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ドメニク・メーダ著(若森章孝・若森文子訳)

『労働社会の終焉』

(法政大学出版局、2000年)

 

評者 加藤哲郎(一橋大学大学院社会学研究科教授・政治学) 

 


 毎年夏になると、日本の労働者の余暇の貧しさが話題になる。夏期休暇はせいぜい一週間で、フランス・ドイツのバカンスにはほど遠い。なぜ人は、そんなにまでして労働するのか? 本書『労働社会の終焉』は、労働基軸の社会は歴史的で、一九世紀に確立された神話にすぎない、と主張する。その問いはミヒャエル・エンデ『エンデの遺言──根源からお金を問うこと』(NHK出版)と共通し、二一世紀への新たな共同性を求めている。著者はフランス労働社会問題省の調査統計研究主任で、政府の社会政策策定の要職にあるという。うらやましい話である。こんな原理的思考で、ラディカルに労働の意味を問い、その思想を実践しようという女性が、政策決定に加わっているのだから。

 原題は「労働──滅びゆく価値」で、日本語訳は「経済学に挑む政治哲学」と副題されている。「日本語版への序文」でもあれば、きっと日本の過労死や過労自殺を、第一章「労働社会の今日的パラドクス」の典型として挙げただろう。残念ながらそれはないが、「労働が発明される以前の社会」「労働の発明」「人間の本質としての労働?」「労働の解放から完全雇用へ?」「労働解放のユートピア?」「労働は社会的きずなか?」「経済学批判」「政治学の復権──契約主義からの脱出」「労働を魔術から解放する」と続く諸章で、「労働こそ人間の本質で社会的きずなの基礎」「生産と消費を扱う経済学こそ社会科学の中心」とする二〇世紀的常識を徹底的に批判し、共通善を追求する公共政治の復権を説く。「エルゴロジー(働態)の政治学」を提唱する評者としては、我が意を得たりである。

 アダム・スミスからマルクス、ウェーバー、ケインズ、ロールズに至る諸潮流を、アリストテレスからアレント、ハーバーマス、ゴルツにいたる「脱労働=活動」の視点で相対化する歴史的分析は、鮮やかである。評者等も進めてきたように、サーリンズらの経済人類学に依拠して非労働中心社会を析出し、労働・仕事・活動のアレント風理解から「労働の発明」による近代の問題性を説く。「契約主義からの脱出」を論じるさいに、経済学の前提する「不信感に基づく契約」と政治学の「信頼に基づく社会契約」の本質的矛盾を説く手法は、新鮮である。著者自身は、社会契約説自体を根本的に批判しているが。

 終章の国家論は、ちょっと寂しい。本書の続編『豊かさとは何か』では、GDP中心主義が批判され「社会の文明化」が説かれるというが、共通善や公共性を国家概念の復興で説くよりは、「ガバナンス」概念でも使って、もっとローカルにもグローバルにも展開してほしかった。本書をエンデ『モモ』や『エンデの遺言』とあわせて読むと、共同性に依拠した地域通貨や自由時間の活動の具体的イメージが育まれ、「労働の魔術からの解放」はいっそう促進されるだろう。

 もっとも分厚い本書をじっくり読む時間を獲得することが、労働が身体化し物神崇拝されるこの国では、さしあたりの課題で解毒剤なのであるが。

(『週刊エコノミスト』2000年9月5日号に掲載)



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