おことわり: この文章は、『文藝春秋』2004年6月号に加藤哲郎「『野坂参三・毛沢東・蒋介石』往復書簡」として発表された資料紹介論文の、インターネット版です。文藝春秋社の許可を得て、月刊雑誌の発売終了後に、インターネット上でも発表するものです。雑誌の主旨である日本語訳往復書簡資料全文発表に加えて、雑誌では短縮せざるをえなかった資料発見の事情や解読上の意味について、やや詳しく展開されています。ただし、学術論文等で引用する場合は、『文藝春秋』6月号誌上の活字版の方を、必ずご利用下さい。なお、この資料発見は、二〇〇四年二月一二日に東京新聞など共同通信から「天皇制早期廃止に消極的 野坂氏に毛主席が書簡」と配信され、二月一八日に朝日新聞で「毛沢東の直筆手紙発見 天皇制なくせぬ、野坂参三氏あて」と報道され、「ジャパン・タイムズ」や「中文導報」等でも大きく報じられでいます。、
その時代に、中国共産党の毛沢東と国民党蒋介石の双方に近づき、戦後日本の改革構想を示して、「日本人民代表」の認知を受けようとした日本人がいた。日本共産党の指導者野坂参三である。
連合国のヤルタ会談からポツダム宣言への時期、野坂は毛沢東に、天皇制存廃の人民投票を提案した。日本敗戦目前の一九四五年五月、毛沢東は野坂に、「私は、日本人民が天皇を不要にすることは、おそらく短期のうちにできるものではないと推測しています」と述べていた。
二〇〇三年七月、筆者は、長野県川上村の社会運動資料センター信濃・由井格氏所蔵「水野津太資料」の調査で、不思議な文書を発見した。「信書」と書かれた古びた茶封筒の中に、中国語の手紙が四通入っていた。たまたま同行した助手許寿童君が中国からの留学生だったため、それは、第二次世界大戦末期の毛沢東自筆の野坂参三宛手紙二通、野坂の蒋介石宛手紙一通、及びその返事である蒋介石の野坂宛電文一通と判明した。
野坂参三は、日本共産党創立時からの古参党員で、一九三一年モスクワに渡り、コミンテルン(共産主義インターナショナル)の日本代表だった。三〇年代にアメリカから反戦文書を日本に送りこみ、四〇年から中国・延安で活動していた。
四六年一月「亡命十六年」を経て帰国後は「愛される共産党」のシンボルとなり、長く国会議員、日本共産党議長であった。百歳を越えた晩年、旧ソ連崩壊で明るみに出た秘密文書から、三〇年代モスクワで日本人の仲間をスターリン粛清に売り渡したとして、共産党から除名・追放された。「闇の男」であり、「三重スパイ」「五重スパイ」ともいわれる。
茶封筒の入っていた大きな紙包みには、「英文資料」のさりげないタイトルがある。その英文文書中にも、貴重な資料が溢れていた。戦争末期に中国延安を訪れた米国軍事視察団(ディキシー・ミッション)のハワイ出身二世将校コージ有吉(有吉幸治)の書いた四五年一月の野坂参三英文身上書、占領軍の命令で後の首相池田勇人が大蔵官僚としてまとめたと思われる四五年一二月時点の全国皇室財産目録、四六年八月徳田球一・志賀義雄連名の大山郁夫帰日に関するコールグローブ教授宛感謝状、四五年一〇月の「ソ同盟よりのラジオ放送」と日本語で上書きしたロシア語文書など、これまで存在の知られていない、敗戦直後の日本共産党最高幹部の第一次資料があった。
資料を保存していた水野津太(ツタ、一八九三ー一九九二)は、戦後長く日本共産党資料室に勤めた女性司書である。「獄中十八年」の指導者徳田球一・志賀義雄の信任を得て、占領から五〇年党分裂、六全協の時期、中央委員会の機密文書を保管していた。機関紙誌を含む膨大な資料を収集・整理し、没後に遺言で由井格に移管されたのが「水野資料」である。大量の党文書の中に、こうした手紙が含まれていたこと自体は不思議でない。
だが、なぜこんな貴重な一級資料が、今ごろ信州の山奥で見つかったのであろうか。その秘密は、収集者にある。水野津太は、二〇世紀日本の社会運動を下支えした、ユニークな女性である。一八九三年一月一六日岐阜で生まれ、一九一一年に日本女子大を放校されたというが、詳しいことはわからない。二〇年に満鉄東京本社図書館、二三年に満鉄が新設したハルピン図書館に勤め、満州では訪ソ前の中条百合子(後の宮本顕治夫人)、湯浅芳子、視察にきた与謝野鉄幹・晶子夫妻らと交流した。三一年頃には日本や中国の共産党と繋がりができて、三三年には郭沫若と知り合い、日本共産党の木俣鈴子(秋笹政之輔夫人)や渡辺多恵子(志賀義雄夫人)らと共に活動、三四年六月に青山署に逮捕され半年拘留、釈放後は美術工藝院の事務局で働きつつ、共産党三・一五事件被告団の救援を続けてきた。敗戦直後の日本共産党合法化・活動再開のさい、徳田球一・志賀義雄に請われて党本部勤務員になり、党の決定・連絡文書の保管や機関紙誌・党史資料等の整理の事務を担当した。
「水野資料」誕生のきっかけは、共産党のいわゆる「五〇年問題」である。党の分裂、GHQによる中央委員追放、指導部の地下潜行・中国逃亡のもとで、占領期に党本部にあった重要文書は、水野津太に隠匿・保管が託された。水野は、膨大な資料を自宅他数カ所に保管して、警察の弾圧や捜索から守り抜いた。五五年のいわゆる「六全協」で共産党が再建された際も、歴史学者渡部義通を中心に党内に日本革命運動史研究会が設けられ、水野がその事務局を担当したため、資料の多くは、そのまま水野の管理下におかれた。一九六七年六月に、日本共産党中央委員会は、議長野坂参三名で、水野津太に対する党資料返還の仮処分請求を、東京地方裁判所民事第九部に提出した。その時の膨大な仮処分執行「物件目録」が、「水野資料」中に残されている。機関紙誌からポスター、パンフレット類、スターリン著作集から選挙ビラに及ぶ、目録にして七六頁三千件以上、書類綴り、雑誌やシリーズものが多いので、点数にすれば五千点を下らない長大なリストである。水野津太は、裁判所の決定には誠実に従った。関係者によれば、共産党は中央委員酒井定吉以下二〇数名が弁護士同行でやってきて、トラック二台分を持ち去ったという。長く共産党のために献身してきた水野が党を離れたのは、この頃のことといわれる。
しかし、共産党から不要とみなされ放置された資料も、かなりの量にのぼった。それらは水野宅に、そのまま残された。几帳面な水野は、戦前から自分で集めてきた資料と併せ、その後も補充し整理し保管し続けた。共産党からは独立した「水野資料」の誕生である。一九九二年四月四日の死にあたって、遺言により、それらの資料は、水野の晩年の闘病生活を支援し、経済的にも支えてきた、社会運動資料センター信濃の由井格に移管された。由井格は、自宅の一角に保管庫を設け、何人かの社会運動史研究者に公開してきたが、資料の大半を占める新聞・雑誌等の紙の傷みもあり、「水野資料」を一括して研究機関に納めることにした。そのための資料鑑定と目録作成のため、たまたま筆者が中国語・朝鮮語の分かる大学院生二人を同行して整理しているなかで、「英文資料」にまぎれた茶封筒のなかの四通の中国語文書を見つけ、由井格氏の了解と依頼のもとで、その解読を進めてきたものである。
だが、なぜこれらの文書は長く隠匿され、公表されなかったのだろうか。おそらく四通の手紙は、第二次世界大戦末期の複雑な国際政治と関係する。連合国内の米国大統領ルーズベルト、ソ連のスターリンと蒋介石・毛沢東の駆け引き、合衆国政府内での「中国派」「日本派」の綱引き、国共合作内部の国民党と共産党の対立、国際共産主義運動におけるスターリンと毛沢東の微妙な関係、中国及び日本の共産党内部の指導権争いと冷戦開始が、何らかの影を落としている。
野坂参三の天皇制の考え方は、日本の共産主義者の中で、特異なものだった。一九二八年三・一五事件で検挙されたさいの検事聴取書・予審訊問調書では、当時の共産党がモスクワから与えられた「君主制廃止」スローガンに反対だと述べ、眼病を理由に仮釈放された。
戦後共産党の指導者となる徳田球一・志賀義雄らは、コミンテルンの三二年テーゼを獄中でも固持して、連合軍により解放された直後から「天皇制打倒」を掲げた(「人民に訴う」四五年十月)。
しかし野坂は、三一年モスクワに亡命後、コミンテルン第七回世界大会決定(三五年)に沿って、「岡野進」の名で「反ファシズム人民戦線」を提唱し、「天皇制」ではなく「ファシスト軍部」を主敵とし孤立させる路線を採った。
今回発見された四通の手紙中、一九四三年の毛沢東の手紙は、野坂と「新民主主義論」で中国革命を構想する毛沢東の、延安での関係を示している(以下の手紙・電文は由井格氏所蔵「水野津太資料」中「英文資料」綴り「信書」封筒から、日本語訳は一橋大学大学院博士課程院生許寿童氏、[ ]内は筆者による訳注)。
この手紙は執筆年がなかったが、比較的容易に解読できた。薄紙に鉛筆の殴り書きだが、特徴ある毛沢東の筆跡だ。
一九六二年刊『野坂参三選集・戦時編 一九三三ム四五』(日本共産党中央委員会)口絵には、四二年六月二五日付け毛沢東から野坂参三宛手紙が写真版で収録されている。「林哲同志」と宛名・筆跡が同一である。「三月一五日」だけで執筆年次はなかったが、許寿童君が『解放日報』四三年三月一九日に中国語報道記事をみつけ、毛沢東の手紙での言及と一致することが分かった。
野坂は一九四〇年に延安入りした当初は、「林哲」と名乗っていた。四三年五月、英米と連合軍を組むスターリンの思惑から、コミンテルン(共産主義インターナショナル)が解散する。野坂参三が。モスクワで用いていた「岡野進」名を延安で再び用いるのは、コミンテルン解散後に、毛沢東に勧められてからである。四三年三月なら、「林哲」名であるのも自然である。
毛沢東が「根深い伝統である悪い作風を叩いている最中」というのは、中国共産党内で自己の権力を確立するための党内闘争、「整風運動」のことである。毛沢東は、野坂の旧友王明や周恩来をモスクワ派と疑っていた。儀礼的であれコミンテルン幹部会員である野坂を持ち上げているのは、野坂にモスクワ帰りの王明や周恩来にばかり頼らず、党内闘争で自分を支援してくれと、訴えているのである。毛沢東はこの手紙直後の三月二〇日の中央政治局決定で、党の政治局・書記局主席となり、中国共産党内での組織的決定権を確立する(中共中央文献研究室編『毛沢東伝 一八九三ー一九四九』みすず書房、二〇〇〇年、下巻、六〇九頁)。
野坂参三は、毛沢東とばかりでなく、国民党の蒋介石にも接近していた。
次に紹介する一九四四年初頭の往復書簡は、毛沢東書簡と一緒に茶封筒に入っていた。当時の通信事情からして、これが毛沢東の承認なしに出されたとは考えにくい。内容も、一見儀礼的である。
この野坂参三と蒋介石の往復書簡は、中国語での電報のやりとりであり、厳密には、更に検証が必要である。岡野進=野坂は中国語で公式の手紙は書けないから、延安滞在中の野坂は、中国人助手(趙安博)か「延安妻」に書かせたものと思われ、筆跡鑑定はできない。しかし内容は、野坂のものである。他方の蒋介石の返信も、達筆とはいえ、直筆ではない。当時重慶政府の延安との交渉窓口(国民党駐延安連絡参謀)だった郭仲容(クォ・チュウロウ)のもので、郭仲容の朱印・落款が押されている。
蒋介石は、連合国の四三年一一月テヘラン会談直前のカイロ会談で、ルーズベルト、チャーチルから、抗日戦援助と引き換えに戦後処理方針を与えられ、国共合作修復を迫られていた。実際この時期、毛沢東と蒋介石の交渉が、郭仲容を介して秘かに進められた。四四年二月九日、ルーズベルトは蒋介石に親書を送り、米国軍事視察団の延安公式訪問を認めるよう促し、夏の視察団派遣につながった。
手紙の内容は、野坂参三・蒋介石とも儀礼的なもので、それ自体としては、とりたてて重要とは思われない。強いて言えば、前述四五年五月毛沢東書簡と照らし合わせて、野坂参三も蒋介石も、戦後日本の天皇・天皇制に直接言及していない点が注目される。
野坂は、四四年元日の蒋介石のラジオ放送を聞いて、カイロ会談で蒋介石がルーズベルトに「日本の将来の国体のありかた」は「日本国民の自由意志を尊重して、彼ら自身の政府形式を選択させる」と述べたのに安堵し、自分の戦後構想は蒋介石政権にも受け入れられるだろうと自信を持ったのであろうか。一月一五日に在華日本人反戦同盟を解放同盟に改組し、二月二〇日『解放日報』に「日本人民解放連盟綱領草案」を中国語で発表、「軍部独裁の打倒」と「各界の進歩的な党派の連合による人民政府樹立」を掲げる(『野坂参三選集 戦時編』の「四月起草」は誤り)。その一週間後、二月二六日に蒋介石から「われわれの共同の目標」を認める返信が届いたのだから、野坂としては、自分の綱領が国民党にも認められたと有頂天だったろう。
その一週間後に、蒋介石から「われわれの共通の目標」を認める返信が届いたのだから、野坂は自分が「日本人民代表」として認知され、綱領草案が国民党にも支持されたと思ったことだろう。
ところが三月二三日、重慶の国民党系新聞『大公報』社説は、「日本人民が徹底した真の解放に努力すること」を評価しつつも、綱領草案の「軍部独裁の打倒」は不十分で、「軍部のたてている旗は天皇であり、天皇は封建の象徴であり、また大財閥でもある」から、主要目標は「天皇と財閥の徹底的打倒」だと批判した(邦訳『資料日本占領1 天皇制』所収)。
これに反論し『解放日報』四月二八日に掲載されたのが、「日本人民解放連盟綱領草案に関する重慶『大公報』の評論について」という、この期の野坂参三の最も詳細な天皇論である。せっかくできた蒋介石との絆を保つためか、執筆者は野坂の助手「森健(本名吉積清)」名になっている(『野坂参三選集 戦時編』三七二頁以下)。
野坂はそこで、軍部を馬に、天皇を騎手にたとえ、「将を射んと欲すれば、まず馬を射よ」と、「天皇打倒」を掲げなかった理由を説く。もう一つの理由は、後の七全大会報告と同じで、天皇の「半宗教的」性格から「今すぐに天皇打倒のスローガンを掲げることは、かえって人民の反感と反対を買う」というものだった。「財閥打倒」も、社会主義革命段階の課題だから「われわれの戦線に当然参加すべき陣営を狭める」だけだ、と弁明した(『資料日本占領1 天皇制』)。
困難なのは、むしろ、当時毛沢東の支配する延安解放区に亡命中の野坂参三が、コミンテルン解散後も「同志」である中国共産党幹部に対してならともかく、連合国公認の国民党軍事委員長蒋介石に対して、「偉大な中国人民が、あなたの指導のもとで、七年に及ぶ苦しい抗戦を続けた」とまで讃え、連帯の手紙を書き送った理由と蓋然性の解明である。少なくとも管見の限りでは、野坂参三の著作・自伝・回想や研究、蒋介石の著作・自伝・伝記、中国革命史文献でも、野坂と蒋介石の接点は、ほとんど見あたらない。
野坂参三と蒋介石の接触の、唯一の日本語での言及は、意外なところにあった。青山和夫『反戦戦略』(三崎書房)という、多くの研究者からは疑いの眼で見られている、当時重慶政府の対日工作顧問をしていた秘密工作員青山和夫(本名黒田善治)の戦後の回想である。
そこには、「野坂は延安から蒋介石に手紙を送り、重慶に入りたいと申し込んできた。中共が本当に野坂を信用しているなら、野坂を延安にとどめておくべきはずだが、中共が野坂の重慶おくりだしを工作したのはおかしすぎる。蒋介石も重慶も、野坂の『日本国民に告ぐ』程度の知識では問題にならないので反応を示さなかった。大広報はこの野坂の手紙を知り、『こんな程度なら延安ではよいかも知れないが、重慶では問題にならない』という意味の社説をだし、私の日本史を掲載した」とある(二一四ー二一五頁)。
時期は特定していないが、中国で抗日活動を行った日本人中の野坂参三・鹿地亘に対するライバルを自任する策士青山和夫は、野坂から蒋介石に手紙がきたことは察知したらしい。ただし、蒋介石が野坂に返事を書いたことまでは、知らなかったことになる。
この野坂・蒋往復書簡の歴史的意味の解明は、その真偽も含めて、中国国共合作・抗日戦争史の研究者に委ねたいが、これまで主としてコミンテルンを研究してきた筆者の視角からすれば、少なくとも、以下の事情が考慮されたうえで、解読さるべきだろう。
その第一は、野坂参三が自主的に書いた手紙か、毛沢東の承認を得たものか、あるいは毛沢東の意を受けて野坂参三が蒋介石に接近したものか、という論点である。当時延安にいる野坂参三が、戦後の日中関係を見据えて、自主的に毛沢東・蒋介石の双方に「保険」をかけたという見方も不可能ではないが、当時の野坂の食客的位置や通信事情からして、毛沢東の承認なしに蒋介石に電報を送ることはありえない。アール・ブラウダーの「テヘラン・テーゼ」が一月七日、アメリカ共産党解散提案が一月一一日であるから、野坂の蒋介石への接近と時期的にも思想的にも重なるが、モスクワのスターリン、ディミトロフのような毛沢東以上の「権威」の後ろ盾なしに、直接蒋介石に接触しえたとは考えにくい。常識的に読むと、この手紙は、毛沢東の意向を受けた野坂参三が蒋介石に送った年賀状、つまり、毛沢東のメッセンジャー野坂参三を使ったアドバルーンと考えられる。
第二に、毛沢東の意を受けた野坂の蒋介石宛手紙だとすれば、毛沢東が一九四四年一月初めに、蒋介石の意向を打診しようとした背景である。この頃国共合作は、深刻な危機にあった。日本軍の攻勢は続いているのに、連合軍の軍事援助を独占する蒋介石は、共産党弾圧をやめなかった。アメリカでは、地主・軍閥を代表し腐敗した蒋介石に疑問を持ち、毛沢東の土地改革や農民政策に注目し期待するオーエン・ラティモアら「中国派」の声が強まった。彼らは日本の天皇制廃止論者であり、影響力はルーズベルト政権中枢に及んだ。後に野坂は、彼ら米国リベラル派にも接近する。毛沢東がこの時点で、壊れかけた国共関係を修復しようとした理由が問題となる。
その一つは、ウラジミロフ『延安日記』が記す、四四年一月一日、毛沢東がディミトロフ名の「モスクワからの電報」を受け取り、困惑していた事情であろう。最近英文で発表された『ディミトロフ日記(I. Banac ed.,The Diary of Georgi Dimitrov, Yale UP 2003)』によると、四三年一二月二二日付けで、モスクワのディミトロフから毛沢東宛書簡が送られ、国民党との関係での抗日統一戦線の修復を求め、「整風運動」で康生らが中国共産党内ソ連派と目された王明や周恩来を党内で抑圧していることに、強い調子で警告した。
中共中央文献研究室編『毛沢東伝』によると、四三年一〇月五日『解放日報』社説で、すでに毛沢東は国民党との交渉再開をよびかけており、四四年初めには、国民党連絡参謀郭仲容が蒋介石も共産党代表の重慶受け入れの意向を毛沢東に伝え、国民党への公然たる批判が停止されて、二月一七日に毛沢東と郭仲容の会談が行われた(下巻、六三四頁以下)。
また、資料集『抗日戦争時期国共関係記事』(中共党史出版社)によると、四四年一月一六日、中共中央は、国共関係を調整するため、国共会談を行うことを提議した。毛沢東は国民政府軍事委員会駐延安連絡参謀郭仲容に面会し、中共が周恩来、林伯渠、朱徳らのなかで一人を選ぶか、或いは三人を同行させて重慶に行き、蒋介石に合わせる予定であることを当局に報告するよう頼んだ。郭仲容はその日のうちに国民政府軍事委員会軍令部に電報を打った。二月二日、国民政府軍令部は、郭仲容に延安の代表団を歓迎する旨の返事をした、とある(五八六ページ)。
四三年一一月の連合国カイロ会談、テヘラン会談を受けたこうした一連の動きの後、五月の国共会談は結局決裂したが、野坂と蒋介石の往復書簡は、この一時的な合作交渉・休戦中のことである。
第三に、連合軍の軍事援助を一手に受けている蒋介石は、青山和夫がいうように、すでに国内で壊滅し基盤を持たない自称日本共産党代表からの片想いのメッセージなど、無視してよいはずである。それなのに、なぜ敢えて、それも受信から二か月近く後の二月二六日になって、野坂参三に返事を出したのかという、蒋介石・国民党側の事情である。
四四年二月九日、ルーズベルト大統領は蒋介石に親書を送り、米国軍事視察団の延安公式訪問を認めるよう促した。蒋介石はそれを二月二三日に拒否したが、野坂参三宛返電は、その直後である。蒋介石にしてみれば、連合軍の軍事支援の唯一の窓口として、国共合作はスムーズに維持されていると、連合国米国・ソ連に示す必要があった。野坂を介してであれ、延安との共闘のポーズが必要な局面だった。実はその後、アメリカはさらに蒋介石に圧力をかけ、五月に米人ジャーナリストを含む記者団の延安訪問を認めさせ、六月にはウォーレス副大統領が重慶に入る。ついに蒋介石も折れて、七月にディキシー・ミッション延安入りが実現する。
そして第四に、このような毛沢東・野坂参三・蒋介石の三者三様の政治的駆け引きを、ルーズベルト、スターリン、チャーチルのカイロ・テヘラン・ヤルタ会談、スターリンと毛沢東と野坂参三という国際共産主義指導者間の関係、そして、米国ルーズベルト政権内部の国務省と軍と情報機関や、対アジア政策に関わる中国派(ラティモアら「アメラシア」グループ)、日本派(グルーら)、米国共産党(ブラウダーの「テヘラン連合」路線)などの重層的関係の中において、見ることが必要であろう。
そうすることによって、四四年夏の米国ディキシー・ミッション派遣、それを大歓迎しての毛沢東のアメリカ政府への急接近、蒋介石の、在重慶ガウス大使=スティルウェル将軍忌諱とハーレー特使=ウェドマイヤー軍事顧問就任に依拠し、蒋経国をモスクワに派遣した巻き返し、延安でのジョン・エマーソン、コージ有吉らの毛沢東・周恩来・野坂参三との交流、四五年四月ルーズベルトの死とトルーマン大統領就任、ドイツの無条件降伏、毛沢東の米国離れとスターリンへの接近など、これまでも起伏に満ちた政治過程として描かれ、今回発見された四五年五月毛沢東の野坂参三宛手紙と関わり、後の冷戦開始、国共内戦、朝鮮戦争、マッカーシズムにまで尾をひく、アジアにおける第二次世界大戦終了過程のなかに、これら新発見の資料を位置づけることが可能になるだろう。
こうした意味で、一見儀礼的な四四年初頭の野坂参三と蒋介石の往復書簡も、中国側から見た戦後日本国家構想、天皇と天皇制の行方に関する国際政治に関わっている。
野坂にしてみれば、コミンテルン第七回大会「反ファシズム統一戦線」(一九三五年)を踏まえた自分の構想、とりわけ天皇・天皇制論が、連合国側の蒋介石国民党にも伝えてある証拠書類であり、四六年一月帰国後には、「三二年テーゼ」の発想を獄中で凍結して「天皇制打倒」を掲げ続ける徳田球一・志賀義雄らへの説得材料になり得た。
最後に、毛沢東が天皇に言及した岡野進宛手紙を紹介する。これも年号はなかったが、毛筆の筆跡は確かに毛沢東だった。年号確定の鍵は、手紙文中の「去年出版された白労徳同志の『テヘラン』」の箇所である。「白労徳」とは、当時のアメリカ共産党書記長アール・ブラウダーの中国語表記である。ブラウダーが四三年一一月末のチャーチル、ルーズベルト、スターリンによるテヘラン会談を手放しで賞賛し、米国共産党の解散を導いたEarl Browder, Teheran: Our Path in War and Peace, New York, International Publishers, 1944は、四四年四月に『徳黒蘭――我們在戦争与和平中的道路[テヘラン――われわれは戦争と平和の岐路にいる]』として、中国語に訳されていた。
その翌年は四五年、冒頭「この文章」とは、五月二一日岡野進名での中国共産党第七回大会(七全大会)報告「民主的日本の建設」(邦訳『野坂参三選集 戦時編』)である。手紙は、野坂の七全大会報告中国語原稿への毛沢東のコメントと判断できた。米国共産党内でのブラウダー失脚の直前である。
二〇〇四年二月一二日に東京新聞など共同通信から「天皇制早期廃止に消極的 野坂氏に毛主席が書簡」と配信され、二月一八日に朝日新聞で「毛沢東の直筆手紙発見 天皇制なくせぬ、野坂参三氏あて」と報道され、「ジャパン・タイムズ」や「中文導報」等でも大きく報じられた、筆者らによる新資料発見のニュースは、この手紙末尾の「私は、日本人民が天皇を不要にすることは、おそらく短期のうちにできるものではないと推測しています」という一文に、焦点を当てたものである。それは、「『儘速由一般人民』の儘速の二文字は削除できると思われます」という七全大会野坂演説の添削――中国語で発表のための検閲――を説明するため、補足的に述べられた。事実、五月二一日の演説が、毛沢東コメントの翌二九日『解放日報』に発表されるさいには「儘速」の二文字が削除されている。確かに、毛沢東による日本敗戦後の天皇への明示的言及はほとんどないから、重要なものである。
だが筆者は、天皇問題は毛沢東書簡の本筋ではない一部であり、この手紙の歴史的価値は、他にあると考えている。そのポイントは、野坂参三と「白労徳」=スターリン時代のアメリカ共産党書記長アール・ブラウダーとの、一九三〇年代の緊密な関係である。
ブラウダーは、もともとコミンテルン・アジア工作の中枢機関、汎太平洋労働組合(一九二七年創立)の初代書記長だった。旧ソ連崩壊で明るみに出た米国共産党秘密文書集『アメリカ共産党とコミンテルン』(五月書房)には、ブラウダーと共に、幾度か野坂の名前が出てくる。その一つ「文書二〇 ブラウダーからディミトロフへの手紙 一九三五年九月二日」では、アメリカ共産党書記長ブラウダーが、当時のコミンテルン書記長ディミトロフに対して、リヒアルト・ゾルゲの盟友ゲアハルト・アイスラーのアメリカ派遣と、日本共産党野坂参三のアメリカでの活動、上海の作家アグネス・スメドレーへの支援計画を、一括提案していた。三〇年代野坂の後見人は、米国共産党ブラウダーであった。
そのブラウダーは、四三年コミンテルン解散とテヘラン会談による連合国ヨーロッパ攻勢を受けて、四四年一月七日に「テヘラン・テーゼ」を発表し、一一日にはアメリカ共産党を「共産主義政治協会」に改組する提案を行い、五月に実際に、白人中心の政治協会に改めた。連合軍と民主党ニューディール政権に全面的に協力して、ルーズベルトとスターリンの連携の接着剤を自負し、資本主義と社会主義の「平和共存」を謳歌して、アメリカ資本主義は「テヘラン連合」のもとで「帝国主義」ではなくなったと述べた。
ところが、この四五年五月毛沢東書簡の直前、フランス共産党機関誌『カイエ・デュ・コミュニズム』四月号誌上で、ジャック・デュクロ書記による名指しの「ブラウダー修正主義」批判が、突如始まった。著書『テヘラン』が直接の対象だった。それは、当時の共産党世界では、ソ連のスターリンがブラウダーを用済みにし、見放したことを意味する。米国共産党出身で当時0SS(米国戦略情報局)に所属し対日「ブラック・プロパガンダ」に従事していた日本人芳賀武は、この頃のことを、以下のようにいう。
延安での野坂の後見人毛沢東は、おそらくこうした国際共産主義運動内部での「冷戦開始」を察知し、ブラウダーと親しくブラウダー路線に近い野坂に、何かを伝えようとしている。そして、この毛沢東書簡直後の四五年六月、アメリカ共産党からブラウダーは追放される。この体験は、野坂にとっては一九五〇年コミンフォルムによる野坂理論批判の際の教訓となるだろう。だが、この視点からの解読は、別の機会に譲ろう。
今日でも流布している『野坂参三選集 戦時編』所収の「民主的日本の建設」冒頭には、「本書は、一九四五年(昭和二十年)四月に延安で開かれた中国共産党第七回全国大会で、毛沢東主席の政治報告『連合政府論』と朱徳総司令の軍事報告に次いで、私が、日本共産党を代表して、岡野進の仮名をもって、行った演説草稿である」という「序文」がある。あたかも中国共産党七全大会で、毛沢東・朱徳報告に匹敵する重要演説として扱われたかのように読める。
しかし、野坂のこの七全大会演説は、「四五年四月」ではなく「五月」である。「水野資料」中の野坂「民主的日本の建設」手書き版には「一九四五年五月、延安」とあり、四五年一二月人民社版、四九年永美書房版も同様である。
当時延安在住で、四月二三日の開会から六月九日の新指導部選出まで全日程を傍聴したソ連タス通信記者ピョートル・ウラジミロフ『延安日記』(サイマル出版会)は、確かに岡野進=野坂参三が四月二三日開幕日に任弼時の開会演説、毛沢東、朱徳に続いて、劉少奇、周恩来らより前に演説したと記録している。しかしそれは、外国党を代表しての短い儀礼的挨拶で、日本の戦後構想や天皇制の将来にふれるようなものではなかった(『解放日報』中国語訳は五月一日掲載、扱いは劉少奇、周恩来、林伯渠演説に続く末尾である)。
実際の七全大会は、五月五日から併行して開かれた蒋介石の中国国民党第六回大会の動向を睨み、五月八日にドイツの無条件降伏の報が延安に届き、『解放日報』で米国批判が始まった後も、毛沢東「連合政府論」をめぐる中国共産党内部の討論が延々と続いた。
毛沢東の党内指導権が確立し、重慶の国民党大会が終了した五月二一日に初めて、日本共産党野坂参三の「民主的日本の建設」、モンゴル族の中国共産党中央委員であるウランフー、それに朝鮮独立同盟代表の朴一禹(当時延安の朝鮮革命軍政学校副校長)が演説したが、それは、せいぜい外国人ゲスト、意地悪くいうと、亡命少数民族扱いの報告だった。その野坂演説は日本語で、おそらく中国語同時通訳でなされたと思われるが、中国共産党側がその内容をチェックするのは、中国語文が作られ、『解放日報』に掲載される時である。
今回発見された毛沢東の岡野進宛手紙は、五月二八日付けであり、『解放日報』の「日本共産党代表岡野進(野坂鉄)建設民主的日本、一九四五年五月在中国共産党第七次大会上的演説」は、翌二九日付けである。そして問題の毛沢東の天皇についての発言は、「三七頁、一〇行目、『儘速由一般人民』の儘速の二文字は削除できると思われます。この投票問題ですが、そのときになって、いったい早くするのが有利か、あるいは遅くするのが有利かは、状況を見てから決定すべきものであります」という部分で、翌日の『解放日報』の「第二 建設民主的日本、四 天皇與天皇制」には、確かに「儘速」の語はなく「在戦後由一般人民的投票来決定」となっている。
ここで添削=検閲された野坂報告「民主的日本の建設」は、四六年一月帰国の前後に、幾度か日本語訳でも発表されている。問題の中国語原稿「三七頁、一〇行目」は、定本となっている『野坂参三選集 戦時編』の以下の箇所である。
つまり、野坂の元原稿は、「天皇存廃の問題は、戦後儘速に、一般人民投票によって決定される」という提案だったことが分かる。日本語版は修正後のもので、野坂の戦時天皇論の到達点である。
また、野坂演説は、天皇の半宗教的役割と天皇制とを区別し、専制機構としての天皇制は直ちに撤廃するが天皇存廃は人民投票に委ねるという方式を提案したが、彼がイタリア・ファシズム崩壊過程から学んだ「天皇退位論」は語っていない。前年四四年に延安米軍視察団(ディキシー・ミッション)のジョン・サーヴィスやジョン・エマーソン。コージ有吉らには「三段階戦略」の第一段階として「現天皇の退位を求める」と述べていたから、野坂の四五年段階の選択肢には入っていたはずであるが、この七全大会演説では、草案にも入れなかったと考えられる。「天皇退位論」は、米国リベラル派には提示できたが、延安での後見人である毛沢東には言えなかったのだろうか。
この野坂報告は、天皇制と天皇の半宗教的役割を区別し、専制機構としての天皇制は直ちに撤廃するが、天皇存廃は人民投票に委ねる方式を提案した。
いずれにせよ毛沢東は、野坂の五月二一日演説を『解放日報』二九日付けに公表するさい、他の細かい表現と共に、原稿中の「人民投票」の「儘速」を削るよう求め、野坂は、それに忠実に従った。筆者が「検閲」という所以である。したがって後段の「日本人民が天皇を不要にすることは、恐らく短期のうちにできるものではない」という発言のみから、毛沢東発言を「天皇制容認論」とは即断できない。むしろ、蒋介石と同じく「日本人民の自由意志を尊重」する主旨だろう。
文脈からすれば、毛沢東は、当時の中国民衆の気分や国際世論の動向を知り、即刻天皇制廃止が望ましいが、考え得る戦後日本の状況と日本共産党の貧弱な組織力からして、「儘速」に「人民投票」を行うと天皇存続が多数になる可能性が高いので「儘速」は削り時機を見よという、戦術的助言である可能性が強い。
検閲は、もう一つの問題でもなされた。日本語版では「戦争犯罪人の厳罰」の項である。野坂が「上下級指揮官」「大小政治家」「下層ファシスト分子」をすべて戦犯に含めようとしたのに対し、毛沢東は「上下級」「大小」「下層」をはずすようチェックし、「政治警察(特別高等)、思想検事等」さえ「なかの積極分子」のみに限定するよう勧めていた。
つまり、後の「愛される共産党」の野坂よりも、当時国民党との「連合政府論」を唱えていた革命家毛沢東の方が、下級軍人・官吏や小政治家まで戦犯扱いする必要はない、「この問題は宣伝の時期にあるため、広範囲に波及させることは不適切です」と鷹揚に構え、大局的に見ている。
事実、『解放日報』五月二九日の中国語版は、毛沢東の指示通りに修正された。四六年に日本に戻った野坂は、「指揮官」「反動政治家」「ファシスト」は修正して発表したが、なぜか「政治警察(特別高等)、思想検事等」の部分は「積極分子」に限定せずに、日本語にした。日本語原稿の修正忘れか、野坂の政治判断かは不明だが、唯一、毛沢東修正が元原稿に戻された箇所である。
以上は、筆者による仮の解読にすぎない。まだポツダム宣言は出ていない局面である。中国革命史や毛沢東研究者に資料を公開し、学術的に検討してもらおうと考えた所以である。
これらの問題は、日本の八・一五から新憲法へと直結する。信州川上村に眠っていた茶封筒と四通の手紙は、おそらく一九四六年一月一二日の野坂参三帰国前後に、何らかのルートで持ち込まれたものだろう。野坂は、モスクワ、朝鮮半島経由で帰国し、民主化の旗手として、国民的歓迎を受ける。今ならタレント並みの人気だったが、モスクワまでまわった野坂の終戦後の帰国経路の詳細は、注意深く伏せられた。アール・ブラウダー米国共産党書記長の助けで、一九三四ー三八年はアメリカにいたことも、一九六二年の七〇歳誕生日まで秘密にされた。
すでに四五年一〇月一〇日に出獄し、「人民に訴う」を発表して「天皇制打倒」を掲げていた徳田球一・志賀義雄とは、天皇問題での調整が必要だった。党は分裂するだろうという見方さえあった。一月一三日、東京駅で野坂は群衆に囲まれた。その日、野坂、徳田、志賀の妥協が成り立った。「天皇制打倒」とは「天皇制の廃止」であり、「皇室の存続とは別問題」と解説された。そこで茶封筒が果たした役割は、当事者にしか分からない。野坂にしてみれば、自分の戦後構想がスターリンと毛沢東に承認され、国民党蒋介石にも伝えた証拠書類で、「天皇制打倒」を掲げ続ける徳田・志賀への説得材料だった。これに「水野資料」中の米軍ディキシー・ミッションのお墨付き、GHQリベラル派の支持が加われば、野坂の「亡命十六年」は、徳田・志賀の「獄中十八年」に対して、優位に立ちえた。かくして野坂路線に沿った「愛される共産党」が誕生した。
もっとも実際の象徴天皇制は、「人民投票」を待つまでもなく、野坂の帰国直後に、マッカーサーと米国政府により決定された。茶封筒はそのまま封印された。しかし新生中国の行方は定まらず、焼却されることはなかった。野坂の戦後日本地図にはなかった沖縄、朝鮮、台湾では、軍事占領・内戦が続いた。
一九六七年に、野坂参三が共産党中央委員会を代表して水野津太に党資料返還を要求したときには、戦後混乱期なら力を持ち得た茶封筒も、用済みになっていた。野坂は、その所在を忘れたまま、自伝『風雪のあゆみ』執筆は、延安入りまでの話に留めた。
一九九二年末の日本共産党による名誉議長野坂参三の除名は、旧ソ連スターリン粛清期に盟友山本懸蔵を「売った」ことだった。しかしその四か月前に、予告編が出ていた。『赤旗』九二年八月一六日付けで、宇野三郎「敗戦直後の天皇制にかかわる岡野見解について――NHKスペシャル『東京裁判への道』放映に関連して」という批判論文が突如掲載され、「野坂参三名誉議長のNHK担当部門への回答」という事実上の自己批判が付されていた。除名後の不破哲三『日本共産党にたいする干渉と内通の記録』(上下、新日本出版社、一九九三年)も、終戦期の野坂の「天皇制の枠内での改良」が厳しく批判していた。つまり、野坂の一九二八年検挙時から敗戦前後も一貫した天皇論は、「天皇制廃棄」を掲げる二〇世紀の日本共産党にとっては、もともと許容しえないものだった。
ところが野坂を批判した不破哲三自身が、いまや「象徴天皇制」は「君主制」でないという奇妙な理由で党創立以来の旗を下ろし、天皇制を追認するにいたった。しかし、前半生を党のために献身し、いつからか野坂から顔かたちも忘れられた無名の元女性党職員は、茶封筒を保存し続けていた。それは、野坂の党除名、寂しい死から十年、再び息を吹き返した。
これらの手紙が、その後も秘匿され、公表されなかった事情は、また別の角度から解明さるべきドラマとなる。