岡繁樹(1878-1959年)といっても、現代の若者たちには、なじみがないだろう。高知県出身者なら、名前ぐらいは聞いたことがあるかもしれない。インターネットで検索すると、松尾理也氏の「Portraits of Japanese Immigrants in the Early Years」に、略歴が載っている(http://www.geocities.co.jp/HeartLand/8808/PROFILES/okashigeki.htm)。
メディア史の専門家なら、英語サイトを検索して、カリフォルニア大学ロサンゼルス校図書館のコレクションに、「岡繁樹ペーパーズ」が入っているのを見出すだろう(Oka Shigeki Papers, http://www.oac.cdlib.org/findaid/ark:/13030/ft6m3nb18k)。そこに出てくる「Yorozu Chh」が『万朝報』であることを知れば、あとは連想ゲームである。黒岩涙香、幸徳秋水、平民社といった流れに目を配り、アメリカ西海岸の日本人・日系移民の歴史を調べていけば、日本ジャーナリズム史ならぬ、20世紀海外日本語ジャーナリズム史における岡繁樹の重要性が浮かび上がってくる。
だが、岡繁樹の本格的研究は、ほとんどない。『日本社会運動人名辞典』(青木書店、1979年)や『近代日本社会運動史人物大事典』(日外アソシエーツ、1997年)には、無論履歴が収録されているが、なぜかどちらも、没年が「1954年」となっている。本稿は、実弟岡直樹の文章に従って、1959年6月5日大往生説を採る(岡直樹・塩田庄兵衛・藤原彰編『祖国を敵として』明治文献、1965年、22頁)。
本稿は、初期社会主義者、反骨のジャーナリストとして語られることの多い岡繁樹を、1930年代日本の反戦平和運動史、荒畑寒村検挙と人民戦線事件との関わり、思わざる結果としてのゾルゲ事件とのつながりにまで、広げる試みである。
1935年末に創刊された内務省警保局編『昭和十年に於ける外事警察概況』は、アメリカ合衆国における左翼運動・共産主義運動について、かなりの紙数を割いている(内務省警保局『極秘 外事警察概況 第一巻 昭和一〇年』龍渓書舎、1980年、127-146頁)。その「欧米関係 左翼運動の国際的連絡」冒頭では「在米邦人共産主義運動の状況」を取り上げ、日本共産党壊滅後の日本社会にとっての、アメリカからの宣伝活動の危険を警告する。
このように述べて、ニューヨークに日本人20-30名、朝鮮人200名、ロサンゼルスに日本人150名の左翼がおり、サンフランシスコに加えてカナダのバンクーバーにも約40名の日本人カナダ共産党員がいて、『国際通信』『労働新聞』『海上通信』『太平洋労働者』『日本海員諸君に訴ふ』『或る兵士の手記』『ファシズムと戦争』『英国海軍事情』『海の叫び』『新婚アパート』等々の日本語左翼文書が、郵送や海員ルートで日本に持ち込まれている事態が、詳しく分析された。そこでは、『国際通信』等の発行所になっているニューヨークが特に重視されたが、「同パンフレットは日本語にて印刷せられ専ら邦人特に内地邦人を目的にするものにして、紐育市東十二番街九番地『プロンプト・プレッス』なる印刷所に於て発売し居るも、果して同所に於て印刷し居るや又如何なる邦人が之を為しつつありやは目下の処判明せず」という状態だった(129頁)。個人名を挙げた具体的な流入ルートの解明も、まだ出来ていない。
ところが、翌1936年末の『昭和十一年に於ける外事警察概況』の分析は、日本官憲にとっての在米日本人共産主義運動解明に、大きな飛躍があったことを示している。
この年の「欧米関係 左翼運動の国際的連絡」では、「一 米国共産党の組織概要」「二 対日宣伝」「三 米国共産党第十三区所属日本人支部の結成経過」「四 米国共産党並に日本人部発行の各種機関紙、定期刊行物」「五 米国共産党日本人部関係邦人の検挙」「六 海外よりの左翼宣伝印刷物発見状況」が、実に80ページ以上に渡って詳細に報告されている(内務省警保局『極秘 外事警察概況 第二巻 昭和一一年』282-364頁)。
この膨大な情報収集のもとになったのは、おそらく「五 米国共産党日本人部関係邦人の検挙」によってであると、見当がつく。実際、そうであった。日本側官憲からすれば思わぬ情報源が、アメリカから飛び込んできた。片山潜、幸徳秋水、堺利彦らの古い友人で、サンフランシスコで金門印刷所を営む岡繁樹である。岡繁樹は、長く海外にありながらも、大正期日本官憲の「特別要視察人」の一人であった(「特別要視察人状勢一班 第六」『続・現代史資料一 社会主義沿革一』みすず書房、1984年、450頁)。
『昭和十一年に於ける外事警察概況』の「五 米国共産党日本人部関係邦人の検挙」は、次のように述べている。
「四 米国共産党並に日本人部発行の各種機関紙、定期刊行物」中の「米国共産党並に日本人発行の刊行物」は、「邦文刊行物」として、『労働新聞』『太平洋労働者』『国際通信』『海上通信』『汎太平洋水上労働者』『救援の友』を挙げている。日本の外事警察は、これらの印刷が、奥付にある東部のニューヨークはカモフラージュで、実際は西部のサンフランシスコにある岡繁樹の金門印刷所で行われていたことをつきとめた。
ここでいう「桑港所在邦人経営印刷所」が、岡繁樹の金門印刷所であった。これとは別にロサンゼルスに「党印刷部」があることにも――おそらく印刷活字の違いから――、日本官憲は気づいていた。ただしそれが、岡野進(野坂参三)、ジョー小出(鵜飼信道=小出貞治)らがコミンテルンの秘密ルートで日本語活字を取り寄せ直轄した秘密印刷所であることまでは、供述した岡繁樹も、大物「主義者」を掌中にした日本の特高警察も、まだ認識していない。岡繁樹の印刷所で作られる漢文印刷物『群声』が、米国共産党中国人部の関わる中国大陸向け宣伝物であることにも、気づいていない。この線を更に追いかけていけば、この頃東京で活躍中のリヒアルト・ゾルゲ、尾崎秀実らの「ラムゼイ」諜報団にも、上海で活動するアグネス・スメドレーがコミンテルンの資金援助で刊行する『Voice of China』にも、太平洋戦争直前まで待たずとも、近づき得たのだが(この点の詳細は別稿に譲るが、さしあたり、クレア=ヘインズ=フィルソフ『アメリカ共産党とコミンテルン』五月書房、2000年、の文書12・20参照)。
より重要なのは、「三 米国共産党第十三区所属日本人支部の結成経過」の項で、「一同志の語る処によれば」として掲げられているが、実はほとんどが後述する「岡繁樹聴取書」をもとにした、カリフォルニアにおける「アメリカ共産党日本人部」についての歴史的記述である。よく知られているゾルゲ事件の被告宮城与徳の1942年「手記」(『現代史資料3 ゾルゲ事件3』みすず書房、1962年)と照らし合わせて、その信憑性を測りうる、貴重な資料となる。
この詳細な米国共産党日本人部についての情報は、今日的意義を持っている。というのは、ここに登場する指導者健物貞一、堀内鉄治、箱守改造、福永与平らが、1931-33年にソ連に亡命して(いわゆる在ソ日本人「アメ亡組」)、1936-39年にはほとんどがスターリン粛清の犠牲者となったことが、旧ソ連秘密文書の公開で明らかになった(小林峻一・加藤昭『闇の男』文藝春秋社、1993年、ジェームズ小田『スパイ野坂参三追跡』彩流社、1995年、加藤哲郎『モスクワで粛清された日本人』青木書店、1994年、同『国境を越えるユートピア』平凡社、2002年)。その旧ソ連秘密警察により「日本のスパイ」とされた犠牲者たちの足跡を辿り検証する際に、当時のこうした官憲資料は、不可欠の素材となる。
また、後に1941年北林トモ逮捕に始まる日本官憲のゾルゲ=尾崎諜報団摘発にあたっても、これら「米国共産党日本人部」情報の蓄積・データベース化と有力メンバーの監視・検挙が、官憲側にとっての有力な捜査資料となった。
1936年5月、片山潜や幸徳秋水、堺利彦の古い友人で「特別要視察人」、アメリカ共産党員ではないが機関紙『労働新聞』等、米国共産党日本人部の発行する日本語印刷物の印刷を一手に引き受けていた、サンフランシスコ金門印刷所の経営者岡繁樹が、日本に一時帰国した。情報を得て張り込んでいた特高警察は、早速東京ステーション・ホテルで検挙し、拷問を加え、岡繁樹は、屈辱の供述を強いられた。
しかしそれは、彼の生前に発表されることはなく、岡繁樹は、日米戦争中米軍に積極的に協力し、ビルマ戦線での対日宣伝(ホワイト・プロパガンダ)に従事、反骨の在米ジャーナリスト、不屈の平和主義者として、今日でも郷里高知に名声を残す(『高知新聞』2001年6月6日)。
その1936年逮捕の際の供述記録である「岡繁樹聴取書」は、秘かに官憲資料として残されていたが、荻野富士夫により発掘・収集され、1991年に復刻された(1936年6-7月、神奈川県立文化資料館所蔵「神奈川県特高関係資料」所収、『特高警察関係資料集成』第六巻、不二出版、1991年、397-414頁)。ガリ判刷りで読みにくいこの資料は、岡繁樹が日本に渡った娘の就職と婿探しのため来日し、アメリカで発行された日本語・英語左翼文献とみやげの「猥本猥画」等印刷物を荒畑寒村らに渡そうと持ち込み逮捕されての、警視庁麹町警察署での特高警察への供述である。
荻野富士夫による『特高警察関係資料集成』第6巻「解題」は、「本資料は、在米社会主義者岡繁樹が、一九三六年に帰国した際、警視庁外事課に検挙され、六月二九日と七月一八日の二度にわたって麹町警察署で作成記録された『聴取書』である。岡の事件に関連して、取調べを受けた荒畑寒村(淀橋警察署)と画家の彦山禎吉(麹町警察署)の『聴取書』も『神奈川県特高関係資料』中にある」として、その資料的意義を述べている。しかし、荻野によっても、この供述とゾルゲ事件との関わりは、論じられていない。
岡繁樹を主題的に扱った唯一の書物である岡直樹・塩田庄兵衛・藤原彰編『祖国を敵として』(明治文献、1965年、一部は田村紀雄編『海外にユートピアを求めて』社会評論社、1989年、所収)には、実弟岡直樹の評伝「兄 岡繁樹の生涯」が納められており、36年一時帰国の経緯と顛末は、次のように語られている。
釈放に尽力した富田幸次郎は、自由民権の政治家で『高知新聞』社長兼主筆、1908年以来衆院当選10回で民政党幹事長もつとめた。この事件の翌37年には、衆議院議長となっている。岡繁樹自身、土佐高知の生んだ黒岩涙香の遠縁で、幸徳秋水・堺利彦と共に『萬朝報』記者をつとめた後、アメリカに渡っていた。
伊藤一男によれば、岡繁樹の未発表自伝草稿がサンフランシスコCJCCCNC日米資料室に残されており、そこでは1936年逮捕を「幸徳事件への連座」と述べているという(『桑港日本人列伝』PMC出版、1990年、251頁)。
『祖国を敵として』では、「私は売国奴か」と題する戦後の遺稿で、岡繁樹自身が、この1936年検挙を、次のように述べる。
『祖国を敵として』は、戦時中のビルマ戦線における日本兵士に対する宣伝活動と資料を満載して歴史的に重要であるが、この特高の拷問によって何を供述したかは、官憲側の記録以外にはない。
その「岡繁樹聴取書」の「米国共産党並ニ同党日本人支部ニ対スル認識」の項は、アメリカ共産党日本人部機関紙『労働新聞』、汎太平洋労働組合サンフランシスコ支部『太平洋労働者』を印刷している関係であろうか、サンフランシスコの活動家健物貞一、松井周二、小林勇、池田秀雄、武島建二、村田敏夫、奈倉襄二・弘兄弟、M・小池、由比直躬、井上元春らの名と活動を挙げ、異様に詳しい。片山潜や幸徳秋水と『平民』を出していた時代から、「矢野某[矢野努、党名武田、本名豊田令助]」がニューヨークからオルグとして派遣され活動した時期までを詳述し、ロサンゼルスの福永与平、箱守改造、カール事浜清、西村明治、堀内鉄治ら、ニューヨークの龍尾義雄、三浦武雄、西村義雄、石垣栄太郎・綾子夫妻をも、米国共産党員だと述べる。
「昭和三年初メ三浦、井上両名ハ健物ト意見ノ対立ヲ来シ紐育ヨリオルグトシテ『矢野某』(本名後藤)ガ桑港ニ派遣サレテ来テ健物一派ヲ支持」「同年末井上ハ羅府ニ三浦、龍尾ハ相前後シテ夫々十三区支部ヨリ離脱シテ紐育ニ行キ昭和四年ニハM・小池ガ朝鮮ニ渡リ昭和六年六月頃桑港日本新聞社争議ノ際奈倉弘ガ自動車事故ニヨリ即死」という具合で、党内闘争や党員の移動も、詳しく述べる。これら自分の見聞した在米日本人左翼運動の歴史的経過の供述が、おおむね『昭和十一年に於ける外事警察概況』の「三 米国共産党第十三区所属日本人支部の結成経過」に採用され、基礎となっている。
その過程で、岡自身も共産党員だろうと詰問され、拷問されたのであろうか、あるいは親友幸徳秋水の「大逆事件」を意識してであろうか、自分は日本共産党とは天皇制についての意見が違う、と述べる。
しかし、特高警察は、すでにコミンテルン第7回世界大会における「反ファシズム人民戦線」の決議と、岡野[野坂参三]・田中[山本懸蔵]「日本の共産主義者への手紙」(1936年)における「天皇制打倒」から「ファシスト軍部反対」への戦術転換を、キャッチしていた。日本国内への左翼文献の大量流入から、指導部が壊滅したはずの日本共産党のみならず、日本人数百人を組織したアメリカ共産党をも監視の射程に収めていた。
岡繁樹は、日本共産党に距離はおいても、今度はアメリカ共産党への帰属を問われ、自分は米国共産党に入党申請しようとしたが拒否されたので党員ではない、と弁明する。
その文脈で、アメリカ共産党日本人部の重要人物、機関紙『労働新聞』編集長で31年末にソ連に亡命した健物貞一と、1930年末に上海でリヒアルト・ゾルゲを尾崎秀実に紹介し31年9月に別件で逮捕されたが、この36年頃日本で活躍している「ラムゼイ・グループ」誕生のきっかけをつくった鬼頭銀一にも、岡繁樹自身はその重みを自覚することなく、言及する。ただし、後のゾルゲ事件発覚時に尾崎秀実がリヒアルト・ゾルゲを紹介されたと供述した謎のアメリカ共産党員「鬼頭銀一」については、「岡繁樹聴取書」から『外事警察概況』に要約されるにあたって、日本官憲により名前が消されている。
岡繁樹は、「自伝草稿」でも、「私は一度も共産党に入った事はなかった。私は古くから主義の運動に関係して居て色々な事を知って居るので、若い連中からケムッタがられていた。党の直の中心人物は常に私の処に色々の相談を持ちかけた」と書いているから、共産党の組織経験がなかったことは事実だろう(伊藤一男『桑港日本人列伝』251-252頁)。しかしそれが、入党を申請したが拒否されたとは、「自伝」では書けなかったのだろう。
岡繁樹が、岡山県出身の若輩、「第二の片山潜」といわれた健物貞一に入党申請した時期は、文脈からすると、1927年頃のことになる。岡繁樹が、鬼頭銀一の翻訳した米国社会党員(共産党からすれば「社会民主主義者」)の論文を、米国共産党内日本人グループの機関紙化しつつあった『階級戦』第6号に掲載したことが、米国共産党員健物貞一・福永与平らに批判され、このイデオロギー問題と岡が労働者出身でないことから、入党申請したが入党できず、支持者として今日に至った、という供述である。このイデオロギー的問題で、原稿を持ち込んだ訳者の鬼頭銀一の方は、共産党からどのように扱われたのか、気になる発言である(カリフォルニア大学ロサンゼルス校図書館所蔵「カール・ヨネダ・ペーパーズ」所収の現物では、『階級戦』第6号は1926年11月5日付、デンバー大学出身の鬼頭銀一は、その後アメリカ共産党日本人部再建の指導者となり、コミンテルン要員として上海に派遣されてゾルゲ、スメドレー、尾崎秀実、水野成らを結びつけるが、1931年9月に別件で上海日本領事館警察に逮捕され、1938年には南洋パラオ諸島ペリリュー島で何者かに毒殺される)。
実際1920年代には、日本の「アナ・ボル論争」「山川イズム対福本イズム」の対立が、在米日本人の中にも持ち込まれていた。米国社会党にも目配りする岡繁樹や鬼頭銀一はさしずめ「山川イズム」で、健物貞一や福永与平らは西海岸の文芸雑誌や労働運動で「福本イズム」的風潮をもたらしていた。
岡繁樹が再来日した1936年は、日本側官憲にとっては、アメリカからの『国際通信』『太平洋労働者』等左翼文献の流入への対策が、国内日本共産党中央委員会が1934年袴田里見逮捕で壊滅した後の最重要課題になっていた時期であった。そこへ当の問題印刷物の印刷所経営者が来日して、コミンテルン英文機関紙『インプレコール』等をみやげの「猥本猥画」と共に持ち込んで検挙され――この「猥本猥画」問題は、当時の左翼の女性観を示すものとして、別個の検討対象たりうる――詳しく供述したのであるから、大きな収穫であった。
岡繁樹は、そうした事情を知ってか知らずか、その流入ルートが、「米国各海岸ニ寄港スル邦船乗組員ヲ通シ或ハ直接日本内地ニ郵送或ハ最近太平洋航路船ノ取締厳重ナルヲ避ケ殊更ニ欧州航路ノ外外国船船員ヲ経テ迄モ日本内地ニ連絡送付シテオルコト」を述べ、幸徳秋水、片山潜、浅原健三、大山郁夫、藤森成吉、加藤勘十らの米国滞在時の行状、堺利彦、荒畑寒村らへの左翼文書送付の経緯をも、詳しく述べている。
とりわけ、かつて日本共産党結成の中心にありながら、「労農派」としてコミンテルンから離れたはずの荒畑寒村に対し、「昭和八年五月堺利彦ノ全集ノ編集ヲシツツアル事ヲ確認」して中央公論社宛で「私カラ文通」を開始し、「荒畑ノ依頼デインプレコ其他ノ左翼出版物ヲ送付」するようになり、荒畑の秘密アドレス宛にコミンテルン機関紙『インプレコール』のほか米国共産党機関誌『デイリー・ワーカー』、『モスコー・デイリー・ニュース』、国際パンフレット等を送付し、36年5月14日横浜上陸直後にも荒畑と会って「国際パンフレット」等を手渡したことが、詳しく供述されている。これが、次節の荒畑寒村「手記」の前提となる。
「岡繁樹聴取書」の末尾は、反骨の独立社会主義者、心情的無政府主義者岡繁樹にとっては、拷問により強いられた、屈辱の記録である。
岡繁樹は、家族や富田幸次郎らの奔走でようやく起訴猶予になり釈放され、即刻アメリカに帰国した。ただしこれが「偽装転向」であったことは、その後の彼の活動で明らかになる。日米戦争が始まると、金門印刷所の日本語活字・印刷機をすすんで米国政府に提供し、米軍の反日プロパガンダ、日本兵捕虜工作に協力した。そして、1936年の「転向」供述の存在は、1959年に80歳の生涯を終えた後も、長く忘れ去られることができた。
荒畑寒村は、戦後の岡繁樹の著書『井伊大老』に序文を寄せているが(『祖国を敵として』所収)、この1936年5月の出会いについては触れていない。『社会運動をめぐる人々』(著作集5、平凡社、1976年)等にも岡繁樹についての記述はない。『寒村自伝』では、初版(論争社、1961年)では触れていなかったものの、石堂清倫の協力を得た1975年の岩波文庫版では、「日本社会党の成立」の項で岡繁樹に言及し、さりげなく述べている。
つまり、「戦前、彼がちょっと日本に帰ってきた時、警視庁は彼が国際的連絡の使命をもって来たのではないかと疑って拘留した」さいの供述記録が、先に紹介した1936年「岡繁樹聴取書」である。しかし、そればかりではない。「彼と会見したおかげで、私も警察に検束されて調べられた」記録も、荒畑寒村の淀橋警察署での供述として、歴史に残された。社会運動資料センター渡部富哉氏所蔵の貴重資料であるが、同氏の提供と了解を得て、ここに一部を公開する(萩野富士夫の述べる『神奈川県特高関係資料』「荒畑寒村聴取書」と同一であるかどうかは未確認)。
淀橋警察署の便箋16枚に自筆で書かれた「手記 荒畑勝三」は、「経歴」「前科」「家庭の事情」「運動の経歴」「思想推移過程と日本共産党に対する認識」「現在の左翼運動に対する認識批判」「岡繁樹との連絡、経過、動機」「外国に於て横行する左翼出版物入手関係」「猥本猥画入手関係」「現在の心境」「将来の方針」「所持品に対する説明」から成る。
荒畑寒村は、筆者がモスクワで発見した1922年9月の日本共産党綱領では「総務幹事」、つまり第一次共産党創設期の最高指導者であった(加藤「1922年9月の日本共産党綱領(上・下)」(『大原社会問題研究所雑誌』第481/482号、1998年12月/99年1月)「第一次共産党のモスクワ報告書(上・下)」(『大原社会問題研究所雑誌』第489/492号、1999年8月/11月)。1925年の解党にもただ一人反対した中央委員であったが、いわゆる「27年テーゼ」にもとづく日本共産党再建(第二次共産党)には加わらず、第一次共産党創設以来の盟友堺利彦・山川均らと共に雑誌『労農』に集い、「労農派」を構成していた。
1928年3・15事件では、すでに共産党を離れていたにもかかわらず検挙されたが、その警察権力に対する態度は、「荒畑勝三予審訊問調書」を収録した『現代史資料20 社会主義運動7』(みすず書房、1968年)で山辺健太郎が解説しているように、余計なことは語らず、自己の主張をはっきり述べた「りっぱなもの」であった。その「予審訊問」に先がけて作られた「聴取書」は、今日では外務省外交資料館「日本共産党関係雑件 東京地方裁判所ニ於ケル共産党事件被告人聴取書」中にあり、数年前に筆者が発見して井上敏夫『野坂参三予審訊問調書』(五月書房、2001年)に収録された「野坂参三聴取書」と同じ綴りで閲覧できる。野坂参三が党内の指導体系や人間関係をあからさまに供述し、自分は共産党員だが「27年テーゼ」の「君主制の撤廃」スローガンにはもともと反対だったと弁明するのに比べれば、検事に聞かれた限りで、自分の知り得た範囲の事実だけを答える荒畑寒村の供述の方が、はるかに社会主義者らしい格調高いものであった。
この岡繁樹来日に巻き込まれた荒畑寒村の「手記」も、基本的には、彼のこれまでの警察権力への態度を踏襲している。ただし、その論理は、岡繁樹の弁明と似ている。
天皇制については、問われなかったためか、敢えて語らない。だが、岡繁樹からコミンテルン機関紙英文『インプレコール』等を受領した事実は、認めざるをえない。
荒畑「手記」の「現在の心境」の項は、荒畑寒村の文章にしては珍しく、弱気なものである。もちろん、戦後の『荒畑寒村著作集』等に、収録されたことはない。
こうして、主犯の岡繁樹が富田幸次郎らの奔走で起訴猶予・帰国となったため、とばっちりを受けた荒畑寒村も、ようやく釈放された。しかし、1936年は、1928年ではなかった。日本共産党との関わりを否定し、『インプレコール』入手は文筆活動の取材のためだと弁明しても、特高警察は、そうした文書のアメリカからの流入自体に頭を悩ましていた。すでに検挙された日本共産党員の圧倒的部分が「転向」し、政治的行為のみならず、思想そのものの誤りの告白を迫られている時に、3・15事件当時と同じ供述の繰り返しでは、海外からの危険思想流入を根絶しようとする権力に、許容されるものではなくなっていた。
この事件が、翌1937年12月15日の荒畑寒村逮捕に始まる「労農派」大弾圧=人民戦線事件に直接につながるかどうかは断定できないにしても、日本の官憲が、コミンテルン「反ファシズム人民戦線」の波が「労農派」工作にまで及んでいることに気づき、米国共産党日本人部とその構成員の動向にいっそう注目したであろうことは、疑いない。
岡繁樹が「聴取書」を残した1936年、日本官憲は、もう一つの有力なアメリカ共産党日本人部についての内部情報を得た。野坂参三・山本懸蔵がモスクワから日本に派遣し、日本で秘密使命を果たす前に大連で捕まった、小林勇の供述である。
サンフランシスコの米国共産党日本人部に所属した小林勇は、かつて1930年9月、アメリカで逮捕された際の供述記録が、『外事警察報』第106号(1931年5月)に「米国に於ける邦人共産主義者の審問」として掲載されていた。だから、1931年9月の上海における鬼頭銀一検挙(治安維持法違反木俣豊次の国外逃亡幇助)以降厳しくなった日本領事館の監視のもとで、1931・32年の「外事警察概要」には、小林勇の比較的詳しい経歴が掲載されていた。1932年末の記録には、こうある。
つまり、小林勇は、アメリカでの弾圧を逃れて「労働者の祖国」ソ連に亡命した米国共産党日本人部「アメ亡組」17人の一人であった。アメリカ本国の共産党の仲間たちとは、ソ連入国後、音信不通となった。ソ連では、東方勤労者共産主義大学(クートベ)に学んだ。そして、モスクワのコミンテルン日本共産党代表である野坂参三・山本懸蔵の指令で日本に帰国しようとし、活動を始める前に、大連で逮捕された。
治安維持法違反検挙者を列記した『特高外事月報』昭和12年9月号には、「小林勇 三六歳 昭和一一年一一月二〇日逮捕、同一二年八月一三日起訴、昭和二年三月頃労働組合、日本赤色後援会、其他左翼団体に対し、活動資金提供、九年初頃より四月頃迄の間邦字共産主宣伝文書の印刷発行に従事し、プロフィンテルン日本人責任者山本懸蔵と日本共産党の組織闘争方針につき協議す 広島出身 笹岡商業学校卒業」とある(『社会運動の状況』昭和10年、「予審終結決定」『思想月報』1938年4月をも参照)。
なにしろ共産主義の総本山モスクワと、当面の海外からの左翼文書流入の焦点となっているアメリカ共産党日本人部の双方を経験した日本人活動家の逮捕である。検挙から起訴まで9か月もかかっているのは、特高警察が聞き出すべき情報が、十二分にあったからであろう。その供述の一部は、『思想月報』第38号(1937年9月)に「在米邦人の共産主義運動に関する調査」と題し、「目下大阪に於て取調中の小林勇の聴取書に基づくもの」として、アメリカ共産党とその日本人部についての詳細な報告となっている。『思想月報』第44号(1938年2月)にも「治安維持法事件被告小林勇手記 アメリカ及ソ連見聞記」が収録され、こまごまとした生活体験からスターリン粛清の様相まで述べられている。
司法省刑事局『思想研究資料』特集第63輯「コミンテルン第七回大会の新戦術が裁判上に及ぼしたる影響」(昭和14年7月)には、「密派員に対する訓練が、吾々の予想以上に微に入れ細に亘り、用意周到のものであると云ふ事及びコミンテルンが新戦術に依り現段階に於ける我国の共産主義運動を如何に展開せしむべきかと云ふ事の一端を知る資料に実例を引用して置くこととする」として、「被告人小林勇(明治三十五年十二月十五日生)の予審に於ける供述の要旨」が、10頁に渡って掲載されている。
行論の都合上、この最後の「聴取書」のみを、検討してみよう。
そこには、1936年2月、モスクワで「岡野」=野坂参三に呼び出されて隔離されて以来の、特殊工作員として受けた教育・訓練の実態が詳細に述べられている。
隔離された一室での工作員教育の講師は、日本共産党モスクワ代表「岡野」=野坂参三、プロフィンテルン日本代表「田中」=山本懸蔵と、コミンテルン東洋部の日本担当ヤ・ヴォルクであった。「天皇制の問題」については、その後の野坂参三の在外活動の基調となる「戦略的には日本に於ける天皇制打倒を最重視した三二年テーゼの見解は正当であるが、未だ日本の民衆は、天皇を以て殆んど宗教的信仰の対象にしている事実を見逃してはならぬ。日本の大衆から、斯うした宗教的対象を直ちに除去することは困難であるから、党が天皇制打倒を当面の戦術スローガンとして、前面に押出して大衆闘争を展開することは誤謬で、却って大衆を党より切り離す結果となる為に、此のスローガンに代へ、直接的な反ファシズム闘争として軍部の政策に反対すること」と教えられた。
野坂から与えられた直接の指令内容は、「帰国後半年か一箇年間は党との連絡をつけぬこと」「嘗て外国に居った事を絶対に洩らさぬ様」「生活の合法性を確保し労働者の中に融合して、低調な第一歩から漸次労働組合統一戦線の闘争に入り、コミンテルンの連絡を待つこと」という諜報活動だった。帰国コースはパリ、上海経由で、無事帰国の報告は「米国ロサンゼルス市西七番街二四三四番地ハマンゲルハンツ方福田宛」の暗号書簡と新聞広告、連絡の際の合い言葉、準備の英語学習、等々が子細に語られる。渡された偽造旅券は「日本福岡産、米国市民、農業労働者 河村孝次郎」というものだったが、結局フランス紙幣7200フランを持って大連に入ったことが、逮捕のきっかけとなった。これらを小林勇は、特高警察・思想検事に詳細に供述している。
注目すべきは、小林勇供述から得られた、コミンテルンの特殊機関「国際交通局」=OMS(オムス)についての情報である。日本官憲が、当時の野坂参三やリヒアルト・ゾルゲの情報活動の核心に迫りつつあった証左である。それは、国際的には、1937年末に粛清を恐れてフランスに亡命し、41年に謎の死を遂げるソ連工作員W・G・クリヴィツキーの1939年公刊手記で知られるようになり、日本では『外事警察報』第225-239号に13回に渡り「スターリンの機密勤務に服して」と題し訳出・連載された。1941年4月ム42年12月で、ちょうどゾルゲ事件の摘発・検挙・取調期にあたる(クリヴィツキー『スターリン時代』みすず書房、1962年、参照)。
これに続く「米国共産党を通じての策動」では、『国際通信』『国際通信パンフレット』『太平洋労働者』『太労パンフレット』『海上通信』等のアメリカで印刷された非合法日本語印刷物が、「郵送」「持込」「託送」の手法で日本に搬入され、それが1935年1月から37年12月の3年間で総計1606部に達したこと、その内容が「民主的日本か、軍事独裁の日本か」とコミンテルン第7回大会の戦術転換を反映したものとなり、それを受けて国内共産主義運動が「再び蠢動を開始」し、各種合法団体の中でも影響し始めていたが詳細に述べられた。
このように、共産党と労農派の社会大衆党を介した再結合の危険をも、分析している。――日本官憲にしてみれば、米国共産党シンパ岡繁樹の労農派荒畑寒村宛のコミンテルン文書郵送・持ち込みは、この新しい情勢を告げる象徴的事件だった。
そして、これら米国共産党日本人部出身とみなされた帰国者・逮捕者の監視包囲網――鬼頭銀一の1938年南洋パラオ島での不審死、宮城与徳、北林トモの周辺監視――こそが、今日の研究では、戦後GHQウイロビー報告が政治的に用いた伊藤律獄中供述ではなく、内務省警保局長1938年8月31日付「警保局外発用第百十一号 極秘 米国加州地方邦人共産主義者ニ関スル件」47名のアメリカ共産党日本人党員リスト(外務省外交史料館「外務省亜米利加局 各国共産党関係雑件 米国ノ部3、昭和9-16」)、翌1939年内務省作成の「在米邦人思想被疑者」400名のリストをもとにした、北林トモ検挙のベースとなったことが明らかにされてきている(社会運動資料センター渡部富哉氏の『偽りの烙印』五月書房、1993年ほか一連の研究と資料公開、篠田正浩監督の映画「スパイ・ゾルゲ」は、この解釈を採る)。
おそらく岡繁樹がなにげなく記録に残した「鬼頭銀一」情報と、これら米国共産党日本人部情報をもとにして、真珠湾攻撃から日米戦争勃発の局面で、友好国ドイツ大使オットの顧問リヒアルト・ゾルゲや近衛首相嘱託だった尾崎秀実の検挙から、中西功・西里竜夫らの「中共諜報団」事件、さらには満鉄調査部関係者の大量検挙にまで及ぶ、情報戦としての一大「国際スパイ事件」が立件される。
岡直樹・塩田庄兵衛・藤原彰編『祖国を敵として』(明治文献、1965年)
(一部は、田村紀雄編『海外にユートピアを求めて』社会評論社、1989年、所収)
山本武利『ブラック・プロパガンダ』(岩波書店、2002年)
カール・ヨネダ『在米日本人労働者の歴史』(新日本出版社、1967年)、
カール・ヨネダ『がんばって』(大月書店、1984年)
野本一平『亜米利加日系畸人伝』(弥生書房、1990年)
伊藤一男『桑港日本人列伝』(PMC出版、1990年)
犬丸義一『日本人民戦線運動史』(青木書店、1978年)
加藤哲郎『モスクワで粛清された日本人』(青木書店、1994年)
加藤哲郎『国境を越えるユートピア』(平凡社ライブラリー、2002年)
渡部富哉『偽りの烙印』(五月書房、1993年)
白井久也『未完のゾルゲ事件』(恒文社、1994年)
白井久也『国際スパイ・ゾルゲの世界戦争と革命』(社会評論社、2003年)
古賀牧人編著『「ゾルゲ・尾崎」事典』(アピアランス工房、2003年)
H・クレア=J・ヘインズ=F・フィルソフ『アメリカ共産党とコミンテルン』(五月書房、2000年)
H.Klehr,J.E.Haynes,K.M.Anderson , The Soviet World of American Communism, Yale UP, 1998.
J.E.Haynes & H.Klehr, Venona:Decoding Soviet Espionage in America,Yale UP,1999.
T.Rees & A.Thorpe eds., International Communism and the Communist International 1919-43, Manchester UP, 1998.
UCLA, Karl G. Yoneda Papers (http://www.oac.cdlib.org/findaid/ark:/13030/tf0c6002wh)
Library of Congress(USA), The Records of CPUSA, Microfilm 435165 Frames(http://www.loc.gov/today/pr/2001/01-007.html)