『沖縄を知る事典』所収(日外アソシエーツ、2000年5月所収)
100人以上が逮捕され45名が起訴されたが、その中に9名の日本人移民が含まれ、内5名は沖縄本島出身の在米沖縄青年会活動家であった。又吉淳、宮城與三郎(與徳の従兄)、照屋忠盛、山城次郎、島正栄で、彼らは国外追放になり、同様の事件で先にソ連に渡ったアメリカ共産党日本語部指導者健持貞一らにならい、32年12月29日にニューヨークから船に乗り、ドイツ経由で「労働者の祖国」ソ連へと亡命した。旧ソ連在住日本人の中で「アメ亡組」と称され、クートベ(東洋勤労者共産主義大学)に学んだ後、モスクワ東洋学専門学校日本語教師となった。
彼らの消息はソ連亡命後途絶え、戦後も手がかりがなかった。ところが1991年ソ連崩壊により、「アメ亡組」全員がスターリン粛清最盛期に「日本のスパイ」として逮捕され、銃殺・強制収容所送りとなったことが明るみに出た。
旧ソ連秘密警察文書によると、沖縄出身の5人も1938年3月15日照屋、同22日宮城・又吉・山城・島が「日本のスパイ」として逮捕され、5月29日又吉・山城・島、10月2日宮城が銃殺された。強制自白を拒んで無実を主張し続けた照屋も、39年11月に5年の強制労働刑に処されて後、行方不明となった。
これら粛清裁判は1989年に過去に遡って無効とされ、又吉・宮城・山城・島は名誉回復された。しかし遺族に事実が伝えられたのは、91年のマスコミ報道によってであった。照屋については名誉回復も確認できない。
希望を持って海外に雄飛した沖縄人が、日本・アメリカ・ソ連という国民国家に差別され裏切られ、時代の波に翻弄された悲劇であった。
『北米沖縄人史』(北米沖縄クラブ、1981)同事件を記録に残した北米移民通史。
比屋根照夫「羅府の時代」『新沖縄文学』89-95号、1991-93。未完だが、屋部憲伝らの黎明会、在米沖縄青年会など、1920ー30年代在米沖縄人社会の雰囲気を知ることができる。
加藤哲郎『モスクワで粛清された日本人』(青木書店、1994)1936-39年当時ソ連に在住した80名以上の日本人共産主義者・活動家の総粛清過程を追跡した研究。