一橋大学広報誌『HQ』第10号(2006年冬)掲載エッセイ

 

「群れる」マルチチュード

 

加藤 哲郎           

 


 強いものに対する弱いもの、情報共有にもとづく集団行動

 

 「群れる」を政治学で解け、なんてHQもいいセンスしてますね。若者コトバには「ジョナる」とか「ロイホる」とか類語があるらしいけど、一橋大学の学生も「バーミる」とか「マクドなる」なんて使うんでしょうか。たぶん私の政治学のウェブサイト「ネチズン・カレッジ」に「群れ」てる累計80万人の生態観察をもとに論ぜよ、ということでしょうが、まずは今風レポート作成の定番Googleにキーワードを入れて、巷=「世間」の使用法を探ってみましょう。

 「群れる鮎」「群れる鯨」と、どうやら動物学用語だな、と見当がつく。でも「ハマナス群れる」と植物にも使われるし、「女性はなぜ群れる?」なんてジェンダー・バイアス丸出しのサイトもある。NHKブックスで『群れる・離れるの動物学』という本があるので、学術用語の方はわかる。文化人類学や社会学の得意な分野のようだ。森崎茂さんという方が、「人間はなぜ群れるか」と、マルクス「類的存在」論、フーコー『性の歴史』、吉本隆明「大衆」論などを使って哲学しているあたりが、おそらくHQの狙い目なんだろう。

 でも「阿修羅」や「2ちゃんねる」掲示板には、「群れる」について群れ語り合う若者たちがいる。こちらの方が本筋だろう。傍証は多いが確たる実証が乏しい仮説では、2005年9・11総選挙で「小泉劇場」を盛り上げ、投票率を押し上げ、政府与党に3分の2の議席を与えたのは、こうした「群れる」若者たちだ、となっているのだから。

 ある心理学BBSの「女子は何故群れるのか」の論題設定と討論が、ジェンダー・バイアスや血液型決定論を捨象すると、案外問題に迫っている。そこでは、女性は男性より「弱い」と根拠もなく断定したうえで、「群れる」を、「集団をつくる」「情報を共有する」という意味で語り、反対語に「一匹狼の男」を持ってくる。つまり「群れる=強いものに対する弱いものの、情報共有にもとづく集団行動」というイメージを、あまり論理的ではないが、直観的に掴んでいる。

 

「多衆=烏合の衆」こそ、「群れる」のイメージにふさわしい

 ここまでくれば、政治学の出番で、得意技はいっぱいある。まずは国家(政府)と個人の間に「集団」「中間団体」をおく多元主義の「集団政治」論。アメリカ政治学では20世紀にベントリー、トルーマンあたりで「利益集団」「圧力団体」論になるが、ヘーゲル、マルクスからグラムシのヨーロッパ風「政治社会(国家)と市民社会」「機動戦から陣地戦へ」「有機的知識人」論の流れもある。リップマンの「世論」からハーバーマスのコミュニケーション論の流れも使える。ハーバーマスの出自で、「人々はなぜヒットラーに従うのか」を切実に探求したフランクフルト学派には、ノイマン『ビヒモス』、フロム『自由からの逃走』、ベンヤミン『複製技術時代の芸術作品』の「礼拝的価値から展示的価値へ」「アウラの凋落」など小気味よい斬り口満載で、アドルノ、ホルクハイマー、マルクーゼらの著作もある。「大衆社会」論なら、アメリカのコーンハウザー『大衆社会の政治』、リースマン『孤独な群衆』、それに日本の松下圭一の議論も、政治学のスタンダードだ。社会学には、集合行為論、資源動員論、新しい社会運動論があるし、公共政策の合理的選択論だって、ゲームの理論を使って集合行為を解き明かす。

 だが、「群れる」のニュアンスは、「砂のような大衆」の受動的イメージだけではない。「小泉劇場に喝采する大衆」=ポピュリズムにつながる、アモルフォス(amorphous無定形)な潜在力がある。英語でいえば、マス(mass大衆)でもピープル(people人々)でもない。クラウド(crowd)やモッブ(mob)のイメージだ。両者とも「群衆」と訳されるが、後者には「暴徒」の意味が加わる。

 戦前日本の戸坂潤という哲学者は、「科学の大衆化」という有名な論文で、「烏合の衆」にあたる「多衆」がいかに自覚的な「大衆」になるかを、組織者の視点から論じた。この「多衆=烏合の衆」こそ、「群れる」にふさわしいだろう。「烏合の衆」は、「大衆」や「民衆」「人々」に成る前に、原初的な「群衆」「暴徒」でありうる。ロックの「社会契約」やルソーの「一般意志」など遠いユートピアで、ホッブス「万人の万人に対する闘争」の自然状態から、リアルに「市民社会」を眺める視座だ。しかも支配する側には、危なっかしい「群れる」「群がる」への、ある種の「懼れ」がある。群衆の無定形なエネルギーが爆発して「暴徒」と化したらどうなるか、暴力やテロの吹き荒れる無秩序・無政府状態(アノミーanomie、アナーキーanarchy)ではないか。だから支配者は、「市民」「国民」までいかずとも、せめて「大衆」「庶民」として規律訓練し、羊飼いに従順な家畜の群れであってほしいと願う。

 

「群れる」という動詞の潜在力を汲み上げようとした、一橋大学の伝統

 日本政治学会の1999年年報『20世紀の政治学』の巻頭論文で、フーコーに示唆された杉田敦は、政治学という学問の始源に、この「動物飼育術」をおく。だから、「近代国民国家」という牧場から勝手に逃れる「ノマド」「ディアスポラ」「亡命者」も、外から闖入する「移民、難民、外国人労働者」「異邦人」も、「国民国家」にとっては悩ましい訓育と統治の対象になる。グローバリゼーションは、モノやカネばかりでなく、ヒトや情報の国境を越えた移動につながる。「群れる」烏合の衆は、「自己利益で行動する近代的個人」という新自由主義や合理的選択論、マルクス主義の大前提をつきくずし、「自立した諸個人」が構築する「市民社会」も、「階級的集団利益」に立脚する「階級闘争」をも、二つながら無効にしかねない。

 この「群れる」という動詞の潜在力を敢えて汲み上げようとしたのが、一橋大学社会学部の一つの伝統である。故良知力教授の『向う岸からの世界史』『青きドナウの乱痴気』という社会思想史の古典であり、今でも健筆を振るう安丸良夫名誉教授の『日本の近代化と民衆思想』『一揆・監獄・コスモロジ−』『出口なお』といった一連の著作の通奏低音である。やや秩序化・集団化の進んだ名詞「群れ」も、故佐々木潤之介教授の『世直し』『百姓一揆と打ちこわし』や阿部謹也元学長の『「世間」とは何か』等の社会史研究で語られ、20世紀日本の社会科学に一時代を築いた。一橋大学の学生諸君は、ぜひとも「群れる」前に学んでほしい。

 

「多様な運動の一つの運動」のために群れる、マルチチュードという解釈

 だが、こうした「群れる」世界に新たな生命を吹き込んだという意味では、現代世界の『帝国』支配に、敢えて「クラウド」でも「モッブ」でもなく、スピノザから「マルチチュード」を抽出して対置した、アントニオ・ネグリを挙げるべきだろう。いわば21世紀の「群れる」教祖である。「マルチチュード(multitude)」は、英語の辞書に「多数」「大衆・庶民」と出てくる普通名詞である。私は「ネチズン・カレッジ」に入っている「マルチチュードは国境を越えるか? 」という論文で、日本語では戸坂潤の「烏合の衆」が一番近いと論じた。パリ在住のネグリと、東京日仏学院のインターネット・テレビで直接討論する機会があり、彼の言う「生政治」にいくつか疑問をぶつけたが、ネグリはその後『マルチチュード』というNHKブックスの2巻本で詳しく展開している。もともと「マルチチュード」は、ヨーロッパ近代の始まりには「ふつうの人々」の日常語だった。ロックの場合は「神を信じない」「やっかいな群れ」への「懼れ」があったようだ。だからいったん「マルチチュード」を社会契約の主体から排除し、やがて取り込み訓育しようとした。

 そのネグリが、「現代のマルチチュード」とよんだのが、世界社会フォーラム(World Social Forum, WSF)である。「もうひとつの世界は可能だ」を掲げて、2001年から世界の民衆社会の「多様な運動の一つの運動」「多様なネットワークの一つのネットワーク」を創出し、「群れて」きた。これには相方がある。すでに長い歴史を持つグローバル・エリートたちの「群れ」、世界経済フォーラム(World Economic Forum, WEF)である。世界経済フォーラムが、毎年真冬の1月末に世界の政治・経済・学問のVIPがスイス山中の高級ホテルに閉じこもってグローバルな世界秩序のあり方を討議するのにならい、世界社会フォーラムは、毎年同じ時期に、地球の反対側の真夏のブラジル・ポルトアレグレのオープン・スペースで、世界のNGO・NPO・社会運動・労働運動・女性運動・少数者運動が「群れ」集う。いわば「群衆の祝祭」だが、グローバリゼーションがもたらす地球的弱者への深刻な問題と世界の戦争と平和を討議し、さまざまな地球的提言を行っている。その内容は、一橋大学の大学院生たちが翻訳した二つの書物、私の監訳したフィッシャー=ポニア編『もうひとつの世界は可能だ』(日本経済評論社)と、ジャイ・センほか編『帝国への挑戦』(作品社)で、詳しく読むことができる。

 「群れる」のは、悪いことではない。だいたい「世界」自体、有史以来人類という地球上の動物が「群れて」想像し、構築してきたものだ。この百年で15億から64億へ4倍増という、他の動物たちと生態系にとっては、はなはだ迷惑な「群れ」だが。

 問題は、「群れかた」だ。渋谷の路上のリアルな「群れ」であれ、2チャンネル上のヴァーチャルな「群れ」であれ、それらを規律訓練し、あわよくば「動員」しようという力が、常に働いている。その見えない権力を可視化するために「群れる」のなら、一橋大学にはゼミナールという格好の「群れ場」がある。日本一の「既成知の群れ」図書館と共に、大いに活用してほしい。           

  (社会学研究科教授、政治学)


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