4ページ

●金沢資料45 活版新聞「基地沖縄」第16号(昭和31年12月21日)4ページ(繁栄か永久占領か、沖縄の良識かけた那覇市長選)

●金沢資料46 党文書「沖縄返還運動の政治宣伝と組織化について(案)」 1957年10月 謄写版6ページ(サンフランシスコ体制の打破と沖縄返還のたたかい 沖縄返還運動の歴史 沖縄返還運動の現状とその弱点 系統的政治宣伝と運動の組織化)

●金沢資料47 活版書籍広告 那覇市長瀬長亀次郎序・沖縄問題調査会著『水攻めの沖縄』青木書店

 

 以上の中には、暗号を用いた日本共産党中央と沖縄非合法共産党との連絡文書多数や、国場幸太郎氏のCIC弾圧事件時の党内報告書も入っている。その一つ一つが沖縄現代史解明の重要資料となるが、今回は、目録としての紹介にとどめる。

 また、これら金沢幸雄氏所蔵資料のほかに、国場幸太郎氏が収集した非合法沖縄共産党機関紙『民族の自由と独立のために』が残されている。1954年12月の創刊号は未発見であるが、第2−10号が発見されている。見出しの脇に「平和と民主主義と生活を守り、反米・祖国復帰・土地防衛の統一戦線の勝利をめざして」とある謄写版6−8ページの新聞で、各号を、それぞれのトップ見出しと共に、以下に記す。

 

<国場幸太郎氏所蔵『民族の自由と独立のために』目録>

 

●第2号(1954年12月15日)「モロトフ外相声明、日ソ関係の正常化は両国の利益に一致」

●第3号(1954年12月22日)「つよくなった国民の力、吉田内閣遂に総辞職、鳩山は保守合同への時かせぎ」

●第4号(1955年1月13日)「沖縄問題を1955年の平和運動のかなめに、沖縄80万同胞へ送る挨拶、平和ヨーゴ日本委員会から」

●第5号(1955年1月31日)「バクロされた暴政沖縄の実態、沖縄を返せ、立上る8千万同胞」

●第6号(1955年2月18日)「日ソ国交回復、ソ同盟政府正式に申入れ」

●第7号(1955年3月5日)「総選挙終わる、民主勢力議席の3分の1を獲得」

●第8号(1955年3月29日)「鳩山首相原子戦争に協力、国会質問にこたえ再び基地提供を声明」

●第9号(1955年4月17日)「日ソ交渉鳩山内閣ひきのばし、選挙すんで態度変化」

●第10号(1955年5月5日)「アジアはかわった、アジア・アフリカ会議成功裡に終る、国際緊張緩和と世界平和に貢献」    

  

      <以上、『法政大学大原社会問題研究所雑誌』第509号(2001年4月)、

       以下は、同第510号(2001年5月)所収>

 

 

5 日本復帰方針をめぐる奄美共産党と日本共産党(1956年党史)

 

 次に、1954年の総括「金沢資料4」と関連して、それを土台としつつ書き直されたと思われる1956年の党史総括=「金沢資料40」を、紹介しておこう。

 

金沢資料40 資料 戦後十年間における奄美の党の歩いた道

 

                   日本共産党奄美地区委員会

 

(一) 復帰前における党の歩み

(1) 一九四六年二月二日、アメリカ占領軍は、奄美大島、沖縄、小笠原諸島を日本の行政下から分離し、直接軍政下においた。

 アメリカの占領政策の帝国主義的野望を見抜いた琉球人民は、占領直後、自然発生的な抵抗を組織したが、一九四七年には奄美共産党が結成されて、日本共産党の指導をうけつつ成長、沖縄においては.沖縄人民党が結成されて日本共産党の影響を受けながら成長した。

 奄美共産党は、成長の途中でアメリカ占領軍の弾圧政策によって非合法組織として成長し、合法政党として社会民主党を組織し、日本復帰協議会を結成させて日本復帰運動を指導し、共産主義青年同盟、労働組合、農民組合、小作人組合、借地借家人組合、青年団、婦人ヨーゴ会、生活ヨーゴ同盟等を組織して、アメリカ帝国主義者とその協力者である反動勢力と闘ってきたが、一九五一年十二月四地区の統一による琉球政府の発足を機会に、社会民主党は琉球人民党と合同して、社民党は発展的に解消し、琉球人民党大島地方委員会として成長発展した。

(2)奄美大島では終戦直後の一九四五年十月頃から、中村[安太郎]、島本[忠雄]同志らを中心とする共産主義者の間で党組織確立の準備がすすめられていたが、党中央との連絡がつかなかったため、結成に至らなかった。

 一九四六年十二月党中央から奄美大島における党組織確立の任務を帯びて、久留[義蔵]同志が帰島したのを機に具体的な準備がすすめられ、一九四七年二月結成準備会がもたれ、同四月党組織が結成された。

 当時党中央の方針は「沖縄、奄美大島では、党の規約綱領に準じて独自の党を組織すること」「党は軍政下では、非合法組織にならざるをえないので、党の合法的な行動党としての合法政党(軍政府の認可する)をつくること」であった。

 したがって奄美共産党は、日本共産党の綱領規約に準じた綱領規約をもち、日本共産党の援助のもとに独自に発足したのである。

 奄美共産党の歴史はここからはじまる。

 奄美共産党は帰京する久留[義蔵同志に党の綱領規約を持参せしめ、党中央との連絡の任務を与えた。

 奄美共産党は、党中央に「沖縄、奄美に対する党の方針決定」を要望した。その中心的内容は、奄美大島の日本復帰に対する党の基本態度を明かにすることであり、日本共産党と奄美における党との組織的な関係についてであった。また、在本土沖縄・奄美大島出身党員グループは、「沖縄、奄美、小笠原の日本返還」を党の方針とすることを提案した。しかし日本共産党第六回党大会(一九四七年十二月)においては、「南方諸国の独立と解放」(綱領二七)として修正された。

 以上の経過と方針によって奄美における党は日本共産党の下部組織としてではなく独自の党として発足し、日本共産党は、奄美の党に対して援助する方向がとられた。奄美では日本共産党の出版物を受けとり、党の方針や諸政策を奄美の条件に具体化して活動を続けてきたのであるが、一九四九年頃から党活動の活発化と組織の拡大にともなって「奄美人民政府樹立」の綱領をもつ地方組織による革命運動では民族問題を解決することはできないとの意見が有力になり、日本復帰連動を民族的運動として取りあげ、党の組織機構を正式に日本共産党の下部組織にしなけれぱならないと考へ[え]るようになった。

(3) 奄美共産党はこの間非合法活動を続けていたが党中央の方針通り党の合法的な行動党の実現と、あらゆる合法大衆団体の結成とグループ活動に努力し、土建労働組合、木材労働組合、官公庁職員組合、農民組合などの結成と指導にあたった。

 また一九四八年の始めには、青年党員を中心に、奄美共産主義同盟の結成をみたが、これはまもなく合法的な青年の政治結社奄美青年同盟結成の方針を決議して解散した。

 その後一九四八年八月一五目に奄美青年同盟は結成後第一会の政策発表演説会を開催したが、この大衆集会は直接軍政府から解散を命じられ、同時に青年同盟組織も、占領政策に違背するものとして解散を命じられた。このため奄美共産党は既存の合法組織奄美大島連合青年団の再健強化の方針を採択することになった。

 当時、ますます琉球の植民地政策を強くし始めたアメリカ帝国主義は一切の政党・民主団体の結成と出版・言論の自由をハク奪すると同時に、住民に対する弾圧と収奪政策をおしつけてきた。この政策のロコツな現われは、奄美青年同盟の解散と一九四九年五月一日の放出物資の三倍値上げ指令であった。奄美共産党はこれに対し、植民地化反対、人民生活の確保の方針のもとに大衆闘争の組織化に努力して全郡的な大闘争の組織化に成功、文字通り官民一体の食糧値下げ陳情委員会から、自主的な大衆闘争組織として、奄美大島生活ヨーゴ同盟の結成をみたが、これもまた軍政府によって解散を命令された。

 しかしこの大衆闘争を通じて、奄美の郡民はアメリカ帝国主義者の占領政策に反対し、祖国復帰への要求を公然と主張しはじめるにいたった。

 一九五〇年になって、党は青年団の再建強化の方針が実を結び全大島の連合青年団を確立するにいたったので、まず青年団を中心にして復帰運動を公然化すべく方針を決定していた矢先、宮崎の奄美青年団の呼びかけに呼応して、青年総決起大会の形式で日本復帰運動を表面化した。

 しかしこのような活動の活発化に対し、軍政府は大いにあわて、三日後には十数名の同志が「暴動を計画した」との理由で逮捕投獄されいちじ人心は復帰運動を表面化することを恐れた。

 (4) 一九五〇年秋、知事公選が実施されたので、従来決定されていた方針に従い、合法政党結成の準備を始め、泉芳朗を中心に社会民主党をつくり、郡[群]島議会には公認候補を立てて闘い、社会民主党の地盤をつくり、郡[群]島議員一、市議四名をもつに至った。

 一九五一年初め、社会民主党、青年団、労組を中心にして日本復帰協議会を結成し、党はこれに対し民族運動として全力を集中した。

 アメリカ帝国主義の植民地支配に反対する人民の抵抗組織は、二〇余万郡民を一つの組織にまとめられ「信託統治絶対反対」「条約三条撤廃即時完全復帰」のスローガンは小学校の子供まで絶叫するようになった。

 (5) 奄美では一九五〇年七月頃から復帰運動の拡大強化によって「奄美共産党の組織を正式に日本共産党奄美地区委員会とする必要を感じ、日本復帰陳情員を全市町村から派遣した時、陳情員の一人として、党員を密航させ、党本部に連絡させたところ承認を得たとのことだったので、一九五一年十月頃からその方針の下に活動を続けて来た。しかし中央ではまだ具体化されず、奄美出身の党員を通じての連絡がつづけられた。

 一九五〇年の党の組織的分裂に際しては、奄美では、党の組織的分裂をさけるため「多数派」の方針を支持する方針を決定したが、奄美出身党員とくに同志久留[義蔵、義三?]を中心とする在京グループ並に、軍政府の弾圧にあって、日本本土に潜行した橋口[護]、徳田[豊巳]の同志らが「少数派」活動をしていることがわかり、これらの同志からは「少数派」により発行された文書が常に送られてきたので、奄美では組織としてこの文書の配布を禁じ、党籍を有する同志に対し自己批判を行って、復党することを勧告し、もし復党しない時は連絡を絶つ旨通知した。

 その後新綱領の発表と党の統一についての決議[1951年10月第5回全国協議会決定]採択によって、党の統一がすすめられたが、党の分裂のために中央との連絡は切断され、半年以上も党の文書が入手できなかったが、一九五一年十月以降党の文書を入手し、連絡も復活した。

 (6) この頃は琉球の信託統治化方針が条約調印によって確定し、琉球政府設立による四地区統一の方針も明らかになったので、社民党を発展的に解消して、沖縄人民党と合同する方針をたて、党は奄美地区委員会を琉球地方委員会として組織を拡大強化する方針をたてた。琉球人民党の中央委員に党員を送り、とくに党本部に常任として林[義巳]同志を派遣して琉球人民党を合法舞台として活動する方針を立てた。

 そのために同志仲村[中村安太郎]を人民党に入党させて公認候補として、立法院議員選挙を闘ったが、不正投票のため落選したので公訴して裁判に勝ち、軍政府の猛烈な弾圧と妨害をはねのけて勝利した。

 (7) 奄美共産党は一九五一年十月以降日本共産党の琉球地方委員会としての方針のもとに琉球地方、とくに沖縄の軍事基地並びに基地労働者十万の組織化に重点をおき、党は人民党本部にオルグを派遣すると共に、沖縄に渡った同志数名で党員グループをつくり、アメリカ帝国主義の植民地化に対する闘争を組織する方針をたて合法面では立法院を通じて、労働法規の制定、条約三条撤廃、即時目本復帰決議、アメリカ軍の土地取上げ反対、人権躁リンに対する人権ヨーゴ決議等を中心にアメリカの植民地化政策をバクロし、これに対する渡航組織の確立をはかり、非合法面では党員の獲得と党の政策の合法面における実践化につとめ重点を軍労務者の組織において努力した結果、日本道路ストを組織し、ついに勝利させたのである。

 日本道路ストは沖縄の労働者を自覚させ団結させた歴史的意義をもち一般人民をも植民地化政策に目ざめさせ、これに対する抵抗を組織する方向を与えた革命的闘争であった。

 労働運動と植民地化反対闘争の革命的基礎はこれを出発点としてなされ、この労働者たちを中心として成長し発展した。

 琉球地方委員会は、琉球の労働階級に根をおろし、十万労働者を組織する基礎を確立し、琉球人民の民族統一戦線の基礎をつくった。

 松村組、清水砕石工場、KOT等々の闘争も党によって指導された。

(8) 琉球地方委員会は殆んど奄美出身の党員によって構成され、沖縄グループとして活躍したが、沖縄の同志の参加により名実ともに琉球地方委員会になると共に、正式に日本共産党の下部組織として承認を受け、その指導の下に日本民族の独立、自由解放の一翼として琉球の祖国復帰による民族解放の綱領を決定し、党の承認をうけるため一九五三年七月沖縄において、琉球地方委員会を開催してこれを決定した。

 琉球地方委員会は党中央に対し、(一)琉球地方委員会を下部組織として承認する方針を早く決定すること。(二)琉球地方委員会の地域綱領、規約を検討して決定すること。(三)中央に琉球ビューロを設置して琉球地方委員会の指導連絡にあたること。

 これらの三つを早急に決定してもらうために、琉球の情勢分析と地域綱領とを決定したのである。

 一方、党中央でも、一九五二年より沖縄・大島の党組織について討議がすすめられ、一九五三年夏、日本共産党の下部組織として統一指導することが確認され、そのための具体的措置がとられた。

 

(二) 復帰後における党の歩み

 (9) 一九五三年八月八日、朝鮮帰りの戦争行商人ダレスは、吉田首相と会見した際、奄美大島の返還を声明した。

 この頃琉球地方委員会の報告を検討中の奄美地区委員会ではこれを確認し(1)即時無条件復帰、(2)完全復興、(3)沖縄・小笠原の返還の方針を決定し、組織の確立と指導部の強化を決定した。

 奄美の復帰実現が、いよいよ明らかになった十、十一月にわたって、党地区機関は、新しい情勢の下における方針を討議した結果、(一)奄美地区委員会は琉球地方委員会の所属から切り離し、沖縄・宮古・八重山の三地区で琉球地方委員会を構成すること、(二)党中央は急いで琉球ビューロを確立すること、奄美地区に特殊の沖縄ビューロをつくること、(三)奄美地区委員会を鹿児島県委員会の所属とするか、又は直接中央ビューロの下におくかを決定してもらうことを決議した。

 (10) 一九五三年十一月、琉球地方委員会は、党中央から派遣された同志の連絡によって、(一)党中央に南方地域特別対策委員会がつくられ、琉球の党組織はこの下におかれること、(二)現在の党組織とメンバーを正規の手続きがなされるまで、暫定的に認めること、(三)急いで正規の手続きを完了すること等々の指示を受けた。この指示にもとずいて、琉球地方委員会は、同年十二月地方委員会を開いてこれを確認したが、奄美地区の復帰にともなう所属問題については、(一)奄美地区委員会は琉球地方委員会から離れ、党中央の指示によって所属を決定すること、(二)琉球地方委員会は従来通り、沖縄・宮古・八重山の三地区をもって構成することを決定した。

 (11) 一九五二[53]年十二月二十五目、奄美大島の祖国復帰は、日米交換公文の正式調印によって、一応達成された。

 この結果、奄美地区委員会はさきに決定された琉球地方委員会の方針に従い、十二月二十七日の会議において、奄美における党組織を琉球地方委員会から切り離すことを確認し、今後の所属機関を決定することと、来るべき二月の衆議院選挙対策のため、サキダ[崎田実芳]同志を党中央に派遣することを決めた。

 一方奄美における党の合法的活動舞台であった、琉球人民党大島地方委員会もまた、十二月十三日那覇市で開かれた、琉球人民党第二回大会の決定にもとづいて十二月二十七日に発展的解消を決議した。

(12) この頃鹿児島県委員会所属のタカハシ[高橋薫]同志が中央の指示をうけて来島し、また南方地域特別対策委員会の指示が到着し、さらに明けて一九五四年一月七日には、中央の指示を受けて、本土に潜行中だった徳田[豊巳]同志が帰ってきた。このためにすでに中央への派遣を決定されていた、地区委員会代表のサキダ[崎田実芳]同志の出発は延期されることになった。

 奄美地区委員会は、党中央の指示を討議した結果、(一)南方地域特別対策委員会が指示した、沖縄との統一指導部確立の問題については、一九五二[53]年十二月に決定された琉球地方委員会の方針があるので、あらためて意見を上げること、(二)復帰後の奄美大島の新しい情勢と、これにもとづく当面の闘いの方向についての党中央の指示はさっそく実践すること。(三)人民党大島地方委員会解散後は、人民党を中心に結集した闘いの成果を一層発展強化し党を中心にした統一戦線強化のために、奄美大島の完全復興、沖縄・小笠原の返還をめざして政治同盟を結成すること。(四)地区委員会は、民族解放民主統一戦線の拡大強化のため基本組織である、党組織の確立強化をはかり合非活動を活発にすること。(五)選挙対策については中村[安太郎]同志を無所属で衆議員選に立候補させ、県議・市議・市長の補欠選挙については、党の独自候補を立てること等々を決議した。

(13) 一九五二[54]年一月下旬、地区委員会の決定にもとずく政治同盟の結成は、旧人民党のメンバーを中心に結成された。地区委員会は民主化同盟の結成にあたって、サキダ[崎田実芳]同志を民主化同盟のグループキャップとして送り込み、トクダ[徳田豊巳]同志を地区委員会の責任者とすることを決めて臨んだ。

 一九五三[54]年二月復帰にともなう選挙戦にさいし党は、中村[安太郎]同志を衆議院、大山[光二]同志を県議、崎田[実芳]同志を市議に、いずれも民主化同盟公認として立候補させて闘ったが、市議以外は落選した。しかし衆議院選挙では反動陣営も民主陣営も候補者の統一が成らず、再選挙にもちこまれた。

 奄美地区委員会は、この選挙において、党と民主化同盟の関係を明らかにできずコンランをまねいたが、同年四月の再選挙においても、中村[安太郎]同志は民主化同盟公認、共産党、労農党の推薦候補として、北は北海道、南は鹿児島県に至る共産党の応援隊や、労農党や、民主的諸党派、労働組合、大衆団体の支持を受けて、選挙戦を闘い、落選はしたが一挙にして前回の二倍を上まわる好成績をあげた。この選挙闘争は奄美大島における、独立と民主主義と平和を守る闘いに飛躍的前進の機会をつくった。

 (14) 復帰にともない公然化活動をかちとった奄美地区委員会は、一九五二[54]年二月選挙応援のためにかけつけた、鹿児島県委所属のカリヤ[刈谷?]同志や地区のトクダ[徳田豊巳]同志等を中心に、名瀬市において、大衆の前に始めて公然活動を開始し、アカハタ分局も確立された。しかし、この頃地区委員会では、党と民主化同盟の関係を明確につかめなかったため、多くの混乱を起し、地区委員会はきわめて、困難な闘いを余儀なくされたが、それでも党は着実に大衆の中で成長していった。

 一九五四年九月には一番おくれた層とされていた港湾労働者が、奄美労評や党・大衆団体の支援の下に歴史的なストライキを組織し勝利を納めたが、これは郷土の完全復帰と沖縄・小笠原の返還を要求して闘っている、奄美の労働者・農民を始め、全郡民に一層の確信を与へた。

 奄美地区委員会では、一九五二[54]年二月、四月の再選挙の際、南方地域特別対策委員会の月本[高安重正?]同志の来島を機会に、組織問題の解決が進められ、月本同志を中心にして、琉球統一指導部が確立された。

 (15) 一九五五年二月の衆議員院解散による選挙に、党は中村[安太郎]同志を公認候補として闘ったが、成績は投票者数の十%を上廻り党では、全国で有数の好成績をかちとり、引きつづき行われた鹿児島県会議員の選挙には、共産党としては、都・府議を除く始めての県会議貝を当選させるという大勝利をかちとることができた。

 しかし、一九五四年頃から党内においては、奄美地区委員会の所属機関の在り方と党の運営・指導上の問題等について、個々の意見が出されはじめていたが、一九五五年五月党中央は奄美にあった琉球統一指導部を解消し、奄美地区委員会は、鹿児島県委貴会の下におかれることになり、地区機関の整備強化にとりかかった。

 (16) 一九五五年七月党中央は、いままでの党活動を総括し、当面の問題についての方針を第六回全国協議会で決議し、全面的な自己批判と、真剣な党づくりにとりかかった。

 奄美地区委員会でも、前後二、三回にわたる地区活動者会議を開催、一九五六年一月の活動者会議では正式に従来のビューロを解散し、新に拡大地区委員会を選出し、奄美地区委員会の統一と団結のために、地区活動の総括活動に着手するに至ったのである。

                              以上

 

 この文書には、執筆時期が明記されていない。しかし「金沢資料39 党文書 日本共産党奄美地区委員会 第一回地区党協議会一般報告(草案)」と一緒に保存されており、謄写版の筆跡が同一で、内容的にも「一般報告」と合致し、1956年1月活動者会議まで言及されていることから、1956年4月の日本共産党奄美地区委員会第一回地区党協議会に提出されたもの、と推定できる。

 「金沢資料39」の「二 党の統一と団結の問題」の項は、「六全協の決議は、いままでの党活動を総括するにあたって党の犯した誤りの中で、第一番にあげなければならないものは党の団結の問題であり、第二番目に指摘されなければならないのは戦術上の誤りとくに極左冒険主義の問題である」としたうえで、以下のように述べている。

 「わが奄美地区においては別紙資料が示しているような戦後十年間における奄美地区党の歩みからして組織的分裂の原因になった一九五〇年のコミンホルムの批判をめぐる党中央の多数派、小[少]数派といった意見の対立からさらに組織的分裂に至った党内事情は直接的に影響するにいたらなかった。奄美地区党では別紙資料が示しているように、党中央と連絡のために派遣された同志たちが、少数派活動をつづけその影響を地区党内にも持ちこもうとした時、とにかく党内の思想的対立で組織的分裂をひき起すことは正しくないし、組織の統一という鉄則をふみはずすような言動は許さるべきではないという観点から一切の連絡を絶つことを地区機関は決議した。
 しかしわれわれのこの決定は決してコミンホルム批判を正しく理解し、実践するための党内の民主的討議を活発にして思想的統一をはかり、組織的統一を強め、党をマルクス・レーニン主義の党として強化発展させるといったものでなく、少数派の活動は分派活動であって許さるべきではないという一面的なものであったことは否めない。
 地区党がもし、コミンホルムの批判を正しく理解し実践するために党内で民主的討論をまきおこしていたとするならば、奄美の地区党はいままで地区党が犯してきた誤り、すなわちアメリカ占領軍は解放軍との規定に基く党中央の誤った民族論の上に平和革命論と合法主義が重なり合い結合した方針と指導及びこの生産物ともいうべき奄美自治政府樹立といった政策とはきっぱり手をきって、コミンホルム批判の指摘する民族の独立と解放の道を歩むことができたであろうし、またこの大事業を成し遂げるにふさわしいマルクス・レーニン主義の党の強化に着手することができたにちがいない」
 「われわれは党のとった誤った指導によって党を離れた同志たちに対して真に同志的な愛情と積極的な援助の手をさしのべることなく、これらの党を離れていく同志たちをただ単に『日和見主義者』『脱落分子』『スパイ』といったレッテルをはることによって批判しおきざりにしていたのである」
 「さらにこのような党の誤った戦術や指導あるいは理論的思想的弱さからくる悪い党風が集中的に現れたのは、一九五三年十二月以降すなわち奄美大島が歴史的な祖国復帰を達成し、奄美大島地区党が大衆の前に公然と姿を現わして活動を開始してからである。このことは資料『戦後十年における奄美地区党の歩いた道』の中でも明らかにされているように、地区党は公然活動を開始する出発点においてすでに大きな不統一と混乱をきたしている。」(ゴチックは引用者、以下同)

 つまり、この「金沢文書40」は、日本共産党第6回全国協議会(六全協)決議をくぐった1956年4月時点での奄美・沖縄非合法共産党史の批判的総括であることがわかる。

 1956年といえば、国際共産主義運動におけるスターリン批判の年である。前年7月の六全協で、徳田球一の北京での客死が発表され、徳田指導下の多数派(所感派)の「極左冒険主義」が批判されて、1950年以来の日本共産党の分裂が一応終結し、組織的統一を回復した。しかし沖縄では、プライス勧告に反対する「島ぐるみ闘争」の真っ最中であり、瀬長亀次郎が那覇市長に当選した反米・祖国復帰運動が頂点に達した時期である。 この1956年総括は、奄美地区委員会の立場から書かれているため、沖縄での土地闘争には触れていない。それでも、上記の六全協後の「自己批判」の流れのなかで、54年総括に比べると、以下のような特徴をもつ。

 第1に、54年党史では、当初の独立「奄美人民共和国」構想から「祖国復帰」方針への転換を、「奄美共産党では、沖縄大島出身の党員グループを通じて『沖縄、大島に対する中央の方針決定』を要望したが、この党員グループの提案は修正されて『南方諸島の独立と解放』(綱領二七)と言うことになった、と報告された。この要望がいれられなかったということが、その後大島・沖縄出身党員の多くを国際派分派に走らせた口実の一つになったらしいとのことであった」と曖昧に述べていたが、56年党史では、奄美共産党の創立を1947年4月と特定した上で、「奄美共産党は帰京する久留同志に党の綱領規約を持参せしめ、党中央との連絡の任務を与えた。奄美共産党は、党中央に『沖縄、奄美に対する党の方針決定』を要望した。その中心的内容は、奄美大島の日本復帰に対する党の基本態度を明かにすることであり、日本共産党と奄美における党との組織的な関係についてであった。また、在本土沖縄・奄美大島出身党員グループは、『沖縄、奄美、小笠原の日本返還』を党の方針とすることを提案した。しかし日本共産党第六回党大会(一九四七年十二月)においては、『南方諸国の独立と解放』(綱領二七)として修正された」と、すでに1947年の日本共産党第6回大会時から、現地の奄美共産党も、本土の沖縄・奄美出身党員グループも、「日本復帰」方針を掲げていたことを強調した。

 第2に、非合法沖縄共産党結成の経過についてである。54年党史は、いくつかの年号の誤りを含みつつも、次のように詳しく述べていた。

 「この頃一九五一年秋党は琉球の信託統治方針がサンフランシスコ単独条約の調印によって確定的となり四地区(奄美、沖縄、宮古、八重山)群島の統合によるカイライ琉球統一政府設立の方針がアメリカ軍政府の命令によって明らかになったので党の指導下にある奄美社会民主党を発展的に解消して沖縄人民党と合同する方針をたてた。これについてはまた沖縄人民党中央委員の島袋氏が合同問題を持って奄美に来島した。これと同時に党は奄美大島を中心にしていた日本共産党琉球地方委員会を名実ともに琉球の統一組織にするために、沖縄に転住した党員を中心にして沖縄における細胞を確立し組織の拡大強化につとめた。琉球人民党の中央常任委員会には同志林を常任委員として人民党本部に送りこみ党員はグループ活動を強化して琉球人民党を党の舞台として活動する方針をたて、まず大島地方委員会における指導権を確立した。
 一九五二[51]年一二月廿九日沖縄の那覇市で開かれた琉球人民党結成大会には大山と崎田両同志(社民党中央委員)を参加させ明けて一月三十日には大島地方委員会を確立した。この時党は沖縄人民党の書記長瀬長、組織部長島袋氏等に基本党の確立を説いたがこれは受け入れられず、このため党は従来通り奄美出身者の党員を中心にグループ活動を強化した」
 「奄美共産党では一九五三[51]年十月以降日本共産党の琉球地方委員会としての方針のもとに琉球地方特に沖縄の基地労働者を中心とする琉球の十万労働者の組織化に重点をおき奄美地区と沖縄の同志とが密接な連絡をもってアメリカ帝国主義の植民地化に対する闘争を組織する方針をたて合法面では人民党を始め各種社会団体議会を通じて労働法規の制定、条約三条の撤廃、即時祖国復帰、アメリカ軍の土地取り上げ反対、人権ヨーゴを訴え議会においては決議案などを上程するなど植民地政策をバクロし、これに対する抵抗組織の確立をはかり、非合法面では党員の獲得と組織の拡大と党の政策の合法面における実践化につとめ重点を当面基地労働者の組織において努力した結果、一九五二年六月には琉球において始めての日本道路会社スト闘争を組織し、ついに完全勝利をかちとったのである。日本道路ストは沖縄を始め全琉球の労働者を目覚めさせ、団結させる歴史的意義をもち一般人民にも植民地政策にめざめさせ、これに対する抵抗を組織する方向を与えた革命的記念闘争であった。労働運動と植民地反対闘争の革命的基礎はこれを出発点としてなされ、この労働者たちを中心として急速に成長し発展した。琉球地方委員会は琉球の労働者階級に根を張り、十分労働者を組織する基礎を確立し、琉球住民の民族解放民主統一戦線の基礎をつくった」
 「琉球地方委員会はほとんど奄美出身の党員によって構成され、沖縄細胞として活動したが、名実ともに琉球地方委員会になると共に正式には日本共産党の指し示す民族解放民主革命の達成のためにその一翼として琉球の祖国復帰による住民解放の綱領を決定し、党中央の承認をうけるため、一九五二[53?]年七月沖縄に於いて琉球地方委員会を開催して、この方針を決定したが、この地方党大会はつねに革命え[へ]の道を共にして来た人民党の瀬長書記長と島袋組織部長の両氏を始め他の沖縄出身者が[  ?]として党の方針の実現をみた。」
「一九五二[53]年十一月の末党地方委員会は中央から派遣された同志コクバ[国場幸太郎]が持って来た党中央の指導によって、中央に南方地域特別対策委員会がつくられたこと、(2)琉球の党組織はこの下におかれること、(3)現在の党組織とメンバーを正式な正規の手続きがとられるまで暫定的に認めること、(4)急いで正式な手続を完了する旨の指示を受けた。中央の示達にもとずいて党地方委員会は同年十二月四日に地方委員会を開催してこれを確認したが奄美地区の党機関については奄美大島の復帰の見透しが確定的になったこと、復帰に伴う沖縄地区と奄美地区との諸問題を検討の結果、奄美地区は現在の琉球地方委員会から離れ、党中央の決定に従って所属機関を決定することとなり、琉球地方委員会は沖縄、宮古、八重山、奄美の四地区から奄美地区を除いた三地区によって沖縄地方委員会を組織することになりこの報告のために同志崎田[実芳]を中央に派遣することを決定した」

 

 これを踏襲しつつ、56年党史では、当初の沖縄人民党の拒否反応や瀬長書記長・島袋組織部長らの入党に触れることなく、「琉球地方委員会は殆んど奄美出身の党員によって構成され、沖縄グループとして活躍したが、沖縄の同志の参加により名実ともに琉球地方委員会になると共に、正式に日本共産党の下部組織として承認を受け、その指導の下に日本民族の独立、自由解放の一翼として琉球の祖国復帰による民族解放の綱領を決定し、党の承認をうけるため一九五三年七月沖縄において、琉球地方委員会を開催してこれを決定した」と、叙述を改めた。また、「奄美地区委員会では、一九五二[54]年二月、四月の再選挙の際、南方地域特別対策委員会の月本同志[高安重正]の来島を機会に、組織問題の解決が進められ、月本同志を中心にして、琉球統一指導部が確立された」という本土党中央の関与を明示した。

 

6 1958年における沖縄・奄美復帰闘争の総括

 

 ところがこの「党史」は、1958年夏に、さらに書き換えられる。沖縄における「島ぐるみ闘争」が本格的に展開し、瀬長亀次郎の那覇市長当選と米軍の干渉による追放、沖縄人民党と社会大衆党左派の統一戦線による「民連ブーム」とその内部分裂、など激動期をくぐってのちの、東京で開かれた日本共産党西南地方特別対策委員会への報告書である。

 

松田資料18 沖縄・奄美大島における党建設とその活動 

 

[本資料は、松田清『奄美社会運動史』305−338ページに日本共産党奄美地区委員会(一九五八・七)「沖縄奄美における非合法党建設とその活動」として収録されているが、表題・見出しが編集上で手を加えられているほか、いくつかの重要な脱落があり、句読点・改行・送りがな等にも手が加えられているため、改めて手書き原文全31ページから作成した]

 

(一) 奄美返還まで

 一九四六年二月一日、アメリカ占領軍最高司令官は、沖縄・奄美大島・小笠原諸島を、日本から分離し直接軍政の下においた。

 アメリカ占領軍の帝国主義的野望を見抜いた琉球人民は、占領直後自然発生的な抵抗を組織したが、党がなかったため、闘争の組織的発生は望めなかった。

 このような状勢の中で、党中央は、一九四六年末、同志久留[義蔵]を奄美大島に派遣し、四七年二月、同地における共産主義者を結集して奄美共産党を結成し、その指導にあたらせた。

 

 一方沖縄においては、.沖縄人民党が結成され、日本共産党の影響を受けながら成長した。

 奄美共産党は結成当初から、アメリカ占領軍の弾圧政策に対抗して非合法形態をとった。

 当時党中央の基本方針は、

一、沖縄・奄美大島では、党の規約綱領に準じて独自の党を組織すること。

二、党は軍政下では非合法組織にならざるを得ないから、合法舞台として軍政府の認可する合法政党をつくる。

ことであった。そこで奄美共産党は、日本共産党とほぼ同じような綱領規約をもち、日本共産党の指導と援助をうけながら、組織的には独自の党として発足したのである。

 奄美共産党は結成直後、中央から派遣された久留[義蔵]同志に党の綱領規約を携行させ、中央との連絡の任務を託し、沖縄・奄美大島における党の方針決定を要望した。その中心的内容は、沖縄・奄美大島・小笠原の日本復帰にたいする党の基本態度を明かにすること、日本共産党と奄美共産党との組織関係を明確にすることであった。

 また本土在住沖縄・奄美出身党員グループは四七年十月に開かれた第六回大会において、アメリカ帝国主義の侵略的軍事戦略の拠点となっている、沖縄・奄美大島・小笠原諸島の位置づけと、これら諸島の日本返還のたたかいが、日本革命において果す役割を強調し、同地域における日本共産党の指導権確立についての組織問題を提案したが、討論の結果、この提案は「南方諸国の独立と解放」(行動綱領二十七項)の中に包含されることになり、奄美共産党や本土在住沖縄・奄美大島出身党員グループの要望は党内で黙殺され、沖縄・奄美問題は、理論的にも、実践的にも発展させることはできなかった。

 この経過が示す通り、六回党大会は、沖縄・奄美大島・小笠原問題の本質を見失い、民族間題について大きな誤りをおかした。

 当時党中央は、軍政下にある沖縄・奄美大島では高度の自治権かくとくのたたかいに主力をおき、自治政府をかちとったのちに対等の条件で日本と結合するという考えかたであった。この見解は小数民族論の基盤となった。

 しかしこのような考えかたや方針は基本的に間違っているから実践の上でただちに破綻がおこる。

 奄美大島では一九四八年から党活動の活発化と組織の拡大にともなって、「奄美人民政府樹立」の綱領をもつ独自の共産党組織による革命運動では民族問題を解決することはできない。という声が高まり、日本復帰連動を民族運動としてとりあげ、奄美大島の党の組織・機構を正式に日本共産党の下部組織にしあげなけれぱならないというのが党内の統一的意見となった。たたかいは不可避的にそのような方向に発展していった。

 一九四八年八月一五目、奄美共産党の指導の下に奄美青年同盟は結成後第一回の政策発表演説会を開催したが、この大衆集会は直接軍政府から解散を命じられ同時に青年同盟組織も占領政策に違反するものとして解散を命じられた。このため奄美共産党は既存の合法組織「奄美大島連合青年団」の再建強化の方針を採択することになった。当時、ますます琉球の植民地化政策を強化し始めたアメリカ帝国主義は一切の政党民主団体の結成と出版・言論の自由をハク奪すると同時に住民に対する弾圧と収奪政策をおしつけてきた。

 この政策のロコツな現われは、奄美青年同盟の解散と一九四九年五月一日の放出物資の三倍値上げ指令であった。奄美共産党はこれに対し植民地化反対、人民生活の確保の方針のもとに大衆闘争の組織化に努力して全島的な大衆闘争の組織化に成功、自主的な大衆闘争組織として、奄美大島生活ヨーゴ同盟を結成したが、これもまた軍政府によって解散を命ぜられた。しかしこの大衆闘争を通じて、奄美郡民はアメリカ帝国主義者の占領政策に反対して、祖国復帰への要求を公然と主張しはじめた。

 一九五〇年になって、党の青年団再建強化の方針が、実を結び全大島の連合青年団を確立するに至ったのでまず青年団を中心にして復帰運動を公然化する方針を決定していたやさき、宮崎の奄美青年団の呼びかけに呼応して五〇年一月名瀬市において祖国復帰青年総決起大会を組織した。

 この大会はそれ以後の復帰運動の礎石となった。このような青年運動の活発化にたいし軍政府は大いに狼狽し、大会三日後には十八名の同志が、「暴動を計画した」という理由で逮捕投獄され二名の同志が本土に亡命した。これがいわゆる奄美共産党事件である。

 青年団を中核とする復帰運動は米軍政府の弾圧に抗してたたかい続けた。

 一九五〇年秋知事公選が実施されたので従来決定されていた党の方針に従い合法政党結成の準備をすすめ泉芳朗を中心に社会民主党をつくり、郡島会議に公認を立てて闘い社会民主党の地盤を強化し、群島議員一名、市議四名を当選させた。一九五一年初め社会民主党、青年団、労組を中心にして日本復帰協議会を結成し、党はこれに対し民族運動として全力をあげて闘い、アメリカ帝国主義の植民地支配に反対する人民の抵抗を組織化することに努力を集中した。

 奄美では一九五〇年七月頃から復帰運動の拡大強化によって「奄美共産党の組織を正式に日本共産党奄美地区委員会とする必要を感じ日本復帰陳情員を全市町村から派遣した時、陳情員の一人として、党員を密航させ、党本部に連絡させた。党中央は奄美共産党の要請を承認したが、政策や方針、機構はなかなか整備できず奄美出身の党員を通じての連絡がつづけられた。

 一九五〇年の党の分裂に際しては奄美大島では党の組織的分裂をさけるため「多数派」の方針を支持する方針を決定し、奄美出身党員とくに同志久留[義蔵]を中心とする在京グループ並に軍政府の弾圧にあって日本本土に潜行した橋口護[]、徳田[豊巳]の同志らが「少数派」活動をしていることがわかり、これらの同志から「少数派」により発行された文書が常に送られてきたので奄美では組織としてこの文書の配布を禁じ、党籍を有する同志に対し自己批判を行って復党することを勧告し、もし復党しない時は連絡を絶つ旨通告した。その後新綱領の発表と党の統一についての決議採択によって党の統一がすすめられたが、党の分裂のために中央との連絡は切断され、半年以上も党の文書が入手できなかったが一九五一年十月以降党の文書を入手し連絡を復活した。

 この頃琉球の信託統治化方針がサンフランシスコ条約調印によって確立し、琉球政府設立による四地区統一の方針も明らかになったので社民党を発展的に解消して沖縄人民党と合同して琉球人民党を結成する方針をたて、党は奄美地区委員会を琉球地方委員会として組織を拡大強化する方針をとった。琉球人民党の中央委員にわが党のメンバーを送り、とくに琉球人民党本部に常任として林[義巳]同志を派遣して琉球人民党を合法舞台として活動する方針を立てた。そのために、同志中村[安太郎]を人民党に入党させて公認候補として立法院議員選挙を闘ったが、不正投票のため落落したので、公訴して裁判に勝ち、軍政府の猛烈な弾圧と妨害をはねのけて勝利した。

 奄美共産党は、一九五一年十月以降の日本共産党の琉球地方委員会としての方針のもとに琉球地方、とくに沖縄の軍事基地並びに基地労働者十万の組織化に重点をおき、党は人民党本部にオルグを派遣すると共に、沖縄に渡った同志数名で党員グループをつくり、アメリカ帝国主義の植民地化に対する闘争を組織する方針をたて合法面では立法院を通じて労働法規の制定、平和条約三条撤廃、即時目本復帰を主張し、アメリカ軍の土地取上げ反対、人権躁リンに対する人権ヨーゴ決議等を中心にアメリカの植民地化政策をバクロし、非合法面では党員の獲得と党の政策の合法面における実践化につとめ重点を軍労務者の組織において努力した。その結果日本道路ストを組織し二十余日を闘いぬいてついに勝利させたのである。日本道路ストは沖縄労働者の自覚と団結をうながし、党を建設した。歴史的意義をもつ軍政下におけるはじめての闘争でこのたたかいを契機にして一般人民をも植民地化政策に目ざめさせ、これに対する抵抗を組織する方向を与えた革命闘争であった。労働運動と植民地化反対闘争の革命的基礎は、このストライキに参加した労働者達を中心にして成長し発展した。

 琉球地方委員会は琉球の労働者階級に根をおろし十万労働者を組織する基礎を確立し、琉球人民の民族統一戦線の基礎をつくった。松村組、清水砕石工場、KOT等々の闘争も党によって指導された。

 これまで沖縄の共産主義者は、沖縄のおかれた特殊の条件から沖縄における共産党の建設については否定的であった。だから琉球地方委員会は殆んど奄美出身の党員によって構成され、沖縄グループとして活動したが、日本道路ストを通じて沖縄の同志の党えの正式の参加により名実共に琉球地方委員会になると共に正式に日本共産党の下部組織として承認を受け、その指導の下に日本民族の独立、自由解放の一翼として琉球の祖国復帰による民族解放の綱領を決定し、党の承認をうけるため一九五三年七月沖縄において琉球地方委員会を開催してこれを決定した。琉球地方委員会は、党中央に対し、(一)琉球地方委員会を下部組織として承認する方針を早く決定すること。(二)琉球地方委員会の地域綱領、規約を検討して決定すること。(三)中央に琉球ビューロを設置して琉球地方委員会の指導連絡にあたること。

 これらの三つを早急に決定してもらうために琉球の情勢分析と地域綱領を決定したのである。一方党中央では一九五二年はじめから沖縄・大島の党組織について討議がすすめられ、一九五三年夏、日本共産党の下部組織として統一指導することを確認し、西南諸島特別対策委員会が設置された。

 一九五三年八月ダレスは奄美大島の返還を声明した。この頃琉球地方委員会の報告を検討中の奄美地区委員会ではこれを確認し(1)即時無条件復帰、(2)完全復帰、(3)沖縄・小笠原の返還の方針を決定し、組織の確立と指導部の強化を決定した。奄美の復帰実現がいよいよ明らかになった十、十一月にわたって、党地区機関は新しい情勢の下における方針を討議した結果、(一)奄美地区委員会は、琉球地方委員会の所属から切り離し、沖縄・宮古・八重山の三地区で琉球地方委員会を構成すること、(二)党中央は急いで琉球ビューロを確立すること、奄美地区に特殊の沖縄ビューロをつくること、(3)奄美地区委員会を鹿児島県委員会の所属にするか又は直接中央ビューロの下におくかを決定してもらうことを決議した。

 一九五三年十一月党中央は同志K[国場幸太郎]を琉球地方委員会に派遣し(一)党中央に西南地方特別対策委員会がつくられ、琉球の党組織はこの下におかれること、(二)現在の党組織とメンバーを正規の手続きがなされるまで、暫定的に認めること、(三)急いで正規の手続きを完了すること等々の指導を与え、この指示にもとずいて琉球地方委員会は同年十二月地方委員会を開いてこれを確認し、奄美地区の復帰にともなう所属問題については、(一)奄美地区委員会は琉球地方委員会から離れ党中央の指示によって所属を決定すること、(二)琉球地方委員会は従来通り沖縄・宮古・八重山の三地区をもって構成することを決定した。

 一九五三年十二月二十五目、奄美大島の祖国復帰は日米交換公文の正式調印によって、一応達成された。この結果奄美地区委員会はさきに決定された琉球地方委員会の方針に従い十二月二十七日の会議において、奄美のおける党組織を琉球地方委員会から切り離すことを確認し、今後の所属機関を決定することと来るべき二月の衆議院選挙対策のためS[崎田実芳]同志を党中央に派遣することを決めた。一方奄美における党の合法的活動舞台であった琉球人民党大島地方委員会もまた、十二月十三日那覇市で開かれた琉球人民党第二回大会の決定にもとずいて十二月二十七日に解消を決議した。

 

(二)奄美大島返還後の党活動(沖縄を中心として)

 奄美大島が復帰した直後党中央は、沖縄・奄美大島における情勢を検討し、「平独」[日本共産党非合法機関紙『平和と独立のために』1954年4月1日]を通じて「琉球の情勢について」という政治方針を発表した。

 方針の基本点は

 (一)沖縄を中心とする琉球諸島は、台湾とともに、アメリカ帝国主義の大陸侵略の二大前進基地である。

 (二)沖縄・奄美大島・小笠原解放の問題は、中国による台湾解放のたたかいと密接につながっており、アジア、とくに、日・中両国民の平和を守る強固な連帯行動の基礎のうえに立ってこそ勝利的成功をおさめることができる。

 (三)人民が権力を握っている中国において台湾解放の闘いが決してたやすい事業でないことは、たんに蒋介石政権だけが敵でなく、これを援助し、それによって大陸侵略の野望をとげようとするアメリカ帝国主義が存在しているためである。

 (四)沖縄・奄美大島・小笠原の解放をたたかいとる主力である日本国民は、いまアメリカ帝国主義の占領支配のもとにある。この事実は、沖縄をアメリカ帝国主義の完全軍事占領のもとにおき、その解放をきわめて困難の条件のもとにおいている。

 (五)台湾解放の成功はたんに中国の統一の成功というだけでなく、アジアとくに太平洋地域におけるアメリカ帝国主義の侵略体制を大きく後退させ、アジア・太平洋地域における情勢に画期的な転換をもたらすだろう。ここに中国が台湾解放を国内の建設事業とともに当面のもっとも重要な任務として前面におしだしている意義がある。

 (六)沖縄・小笠原の解放のたたかいは、この偉大なたたかいと緊急につながっている。だから沖縄・小笠原解放のたたかいは、目先はきわめて困難であるが、見とおしとしては、有利な情勢のもとにある。

 (七)沖縄解放の基本的条件は、全国民とともにサンフランシスコ平和条約を撤廃することである。

 サンフランシスコ平和条約とそれに基づいてとりきめられた諸協定を撤廃することは、いうまでもなく独立・平和・民主主義を守るたたかいにおいて、不敗の統一をかちとることと世界、とくにアジアの平和勢力との緊密で強固な連帯行動を発展させることによって可能となる。この基本的条件をみたすことなしに沖縄解放の成功はあり得ない。

 (八)沖縄全県民を勝利の準備のために、その政治的・組織的力量を蓄積するということは以上の基本的条件をみたすための不可欠のたたかいである。このために、米軍の軍事的支配にたいする各種の不服従・抵抗運動から県民お互の互助運動に至るまであらゆる大衆運動の形態の創意が発揮されなければならない。

 さらに合法的な政治舞台の活用、合法的大衆組織の運用、不当弾圧にたいする公然たる抗議運動の展開、非公然各種大衆組織の拡充その組織の形態も条件に応じ、条件を生かしうるかぎり生かして運用されなければならない。

 (九)アメリカは沖縄の永久占領の代償として奄美大島を返還したが、日米交換公文が示すように、いつでもアメリカ帝国主義の侵略政策をうけ入れなければならないような不完全な返還である。しかし奄美の日本返還は、アメリカ帝国主義者の意図がどうであれ、奄美郡民の政治的経験を深めさせた。したがって、アメリカの軍事占領中荒廃せしめられた産業、経済、教育の復興の要求は奄美郡民の当然の権利として発展する可能性がある。

 沖縄の祖国復帰と奄美の完全復興とは結合し統一して闘われなければならない。

 (十)沖縄・奄美大島における統一戦線発展の基礎は農民と労働者である。この組織力を発展させるのが党の中心的任務である。

 人民党が広い民主勢力を結集する民主主義政党──すなわちセクトにおちいらず、その合法性を維持し、防衛できるのは、わが党が独自に労働者農民の組織を強化し、人民党に進歩的民主政党としてのはばのひろい屈伸性のある活動の方向を与えることによって可能となる。労働者・農民の間におけるわが党の独自活動が弱ければ弱いほど、人民党を前衛的にし、セクトに陥しいれるか、あるいは右翼日和見的方向にみちびくであろう。労働者と農民のあいだにわが党の指導力が劣弱なとき、党の独自の活動を人民党のなかに解消するような頃向を持つならば、党も人民党も左右の日和見主義におちいらざるをえないだろう。

 この方針は党中央が沖縄・奄美大島にたいしてはじめて党の政治的・組織的政策を示したもので、六全協まで同地における党活動の指針となったものである。

 

 奄美地区委員会は、党中央の指示を討議した結果、(一)西南地方特別対策委員会が指示した沖縄との統一指導部確立の問題については一九五三年十二月に決定された琉球地方委員会の方針があるのであらためて意見を上げること、(二)復帰後の奄美大島の新しい情勢とこれにもとづく当面の闘いの方向についての党中央の指示はさっそく実践すること(三)人民党大島地方委員会解散後は、人民党を中心に結集した闘いの成果を一層発展強化し党を中心にした統一戦線強化のために、奄美大島の完全復興、沖縄・小笠原の返還をめざして政治同盟を結成すること、(四)地区委員会は民族解放民主統一戦線の拡大強化のため基本組織である党組織の確立強化をはかり合非活動を活発にすること、(五)選挙対策については、N[中村安太郎]同志を無所属で衆議院選拳に立候補させ県議、市議、市長の補欠選挙については党の独自候補を立てること等々を決議した。

 一九五四年一月下旬、地区委員会の決定にもとずく政治同盟の結成は旧人民党のメンバーを中心に結成された。

 一九五三[54]年二月復帰にともなう選挙戦にさいし党はN[中村安太郎]同志を衆院議員候補に立てて闘ったが再選挙にもちこまれた。奄美地区委員会はこの選挙において、党と民主化同盟の関係を明らかにできずコンランを招いたが同年四月の再選挙において党中央は全国の地方組織に指示してこの選挙応援のため四十六名の党代表を派遣した。北は北海道、南は鹿児島県に至る共産党の応援隊や労農党や民主的諸党派、労働組合、大衆団体の支持を受けて選挙を闘い落選はしたが一挙にして前回の二倍を上廻る前進を示した。この選挙闘争は奄美大島における独立と民主主義と平和を守る闘いに飛躍的前進の機会をつくった。

 復帰にともない公然活動をかち取った奄美大島地区委員会は一九五四年二月選挙応援のためにかけつけた鹿児島県委所属のトクダ[徳田豊巳]同志[空白]名瀬市において大衆の前に始めて共産党としての公然活動を開始し、アカハタ分局も確立された。しかしこの頃、地区委員会では党と民主化同盟の関係を明確につかまなかったため、多くの混乱を起し地区委員会はきわめて困難な闘いを余儀なくされたがそれでも党は着実に大衆の中で成長していった。一九五四年九月には一番おくれた層とされていた港湾労働者が奄美労評や党、大衆団体の支援の下にストライキを組織し勝利を納めたが、これは、郷土の完全復帰と沖縄・小笠原の返還を要求して闘っている奄美の労働者、農民を始め全島民に一層の確信を与えた。党中央は一九五四年四月の再選挙の際、南方地域特別対策委員会の月本[高安重正]同志の来島を機会に組織問題の解決が進められた。月本同志を中心に琉球統一指導部が確立された。

 一九五五年二月の衆議院解散による選挙に党は中村[安太郎]同志を公認候補として闘ったが成績は投票者数の十%を上廻り党では全国で有数の好成績をかちとり、引きつづき行われた鹿児島県会議員の選挙には、共産党としては都府議を除く始めての県会議貝を当選させるという勝利をかちとることができた。しかし一九五四年頃から党内においては、奄美地区委員会の所属機関の在り方と党の運営・指導上の問題等について、個々の意見が出されはじめていたが、一九五五年五月党中央は奄美にあった琉球統一指導部を解消し、奄美地区委員会は鹿児島県委貴会の下におかれることになり、地区機関の整備強化にとりかかった。

 一九五五年七月党中央はいままでの党活動を総括し、当面の問題についての方針を第六回全国協議会で決議し全面的な自己批判と真剣な党づくりにとりかかった。

 

 (三) 沖縄における土地闘争の発展

 沖縄県民の土地闘争は、戦後十二年の間に、徐々にではあるが、その深さと広さとを拡大してきている。軍事占領のもっともきぴしかった時代の無権利状態から、今日の全県民的な、島ぐるみの闘争にまで発展してきている。地域的にみても、局部的な孤立した闘いから、全県的な闘いへ、さらに祖国の民族独立解放闘争との深い結びつきへ、と発展しているし、質的にみても、単なる陳情運動から、実力闘争へと発展してきている。

 これは長い間の植民地支配と、収奪政策に苦しみぬいてきた県民の民族的怒りが、爆発点に達したことを示している。それとともに、世界における平和勢力の勝利とすばらしい発展とが、沖縄県民の占領軍絶対の思想をうちくだき、正義と平和のために闘う人民の団結の力こそが、何ものにもまさる武器であるという確信を植えつけたことを、ハッキリとものがたっている。苛酷なアメリカの軍占領下で、沖縄県民がいかにして土地闘争を、今日のような島ぐるみの闘いにまでたかめることができたか──

 終戦直後の沖縄では、土地はいっさいが占領軍の直接支配下にあり、県民は捕虜収容所で集団生活を強いられていた。県民の要求したことは、土地の解放と部落への復帰であった。

 このような農民の切実な要求をとりあげて先頭に立って闘ったのは琉球人民党である。一九五〇年郡島知事の選挙にさいし、琉球人民党は「三〇億円の土地使用料」を支払えという要求をかかげて闘った。土地問題にたいする人民の自覚が急速に高まり、中部地区基地の各部落の実力による抵抗が発展していった。

 アメリカ軍は、朝鮮戦争勃発いらい、基地拡張を強行し、北谷村、浦添村、真和志村、越来村、読谷村と相ついで武力による土地接収が行われた。

 一九五二年四月二十八日対日平和条約が発効し、琉球諸島が日本から分離されることが確定した。この前後から土地接収はいよいよはげしくなった。

 県民は、植民地化反対闘争、日本復帰運動等をもって組織的抵抗をおこなったが、土地収奪に反対する農民の組織は、まだつくられていなかった。土地収奪反対闘争は、相変らず、孤立して闘われ、これまでの多くの闘争の経験が、つぎの接収において役立つということがなかった。こうした農民の未組織状態と経験の不足は、土地収奪をやりやすくし、農民は敗北を繰り返した。

 そこで、農民の組織化が痛感され、一九五三年の六月には、ようやく各市町村の軍用土地委員会が結成され、さらにこの統一組織である軍用土地委員会連合会が結成されるにいたった。これは早くから、農民の立退対策協議会をつくって、闘いにそなえていた小禄村からの提案になるもので、立法院があっせんして、各市町村に呼びかけ、結成されたものであった。しかしこの組織は、下部の農民の団結が充分にかちとられていないため、闘う組織としての性格が弱く、陳情運動の域を脱しえなかった。けれどもそれまでとくらべて、こうした全県的組織ができたことは、闘争の規模を拡げることになった。また経験の交流という点でも、見逃すことできない成果をあげた。

 沖縄の土地闘争に、一転機を画したものは、小禄村具志部落の実力闘争であった。具志部落の立退対策協議会は、土地収奪反対闘争をつづけているうちに、下部の農民層をガッチリと固め、それまでにみられがちであった有力者の主導権を、下部農民にとりかえしていった。闘う組織がこうしてつくられていったのである。具志の接収状況は前述のとおりであるが、具志の農民は接収後も政府にデモをかけ、実情報告大会を開き、広く世論に訴えて、幅広い闘争を呼ぴかけた。

 さらに、伊江島、伊佐浜の闘いは、この具志の闘いを大きく発展させ、ついに祖国同胞との結びつきを闘いとり、また全世界の平和勢力の支援をかちとるまでになった。伊佐浜では婦人たちが、最後の抵抗の先頭に立ち、家族ぐるみの闘いを一糸乱れずやってのけた。伊佐浜の闘いで特徴的なのは、実力闘争が農民だけの孤立したものでなく、支援団体との共闘においてなされるにいたったことである。

 伊佐浜接収予定の七月十八日には、早朝から軍用地委員会連合会、青年連合会の役員たち、具志部落、伊江島の農民、近隣の部落民たちが伊佐浜に詰めかけ、接収を監視した。そのため、ついにその目の接収は中止しなければならなくなった。応援の人々は、この日伊佐浜で「土地を守る会」を結成し、軍の武力発動に対して、実力闘争をもって阻止することを決定したのである。しかし組織が確立する前に、その翌日の未明に、伊佐浜は米軍の機動力と武装兵によって接収されてしまった。

 軍用地問題でくるしみぬいた県民は、一九五四年四月三十日の立法院決議「土地問題に関する四原則」を打ち出し、県民の最低の要求を掲げた。この四原則はそれ以後の沖縄における土地闘争の旗印となった。

 一九五六年六月プライス勧告が発表されると、県民の怒りは爆発し、行政主席以下政府の各局長、立法院議員、市町村長、市町村会議員等が、「県民に責任が負えぬ」と辞職を表明した。ここにおいて島ぐるみの闘いは、いよいよ新しい段階に入り、各市町村には「土地を守る会」が組織され、中央には各民主団体で組織する「沖縄土地を守る協議会」が組織され、これをひっくるめて、一つの大きな県民組織がつくられた。

 

(四) 労働者の闘争と民主的政党の動き

 さきにのべた一九五二年六月の日本道路のストは、沖縄の基地労働者に大きな確信を与え、沖縄における労働運動の導火線となったものであるが、このストは明かに同年東京で行われた人民広場メーデーの影響をうけて発生したものである。日本道路ストにつづいて基地建設現場の松村組、K・O・T・VC、カルテックスのストと発展し、カルテックス二六〇名のストは四十余日の長期ストで二十余名の逮捕投獄者を出すほど敵の弾圧は狂暴化した。しかしこの一連のストを通じて労働者の自覚は急速に高まり、人民党の労働立法提案を支持する労働者大会が六回もたれた。

 労働三法は、一九五二年四月人民党の瀬長講員から提案され、七月に通過したが、比嘉[秀平]主席はこれを拒否し、十一月に再び提案されたが、労働基準法は賛否同数で議長によって否決され、組合法と調整法は通過したが比嘉主席に再び拒否された。

 一九五三年四月、三度提案されて通過し、十月一日から実施された。このようにして沖縄の'労働者は一年七月の闘争を経て労働三法をかちとり全沖縄労働組合を結成したが、米軍当局は布告で軍関係八万労働者には適用しないと即日これを拒否した。

 このようにしてアメリカ軍は基地労働者に関する保護を拒否し、人民党提案による失業保険法、職業安定法も拒否して労働者を無権利状態において搾取と圧迫をほしいままにしている。その後基地労働者にたいする労働組合法が布告で公布されたが組合法という名前だけで、団結権も団交権も罷業権もないものである。

 このように沖縄では、現在民間労働者と基地労働者との二本建の労働法が存在している。民間労働者の労働法も一九五五年以後つぎつぎに改悪され、現在では組合の人事はすべて米軍の承認を得ることが基本的条件となっているから組合の自主的活動は極端に制限されている。

 しかしこのような圧迫にもかかわらず一九五六年の那覇市長選挙(瀬長派が当選した選挙)前後から組合の組織連動が活発となり、現在組合数[?空白]、組合員数[ ?空白]に達し、港湾、私鉄、自治労、全逓、教職員等の組合は総評との連携を保って、本土と一本化する方向にすすみつつある。

 政党関係についてみれば一九五二年琉球立法院開設当時、琉球人民党と沖縄社会大衆党が革新政党として立法院にそれぞれ議員を送り、特定の問題については院内外で統一行動を組織してきた。とくに一九五二年六月、中部地区の立法院補欠選挙には、両党は社大党の天願[朝行]氏を統一候補に立てて大勝を得たが、軍の不法な当選無効の命令によって再選挙の運びとなったが両党はこの選挙をボイコットして、労組・青年団等を結集して「反植民地化闘争委員会」を結成して米軍の弾圧にたいする抵抗運動を組織した。この統一戦線は一九五四年までつづいたが、土地闘争がだんだんはげしくなるにつれて、社大党が消極的になり一九五五年の那覇市長選挙にさいしては、社大党は独自の候補も立てず人民党の候補も支持しなかった。

 一九五四年七月十五日、沖縄人民党中央委員林義己、全沖縄労働組合協議会事務局長畠義基の両名(ともに奄美大島出身)に対して、現地司令官から、同月十七日午後七時までに沖縄から退去せよ、との命令が発せられた。「米軍人が日本人に対して、日本の領土から退去せよと命令を出すことは不当である」と、林・畠の両氏は、命令を拒否して潜伏した。

 この不当命令に抗議する県民の力にささえられて、四十日余を闘った畠義基氏が、八月二十七日に豊見城村の農家で逮捕されると、この事件の関係者として、人民党中央委員・豊見村長又吉一郎、人民党書記長・立法院議員瀬長亀次郎外四二名の人民党員、労働者・農民を逮捕投獄した。

 ちょうどこの時期は、アメリカ占領軍が、宜野湾村伊佐浜部落、伊江村真謝部落に対して、それぞれ十三万坪、四十八[万]坪の土地収奪の命令を出し、そのため強制立退をうける伊佐浜三二戸、真謝一五戸の農民と関係地主を中心とする土地防衛の闘争が激化している最中だった。この土地防衛の闘いは、県民各階層の心からの支援をえて、全県民の統一行動に発展する傾向が強まりつつあったし、また、軍民戦場の労働者の闘いも次第に統一行動がひろがり、労働組合運動や組合結成の闘いが労働者の間に強まっている時であった。

 沖縄の労働者階級の団結と統一の成功を、もっともおそれているのは、いうまでもなく米基地権力者である。彼らは、団結した労働者がアメリカの土地収奪に反対して生活を守るために立ちあがっている農民と、固く提携するのを、さらにおそれていた。当時の立法院の議会勢力も、祖国復帰と土地防衛の県民の闘いを代表する社大党と人民党の議席が、親米派の民主党よりも優勢を示していたのである。

 このような県民の対米抵抗の勢力を分散させ、これに打撃を与えるため、アメリカ占領軍は、ついに、県民抵抗の主力となって闘っていた人民党を弾圧し、労働者階級と農民の土地防衛勢力に圧迫を加えてきた。

 弁護権をハク奪された軍事裁判で瀬長氏と又吉氏は他の人たちと共に有罪され、この結果、瀬長氏の立法院議員の議席と、又吉氏の豊見城村長の資格を完全にはぎとってしまったのである。これがいわゆる人民党事件である。この弾圧は一時人民党内に若干の動揺を与えたが、この経験の教訓に学んで人民党は爾後の沖縄における統一戦線の基盤をしっかりとつかみ、原水爆基地化反対の平和運動えの足場を築いた。

 人民党事件後、社会大衆党下部組織と人民党との統一行動は着実に前進していったが、社大党の指導的幹部はだんだん統一行動から離反する傾向を示した。

 一九五六年九月、プライス勧告反対闘争のさなかに比嘉主席が急逝して、当間[重剛]那覇市長が主席に任命されたために、後任市長選挙が行われることになった。人民党は書記長瀬長亀次郎氏を公認候補として出馬させ、社大党え[へ]共闘を申入れたが、社大党はむしろ保守派との統一候補をおすためにいろいろ裏面工作を行った。

 同年の十二月二十五目の選挙において瀬長氏の当選が確定すると、アメリカと沖縄の反動勢力は那覇市政に干渉し経済封鎖と水源地まで遮断するという非人道的圧迫を加えたが、この圧迫をはね返し、那覇市の自主的予算が成立し、その実行が着々すすめられると、かれらは布令を発して地方自治法を改悪し、瀬長市長を追放し、いっさいの公職の被選挙権をはぎとった。

 そこで瀬長市長は、一九五七年十一月市会を解散し、本年[1958年]二月市議選挙を行って信を市民に問うことになった。この市議選において社大党中央委員会の一部は沖縄の売弁的財界人とむすんで「那覇市政再建同盟」を結成して瀬長市政打倒のスローガンをかかげ、社大堂那覇市支部と人民党・労組等がむすんで「民主主義擁護連絡協議会」(略称、民連)を結成して対決した。

 選挙の結果は民連の勝利に帰し、つづいて行われた真和志市の那覇市編入による補充選挙においても民連は勝利をおさめた。

 本年二月瀬長氏の追放による那覇市長選挙に民連は社大党那覇支部長兼次佐一氏を公認候補として保守派ならびに社大党の統一候補平良辰男氏と対決し、三度民連の勝利を確保した。この選挙において、これまで社大党の中央委員であった兼次佐一氏とかれと同じ立場に立つ那覇支部及び中央委員の二、三の人々は政治的信念を異にするという理由から社大党を脱退し、新'たに沖縄社大[社会]党を結成した。

 だから、現在の民連は人民党と沖縄社大[社会]党との統一体である。

 本年三月の立法院選挙では、民連、社大、民主、無所属の六十九名の候補者が二十九議席を争った。選挙の結果は、民連五、社大九、民主七、無所属八となり、民主党の没落、社大党の進出、民連の伸びなやみという特徴を示している。

 

  (五)現在の情勢

 さる五月二十四目、アメリカ太平洋軍最高司令官スタンプは、SEATO(東南アジア条約機構)各代表を沖縄中部のカデナ飛行場に招いて、アメリカが太平洋軍に保持している軍事力および最高技術を公開したが、とくに極秘のうちにアメ.リガ空軍の中距離弾導弾(IRBM)ソアを展示し、極東にソアをもちこんだことがはじめて確認された。

 沖縄に、IRBMが配置されていることは、かねてから予想されていたことであるが、これが事実をもって確認されたことは、アメリカのミサイル戦略が急速度で総仕上げに近づきつつあることを示すものである。

 沖縄におけるミサイルもちこみの事実が示す重要な意義はつぎの諸点にある。

(一)SEATOと、現在極秘裡にすすめられているNEATO(日本、韓国、台湾、フィリッピン)とを合体して、PATO(太平洋軍事同盟)の計画がすすめられているが、その戦略的中核が沖縄であることがますますあきらかになったこと。

(二)アメリカの原子戦略の一環として再編成ざれつつある日本本土の基地および自衛隊の核武装がはっきりと日程にのぼりはじめていること。

(三)岸首相がどのような弁明や声明をしようと、アメリカは必要ならばいつでも自由に核兵器をもちこむことができるし、その結果として日本は自動的に原子戦争にまきこまれる危険がいっそう増大していること。

(四)沖縄における土地一括払い中止に関するアメリカ国務省と国防省の意見の対立、土地問題折衝沖縄代表団の渡米と、その結果としてうちだされる一連の政策はすべてアメリカのミサイル戦略体制の急速な完成をめざしていること。

 このようにして現在アメリカとアジアにおけるアメリカの同盟諸国の政治の中心課題はミサイル体制でうちかためた太平洋軍事同盟を完成する点にある。だからこの点を見失うならば沖縄の軍事支配体制はいちだんと強められ、また日本本土も沖縄と同じような軍事秘密体制下の方向え強引にひきずりこまれることは必至である。

 岸内閣の最近の中国に対する敵意にみちた外交政策、勤務評定の強行、労働組合に対するうちつづく弾圧等々は、すべてアメリカ帝国主義者の至上命令である「ミサイル体制促進」の政治の現われである。

  

 (六) 沖縄における政治の動きと統一戦線

 しかし沖縄の政治情勢は、決してアメリカのミサイル体制完成にふさわしいものではなかった。とくにプライス勧告反対闘争以来、那覇市長選挙(一九五六年十二月二十五日施行、瀬長亀次郎氏当選)布令による市長追放の実現──市長による市議会の解散──市会議員選挙──立法院選挙という一連のたたかいを通じて、ミサイル体制に反対する沖縄県民の総意はますます明らかになった。

 本年五月、市町村長会、土地連合会、立法院、青年連合会は相ついで一括払い反対、原水爆基地化反対、祖国復帰、対日平和条約第三条撤廃を決議した。このような情勢は、アメリカの政策とまっこうから対立するものでミサイル体制の完成にとって大きな障害となっている。

 アメリカはいま、沖縄における反共、反民連の政治勢力を結集することによってこの障害を突破しようとしている。

 この動きは、本年はじめの那覇市長選挙(民連兼次佐一氏当選)から画策されたが、さる三月の立法院選挙では、ニセ北京放送という国際的謀略まで用いて、反共、反人民党、反民連の線をうちだした。

 選挙の結果、民連は得票数においては第一位をしめたが、当選者は予想を下廻り、対米協調を主張する社会大衆党が第一党となった。アメリカは反共・反民連の政治力を結集し、ミサイル体制を促進する絶好のチャンスを握ったのである。

 かれらは軍事的必要から立法院選挙に示された沖縄県民の意志をふみにじって次つぎに一括払いを強行してきた。そこで立法院土地間題特別委員会は四月二十八日「四原則貫徹の立場を堅持して、日本政府と共にあたる」という方針で渡米代表派遣を決定したが、対米折衝の具体案を作成するにあたって、「基地を認めて債貸[賃貸?、以下同]契約をむすび、地代を引上げて毎年払いとする」という主張を固執する社会大衆党、民主党、新政会(当間主席系)と、「債貸契約は自らすすんで原水爆基地を認めるもので、アメリカの武力接収を合法化する形をかえた一括払いである。アメリカが不法占拠している土地の損害補償を要求する補償方式をとれ」と主張する民連側とがするどく対立し、六回の委員会と数回の小委員会をかさねてなお結論を得ず、五月十二日の全員協議会でこの対立はついに爆発し、基地問題をめぐる大論戦を展開したが、ここでも結論が得られず翌十三日、土地委員会を開いて、これまでの対立点をむしかえしたが「債貸契約」か「補償要求」かは日本政府の意向を確めてから決定するという態度を決定した。

 そこで民連は、さきに「四原則貫徹」を条件に代表派遣に賛成したが、基本線で一致しない以上、代表の渡米に反対すると態度を明らかにした。沖縄青年連合会、立法院土地委員会の決定は、四原則をふみにじり、県民の総意に反するとして代表派遣に反対する決議を行った。

 このようにして一九五四年いらい沖縄県民の旗印であった一括払反対、四原則貫徹は、アメリカのミサイル体制促進のための反共政策でぐらつき出した。

 しかし、民連と他の三派(社大堂、民主党、新政会)の主張のいずれが沖縄県民をふくむ日本人民の要求に合致するかは改めて諭ずるまでもない。

 沖縄代表団がわざわざアメリカまで出かけていって何をしてきたかをみれぱ、それはきわめて明かである。

 八日発表されたアメリカ・沖縄共同コミュニケによると、岸内閣と代表団との合作である一括払いの代案としての債貸契約の全面的実施にさえアメリカは難色を示し、結局、代表団が絶対反対を公約した一括払いと債貸契約の自由選別制に落付く公算が大きい。

 一括払い、債貸契約のいずれをとるにせよ、また両者を併用するにせよ、アメリカが沖縄においてミサイル基地を合法的に確保することは同じである。アメリカが例の一括払いを固執するのは、土地問題についてのいざこざの根源を断ち、安あがりの恒久基地をつくりあげるための経済的理由に基いている。

 ここでもっとも注意しなければならないことは、代表団は、沖縄の反共陣営のとりでとしての重要性を認め、軍用地の使用については、共産勢力の侵略の危険に対し、自由諸国全体の防衛上必要である間は無期限に使用できるということを確認したことである。

 共産主義の侵略から自由世界を守る云々はアメリカ侵略者どものおきまりの文句で、いわゆる自由諸国と後進国を侵略し植民地化するいいがかりである。沖縄県民はアメリカのこのような云いがかりの正体をあばいてこれに反対してたたかい、四原則貫徹と原水爆基地化反対の旗をうちたてた。日本人民の大多数もこれを支持している。沖縄代表団は人民の要求を裏切り、すすんで反共と侵略政策を承認することによって自らの政治的立場を強化しようとする反民族的行動を公式に声明したのである。

 しかしこれは沖縄県民の要求とまったく矛盾するもので、この矛盾は日をおってますます深まるだろう。

 民連をはじめ青年団・労組等の諾団体は、代表団をむかえうつ態勢をととのえ、かれらが民族を裏切って、アメリカと提携している事実を暴露し、原水爆基地化反対、四原則貫徹の新たなたたかいに立上っている。

 また、当間政権に接近しようとしている兼次那覇市政に対し、市民は公約の実行を迫り、増税反対を中心とする生活を守るたたかいに立上りつつある。

 

  (七) 検討すべき問題点

(1) 六回大会の決定について──沖縄解放闘争の基本は基地撤廃と日本返還のたたかいである。それはアメリカの原子戦争体制をうちやぶり、日本の完全独立と平和を守るたたかいの重要な一環である。

 この意味で一九五四年三月に発表された政治方針は、今日においてもなお基本的には正しい。この方針の実践の総括の中から当面の政策をうちたてることが必要である。

 沖縄問題について党の犯した誤りのうちで根本的なものは、第六回党大会で、行動綱領第二十七項(南方諸国の完全独立……)に沖縄問題を解消したことである。これは少数民族論の思想的背景をなしている。沖縄にたいする少数民族論は、第六回大会決議だけに根ざすものではなく、永い期間にわたって半植民地差別待遇をうけて、帝国主義者の侵略政策に利用されたために自然発生的に生まれた。党はこのような誤った思想をとりのぞくために努力するかわりにかえってこのような思想を助長するような誤りに陥った。

 その後党は五十一年サンフランシスコ平和条約草案が発表された前後から実践的にはこの誤りを克服するため努力し、少数民族論的偏見を訂正する方向にすすんだ。しかしこのような偏見が党内からまったく一掃されたとは云いがたい。だから本大会においてこの事案を認識して自己批判し、沖縄問題についての六回大会の決定を破棄すべきであると考える。

(2)沖縄返還の国民運動について──党中央は一九五二年いらい沖縄・奄美出身党員グルーブを組織し、沖縄・奄美大島返還の国民運動を指導した。五四年はじめ日本自由人権協会は、沖縄調査の結果を発表し世論を喚起し、日本平和委員会特別総会では沖縄返還を決議した。つづいて総評ならびにその傘下の有力単産、日農、日青協、全国主要自治体議会が同じ趣旨の決議を行った。

 さらに五四年二月のアジア法律家会議、同年四月のアジア諸国民会議において沖縄問題が民族の独立と世界の平和の立場からとりあげられ、沖縄返還の決議が行われた。それ以後世界平和活動家会議、世界青年学生平和友好祭等の国際会議においても同様な決議が行われた。

 沖縄問題の国内的・国際的発展は、わが党の沖縄・奄美大島グルーブ活動に負うところが大きい。六全協以前とかく合法面における活動が軽視されがちの時期に、困苦にたえ忍耐づよく沖縄問題ととりくんだ沖縄・奄美グルーブのこの活動は正当に評価されなければならない。このような地味な辛抱強い活動に支えられてはじめてプライス勧告反対の国民的闘かいが組織され、発展したのである。

 ところがさいきん基地問題、原水爆、日中、日ソ、護憲等の国民運動は大なり小なり運動の展開が阻まれている。沖縄返還運動も大きな壁につきあたっている。このような運動を阻む要素がどこから導かれるかを慎重に検討する必要があると考える。

 アメリカの原子戦略体制の中に占める沖縄基地の位置、沖縄解放と日本の完全独立と世界平和との関連について、党内では一応観念的には理解されている。しかし実践面でいざ闘いを組織するという場合には、沖縄出身党員・沖縄県人会を中心にしなければならないという見かたが未だに根強く残っている。

 これは沖縄を前進基地とする太平洋軍事同盟こそがアメリカとその同盟国の当面する中心的政治課題であるということが実践的に理解されてないからではないか、つまり沖縄問題を政治の面から見る考えが弱く、軍事的面と統一行動ということに重点がおかれているから平和運動一般に解消したり、統一行動の幅を広げるというたてまえから自民党を引入れて運動を停滞させたり、社会党のように千島・樺太の領土間題と抱合はせたり、国会論議に重点がおかれるようになる。現在の沖縄間題の焦点は、沖縄のミサイル基地化の完成の上に立って太平洋軍事同盟の結成を画策している政治勢力と対決し、平和と独立をのぞむ全人民を結集してミサイル体制をうちくだく政治闘争を急速に組織することである。このような政治的立場をはっきりつかめぱ労働者を中心とする沖縄返還の国民運動は正しい軌道にのるだろう。

(3)現地の統一戦線について──土地問題折衝代表団の渡米にあたって、これまで一括払い反対、原水爆基地化反対、対日平和条約第三条の撤廃、祖国復帰の線で全県的に団結していた沖縄の統一戦線の中に動揺と分裂の兆しがあらわれた。民連と他の三派(社会大衆党、民主党、新政会)の主張は根本的に相容れない異質的なものであり、前者は沖縄県民をふくむ日本人民の立場にたって独立と平和を守り、後者はアメリカの原子戦略政策を全面的に支持して侵略者の下僕の立場を忠実に守った。代表団はアメリカ・沖縄共同声明で自らの正体を世界の前にバクロした。

 米沖共同声明は本質的には、昨年六月の岸渡米による日米共同声明とまったく同じもので「共産主義の侵略から自由諸国を防衛するとりで」としての沖縄の永久原水爆基地化を認めたのである。この大前提に立つ以上、一括払い阻止や債貸契約などという主張は偽善的詐欺にほかならない。沖縄代表団は、岸・李承晩・蒋介石と同じ戦線に立つことを宣言し、全人民の利益と期待を裏切ったのである。

 兼次那覇市政が当間派の主張に届して市民からうき上っているのも渡米代表団の裏切りと密接につながるもので、ミサイル体制を完成し、太平洋軍事同盟を促進する政治のあらわれである。

 このように現象面からみれば沖縄の統一戦線は分裂の危機に直面しているようにみえる。しかし、労農市民の下部は統一と団結を保って前進の方向を見失っていない。代表団をむかえうって、四原則を貫徹し、原水爆基地化に反対するたたかいは、八・六大会と結合してすすめられ、那覇市政を市民の手にとりもどす市民組織の活動も活発化している。だから動揺し分裂したのはアメリカ帝国主義着に追随し、迎合した保守反動勢力の指導層である。

 米沖共同声明で、沖縄代表団がそのもつ反動的・侵略的正体をバクロしたことは、沖縄の統一戦線のいっそうの強化と発展の条件をつくりだしている。

 那覇市長選挙以来、沖縄における統一戦線にかんして、民連対社会大衆党の関係について党内に若干の混乱が起っている。しかし社会大衆党を第一党におした沖縄県民は、決して米沖共同声明に調印した指導者を支持したのではなく、社会大衆党が民連と同じようにかかげた一括払い・原水爆基地化反対・日本復帰の政策を支持したのである。

 ところで現在、軍政下における沖縄の政治のイニシアをとっているのは社会大衆党である。この二つの事実は誰も否定することのできない沖縄の現実の姿である。この現実を正しくつかむならば沖縄における民連を中核とする統一戦線の進路とその構成は自ら明かである。

 統一戦線の中心政策はどこまでも県民の要求が基礎で、政党やその他の団体の指導者層との政治的かけひきであってはならない。だから民連は社会大衆党の選挙の際かかげた公約の実行をせまり、その指導者たちが今回の米沖折衝においてはたした反動的役割と民族的裏切りを徹底的にあばき、四原則貫徹、原水爆基地化反対、対日平和条約第三条の撤廃、祖国復帰に賛成するいっさいの勢力を結集することが必要であり、またその条件は十分成熟している。

 革新的看板をかかげているからその指導者層の裏切り行為の批判にたいし手かげんを加えるということは、白らを孤立化させる危険な道である。

 那覇市政においても同様であって、市長がたとえわが党員であってもこの原則はまげることはできない。

[原文には、本文とは異なる筆跡で「五八・七 十二、西南地方特別委員会での報告」という書き込みがあり、これを収録した松田清『奄美社会運動史』338ページは、「この文書は、一九五八年(昭和三十三年)七月十二日の日本共産党中央委員会、西南地方特別対策委員会に報告されたものである(高安重正同委員会書記証言)」と注記している。]

 

 この58年総括において、奄美・沖縄共産党の日本復帰方針策定の経過と、沖縄非合法共産党結成の歴史は、一応自己批判的に完結する。

 すなわち、奄美共産党の創立については、54年総括ではたんに47年結成、56年総括では47年2月結成準備会・同4月党組織結成としていたものを、「党中央は、一九四六年末、同志久留[義蔵]を奄美大島に派遣し、四七年二月、同地における共産主義者を結集して奄美共産党を結成し、その指導にあたらせた」とあたかも中央の指導で生まれたかのように改め、他方で「民族問題としての日本復帰運動」をとりあげはじめた時期を、以下のように、54年・56年総括の「49年頃」から「48年から」と1年遡行させて、奄美共産党が本土共産党の「誤り」を実践的に克服してうちたてた方針であることを明確にした。

「本土在住沖縄・奄美出身党員グループは四七年十月に開かれた第六回大会において、アメリカ帝国主義の侵略的軍事戦略の拠点となっている、沖縄・奄美大島・小笠原諸島の位置づけと、これら諸島の日本返還のたたかいが、日本革命において果す役割を強調し、同地域における日本共産党の指導権確立についての組織問題を提案したが、討論の結果、この提案は『南方諸国の独立と解放』(行動綱領二十七項)の中に包含されることになり、奄美共産党や本土在住沖縄・奄美大島出身党員グループの要望は党内で黙殺され、沖縄・奄美問題は、理論的にも、実践的にも発展させることはできなかった。この経過が示す通り、六回党大会は、沖縄・奄美大島・小笠原問題の本質を見失い、民族間題について大きな誤りをおかした。当時党中央は、軍政下にある沖縄・奄美大島では高度の自治権かくとくのたたかいに主力をおき、自治政府をかちとったのちに対等の条件で日本と結合するという考えかたであった。この見解は小数民族論の基盤となった。しかしこのような考えかたや方針は基本的に間違っているから実践の上でただちに破綻がおこる。奄美大島では一九四八年から党活動の活発化と組織の拡大にともなって、『奄美人民政府樹立』の綱領をもつ独自の共産党組織による革命運動では民族問題を解決することはできない。という声が高まり、日本復帰連動を民族運動としてとりあげ、奄美大島の党の組織・機構を正式に日本共産党の下部組織にしあげなけれぱならないというのが党内の統一的意見となった。たたかいは不可避的にそのような方向に発展していった。」(ゴチックは引用者)

 

 さらに「六回大会の決定について」の項を設け、少数民族説・独立論を明確に批判する。

「沖縄問題について党の犯した誤りのうちで根本的なものは、第六回党大会で、行動綱領第二十七項(南方諸国の完全独立……)に沖縄問題を解消したことである。これは少数民族論の思想的背景をなしている。沖縄にたいする少数民族論は、第六回大会決議だけに根ざすものではなく、永い期間にわたって半植民地差別待遇をうけて、帝国主義者の侵略政策に利用されたために自然発生的に生まれた。党はこのような誤った思想をとりのぞくために努力するかわりにかえってこのような思想を助長するような誤りに陥った。その後党は五十一年サンフランシスコ平和条約草案が発表された前後から実践的にはこの誤りを克服するため努力し、少数民族論的偏見を訂正する方向にすすんだ。しかしこのような偏見が党内からまったく一掃されたとは云いがたい。だから本大会においてこの事案を認識して自己批判し、沖縄問題についての六回大会の決定を破棄すべきであると考える。」
 

 沖縄共産党の組織化と「本土」共産党中央との関係については、54年・56年文書の年号の誤りの多くが訂正され、「党中央では一九五二年はじめから沖縄・大島の党組織について討議がすすめられ、一九五三年夏、日本共産党の下部組織として統一指導することを確認し、西南諸島特別対策委員会が設置された」と概括された。もっとも3つの文書には「南方地域特別対策委員会」と「西南地域特別対策委員会」の表記がある。さらに、高安重正『沖縄奄美返還運動史(上)』に収録された「松田資料13 南西諸島対策全国グループ会議録」(1954年11月20日)の原文を見ると、「南西諸島対策部 月本」とタイプ印刷されており、国場幸太郎氏によれば、「南西諸島地域特別対策委員会」の名称が正しいだろうという。沖縄における土地闘争や統一戦線の動きは、58年局面まで書き加えられている。

 さらにこの58年党史には、「本土」の日本共産党中央の沖縄政策について、第6回党大会の少数民族論・独立論を批判=自己批判しつつも、大きな混乱がみられる。それは、日本共産党非合法機関紙『平和と独立のために』に発表された二つの重要論文、1954年4月1日付の「琉球対策を強化せよ」と1955年1月27日付主張「琉球の情勢について」が混同され、識別されていないとみられることで、一方で本土の「新綱領」の沖縄版である前者「琉球対策を強化せよ」を「一九五四年三月に発表された政治方針は、今日においてもなお基本的には正しい」といいつつ、他方で六全協に向けての極左方針手直しの産物とみなしうる後者「琉球の情勢について」の概要を紹介して「この方針は党中央が沖縄・奄美大島にたいしてはじめて党の政治的・組織的政策を示したもので、六全協まで同地における党活動の指針となった」と述べている。

 しかし、『平和と独立』紙が復刻された今日の時点で二つの論文を読み返すと、前者はアメリカの対日「占領支配の弱い環」としての沖縄で「基地権力をマヒさせる」という本土の「新綱領」の機械的適用の色彩の濃いものであり、54年夏・秋の「人民党事件」を経た後の後者は、「リュー球解放の問題は、中国による台湾解放のたたかいと密接につながっている」という視点から「チョ突的な極左的衝動にかられた行動によって、敵の弾圧を容易にする」ことをいましめ「合法的な政治舞台の活用」を強調するもので、大きな違いがみられるが、この「松田資料18」=58年党史は、いずれをも正しかったとして、問題を曖昧にしている。そのためか、松田清『奄美社会運動史』261頁は前者を収録して「琉球の情勢について」とタイトルをつけ、高安重正『沖縄奄美返還運動史』467頁以下は、後者の概要を紹介しつつ「1954年4月」と日付を混同している。無論、今日の公式党史である『日本共産党の七十年』や『沖縄人民党の歴史』『奄美の烽火』には、これらの文書への言及はない(この点について、森宣雄・国場幸太郎両氏にご教示を得た)。

 

 以上から、沖縄・奄美非合法共産党の歴史的軌跡の概略は知りうるが、それがどのようにして「日本復帰」方針を形成したか、非合法沖縄共産党が沖縄人民党内部でどのように活動したかは、これらの「党史」的記述のみからでは、明らかではない。

 また、この種の文書では、54年・56年・58年「党史」の比較からも明らかなように、「党史」そのものが時々の政治情勢にあわせて書かれており、それ自体を批判的に吟味しなければならない。目録に掲げた他の資料の解読が、不可欠となるゆえんである。その歴史的・批判的検証は、今後の課題となる。

 この期の社会運動の研究は、沖縄現代史研究のなかでも、黎明期にある。本稿で紹介した史資料は、現在のところ、冒頭に記した研究チームのもとに保管されている。しかしわれわれは、これらをさらに整理・解読したうえで、全国の研究者に公開していく所存である。関心のある方は、筆者まで連絡されたい(かとう てつろう 電子メール=katote@ff.iij4u.or.jp)。



研究室に戻る

ホームページに戻る