『一橋論叢』第130巻第4号(2003年10月号)所収
「21世紀の新しい『共産党宣言』」「ポストモダンの『資本論』」ともてはやされる話題の大著、欧米のベストセラーであるアントニオ・ネグリ=マイケル・ハート『帝国』(邦訳、以文社、2003年)には、「福祉国家」は、ほとんど出てこない 。注1
よく知られているように、彼らにとっては、もはや近代国民国家そのものが終焉し、「帝国主義」の時代も去って、脱中心的で脱領域的な「帝国」が生まれたことになっている。だから「福祉国家」は、近代のある時期に特定の領域で過渡的に成立した国家形態にすぎない。そもそも主権の所在が、グローバル資本主義のもとで、いまや国家から「帝国」に移行している。したがって福祉国家は、とりたてて問題にするほどの事象ではなくなる。
だが、邦訳には原書にはない「グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性」という副題が付されている。ネグリ=ハートが「帝国」支配の対極においたスピノザ風「マルチチュード」にとっては、どうであろうか?
ネグリ=ハートは、多種多様なマルチチュードを超越論的に一元化する「国民」「人民」への「主権」設定や、「階級」や「市民」への「主体」の還元に反対している。とはいえ、マルチチュードが現実世界で労働し生活する多様な存在であるならば、「福祉国家」のもとで公的に享受された医療や年金、子どもや女性、老人、障害者へのサーヴィスはどうなるのだろうか? マルチチュードをそれ自体として扱う「第4部 帝国の衰退と没落」終章「帝国に抗するマルチチュード」では、「帝国」という「非・場」からの「エクソダス(脱出)」が語られるが、具体的プロジェクトに挙げられているのは「グローバル市民権」と「社会賃金」という、むしろ福祉国家論の文脈で論じられてきた問題ではないか?
このような観点から、改めて『帝国』のテキストに内在してみると、「国民国家の終焉」についての壮大な論理と共に、「福祉国家」についての彼らなりの捉え方が、随所で展開されていることがわかる。以下では、『帝国』の論理にできるだけ忠実に、ネグリ=ハートの福祉国家観を解読し、評注を加えてみよう。
なお、筆者は、講演記録「マルチチュードは国境を越えるか」をはじめ、最近発表した論文のいくつかで、またインターネット個人ホームページ「ネチズン・カレッジ」上の発言で、本書に幾度か言及しているので、『帝国』全体の論理やその政治学的評価について関心のある方は、それらを参照して頂きたい 。注2
英語原書で478頁、邦訳では579頁に及ぶ浩瀚な書物『帝国』には、巻末索引がある。そこでは「福祉国家welfare state」が術語としては拾われているが、わずかに1箇所、第3部第4章「ポストモダン化、または生産の情報化」中の「コモンズ(Commons、邦訳では「共有のもの」)」における、以下のわかりにくい記述のみである。
上の文章から読みとれることは、ネグリ=ハートが「福祉国家の興隆と没落」を、「公共財を私的に再領有する」近代資本主義の流れ、20世紀資本主義におけるそのサイクルの中で位置づけていることである。これは、彼らのいう「構成的権力(Le pouvoir constituant)」 、すなわち、その源泉がマルチチュードの欲望や愛、抵抗にありながら、資本がそれを柔軟に組み込み制度化し、蓄積メカニズムに適合的な身体・情動を造形していくプロセスに照応する。注3 ニューディール型公共投資やヨーロッパ福祉国家も――かつての入会地や鉄道建設、今日のエネルギーやコミュニケーションと共に――原理的には「コモンズ」=「公的な資金によって構築されていた公的な補助と配分の構造」なのに、それが「私的な利益のために徴用されている」というのだ。これは、どういう意味であろうか?
このことは、索引には採られていない、他のわずかな箇所での福祉国家への言及から、ある程度は明らかになる。例えば、第1部第2章「生政治的生産」の「管理社会(the society of control)における生権力」での、次の言明である 。
ここでは「福祉のシステム」は、フーコー的な「規律社会」がドゥルーズ=ガダリのいう「管理社会」にまで展開した段階における、資本が頭脳と身体を直接的に支配するシステムの1環とされている。しかもその支配は、「社会的諸制度の構造化された場」=家族や国民国家の外にまで広がり、柔軟な「生権力(バイオパワー)」によって、分節的でネットワーク的に遂行されているというのだ。注4
このような含意は、20世紀「福祉国家」研究において、その歴史的形成の主要な担い手とされてきた社会民主主義や、21世紀「福祉社会」形成の最先端と期待されているNGO・NPOに対する、ネグリ=ハートの辛口の評価からも、裏付けられる。
社会民主主義の場合は、その「国民国家の全体主義」への包摂によって、弾劾される。
NGOの場合は、今日の『帝国』が君主制・貴族制・民主制型支配を併存させ使い分ける柔軟な支配であり、生権力がマルチチュードの欲望を汲み上げ吸収する民主制ネットワークの枠組みで、冷たくあしらわれる。
これでは、マルチチュードは、出口無しではないか?
だが、先にも見たとおり、「福祉国家」をもたらしたものも、もともとマルチチュードの共有する欲望=「コモンズ」であり、それが「私的に領有」されたのが問題だというのが、ネグリ=ハートの論点だった。この側面は、例えば次の1節で語られる。そこでは、ヨーロッパの福祉国家とアメリカ・ニューディールが、類型的に対比される。
しかし、ここでのヨーロッパ型福祉国家とアメリカ型ニュー・ディールは、第1次世界大戦後の資本の応答として共通しながらも、「帝国」への方向性は異なる。ネグリ=ハートは、「テーラー主義」「フォード主義」型生産と結びついたアメリカ型の恐慌脱出に、第2次世界大戦から今日の「帝国」に通じる、普遍的な道を見出す。対するヨーロッパ福祉国家は、パターナリズムと帝国主義が結びついた古い型とされる。実際、彼らが集中的に「福祉国家」を扱っているのは、「索引」では出てこない第3部第2章「規律的統治性」の、「世界のためのニューディール」の項である。
ここで否定的文脈で語られているように、ネグリ=ハートにとっては、ヨーロッパ福祉国家は「公的扶助と帝国主義的動機を混ぜ合わせた経済的・政治的諸政策」で、この「公的扶助」は「近代化・保護主義・パターナリズム」な国民統合とされる(邦訳322頁)。
対するアメリカ合衆国のニューディールは、「労働の組織化におけるテーラー主義」「賃金体制におけるフォード主義」「社会のマクロ的調整におけるケインズ主義」を基礎に、多種多様な社会的諸力をリベラルでポピュリスト的な「大規模な参加を伴う規律の体制」に動員しえた点で、ヨーロッパとは区別されるという。
これは、現代福祉国家研究の定番とされるエスピン・アンデルセンの3類型モデルとの対比でいえば、ヨーロッパ大陸型の「保守主義モデル」よりアングロサクソンの「自由主義モデル」に生命力を見出したことになる。 しかし、あまりにも大雑把かつ経済還元主義的で、北欧型「社会民主主義モデル」を全く無視しているため、福祉国家の実証的研究には、ほとんど役に立たない。注5
ネグリ=ハートは、第2次世界大戦後の「福祉国家」を、ブレトン=ウッズ体制を通じてのアメリカ型モデルの世界化だとする 。
つまり、第2次世界大戦後の「帝国主義」には、「3つの仕組み」が作用した。第1に新植民地主義とベトナム戦争、第2に多国籍企業とグローバル生産分業、そして第3が福祉国家をビルトインした国際関係で、「規律社会から管理社会へ」の転換とされる。
ただし、旧植民地・従属諸国では「福祉国家」はイデオロギーとしてのみ広がり、冷戦体制下の旧ソ連・東欧等現存した社会主義諸国も、基本的にはこのモデルに従ったという。
「フォード主義を特徴づける高賃金の体制と福祉国家を特徴づける広範な社会的扶助は、従属的な資本主義国家においてはたんに断片的なかたちでしか、また限られた住民のためにしか実現されなかったのである。もっとも、じっさいにはこれは全面的に実現されるには及ばなかったのだが。なぜなら、その実現をたんに約束することの方が、近代化のプロジェクトについての十分な合意を確保するためのイデオロギー的な説得手段としてはかえって効を奏したからである。……社会主義国家の指導者たちは、このような規律的プロジェクトに実質的に同意した。テーラー主義に対するレーニンの有名な熱狂は、のちに毛沢東の近代化プロジェクトによって追い抜かれることになった」(p.248,322ー323頁)
しかし、ネグリ=ハートによると、このようなシステムは、1968年以降、新たな変容を迎える。それが冒頭でみた、ケインズ主義的福祉国家の新自由主義的再編、「コモンズの再私有化」である。それを産み出したのは、労働者の闘争と労働組合の特権化だった。
ただしこの「逆転」――福祉国家の危機と没落――も、資本による一方的な支配強化ではなく、むしろマルチチュードの主体的抵抗に対する資本の応答だった。
かくして「非物質的労働」が支配的になる「ポスト・フォーディズム」の時代、「ポストモダン化、または生産の情報化」が到来する。ここでの「非物質的労働」とは、(1)コミュニケーション労働、(2)情動労働、(3)相互労働・協働である。
こうして資本による身体・情動の管理統制は、マルチチュードの欲望や愛情、家族やボランティアの善意や介護サービスをも生政治的に支配し、福祉国家の崩壊をも資本蓄積の一源泉として、「帝国主義」を超えた「帝国」の段階に達する。注6
総括的にいえば、ネグリ=ハートの福祉国家観は、次のようなものである。
ネグリ=ハートは、なお現存する福祉国家を「国民国家の頑迷さのしるし」とまでいう。
こうした論理から明らかなように、彼らの福祉国家についての理解は、フーコー=ドゥルーズ的権力論から、「テーラー主義」と「フォード主義」を経済的基礎にしたケインズ主義的福祉国家を分析し、その危機と崩壊の基底に、生産過程における「ポスト・フォード主義」「情報資本主義」の出現とそのグローバル化を見るものである。「帝国」の生政治的権力のネットワーク型支配は、それを深部で規定するマルチチュードの欲望やコミュニケーションを、資本が「再私有化」することでもたらされたものとされる。
20世紀後半の政治経済学の流れを学んだ人ならば、ネグリ=ハートの論理から、レギュラシオン理論の「フォード主義からポスト・フォード主義へ」を想起するであろう。実際、彼らの「フォード主義」時代の説明は、M・アグリエッタやA・リピエッツ、R・ボワイエらの分析を「アメリカ対ヨーロッパ」風に類型化し、レギュラシオニストの1部がバブル経済期の日本に危機からの脱出口を見いだそうとしたものを、冷戦崩壊後のアメリカに「ポスト・フォーディズム」の範型を見いだし、レギュラシオン理論の1国主義的分析を世界化して「グローバル・レギュラシオン」の完成態として描きだしたものである 。注7
ただし、レギュラシオン学派とネグリ=ハートには、問題設定のズレがみられる。レギュラシオニストが高度経済成長期の国民経済に焦点を合わせ、賃労働関係、貨幣・信用形態、競争形態、国家形態、国際体制への3入形態という制度的諸形態の分析を媒介にして、調整様式・蓄積体制の動態を論じたのに対し、ネグリ=ハートは、「フォード主義の終焉」を前提にして、「ポスト・フォード主義」の典型をアメリカのIT革命・情報ハイウェイとその国境を越えた展開に見ている。しかもその「グローバル・レギュラシオン」は、「アメリカ帝国主義」ではなく、国民国家や多国籍企業をも超越した脱領域的で脱中心的な資本のネットワークだというのだ。
そのため、レギュラシオニストの一部(B・コリアら)から、バブル経済期に「ポスト・フォード主義」の模範とされた日本型経済システムは 、ネグリ=ハートにおいては、トヨタのカンバン・システムが「情報経済」への移行における生産とコミュニケーションの端緒的な結合事例として一言されるにすぎない(邦訳374頁)。それは無論、バブル経済期のレギュラシオニストとは異なり、日本経済が「失われた十年」へと歴史的に退却したのを見届けてのことではあるが、そればかりではなさそうである。
レギュラシオン学派がP・ブルデューの「ハビトュス」概念から示唆され用いた「労働ノルム」「消費ノルム」について、ネグリ=ハートは、生産のコンピュータ化・情報化によって、「非物質的労働」であるコミュニケーション労働、情動労働、相互労働・協働がいまや「人間の労働力1般の支出として、つまり抽象的労働として均質な仕方で把えられるようになった」ために(邦訳376ー377頁)、シンボル操作や情報ネットワークがそれ自体として価値を産み出し、「工業経済から情報経済への移行」(邦訳379頁)が決定的になったと認識する。それが、医師の治療からボランティアの介護、対人関係における愛情表現や微笑サービスまでを含む「福祉の再私有化」の根底にある構造的変化となる。注8
そのため、いまや「工業経済」において「世界の工場」となった中国経済は、彼らの分析では全くスキップされ、そもそも壮大な「帝国」概念の提起にあたっても、もっぱら古代ローマ帝国が参照されて、アジアの中国型「帝国」システムは視野に入らない 。注9
ここで想起されるのは、M・アグリエッタらが「フォード主義」的レギュラシオン様式を戦後資本主義の好循環の秘密として見出したさいの「導きの糸」であった、イタリアの反ファシズム思想家アントニオ・グラムシの「アメリカニズムとフォーディズム」分析、とりわけ「ヘゲモニーは工場から生まれる」という、よく知られた命題である 。注10
ネグリは、同国人の革命思想家として、『帝国』でもグラムシに敬意を払っている(邦訳304、477頁など)。だが、ネグリによるグラムシの明示的3照が世界市場におけるアメリカのヘゲモニーにあるのとは裏腹に、彼らが論理的に下敷きにしたのは、『帝国』では簡単にしか触れられない、グラムシのフォード主義分析における労働規律と労働者生活の変容、その生政治的読み替えであったように思われる。ネグリはいわば、グラムシの「ヘゲモニーは工場から生まれる」というテーゼを、「ヘゲモニーは情報から生まれる」と読み替えたのである。
この点で、わが国のグラムシ研究者松田博の最近の論文が興味深い。松田は、時にグラムシにおける経済還元主義の残滓として批判される「ヘゲモニーは工場から生まれる」という命題が、イタリア語『獄中ノート』原典の「ヘゲモニー(Lユegemonia)」の定冠詞を無視した誤読・誤訳にもとづくもので、その含意は、29年恐慌以前のアメリカではフォード主義的「構造=工場」が政治的・イデオロギー的「上部構造」を直接的に規定し「ヘゲモニーの根本問題は未だ提起されていない」のに対し、イタリアを含むヨーロッパでは、伝統的蓄積様式が近代化・合理化の足かせになって「ヘゲモニーの根本問題」が「構造=工場」からではなく「上部構造」次元で提起されざるをえないという意味だったという 。注11
どうやら2人のアントニオ──共に獄中で思索したグラムシとネグリ──は、スピノザーマルクスーニーチェの流れが顕著な『帝国』全体の論理から受ける印象とは違って、意外に近くにいるようである。第1に、権力論を基底に資本主義とヘゲモニーを見る構造的視点において。第2に、最新の生産技術から労働規律・生活規律の変容に注目し、諸個人の身体的・情動的様態から政治的脱出口を考える変革的思考と知的情熱において。
だが、方法的な分岐もあるように思われる。サバルタンに耳を傾けるグラムシが、思索の断片を具体的・歴史的事例に即して中範囲に展開するのに対し、同じく獄中での思考を文章にしながら、弁証法を言葉の上で否定するネグリの方が、ヘーゲル倫理国家風の「帝国」を全地球的完成態に祭り上げ、福祉国家のような国家形態の差異やNGOに潜在するマルチチュードの抵抗の現存を軽視しがちであるように思われる。いわば、断片的思考を多様で重層的なノートとして残したグラムシの方が、マルチチュードに多様な解放の道筋を示唆し、後世に開かれた思考のスペース──知的公共空間──を与えてくれるように思われる。とりわけなお福祉国家を「頑迷に」求める、地球的弱者サバルタンにとっては。
この点について、筆者は、グラムシが第1次世界大戦の国民戦化・総力戦化を政治的力関係の世界に置きかえた「機動戦から陣地戦へ」になぞらえて、冷戦崩壊・湾岸戦争以降の戦争様態の変容に伴う政治の位相変化を、「陣地戦から情報戦へ」と見なすべきだと主張してきた。ただしそのさい、グラムシが陣地戦の時代にも機動戦が無効になるのではなく副次的になるとしたのにならい、「情報戦の時代」にあっても、陣地戦や機動戦はなくなるのではなく、情報に媒介されて副次的になると論じた 。注12
こうした重層的な接合の論理からすれば、「工業経済」も「情報経済」に置き換えられるのではなく、位相を転換して併存し、「帝国」の出現も、国民国家や国際諸組織・国際法とせめぎあいつつ、「主権」概念自体がたえず再審される。「福祉国家の頑迷さ」は、マルチチュードの引き続く抵抗を意味し、その帰趨はなお決してはいない。従って、ネグリ=ハートが処方箋にした「グローバル市民権」や「社会賃金」も、彼らが黙殺した北欧福祉国家の「社会民主主義モデル」における実験に、脱出口が見出しうるかもしれない。
経済のグローバル化に「帝国」出現を見出す前に、「福祉国家の終焉」テーゼこそ、先ず再審さるべきと思われる。事実その種の研究も、多数現れている 。注13 福祉国家の研究は、ネグリ=ハートを否定的媒介として、なお=u第3の道」「ワークフェア」からNGO・NPO、グローバル市民社会やグローバル・ガバナンスの領域に執着すべきなのである。
2. 加藤哲郎「マルチチュードは国境を越えるか?――政治学から『帝国』を読む」『情況』2003年6月号、短評は「歴史書の棚」『エコノミスト』2003年6月3日号、その他、加藤「現代資本主義を読み解くブックガイド」『エコノミスト』2002年11月26日号、「反ダボス会議のグローバリズム」『エコノミスト』2003年5月13日号、「情報戦時代の世界平和運動」『世界』2003年6月緊急増刊号、「情報戦時代の『帝国』アメリカ包囲網――インドで『世界社会フォーラム』を考える」『葦牙』第29号、2003年7月、「グローバル情報戦時代の戦争と平和ムムネグリ=ハート『帝国』に裏返しの世界政府を見る」日本平和学会『平和研究』第28号、近刊、など。インターネット上では「加藤哲郎のネチズン・カレッジ」http://www.ff.iij4u.or.jp/~katote/Home.shtml、参照。
3. この点について、より詳しくは、ネグリ『構成的権力』松籟社、1999年、ネグリ『生政治的自伝』作品社、2003年。その他『帝国』については、『現代思想』1998年3月、2001年7月、2003年2月、『情況』2003年6月のネグリ及び『帝国』特集、中山元「ハート/ネグリの『帝国』を読む」http://www.nakayama.org/polylogos/empire.html、等参照。
4. 邦訳42頁の注4にも、「多くの思想家がこの線にそってフーコーのあとを追い、福祉国家を問題化することに成功してきた」とある(邦訳568頁)。なお、A.Heller & S.P.Riekmann eds., Biopolitics: The Politics of the Body, Race and Nature, Avwbury 1996.
5. G・エスピン・アンデルセン『福祉資本主義の三つの世界』ミネルヴァ書房、2001年、岡沢憲芙・宮本太郎編『比較福祉国家論』法律文化社、1997年、参照。
6. この「帝国主義」を超えた「帝国」の出現が、ネグリ=ハートの最重要な問題提起の1つである。この点については、最近の「グローバリゼーション」研究とつきあわせる必要がある。筆者自身は、「国民国家のゆらぎ」のもとでのグローバル、リージョナル、ナショナル、ローカル・レベルのガバナンスを問題にする、D・ヘルドの立場に近い。A. Brewer, Marxist Theories of Imperialism, Routledge, 1992. D.Daniele & D.Held, Cosmopolitan Democracy, Polity, 1995. D.Held, Democracy and the Global Order,Polity, 1995(『デモクラシーと世界秩序』NTT出版、2002年)、 D.Held ed., A Globalizing World?, Polity, 2000(『グローバル化とは何か』法律文化社、2002年)、D.Held & A. McGrew eds., The Global Transformations Reader, Polity, 2000. D.Held & A.McGrew, Globalization/Anti-Globalization, Polity 2002. A. Giddens, Runaway World, Profile Books, 1999(『暴走する世界』ダイヤモンド、2001年)、 H.F. Dahms ed., Transformations of Capitalism,NYUP, 2000. P.Hirst & G.Thomson, Globalization in Question, Polity, 1999. W.F.Fisher & T.Ponniah eds., Another World is Possible, Zed Books, 2003. 藤原帰1『デモクラシーの帝国』岩波新書、2002年、伊豫谷登士翁『グローバリゼーションとは何か』平凡社、2002年、加藤哲郎『20世紀を超えて』花伝社、2001年、同『国境を越えるユートピア』平凡社、2002年、など参照。
7. ネグリ=ハート自身、邦訳316頁注6でアグリエッタを引きつつ、「近代福祉国家を構成する三位一体」を説明する「支配的見解」と認めている(邦訳536頁3照)。なお、山田鋭夫『レギュラシオン・アプローチ』藤原書店、1991年、同『レギュラシオン理論』講談社現代新書、1993年、M・アグリエッタ『資本主義のレギュラシオン理論〔増補新版〕』大村書店、2000年、A・リピエッツ『奇跡と幻影』新評論、1987年、山田鋭夫=R・ボワイエ編『戦後日本資本主義』藤原書店、1999年、など3照。
8. B・コリア『逆転の思考』藤原書店、1992年。筆者はこうした日本資本主義の位置づけに反対し、国際論争を組織して英和両文で公刊した。加藤哲郎=ロブ・スティーヴン共編著『国際論争 日本型経営はポスト・フォーディズムか?[英和両版]』窓社、1993年。Tetsuro Kato & Rob Steven, 'Is Japanese Capitalism Post-Fordist?', in Johann P. Arnason & Yoshio Sugimoto eds., Japanese Encounters With Postmodernity, Kegen Paul International, 1995. Tetsuro Kato, Japanese Regulation and Governance in Restructuring: Ten Years after the 'Post-fordist Japan' Debate, メHitotsubashi Journal of Social Studiesモ, Vol. 34, No.1, Tokyo, July 2002.
9. このことは、邦訳7頁の注2で、M・デュヴェルジェを引きつつ明言されている(邦訳572頁)。
10. アントニオ・グラムシ「アメリカニズムとフォーディズム」デイヴィド・フォーガチ編『グラムシ・リーダー』御茶ノ水書房、1995年、第9章。
11. 松田博「「グラムシ像の『争点』探訪(1)ムム『ヘゲモニー=工場発生論』の再審」『季刊・唯物論研究』第84号、2003年。なお、松田『グラムシ研究の新展開』御茶の水書房、2003年、をも参照。
12. 加藤前掲『20世紀を超えて』序章、これは、直前に97歳で没した石堂清倫の遺著『20世紀の意味』平凡社。2002年、への筆者なりの追悼であり応答である。
13. 宮本太郎編『福祉国家再編の政治』ミネルヴァ書房、2002年、など参照。