おまけに本書については、インターネット上で、刊行直後に「オススメ本」として論評済みだ。評者のホームページ「ネチズン・カレッジ」1月15日号トップで、新年の北京訪問記中に用いた。半月毎更新だが1万人近くの眼に触れたはずで、こんな調子だった。
これで本書の内容紹介は、それなりに果たされている。そのうえネット上の論評では、もともと「先住民サイト」の一つとして出発した評者のホームページの「大公開時代」における変貌と、不正アクセス、ウイルス攻撃、いやがらせ・脅迫メール、迷惑メールへの愚痴が、延々と「自己言及」されている。2ちゃんねる風「掲示板あらし」にあった具体的体験を、本書でいう「ネットのマス・メディア化」「沈黙のらせん」「ネット世論の大きな振幅での激しい極論化」「リアルとバーチャルの境界の喪失」を使って「自己主題化」している。
だから、今では「ネチズン・カレッジ日誌」にデータベース化されている上記文章の、「野村さん」を「著者野村一夫氏」に、「です・ます」調を「である」調に直せば、評者の責めは果たせるはずだが、そうでもなさそうだ。インターネットという発言媒体の機制は、どうやら文体ばかりでなく叙述内容にも及び、ネットの文章は日記風「自己言及性」「自己主題化」が前面に出て、そのまま学術雑誌に転用するのはためらわれる。
だが逆に、本誌は日本では先駆的にデジタル化されており、ウエブ上で同時公開される。歴史的活字史資料・画像のデータベース・サイトとして名高いため、これまでは学術論文調で書いてきたが、これからは「ウェブ資料の活字化・映像保存」の相互乗り入れもありうるはずだからネット私小説風でもいいではないか、五十嵐仁さんの連載「世界の労働関係研究所・資料館・図書館」だって、もともとネット上の日誌「諸国探検記」を見出しや注で化粧直ししたものだし──そう開き直ると、すらすらと文章が浮かんできた。
そこで、著者には一度しか直接お目にかかったことはないが、このさい「野村さん」で行くことにする。いつも「ソキウス」でお世話になり、メールを交換していると、どうも「野村氏」では書きにくい。おまけに素材はインターネット最先端の話、このさいわが「ネチズン・カレッジ図書館・書評の部屋」にもぜひ収録・公開したい。いいですね、野村さん!──本書の貢献は、ウェブ上に氾濫する、こんなチャット風言説世界をサーフィンしつつ、アナログ社会学を「大公開時代」「ネット先住民文化の孤島化」「論争の泥沼化」「銭湯的民主主義」等々とデジタル時代の若者向けに翻訳して、サイバースペースが十分学術研究の対象になりうること、いや「大航海時代」に比すれば驚異的な速度で生活世界に浸透し、今や社会科学が避けて通りえない「もう一つの社会」になっていることを、豊富な事例で実証したことである。本書の真骨頂で、伝統的アカデミズムへの挑戦である。
野村さんはこれを、自ら主宰する社会学の定番「ソキウス」、大原社研OISR.ORG、オンライン書店や生協への支援、それに情報教育の実践から導き、「リアルとヴァーチャルの二元論的世界観を中止すること。両者とも相互に反照しあって定義されるものであって、その境界を画定することは元々できない。その呪縛から自由になるべきだ」と宣言する。
わが意を得たり、である。評者は、五十嵐仁さんサイトから頂戴した「国際歴史探偵」の称号を励みに、インターネットを現代史研究に組み入れ、島崎藤村のお孫さんから届いた一通の電子メールをきっかけに、加藤哲郎・島崎爽助編『島崎蓊助自伝 父藤村への抵抗と回帰』(平凡社)を昨年公刊した。鎌田慧さんと一緒に長く探してきた鈴木東民編集の戦間期日本語新聞『伯林週報』を、ホームページで呼びかけ発見したりしてきた(「幻の日本語新聞『伯林週報』『中管時報』発見記」『インテリジェンス』2号、2003年3月)。
9.11以降の戦争と平和の情報政治では、インターネットが主戦場になり、日本でも「小泉内閣メールマガジン」200万部は序の口で、「グローバル・ピース・キャンペーン」は2週間でネット募金1250万円を集め『ニューヨーク・タイムズ』に意見広告を出し、ネットロア「100人の地球村」が活字になり120万部のベストセラーとなった事例を分析してきた(「現代日本社会における『平和』──情報戦時代の国境を越えた『非戦』」『歴史学研究』第769号2002年11月、「9.11以後の情報戦とインターネット・デモクラシー」公共哲学ネットワーク編『地球的平和の公共哲学』東京大学出版会、2003年など)。最近の論文では、本書からサブタイトルを借用し、ネチズンの「ヴァーチャル」ネットワークが、2月15日に全世界1500万人の反戦行動をつなぐ「リアルな力」になったと報告した(「情報戦時代の世界平和運動──非戦のインフォアーツ」『世界』6月臨時増刊号)。
だが野村さんは、ネット世界特有の「思考やスタイルやフレームや文法」があることも見逃さない。それが第1章「大公開時代──自我とネットと市民主義」、第2章「メビウスの裏目──彩なすネットの言説世界」で、評者や二村一夫さん、五十嵐仁さんのように「大公開時代」に個人サイトから手探りで船出した者は、この間の体験・実感を社会学的に整理して示され、「自己言及の快感」に留まらぬ知的充足と刺激を味わうことができる。
もっとも野村さんの積極的主張は、第3章「情報教育をほどく──インフォテックの包囲網」で現局面を憂いつつ、第4章「ネットワーク的知性としてのインフォアーツ」、第5章「着地の戦略──苗床集団における情報主体の構築」、第6章「つながる分散的知性──ラッダイト主義を超えて」で論じる代替案にある。
「インフォアーツ」とは、「インフォテック=情報技術(いわゆるIT)およびそれにもとづく情報工学的文化」に対抗する「ネットワーク時代に対応した知恵とわざの総称」で、いうまでもなく「リベラルアーツ=市民として自律的に思考し行動するのに必要とされる基礎的な教養教育」の21世紀版ヴァージョンアップである。評者らが主張してきた「ネチズンシップ・ネチケット」より広く、「メディア・リテラシー」「情報調査能力」「コミュニケーション能力」「市民的能動性(ここに「ネチズンシップ」が含まれる)」「情報システム駆使能力・セキュリティ管理能力」まで含む総合的力能だ。
評者ならついでに、「異文化理解・交信能力」「グローバル・ネットワーク組織能力」を加えたい。つまり、ハート=ネグリ『帝国』は、IT資本のネットワーク権力により身体・情報・情感まですでに管理されており、もはや「ノマド(遊牧民)的移動」と「エクソダス(脱走)」にしか民衆的「抵抗」はない、としている。それに比べて、野村さんの「インフォアーツ」は、はるかに実際的で見通しのある地球市民の対案ではないか!
だが情報戦には、「速度の政治」(P・ヴィリリオ)がつきまとう。「100人の地球村」のインターネット人口はなお10人程度とはいえ、5世紀前の「大航海時代」とは違って、「大公開時代」はわずか5年で「先住民文化」を孤島にした。「喜望峰」は見えてきたが、「インフォテック」はすでに「新大陸」中国・インド・アフリカをも占拠しつつある。急いで「インフォアーツ」を、グローバルに広めなければならない。評者は本書を、今年の冬学期講義「情報政治学」のテキストにした。日本の学術サイト最先端・最重量のOISR.ORGを「インフォアーツのイージス艦」にして、世界の心あるネチズンを「インフォアーツ練習船」に試乗させ、船を出そう! 本書は、そうした勇気を与える「汽笛一声」として、徹底的に活用さるべきである。
(野村一夫『インフォアーツ論──ネットワーク的知性とはなにか?』洋泉社新書、2003年1月、192頁、720円+税)
(かとう・てつろう 一橋大学大学院社会学研究科教授・政治学)