第7回日韓歴史共同研究シンポジウム報告        2004年8月21日

21世紀に日韓現代史を考える若干の問題

――1942年の米国OSSから2004年の東アジアOSSへ――

 

加藤哲郎(一橋大学・政治学)

 


 1.2004年の東アジアOSS(Open Source Software)から情報共有へ

 

 1989年の東欧革命・冷戦崩壊・ソ連解体以降、報告者は、その後の資本主義の新自由主義的グローバル化、湾岸戦争、9.11以降の再編を含め、アントニオ・グラムシが19世紀から20世紀への転換を「機動戦(街頭戦War of Manoevre)から陣地戦(組織戦War of Position)へ」ととらえたひそみにならい、現代を「陣地戦から情報戦(言説戦War of Information)へ」の転換期ととらえ、インターネット上でも主張し実践してきた(加藤『20世紀を超えて』花伝社、2000年、http://www.ff.iij4u.or.jp/~katote/Home.shtml)。

情報戦時代の相互理解・対話の出発点は、情報共有である。それが、ラジオ・テレビ・電報からコンピュータや携帯電話のようなハードのうえでも、インターネットや電子メールのようなソフトの面でも飛躍的に発展し、国境を越えた交流が可能になった。学術研究においても同様である。歴史認識の素材である情報環境は、地球全体で飛躍的に拡張した。

 20世紀の日韓現代史認識を支えてきた基底的要因として、日本側の脱亜入欧・欧米基準史観、韓国側の非抑圧民族・冷戦史観をあげることができる。

前者は、日本史認識をアジア民衆の側から見る視点を弱め、後者は、韓国史認識を日本帝国主義の植民地支配と南北分断国家の対抗から見るため、世界史や他のアジア諸国との関係をしばしば副次的なものにする傾向を持った。そのため、1945年以降を直接の対象とする日韓現代史・日韓関係史も、日本の敗戦処理、朝鮮戦争、日韓条約までが主要な論点となり、その後のアジア情勢、とりわけベトナム戦争、日本の世界国家化、韓国のアジア大国化、韓国民主化と冷戦崩壊以降の問題が入りにくかった。

 21世紀の日韓歴史像は、第一に、グローバリズムの中で、共に20世紀後半に世界システムの中心に入った両国を前提にしたものとならざるをえない。第二に、両国及び二国間関係を、中国・台湾・朝鮮北部を含む東アジア、東南アジア・南アジアを含むアジア全域のリージョナルな秩序再編の中に位置づけることを、不可避とする。国際関係論の言葉で言えば、20世紀後半に、グローバル秩序のtakerからshaker, makerへと急成長した両資本主義国の世界システム的locationの再確認が必要となる。

 そのためには、さしあたり、両国にとっての重要な隣国であり、今日の世界秩序変動の中心的要因の一つである中国の問題を射程に入れて、「東アジア」の観点から、より長期の視点で、現代史を見直していく必要がある。そのさい、「北朝鮮」問題が、中日韓3国のいずれにとっても厄介な問題を孕むが、朝鮮半島の南北分裂・朝鮮戦争の問題をも、日韓関係に限定せず、東アジア全域と世界史の中に置き直すことが重要であろう。 

そうした「東アジア」の視点からは、政府レベル、企業レベル、市民レベルでさまざまなかたちでの構想がたてられ、経済・政治外交・安全保障・文化の全領域で具体的に進行しつつあるが、ここでは、21世紀に関わる問題として、OSS(Open Source Software)の問題をとりあげよう。アジアカップ・サッカー試合をめぐって、日本の首相の靖国神社参拝等を背景とした日中両国民の感情的対立が伝えられた直前、2004年7月22日の中国「人民網」日本語版は、以下のように伝えた。

 「中日韓OSS共同開発へ 23日に連盟設立
 中国、日本、韓国の3カ国が「公開型コンピューター基本ソフト(オープンソースソフトウェア=OSS)協力覚書」に調印して以来、中国側は3カ国によるOSS共同開発協力を実質的に進めてきた。情報産業部は23日に「中国OSS推進連盟」の設立を宣言する。 この連盟は情報産業部の主導で、国内外OSSメーカーで企業連盟を結成する。主な目的は3カ国によるOSS共同開発協力で企業の橋渡しをすることだ。すでに日本と韓国は類似の連盟を設けている。
「OSS協力覚書」によると、3カ国はOSSの開発で全世界的に広く協力することが求められ、既存のOSSである「リナックス」を開発協力の起点とする。中日韓3カ国は必要な措置を取ることで、OSSの研究開発、実用化、普及、応用の分野で交流と協力を強め、共同で難問を解決し、研究成果を共有することで互いに利益を受け、共に発展していくことを目指す。」
http://j.people.com.cn/2004/07/22/print20040722_41588.html

 これは、短期的には、世界で進行するアメリカ中心のグローバル化――OSの世界ではウィンドウズ標準化――に対抗して、発展途上の巨大IT市場である中国をも含めて、グローバルなオープン・システムであるリナックスをベースにした共同ソフト開発を進める「東アジア」経済統合の基盤づくりが始まったことを示し、中日韓の情報共有・経済協力・文化交流の土台が作られ、感情的対立の垣根と緊張を低レベル化する試みである。

 長期的にみれば、イエール大のイマニュエル・ウォーラーステインが主張するように、中日韓3国は、21世紀の世界システムの重要なエンジンになり、拡大EUを発足したヨーロッパと共に、米国中心の世界秩序への経済的対抗軸になりうることを示している。もとより、ウォーラーステインも触れているように、政治的・軍事的には3国間の歴史的関係及び中国・朝鮮半島の分裂に由来する困難があり、対米関係――3国とも米国を重要なパートナーとする――、東南アジア・南アジアとの関係、地球的規模のシステム再編にどのように対処するかという課題をも抱えているのであるが(イマニュエル・ウォーラーステイン「世界の多極化が現実に」『日本経済新聞』2004年8月11日)。

 

 2 新資料公開と情報共有による歴史の見直し

 

 情報共有にもとづく21世紀の日韓歴史像の変容を促すもうひとつの要因は、歴史研究に固有な、史資料との関係である。

 1989年の冷戦終焉、91年のソ連崩壊は、日韓現代史研究の史資料的条件を、飛躍的に発展させた。たとえば旧ソ連の崩壊により、朝鮮半島の分断、朝鮮戦争に大きな意味を持った旧ソ連の国家的・党的諸文書が、ロシア政府により公開された。それは、今日では、中国共産党や日本共産党のモスクワ所蔵文書が資料集として公刊され、この8月から「コミンテルン・エレクトリック・アーカイフ」というインターネット上の巨大なデータベースの公開が始まり、旧ソ連の国内資料にとどまらず、外交資料や国際共産主義資料も含め、新たな研究が可能になってきた(http://www.komintern-online.ru/)。

例えば報告者は、1936−39年のいわゆるスターリン粛清により、当時ソ連に在住した約百人の日本人共産主義者・労働者が、無実の罪で「日本のスパイ」の汚名の元に銃殺・強制収容所送りとなった史実を探求し公表してきた(加藤『モスクワで粛清された日本人』青木書店、1994年、『国境を越えるユートピア』平凡社、2002年)。

その同じ時期に、旧ソ連に在住した朝鮮人17万人以上が中央アジアに強制移住されたばかりでなく、2000人以上が政治的に粛清された事実が明るみになった(『ハンギョレ新聞』2000年1月17日、「1924−1938年の間に銃殺された高麗人名簿には当時粛清されたと推定される高麗人2500名余のうち1000名余の名簿が入っている」)。

かつて日本人粛清犠牲者をロシア公文書館で調べた経験から言えば、日本人最高指導者野坂参三夫人野坂龍を含む多くの日本人が朝鮮人名で逮捕・粛清されており、朝鮮人でも日本人名で記録に残されている可能性が強い。また、敗戦時のシベリア抑留、旧満州・中国北部、サハリンでの朝鮮人の運命等々も、これら旧ソ連の資料公開で、具体的に研究可能になっている。

 東西冷戦期の最初の熱戦である朝鮮戦争についても、旧ソ連の資料公開と、中国側資料の部分的公開によって、第一に、それが朝鮮の分断国家発足・中国革命を受けての、スターリンによる「アジア・コミンフォルム」構想と関係があったこと、しかしそれはヨーロッパ情勢(中東欧「人民民主主義」の共産党独裁への転換、コミンフォルム・コメコン・ワルシャワ条約機構によるソ連中心の「社会主義世界体制」結成)に従属したものであったこと、第二に、1949年末から50年初めに、毛沢東・周恩来・金日成・朴憲永・ホーチミンらアジアの共産党最高指導者がモスクワに滞在し、日本共産党の野坂路線=「占領下平和革命」がコミンフォルム名で突如批判されたもとで、アジアにおける民族解放闘争方針が個別にスターリン=ソ連当局と話し合われた結果であったこと、第三に、しかしスターリンも毛沢東・周恩来も、金日成の南進方針に積極的であったわけではなく、とりわけ中国共産党指導部内では朝鮮戦争についての大きな論争・対立があったこと、等々が明らかになってきた(日本語では、V・マストニー『冷戦とは何だったのか』柏書房、2000年、トルクノフ『朝鮮戦争の謎と真実』草思社、2002年、朱建永『毛沢東の朝鮮戦争』岩波書店、1991年、和田春樹『朝鮮戦争全史』岩波書店、2002年、など)。

 朝鮮戦争の他方の主役である米国についても、わが国ではブルース・カミングスの大著『朝鮮戦争の起源』の翻訳後(シアレヒム社、1989年)、米国国立公文書館所蔵の米軍捕獲北朝鮮文書を用いた萩原遼『朝鮮戦争――金日成とマッカーサーの陰謀』文藝春秋、1993年)などが現れた。韓国でも、同資料を用いた朴明林『韓国戦争の勃発と起源』が1996年に刊行されたという。

 現代史についての認識は、認識主体である観察者のおかれたlocationの変化によってのみならず、隠匿ないし忘れ去られていた史資料の公開・発掘によっても、たえず更新される。朝鮮戦争以降の日韓条約やベトナム戦争、両国の経済発展についても、両国国内外での資料公開・発掘と研究深化にもとづく「対話」が、歴史像刷新に不可欠となるであろう。

 

 3 米国OSS(Office of Strategic Service,戦略情報局)資料全面公開の意味

  

 世界史的に見れば、現代史の出発点である第二次世界戦争についても、ようやく本格的な研究の史資料的条件が整ってきた。

 「ファシズム対民主主義」とされた第二次世界戦争についての米国戦時機密資料は、1998年10月、民主党クリントン政権下で「ナチス戦争犯罪情報公開法」が成立し、1999年1月に省庁間作業部会が設置されて以来、2000年5月までに約150万ページ分がそれまでの機密指定を解除された。最終的には1000万ページ以上が、機密指定を解除され、公開される見通しである。

 これに準じて、2000年12月27日にクリントン大統領が署名した「日本帝国政府情報公開法」(2001年3月27日発効)により、これまで米国国防総省、国務省、CIA、国立公文書館などで機密指定となっていた日本との戦争・戦争犯罪に関するすべての資料(1931年9月18日から1948年12月31日まで)が再調査され、リストを作成し、機密解除を勧告し、米国国立公文書館で閲覧できるようになった。2002年3月の米国議会への報告によると、2000万ページにのぼる日米関係資料が再調査され(未調査は約1200万ページ)、うち約8万ページが関連する資料と認定されて、そのうち1万8000ページ分がすでに機密解除された。関連する資料は、最終的には20万ページに及ぶと推定されている(林博史「日本は過去を克服できるか――戦争責任と補償問題」『日本の科学者』2002年8月、http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper48.htm)。

 これら新公開資料の中でも重要な位置を占めるのが、米国CIAの前身であり、米国の第二次世界戦争遂行において極めて重要な役割を果たした、戦略情報局OSS(Office of Strategic Service、1941−45)関係資料の全面公開である。

OSS資料は、20世紀にも、いくつかの段階を経て膨大な記録が公開されてきたが、今回のナチス戦争犯罪情報公開法により、2000年6月に約120万ページが公開された。つまり、今回の機密解除による新規公開資料の80%がOSS資料である。

そこには、中国での日本軍・特務機関関係の資料が多く含まれており、特に日本軍の戦争犯罪や対日協力者関係の資料が多い。陸軍参謀部の組織・個人情報ファイルはすでに約8000件が公開されていたが、2001年11月にさらに約1400件がまとめて公開された。この中には辻政信、岸信介、石井四郎、児玉誉士夫といった戦犯(容疑者)の個人情報が含まれているほかに、ナチスの各種組織や個人、日本の軍人や政治家、戦争犯罪人(容疑者含む)、世界各地の共産主義者個人や組織などについての情報もあり、1940年代から1960年代の研究にとって貴重な資料の宝庫である(林、前掲論文)。

戦時中の対日本兵士宣伝や特殊工作関係資料も数多く含まれている(ローレンス・マクドナルド「アメリカ国立公文書館のOSS資料ガイド」『インテリジェンス』創刊号、2002年3月)。

 こうしたOSSの公開資料を用いて、わが国でも、ジャーナリストで共同通信ワシントン支局長であった春名幹男『秘密のファイル』(共同通信社、2000年)、早稲田大学教授山本武利『ブラック・プロパガンダ』(岩波書店、2003年)のような研究が、すでに公刊されている。報告者も関わり、紀伊国屋書店からすでに4号が発行された雑誌『インテリジェンス』は、占領期GHQによる雑誌言論検閲資料(プランゲ文庫)と共に、これらOSS日本関係資料の紹介と分析を、大きな柱としている。

 だが、OSSは、これまでもっぱら諜報組織CIAの前身として紹介されてきたため、他国への政治宣伝や秘密工作、政権転覆陰謀・クーデタ等との関わりで語られることが多く(日本語では長く「戦時諜報局」と訳されてきた)、外交史や国際関係史では国務省の公開外交文書にもとづく「正史」が、研究上では重要とみなされてきた。OSS資料に機密指定が多く、生存する具体的な個人名等を多数含むために未公開だったことにも起因するが、とりわけ冷戦時代には、OSS資料は歴史研究のベースに据えられることは少なく、第二次世界戦争と戦後日本史・韓国史の研究では、ほとんど無視されてきた。

 本拠地米国でも同様で、OSSの指導者ドノヴァンの研究や、CIAの特殊工作に連なる宣伝・秘密活動に関わる研究が多く、その全容を学術的に研究する機縁となったのは、創立50周年にあたる1991年7月のワシントン国立公文書館(National Archives and Records Administration,NARA)公開シンポジウム「秘密の戦争(The Secrets War: The Office of strategic Service in World War II)」以降のこととされる(前掲マクドナルド論文、及びG.C.Chalou ed., The Secret War, NARA 2002)。

 このシンポジウムで特筆すべきは、OSSに直接組み込まれ、その経験を戦後に理論化してアメリカのみならず世界の学界に大きな影響を及ぼした、歴史家アーサー・シュレジンジェー二世や経済学者ウォルト・ロストウらが出席し、戦時OSSの戦後学術発展における意義を証言し強調したことであった。それは、OSSの膨大な機構の中では、戦後CIAに受け継がれた政治工作・宣伝部門(秘密工作部SO、秘密諜報部SIやモラール工作隊MO)ではなく、当時の世界全域の戦略的分析と政策提言に重要な役割を果たし、1945年解散後は主に国務省各地域部局に受け継がれた「研究分析部(Research and Analysis Branch, R & A=RA)」に注目することであった。

RAの研究者組織には、当時のハーバード大学歴史学部長ウィリアム・ランガーを中心に、全米の最高の頭脳900人が集められた。ランガーをはじめ政治史・外交史の歴史学者は特に重用され、戦後アメリカ歴史学会の会長8人がOSS=RA出身であった。経済学でもソ連課で経済分析を担当したレオンチェフがノーベル経済学賞を受けるのをはじめ、5人の全米経済学会会長を輩出した。

歴史学・人類学・地理学、経済学・政治学・社会学から美術史にいたる学際的研究がRAの特徴で、そこからレオンチェフの産業連関分析やロストウの近代化論、スチュアート・ヒューズの社会思想史やシルズの社会学が生まれた。当時の各学会重鎮のリーダーシップのもとに、全米から助教授・講師や博士論文を書いたばかりの若手の最優秀な研究者が集められた。ランガーはRAの任務を戦争における「客観的可能性の研究」と規定し、アナリストの政治的・方法的立場は問わなかった。

 FBIはそれを問題にし、後にフェアバンクらに対するマッカーシズムの遠因になるが、ロストウと一緒にマルキストのスウィージーやバランが世界経済分析を担当し、ナチス・ドイツから亡命したアドルノ、ホルクハイマー、ノイマン、マルクーゼらフランクフルト学派マルキスト、演劇のブレヒトらもドノヴァン機関は進んで登用し、アメリカ人アナリストと自由に議論させた。それは、米国アカデミズムの「総力戦体制」であり、戦後米国のいわゆる地域研究(Area Studies)の起源もこのOSS=RAを重要な出発点とする。

 

 4 F・ノイマンとH・マルクーゼが核となったOSS=RAの対独戦後計画

 

 このOSS=RAにスポットを当てた米国での初めての研究は、1989年にハーバード大学出版会から公刊された社会思想史家Barry M.Katz, Foreign Intelligence: Research and Analysis in the Office of Strategic Services 1942-45であった。

 彼は、1960年代の世界学生運動でイデオロギー的に教祖的役割を果たしたヘルベルト・マルクーゼ「一次元的人間」の思想史的根拠を探るなかで、戦前米国に亡命したユダヤ系ドイツ人学者たちが、実は、アインシュタイン他自然科学者が原爆作成のマンハッタン計画で中核的役割を果たしただけではなく、『ビヒモス』のフランツ・ノイマン、マルクーゼを含むフランクフルト学派マルクス主義者・社会科学者たちが米国OSS=RAの対独戦略策定に深くコミットし、戦後ニュルンベルグ裁判の法理(「平和に対する罪」)の哲学的根拠づけまで引き受けていたことを見出したのであった。

ノイマン、マルクーゼとも多くの書物が邦訳されているが、彼らとOSSの関係を示唆する解説はほとんどなく、わずかに、ノイマン死後の書物『政治権力と人間の自由』(河出書房新社、1971年)に付されたマルクーゼの追悼序文に、その一端がうかがわれるだけである。それも、マルクーゼ自身は、OSSと無縁であったがごとくに。 

 「OSS及びその後に国務省に勤務した時期(1942ム46年)に、ノイマンはドイツの発展の分析と予想に、『ビヒモス』でえた洞察を適用した。彼がその努力の大部分を傾倒したのは、ワイマール共和国の失敗の二の舞をしないようなドイツの民主化計画だった。すなわち彼は、脱ナチ化が有効であるためには、ナチ党員の追放とナチ法の廃棄以上のことがなければならないということ、すなわち、ドイツの大工業の反民主主義的政策の経済的基礎を根絶やしにすることでドイツ・ファシズムの根元に痛撃を加えねばならない、ということを立証しようとした。ノイマンは、この目的を達成しようとした努力が失敗したことを悟ったが、ドイツの民主主義勢力を強化するための努力を続けた。ベルリン自由大学とのアメリカの連絡員として、彼は同大学の発展に大きな貢献を果たし、ベルリン政治学研究所の設立に尽力した。彼はドイツの労働組合や社会民主党との接触を回復し、政治状況に対する助言を与えた」(邦訳2頁) 

 報告者は、戦時OSSに、その対日MO(モラール工作、ブラック・プロパガンダ)で中心的役割を果たした在米日本人ジョー小出(本名鵜飼宣道、デンバー大学卒、1930年代の野坂参三による対日反戦活動『国際通信』の実質的編集者、戦時戦後の同志社総長・初代ICU学長湯浅八郎義弟、元東大教授・ICU学長鵜飼信成実兄、C・ライト・ミルズ『パワー・エリート』邦訳下訳者)の天皇制論の探求によって、キャッツのいうRAの重要性に近づいた。なお、キャッツの研究を日本で詳しく紹介し、9・11以後の情報戦の中でその歴史的意義を説いているのは、京都大学教授の保守的論客で日本核武装論者である中西輝政である(http://blog.livedoor.jp/strategy001/)。

 しかし、米国の戦時戦略策定において、その枠組みと基本的方向付けに決定的役割を果たしたOSS=RAについて、そのアジア戦略についての研究は、報告者の知る限り、ほとんどない。それを担当したRA極東課及びその担い手も、ほとんど知られていない。これまでの米国の戦時・戦後アジア戦略の研究は、対日政策・朝鮮政策について、米国国務省の公式記録集(FRUS)にもとづくものが、ほとんどであった。

 例えば、日本で米国対日政策形成研究の定説的位置を占める五百旗頭真『米国の日本占領政策』上下(中央公論社、1985年)は、第二次世界大戦期の米国の戦時対外政策が、国務省ばかりでなく陸・海軍、戦時貿易省、さらには大統領補佐官ハリー・ホプキンスやOSSドノヴァンらの多角的ルートで起案され、ルーズベルト大統領の決定がなされてきたことを述べながらも、対日政策については、国務省の第二次諮問委員会・特別調査部(SR、1941年2月発足、42年末で71名、内学者27名)の極東班6名(班長クラーク大ブレイクスリー、コロンビア大ボートン、スタンフォード大マスランドら)が、1942年10月から43年6月にかけて行った対日方針策定に焦点をあわせ、主として「徳川時代の百姓一揆」で博士号をえた知日派ヒュー・ボートン→ブレイクスリー→バランタイン、グルーら穏健派外交官の「自由主義的改革に天皇制のマントを着せる」方向が戦後日本構想の基調となったとみなしている。

 その後の占領改革の実際から見ると、こうした方向が占領政策につながったのはその通りであるが、これは、第一に国務省の政策立案が本当にルーズベルト政権の対日政策の柱であったかどうか(今日のイラク戦争でもわかるように、国務省は大統領制であるアメリカの対外政策決定で、外交政策を独占しているわけではない)、第二に6名(途中交代があり45年まで9名)の専門家による極東班調査(中国・朝鮮政策も含む!)がどれだけ戦時政策に有効で影響力をもったのかは、改めて問われて良い。ましてや6人しか専門家のいない国務省極東担当(「32年テーゼ」を作ったコミンテルン極東部程度!)の分析で、日本専門家ボートンが朝鮮政策をも起案したことから「戦争に責任のあった日本が敵国にグルーをはじめとする知日派の存在を得た好運」「朝鮮国民がワシントンに理解者や代弁者を持ちえなかった不幸」を語るのは(上巻、244頁)、いかにNARAの国務省第一次資料を読み込んだ初めての本格的研究としても、暴論である。以下に詳述するが、OSS=RAは、全世界を全米から集めた最優秀の専門家900人で分析し、極東課だけで数十人が(日本経済なら各産業毎の緻密さで)所属し、無論「朝鮮」担当も置いていた。

 朝鮮についてのブルース・カミングス『朝鮮戦争の起源』や、宮崎章「アメリカの対朝鮮政策 1941−45年」(立教大学『史苑』41巻2号、1981年)を先駆とする日本における米国の朝鮮政策研究も、もっぱら公開国務省資料に依っている点では、不満が残る。中国については、ようやく画期的な博士論文 Maochun Yu, OSS in China: Prelude to Cold War, Yale UP 1997が現れたが、韓国でOSS(特にRA)の対朝鮮政策を検討した研究が現れているかどうか、ぜひ報告者は知りたいところである。

 後述するように、OSSの前身であるCOI(情報調整局)の1942年6月「日本計画」には、すでに「天皇を平和の象徴として利用する」戦略が明示されていた。わが国でこれを扱った山極晃・中村政則編『資料日本占領1 天皇制』(大月書店、1990年)の収録米国側資料も、国務省1942年11月19日付け「ホーンバックの極東課宛覚書」に始まる国務省中心であり、OSS=RA資料は44年7月28日の「皇居を爆撃すべきか」以下44年以降の3本が入っているのみである。中村教授の『象徴天皇制への道』(岩波新書、1989年)は、COIからOSS発足時に分離されたホワイト・プロパガンダ機関OWI(戦時情報局)のラインバーガー文書等を参照しているが、キャッツが詳しく論じた欧州戦線の事例に照らすと、アジア戦線でも、国務省やOWIの活動の認識枠組みや基本的方向付けは、OSS=RAで起案されたものの具体化と考えられる。

 

 5 OSS=RA極東課と1942年6月「日本計画」「ドラゴン計画」

 

 とはいっても、ワシントン郊外の国立公文書館(NARAII)まででかけても、OSS文書は膨大すぎて、全貌を把握するのは困難である。OSS資料中心と特定できるRG226自体が、膨大な未整理資料を無数のボックスに収めた巨大な山脈で、年代別にも地域別・問題別にも整理されていない。インターネットで「OSS」と検索すると、冒頭で述べたOpen Source Software 関連が圧倒的であり、NARAの資料索引でボックスに辿り着いても、そこに極東課関係資料があるかどうかは、開けてみなければわからない。ある程度整理され索引が付いているのは、マイクロフィルム136リールに収められた「ドノヴァン長官文書」1万8000ファイルであるが、1990年に作られたその資料集は、日本では一橋大学図書館と早稲田大学政経学部だけが所蔵し、そのFinding Aidは1000頁以上で、「極東」「日本」「朝鮮」のキーワードだけで数十リールの数百ファイルを探索しなければならない。

 したがって以下は、昨年夏・本年夏に別の研究目的でNARAを訪問した際、ヒマを見て集めたOSS関係文書と、帰国後一週間で「ドノヴァン文書」を試験的にチェックしてみつけた日本・朝鮮関係資料から引きだされる、暫定的試論であり、資料紹介である。メディア研究の山本武利教授が2年間のメリーランド大学留学とその後の頻繁な渡米でようやくMO文書中の対日ブラック・プロパガンダや米軍訪中団ディキシー・ミッション報告書(「延安レポート」)の構造を明らかにしえたように、日本の歴史学者が、それ自体を目的としてNARAに長期に滞在し、資料を系統的に収集・整理・分析することが望まれる。

 今回紹介する資料の第一は、1942年6月13日の0SS正式発足直前に作成された、COI(1941年7月11日発足)の1942年6月3日付け「日本計画」最終案、ダイジェスト3頁、本文32頁である。スティムソンの陸軍省(War Department)心理戦共同委員会議長ソルバート大佐からドノヴァンCOI長官への書簡付き報告書である。

そこではまず、政策目的を、

 
(1) 日本の軍事作戦に介入し日本のモラルを傷つける、
(2) 日本の戦争努力を弱めスローダウンさせる、
(3) 日本軍部の信用を落とし打倒する、
(4) 日本をその同盟国や中立国から引き裂く、
 

と明快に示し、その目的達成のための一般宣伝目標、特殊宣伝目標、作戦技術等が全面的に展開されている。

日本や韓国の研究者にとって重要なのは、そのダイジェスト版の「特殊な宣伝目標」に挙げられた、以下のような点であろう。

(b)特殊な条件を除き、日本への非難が日本の天皇の非難に立ち入ることを厳密に避けること、
(d)日本の天皇を(注意深く名前を挙げずに)平和のシンボルとして利用すること
(e)今日の軍部の政府に正統性がなく独断的であること、この政府がきまぐれに、天皇と皇室を含む日本のすべてを危険にさらした事実を指摘すること、
(g)我々が勝利した場合も、日本に戦後の繁栄と幸福を約束すること
(h)連合軍によって、アジアは軽視されておらず、我々の戦争目的[大西洋憲章]はアジアに適用され、国務次官が述べたように「帝国主義の時代は終わった」ということを示すこと、
(i)アメリカ、イギリス、オランダがアジアに残した記録は恥ずべき事ではないこと、フィリピンは連合軍に忠実であり、蒋介石司令官が述べたように、朝鮮にはガンジーがいないことを示すこと。 

以下の、「特別の慎重に扱うべき示唆点」も、気になるところであろう。

(II)天皇崇拝であっても、神道、宗教問題等は現在すべて避けるべきである、
(III)天皇についての、慎重なしかし粘り強い(ヒロヒトを名指さない)言及は奨励される、
(V)国内でも国外でも、アジアにおいて人種戦争を始めようとする日本の企てに機先を制するために、人種問題をすべての宣伝戦線でとりあげ戦うことは、緊要とみなされる、
 
 以下32頁に及ぶこれらの点での詳細な展開について、歴史学的に慎重な検討が必要になる。総じて、連合軍を帝国主義時代を脱しアジア諸民族を解放する「文明」として、日本軍を「文明からの逸脱」として描き、「象徴」天皇・民衆と軍部の間にくさびをうち軍部を孤立させようとする方向は明確である。朝鮮人や海外在住日本人は、国内急進派・知識人と共に「マイノリティ」として「潜在的に友好的なグループ」とされている。

 この日米開戦半年後の文書が、「天皇を平和の象徴として利用する」ことを明記したきわめて早い時期の公式文書であることは、これまでの中村政則氏の研究等から明らかと思われるが、OSS文書は、まだ研究上の未開拓領域であるから、さらに重要な文書がみつかる可能性がある。また、ノイマンやマルクーゼが重要な役割を果たした、OSS=RA=CES(中欧課)の対欧政策では、ドイツの戦後構想が機軸的役割を果たすのに対して、アジア戦線を扱う極東課では、この間発掘したいくつかの機構図・人員表からして、中国政策が主要な軸であり、対日政策はそれに従属し、朝鮮政策は中国政策にあわせて立てられている可能性が強い(OSSの対中政策関係の資料は対日・対朝鮮政策以上に膨大であり、Maochun Yu, OSS in ChinaもワシントンRA関係の分析は少なく、中国現地での米英ソ・毛蒋の秘密活動を扱う、この点は、旧ソ連・コミンテルンのアジア政策においても中国革命論が機軸で日本革命や朝鮮独立が副次的に扱われているのと似ている)。

さらに、これまでNARAで発掘し得たOSS=RA「極東課」資料を見る限り、キャッツが欧州戦線のOSS記録から見出した「亡命者・現地人の活用」が、アジアでは「手足」である諜報活動やモラル工作の実行部隊レベルが大半で(ジョー小出=鵜飼宣道はその対日作戦の中心的指導者・理論家)、アジア社会の構造や歴史を考察する「頭脳」である研究分析部(RA)スタッフには、アジア人名がほとんどみられない。わずかに、戦後の1946年1月RA極東課人員が国務省極東課に移管されるさいの記録に、日本政治研究アナリストとしてヤナガ・チトセ(戦後カリフォルニア大学バークレー校教授)と「サカウエ・ムネオ」(?)の名前、日本経済アナリストとしてロバート・サトウ、ジャネット・ヤスノブという二世らしい名前があるのみである。

なお、この1946年1月極東課リストは、日本の敗戦でOSS=RAスタッフの多くが現地の占領政策担当機関に配置替えされて後の国内残留組の国務省転属リストであり、その人員は1943−45年期にはこれ以上で(つまり中国・日本とも30人以上、朝鮮でも5人以上)、中国政策が優先され朝鮮はその中に組み込まれていたことが確認できる。亡命者・アジア人がRAに少ないのは、戦時中の在米日本人強制収容と同じように、枢軸国でも在米ドイツ人・イタリア人と在米アジア人を区別するアメリカ側の人種序列が、自ずと現れたものかもしれない。

この1942年6月「日本計画」立案を直接に担当したのは、誰であろうか。

ソルバート大佐はドノヴァンに対し、シェーウッド、ヘイドン、リーマー、マッカイというCOIボード・クラスの名前をドノヴァン配下の協力者として名前を挙げたが、そこには日本専門家の名はない。

発足当初のCOI=OSS=RA「極東課」について詳しい回想を残しているのは、ハーバード大歴史学部からランガーと一緒にCOIに移った中国研究者ジョン・K・ファアバンク博士である(『中国回想録』みすず書房、1994年)。フェアバンクは42年8月にはOSS重慶滞在員として中国に派遣されるが、「日本計画」については記していない。初期の極東専門家として、フィリピン副提督の経験を持つミシガン大学政治学部長ヘイドン、初代極東課長でミシガン大中国経済学者C・リーマー、それに中国担当の自分と日本担当のファーズの4人の名を挙げ、自分の前任の重慶駐在OSS代表としてエッソン・ゲイル博士がおり、42年6月のOSSへの転換までには、極東課は20人の課員と7人の非常勤顧問を擁するようになり、内8人が中国を担当していたという。

 Maochun Yu, OSS in Chinaで補足すると、この頃ドノヴァン=ランガーは、重慶駐在のゲイルを通じて、国務省の駐重慶ガウス大使を通さず、英国工作機関SOE、蒋介石側近の戴笠Tai Li機関、米軍の軍事顧問陸軍スティルウェル、空軍シェノーらとの提携を模索していた。そのためにワシントンでは中国戦線での「ドラゴン計画」を作成中で、42年6月までに立案し、それを8月にヘイドンとゲイルの後任駐在代表となるフェアバンクが重慶に持っていくという。「日本計画」にはふれていないが、後述の朝鮮人を諜報活動に動員する「オリビア計画」は、対中国「ドラゴン計画」の一環であったという。ただしYuは「ドラゴン計画」の内容には触れていない。1942年7月9日付OSS「日本計画」文書に「ドラゴン計画(Dragon Project)」とあるので、「日本計画」自体の「ドラゴン計画」への格上げ、ないし対中「ドラゴン計画」への挿入・組み込みも考えられる。

これらから、「日本計画」立案の中心は、当時のRA日本担当の中心チャールズ・B・ファーズと考えられる。

ファーズは、OSS改編時にRA極東課でリーマーの補佐であり、43年には極東課長になる(戦後ロックフェラー財団で日米文化交流の組織者、在日米国大使館文化アタッシュ)。ファーズは、国務省のボートンや陸軍のライシャワーと同期に日本の大学で日本研究の訓練を受け、また輝かしい学歴を持つ、当時の最優秀の日本政治研究者であった。1940年に「日本の政府」という書物をIPR(太平洋調査会)から出版しており、学生時代にはマルクス主義も学び、日本の歴史についてはE・H・ノーマン「日本における近代国家の成立」に依拠している(吉田右子「チャールズ・B.ファーズの生涯」『藤野幸雄先生古稀記念論文集:図書館情報学の創造的再構築』勉誠出版、2001年、ファーズの北大スラブ研究所設立への関与は、岩間徹「ファーズ博士のこと」『スラブ研究』20号、1975年、http://www.jpf.go.jp/j/others_j/award/kikinsho.html)。

 しかし、ファーズの博士論文は「日本の貴族院」であったが、処女作「日本の政府」は、不思議なことに、今日的に言えば日本政府の経済運営を政治経済学的に論じた書物で、天皇制分析は全くでてこない。ファーズ一人の力で、「日本計画」の原案を策定したとは思われない。COIのOSSへの改組時点であり、まだランガーら大御所的研究者を中心としたBoard of Analysisが若手研究者の組織化を進めている時点であることを考えると、「日本計画」に顧問的役割で影響を与えた、二人の日本研究者が考えられる。

 その一人は、ボードの若手で中欧課長、戦後はCIA調査課長となるイエールのシャーマン・ケントの歴史学の師であり同僚であった、朝河貫一の日本政治論・天皇論の影響である。当時イエール大学定年の年であった朝河貫一は、ケントに歴史学を講義し、家族ぐるみでつきあっていた。朝河貫一が、1941年12月の日本開戦時にルーズベルト大統領の天皇宛親書の下書きを書いたこと、それが真珠湾攻撃による開戦後に日本側に届いたことは、良く知られているが(阿部善雄『最期の日本人』岩波書店、2004年、朝河貫一書簡編集委員会『幻の米国大統領親書―歴史家朝河貫一の人物と思想 』 北樹出版、1989年)、そのルーズベルト親書が「日本計画」の9頁に出てくる。この頃のケント宛朝河書簡も発見されている(http://www8.big.or.jp/~yabukis/asakawa/news24.htm)。浅野豊美教授や矢吹晋教授の追いかけている朝河貫一とシャーマン・ケントの関係が、この「日本計画」に反映された可能性がある。無論、ハーバード大学歴史学部長だったRA部長ランガーにとっても、米国歴史学界で信頼しうる最高の日本研究者として、朝河貫一に協力を求めた可能性は強い。

 もうひとつ、ファーズの書物では、日本政治の立憲的性格は、ノースウェスト大学コールグローブ教授の研究で基礎づけられている。ファーズは学部・院ともノースウェスト大学出身で、コールグローブの愛弟子だった。コールグローブ教授は、1943−45年にOSSの日本問題顧問であったが、初期からファーズに助言していた可能性がある。「日本計画」に見られる立憲政治的天皇論は、東大で美濃部達吉に学び、蝋山政道と親しく交わったコールグローブの大日本帝国憲法論をもとにしている。この場合、コールグローブの庇護の元でノースウェスト大学に滞在していた大山郁夫も間接的にOSSの日本認識に影響を持ち、それは戦後日本国憲法制定時にコールグローブがマッカーサー政治顧問になることにより継続されたと考えられる(ノースウェスタン大コールグローブ・ペーパーズ、塩崎弘明『国際新秩序を求めて』第9章、九州大学出版会、1998年)。

 こうした具体的立案過程の検討・確定は、今後の課題である。

 

   6 「朝鮮にガンジーはいない」と対日朝鮮人工作「オリビア計画」

 

 「日本計画」ダイジェスト版には、朝鮮政策はほとんどでてこない。唯一の言及である「蒋介石司令官によれば、朝鮮にはガンジーはいない」は、当時の在重慶朝鮮臨時政府を、蒋介石は承認しようとしながら、米国は最後まで承認せず、象徴的指導者不在で解放運動が四分五裂している状況を示唆するものとも、日本向け宣伝であることを考えれば、朝鮮人はガンジーのような非暴力不服従運動ではなく武装反乱で日本から独立するだろうという警告のようにも読める。本文13頁のこの言葉の解説でも、米国側の真意ははっきりしない。ちょうど42年2月、蒋介石がルーズベルトの支援を受け、チャーチルに妨害されながらも秘かにインドを訪問し、ガンジーと民族自決の声明を発した直後のことである。

 良く知られているように、ルーズベルトの第二次世界大戦参戦には、門戸開放主義・大西洋憲章の太平洋版であるアジアにおける植民地解放、旧来型帝国主義からの脱却の理念が含まれていた。今日のグローバリズムにつながる「解放の代理人」認識には、スターリンの共産主義型民族解放闘争への対抗のみならず、連合軍のもう一方の雄であるイギリス・チャーチル首相との調整という難題が孕まれていた。最近邦訳されたR・オルドリッチ『日米英諜報機関の太平洋戦争』(光文社、2003年)が詳述したように、アジアでのOSSの活動がもっとも苦労したのは、植民地放棄を決断できないイギリスとの調整であった。結局それは、南アジアについてはチャーチルと妥協し、東南アジアについては独立運動を支援し、特に1943年以降、国際連盟型「委任統治」から連合軍(後の国連)による「信託統治」構想を示すことで、朝鮮半島や沖縄・奄美など南洋諸島の戦後に禍根を残すことになった。

 この点で、注目すべき朝鮮関係資料が、OSSドノヴァン文書中に含まれている。それも、「日本計画」との密接な関係において。1942年3月16日付けの「心理戦共同委員会 朝鮮における可能な活動」は、3月4日付け戦争計画部メモランダム、同日付け心理戦争計画、3月6日付「朝鮮人の対抗意識と関係者たち」から成り、この最後の文書には「朝鮮人には見せるな」という注釈がついている。これとは別に、3月21日付けで作成された書記名の心理戦共同委員会案「日本に対して朝鮮人を用いる提案」がある。前者では「日本計画」が言及されているから、時期的にいって6月の「日本計画」最終案策定へと連動した「朝鮮計画」であることが推定でき、かつ、1944年7月22日のOSSグッドフェロー大佐からドノヴァン長官宛手紙から、「1942年1月に遡るオリビア計画」と呼ばれたものではないかと推定できる。

 この頃のアメリカの対朝鮮政策は、朝鮮人自身の独立運動を信頼せず、重慶の金九らの朝鮮臨時政府とも、アメリカ在住の李承晩らのグループとも距離をおきながら、反日戦争に朝鮮人を連合軍側で引き込んでいく意向が、国務省文書から伺われる(カニンガム、李景眠『朝鮮現代史の岐路』平凡社、1996年の紹介する42年2月ラングドン報告書)。

 その内容的評価は、韓国の研究者の皆さんにお願いしたいが、資料を見いだしたものとして一言述べるとすれば、「朝鮮にガンジーがいない」という「日本計画」の引いた蒋介石の言葉は、やはり武装蜂起・反乱奨励の対日脅迫作戦としてよりも、朝鮮独立運動には確固としたリーダーが見あたらず、国外で亡命政府をつくり連合軍に加わったフランスのドゴールのようなかたちでは国外亡命の朝鮮臨時政府承認にはふみきれず、かといって日本国内の朝鮮人抵抗グループにも信頼をおけないという、「マイノリティとしての朝鮮人の軍事的利用」以上のものは見出しにくい。

 とはいえそれは、米国国務省の朝鮮関係文書分析からしばしば指摘される「無関心・軽視」とも異なると思われる。OSSは国務省とは異なり、中国・日本ほどではないにせよ、朝鮮の専門家も当然に加えていた。1943年6月14日付けランガーのドノヴァン宛手紙からは、その中心が当時カリフォルニア大学教授で朝鮮語の英語での表記法をエドウィン・ライシャワーと共に完成したG・M・マクーン博士(G.M.McCune)であることがわかる。44年11月の組織図では、極東課のファーズ課長、エドウィン・マーチン補佐のもとに、中国部マーティン・ウィルバー主任、日本部A・クラッケ主任が特定できるが、朝鮮・満州主任は空席になっている、先に日本についてみた1946年1月移管書類からは、朝鮮人アナリストも最低5人を下らなかったであろうこと、等々がわかる。

 1942年の「オリビア計画」については、「オリビア計画」そのものの内容紹介・分析はないが、Maochun Yu, OSS in Chinaが簡単に言及している。それによると、42年前半期重慶に駐在するOSS極東代表ゲイル博士Esson Galeが、実は近代朝鮮最初のキリスト教宣教師C.Galeを叔父とし、妻がソウル生まれのKorean hands(ラティモア、フェアバンクらの中国派China hands、グルーらの日本派Japan handsなど当時の米国極東関係者内の隠語)で、ワシントン特殊工作部(OSS=SO)のグッドフェロー大佐(M.P.Goodfellow,ワシントンでは李承晩に近い)、陸軍Morris B.DePass中佐と共に立案したものという。中国・満州・米国等国外在住の朝鮮人をカナダの諜報学校で訓練し、対日戦場に「英語を話せる外国人民間人をヘッドにして」送り込もうとする計画であったが、すでに重慶で朝鮮人を支配下においていた蒋介石の戴笠機関と衝突した。42年夏のゲイルの解任、ヘイドンとフェアバンクの重慶派遣は、「ドラゴン計画」中の「オリビア計画」で軋轢のあった重慶蒋介石政権との関係調整のためであったという(pp.18-27)。もっとも44年グッドフェロー大佐のドノヴァン宛手紙が示唆するように、計画は放棄されたわけではなく、OSS内の対朝鮮計画として温存された。今回紹介したドノヴァン文書中の資料は、この「オリビア計画」そのもの、ないし関連文書である可能性が強い。そして、このグッドフェロー大佐こそ、1945年10月李承晩帰国時に、彼を大統領にするため個人的に付き添い同行した、後の南北分断のアメリカ側仕掛け人であった(P.18)。

 以上からわかることは、「日本計画」も「オリビア計画」も米国OSSの対中「ドラゴン計画」に従属したものであり、戦後の日本占領計画・朝鮮独立政策等も、OSSのみならず国務省、陸海軍「極東」担当者たちの中で、蒋介石政権と毛沢東の国共合作の帰趨により左右されるものと認識されていたと考えられる。この点は、なぜか旧ソ連秘密文書の分析から浮かび上がる、中国革命の戦略に従属させられる日本共産主義運動、朝鮮解放運動と酷似している。ただし、この点の本格的解明は、報告者の射程外であり、本報告では、とりあえず「日本計画」期の朝鮮関係資料を提供するに留める。

 

  7 おわりに――再びOSSからOSSへ

 

 本報告の主旨は、日本史についても、韓国史についても、研究者が日本人であっても韓国人であってもそれ以外であっても、研究方法や視角が違っても、当事国以外にもある様々な第一次資料を用いて研究していけば、同一の情報基盤に立った学術討論と一定の共通理解が可能である、ということである。戦後アメリカの世界政策――新植民地主義とか覇権主義とか帝国とよばれ、今日のグローバリゼーションの基礎ともなっている――は、実は、米国戦略情報局研究分析部OSS=RAが、学問研究のこうした特性を利用し、戦時体制下でその成果を吸収しつくして立案し、戦後に展開したからこそ、ソ連の指導者の意に添わない情報は遮断し切り捨てる国家哲学強制型情報戦や、イギリスの伝統的な秘密主義的諜報戦に、勝利し得たのかもしれない。イラクの情報戦におけるアメリカの苦境は、CIAにおいてOSS=RAの伝統が枯渇し、旧ソ連型に硬直したためかもしれない。

 インターネットの広がる今日では、こうした研究ネットワークと情報共有は、年に一度の討論会や相互訪問を介せずとも、日常的に可能になってきた。それぞれの国で、しっかりした現代史データベースを世界に公開して共有しうる仕組みをつくることは、その第一歩となる。翻訳ソフトのOSS型開発と併行すれば、日韓現代史関係の共有アーカイブスも不可能ではないであろう。今日では、意見の対立を拡げることよりも、情報を共有してその解釈を競い合うことの方が、生産的なのである。 (了)

 

<追記> 当日の報告には、上記の「日本計画」「オリビア計画」の英文原文及び関連資料と、中西輝政「国家情報戦」(http://blog.livedoor.jp/strategy001/)の全文を「付録」として付したが、ここでは省略する。

「日本プラン」については、その後の解読によって、『世界』2004年12月号に「1942年6月米国『日本プラン』と象徴天皇制」を発表したので、これを報じた『東京新聞』『日経新聞』『サンケイ新聞』『京都新聞』ほか全国各紙及び英字新聞Japan Timesを参照されたい。訳文も、さらに厳密にしてある。これらはすべて、報告者の個人ホームページ「加藤哲郎のネチズン・カレッジ」(http://www.ff.iij4u.or.jp/~katote/Home.shtml)上で、html文書として公開されている。

「オリビア計画」を含む韓国におけるOSS研究の現状については、小林聡明「韓国におけるOSS研究と資料収集状況」『インテリジェンス』3号、2003年、参照。 



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