月刊『社会主義』(社会主義協会)2004年2月号、所収


20世紀日本の社会主義と第一次共産党

 

 

 

 

一橋大学教授  加藤哲郎

 

 


 一橋大学の加藤と申します。今時、社会主義を掲げた講演会に、こんなに人が集まるのにびっくりしています。昨年(2002年)、社会政策学会が社会民主党結成百周年を記念して「日本の社会主義」をテーマにシンポジウムを開き、私や犬丸義一さんがパネラーだったのですが、参加者は、年配の方を中心に20−30人でした。今日は、一時間ということですから、私がこの間研究してきたテーマの一つである第一次共産党を中心に、お話をさせていただきます。

 

 日本の社会主義の特質

 

 日本の社会主義を考える場合に、私は、20世紀初めにつくられた社会民主党という政治組織を始まりにするのが、いちばん適当だと思います。共産党を重視する人たちは、1922年の党創立を強調しますが、むしろ20世紀初頭に「社会主義を経(縦糸)に、民主主義を緯(横糸)に」新しい社会をつくることを唱え、すぐに解散させられた1901年社会民主党を出発点・基準にして、この百年がどうであったかを振り返ることが大切だ、というのが私の考えです。幸徳秋水らの社会民主党に関しては、百周年ということで、この間各地でシンポジウムが開かれ、新しい資料を含む出版物が出たりしています(山泉進責任編集『社会主義の誕生』論創社、2001年)。

 20世紀の社会主義の流れの中で、日本の社会主義の特質をどうとらえたらいいのか。ヨーロッパでは、ロシア革命の時代に、すでに存在した社会民主主義政党から左派が分かれて、レーニンのボルシェヴィキにならった共産主義の流れが生まれました。それまでの第二インターナショナルの系譜とは異なる、第三インターナショナル(コミンテルン)の系譜がつくられたわけです。この流れは、ソ連に次いで第二次世界大戦後に東欧諸国で国家体制となり、さらに中国、北朝鮮、ベトナム、キューバなどを含めると、1960年ごろには世界の陸地の三分の一を覆うようになりました。

 それが、1989年の「ベルリンの壁」崩壊など東欧市民革命、さらには91年ソ連解体まで進み、崩壊していきました。その後ヨーロッパのほとんどの共産党は、名前を変えたり解散したりして、基本的には元の社会民主主義に回帰していきます。他方、最近また旗色が悪くなっていますが、一時はEU(欧州連合)加盟15カ国のうち13カ国で社会民主主義政党が政権につく形で、広義の社会主義の思想と運動が生き残るわけです。

 ところが日本の場合は、通説的な見方から言うと、社会民主党・平民社の流れは大逆事件で弾圧され、いったん断絶する。ロシア革命の後、まずは1922年に日本共産党が、後に労農派・社会党に流れる人たちを含めてつくられた。しかしまだモスクワとの関係があまり強くなかった時代に、山川イズム対福本イズムの問題が出て、山川グループの労農派は、共産党から分かれて出ていく。つまり、共産党が日本の社会主義のメジャーな流れで、ヨーロッパとは逆に、共産党から社会民主主義が分派として出ていく、というかたちになっています。そのため日本では、「ベルリンの壁」崩壊からソ連解体に至る流れの中で、共産党・社会党の双方が、劇的に勢力を失いました。共産党の回帰できるような社会民主主義の伝統がなかった、ということになります。

 戦後日本では、共産党が、ある時期まで大きな力をもっていました。労農派の流れは、社会党・総評に影響力をもっていた。日本では、共産党が「民主集中制」の組織原理をもつイデオロギー的に厳格な党となり、社会民主主義に戻るわけにはいかない。他方、日本社会党は、社会主義インターの中で、ヨーロッパ社民党が「第三の道」などと言い出す時まで、まだ生産手段国有化や社会主義革命を掲げ続けた最左派であった。咋今、共産党がようやく社民化しようとする時に、社会党の大勢は、すでに民主党に合流してリベラルの方向にシフトした。残された社民党は、北朝鮮問題で国民から反発され、共産党より弱小。そういう意味で、私は、日本ではヨーロッパのような、共産党の受け皿になりうるような強大な社会民主主義が生まれないまま今日に至っている、と考えています。

 そこで、もう少し問題提起をさせていただければ、日本には果たしてヨーロッパ型社会民主主義は存在したのだろうか、という歴史認識の問題になります。山川均、向坂逸郎の指導した労農派系列の社会主義協会のグループは、社会党を介して社会主義インターに加盟してはいましたが、国際的・イデオロギー的に見れば、むしろ共産主義に近い流れであった。その意味では、ドイツ社会民主党、イギリス労働党、北欧諸国社民党のようなヨーロッパ型の社会民主主義は、日本にはついに根付かないままだったと思うのです。

 

 ソ連解体後のコミンテルン秘密資料公開

 

 私自身は、歴史的には、共産党の流れを中心に研究してきたのですが、転機となりましたのは、1991年のソ連解体後、日本の社会主義・共産主義についても、さまざまな歴史資料が、モスクワから現れ公開されたことでした。その中に、戦前日本からワイマール共和制ドイツに留学し、そこでファシズムや日本の満州侵略に反対する運動を組織して、ナチスの政権樹立時にモスクワに亡命した、元東京帝国大学医学部助教授で国崎定洞という医学者がいました。そのドイツ人の奥さん・娘さんと、私は、70年代初めにドイツに留学して以来親しくしておりましたが、その国崎定洞が、1937年末にモスクワで「日本のスパイ」とされ銃殺された時の秘密資料が出てきました。その資料に出てくる史実や人名を追いかけているうちに、1930年代にドイツから数人、アメリカから17人、それから岡田嘉子・杉本良吉など日本からの密入国者を含めると80人くらいの日本人がモスクワに行き、そのほとんど全員が、1936年から39年の間に粛清されたことが分かりました。モスクワで新たに公開された秘密資料を読みますと、ほとんどの粛清犠牲者が、だれか別の日本人に「人民の敵」とか「日本のスパイ」とかと告発され、直ちに銃殺されたり、ラーゲリ(強制収容所)に送られて死んでいくのです。もちろんそこには、秘密警察による自白の強要やでっち上げがあり、ほとんどは1950年代、スターリンの死後に、事実無根であったとして「名誉回復」されています。

 実際は拷問で強制的に自白させられたらしい告発状や裁判記録をたどっていくと、その頃のソ連、日本、中国、欧米を結ぶ、世界の社会主義の動きが見えてきます。そこで100人近い、当時ソ連にいた可能性のある日本人のファイルをつくり、ロシアでスターリン粛清犠牲者の発掘と名誉回復を進めているボランティア組織メモリアルやサハロフ人権センターの協力を得て、日本人の粛清記録がみつかると、ご遺族に処刑日を命日として伝え、埋葬された場所を特定し、遺品をご遺族にお渡しするボランティア活動をしてきました。インターネットで情報提供を呼び掛けたり、新聞社に捜索を頼んだりして公表していくうちに、それ自身が一つの研究対象になりました。それらをまとめたのが、『モスクワで粛清された日本人――30年代共産党と国崎定洞・山本懸蔵の悲劇』(青木書店、1994年)『人間 国崎定洞』(川上武と共著、勁草書房、1995年)、および2002年に出しました『国境を越えるユートピア──国民国家のエルゴロジー』(平凡社ライブラリー)です。

 さらに、粛清とは直接関係はしませんが、私が旧ソ連のコミンテルン史料館(旧ソ連共産党中央委員会付属マルクス・レーニン主義研究所です)から持ち帰った一千点くらいの史資料のうち、日本の社会運動史にとって重要と思われる資料を、法政大学『大原社会問題研究所雑誌』などに発表してきました。私が見たのは、主に日本の社会主義および共産党に関わる日本語・英語の資料ですが、それとは別に、片山潜、山本懸蔵、国崎定洞、野坂参三らの個人別ファイルもあります。実は、いまアメリカからは、どんどん若い大学院生がモスクワの旧マルクス・レーニン主義研究所史料館に行って、未公開資料を用いた博士論文を書いています。日本からは、残念ながら、こうした資料で日本社会主義関係を追跡しているのは、私と和田春樹さんくらいしかおりません。若い人たちは、旧ソ連や社会主義・共産主義運動史にほとんど関心がない。それで、スターリン主義の日本人粛清犠牲者研究のさいに副産物として見つけた資料を使って、先ほど述べました問題意識に従ってそれらを分析し、法政大学『大原社会問題研究所雑誌』などに発表して、日本の社会主義の見直しをやっているわけです。

 

 これからお話しする1922年9月の日本共産党創立大会綱領を含む基本的な文献は、すでに2001年に、『ソ連共産党、コミンテルンと日本』というロシア語版資料集がモスクワで出ています。和田春樹さんの監訳で、岩波書店から出版される予定です。すでに下訳は終わっていますが、和田さんの都合で延びています。その資料集が出ますと、これまで通説的に語られてきた1922年の共産党創立、山川イズム、福本イズム、27年テーゼ、32年テーゼなど、歴史のかなりの部分を、大きく書き換えざるをえないと思います。

 面白いのは、これまで日本共産党の創立後の綱領的文書で、日本人の手で作られたものは、ほとんどなかったことです。知られているもので唯一日本人の手に成るのが、風間丈吉起草といわれる「31政治テーゼ草案」ですが、これは、日本を支配しているのは金融資本のファッショ独裁であると、どちらかというと当時の労農派の見解に近いものでした。しかし、すぐに32年テーゼと講座派理論で否定され、天皇制絶対主義説・二段階革命論になるわけです。共産党が綱領的文書という22年綱領草案、27年テーゼ、32年テーゼ、35年「日本の共産主義者への手紙」の系列は、もともとモスクワでつくられ、原文はロシア語で、それらの草稿類もモスクワでみつかっています。

 旧ソ連マルクス・レーニン主義研究所のコミンテルン史料館に行きますと、日本からモスクワに送られた、さまざまな日本語・英語の報告文書が残っています。今までの日本の研究は、日本の国内で流通してきた文書を中心に、コミンテルン日本支部=日本共産党の歴史を描いてきましたが、モスクワに行きますと、コミンテルンは、世界革命の一環として日本革命を考えていたことが分かります。

 当時のコミンテルンは、属地主義といって、党員は国籍・民族ではなく、居住する国の共産党に所属し、人数が多いと言語別組織をその居住国共産党内につくります。そうすると、日本の共産主義・社会主義運動の拠点は、日本国内だけではなく、重要なポイントが世界中にあった。例えば1920年代末から30年代初めには、国崎定洞、千田是也、勝本清一郎、小林陽之助らのドイツ共産党日本人部があり、国内で平野義太郎、河上肇、堀江邑一らが協力していた。その活動には、労農派系で言うと、有沢広巳や土屋喬雄も関わっていました。それから上海を中心に、中国共産党日本人部があり、中国民衆の抗日闘争に関わっていました。さらに、もっと重要なのが、アメリカ共産党日本人部です。こちらには、早くから、片山潜、田口運蔵、鈴木茂三郎、猪俣津南雄、石垣榮太郎らが加わっていました。その流れが1928年頃に、ニューヨーク・シカゴからサンフランシスコ、ロスアンゼルス、シアトルなど西海岸にいる日本人移民労働者や中国人、朝鮮人の解放運動の組織化へと広がっていったのです。この日本人・日系人共産主義者グループは、1930年代半ばの野坂参三のアメリカからの対日宣伝活動や、日本でのゾルゲ・尾崎秀実グループの活動を下支えしただけではなく、太平洋戦争が始まると、アメリカ軍に志願・協力して反ファシズムのために勇敢にたたかい、戦後はGHQに協力して日本の民主化に貢献しています。

 そうしますと、20世紀日本の社会主義を考える場合、いちばん狭い意味では日本共産党、もう少し広げると講座派プラス労農派、ないし共産党プラス社会党という視点からとらえる見方ができますが、ほんとうはもっと広げて、空間的にも日本という狭い島国に閉じ込めてはならない。もう一つは、日本の社会主義思想を、1901年社会民主党創立以来の諸潮流、キリスト教社会主義やアナーキズム、協同組合運動や新左翼運動、あるいは労働運動だけではなく、文学・芸術運動、知識人の活動から女性解放運動まで視野を広げて見なければならない、と考えています。

 

 1926年頃の日本共産党22年創立綱領日本語文

 

 さて、そういうことを前提にして、モスクワに行きますと、日本の社会主義に関する資料は、日本語だけではなく、英語、ドイツ語、ロシア語などでも、いろいろ残されています。本日の演題である第一次共産党に関しては、私は約三〇点の資料を「1922年9月の日本共産党綱領」(大原社会問題研究所雑誌,1998/12,1999/1)および「第一次共産党のモスクワ報告書」(大原社会問題研究所雑誌、1999/8 ・10)と題して、法政大学『大原社会問題研究所雑誌』に連載・発表してきました。私のインターネットの個人ホームページ「ネチズン・カレッジ」でも、写真入りで読めます(http://www.ff.iij4u.or.jp/~katote/Home.shtml)。

 本日みなさんに資料としてお配りしましたのは、1922年9月の「Program of the Communist Party of Japan」と題された英語文と、1926年頃に、おそらく記憶に基づいてこれを日本語で再現したと思われる、「綱領」というタイトルしかない日本語文です。1922年9月の日本共産党綱領は、英語文だけが見つかっており、それを私は、現代日本語に訳して『大原社会問題研究所雑誌』1998年12月号に初めて発表しました。ロシア語訳は、先に紹介した和田春樹さんたちの資料集『ソ連共産党、コミンテルンと日本』に載っています。そこで、この綱領が、実際に第一次共産党時代に存在し、ある程度は使われたと思われる証拠として、本日は、本邦初公開の資料である1926年「綱領」を紹介します。以下が、モスクワ・コミンテルン史料館の、1926年日本関係秘密ファイルに入っていた、日本語文です。[ ]内は、英文を参照した私の補足で、日本語原文では空白になっています。

 

        綱 領
 
 [日本共産党]は国際[共産党]の一部として、官憲に対し秘密に存在し[ているプロレタリヤ党である]。
 [日本共産党]は[ソビエト権力を基礎にした労働独裁を樹立して]資本主義制度を廃絶し、共産社会を建設する目的を以て、左の綱領を定む。
 
 一 経  済
 日本は極東に於ける最大の資本国である。殊に其の世界大戦中に於ける特殊の地位は急激なる資本制度の発達を来し、最も横暴無類なる搾取を実現してゐる。
 日本共産党は、此の絶大なる搾取力の下に苦悩する労働者、農民、及び其の他の下層民衆を組織し、訓練し、統一して、[政治権力と]生産交通の機関をプロレタリヤの手に掌握し、社会主義的にそれを経営する事を期する。
 
 二 労働問題
 日本の労働運動はまだ極めて幼稚である。政府の苛酷野蛮なる圧迫の下に、労働組合は甚だ不完全なる発達を為しつつある。けれども自覚した労働者の革命的要求は頗る強烈である。組合運動に加入しない一般多数の労働者の中にも、本能的の反逆心は盛んに燃えてゐる。
 [日本共産党]はこれらの反逆心と革命的要求とに対し理想を與へ、方針を示し、戦術を援け、組織を教へる事を任務とする。
 既成の労働組合に対しては、深く其の内部に食い入って其の急進化に努め、無組織の労働者に対しては有らゆる接触方法を以て其の団結に努め、常に共同戦線の趣旨方針を以て資本家階級に対抗し、階級戦の一戦毎に於て共産党の実質を増大し、遂に絶大なるプロレタリヤの前衛となる事を期する。
 アナキスト若しくはサンチモカリストの思想が日本の進歩した労働者の間には、謂ゆる小児病の現象として、可なりに深く浸みこんでゐる。彼等は或は中央集権に反対し、或は共同戦線に反対し、或は労働独裁に反対し、或は政治運動に反対し、徒に空漠なる無政府の理想にあこがれてゐる。[日本共産党]は是等の夢想家に対し、断乎たる決意を以て、然し乍ら又有ゆる寛大と忍耐とを以て対応し、漸次に労働者間に於ける其の偏見を除かしめ、我々の実際的なる理想と戦術とに転向させる事に努めねばならぬ。
 
 三  農民問題
 工業の急激なる発達は、亦た農村の急激なる衰頽を来してゐる。自作農は高率を以て年々小作に陥り、土地の集中は顕著なる現象を呈してゐる。
 近来、農村に於ける小作争議は頻りに頻発し、小作組合は到る処に組織されてゐる。多くの地主は小作人から土地を返還されて困ってゐる。彼等は土地を売らうとするが買手がない。それで彼等は機械の応用、賃金労働の雇用、或はごまかしの組合組織等を計画してゐるが、いずれも成功しない。
  [日本共産党]は、これらの情勢に適応して、全国の農村に宣伝を行ひ、広く革命的精神を鼓舞し、共産的理想を理解せしめ、多数農民をして堅く都市の労働者と提携し結合せしめる事に努める。
 
 四 政 治
 我国の政党は既に明白な資本家党になってゐる。然し封建制度の余力が猶ほ官僚軍閥として残存してゐる。現在の政治は其の二勢力の妥協である。議会制度は極めて保守的で、まだ普通選挙すら行はれて居ない。要するにデモクラシーはまだ日本に於て甚だ幼稚である。
 [日本共産党]は、議会制度が社会革命の妨害物であり、保守勢力の最後の城壁である事を確信する。然しデモクラシーを出来得るだけ徹底させる事はプロレタリヤ運動の為に有利である。故に我々はプロレタリヤの新しき政治運動を以て、デモクラシーの徹底を促進する。
 然しながら我々の政治運動は、全然新しきプロレタリヤの政治機関を建設する事を究極の目的とする。故に我々はデモクラシーの徹底を促進すると同時に、極力デモクラシーの偽善を暴露させ、議会制度の有害なる真相を摘発する。そして結局、ソビエットの組織に依り、プロレタリヤ独裁の政治を興し、資本独裁の旧政治を廃絶する事を期する。
 
 五 軍国主義問題
 東洋のドイツと称された日本帝国は、其の軍閥の優勢を以て世界に知られてゐる。日本の軍閥は其の優勢の力を以てアメリカとすら開戦しようとしてゐる。彼等が資本制度を撤廃する[ものではなく、貪欲に市場を切望するブルジョア資本家の自然な同盟者である]
 日本軍閥の精神は其の愛国心に在る。国民教育及び軍隊制度に於て極力鼓吹する愛国心は今だに多数国民の心を奪ひ、其の目をふさぎ、其の耳をつぶして[ゐる。軍閥が資本家を]擁護するといふ真[の]目的は、まだ多数国民に看取されて居らぬ。[日本共産党]は此の愛国の迷信を醒まし、軍閥精神の根本を破壊し、遂に軍隊全部の崩壊を計らねばならぬ。
 
 六 朝鮮支那問題
 [日本共産党]は云ふ迄もなく侵略主義に反対する。支那に対する干渉、満州蒙古に於ける勢力範囲、台湾の併合、悉く我々の反対する所である。
 殊に朝鮮の併合は最大の害悪である。故に我々は朝鮮人の独立運動を援助する。
 極東に於ける三大民族、支那、朝鮮、日本は、経済上及び政治上に於ける其の密接の関係からして、是非とも相携へて革命の道を歩まねばならぬ。故に吾々はプロレタリヤの世界的団結の中に於て、殊に右三民族中のプロレタリヤの団結を重要視するものである。
 
 以上は日本[共産党]の大体の綱領である。我々は国際共産党の一部として、其の指導と援助との下に、常に此の綱領に依って努力し活動するのである。

 

 1922年9月の日本共産党創立綱領英文原文と、この26年日本語「綱領」を較べてみましょう。日本語の方の見出しを見ていきますと、経済、労働問題、農民問題、政治、軍国主義問題、朝鮮支那問題となっており、英語の創立綱領と、まったく構成が同じです。ただし、英文の方がやや長く詳細で、日本語文には、省略があります。おそらく22年創立時の綱領を、文書で残すことなく頭の中に記憶していて、26年の、いわゆる日本共産党再建のさいに、記憶に基づいて、22年創立大会時の綱領を再現したものと思われます。そこで、22年日本共産党創立綱領の、26年日本語訳「綱領」の内容を見てみましょう。

 冒頭に主語がありませんが、これは、万が一官憲の手に渡った際秘密にするためで、「(日本共産党)は国際(共産党)の一部として官憲に対し秘密に存在す。(日本共産党)は資本主義制度を廃絶し、共産社会を建設する目的を以って、左の綱領を定む」となっています。ここから、26年にモスクワにいた日本人が日本語にしたものではなく、当時日本にいた日本共産党創立時の関係者が、危険を承知でモスクワに届けたものと推定できます。

 「一 経済」のところで、「日本は極東における最大の資本国である」「日本共産党は、此の絶大なる搾取力の下に苦悩する労働者、農民、及び其の他の下層民衆を組織し、訓練し、統一して、生産交通の機関をプロレタリヤの手に掌握し、社会主義的にそれを経営することを期する」となっています。

 次の「二 労働運動」では、「日本の労働運動はまだ極めて幼稚である」云々と言って、「既成の労働組合に対しては、深く其の内部に入って其の急進化に努め、無組織の労働者に対しては有らゆる接触方法を以て其の団結に努め、常に共同戦線の趣旨方針を以て資本家階級に対抗し、階級戦の一戦毎に於て共産党の実質を増大し、遂に絶大なるプロレタリヤの前衛となることを期する」とあります。その後にアナーキズムやサンジカリズムの批判が行われています。

 「転向」という言葉が、後の権力への屈服という否定的意味合いではなく、この頃すでに使われていたことが、末尾の文章でわかります。また英語のUnited Frontを「単一戦線」「統一戦線」ではなく「共同戦線」と訳していますから、山川均の共同戦線論を意識していると思われます。

 「三 農民問題」のところで、工業の発達によって農村、特に小作農が苦しんでいるという話がありますが、ここには日本側がつけたのか、モスクワのコミンテルン側がつけたのかは文書そのものからはわかりませんが、コメント風の書き込みがあります。そのコメントは、「資本の転回」「小作人に土地を授ける件」と読めます。

 「四 政治」では、議会制度は極めて保守的で、まだ普通選挙さえ行われていない。デモクラシーは日本ではまだ幼稚である、という認識です。ここにも書き込みがあり、「然し封建制度の余力が猶ほ官僚軍閥として残存してゐる」という部分に傍線が引かれ、「説明を要する」「封建制度に対する意見」とコメントされています。

 「議会制度が社会革命の妨害物」のところでは、「資本主義の政治構成」「プロレタリヤの政治的国家」と書き込まれています。「極力デモクラシーの偽善を暴露させ、議会制度の有害なる真相を摘発する」という部分には、「各政党の主張及基盤」と書き込みがあります。「結局、ソビエットの組織に依り、プロレタリヤ独裁の政治を興し、資本独裁の旧政治を廃絶する」の箇所には、「ブルジョア革命が行われるか行われないか不明」とコメントされていますから、後の27年テーゼにつながる、コミンテルン側の書き込みかもしれません。

 「五 軍国主義問題」では、「東洋のドイツ」と称された日本帝国は軍閥が強く、愛国心をあおっているという話をしていますが、「資本主義と軍国主義との関係」という書き込みがあり、愛国心に関連して、「教育問題、婦人問題、水平社」と上書きされています。この末尾に「結論の修正」と書き込みがあるのは、英語の原文を書き込み者が持っており、英語では「プロレタリアートの赤軍組織化」となっていたためかもしれません。

 最後の第六項目で、極東における三大民族、支那、朝鮮、日本の連帯を語っていますが、「共産主義に導くとする意、戦線の一致、修正」という書き込みがあり、おそらく「我々は朝鮮人の独立運動を援助する」の部分の内容が要チェックとされたのでしょう。

 全体にわたって、日本語文にも、上書きと思われる書き込み文にも、天皇や君主制・天皇制への言及はありません。この上書き部分が、1926年時点での、22年創立綱領への批判的コメントと思われます。

 

 第一次共産党指導部と公式共産党史の神話

 

 次に、この1922年日本共産党創立綱領の、英語原文の方に戻って考えます。正確な日本語訳文は、先にあげた『大原社会問題研究所雑誌』に私が発表したものがありますので、後でそれをご覧になってください。

 重要なのは、いちばん最後です。ハンコがあって、「Adopted by the National Convention of the Communist Party of Japan, Sept. 1922」とあります。 つまり「1922年9月に日本共産党の全国大会(ナショナル・コンフェレンス=評議会ではなく、コンベンション=大会)で採択された」となっているわけです。その下の丸い公印は、このハンコが押された別の文書が、モスクワには数通他にも残っていますので、正式な日本共産党の党印だということが分かります。

 ハンコの下に「ジェネラル・セクレタリー」=書記長ないし委員長、あるいは当時の日本共産党文献で「総務幹事」と言いますが、「アオキ・クメキチ」とあります。その下に「インターナショナル・セクレタリー」=国際書記、当時の言葉では「国際幹事」が「サカタニ・ゴロウ」と、英字で署名されています。『日本共産党の70年』など日本共産党の公式の党史では、この頃の初代党委員長は、堺利彦ということになっています。公式党史の見方でいきますと、「ジェネラル・セクレタリー=アオキ・クメキチ」というのは、堺利彦でなくてはならない。

 ところが、その後の1923年2月のいわゆる第二回市川党大会、3月のいわゆる石神井臨時党大会後に、モスクワに送られた日本共産党の報告文書が、秘密資料中にあります。そこでは、今度は「サカタニ・ゴロウ」が「ジェネラル・セクレタリー=総務幹事」=委員長に選ばれた、とあります(詳しくは、前掲「第一次共産党のモスクワ報告書」参照)。つまり、1923年に選挙で党委員長になる人が、22年9月の創立綱領採択段階では「インターナショナル・セクレタリー=国際幹事」なのです。これが、堺利彦なわけです。これによって、公式党史の初代委員長=堺利彦説は崩れます。私の論文発表後、2003年1月に『日本共産党の80年』が出されましたが、私の22年9月創立大会説や22年創立綱領の存在はまだ認めていませんが、この堺利彦創立委員長説だけは引っ込めて、「荒畑寒村、堺利彦、山川均らが最初の執行部をつくりました」と改めています。

 1923年の文書では、22年9月の創立大会綱領で「ジェネラル・セクレタリー=総務幹事」であった「アオキ」という人物が、今度はモスクワに派遣された、とあります。その時モスクワに派遣されたのは、これは『寒村自伝』(岩波文庫)等でも明らかなように、荒畑寒村以外にありません。そうしますと、この英語版22年創立大会綱領が示しているのは、「アオキ・クメキチ」つまり荒畑寒村が、初代の「総務幹事」いわば書記長ないし委員長で、「国際幹事」が「サカタニ・ゴロウ」つまり堺利彦だった、ということを意味します。そして、二人が署名し、正式の印鑑を押した日本共産党の綱領が、モスクワの日本共産党関係秘密ファイルの中に70年間大切に保存され、それがソ連崩壊によって表に出てきた訳です。

 これは、公式党史や、野坂参三や高瀬清の回想に依拠した犬丸義一『第一次共産党史の研究』(青木書店、1993年)などの考証とは、大きく異なります。

 さまざまな文献に出てきますが、今まで日本共産党の歴史は、1922年7月15日に、東京渋谷の高瀬清の下宿で創立大会が開かれ、密かに旗揚げされた、と描かれてきました。その後の流れは、22年秋のコミンテルン第4回大会に川内唯彦と高瀬清を派遣し、ブハーリンから日本の共産主義者は天皇制打倒を掲げなければならないと言われて「22年綱領草案」なるものを日本に持ち帰り、それをめぐって23年の2月・3月に共産党は天皇制打倒を掲げるべきかどうかで大議論になり、幸徳秋水らが死刑になった大逆事件の記憶から、堺利彦・高瀬清らがそんなことを議論したことがわかればそれだけでも危ないからと議事録には書かず記録に残さなかった。そこで、モスクワから指示された天皇制打倒の綱領草案をもらって活動を始めようとした矢先に、5月に警察が早稲田大学の佐野学の研究室・自宅を捜索して党創立の事実が知られ、厳しい弾圧で創立メンバーのほとんどが獄中につながれた。そこに関東大震災があって、震災後はとても活動ができないというので解党論が強まり、第一次共産党はいったん解散した、となっていました。

 それが26年に、いわゆる「福本イズム」を奉じる旧党員を中心に、第二次共産党として再建されました。先に紹介した26年日本語「綱領」は、その再建にあたって、日本共産党の綱領をどうすべきかと改めて議論され、モスクワで検討されたさいのファイルの中の一つです。つまり、初めは日本共産党結成の証としてモスクワに届けられた22年創立綱領が、26年のモスクワで、今度は内容的に本格的にチェックされたのです。そこでコミンテルンは、これを日本革命遂行の指針としては不十分と判断し、いわゆる27年テーゼを、ロシア語で作ります。27年テーゼをつくるときには、福本和夫と一緒に、山川均もモスクワに呼ばれていました。山川の方は、健康上の理由を挙げて、コミンテルンの招請を拒否したため、渡辺政之輔・鍋山貞親・福本和夫・徳田球一らがモスクワに赴き、山川イズムも福本イズムも共に否定されたかたちで、第二次共産党が本格的につくられる。そこで山川らは、労農派を結成して共産党と対立し、渡辺政之輔・徳田球一らの党がコミンテルンからお墨付きを得た共産党になっていく、という話になっているわけです。

 実は、共産党の「日本共産党の四十年」発表以来、公式党史として流されてきたこうしたストーリーの原型は、ほとんどが、1930年代初頭に、3・15事件(1928年)被告として捕まった獄中指導部がつくりあげた話です。徳田球一などは、取調べに対して最初はのらりくらり答えていたのですが、29年のある時点から、積極的に共産党の存在意義を訴える方針に転換しました。その時につくられた話が、22年1月極東諸民族大会に出席した日本代表団が「天皇制打倒」の方針をもらってきて(これも現在では事実でなく、極東民族大会で日本代表団に与えられたのは「天皇の廃止」ではなく「政治制度の民主化」であったことが明らかになっています)、22年7月に党を結成するとともに、天皇制打倒のいわゆる22年綱領草案をつくったが、公然と議論すると大逆事件の二の舞になるとして秘匿された、という英雄物語です。共産党が「戦闘的」歴史の始点とする「22年綱領草案」なるものは、統一公判での市川正一の陳述『日本共産党闘争小史』(国民文庫)が準公式党史としてつくられる以前には、本格的に問題にされることはなかったのです。第一次共産党については、公式党史は、ほとんど神話だと私は考えています。

 そもそも1920年代初めの日本で、世界の社会主義や共産党の綱領について本格的に論じることができたのは、山川均だけでした。『無産階級の政治運動』(1924年)、『無産政党の研究』(1925年)などの著作も出しています。例えば、ドイツ社会民主党のゴータ綱領やエルフルト綱領がどんな内容で、最大限綱領とか最小限綱領とはどんな意味かを当時論じることができたのは、山川均一人でした。

 モスクワに送られたさまざまな報告文書を見ますと、たしかに日本革命の綱領をつくることは問題になっていましたが、「天皇制」ないし「君主制(モナーキー)」という言葉は、一度も出てきません。「封建遺制」や「絶対主義」もほとんど出てきません。何がいちばん問題になっているかというと、「第一革命と第二革命」すなわち政治革命と社会革命の関係が、くり返し論じられています。また、アナ・ボル論争の流れから、普通選挙や議会をどう位置付けるかという議論は出てきます。しかし、君主制をどうするかという議論は、まったく出てこないのです。モスクワに残された記録文書からは、コミンテルン側はともかく、日本国内では27年テーゼの直前まで天皇制を問題にする話はなかったことが分かります。私が神話とよぶゆえんです。

 

 22年9月創立大会綱領の執筆者は山川均では

 

 そのような流れの中で、22年9月創立大会綱領を見ていきますと、公式に言われてきた1922年7月15日ではなく、9月のある日に、日本共産党の創立大会が開かれたことになります。そこで実際に採択された綱領は、皆さんにお配りしたものであったと思われます。そもそも公式党史の7月15日創立説については、犬丸義一さんと岩村登志夫さんらの間で学問的論争がありましたが、少なくとも綱領採択を基準にする限り、日本共産党創立は、22年9月になります。

 それでは共産党が言う「22年綱領草案」とは何なのか、という問題になります。詳しくは私の論文で論じましたので、『大原社会問題研究所雑誌』の「1922年9月の日本共産党綱領(上・下)」を参照していただきますが、これは、1924年に『コミンテルン綱領問題資料集』がドイツ語、フランス語で出版された際に、ブハーリンがつくった世界革命のためのコミンテルン世界綱領草案に、これを日本に当てはめたらこうなるだろうという付録としてついていたものです。これが初めて日本語になるのは、1928年です。これについて、山川均は『自伝』で重要な証言をしておりまして、『綱領問題資料集』があるのは聞いていたが、実際に見たのは昭和2、3年頃(1927、28年)だった、という言い方をしています。ご存知のように、山川均は、『自伝』で日本共産党の創立に関わったこと自体を否定し、荒畑寒村からそれではあんまりだと批判されているわけです。

 ただ私は、この『コミンテルン綱領問題資料集』についての山川の証言は、事実だろうと思っています。『山川均自伝』の問題は、書かれている部分についてよりも、書かれていない史実にあると考えています。つまり、当時の日本で一番綱領問題に詳しい山川でさえ、「22年綱領草案」を5年間も見たことがありませんでした。さらに、27年頃までに日本語で書かれた社会主義・共産主義文献、特高警察が集めた資料・裁判文書類、さらにはロシアやアメリカに残された当時のコミンテルン日本語文献を見ても、今日、日本本共産党が言う「22年綱領草案」に直接言及したものはありません。

 すべては、モスクワでの27年テーゼ作成・受容の後に、ドイツ語版『コミンテルン綱領問題資料集』から日本語訳が紹介され(青野季吉「震災前後二三」『社会科学』1928年10月)、こんな綱領草案もあったのだと想起されただけです。その想起のために集められた資料の一つが、今日、皆さんにお渡しした本邦初公開資料、多分1926年に記憶にもとづき書かれたと思われる、日本語「綱領」なのです。

 そこで今度は、英語で荒畑寒村と堺利彦が党名で署名した共産党22年創立大会綱領に、何で署名をしていない山川均が関連するのか、という問題が出てきます。私は、それを起草したのは、サインした荒畑寒村でも堺利彦でもなく、山川均だと考えております。

 一つの理由は、先ほど申しましたように、22年当時、綱領を書けるような政治的・理論的力量と理論的統率力をもっていたのは山川均しかいなかったという消極的理由です。

 もう一つの理由は、実はこういう綱領があったことを臭わせる当事者の発言・回想が、いくつか残されていることです。これは、犬丸義一氏の第一次共産党史研究でも部分的に紹介されていますが、荒畑寒村、高瀬清、浦田武雄らの、22年創立時に簡単な、あまり詳しくない綱領があった、そこには天皇制打倒などは書かれていなかった、という回想が残されています。橋浦時雄や鈴木茂三郎、高津正道らの回想をも参照すると、その当時の第一次共産党の公式文書は、すべて山川均が一人で書いていた、とあります。したがって、起草者は山川均と考えるのが妥当ではないか、と思うのです。この点の詳しい考証も、論文「1922年9月の日本共産党綱領(上・下)」に譲ります。

 さらに、もう一つの理由は、内容です。労農派の歴史を勉強してきた社会主義協会の皆さんなら分かると思いますが、講座派マルクス主義及び今日の日本共産党の立場からすれば、この22年創立綱領の中身を見ると、天皇制(君主制)への言及がない、資本主義の発展と封建遺制との関連についての野呂栄太郎・山田盛太郎風分析もない、理論的に見ると実につまらない、凡庸な綱領なのです。唯物史観を日本に機械的に適用した素述のようになっている。だから、弾圧に屈せず、日本資本主義の特殊性を分析して天皇制権力と闘ったという栄光の共産党史には、なかなか入りにくい水準のものです。こんな綱領で党が創立されたのでは、その後の英雄物語にうまくつながらないのです。

 しかし、私は、それは理由があることだと思います。むしろ一般的で、凡庸であるからこそ、創立時の綱領たりえたと考えます。第一次共産党を創立する際に、それまで直接行動か議会政策か、アナーキズムかボルシェヴィズムかと論争してきた様々な流れが、国際連帯を求めて、一つにならなければならなかった。共同戦線党をつくるには、実はこういう水準での合意こそ、まずは必要であった、と考えています。つまり、1922年9月の時点で、日本の変革をめざして共産党をつくるために集まった人々の最大公約数的理解が、この創立大会綱領であった。モスクワにもっていって共産党創立を報告し、承認を得るために必要な限りでの綱領です。しかも当時は、大会で公然と議論して多数決で決めることなどできないわけですから、ごく狭い範囲の指導者たちの間で、短くて誰も反対できないような綱領をつくったのがこれであった、と考えます。

 もちろん起草者が山川均だという私の推論は、歴史的・学問的に確定したわけではありません。英文タイプですので、残念ながら筆跡鑑定もできません。しかし、先年亡くなられた、私にとってこの種の歴史研究の生き字引で助言者であった石堂清倫さんも、この英語文の調子からして、原文を日本語で山川均が書いて、荒畑寒村が英語に訳したのではないか、とおっしゃっていました。

 はっきりしているのは、第一次共産党創立メンバーのなかで、綱領をつくれる立場と力量・求心力があったのは、山川均、堺利彦、荒畑寒村の三人しかいなかったことです。その中で、山川均が綱領など理論面を担当し、モスクワとの関係で組織を代表したのがジェネラル・セクレタリーである荒畑寒村と、インターナショナル・セクレタリーであった堺利彦だった、と考えるわけです。

 

 再び現在の問題に関連して

 

 最後に、最初にお話しした問題に、立ち帰りましょう。ヨーロッパでは、共産党は社会民主党から左の分派として分かれ、ソ連の崩壊とともに、共産主義を捨てて社会民主主義に回帰しました。それに対して、日本の通説では、日本の社会民主主義は、共産党から分派として生まれたがゆえに、きわめてイデオロギー的で、共産党側の「反党分子」規定をはじめ相互の近親憎悪的対立が根強く、未だに統一できないだけではなく、両方とも先日の総選挙で勢力を激減させ消滅しつつある、という話になっています。

 しかし、20世紀初頭の社会民主党の結成を出発点に、平民社から継承される22年9月日本共産党創立綱領、さらには第一次共産党の22年から26年くらいまでの活動記録、モスクワに送られたさまざまな報告文書等々を見ると、日本の共産党も、やはり社会民主主義から生まれ出発したと考えられます。秘密資料を読むと、モスクワでは、27年まで、なんとか山川均を委員長に共産党を再建できないかと考えていたと思われます。ですから、27年テーゼまでの日本共産党=第一次共産党は、やはり日本の社会民主主義の出発点だったと考えてよいのではないか。ところが、「コミンテルン加入条件21か条」や「コミンテルン規約」に拘束される国際共産党日本支部であったため、山川イズム対福本イズムの対立があり、27年以降、山川、荒畑、堺の第一次共産党指導者たちが、徳田球一や渡辺政之輔ら第二世代に指導部を簒奪されて、それがモスクワ公認の共産党になっていく、それに対抗して労農派が形成される、という流れをたどるのです。

 そう見ると、日本でも、共産党は社会民主主義から生まれたと考えてもよいのではないか、ただしその社会民主主義が、ヨーロッパ型とは異なり、しっかり根付いていなかったのではないか、と思われます。

 私は、共産党系の人たちには、もっと社会民主主義、とくに北欧の社会民主主義に学べと言ってきました。しかし、実態的・政策的にかなり変わっても、日本共産党は、未だに社会民主主義に戻るという決断はできないようです。かつての「トロツキズム」と同じように、「シャミン」という軽蔑を込めた呼称も、いまだに残っているようです。

 社会主義協会の皆さんは、たぶん、自分たちは社会民主主義のオーソドックスな道を歩んできたと自負されていると思いますが、その社会民主主義の深さと広さが、今日問題になります。自分たちが第一次共産党の正統的継承者だということになれば、今度は、27年頃に自分たちの党を奪ってモスクワと結びついていった日本共産党に、今日どのような態度を取るのかが、問われているのではないでしょうか。

                                (以上)

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(参考資料:講演レジメ)

『山川均全集』完成記念学習会        労働者運動資料室 2003/11/30                

「20世紀日本の社会主義と第一次共産党」 (レジメ)

               加藤哲郎(一橋大学・政治学、katote@ff.iij4u.or.jp)

 

● 日本社会主義の「賞味期限切れ」?

1 社会民主党百年=経(縦糸)「社会主義」と緯(横糸)「民主主義」の日本的織色

2 「直接行動vs議会政策」「アナvsボル」とヨーロッパ社民党からの共産党分離

3 1922/9日本製綱領=共同戦線党型共産党からの出発=第一次共産党の基本性格

4 「27年テーゼ=君主制打倒の綱領化」の意味、「労農」、新労農党問題

5 第2の日本製綱領「31年政治テーゼ草案」による高揚=「非常時共産党」

6 「32年テーゼ」「講座派」の不幸、スパイ査問致死事件と多数派問題

7 「反ファシズム統一戦線・人民戦線」の現代的評価、「転向vs非転向」の悲劇

8 戦後日本の社会主義=社会主義インター最左派社会党vs「自主独立」共産党

9 20世紀日本における社会民主主義の政治的不在、還るべき「党」の喪失

● 受動的革命=日常生活の中での分子的変化の市民社会から政治社会レベルへのヘゲモニー的凝集=制度化水準、平和的生存権、労働権、生活権、環境権、男女平等参画

●「反共風土」?=共産党体験者百万人、無産政党・社会党・共産党投票者数千万人、「革新自治体」経験者数千万人の記憶の意味=何が「社会主義」に託されたか?

●「戦後民主主義」の4つの問題(被害者意識からの出発、「豊かさ・巻き込まれ拒否」的平和主義、沖縄等「周辺」の忘却、現存社会主義幻想)と「有機的知識人」の拡散

●「社会主義」より「社会をつくる」公共的記憶がいかに引き継がれるか──憲法問題

 

 1989年以降、旧ソ連の公文書館から日本社会主義の歴史についての秘密文書が次々と現れて、日本共産党が「誇り」にしてきた戦前・戦後の党史についても、新しい事実が次々に発掘され、学問研究の対象となってきた。

 これまで存在が知られていなかった1922年9月日本共産党創設時の綱領がみつかり、創立時の党(第一次共産党)は、荒畑寒村・堺利彦・山川均らの指導する、むしろ戦後の日本社会党につながる流れであったことが判明した。1927年にコミンテルンから「27年テーゼ」を与えられるまでは、「天皇制」を問題にしていなかったこともわかった。

 かつて片山潜・野坂参三・山本懸蔵が加わってつくられたとされてきた「1932年テーゼ」作成に、日本人共産主義者はほとんど関与しなかった。1930年代後半の「スターリン粛清」の時期に、当時ソ連にいた約80人の日本人が「スパイ」の汚名で逮捕され銃殺・強制収容所送りとなり、無傷で生き残ったのは、戦後日本共産党の「顔」となった野坂参三のみであった。その野坂が生き残った理由は、「同志」であった山本懸蔵を批判・告発して自己保身をはかったためであったことが明るみに出て、日本共産党自身も、100歳を越えて「名誉議長」をつとめた野坂参三を除名せざるをえなかった。

 戦前・戦後の党資金の出所や、宮本顕治が1933年に関わった「スパイ査問致死事件」についても新たな史資料が出てきて、党史の抜本的再検討を迫られている。フランスで『共産主義黒書』が大きな話題になったように、ソ連・東欧の「現存した社会主義」の歴史に加えて、日本共産党の80年の歴史も、日本の社会主義運動にとっては「20世紀の負の遺産」となりつつある。むしろ、社会民主党に始まる日本の社会主義運動全体が再審されていると考えるべきである。

<参考文献>

「加藤哲郎のネチズン・カレッジ」(URL: http://www.ff.iij4u.or.jp/~katote/Home.html)

 

加藤『東欧革命と社会主義』(花伝社、1990年)

加藤『コミンテルンの世界像――世界政党の政治学的研究』(青木書店、1991年)

加藤『社会と国家』(岩波書店、1992年)

加藤『ソ連崩壊と社会主義』(花伝社、1992年)

加藤『モスクワで粛清された日本人』(青木書店、1994年)

加藤『人間 国崎定洞』(川上武と共著、勁草書房、1995年)

加藤『現代日本のリズムとストレス』(花伝社、1996年)

加藤『20世紀を超えて──再審される社会主義』(花伝社、2001年)

加藤『国境を越えるユートピア』(平凡社ライブラリー、2002年)

加藤監修、フィッシャー=ポニア編『もうひとつの世界は可能だ!』(日本経済評論社、12月刊)

 

「ワイマール期在独日本人のベルリン社会科学研究会」(『大原社会問題研究所雑誌』1996/10)

「ベルリン反帝グループと新明正道日記」(新明正道『ドイツ留学日記』時潮社、1997)

「『32年テーゼ』と山本正美の周辺」(『山本正美裁判資料論文集』新泉社、1998)

「モスクワでみつかった河上肇の手紙」(『大原社会問題研究所雑誌』1998/11)

「1922年9月の日本共産党綱領(上・下)」(『大原社会問題研究所雑誌』98/2,99/1)

Biographische Anmerkungen zu den japanischen Opfern des stalinistischen Terrors in der UdSSR, in, Hermann Weber hrsg., Jahrbuch fuer Historische Kommunismusforschung 1998, Akademie Verlag, 1998 Berlin.

「第一次共産党のモスクワ報告書(上・下)」(『大原社会問題研究所雑誌』1999/8・11)

From a Class Party to a National Party : Japanese communist party survives through the worldwide decline of communist parties ( AMPO, Vol.29, No.2, March 2000, )

「『非常時共産党』の真実──1931年のコミンテルン宛報告書」(『大原社会問題研究所雑誌』2000/5)

「新たに発見された『沖縄奄美非合法共産党資料』について」(『大原社会問題研究所雑誌』2001/4-5)

「査問の背景」(川上徹『査問』ちくま文庫版「解説」、2001年7月)

「人民」(『講座 公共哲学 5 国家と人間と公共性』東京大学出版会、2002年)

「新発見の河上肇書簡をめぐって──国崎定洞と河上肇」(公開シンポジウム「コミンテルンと河上肇」報告、『東京河上会会報』74号、2002/1)

「日本の社会主義運動の現在」(『葦牙』第28号、2002年7月)

「現代世界の社会主義と民主主義」(『社会体制と法』第3号、2002年6月)

「芹沢光治良と友人たち──親友菊池勇夫と『洋行』の周辺」(『国文学 解釈と鑑賞、特集 芹沢光治良』第68巻3号、2003年3月)

「幻の日本語新聞『伯林週報』『中管時報』発見記」(『INTELLIGENCE』第2号、2003年3月)

「反ダボス会議のグローバリズム」(『エコノミスト』2003年5月13日号)、

「情報戦時代の世界平和運動」(『世界』2003年6月増刊号)、

「9.11以後の情報戦とインターネット・デモクラシー」(公共哲学ネットワーク編『地球的平和の公共哲学』東京大学出版会、2003年5月)

「グローバル情報戦時代の戦争と平和――ネグリ=ハート『帝国』に裏返しの世界政府を見る」(日本平和学会『世界政府の展望(平和研究第28号)』、2003年11月)


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