『アソシエ21ニューズレター』第32号(2001年12月号)所収


 

消し去ることのできない歴史の記憶──占領期沖縄・奄美非合法抵抗運動のシンポジウムから

 

加藤 哲郎(一橋大学教員)

 


赤字箇所は、『琉球新報』11月23日付け文化欄寄稿のさい、なぜか削除ないし改竄された箇所、下記注意書き参照)

 

 十一月十七日、東京新宿駅前で、米国同時テロ事件以後の沖縄経済の深刻な落ち込みに対して「だいじょうぶさぁ〜沖縄」観光キャンペーンが行われている頃、近 くの専修大学で、一つのシンポジウムが開かれた。「占領下、沖縄・奄美の非合法 抵抗運動について」と題し、私の講演など七本の報告に、朝早くから夕方まで、約 百人が熱心に耳を傾けた。

 そもそものきっかけは、五月二十日付本紙[『琉球新報』]でややセンセーショナルに報じられた、私の論文「新たに発見された『沖縄・奄美非合法共産党文書』について」だっ た。戦後の日本共産党で長く沖縄問題を担当していた故高安重正氏の所蔵文書が、 福島県の金沢幸雄氏宅に眠っていたのを発掘し、法政大学『大原社会問題研究所雑 誌』に約七十点の資料目録付きで解読・発表した(二〇〇一年四・五月号)。国場幸太郎 氏らの協力を得たものだった。それが予想外の反響を呼んで、私の研究に資料を提 供し共同研究を進めてきた七人が、由井格氏らの実行委員会に招かれ、それぞれ史実と資料を踏まえた研究・証言を発表した。

 私自身は、資料紹介を兼ねて、戦後日本共産党書記長徳田球一らの沖縄独立論から日本復帰論への転換が、最近公表されたスターリンの「アジア・コミンフォルム (共産党労働者党情報局)」構想を含む米ソ冷戦・朝鮮戦争と密接に連動し、共産 党の朝鮮半島統一・在日朝鮮人運動を主眼とした「民族」政策の変化に照応してい ることを「戦後社会運動における想像の共同体」として示し、奄美共産党が日本復帰方針を確立した時期、瀬長亀次郎人民党書記長が非合法党に加わる経緯など、な お解明すべき問題が多いことを述べた。

 沖縄非合法共産党資料の提供者金沢幸雄氏からは高安文書が金沢氏に渡った経緯と背景、奄美関係資料提供者松田清氏から奄美の活動家が沖縄に先行して共産党をつくった歴史の報告があり、若手研究者の森宣雄氏は、奄美共産党指導者であった 林義巳氏からの聞き取り調査・資料をもとに、林氏が沖縄に渡って奄美共産党沖縄細胞をつくり五二年日本道路争議を勝利させ、それを契機に当初ためらっていた瀬長氏が非合法党に加わった事情、その過程で林氏が構想した奄美と沖縄の対等・平 等な民衆連帯と共感の意義を述べた。

 鳥山淳氏は、五十年代の反共主義とその破綻を、米軍のプロパガンダばかりでな く、米国の援助に頼って経済復興をはかった初代琉球政府任命主席比嘉秀平らの 「復興主義」にも内在するとし、伊江島・伊佐浜の土地闘争から「島ぐるみ闘争」 へと展開する文脈で地下共産党を理解すべきと論じた。若くして非合法党に加わっ た大峰林一氏は、非合法共産党の存在が沖縄人民党史からも日本共産党史からも長 く秘匿されてきた問題を提起し、瀬長氏を助ける指導部の一員であった国場幸太郎 氏は、自らCICに逮捕され拷問を受けた体験をまじえながら、瀬長氏が軍政下の 合法政党として人民党を結成した意図と経緯、米軍弾圧で人民党さえ非合法化され かねない条件のもとで地下組織である共産党の結成に踏み切ったこと、しかし沖縄 の党は本土共産党の軍事方針をうのみにせず黙殺し、自主的・大衆的に民衆に依拠 した島ぐるみの統一戦線を組織できたことを、詳しく証言した。

 会場には、新崎盛暉沖縄大学長、平井一臣鹿児島大教授ら研究者のほかに、沖縄 民主同盟で活動した上原信夫氏、本土の共産党で「五十年問題」を体験した増山太助・いいだもも氏らの顔も見えた。シンポジウム後の懇親会で新崎教授が述べたよ うに、新崎氏らが関係者の聞き取りから考え推測してきた筋道が第一次資料で裏付 けをえたこと、森・鳥山氏ら若い研究者が沖縄・奄美現代史の一齣としてタブーも 偏見もない学術研究の対象にしたことが、大きな成果であった。私自身はその糸口 をつくったことに満足しているが、解読できた資料は、なお一部である。国場氏や新世代の研究者と共に、さらに情報収集・解読を進め、沖縄をはじめ世界の研究者に公開して、歴史の共有財産にしていきたい。

 しかし気がかりなこともある。新資料の最も重要な当事者瀬長亀次郎氏は、証言 を残さぬまま永眠された。五五年非合法党文書が祖国復帰統一戦線の一翼として高 く評価していた西銘順治氏も世を去った。沖縄戦・初期軍政を詳しく記録してきた 現代史研究は、そろそろ本格的に五十年代を対象とすべきではないか? かつての 沖縄人民党関係者は、地下の非合法党については、なお沈黙を守っているという。 しかしまもなく半世紀、南ベトナム解放民族戦線をベトナム労働党が指導していた ことは、今では世界史辞典にも出ている。瀬長氏を那覇市長に押しあげた人民党の 背後に共産党があったとしても、歴史的評価が変わるはずもない。むしろ瀬長氏の 足跡に、誇るべき一頁を加えることになるのではないか?

 歴史の記憶は、消し去ることはできない。文書の記録と証言があれば、なおさら のことである。米国同時テロに始まる米軍基地の臨戦態勢と不況の直撃に、朝鮮戦 争から「島ぐるみ闘争」にいたる時代は、貴重な何かを教えてくれるのではないだ ろうか。


 (注)この文章は、もともと『琉球新報』文化部からシンポジウム開催以前に依頼され、指定字数通りにシンポジウムの翌日に書かれたが、締切前の送稿後、同紙文化部は、写真を入れるためのスペースの都合で冒頭・末尾の数行を削除したいと、筆者の公務中に電話で伝えてきて、ゲラ刷りも見ることができないまま、やむなく了承した。依頼してきた記者でもなかったので、ちょっと不審に思った。

 その危惧は、的中した。一一月二三日『琉球新報』文化欄に筆者の名前で掲載されたものは、冒頭・末尾の現代的意義を述べた文章の削除ばかりではなかった。主タイトルが「奄美共産党が主導」となっていて、奄美共産党創立が先行しつつも沖縄人民党瀬長亀次郎氏らが自主的・自発的に非合法党形成に踏み切ったという松田・森報告の私の要約の主旨を誤って伝えており、中間の「国場氏や新世代の研究者と共に、さらに情報収集・解読を進め、沖縄をはじめ世界の研究者に公開して、歴史の共有財産にしていきたい」という一節が無断で削除され、あまつさえ、右の「五五年非合法党文書が祖国復帰統一戦線の一翼として高 く評価していた西銘順治氏も世を去った」という文章を、著者にいっさい断ることなく、「五五年非合法党文書を、祖国復帰統一戦線の一翼として高 く評価していた西銘順治氏も世を去った」と勝手に主語・述語を転倒させるという、重大な誤りを含んだかたちで発表された。

 この最後の問題については、故西銘順治氏関係者にもご迷惑をかけることになるので、筆者から強く抗議・訂正を申し入れ、一二月一日付け同紙文化欄で短い訂正がなされたが、掲載の仕方全体が筆者の本旨にかなうものではなかったので、筆者のホームページ「加藤哲郎のネチズン・カレッジ」に訂正版の『琉球新報』11月23日付け文化欄スキャナー写真を掲げたうえで、ここに、オリジナル版を公表するものである。

(かとう・てつろう、katote@ff.iij4u.or.jp)

 



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