書評のページ


井上敏夫編

『野坂参三予審訊問調書──ある政治的人間の闘争と妥協の記録』

(五月書房)


 私のインターネットホームページ「加藤哲郎のネチズンカレッジ」は、先日18万アクセスを記録した。日本の学術系サイトとしては最大級で、毎日数百人が訪れ、ヤフー・ジャパンの「オススメサイト」にも入っている。そこに、4月のトップページ更新で、井上敏夫編『野坂参三予審訊問調書』(五月書房)をとりあげ、紹介した。以下の如くである。

 <4月3日の共同通信配信記事やJapan Timesで、私が2年前の本HP「現代史の尋ね人」で「テルコ・ビリチ=松田照子」を探求したさい、外務省外交史料館でみつけた副産物、故野坂参三1928年検事調書の「発見」が、大きく報道されています。20世紀日本の共産主義運動の「顔」であった野坂参三が、いわゆる3・15事件検挙直後に、自分は共産党の「君主制廃止」方針に反対だと供述していたという内容。詳しくは、発売されたばかりの井上敏夫編『野坂参三予審訊問調書──ある政治的人間の闘争と妥協の記録』(五月書房)参照。……過ぎ去ったばかりの20世紀には、まだまだ「記憶」に残すべき無数の史実が、うごめいています。>

 ところが、ホームページの「尋ね人」には、電子メールでさまざまな情報提供があったのに、野坂参三については、反応がない。5月には、アメリカ西海岸日系移民労働運動指導者で「第二の片山潜」といわれた「健物貞一」の遺児アランがロシアでみつかり、野坂参三・山本懸蔵がモスクワで指導した「アメ亡組」のリーダーとして1938年に逮捕され、42年にラーゲリで粛清されたKGB記録が送られてきて、ホームページを通じて情報提供をよびかけ、岡山のご遺族がみつかった。

 しかし、野坂参三については、井上敏夫編『野坂参三予審訊問調書』の刊行が報じられ、和田春樹さんによる野坂参三の山本懸蔵「密告」1年半前にコミンテルン東洋部のミフが山懸を告発していた文書発見も新聞報道されたのに(『毎日新聞』5月29日)、話題にならない。どうやら野坂は「過去の人」となり、日本官憲やアメリカ占領軍とのつながりが発見されても、日本共産党関係者でさえ驚かない、「闇の男」のダーティ・イメージが定着したようだ。

 しかしなお、現代史研究者にとっては、野坂参三探求は未完である。野坂の検事調書や予審調書の「君主制廃止スローガン反対」の供述は、和田春樹さんや高橋彦博さんのように、敗戦後野坂の天皇制論を歴史的に評価する人にとっては、野坂の独自性・政治的一貫性を示すもので、自説を補強する根拠となる。私のように、象徴天皇制・君主制残存の問題を、現代日本の民主主義にとってもなお重要な「戦後民主主義のトゲ」と考えるものにとっては、野坂は早い時期から政治主義的策略を弄した「民主主義の永久革命」(丸山真男)の「裏切り者」となる。

 アメリカでは、一昨年のジョン・ダワー、昨年のハーバード・ビクスと、現代天皇制を探求する日本史研究者の書物が、続けてピューリツアー賞を受賞した。『野坂参三予審訊問調書』の刊行は、二〇世紀世界史の中に日本を位置づけるうえで、不可欠の資料発掘なのである。

(徳田球一記念の会会報、第72号、2001年8月、掲載文の草稿)



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