『アソシエ21ニューズレター』2002年6月(第38号)掲載「社会政策学会での「日本の社会労働運動」論議──栗木安延さんを追悼して」を、2008年4月、『栗木安延先生思いで集』(千書房)寄稿の追悼文「『熟練工』栗木安延さんを偲ぶ」で改訂増補


 「熟練工」栗木安延さんを偲ぶ   

                            

         

加藤哲郎(一橋大学・政治学)

 

 


 早いもので、もう7回忌だという。栗木安延さんのご逝去にあたっては、当時一度追悼文を発表し、私の個人ホームページ「ネチズンカレッジ」図書館に永久保存してある。『アソシエ21ニューズレター』第38号(2002年6月)に「社会政策学会での『日本の社会労働運動』論議──栗木安延さんを追悼して」と題して発表した、以下の文章である。

(http://homepage3.nifty.com/katote/kurikituito.html)

 

 [2002年]5月26日の日曜日、東京目白の日本女子大キャンパスに久方ぶりで入った。社会政策学会第104回大会の分科会「20世紀・日本の社会労働運動 その記録と記憶の確認」の報告者として。学会の会員ではない。アソシエ21でもおなじみだった、故栗木安延さんのピンチヒッターとしてである。専修大学を退職して悠々自適の生活に入ったばかりの栗木さんは、3月1日に急逝された。享年71歳、まだまだ研究を続けられる年だし、ご本人も、日本の社会運動史の総括に本格的に取り組む構想だったようだ。誠に残念である。
 たぶん、その助走のつもりだったのだろう。栗木さんは、5月の社会政策学会に向けて、「社会民主党結成100年」を念頭において、これも法政大学を退職したばかりの高橋彦博さん、高知短期大学から法政大学大原社会問題研究所に移った芹沢寿良さん、それに長崎総合科学大学から東京に戻って天皇制と日本共産党史研究の仕上げに入った犬丸義一さんという学会のオールド・ボリシェヴィキたちと共に分科会を立ち上げ、自ら報告することになっていた。
 すでに学会企画委員会に提出されていた栗木さんの報告要旨は、当日司会の高橋さんから紹介された。「栗木安延『労働組合期成会から百年』 封建的資本主義の弾圧から恒常的労組の組織化困難、争議団形態が戦前期の特徴。ナショナルセンターが継続性・持続性を持てない側面は戦後も再生産。政党と労組の関係における否定的側面も絡む。左翼弾圧に始まり労組の全面的徹底的な弾圧。戦後民主化主体として労組の恒常化、政党との関係は克服できず、主力だった産別会議は後退し、総評で抵抗した。安保闘争の労組リーダーの右旋回策動で後退を続け、労組空洞化を生む」とある。いかにも『アメリカ自動車産業の労使関係』(社会評論社、1997年)の著者らしい、「熟練工の職人的味わい」のある総括だ(この表現は、私が『図書新聞』98年3月7日号に寄せた同書への書評で捧げた。その指標も永久保存してあるhttp://homepage3.nifty.com/katote/KURIKI.html)。
この構想を抱えたまま、栗木さんは急逝された。そこに高橋彦博さんからピンチヒッターでの報告依頼が来た。私は快諾した。栗木さんに「借り」があったからである。栗木さんの遺著となった『検証・内ゲバーー日本社会運動史の負の教訓』(社会批評社、2001年)の出版記念を兼ねたシンポジウムが2月3日にあり、栗木さんの最後の公的舞台になった。私はこの本をもらって、栗木さんの唯一前衛党論批判は以前から私も論じてきたものだったが、生田あいさんの身を切るような体験の告白に感心して、いったんパネラーを引き受けた。ところがそこに、中国北京大学から「冷戦後の世界社会主義運動」という国際シンポジウムの招待状が届いた。ロシアからロイ・メドヴェーデフも出席というので、重なる日程から北京行を優先した。その旨いいだ・もも氏に伝えたつもりだったが、連絡の行き違いで、「内ゲバ」シンポ直前まで私の名前はパネラーに載っていた。北京から生田さんに電子メールでお断りしたが、栗木さんはがっかりしていたらしい。おまけに高橋さんの依頼は、私が北京で報告した「日本の社会主義運動の現在」をそのまま社会政策学会報告に転用してほしいというもの。特別の準備もいらないので、引き受けることにした(北京シンポでの私の報告は『葦牙』第28号、参加記は『社会体制と法』第3号に掲載)。
 4月28日に、ゆかりの専修大学で、「栗木安延さんを偲ぶ会」があった。そこでの追悼スピーチでもふれたが、栗木さんとは、「フォーラム90s」やコミンテルン研究とは別に、浅からぬ縁があった。栗木さんの大学院時代の恩師だった故小林義雄教授が、有沢広巳の東大経済学部ゼミ生で、私が長く探求する「ワイマール末期在独日本人反帝グループ」の一人なのである。栗木さんが編集した『小林義雄教授古稀記念論集 回想録と日本経済』(西田書店、1983年)は、この研究の数少ない活字資料の一つで、栗木さんから小林回想録のもとになった聞き取りテープをいただき、95年の小林義雄教授の葬儀の席では、栗木さんに促されて拙著『モスクワで粛清された日本人』(青木書店、1994年)に書いた小林義雄と国崎定洞のベルリン留学時代のつながりを話したこともあった。
 この栗木編の小林義雄回想をも用いて、近く一緒にドイツで活動した島崎藤村の末子島崎蓊助の回想録が、私の編集で刊行される[その後、加藤哲郎・島崎爽助編『島崎蓊助自伝ーー父藤村への抵抗と回帰』平凡社、2002年として刊行]。もっとも、栗木さんと私は社会運動史研究では重なるが、栗木さんは主として労働史・労働運動史、私は政党史や国際比較で、視点の違いがある。学会報告では栗木説と異なる自説を述べることを、奥様にも事前に伝え許していただいた。
 さて社会政策学会の当日である。帝国大学の国家学会に対抗して創立された日本で2番目の伝統を持つ学会で、労働運動史や労使関係など左派の論客も多い。もっとも事前にもらったプログラムの明治大学遠藤公嗣さんの報告要旨を見ると、社会政策学会内でも労働研究者が少なくなっているというから、ある程度は予測できた。案の定、福祉や年金の部屋はいっぱいなのに、聴衆は大教室に30人ほどで、高齢者が多く、若い参加者は大体旧知の研究者だけである。もともと正統派犬丸義一氏と異端派栗木さんのバトルが想定されていたらしいが、栗木さんからバトンタッチされた私と犬丸氏も、『大原社会問題研究所雑誌』等で名指しで論争し合う日本共産党史研究の世代間ライバルである。もっとも、芹沢「反レッドパージ闘争から50年」、犬丸「日本共産党結成から80年」のタイトルを見て、私も「日本社会主義の100年」のレジメを用意したのだが、犬丸氏の体調がすぐれず、大会直前にコメントにまわることになって、本格的公式バトルは肩すかしとなった。栗木さんが報告していても、同じだったろう。
 報告は30分であるから、全面展開はできない。司会の高橋さんは100年前の社会民主党「宣言」の有名な「社会主義を経、民主主義を緯」を引いて、その織り合わせを論点にしようとした。芹沢報告は、全学連結成から反イールズ闘争、ポポロ事件、メーデー事件の流れで、朝鮮戦争時の学生運動を概観した。東大・早大・京大・東北大等でこの期の運動体験者の「記憶の記録」刊行が始まっており、同時期の沖縄非合法共産党研究を始めた私も大いに興味があったが、日本共産党「50年問題」との関連がやや物足りなかった。
 私の報告は、北京シンポ報告・参加記で分析した世界と日本の社会主義運動の劇的凋落、そもそも社会主義は個人主義に対抗して生まれ、「資本主義対社会主義」の構図は20世紀に特有な歴史認識だったことを前提に、「団結と前進」ではなく「自律と省察」のために「日本社会主義の賞味期限切れ」を率直に認め、その批判的分析に入ることを提唱した。
 「記録」のレベルでは、犬丸義一氏が同席するので、氏と論争中の「1922年9月日本共産党創立綱領」の英文原文から34年「多数派」資料中の「スパイは殺してもいい」と日本語で明記した旧ソ連秘密文書までを示し、ソ連崩壊でようやく日本共産党史の史実に即した研究の素材が現れたこと、そうした資料が和田春樹・アジベーコフ編ロシア語資料集のほかマイクロフィッシュ版でも入手できるようになったこと、それらに照らすと、日本共産党の公式党史は時々の党指導部の「記憶」にすぎず、「22年綱領草案」「32年テーゼ」「61年綱領」等大文字で書かれた「党の戦略の正しさ」を基準に党史のみならず労働運動や学生運動まで評価ないし断罪してきた研究姿勢は根本的再検討を要する、と述べた。無論、芹沢報告や栗木さん遺稿「報告要旨」中の「政党と労組の関係」を念頭においてである。
 さらに「記憶」のレベルでは、故石堂清倫氏の問題提起を受けて、「『革命幻想』崩壊後の社会主義運動の評価基準」を、「1、共産党政権・国有化がなかったから『敗北』か? 2、受動的革命=日常生活の中での分子的変化の市民社会から政治社会レベルへのヘゲモニー的凝集・制度化の水準、3、何が『社会主義』に託されたか、『反共風土』の問題か?=共産党体験者100万人、無産政党・社会党・共産党投票者、『革新自治体』経験者数千万人の記憶の意味」等に触れ、「社会主義」よりも「社会をつくる公共的記憶」がいかに引き継がれるかが問題で、日本にはヨーロッパと異なり共産主義が崩壊後に回帰する社会民主主義の本格的伝統がなかったため「賞味期限切れ」になったこと、今改めて「経=社会主義」と「緯=民主主義」の日本的織模様を総点検する必要があること、等々を論じた[後に加藤『情報戦の時代』花伝社、2007年、に「補論」として収録]。
 犬丸氏のコメントは、体調のせいか断片的で、残念ながら本格的論争にならなかった。私がA・グラムシの「機動戦から陣地戦へ」になぞらえて「政党・組織中心の陣地戦から21世紀型情報戦へ」と報告し、犬丸氏の質問に答えて「陣地戦の時代に機動戦が戦略から戦術に格下げされたように、情報戦の時代にも陣地戦風組織は無意味になるのではなく副次的に残る」と応じたのは、別に敬老精神ではなかったが、安堵されたようだった。
 実は終了後の二次会・三次会では、高橋さんらと共に、犬丸氏から「50年問題」の重要な「記憶」の証言を得たのだが、栗木さんとはもはや共有できない。アソシエ21「日本共産党研究会」等を通じて、若い研究者の現れることを期待したい。それこそが、故栗木安延さんが苦労して収集した社会運動史資料に意味を与え、蘇生させる方途であり、犬丸氏を含む「社会労働運動」分科会に集った人々の共通の想いと思われた。

 

 それから7年たって、以上の追悼文に付け加える点は多くはないが、ひとつだけご墓前に供えるべき話を追加しておこう。

 上に簡単に記した栗木安延さんの恩師小林義雄教授ら在独日本人反帝グループの活動について、その後私は英語でTetsuro KATO, Personal Contacts in German-Japanese Cultural Relations during the 1920s and Early 1930s ,in "Japanese-German Relations, 1895-1945  War, Diplomacy and Public Opinion" , edited by Christian W. Spang, & Rolf-Harald Wippich (Routledge, 2005)を発表し、日本語では工藤章・田嶋信雄編『日独関係史』全三巻の第三巻「体制変動の社会的衝撃」巻頭論文「ヴァイマール・ドイツの日本人知識人」を寄稿した(東大出版会、2008年3月)。

 独語版も来年刊行が予定されており、日本語では岩波書店から単著を準備中だが、栗木さんが聞き取りをした小林義雄回想は、重要な素材の一つになっている。カセットテープをCD-ROMにする作業はできていないが、栗木安延さん自身の周到な準備と「聞き手」としてのうまさがよく表れている。「語り部」との距離の取り方、異郷の地での恩師の反ナチ地下活動や青春時代の内面の機微を引きだす手腕は、円熟し絶妙である。「オーラルヒストリー」の手法を早くから駆使してきた栗木さんの仕事は、今こそ顧みられるべきである。

 最近このテープにも入っていない、1930年代初頭上海でのゾルゲ=尾崎秀実=スメドレー・グループの活動の日本側連絡ポストの一つが、「東京商工会議所 小林義雄」となっているという問いあわせを受けた。もしも栗木さんがご存命ならば、一緒にゾルゲ事件の深奥の謎に迫ることができたのにと、今更ながら喪った貴重な「熟練工」の存在の大きさを思い知らされている。 合掌!

 



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