この記録は、東京都国立市の、1967年市政施行後の非公式政治史である。もともとは『国立市史』下巻(1990年)及び『国立市議会史』記述編(2003年)のために書かれた、加藤哲郎執筆分担部分の草稿であるが、その公式記録は、自治体の出版する立派な書物として公刊されているので、ここでは、同じく国立市の刊行した『くにたちの歴史』(1995年)の加藤執筆部分を第一部入門編として冒頭に掲げ、国立市の戦後を概観した上で、1967年以降の「文教都市」国立の政治史を通史的に記録した第二部専門編を掲げる。出版物では用いた市の広報資料・市議会議事録など重要資料、それにカラフルな図表・写真等を省略しているので、これは、公刊されたものとは別個の、個人責任による非公式インターネット版である。引用等は、公式の『国立市議会史』記述編にあたられたい。(2003年6月)
戦争が終わった 昭和二〇(一九四五)年八月一五日、一五年戦争が終わりました。日本は連合軍にやぶれ、アメリカを中心とした占領軍の支配下に入りました。
空襲警報におびえる必要は、なくなりました。しかし、戦争の傷跡は深いものでした。アメリカ軍のB29が落とした爆弾が、谷保村のたんぼや畑で爆発することがありました。家族や兄弟をなくした人も、数多くいました。
九月四日の昼すぎ、国立地区では回覧板が回され、「外出通行禁止」の通知がありました。その夜、米軍が国立に進駐してくるというのです。けっきょく、その夜は米軍は来ませんでしたが、人びとは、しっかり戸締りして、息をひそめて夜明けを待ちました。
一一月には、連合軍総指令部の米軍将校が、谷保天満宮を調べにきました。なんでも神風特攻隊がお宮の屋根から飛び立ったらしいという噂をききつけ、天満宮の倉を調べにきたのです。もちろんそれはデマで、出てきたのはお宮の獅子頭だけでした。米軍将校は、調査もそっちのけで、獅子舞を見せてほしいと村人に頼みました。
すぐには無理だが四日後なら準備できるというと、その四日後に、今度は十人もの米軍将校がやってきました。
天満宮では、役場から特配の酒をもらって将校にふるまい、芋やこんにゃくの煮物で米兵をもてなしました。特配の酒をのめない村人たちは、カストリの焼酎を手に供応しました。米兵は、酒はうまそうに飲みましたが、こんにゃくの煮物にはとまどったようです。箸でさしてブラブラさせる様子がおかしかったと、村人たちは話に伝えています。
食糧難の時代 大学通りを進駐軍のジープが走り、こどもたちは、ガソリンの匂いにひかれてそれを追いかけるようになりましたが、人びとがいちばん困ったのは、食糧の調達でした。
米は配給制で、現在の多摩中央信用金庫の前の緑地帯に、国立地区の配給所がありました。遅配・欠配がつづき、週に二度も食べれればましなほうでした。国立地区では敗戦前から買い出しが始まっており、着物を米やさつま芋と交換するようになりました。谷保や府中・国分寺では調達できず、秋川方面や埼玉・群馬まででかけることもありました。
庭のある家では、家庭菜園を始めました。土地のない人は、役場から土地を割り当ててもらい、かぼちゃや菜っ葉を栽培しました。現在の紀ノ国屋のある角地に空き地があって、石ころだらけの畑を耕していたといわれます。
米の配給の代用品は、さつま芋、じゃが芋、豆粕、こうりゃんなどでした。それも質の悪いもので、さつま芋はふかすと味もそっけもなく、豆粕は油を絞ったあとのパサパサしたものでした。軍用のカンパンがときどき配給されると、こどもたちは、それを食べては水をガブガブ飲んで、腹をいっぱいにしました。
昭和二一(一九四六)年に、政府は食糧緊急措置令を公布し、警察の力で強制供出にのりだしました。闇市・闇米をとりしまるためです。谷保村でも、きびしく供出が実行されました。闇米一俵なら四千円にもなりましたが、供出では一俵六百円でした。農家の人びとはしぶしぶ供出に応じましたが、なかには俵に石をつめて目方をごまかす者もありました。
その農家でも、米がたべれるわけではありません。米三分に麦七分の黒い飯が普通の食事でした。農地改革が終わる昭和二四・二五年頃まで、そんな状態が続きました。
農地改革は、昭和二〇(一九四五)年一一月二三日現在、その土地を耕作しているか否かを基準に、谷保村でも実行されました。不在地主の土地や未耕作地は、農地委員会の手で買収され、売り渡されました。大地主が田畑を解放し、小作農民は自分の土地を手にしました。谷保村の農地改革は、農地委員会の発足から約一年八ヵ月で買収・売渡しがほぼ一〇〇パーセント完遂されるという北多摩郡第一位の実績で、他地域にくらべれば、スムーズなものでした。
女性にも選挙権 戦前の日本では、家父長制のもとで、女性が抑圧されていました。戦後の占領改革で、男女平等・婦人解放が初めて認められ、昭和二一(一九四六)年四月の総選挙から、女性にも選挙権・被選挙権が付与されました。
昭和二二(一九四七)年四月、全国一斉に、戦後初の府県知事・市町村長選挙がおこなわれました。しかし谷保村では、戦前は地主や素封家が、部落推薦で無投票当選するのが習慣になっていました。敗戦の混乱のなかでの村長選挙には、だれもなり手がありません。デモクラシー(民主主義)という言葉は米軍がもたらしましたが、だれもまだ民主主義をどうつくるか知りませんでした。
やむをえず、旧来の慣習が守られました。各部落の総代と村会議員が、農業会長佐藤康胤の家を訪れ、村長選挙への立候補を要請しました。佐藤が説得されてこの要請を受け、戦後最初の谷保村長が決まりました。
村会議員選挙の方は活発でした。初めての女性候補や元小作人候補も名乗りをあげ、戦前非合法だった共産党も候補者を立てました。選挙の結果、二人の女性議員が生まれました。
当初の村議会は、のんびりしたものだったようです。新しい地方自治法のもとでも村の財政は貧困で、さしあたりは、農地改革の実行に力をそそがなければなりませんでした。
中学校ができた それまで国立には、都立国立中学校がありました。昭和二二(一九四七)年四月の学制改革で、国立中学は新制都立国立高校になることになりました(翌二三年四月から)。新制中学校は義務教育となったため、谷保村としては、村立中学校をつくらなければなりません。それが、昭和二二(一九四六)年五月一六日、谷保村立谷保中学校(現国立第一中学校)の開設です。
しかし、まだ校舎はなくて、五学級・生徒数二〇三名の入学式は、谷保小学校(現国立第一小学校)の講堂を借りておこないました。教職員は一二名でした。翌日から都立国立中学と都立五商の教室を間借りし、二ヶ所に分かれて授業が始まりました。
中学校校舎の新築費用は、村の財政と国の補助金のみではまかないきれませんでした。当時のサラリーマンの月給は一〇〇円ほどでしたが、なんとか二〇〇万円もの寄付を集めて、昭和二四(一九四九)年四月一三日、木造新校舎が完成しました。国立西地区の現在の第二小学校の場所で、生徒たちは教室の板や二階の手すりに頬をくっつけて、自分たちの学校ができたのを喜びました。
こうして中学校は国立地区にできましたが、小学校は、谷保地区だけでした(現第一小学校)。国立地区のこどもたちは、通学に不便な思いをしてきました。
そこで昭和二五(一九五〇)年五月一九日に、国立東区の東京消防庁消防学校(昭和??年開設)跡地の払い下げを機に、谷保中学校は現在の第一中学校の場所に移転し、国立西区の新校舎を新設の第二小学校にゆずりました。
昭和二三(一九四八)年には、懸案となっていた羽衣地区の立川市編入が実現しました。羽衣地区のこどもたちは、立川市の小学校に通っていましたが、親たちは、食糧や砂糖の配給のさいには、国立駅前の配給所まで歩いてこなければなりませんでした。住民たちはかねてから立川市への編入を望んでおり、谷保村議会と都の承認をえて、ようやく編入が認められたのです。
昭和二二(一九四七)年末の連合軍マッカーサー司令官の命令で、中央集権的な警察制度を民主化するため、自治体警察が創設されました。市町村にとっては、乏しい予算のなかでの自治体警察は財政上の大きな負担でしたが、マッカーサーの命令では仕方がありません。国立では、現在の公民館の所に谷保村自治体警察の庁舎がつくられ、一七人の警部補・巡査部長・巡査が配属されました。
農村青年会の活動 戦後の民主化・復興の新しい息吹きが、若い人びとのなかから生まれてきました。昭和二一(一九四六)年一月一五日、谷保地区に、農村青年会がうぶ声をあげました。戦前の青年団は、文部省・内務省のおしきせの性格が強かったのですが、この青年会は、若者たちの自主的組織でした。初代青年会会長沢井義雄は述べています。
青年会の若者は、平野力三や美濃部亮吉を講師によんで文化講演会を開きましたが、食糧難の時代でなかなか人は集まりません。講師たちは、麦とじゃが芋の講師料でも気持ちよく講演を引き受けてくれたのですが、主催者の若者たちは不満でした。
そこで、昭和二一(一九四六)年四月一五日、部落対抗演芸大会を開くことにしました。谷保小学校の校庭に舞台をつくり、谷保地区九部落の代表が八四もの演題を準備しました。
まだテレビもなく娯楽も少ない時代だったので、近隣の老若男女がこぞって集まりました。大会では演劇・舞踊・歌謡曲・ハーモニカ合奏など、それぞれ趣向をこらして演技をきそい、夜中の一時まで続く大盛況でした。
青柳部落の「巡礼おつる」や中平部落の「春よ春」の熱演は、まるで戦前抑えられていたエネルギーが爆発したようにはつらつとしていて、村人たちのあいだで評判になりました。
農村青年会は、その後も文化祭、運動会、盆踊り大会、農産物品評会などを開いて青年たちの交流につとめ、地域の振興に力をつくしました。後に青年団と名前をかえましたが、自然解散する昭和三八(一九六三)年頃まで活発な活動を続けました。
谷保か国立か 昭和二二(一九四七)年の地方自治法公布をきっかけに、谷保村の村名問題がおこり、はげしい議論がくりひろげられました。
そのころの谷保地区は、昔からの農村集落が広がっていて、佐藤康胤を戦後の初代村長に送りだした本村でした。国立駅周辺の国立地区の方は、サラリーマン、学生や、工場労働者、引き揚げ者が住む、移動の激しい新開地でした。
谷保地区の人びとは、昔からの「谷保」の名を誇りにし、国立では「コクリツ」と間違われると反対しました。これに対して国立地区の住民は、中央線の駅も郵便局も国立を名乗り、谷保では保谷と間違われやすいし世間にも通りがいい、と主張しました。
そこで村議会では、一つの妥協案がつくられました。それぞれ一字をとって「国保(クニホ)」とする案がまとまりかけました。
これに対して国立地区の住民たちから、猛反対がおこりました。国立地区のインテリ層を中心とした住民たちの自治組織、国立会の人びとが中心でした。アンケート調査では国立地区住民の九九パーセントが「国立」を希望していると、国立会の文化運動の機関誌である『国立文化』などで、PRにつとめました。けっきょくこの時は、村長・議会側も「国保」案をとりさげました。
ところが昭和二六(一九五一)年二月、問題が再燃しました。この間に谷保村の人口は一万五〇〇〇人にふくれあがって、町制施行が避けられなくなり、ふたたび町名問題が浮上したのです。この間急増した人口のほとんどは、国立地区の方でした。もしも住民投票にかければ、谷保地区の方が分が悪いのは明白でした。そこで谷保地区の議員たちが妥協し、むしろ進んで「国立町」を提案することにしました。
昭和二六(一九五一)年三月の谷保村議会で、いったん「国立村」と改名しました。ついで四月一日の都知事の認可による町制施行にあたって、「国立町」となりました。正式名称のうえでは、ここから現在の国立の歴史がはじまったのです。
米兵の出入りする町 現在の国立駅前のロータリーには、「国立文教地区」の看板が掲げられています。
この文教都市としての国立は、たんに大学や学校の数が多いからではありません。一九五〇年代の町を二分する大論争のすえに、決められたものでした。
昭和二五(一九五〇)年六月、朝鮮戦争が勃発しました。まだ占領下にあった日本は、米軍の前線基地になりました。隣の立川市には基地があり、多数の米兵が進駐してきました。立川には米兵相手の飲食店がたちならび、ホテルやキャバレーが林立しました。町には当時パンパンガールといわれた、売春婦の姿も目立ちました。
その影響は、国立にもおよんできました。米兵と肩をよせあって歩く女性の姿がみられ、国立駅の周辺には、米兵相手の簡易旅館や飲食店が出現しました。下宿屋が学生を追い出して、ホテルに鞍替えするところも現れました。また、こどもが銭湯で性病に感染したが、これは売春婦からうつされたものだ、という噂が流れました。
国立町浄化運動 谷保村が国立町になった直後、昭和二六(一九五一)年五月六日の夜、応善寺の本堂に主婦など約三〇人の人びとが集まって、町の浄化運動について話しあいました。
そのメンバーは五月九日には五〇人に増えて、国立町浄化運動期成同志会を結成しました。会員たちが手分けして署名運動をはじめ、二、三日で三〇〇〇名もの署名を集めました。新聞もこの運動を大きくとりあげました。問題は環境浄化からこどもの教育の問題に広がって、議論が沸騰しました。
一橋大学(東京商科大学は昭和二四年五月から新制の一橋大学に変わりました)の学生・教職員も浄化運動を歓迎し、五月一四日の学生大会では三〇〇名の学生が「国立町を文教地区に指定する運動を促進する」「国立町から歓楽街を追放する」と決議しました。
国立音楽大学(国立音楽学校は昭和二五年二月から国立音楽大学になりました)や四つの高校(都立国立高校・都立第五商業高校・桐朋高校・国立音楽大学付属高校)の教職員・学生も加わって、五月一八日には国立町浄化大学学校連合会も結成されました。
とはいえ、すべての町民が、ただちに浄化運動に合流したわけではありません。町には米軍流入で生活したり利益を得ている旅館業者や商店主もいて、町の繁栄という観点から慎重に対処すべきだという意見もありました。
文教地区指定をめぐって 国立の浄化運動の特徴は、「文教地区指定」をかかげたことでした。昭和二五(一九五〇)年一二月に公布された東京都文教地区建築条例に注目して、この指定の実現を、運動の柱にすえたのです。
この条例は、市街地の青少年の環境を守ることを目的にしたものです。建設省と東京都から文教地区に指定されると、その地区には、風俗営業取締り法の適用を受ける料亭・キャバレーなどの建物は立てられず、ホテル・旅館建築も制限されます。「文化施設を中心として教育文化の環境を保護育成する」ためとうたわれ、都内では、本郷の東京大学周辺、三田の慶応義塾大学周辺、早稲田の早稲田大学周辺、大岡山の東京工業大学周辺などが、この指定を受けました。
浄化運動を推進する人びとは、「文教派」ともよばれ、町議会での文教地区指定を決議することを目標にしました。
昭和二六(一九五一)年五月二四日の町議会は、賛成派と反対派、即決派と慎重派とに、分かれました。満員の傍聴人の前で、長時間の熱気にあふれた審議が続きました。けっきょく文教地区指定に賛成し、その種別や範囲は別途委員会で決定する案が多数となりました。しかし議員のなかには、直接の利害をもたない谷保地区選出議員や、さまざまな理由からやむをえず賛成した議員もいました。実際の指定の実現までは、まだまだ予断を許しませんでした。
じっさい六月以降になって、反対派の巻き返しがはじまりました。谷保地区の議員や住民を説得し、商工会にも働きかけました。国立の経済的発展のためには文教地区指定は障害になる、町がさびれ税金が高くなるというのです。それは、多くの商店主の不安を強めました。国立会など文教派の運動は反米の政治運動だという非難も、一部の町民を動揺させました。
満員の町議会 六月一六日には、「文狂地区指定、町民一万五千の墓穴大工事」というマンガ入りプラカードをはじめとした反対派の立看板が、駅前広場にずらりと並びました。文教派も、一橋大学学生を中心にただちにこれに反撃するプラカードをつくり、ビラをまきました。町はわきかえりました。暴力団が介入するという噂さえささやかれるほどでした。
七月四日の町議会は、感情的対立をはらんだ非難の応酬の場となりました。満員の傍聴者の前で、夜中の二時まで十二時間にわたって議論が続けられました。ついに五月の決議をくつがえして、反対派の請願が採択されました。
これに対して文教派は、運動を立て直そうと、「私たちの住んでいる所を文教地区指定にしてもらう会」をつくりました。駅前周辺での運動だけではなく、広く町民に訴えることにしました。国会やマスコミにも訴え、世論で反対派を包囲しようとしました。
参議院議員の国立での現地調査がおこなわれ、NHKのニュースが「国立の問題は全国の問題だ」と放送するにおよんで、ふたたび文教地区指定賛成の声が高まりました。八月九日の町議会は、超満員の傍聴者に見守られるなかで、反対請願を否決し却下するという、再逆転の議決をしました。
こうして町議会でも、文教地区指定の道が開かれました。しかしなお難しい問題がありました。東京都文教地区建築条例には、同じ文教地区でも、より厳しい第一種と第二種の区別があり、区域をどのように設定するか、第一種と第二種をどこで線引きするかという問題が残されました。議論の結果、町全体の三分の一の八四万九千坪を文教地区とし、内四八万六千坪を第一種文教地区、三六万三千坪を第二種文教地区とすることにしました。
昭和二六(一九五一)年一一月三〇日の東京都都市計画審議会で国立町の文教地区指定が可決され、昭和二七(一九五二)年一月六日には、建設大臣から正式に認可されました。全国市町村のなかでは初めての指定でした。
文教地区運動の遺産 昭和二七(一九五二)年二月一日、文教地区指定を達成した運動に参加した人びとは、国立文教地区協会をつくって浄化運動を継承しました。
会長に一橋大学中山伊知郎学長、副会長には佐藤康胤町長と国立音楽大学中館耕蔵理事長を選んで、依然として目につく「夜の女」やいかがわしい商売などを、国立の町から追放しようとしました。
そのために、立川基地に申し入れをしたり、政府に陳情したりする活動を続けました。その後十年ほど活動した文教地区協会は、文教都市国立の象徴的存在でした。
文教地区指定運動に参加した学生・青年たちのなかから、昭和二六(一九五一)年八月、土曜会という文化サークルがつくられました。会員は最初は二〇人ほどでしたが、三年ほどで一三〇名以上になりました。コーラス、読書、新聞、雑誌、レコードコンサート、人形劇、映画などのサークル活動を通じて、自由に考え行動する気風をつくっていきました。
昭和二七(一九五二)年六月一日の町民大運動会は、土曜会が、国立婦人の会、国立会、東区商工会、中央商工会、青年団国立支部などと共催したものでした。五千名をこえる町民が、一橋大学グラウンドに集まりました。この運動会は、前年の町を二分した論争から町民が新たな融和を結ぶための、架け橋となりました。
土曜会はまた、昭和二九(一九五四)年一月に図書館を開設しました。この図書館は、「みんなの本棚」とも呼ばれ、後の公民館図書室の基礎をかたちづくりました。
土曜会の会員のなかから、町議会に進出する若者も現れました。
昭和二七(一九五二)年の自治体警察の廃止問題や教育委員選挙にあたっても、国立会などとともに、町のあり方について積極的に発言を続けました。
学園都市をめざして 谷保村から国立町へ、浄化運動から文教地区指定へという流れのなかで、国立の町づくりの中心に、教育問題が浮上してきました。町の予算のなかの教育支出は、昭和二八(一九五三)年頃から、全支出の三割をこえるようになります。
昭和二九(一九五四)年の第三小学校、同三二(一九五七)年の第四小学校開校をはじめとして、教育施設が徐々に充実していきます。昭和三三(一九五八)年には、第二中学校も開校しました。
町の中心に位置する一橋大学、国立音楽大学(昭和五三年に立川市に転出)、都立国立高校、都立第五商業高校、桐朋学園、国立音大付属高校(昭和二四年開校)などのほか、東京女子体育大学(学校法人藤村学園が昭和三七年に青柳に移転・開設)、東京キリスト教学園(昭和三八年国立に移転後、昭和六三年に千葉市に転出)、NHK学園(昭和三八年開設)、中央郵政研修所(昭和一八年国立に移転した逓信官吏練習所が昭和二九年改称)・郵政大学校(昭和四〇年開設)、国立学園、滝野川学園など、さまざまな分野のそれぞれに特徴を持った教育文化施設が、国立には集まっていました。
これらの学校に学ぶ学生や学者・教師をはじめとして、芸術家などさまざまな領域の専門家も、町に集まってきました。それらの人びとが町にいることが、教育文化活動の支えになり、こどもたちの教育に大きな役割を果たしました。
そのなかから、PTA活動や公民館運動も、多彩な活動を繰り広げるようになります。
昭和二八(一九五三)年七月、国立会、国立婦人の会、文教地区協会、土曜会、青年団、中央商工振興会、東区商工会などが、国立町公民館設置促進連合会を結成しました。この連合会は、町長と町議会に公民館設置の要望書を提出し、それを受けて、昭和三〇(一九五五)年一一月三日に公民館が開館されました。
生まれたばかりの国立公民館は、廃止された自治体警察署の建物を利用した、ゼロからの出発でした。初代館長早坂禮吾は、開館式の模様を次のように述べています。
教育にかかわる市民の団体としては、国立町公立学校PTA連絡協議会(P連)が、昭和三三(一九五八)年八月に結成されました。教員の就労状態ばかりでなく人格や教育効果の評価をも行う「勤務評定」が全国的に問題になるなかで結成され、その後の国立の教育問題で大きな役割を果していきます。
昭和三五(一九六〇)年の日米安保条約改訂にあたっては、日本全体で国民の反対運動がおこなわれました。国立でも、五月一六日に町議会が安保条約反対の請願を可決し、六月一八日には第二小学校校庭で安保阻止・岸内閣退陣を要求する町民大会が開かれました。
都市化の波 敗戦直後の国立では、地方に疎開していた人、旧植民地から引き揚げてきた人、軍隊から復員してきた人びとなどによって、人口の増加がみられました。
昭和二六(一九五一)年四月、谷保村から国立町へと町制を施行した時点では、町には約三五〇〇世帯、一万五〇〇〇人が住んでいました。昭和のはじめとくらべると世帯数で七倍、人口では五倍にも増えました。
この人口増加の勢いは、昭和三〇年代に入っても続きました。この傾向は、東京都でも、多摩地域でも同様で、これは、この頃から始まるわが国の高度経済成長に伴う、全国的な人口移動を示しています。それは、いわゆる都市化であり、人々が都心から郊外へと居住地を移したことによる人口の動きでした。スプロール現象といわれるように、都市が郊外にむかって虫喰い状に広がったのです。
国立地域での都市化の波は、敗戦直後は人口の過半が住んでいた谷保の本村地区の人口が、昭和二一ー二二年にかけて国立地区に追い抜かれ、その後は、どんどん差が開いていくというかたちで進みました。この傾向は、国立全体の人口がほぼ頭打ちになる昭和五五(一九八〇)年頃まで続きます。
もっとも今日の行政区画で細かくみると、昭和二五年から三五年までの一〇年間(一九五〇年代)の人口の増加と、三五ー四五年の一〇年間(一九六〇年代)の人口の増加では、同じ都市化といっても、少しちがいがあります。
一九五〇年代には、一万七〇〇〇人をうわまわる人口の急増がありましたが、それは、おもに国立地区の東・西・北・中区での増加でした。国立全体の人口増加倍率は二・三倍ですが、東区では三倍、北区が二・八倍、西区が二・六倍、中区は約二倍で、谷保・青柳・石田は一・三倍でした。
続く一九六〇年代には、約一万五〇〇〇人の人口が増えましたが、今度は谷保・青柳・石田地区が最も増加倍率が高く、ついで西・東・中・北の順に低くなります。都市化の波が、国立駅前から徐々に広がって、谷保本村地区の方へと波及していったことがわかります。
なかでも重要な変化は、昭和四〇(一九六五)年秋に、富士見台団地が完成して、一挙に八〇〇〇人もの新住民が増加したことでした。その頃には、国立の都市化はほぼ完了し、次の昭和四五年以降の一九七〇年代になると、人口増加は合計五〇〇〇人以下となります。富士見台、谷保・青柳・石田地区ではまだ人口が増えていますが、東・西区は微増にとどまり、北・中区では人口減少に転じます。
急速な宅地化と変わる風景 国立の風景が、都下の農村イメージから近郊住宅都市へと変貌したのは、国立町の時代(昭和二六ー四一年)だといわれます。
国立の原風景は、当時の立川短期大学学長中野藤吉が次のように述べているように、牧歌的なものでした。
昭和三〇年代に入っても、市街地は、武蔵野の雑木林と田園風景のなかに遠慮がちにたたずんでいるようでした。昭和三三(一九五八)年には、総面積の三七パーセントまで宅地化が進んでいましたが、まだ四五パーセントは田畑・山林・原野で占められていました。
それが、市制施行直前の昭和四一(一九六六)年には、原野が消え、田畑・山林で三一パーセントに対して、宅地が四九パーセントへと逆転します。さらに昭和六〇(一九八五)年には、田畑・山林一五パーセント、宅地五八パーセントにまで、住宅地が広がります。
それにともない、住民構成では農業人口が激減し、都市型勤労市民層が急増しました。とりわけ専業農家は、昭和二五(一九五〇)年の二五二戸が、昭和三五(一九六〇)年には一〇二戸に半減、昭和五五(一九八〇)年には一〇戸と、三〇年で二五分の一になってしまいました。
昭和三〇(一九五五)年の国勢調査では、国立の昼間人口は二万三八八八人、夜間人口は二万三一二五人で、まだ昼の方が人口が多かったのですが、昭和三五(一九六〇)年の国勢調査以降は、夜間人口が昼間人口をうわまわるようになりました。国立はこの頃から、ベッドタウン型の都市になったのです。
東京オリンピック 日本全体の、とりわけ東京の風景が大きく変わったのは、昭和三九(一九六四)年の東京オリンピックの頃だといわれます。
新幹線や高速道路が開通し、高層ホテルをはじめとしたコンクリートづくりの建物が都心に林立して、ニューヨーク、ロンドンなどと並ぶ、世界の大都市にふさわしい外観をみせるようになりました。
女子バレーボールの優勝など日本選手の活躍は、人びとの意識のうえでも、日本が一流国の仲間に入ったと感じさせました。
東京オリンピックの聖火リレーは、国立の町内をも、駆け抜けていきました。立川市から聖火を引き継いだ聖火ランナーは、羽衣町交番付近から富士見通りの公民館前を経て駅前ロータリーへと進み、中央線のガード下をくぐって国分寺へと抜けるコースを走りました。
国立町でも、七人のランナーを一般から公募し、選ばれた選手たちは、人びとの歓声のなかを、聖火を高くかかげて走りました。
高度経済成長が年ごとに人びとのくらしを変え、国中が活気にあふれて変化が実感される時代でした。
富士見台団地の誕生 そのころ国立でも、大規模土木工事が行われ、道路がつくられ、住宅建設がすすんでいました。だれにでも感じられる景観の変化は、昭和四〇(一九六五)年の富士見台団地の誕生でした。それは同時に、新住民を迎えた人口増加によって、市制施行が可能になるステップでした。
昭和三〇(一九五五)年の町長選挙で、町議会議員から町長に当選した田島守保は、南部線沿いの北側の畑地を区画整理して、谷保本村地区と国立文教地区をむすぶ新たな市街地をつくる構想を示しました。ちょうど日本住宅公団が発足して、住宅団地という新しい日本人の居住スタイルが生まれつつある時期でした。
多摩地域の公団団地建設は、日野の日野台地区(現多摩平団地)などから始まりますが、国立の南部線の北側地区も、有力候補として浮上してきました。
しかし、公団住宅誘致には、いくつか難問がありました。ひとつは、用地買収の問題です。関係地主の住む青柳・千丑・中平・下谷保などの部落からは、早くから団地誘致に反対の声があがりました。また、昭和三一(一九五六)年に制定された首都圏整備法では、人口増加を抑えようとする立場から、グリーンベルト地帯を設定することが計画されていて、国立市もグリーンベルト地帯に指定される案が出されていました。この指定を受けると緑と自然を残す地帯を確保しなければならないので、公団住宅誘致はむずかしくなります。
グリーンベルト指定には、調布市・府中市など他の関係市町村と共に強力に反対してなんとか指定をはずしてもらい、町会議員や農地委員を動員して関係地主を説得して、昭和三三(一九五八)年には、公団住宅誘致が本決まりになりました。町議会には、公団誘致のための特別委員会が設けられました。
ところが公団が用地買収に入ると、今度は価格面で地主と折り合いがつかず、一時は強制執行しなければという話がでるほど難航しました。けっきょく国立町当局は、都市計画法にもとづく土地区画整理事業として用地を確保するという迂回作戦をとって、なんとか用地問題をのりきりました。
約二三〇〇戸と予定された公団住宅団地の起工式が行われたのは、昭和三九(一九六四)年の暮れ、ちょうど東京オリンピックの直後のことでした。団地は昭和四〇(一九六五)年一〇月に完工し、翌四一(一九六六)年三月には完成式が行われました。
入居募集は昭和四〇(一九六五)年夏から始まっていましたが、二〇〇倍もの入居申し込み倍率の住宅もありました。抽選によって入居が認められた人びとは、一一月一日からぞくぞく国立に転入してきました。この団地入居開始に合わせて、国立第五小学校が開校されました。団地住民の通勤用の交通手段の確保のため、立川バスの谷保線・矢川線が、やはり一一月一日から営業を開始しました。
当時の『広報くにたち』は、入居申し込み倍率二〇〇倍の住宅さえ出た富士見台団地の誕生を、次のように報じています。
団地に入ってみると 建物ができても、いざ入居してみれと、やはりいろいろな問題がでてきました。第五小学校の開校はなんとか入居に間に合いましたが、予想以上の児童の急増で、二年もたたずに教室が不足する事態になりました。
富士見台団地入居開始直後の『読売新聞』昭和四〇年一一月九日は、「八千人いるのに交番のない団地」として、新たに団地に入居した主婦Aさんと、地元国立町に住むBさんの会話を載せています。
団地の新住民たちは、こうした生活上の問題の一つ一つを解決していかなければなりませんでした。そのために、昭和四一(一九六六)年一月二三日には、富士見台団地自治会が誕生しました。バス運行時間の延長、交番設置、保育園希望者全員入園・学童保育所設置など、団地住民の生活に密着した問題の解決を、公団や行政に要求していくことになります。
泥流の町からの脱皮 居住環境は、狭い意味での施設環境にとどまりません。ふだんは美しい国立駅前の大学通りは、河川が少なくゆるやかに傾斜した地形の影響で、雨が数日降り続くと泥流の大河のようになりました。人びとは、「水郷国立」などと自嘲的に語ってきました。父兄がこどもたちを背負って、河になった大学通りを横断する通学風景がみられるほどでした。
排水路を設けて水を流そうとすると、地形からして、汚水は府中や国分寺の方に流れます。そこで今度は、府中や国分寺から苦情がでる「水争い」となり、この問題は、歴代の町長・市長の頭の痛い行政課題になっていました。
とりあえずの対策として、下谷保から多摩川に排水するために、国立周辺排水路が計画されました。工事の着工は昭和二九(一九五四)年八月、八年後の昭和三七(一九六二)年三月に竣工しました。
それでも泥流の町からの脱皮は、スムーズには進みませんでした。抜本的には、周辺諸都市と協力して、本格的な下水道をつくらなければなりません。これが北多摩二号幹線流域下水道の整備事業で、市制施行後の昭和四二(一九六七)年十月に、ようやく国立・立川・国分寺三市による北多摩二号幹線排水路建設促進協議会が発足しますが、実際の工事はなかなか容易には進みませんでした。地域によっては、大雨のたびに被害が出るため、ふだんから土嚢をつんで用意している光景が長くみられました。
整備される都市環境 道路の舗装や水道・下水道・ガス・電話などの整備も進められました。
国立の象徴ともいうべき大学通りが舗装されたのは、昭和三六(一九六一)年に都道に指定されてからです。それも、はじめは通りのまん中の部分だけが舗装されたので、両端はそのままという奇妙な姿でした。
国立の井戸水は、立川の駐留軍関係の汚水が地下に流入しており、あまりいい水とはいえませんでした。町営水道は、昭和三二(一九五七)年に建設省・厚生省の許可がおり、昭和三四(一九五九)年三月から給水が開始されました。その後急速に普及して、昭和四一(一九六六)年には戸数で八五パーセント、人口の九五パーセント以上の住民たちに利用されるようになりました。
都市ガスの敷設は、昭和三一(一九五六)年の国立町瓦斯普及会に始まり、次第に普及してゆきました。
環境整備事業で国立が誇れるのは、し尿の化学的処理を全国でもいち早くとりいれた、清化園を建設したことでした。それは昭和三六(一九六一)年のことですが、それまでのし尿の処理は、農家がくみ取りにきて、畑の溜に貯蔵し腐熟させ、農産物の肥料にしていました。しかし市街地の人口が急増し、農家にも化学肥料が普及してきました。昔はくみ取りのお礼として、農家から大根やナスをもらっていた住宅街の家庭が、逆にお金を払ってくみ取りにきてもらわなければならなくなってきました。
昭和三〇年代にこの問題に直面した行政当局は、当時全国で一般的であったが広大な用地を必要とし臭気で難のある消化槽方式ではなく、静岡県清水市だけが採用しコンパクトで短時間の処理が可能な化学的処理の方式をとりいれ、多摩川河畔に清化園を建設して処理し、多摩川に流す処理場をつくりました。
この施設は、当時としては全国最先端・最新鋭の設備で、全国から視察・見学が殺到しました。その数は、完成した昭和三六(一九六一)年だけで、北は北海道から南は九州まで一〇八五名にのぼりました。
国立を活性化する商店街の努力 国立の商工業も変わりました。
昭和二〇年代初めの国立駅周辺は、昼間は学生だけで、人通りも少ないものでした。中央線の電車がとまっても、国立駅で降りる人が一人もいないことさえありました。
このような街を活性化して、商売を成り立たせるためには、商業にたずさわる人びとのさまざまな努力が必要でした。
戦後すぐの時期には、そば屋でそばを食べるにも、配給券が必要でした。大学通りの「やぶそば」では、配給用の小麦を持参すると、店の製麺機でうどんやそばをつくり渡してくれました。
昭和二四(一九四九)年五月、まだ谷保村の時代に、国立料飲組合という飲食業の組合ができました。発足時の組合員は、レストラン、天ぷら屋、寿司屋、喫茶店、アイスキャンデー屋などわずか七名にすぎませんでした。
それでもその夏、料飲組合は、国立駅前のロータリーで盆踊り大会を開き、翌二五年夏には、当時のNHKラジオの人気番組「三つの鐘」をよんでPRにつとめました。駅前ロータリーでの「三つの鐘」大会には、山梨方面からも人が来て、一万五〇〇〇人から二万人が駅前広場を埋め尽くしたといわれます。
しかし、商売が軌道に乗るには、時間がかかりました。駅前商店街のかたちが整うのは、昭和二〇年代後半から三〇年代にかけてのことです。
昭和二五(一九五〇)年頃から、富士見通り商工振興会、東区商工会、西商工会などが結成され、昭和二七(一九五二)年五月には、それらの連合組織として国立町商工連合会が結成されます。この連合会は、昭和三一(一九五六)年に国立町商業協同組合へと改組され、街路灯の設置などで商店街振興策に取り組みました。
この商業協同組合に、国立町銀座商工会、本町商工会、国立通り商工会、国立デパートが加わって、国立の商工業者の包括的組織である国立町商工会が設立されたのは、昭和三六(一九六一)年一一月のことでした。
公民館活動で有名に 国立の名を全国に広めたひとつに、文教地区運動の流れをくむ、公民館活動がありました。
国立公民館は、旧自治体警察庁舎を改造して、昭和三〇(一九五五)年一一月に発足しましたが、翌三一(一九五六)年四月から二人の職員が配属されて、本格的な活動がはじまりました。その活動計画などは、公民館運営審議会によってつくられました。
約三〇〇冊の土曜会図書室をひきついだ公民館図書室も、蔵書数を増やしていきました。図書館利用者は、昭和三二(一九五七)年の一一九八人から、二年後の三四(一九五九)年には一万二四五七人と十倍になります。
この図書室から、住民たちのさまざまな読書会が生まれました。『明治維新』や『現代に生きる思想』を学ぶものから、『夜明け前』や『主婦の生活設計』を読む会まで、さまざまです。これらの読書会は、青年団の青年学級ともむすびつき、農事研究や手芸、料理、コーラスなどのサークル活動とも共同して、活動の輪を広げていきました。
昭和三二(一九五七)年からは、公民館が主催する「現代教養講座」が始まりました。予想以上の反響をよんで、公民館の部屋では狭すぎ、一橋大学の学生食堂を借りてやっと開催できるほどでした。同じ頃から、移動映画会、定期ニュース映画会、こども幻灯会、レコードコンサート、コーラス指導者講習会、話し言葉研究会など、多彩な活動が繰り広げられました。
昭和三一(一九五六)年一一月には、公民館のよびかけで、第一回国立文化祭がひらかれました。その中心である「町民のつどい」では、谷保にふるくから伝わる「棒打ち歌」が実演されたり、天満宮の獅子舞が初めて外部で公開されたりしました。
昭和三〇年代後半には、公民館は、商工青年学級を開設し、現代教養講座を発展させた市民大学講座や国立婦人教室を開催するなど、国立の文化活動の発展の文字どおりの中心になっていきます。
集中講義方式での市民大学講座をいっそう発展させ、講師の講義中心ではなく、参加者自身の報告・討論を重視する市民大学セミナーも、昭和四一(一九六六)年に始まりました。そこから、『婦人の戦後史』『こどもの教育は守られているか』『大正デモクラシーの文学体験』などの記録が生まれ、全国から注目されました。
こうした公民館活動と、それを支える市民の学習文化活動を通じて、文教地区としての国立の名が、全国に知られるようになっていきました。
貧しくても誇りのある文教都市に 人口が増加し、駅前商店街も整っていったとはいえ、財政面では、国立は貧しい町でした。大きな工場も大会社の本社もないので、税収の面では、多摩の他地域とくらべても、町の財政基盤は弱く、ぜいたくはできません。
国立に市制が施行されたのは、昭和四二(一九六七)年一月一日ですが、それまでには、国立市の存立そのものに関わるような、さまざまな試みがなされました。
多摩地域の市制施行では、町村合併による場合が、多くみられました。昭和二九(一九五四)年の府中市誕生のさいには、府中町と多摩村・西府村の合併がありました。同年の昭島市も、昭和町と拝島村が合併してできたものです。昭和三〇(一九五五)年の調布市誕生も、調布町と神代町との合併でした。
国立でも、昭和三三(一九五八)年に、「都下の中心」をめざす立川市から、国立町に合併が打診されました。国立町は、「文教都市としての単独市制をめざす」として、これを断わりました。
近隣の小平は、昭和三七(一九六二)年に、日野は同三八(一九六三)年、国分寺が同三九(一九六四)年と、つぎつぎに市制をしいていきました。しかし、当時の地方自治法では、市制を施行するには、人口五万人以上でなければならないなどの条件がありました。国立町も人口は増えていましたが、五万人をこえたのは、ようやく昭和四〇(一九六五)年一二月二一日のことでした。
その人口五万人突破は、富士見台団地の完成によるものでした。それまで谷保本村地区と国立住宅地区とで成り立っていた北多摩郡国立町は、二三〇〇世帯人口八千人近くの団地を、両地区の中間に迎え入れることによって、東京都国立市になったのです。
このように市制をしいても、ただちに財政が豊かになるわけではありません。国立と同時に市制をしいた保谷市・田無市などは、多摩地域の競争事業組合に加盟し、競輪・競艇などのギャンブル収益の配分を財源に組み入れる方針を、明らかにしていました。国立市はどうするかという問題が、市制施行早々の争点のひとつになりました。
市制施行と革新自治体 市制施行の記念行事は、昭和四二(一九六七)年一月一日に、雨の中で行われました。市役所で初代市長田島守保が市制施行宣言を読み上げ、町役場の看板を市庁舎の表示に変える除幕式がおこなわれました。
市制施行宣言は、次のようなものでした。
一月二三日には、市制施行記念式典と祝賀パレードが、盛大におこなわれました。国立一中の校庭につくられた「祝国立市」の人文字のなかに、ヘリコプターからメッセージが投下されました。ミス東京などの乗った六〇台の自動車と、多数の市民のパレードが繰り広げられました。
市制施行を記念して、市章と市歌の公募も行われました。全国から市章七〇六編、市歌一〇六編の応募がありましたが、入賞作はありませんでした。けっきょく、それまで国立町の町章(昭和二六年制定)・町歌(昭和??年制定)として親しまれてきたものを、そのまま市章・市歌とすることにしました。市章となった二重梅は、市在住の彫刻家関保寿の考案したもの、市歌となった「くにたちの歌」は、長友貞雄が作詞し水野隆司が作曲したものでした。
田島市長は、市制施行を実現して勇退しました。四月には、東京都知事選挙と市長・市議会選挙がありました。都知事選挙で、革新統一候補の美濃部亮吉が初当選した勢いにのって、国立市長には、社会党町会議員だった石塚一男が当選しました。やがて多摩地域の多くの自治体がそうなりますが、国立市は、いわゆる革新自治体に仲間入りしたのです。
みんなで市政を考えよう 当選した石塚市長の公約は、「明るいガラス張りの市政」「教育・文化・スポーツの発展」「社会保障と福祉事業を改善して、とくに国や都に要求すべきものは堂々と要求する」「市財政の民主化と市民のための財源の保障」「市民の平和を守る市政」というものでした。この頃から、全国的に市民参加とか市民自治ということが言われるようになりました。
国立市では、それは『市報くにたち』に投書欄を設けることや、市長との対話集会を開くこと、「市長への手紙」の制度などとして、実行されました。
昭和四二(一九六七)年八月には、市長や助役が国立駅前など五ヵ所に出向いて市民の要望をきく、「納涼市政相談」が実施されました。のべ三〇二名の市民が、合計三六四件の相談を市長らにもちかけ、要望しました。その内訳では、道路舗装・排水など建設関係が多く一一三件、ついでゴミ、し尿の処理、清掃などの問題でした。
当時の革新自治体は、とくに教育と福祉を重視しました。国立市でも、各学校へのプール・体育館建設、保育園・学童保育所整備、障害者家庭へのヘルパー派遣などに努めました。
しかし問題は、財源の弱さにありました。国立市は、国や都に対して必要な財源を堂々と要求していくが、ギャンブル収益には頼らない、という道を選びました。
昭和四三(一九六八)年五月三日、国立市と教育委員会の共催で、「憲法記念日くにたち市民のつどい」が開かれました。『市報くにたち』の号外が発行され、日本国憲法の全条文が掲載されました。昭和四四(一九六九)年からは、市内の市民団体による実行委員会が主催して、憲法記念行事が開催されるようになりました。
大学通りの歩道橋 昭和四四(一九六九)年の秋から、大学通りに歩道橋を設置することの是非をめぐって、市民のあいだで激しい論争がおこなわれました。
このころ、大学通りの交通量も増えて、一時間平均一二〇〇台の自動車が通行していました。市は、大学通りを横断して第三小学校・第一中学校に通う生徒約二〇〇人の交通安全を考慮して、東京都に歩道橋設置を申請しました。
ところが、「文教地区の象徴である大学通りに歩道橋をかけることは、美観上かんばしくない」「歩道橋をかける場所は信号機設置の運動もしたことがない」「歩道橋ができれば乳母車、老人、足の悪い人は無視されてしまい、クルマ優先の道になってしまう」という反対の声があがりました。「クルマ社会反対・人間優先」の考えと、「通学児童の人命尊重」の考えが、衝突したのです。
市議会には、賛成・反対双方の請願・陳情がだされ、反対派市民の「理想論」と、市やPTA関係者の「現実論」がぶつかりました。
ちょうど、高度経済成長が進んで、マイカー時代にさしかかっていました。同時に、公害や環境破壊が、深刻になっていました。国立でも、大学通りの青空駐車が問題になり、国立高校の女生徒が、富士見台の市営テニスコートで光化学スモッグ中毒で倒れる事件もおこっていました。光化学スモッグは、このころの典型的な公害で、自動車の排気ガスが問題とされていました。
反対派の市民グループは、当時としては新しい考えである環境権を主張する立場から、都を相手に建設中止の訴訟までおこしました。
けっきょく、クルマ社会優先に異議を唱える環境優先の立場と、学校教育の現場の安全要求が折り合わされ、乳母車用のスロープを併置するかたちで、昭和四五(一九七〇)年一一月一九日、大学通りの歩道橋は完成しました。
昭和五三(一九七八)年の小学校の学区変更で、この歩道橋は、あまり使われなくなりました。しかし、歩道橋問題は、これまでの国立によくみられた、谷保本村地区と国立住宅地区、市の行政当局と市民運動といった対立構図とは、ちがった様相の問題でした。
それは、文教都市を愛する市民の内部での、環境優先かクルマ社会型開発か、緑の景観を守るか教育と福祉を優先させるかをめぐる、当時としては新しい対立の問題をはらんでいました。大学通りの歩道橋は、今もひっそりと残されています。
人間を大切にする町づくり 昭和四四(一九六九)年三月の地方自治法改正で、各地方自治体は、「その地域における総合的かつ計画的な行政の運営を図るための基本構想」の作成を義務づけられました。
国立市でも、昭和四四(一九六九)年四月に、庁内に企画開発本部が設けられ、基本構想の作成にとりかかりました。
国立市基本構想審議会条例にもとづき、昭和四五(一九七〇)年一二月の審議会に、行政側の「国立市基本構想」素案が提出されました。そこには、@安全で健康的な住みよい都市、A文化の香り高い文教都市、Bこどもを大切にする都市、C東京西南部の流通都市、とうたわれていました。
このなかのC「流通都市」構想が、市民からの反発をよびました。それは、国立・府中インターチェンジ付近に、流通市場・倉庫・トラックターミナルなどを集めた一大流通センターをつくる計画が含まれていたからです。ちょうどこのころ、多摩川べりの堤防道路が甲州街道のバイパスのようになり、一日二〇〇〇台ものトラックが未舗装道路を走って問題になっていました。構想作成の手続きも、市民不在ではないかと問題にされ、この基本構想素案は、いったん棚上げされました。
ところが昭和四七(一九七二)年三月、市は「流通事業団地」構想を新聞発表しました。これに対して、環境保護に敏感な市民たちからも、地元の農民たちからも、反対運動がおこりました。七月一三日に、市側は、流通センター構想を、白紙撤回せざるをえませんでした。
昭和四九(一九七四)年三月から、ふたたび基本構想づくりが始められました。前回の経験にもとづいて、市側は原案を準備せず、市民代表と市職員四二人の基本構想原案作成委員会に、原案作成をまかせました。町づくりの意味を考えることから、具体的施策目標の決定まで、熱心な討論が一九回も行われ、昭和五〇(一九七五)年七月に、ようやく原案がまとまりました。
さらにその原案は、基本構想審議会で検討され、市民の公聴会もおこなわれて、九月の市議会で審議されてようやく決定されました。原案作成委員会での原案づくりで市民の意見を十分とりいれたので、その審議は「マラソン審議」といわれましたが、原案作成後は順調にいきました。
こうして決まった国立市第一期基本構想は、「文教都市くにたち」を都市像としてかかげ、市民委員会や市民投票の制度を提唱し、教育委員の公選制やギャンブルに頼らない市政をめざすなど、「市民参加による町づくり」を高らかにかかげ、「人間を大切にする町づくり」をめざした斬新なものでした。
しかし、市民の関心は、それほど高くはありませんでした。昭和五二(一九七七)年の市政世論調査で、基本構想制定を知っていた市民は二七パーセントで、七三パーセントは知らなかったと答えました。
また、基本構想が、基本計画として具体化される局面では、市民委員会や市民投票の話は後景にしりぞき、むしろ基本構想では注意深くさけられていた、南部地域整備の問題が浮上してきました。
教育と福祉の充実 市制施行後の国立では、教育・福祉を重視した行政が進められました。
昭和四五(一九七〇)年の第六小学校、同四七(一九七二)年の第七小学校、同五三(一九七八)年の第八小学校と、小学校がつぎつぎに開校しました。昭和五〇(一九七五)年には、第三中学校が開校しました。
昭和四三(一九六八)年九月から、センター方式での学校給食がはじまり、同五一(一九七六)年には、第二給食センターも開設されました。各学校には、プール、体育館などがつくられました。
心身障害者の教育も重視されました。昭和四六(一九七一)年六月に、国立福祉会館(昭和四四年開設)のなかの重度心身障害児の「あすなろ教室」を第一小学校教諭が訪問するという、東京都でも初めての訪問教室が開かれました。昭和四八(一九七三)年には、重度精薄児の特殊学校が、第五小学校内に設置されました。昭和四九(一九七四)年には、第六小学校・第七小学校に、同五〇(一九七五)年には、第二中学校・第三中学校に、それぞれ特殊学級が併設されました。昭和五一(一九七六)年には、第一中学校に通級制の難聴学級もつくられました。
昭和五〇(一九七五)年五月五日、六万三〇〇〇冊の蔵書をもつ国立中央図書館が開館しました。そこで目の不自由な人のための朗読サービスが設けられたのは、国立らしい特色でした。
昭和四四(一九六九)年六月に「国立市文化財調査員の設置に関する規則」が施行され、仮屋上遺跡の発掘など、予算をつけての文化財保護も始まりました。市内の遺跡・寺社・仏像・板碑などを系統的に調査し、わらべ唄の収集もおこなわれました。
全国に知られるようになった公民館活動も、若いミセスの教室のための保育室や青年学級室を設けて、市民大学講座・市民大学セミナーを中心に、国立の社会教育を発展させました。
昭和四四(一九六九)年一一月二四日の国立福祉会館開設は、とりわけ、老人たちのいこいの場を広げるものでした。このほか市立保育園の増設、学童保育所の設置、私立幼稚園への助成がおこなわれ、母子福祉資金貸付制度、老人家庭奉仕員制度なども設けられて、「人間を大切にする町づくり」が進められました。
国立市は、昭和五二(一九七七)年に、市制施行一〇周年を迎えました。懸案であった新市庁舎が完成し、八月にオープンしました。
市制施行一〇周年を記念して、市歌のレコードを五〇〇円、『市報縮刷版』を六五〇〇円、ペナント三〇〇〇円、ワッペン大三〇〇円、小二〇〇円などで売り出し、「国立市、商売っ気たっぷり、なんでも有料、記念品」などと新聞に皮肉られました。
市の財政はあいかわらず貧しく、高度成長を終わらせた石油ショック後の不況のもとでは、全国で自治体の財政危機が話題になっていました。とくに石油ショックを境に、国立市の財政も、昭和四八年度から五一年度にかけて、市の借金である市債に歳入の二〇パーセントを依存するほどに、苦しくなっていました。
市が独自におこなう国庫補助負担事業に対して国庫補助金が削減される超過負担制度の解消を国に訴えましたが、聞き入れられません。当時の全国の革新自治体と同じように、財政危機への不安の声が、次第に高まってきました。
大型小売店の進出 富士見台団地の入居の後、国立市の人口増は、頭打ちになりました。しかし小売・卸商店・飲食店などは、増加の一途をたどりました。昭和四五(一九七〇)年から六〇(一九八五)年の間に、人口は一割しか増えませんでしたが、小売商店の数は三割増、店舗面積は倍増しました。
昭和四九(一九七四)年三月、大規模小売店の事業活動の調整に関する法律、いわゆる大店法が施行されると、競争の激しくなった地元商店街は、スーパーなど大型小売店の進出に敏感になり、警戒するようになりました。
すでに国立には、昭和三五(一九六〇)年にスーパー原幸、昭和四一(一九六六)年に西友ストア国立店、原幸富士見台店、昭和四五(一九七〇)年に紀ノ国屋国立店などができていました。
しかし昭和五〇年代に入ると、全国各地で、大型スーパーの進出に対する地元商店街の反対運動がおこりました。立川市ではダイエーが地元の反対で進出を断念、小金井では稲毛屋が反対を押し切って出店を強行するなど、多摩地域でも紛争がおこっていました。
昭和四九(一九七四)年五月に、八王子に本社をもつスーパー忠実屋が、矢川上公園東側の空地に、三七番目の店舗開設を計画していることが伝えられました。地元商店街からは、ただちに強硬な反対運動がおこりました。商店街からは三二二五人分の反対署名が、消費者側からはスーパー誘致の署名三三六八人分が、それぞれ市議会に提出され、市は継続審議にして判断をさけてきました。
そこに、昭和五〇(一九七五)年九月、忠実屋側が店舗建築着工を強行しようとしたため、警察も出動するさわぎになりました。
けっきょくこの時は、市と国立市商工会があいだに入り、両者が話し合って、忠実屋は矢川への出店を断念しました。そして、忠実屋は今度は富士見台への進出をはかり、谷保駅北口商店会と交渉に入りました。その結果、昭和五二(一九七七)年一一月八日、ようやく忠実屋国立店は開店にこぎつけました。
その後、東区の丸藤、矢川駅前の稲毛屋の出店計画についても、地元商店街と進出業者のあいだで紛争がおこり、交渉が繰り返されました。
国立スカラ座が消えた 昭和六二(一九八七)年一〇月二七日、旭通りに面した国立唯一の映画館、ホームシアター国立スカラ座が閉館となりました。
スカラ座の開館は、昭和三一(一九五六)年七月一〇日で、当初は国立コニー劇場という名でした。この劇場の開設にあたっては、文教地区にふさわしい映画を上映してほしいという住民の要望があり、教育委員会でも検討した結果、公民館に小学校教員・PTA代表・学識経験者代表らを加えた「くにたち映画懇談会」が設けられました。この懇談会は、月に一回、映画館の支配人も加えて、翌々月の邦画中心のプログラムを検討しました。
開館初の上映映画は、「ビルマの竪琴」と「ジャンケン娘」でした。「ジャンケン娘」の上映に対しては、「文教地区が泣く」という父兄の批判も出たようですが、「満員の盛況で、子供が観客の六割を占めていた」という滑り出しでした(『朝日新聞』昭和三一年七月一二日)。
国立コニー劇場は、昭和三〇年代の国立町民のいこいの場になりました。まだテレビもクーラーも普及していない時代でした。暑い夏の夜などは、夜一〇時からのナイトショーが満員で、蒸し風呂のようになる人気でした。くにたち映画懇談会も、はじめのうちは月に一度優良映画の推薦週間を設けるなど、積極的に支援しました。
しかし、東京オリンピックの頃には、家庭にテレビが急速に普及し、日本の映画産業全体が衰退してきました。
国立コニー劇場も次第に客足が遠のき、昭和三七(一九六二)年八月には、アトラクションとしてストリップショーを上演するところまで追い込まれました。文教地区協会や国立婦人の会が、ただちに劇場側に抗議し、同年一二月には閉館になりました。館主が夜逃げして行方不明になり、しばらくのあいだ劇場は荒れ放題となって、化け物屋敷とよばれました。
昭和四二(一九六七)年八月、劇場は改装され、東宝系洋画中心のホームシアター国立スカラ座の名で、生まれ変わりました。昭和五〇年代半ばまでは、毎日一〇〇〇人をこす映画ファンでにぎわいました。毎年九月一五日の敬老の日には、市内在住の六五歳以上のお年寄りを無料で招待しました。
しかし、映画界全体の衰退は続き、封切館でないこと、レンタル・ビデオの普及などで、しだいに客足が遠のいてきました。ついに観客は、週末で五〇〇人程度、平日は二〇〇人を割るようになりました。
こうしてスカラ座も、昭和六二(一九八七)年には閉館することになりました。国立における古き良き文化の灯が、テレビ文化におされて、消えていったのです。
国立市の南北問題 国立の歴史は、戦前までは本村谷保地区が中心でしたが、戦後は、甲州街道・南部線以北の国立地区の比重が大きくなってきました。しかし、国立地区の宅地開発が飽和状態にたっすると、南部の谷保地区をどうするかが、国立市全体にとっての重要な問題になりました。
市民の反対で撤回されましたが、かつて基本構想素案では「流通都市」がうたわれ、南部地域を準工業地区にして流通センターを誘致しようという計画もありました。
高度経済成長が終わり、地球環境問題や自然生態系の重要性が世界的に唱えられるようになって、気がついてみたら、国立の豊かな緑は、ほとんど南部地域にしか残されていませんでした。
おまけに国立の南北問題は、し尿処理場問題にしても周辺下水道整備問題にしても、国立地区の都市化のひきおこした問題を南部地域住民の犠牲で解決するかたちで、進んできました。昭和五〇年代になると、その南部地域の開発整備が、国立市の重要な課題となってきました。
昭和五四(一九七九)年の市長選挙で、三期一二年続いた石塚革新市政は終わり、東京消防庁救急部長をしていた谷清が、新市長に就任しました。東京都知事も、革新美濃部亮吉から、自治省出身の鈴木俊一に代わりました。一つの時代の終わりと言われました。
文化都市の放置自転車 昭和五〇(一九七五)年元旦の『読売新聞』に、全国「文化の薫る町番付表」が掲載されました。東日本の番付で、国立市は、横綱仙台市、大関鎌倉市、関脇松本市、小結札幌市についで、前頭筆頭にランクされました。
昭和五六(一九八一)年一二月に、国立市と国立商工会が行った「国立から連想することば」の市民アンケートでは、@大学、A文教、B緑、C学生、D並木という順でした(『市報くにたち』第三九三号、昭和五七年六月五日)。
昭和五七(一九八二)年に、東京都が選定した「新東京百景」には、国立から「大学通り」と「谷保天満宮」と二つも選ばれました。
しかしその国立にも、「文教・文化都市」の名を恥ずかしめる、ありがたくない問題がありました。駅前の放置自転車問題です。
昭和五二(一九七七)年一一月に、総理府交通安全対策室がおこなった全国調査では、中央線国立駅前が、放置自転車五〇〇〇台で日本一と発表されました。市民の不満も高まって、昭和五三(一九七八)年の第四回国立市政世論調査では、それまで第一位の「下水道の整備」をおさえて、「駅前周辺の自転車対策」が「市政への要望」のトップになりました。
昭和五五(一九八〇)年夏には、都立国立高校野球部が甲子園に出場しました。それになぞらえて、「本邦唯一の放置自転車専門紙」と銘うったパロディ新聞『放置自転車新聞』が発行され、「やった! 国立、日本一に! 堂々放置自転車六〇〇〇台、苦節二十年、悲願の全国制覇成る!」と、市民から皮肉られました。
当選したばかりの谷市長は、この問題に取り組みました。市議会の審議を経て、昭和五六(一九八一)年五月に、全国でも初めての「国立市自転車安全利用促進条例」を施行しました。市内の各駅前に自転車置き場を設置し、駐輪登録制度を徹底しました。国立駅の南口には、有料登録制の駐輪場も設け、整理区域を定めて放置自転車を取り締まることにしました。
こうした努力で、昭和五八(一九八三)年頃には、ようやく放置自転車が目立たなくなって、「国立駅前、全国ワースト・ツー返上へ、放置自転車に『終息宣言』」と、報じられるようになりました(『毎日新聞』昭和五八年一月一七日)。
国立高校の甲子園出場 このころ、国立市民を熱狂させ、国立を「コクリツ」と間違える人が少なくなったといわれたのは、なんといっても、都立国立高校野球部の甲子園出場でした。
昭和五五(一九八〇)年七月三一日、神宮外苑の西東京大会で、駒沢大学付属高校を二対〇で破り優勝、初の甲子園出場を決めると、国立市内は「くにこうフィーバー」一色になりました。
神宮球場から国立駅に凱旋したナインを迎えた市民はおよそ一万人、大学通りのパレードも人波であふれました。
なにしろ強豪のひしめく東京地区大会で、都立高校としては戦前・戦後を通じて初めての甲子園出場という快挙でした。
しかも、国立高校は都立有数の進学校であり、その春にも、東京大学・東京工業大学・一橋大学・慶応大学・早稲田大学などに多数の合格者を出していました。
新聞には「首都球史に新たな一ページ」「勉強と両立、自由な校風」の見出しがおどり、国立高校は「都立の星」とたたえられました。「ひときわ色の白さが目だつ国立球児の活躍は、さわやかな風を野球ファンに送り届けた」と、マスコミもはやしたてました。
この予期せぬ出来事に、国立高校のPTA・同窓会や国立市商工会などが、選手と応援団を甲子園に派遣する費用の募金活動にとりくみました。一五〇〇万円の目標に対して、短期間に六三三〇万円もの寄金が集まりました。市内では、記念の大安売りの店もでる熱狂ぶりでした。
甲子園の全国大会では、運悪く、緒戦に前年優勝の強豪和歌山箕島高校にあたり、五対〇で敗れました。しかし国立高校ナインは、満員のアルプス・スタンドから圧倒的声援を送られ、「さわやか旋風」「笑顔の敗者」と讃えられました。
環境か開発か共存か 国立高校甲子園出場の頃から、谷市長は、本格的な市財政の再建にとりくみ、南部地域の開発整備にとりかかりました。
昭和五五(一九八〇)年一〇月、南部地域開発整備推進本部が都市環境部に設けられ、「南部地域の効率的利用」の本格的検討に入りました。懸案であった北多摩二号幹線流域下水道と、その終末処理場の建設についても、都市公園の整備や遮断緑地をつくることを条件に、地元の地権者の協力をとりつけました。
昭和五六(一九八一)年七月には、南部地域開発整備マスタープラン(素案)が発表され、城山公園や郷土館、運動公園を配置し、農地・宅地・準工業地域を仕分けしていく将来像が示されました。
国立では、歩道橋問題や第一次基本構想作成のさいに、常に「環境か開発か」の問題が問われてきました。南部地域開発整備は、それをなんとか共存させていこうとするものでした。
昭和五八(一九八三)年一〇月、城山公園基本計画がまとまり、昭和五九(一九八四)年三月には、ハケ上の居住環境整備計画と水田地帯の都市基盤整備計画を柱にした南部地域開発整備基本計画がまとめられました。
これらをふまえて、昭和六〇(一九八五)年末には、国立市の第二期基本構想が、つくられました。市民参加を強調した第一期基本構想が、理想を高らかにかかげたもののかえって現実とのギャップを生み出したという反省にたって、「緑と文化とふれあい」を強調し、「行政の文化化」や「行財政運営の効率化」が提唱されました。
南部を市民のいこいの場に 昭和六二(一九八七)年の市制施行二〇周年記念式典は、一一月三日の市民まつりに合わせて、完成したばかりの芸術小ホールで、はなやかにおこなわれました。
市制施行二〇周年記念で市民に配られたパンフレット『文教都市くにたち』には、「イラストマップくにたち」が入っていました。
念願の公共下水道は、平成元(一九八九)年五月八日、北多摩二号幹線流域下水道終末処理場完成・通水式で、ついに実現しました。国立市の公共下水道普及率は、二パーセントから八五パーセントへと、一挙に高まりました。かつて「水郷国立」とまでいわれた国立の治水問題が、ようやく文化都市にふさわしいものになったのです。
市役所の周辺には、市民総合体育館(昭和五七年完成)、芸術小ホール(昭和六二年完成)がオープンしました。市内の各地域には、福祉館や防災センターが設けられました。国立音楽大学付属高校の跡地には、東京都多摩障害者福祉センター(昭和五九年)が、つくられて、多摩地域の障害者の福祉とやすらぎの場になりました。
南部地域の整備も進み、市民のいこいの場である城山公園は、昭和六一(一九八六)年五月一日に完成しました。念願の国立市郷土館も、総ガラス張りの斬新なスタイルで、平成六(一九九四)年一一月に開館しました。
国立の農業をどうする 緑とふれあいの町には、農業を育てる町づくりが不可欠です。
昭和五一(一九七六)年五月、国立市農業委員会は、市内の農家と市民との契約栽培による「市内産直」制度をはじめました。農家のつくっているナスを市民が苗ごとかいとり、必要な時に自分で畑からナスをとってくるしくみです。農家にとっては収穫と出荷の手間がはぶけ、市民は新鮮な野菜を好きな時に食べられるという、共存共栄の制度です。
国立市の農家は、都市化のなかでどんどん減ってきました。昭和四〇(一九六五)年には九六戸の専業農家を含めて三七二戸あった農家は、昭和六〇(一九八五)年には二七〇戸、そのうち専業農家はわずか七戸になりました。
国立市の農家は、いわゆる都市近郊型農業が中心で、近隣住民とのつながりは経営にとっても重要です。農作物も、米・麦などの普通作は減少し、ほうれんそう・ナス・きゅうり・トマトなどの近郊野菜が中心になってきました。そのなかで生き残りためには、産直制度のような消費者としての市民とのむすびつきが不可欠なのです。
昭和五二(一九七七)年には、市内の農業者のグループ「国立土の会」が、多摩川べりにレクリエーション農園をはじめました。一区画二〇平方メートルの農園に、希望者は定員の三倍に達しました。年間入園料二〇〇〇円ですが、「日曜農家」ともよばれるように、日曜日には家族づれの会員がくりだし、土を忘れたサラリーマンたちのリフレッシュ、こどもたちの自然とのたわむれの場になります。
富士見台団地の一坪農園も、人気を集めました。「わざわざ遠出しなくてもこどもたちとのコミュニケーションがはかれる」と、サラリーマンのおとうさんたちはいいます。
国立の農業者たちは、政府の減反政策や農地確保の困難、相続税の問題などで悩まされながらも、たくましく「緑とふれあい」の最前線にあります。
商店街の近代化構想 商店街の様子も変わってきました。大手スーパーや量販店など近隣の大型小売店ばかりでなく、さまざまなチェーンストアが、古くからの商店街のマーケットのなかに参入してきました。
甲州街道沿いの国立市と府中市の境にある「すかいらーく」は、昭和四五(一九七〇)年にできた外資系レストラン・チェーンの全国第一号店でした。こうした店が国立市内にもつぎつぎにできて、ケンタッキーフライドチキン、マクドナルド、モスバーガー、ダンキンドーナッツなどは、市民のライフスタイルにとけこんできました。ロイヤルホスト、ジョナサン、肉の万世、味の民芸うどん、藍屋などのチェーン店も、国立市内に進出してきました。ピザの宅配や弁当屋さんも増えてきました。
セブンイレブンやサンチェーン、ファミリーマートなどのコンビニエンスストア、レンタルビデオ店なども、目立ってきました。
国立市商工会など地元商店街の人びとは、消費者や経営者にたいしてインタビュー調査をおこない、昭和五八(一九八三)年三月に、『特色ある商店街をめざして――国立地域商業近代化の基本的方向』という基本構想をまとめました。
それによると、商店街が、商品を消費者に提供するという基本的役割のほかに、@市民社会のコミュニティーセンターとしての役割、街の文化を伝承・創造・演出する役割、B都市景観を保存または創造する役割、C生活情報を伝達する役割、D市民生活のオアシスとしての役割、を果たさなければならないとし、市民に愛される、個性とテーマ性のある商店街をつくろうとしています。
小さくても個性のあるまち 地図を見ると、国立市は、東京都のほぼ中央に位置しています。東は府中市、西は立川市、北は国分寺市、南は多摩川をはさんで日野市と接しています。
地球のなかで見ると、国立市の位置は、東経一三九度二七分、北緯三五度四一分、標高七四メートルです。東西は二三〇〇メートル、南北が三七〇〇メートルで、面積は八・一五キロメートルです。自転車で走れば一時間たらずでまわれる、小さなまちです。
平成二(一九九〇)年一〇月の国勢調査によると、国立市の世帯数は二万五三二九、人口は六万五八三三人、内男性三万三五二七人、女性三万二三〇六人です。五年前に比べて減少はしていませんが、増加率一・五パーセントとごくわずかしか増えていません。
国立は小さななまちです。人口もほぼ横ばいです。けれども市民は、国立のまちに大きな誇りを持っています。国立には個性があり、国立らしい魅力があるからです。
平成五(一九九三)年九月に行われた、第一一回国立市政世論調査で、「国立市の魅力」として挙げられたのは、@「大学通り等街並みがきれい」四一・九パーセント、A「落ち着いた雰囲気がある」四一・一パーセント、B「緑や公園が多い」三九・二パーセントでした。以下は、C「文教地区である」一八・〇パーセント、D「通勤・通学に便利」一六・二パーセントと続きます(ただし、複数回答)。現在の国立市民は、落ち着いた緑と街並みの雰囲気に、満足しているようです。
同じ調査で、「あなたは、これからも国立市に住み続けたいと思いますか」と尋ねると、五三パーセントが「ずっと住み続けたい」と答え、「当分住み続けたい」と答えた三二パーセントを合わせると、国立に住み続けたいという市民が、八五パーセントにのぼりました。国立に一度住んだ人は、その雰囲気に魅かれて住み続け、市民の定住意識はずいぶん高いようです。
緑と文化とふれあいのまち 国立の魅力に、「落ち着いた雰囲気」が挙げられているのは、大学通りに桜並木があり、谷保天満宮をはじめとした緑地帯が保存されているというだけではないでしょう。
これまで述べてきた国立の歴史が、自然と緑に親しむ人びとの心をなごませ、そこにくらしてきた人たちがきずいてきた文化が、人びとの日常生活のなかにしみこんで、ゆとりとふれあいの機会を与えるように感じさせるからでしょう。
歴史的につくられてきた文教都市の雰囲気と、教育に熱心な市民たち、市民総合体育館や芸術小ホール、城山公園など文化・スポーツ・いこいの場での市民の出会い、谷保天満宮の梅林や南養寺の山門が伝える歴史の年輪が、緑と文化とふれあいのまちとしての国立の魅力を支えているのです。
昭和六〇(一九八五)年九月二八日、谷保の府中用水での「大瀬干し」の行事が、三〇年ぶりで復活しました。近くの多摩川には、鮎が戻ってきました。ハケ下にはかつて湧き水のでる泉があり、昭和の初めまではそこにわさび田があり、いまもその面影を残しています。市民のなかには、このわさび田を復活させようという動きが生まれています。
弱者をみんなで支えあうまち 国立の魅力の一つである大学通りの広い歩道には、車椅子が通れるように、さまざまな工夫がなされています。プラットフォームが高架になっている国立駅には、エレベーターがあります。公民館や市立図書館も、身体の不自由な人びとにも利用できる配慮をしています。
国立公民館のなかに、障害をのりこえて自立を求める若ものたちのたまりばとして、「わいが屋」という喫茶店がオープンしたのは、昭和五六(一九八一)年一二月のことでした。
昭和五九(一九八四)年、国立音楽大学付属高校跡地に、東京都多摩障害者センター、国立市障害者センターが開設されました。あわせて、障害者自立相談事業が発足しました。その年開かれた第七回世界車イス競技大会障害物競争一一〇メートル・スラロームで、谷保の菅野和枝さんが優勝しました。平成二(一九九〇)年九月、第三回全国マスターズ卓球大会混合ダブルスで優勝したのは、参加者最年長の国立市民、松尾寿鶴さん(当時八九歳)でした。
国立は、心身に障害のある人を率先してうけいれ、お年寄りのくらしに不便のないようにまちづくりを進めてきました。教育と福祉は、文教都市の両輪であると位置づけられてきました。
二一世紀は、日本全体が高齢化社会になるといわれます。ふくれあがる福祉の費用は、若い世代の重荷になります。障害者やお年寄りの働く意欲をひきだすような就業機会もつくっていかなければなりません。
国立市政世論調査の「これからの市政に対する要望」の項目では、昭和四〇年代は「下水道整備」「道路整備」が、昭和五〇年代には「駅前自転車対策」「下水道整備」が、それぞれ上位を占めていました。ところが昭和六〇年代以降の調査では、「老人福祉対策」の項目が、上位にのぼってきました。平成元(一九八九)年の北多摩二号幹線流域下水道終末処理場の完成で下水道が整い、「老人福祉対策」が切実な問題として挙げられるようになったのです。
この面でも、行政と市民が果たさなければならない役割は、これからますます大きくなっていくでしょう。
世界の人びとと共存するまち 国立市の人口統計を時系列でみると、昭和五〇(一九七五)年頃から、世帯数も総人口も横ばいになっています。ところが逆に、その頃から増加が始まり、昭和六〇(一九八五)年頃から急増し続けている項目があります。外国人の登録人口です。昭和三五(一九六〇)年に一三六人、同四五(一九七〇)年に二五三人、同五五(一九八〇)年に三四九人、平成二(一九九〇)年に五九五人、同六(一九九四)年に九七五人へと、急増しています。
国立のまちづくりの歴史には、一方で、ヨーロッパの大学都市にならって広い街並みをつくってきた経緯があり、他方で、朝鮮戦争当時の米兵流入に反発して文教地区指定運動が始まった事情があります。国立市民にとって、外国籍をもつ人びととどうつきあうかは、なかなか複雑な歴史をもった課題です。
多摩地域のなかには、米軍基地で栄えるまちもあれば、姉妹都市交流を積極的に進めているまちもあります。しかし国立市は、いまなお姉妹都市をもっていません。一九八〇年代に日本全体で急速に進んだ「国際化」の波に、国立市はうまく乗ったとはいえません。
昭和六二(一九八七)年の市政世論調査の「国立市の将来像」調査で、あるべき国立の都市像として挙げられたのは(1)「文教都市」三四・五パーセント,(2)「住宅都市」二三・五パーセント,(3)「福祉都市」一二・九パーセントなどでしたが、実は「国際都市」は、そこでの選択項目に入っていませんでした。
しかし、現実には外国籍の市民が急増しつつあり、行政もそれに対処してきています。
国立の国際化は、市民の自主的活動から始まりました。国立公民館に、コーヒーを飲みながら国際理解を深めあおうという市民や留学生が集まり「コーヒーハウス・インターナショナル」ができたのは、昭和五八(一九八三)年夏のことです。
昭和六一(一九八六)年から、戦後の初代村長・町長をつとめた佐藤康胤からの寄金をもとに、青少年海外研修制度がはじまりました。第一回の公募には、市内在住の中学・高校生二八七人が応募し、一〇人が夏休みにアメリカ合衆国でホームスティを体験しました。
昭和六三(一九八八)年には、市と留学生が多い一橋大学が協力し、地域国際交流委員会が発足しました。また、市内の中学校には、外国人英語助手が配置されました。公民館の外国語講座や国際交流のつどいがはじまり、市役所にも外国人の相談窓口ができました。
平成二(一九九〇)年春から、芸術小ホールで開かれる在日外国人の日本語弁論大会「インターナショナル・フェスタ」は、いまでは国立の新しい名物行事になっています。英文・ハングル・中国語での市の案内もつくられています。
国立は、世界の人々と交流・共存する「国際文化都市」という新しい顔を、二一世紀に向けてつくりつつあるのです。
歴史と文化を継承するまち 城山公園には、平成三(一九九一)年、江戸時代後期の古い民家が復元されました。内部には、当時の人びとのくらしと文化を知る手がかりとなる、農機具など二四〇点の資料が展示されています。
この本のもとになった『国立市史』上巻が刊行されたのは、昭和六三(一九八八)年三月、中巻が平成元(一九八九)年五月、下巻が出て完成したのが、平成二(一九九〇)年五月のことでした。
平成六(一九九四)年一一月、南養寺の近くに国立市郷土館が完成し、開館しました。国立の歴史が、だれにでもわかるように再現され、展示されています。
国立市の歴史は、そこにくらし生きてきた人々の、さまざまな物語の集成です。現在の国立のすみずみに、天満宮の森の木々や大学通りの歩道の敷石に、先人たちの喜びや悲しみ、いきがいやふれあいが、きざみこまれています。
国立駅前に、かつて「エピキュール」という名の喫茶店がありました。現在のさくら銀行国立支店のところです。戦後の文教都市づくりのなかで、「最も知的な、最も民主的な村びとのサロン」といわれた店で、花屋と菓子屋を兼ねた喫茶店でした。
「エピキュール」は、近代的で豪華な設備を備えているというわけではありませんでした。粗末な木の椅子とテーブル、ヒビの入ったダルマストーブ、メニューといってもコーヒーとトースト、ミルクに、夏のかき氷ぐらいという、ひなびた店でした。それでもそこを拠点に、国立を愛する人びとが集い、けんけんがくがくの議論を交わし、文教地区指定運動が広がっていきました。
「エピキュール」は、現在はもうありません。しかし、「エピキュール」にきざまれた市民のふれあいと活力の伝統が、現在の国立を成り立たせているのです。
あるいは、いまでは国立のまちに無数の「エピキュール」のような場があり、二一世紀の国立は、市民の「エピキュール精神」を生かせるかどうかにかかっているのかもしれません。
昭和四十二(一九六七)年一月一日、東京都下第一五番目の市として、国立市が誕生した。保谷市・田無市(現在は合併して西東京市)と一緒で、当時の人口は五万二五二三人であった。田島町長が初代国立市長となり、町議会は市議会となった。三月九日に、国立の議会は、全国町村議会議長会から優良議会として表彰された。市の歌と市章が制定された。
この年、四月二十八日投票の初めての市長選挙では、社会党の町議であった石塚一男が当選し、国立市は、いわゆる革新自治体に仲間入りした。市議会では、当選者三〇名を会派別にみると、石塚市長を支える与党は少数派で、日本社会党三・日本共産党三・市民クラブ二であった。野党は、公明党が初めて三議席を得、新政クラブ八、新風会五、新人会三、自由クラブ三、という勢力比であった。そのため、議会は市長に対して是々非々の立場で臨み、助役・収入役の選定、教育委員の選任などで、しばしば紛糾した。
当初の市議会では、「砂利穴事件」の後始末が問題になり、昭和四十二(一九六七)年六月市議会第二回定例会では、公共用地過払いに関する調査特別委員会が設けられ、十二月十二日には、市長と市議会議長が、田島前市長を告発する事態になった。
市制施行に伴い、市議会の委員会設置条例、会議規則が抜本改正された。議長も議員として常任委員会に所属することになった。昭和四十二年九月市議会第三回定例会で、一般質問は一人約二〇分と定められたが、翌四十三年九月第三回定例会である議員が一時間一〇分にも及ぶ質問をしたため、十二月第四回定例会から一人三〇分に改められた。この四十三年十二月第四回定例会では全議員による決算特別委員会が、昭和四十四年三月第一回定例会から予算特別委員会が設けられ、会派別で代表討論が行われるようになった。
昭和四十三(一九六八)年九月、給食センターが完成し、小中学校の完全給食が始まった。九月市議会第三回定例会では、第二号幹線排水路建設促進特別委員会が設けられた。十一月一日発行『くにたち議会だより』第二〇号は、「地方議会は、首長の側に立って市民に向かいあうのではなく、市民の側に立って首長と向かいあうべきものです。議会だよりもまたその立場に立ち『市民の向こう側からの広報』となることを極力避けたいと思います」と述べている。
昭和四十四(一九六九)年十一月十五日、福祉会館がオープンした。老人センターと児童館を併設していた。この頃、大学通りに歩道橋をつくる問題から、「環境か教育・福祉か」の問題が争われた。子供の登校の安全のために歩道橋を要求する市民たちと、クルマ社会優先で大学通りの美観をそこねると反対する市民たちが対立し、議会でも大きな争点になった。翌年十一月、国立高校前の歩道橋はつくられたが、環境権訴訟にまで発展した。
昭和四十五(一九七〇)年四月二十八日の市議会第一回臨時会で、競輪開催権申請の決議が一四対一三の僅差で可決されたが、石塚市長は、ギャンブルに頼らぬ市政をうたって、申請の意思なしと表明した。昭和四十五年には第六小学校が開校、中央児童館が開館したが、七月に市営テニスコートで光化学スモッグにより女子高生が倒れる騒ぎがあり、十月に谷保地区の水田からカドミウム公害が発生した。同年九月三十日の市議会第三回定例会では公害対策に関する意見書が可決され、一一月一四日には、公害対策特別委員会が設置された。。十一月に第一回くにたち市民祭が始まった。一橋祭・天下市と一緒で、大学通りに多くの市民が出てにぎわった。
昭和四十六(一九七一)年一月一日に、南部地域「流通都市」構想を含む国立市基本構想素案が『市報くにたち』に発表された。三月市議会第一回定例会ではこれが問題とされ、南部地域開発のあり方が争点になった。
昭和四十五年の国勢調査で、人口が五万九〇〇〇人を突破し、地方自治法のうえでは議員定数三六人となるが、財政規模や議場の制約を考慮し、昭和四十六(一九七一)年三月二十二日の市議会第一回定例会は、定数を三〇に据え置く特例条例を定めた。
保谷・田無(現西東京市)と共に単独市制施行
昭和四十二(一九六七)年一月一日、国立は、保谷・田無とともに市制を施行し、北多摩郡国立町は、東京都国立市となった。
一月一日の市議会第一回臨時会は、国立町議会委員会設置条例の一部を改正する条例を可決すると共に、国立町議会会議規則の一部改正、市制施行に伴う関係条例の整備に関する条例、国立町立学校設置条例の一部改正を行い、国立町議会から市議会へと、とどこおりなく手続きを終えた。
市制施行直前の四十一年十二月二十六日、町長からそのまま初代市長になった田島守保が、『毎日新聞』によせた「国立市の誕生と将来」という文章は、当時の息吹きを伝えている。
ここで田島が、「単独市制」といっているのには、わけがある。多摩地域の市制施行の過程では、昭和二十九(一九五四)年の府中市誕生のさいの府中町と多摩・西府村の合併、同年、昭和町と拝島村合併による昭島市、翌三十(一九五五)年の武蔵野・三鷹の二つの市の任意合併での武蔵野市、調布町と神代町合併の調布市など、町村合併の形式での市制施行が先行し、府中や昭島のように、合併に際して紛争があったり、合併前の関係が当初の市政に対立をもたらす事例がみられた。
昭和三十三(一九五八)年に立川市の「副々都心」計画がもちあがったさいには、「都下の中心地帯」をめざす立川市側から国立町に合併が打診され、「文教都市としての単独市制をめざす」として断わったいきさつがあった(『読売新聞』昭和三十三年五月二十八日、参照)。
また、国立と同時に市となった保谷と田無は、もともと久留米町を含む三年越しの合併話が流産したうえでの単独市制で、両市とも「市制施行後も合併に努力する」という付帯決議つきでの市への移行であった。事実、平成十三(二〇〇一)年一月二十一日、両市は合併して西東京市となった。
昭和三十七(一九六二)年に小平、三十八(一九六三)年に日野、三十九(一九六四)年に国分寺と、国立に隣接する町は、次々に単独で市制をしいていった。国立も、人口増加にみあって、単独市制に向かうのは、時間の問題であった。
富士見台団地完成で市への移行
その条件となったのは、九三万平方メートルを区画整理し、二二五七世帯を新たに迎え入れての、富士見台団地の完成であった。昭和四十(一九六五)年十月一日国勢調査の時点では、国立町の人口は四万三四七七人で、五万人に満たなかったが、十一月一日から富士見台団地の入居が始まり、約七千人が増加、十二月二十一日に、五万人をこえた。これを報じた『朝日新聞』十二月二十三日付は、「国立町、来年中に市制施行へ、学園都市をめざす」と、翌昭和四十一(一九六六)年秋の市制施行を見通していた。
このころ、市制をしくには、地方自治法第八条で、(1)人口五万人以上、(2)中心市街地区域内の戸数が全戸数の六割以上、(3)商工業その他都市的業態従事者およびその世帯員が全戸数の六割以上、の要件が定められており、また、(4)都条例で定める都市的施設その他の都市としての要件をそなえていること、が必要であった。
(1)の条件は、厳密には「最近の国勢調査またはこれに準じる人口調査の結果の人口」で、昭和四十年十月一日国勢調査ではまだ五万人に満たなかったが、さいわい、昭和四十二(一九六七)年三月三十一日までに市制を申請すれば「四万以上」でよいとする特例措置があったため、富士見台団地完成で五万にたっした国立は、これに該当するものとなった。
(2)も、富士見台団地への入居で、市街地戸数は九割に達していた。
(3)は、学園都市・住宅都市として、九割五分という高い比率であった。
(4)には細かな規定があるが、「官公署五つ以上」に国立郵便局・西郵便局・東郵便局・中央郵政研修所・立川消防署国立出張所・警視庁第八方面本部・国立電報電話局などが該当し、「学校教育法でいう高校または中学校が三以上」は、文教都市だけに、国立高校・都立五商・桐朋学園高校・国立音楽大学付属高校・NHK学園だけでも該当し、一中・二中・国立音大付属中・桐朋中の他に、一橋大・国立音大・東京女子体育大・クリスチャンカレッジと大学までそろっていて、文句なしの合格だった。その他の「図書館・公園などの文化施設が二以上」「銀行や会社の数、規模が都内の各市に遜色ないこと」「病院・診療所などの施設が相当数あること」などの要件も、クリアーしていた。
国立町当局は、当初、昭和四十一年十一月一日施行をめざし、三月町議会第一回定例会から議題にとりあげた。四十一年度予算案には、高速道路開通と国立・府中インターチェンジ・オープンをみこして、甲州街道南側(南部地域)の開発計画の調査・測量費を上程した。
昭和四十一(一九六六)年三月十二ム三十日の町議会第一回定例会での田島町長の施政方針演説を、『広報くにたち』(第一六五号、昭和四十一年四月二十五日)は、「今秋、市制施行をめざす」と大きく報じた。そこで田島は、「都が市に対する財政的援助と町村に対するのと、はなはだしい格差をつけているのが実態であります。最近市制を実施した四市は、ことし一二市で組織する競争事業組合に加入し、今後相当な財政的援助を継続的に受けることになっていますが、町村側にはこうした恩典はほとんどありません。もちろん、わたくしとしては競争事業の開催権をとったり、その開催者となる意志は町長就任以来もっておりませんでしたが、都が開催している京王閣その他の利益配分については、少なくとも合理的な財政援助資金源として考慮方を申し出、……」と、後に問題となるギャンブル開催権にも言及している。
しかし、同時に町長・町会議員などの特別報酬引上げ案が上程されたため、三月十九日の住民公聴会では、「市になると交付金のふえるくらい事務量増による人件費にかかる。競輪開催権できる程度が得なら、市にせず町のままで差し支えない」「市との差別撤廃させる努力をせよ。町でも誇りが持てればいい」という意見が出された(『くにたち議会だより』九号、昭和四十一年四月二十五日)。「内容のともなわない市制施行は意味がない。もっと教育施設の充実などその前にやるべきこともある」「じゃり穴問題を解決するまでは市制施行を留保しては」という慎重論もあった。そこで田島町長は、「砂利穴」用地を国立町農業協同組合に売却して決着をつけ、報酬引上げは町長・議長などの引上げ原案をやや減額して可決、市制施行への条件づくりを進めた。
そのさい、町側が町民に強調したのは、市制施行による財政的メリットだった。大きな工場や企業をもたない国立は、当時の町財政が年六億円規模で、多摩地域でも「貧乏財政」といわれていた。
立川・国立境界地域住民の請願による国鉄中央線「東立川駅」建設計画が、国鉄の工事計画を再三延期させたうえ、この年暗礁にのりあげたのも、地元分担金の問題で、立川市の「国立六対立川四」の主張と、国立側の「折半」案が、折り合いがつかなかったためであった。
町議会第一回定例会での田島町長の「文化都市建設に、さらに前進」と題する「国立町を国立市とすることについて」の提案理由では、「三多摩物資流通センター」の誘致計画も入っていた。『広報くにたち』(第一七三号、昭和四十一年十二月一日)は、「市になれば、国や都の財政援助が期待できる」「福祉事務所が新設される」「市税は当分現行のまま」「商工・金融面の信用・広告価値が増大」とメリットを挙げ、町民に理解を訴えた。
市政施行直後の昭和四十二年一月十日『朝日新聞』は、「田無・保谷・国立の三市、競輪組合に加入へ、悩みはそろって財源難」の見出しで、田島新市長の「手堅い金できれいな市政をやりとげたいが、現状では競輪組合にでも入ってバクチの益金配分をうけなければ」という談話を載せていた。
市制施行宣言と記念式典
実際の市制施行は、昭和四十一(一九六一)年十月十二・十三日に公聴会、十一月十一日の町議会第四回臨時会で「国立町を市とする処分申請書」を満場一致で議決、同日町長が都知事に提出、十二月二十日の都議会で承認、年末二十八日に自治大臣告示と、田無・保谷と足並みを揃えてのものとなった。東京都で一五番目の市制施行であった。
市制施行の記念行事は、昭和四十二(一九六七)年一月一日に、市役所で「市制宣言」がおこなわれた。雨の中であったが、午前一一時から市議会第一回臨時会を開催、冒頭で市長の「市制施行宣言」を拍手とともに承認、市制にともなう当面必要な条例・規則を原案通り可決、そのあと「町役場」の看板を「市庁舎」表示にかえる除幕式がおこなわれた。市制施行時の国立市の人口は、五万二五二三人であった。
一月二十三日には、市制記念式典と祝賀パレードが、盛大に行われた。快晴にめぐまれた記念式典は、国立一中の校庭につくられた「祝国立市」の人文字のなかに、新聞社のヘリコプター三機からメッセージが投下されてはじまった。東区公会堂では四五〇人が参加、田島市長、沢井市議会議長のあいさつ、東京都鈴木副知事の祝辞ののち、三百羽のハトと六百個の風船が空に舞い上がり、国立市の門出を祝った。午後は、ミス東京などの乗った自治会・商工会の六〇台の自動車と多数の市民がパレードした。
二月八ー十七日の市議会第二回臨時会は、専決処分事項の報告について承認すると共に、昭和四十年度国立町一般会計歳入歳出決算を認定した。
昭和四十二年二月の広報で、国立市の市章と市歌の募集がおこなわれた。全国から市章七〇六編・市歌一〇六編の応募があったが、入選該当作はなかった。国立在住の詩人原田重久は、『国立風土記』を自費出版して、市制施行を祝った。折から七月に国鉄中央線東京ム高尾間の快速電車運転開始、十二月に中央高速自動車道路調布ー八王子間が開通して国立インターチェンジが設けられ、都心や八王子方面との時間的距離も近くなった。
昭和四十二年選挙と石塚革新市政誕生
昭和四十二(一九六七)年四月の市長選挙では、社会党の町議であった石塚一男が初当選した。直前に行われた東京都知事選挙での美濃部亮吉の勝利とならんで、「革新首長」とよばれた。当時は、いわゆる「革新自治体」の生成期で、のちに中央線沿線は、武蔵野、三鷹、国分寺、国立、日野など、多くが革新市政を経験する。
国立が市になった昭和四十二(一九六七)年は、一月にいわゆる「黒い霧解散」によって衆議院議員選挙、四月には東京都知事選挙と市長・市議会議員選挙が行われて、「選挙の年」とよばれた。
市長・市議会議員選挙の投票は、四月二十八日に設定されていた。三月市議会第一回定例会最終日に、田島市長は、高齢(七一歳)を理由に、退任の意志を表明した。砂利穴問題を一応決着し懸案の市制施行を実現しての勇退だった。
退任にあたって、「公約であった給食センターができなかったことだけが心残り」と述べたのは、前年夏に提案した町立第二小学校敷地内に給食センターを建設し全小学校児童の完全給食を実現する案が、「校庭削減になる」とする二小PTAやP連(国立PTA連絡協議会)の反対で暗礁にのりあげ、昭和四十二年四月からの実施が不可能になったことをさしていた。
四月の市長選挙は、新生国立市のまちづくりの行方を決するものであった。
保守系では、沢井左源太市議会議長と和田伊佐男・前自民党国立支部長が名乗りをあげ、革新系は、社会党の前町議で、日通立川支店に勤めていたサラリーマン石塚一男を候補とし、共産党や市民団体が推薦した。
市長・市議選挙の投票率は六五・一%で、市長選挙の投票結果は次の通りであった。
四月二十八日の投票の二週間前、東京都知事選挙で社共共闘の美濃部亮吉が初当選したことが、革新陣営の士気を高めたことは事実である。しかし、都知事選挙での国立の投票結果は、当選した美濃部亮吉(革新系無所属)が一万二八二六票、松下正寿(保守系無所属)八五一九票、阿部憲一(中道系無所属)二二一〇票であったから、美濃部票が、そのまま石塚票に流れたわけではなかった。当時の新聞が「三多摩の地方選、市長戦惨敗の革新、美濃部ムードにのれず」と解説したように(『朝日新聞』四月三十日)、石塚の当選は、多摩地域では目立ったものであった。得票からみると、保守系が候補者を一本化できなかったことが、石塚の当選につながった。
同時におこなわれた市議会議員選挙は、三〇名の定員に四一名が立候補する激戦であった。当選後の会派別にみると、石塚を支える社会党は三、共産党三、市民クラブ二と、少数与党であった。初めて公明党が三名当選したほか、新政クラブ八、新風会五、新人会三、自由クラブ三、が新しい議会の勢力比であった。
五月十五日の第三回臨時会が、新たに選ばれた市議会議員たちの初仕事となった、最年長の村上議員が臨時議長となって議長・副議長選挙を行い、初代議長に柳田広太郎議員、副議長に関孫三郎議員を選出した。副議長選挙は二人が同数で、抽選で選ばれた。以後、議長・副議長は、半期二年ごとに選挙が行われる。議員は議長・副議長を含め、総務・社会・建設の三つの常任委員会のいずれかに所属することとなったが、教育・民生などを担当する社会委員会では、委員長・副委員長とも女性議員が選ばれた。このほかに、議会運営特別委員会、東立川駅対策特別委員会が議員提案で設けられ、また、国保運営協議会、清化園組合議会、都市計画審議会など各種行政委員会の委員を選出した(『くにたち議会だより』第一四号、昭和四十二年六月一日)。
石塚革新市政のキャッチフレーズは、「対話の市政」「市民参加による市政」で、教育や福祉に力をいれることであった。文教地区をもつ国立は、その意味では先駆的な実験を、すでに経験していた。石塚は、当選した年から「納涼市政街頭相談」や「市長へ手紙を出す旬間」をはじめた。昭和四十三(一九六八)年五月三日の憲法記念日には、初めての「市民のつどい」が開かれた。昭和四十三年には懸案だった給食センターが完成、市立小中学校は、完全給食になった。昭和四十四(一九六九)年には国立福祉会館が完成、おとしよりや障害をもつ人々など市民の憩いの場となった。この年から、市政世論調査がはじまった。
石塚市長の「五つの基本的立場」
当選した石塚は、昭和四十二(一九六七)年六月十九日開会の市議会第二回定例会冒頭で、はじめての施政方針を述べた。
「五つの基本的立場」として、(1)明るいガラス張りの民主市政、(2)教育・文化・スポーツの民主的発展、(3)社会保障と福祉事業を改善して、とくに国や都に要求すべきものは堂々と要求する、(4)市財政の民主化と市民のための財源の保障、(5)市民の平和を守る市政、を挙げた。この五項目は、「市政の基本方針」として、七月からタブロイド版となり名前も『市報くにたち』とイメージを一新した市広報の題字横に、毎号印刷されるようになった(『市報くにたち』第一八二号、昭和四十二年七月五日)。
(1)の「明るいガラス張りの市政」については、『市報くにたち』に、早速「わたしの提案、市政にかんするご意見をお聞かせください」という投書欄が設けられた。「みんなで市政を考えよう」と「市長との対話・市政を語る会」が企画され、十一月までに矢川台自治会・富士見台自治会など六ヶ所で対話集会がもたれた。
八月には、市長や助役が市民の方に出向き、国立駅前ほか五ヶ所の街頭で「納涼市民相談」が実施された。のべ利用者三〇二名、相談件数三六四件で、道路舗装・排水など建設関係が一一三件と一番多く、ついで、ごみ・し尿など清掃関係六一件だった。
(2)の「教育・文化・スポーツの民主的発展」は、各学校にプールと体育館、教室防音化、給食施設、公民館増築などと構想されたが、初年度の中心は、学校整備のほか、市民に空き地提供を訴えての「ちびっこ広場」づくりとして進められた。三年間に百ヶ所と計画され、年内に七ヶ所が開設された。懸案の学校給食は、九月市議会第三回定例会で、全小中学校にセンター方式で進めることになり、給食センター用地は、第五小学校東側に確保された。
(3)の「社会保障と福祉事業の改善」は、保育園・学童保育所整備や福祉会館建設計画、ごみ処理手数料廃止などとして提案された。全市民に無料でのインフルエンザ予防注射がはじまった。心身障害児家庭にはヘルパー制度が設けられ、福祉手当も、昭和四十三(一九六八)年一月から支給された。
しかし、いずれも財源の手当が必要であり、市長交際費の年四〇万円削減などの経費節減でも、困難は目にみえていた。しかも、市議会では、石塚与党は少数派であった。
そこで、(4)「市財政の民主化と市民のための財源の保障」を「国や都に要求すべきものは堂々と要求」という姿勢が、(1)の「対話市政」とともに、石塚市政の強調するところとなった。施政方針演説で「国からの地方交付税や補助金などは市財政の実情に即し増額を国や都に要求しなければ」と述べ、「教育基本法の精神を実現するために教育諸案件の整備拡充を計画的に推進し、あわせて教育委員の公選制を国に要求し、教育民主化と施設拡充促進をはかりたい」などとしているのは、この姿勢をしめしていた。
石塚の「五つの基本的立場」の(5)は、「平和と憲法を守り実践する運動に国立市として積極的に市民とともに参加する」というもので、翌四十三年からの「憲法記念市民のつどい」などに具体化されていった。
ギャンブルに頼らずガラス張りの財政へ
市制施行に伴い、市議会の委員会設置条例、会議規則が、抜本改正された。議長も議員として常任委員会に所属することになった。
昭和四十三(一九六八)年十一月一日発行『くにたち議会だより』第二〇号には、「地方議会は、首長の側に立って市民に向かいあうのではなく、市民の側に立って首長と向かいあうべきものです。議会だよりもまたその立場に立ち『市民の向こう側からの広報』となることを極力避けたいと思います」と決意を述べている。
市議会の運営では、昭和四十二(一九六七)年九月市議会第三回定例会で、一般質問は一人二〇分と定められたが、翌四十三年十二月市議会第四回定例会で、ある議員が一時間一〇分にも及ぶ質問をしたため、一人三〇分に改められた。四十三年十二月市議会第四回定例会からは全議員による決算特別委員会が、翌四十四年三月市議会第一回定例会からは同じく予算特別委員会が設けられ、会派別で代表討論が行われるようになった。
都市計画に関しては、石塚市長は、施政方針で「農家の利益考え国立百年の計を」と中央道インターチェンジ付近への流通機構誘致をのべたが、田島前市長が示唆していた競輪開催にはふれなかった。石塚は、市民との対話集会で、「市町村振興交付金の増額を都知事に要望した」のは事実だが、「ギャンブルを開催する意志はまったくありません」と断言した。
昭和四十二年九月の市議会第三回定例会で、これまで町章として使われてきた、国立市国立二〇〇番地の彫刻家・関保寿が考案した二重梅が、市章と決定された。谷保天満宮の梅の花を二重に型どり、国立文教都市の国がまえ、立の字、文の字を図案化し、それに世界五大陸の意味をもこめたものだった。市歌も、これまでも親しまれてきた教育委員会選定、長友貞雄作詞・水野隆司作曲「くにたちの歌」を、そのまま継承することにした
昭和四十二年九月に「市長に手紙を出す旬刊」がよびかけられ、四四三通九九八件の意見・要望がよせられた。一四七件が「公共下水道完備」を求めており、道路舗装・排水一二四件がつづいた。行政側は、『市報くにたち』で、これらに回答した(第一九〇号、四三年三月)。市役所窓口、公民館、水道事業本部などに「公聴ハガキ」がおかれ、月平均二〇通ほどが寄せられるようになり、市民の声を市政に反映する努力がなされた。
昭和四十二年十月に、国立・立川・国分寺三市による北多摩二号幹線排水路建設促進協議会が発足、下水道整備計画が一歩ふみだされた。年末には、市内の業者への小口事業資金貸付限度額が五〇万円に引き上げられた。
昭和四十二年十一月第四回臨時会で四十二年度一般会計補正予算を可決、十二月の第四回定例会は助役・収入役の選任等に同意した。
石塚市長は、昭和四十三(一九六八)年三月の市議会第一回定例会で、当選直後の「五つの基本的立場」をもとに、これを若干修正した「五つの市政スローガン」をかかげた。(1)「明るい民主市政を推進」、(2)「教育・文化・スポーツの民主的発展」、(3)「社会保障と福祉事業の改善」は「基本的立場」と変わらないが、財政方針をあげていた(4)は「生活環境の整備」を優先させ「生活環境を守り、よりよくするための市政」とした。(5)には公害が社会問題となるなかで「健康」を加え、「市民の健康と平和を守る市政」とした。昭和四十三年度予算案は、この五項目にそって立案された。同時に、施政方針では、財源問題を「超過負担の解消」と「地域開発」により解決していくとした。
砂利穴問題の後始末
石塚市長当選後初めての昭和四十二(一九六七)年六月市議会第二回定例会から、田島町政時代の「砂利穴」問題が再燃した。その時点では、新市長は「問 砂利穴過払にどう対処するか」「答 引継時点では解決済みと判断していた。まだ全容が把握できない。処理は今後議会にはかりたい」と答えるに留めたが、同年十二月には、国立市が田島前市長を土地買収にからむ背任容疑で告発、逆に田島が市長や監査委員らをぶ告罪で告訴するという告訴合戦に発展した。これは、国立市の貧しい財政のなかで、「財政のガラス張り」と一六〇〇万円の使途不明金が、大きな意味をもっていたからであった。
市議会では、四十二年十二月第四回定例会で「問 砂利穴用地買収に際し市が過払いした分の回収の状況は」「答 手形と公正証書をとっているので三月末には入るものと思う」と問題にされた後、翌昭和四十三(一九六八)年二月の市議会第一回臨時会で、「四十一年三月に公共用地(通称砂利穴)を農協に売却したことに絡み、予算・決算に表われず議会にも報告されない金銭の動き(農協ム市ム地主)があったとの報告が監査委員からなされたこと、それに基づく特別調査委員会の調査の結論がまだ出ていないこと」から、市議会総務委員会が昭和四十一年度一般会計決算を認定せず、本会議でも不認定となった。三月第一回定例会では、地元のゴミ処理場設置反対同盟の請願や市職員組合のビラの内容と絡んで紛糾、四月五日夜に市長が緊急の全員協議会で「処理場がどんなものか見せずに用地買収を提案したのは誤りだった」と弁明、四月十三日に市議会第二回臨時会を開き「今回の用地買収はあくまでも処理場建設の補助金・起債申請の裏付けであり、地元住民の反対ある限りここに処理場は建てない」と述べて、ようやく新年度予算が決定された(『くにたち議会だより』第一八号、昭和四十三年五月一日)。
砂利穴事件は、昭和四十七(一九七二)年一月の東京地裁判決で、田島元町長らに損害賠償を命じる判決が出され、田島は控訴、昭和五十(一九七五)年十月の東京高裁判決も控訴を棄却した。しかし田島は最高裁に上告、昭和六十二(一九八七)年九月二十八日、最高裁判所は原判決を破棄差し戻し、東京高裁差し戻し審は「町に実害はなかった」として原告住民側の請求を棄却する逆転判決で決着した。
市長に是々非々でのぞむ市議会
昭和四十三(一九六八)年五月三日、第二一回憲法記念日に、『市報くにたち』の号外が発行された。そこには、日本国憲法の全条文が掲載され、石塚市長の決意が述べられていた。
これが、石塚市政のひとつの特徴となる、「憲法記念日くにたち市民のつどい」の始まりであった。
国立市と教育委員会の主催で、国立音楽大学講堂で開かれ、延べ一二〇〇人の市民が参加した。当日は、午前にNHKラジオ番組「声くらべ腕くらべこども音楽会」を開催、午後は記念集会で、美濃部都知事のメッセージ、革新市長会から飛鳥田一雄横浜市長の祝辞、社会・共産・民社党、市民団体代表のあいさつがあり、一橋大学助教授杉原泰雄の「戦争放棄をめぐって」と題する記念講演がおこなわれた。さらに、シャンソン歌手芦野宏らの歌と音楽、劇団協同による演劇「多摩のとらやん」とつづいた。以後、昭和四十四年からは市内約三〇の市民団体による実行委員会方式がとられ、憲法記念行事は、国立市の恒例行事のひとつとなる。
ただしその第一回は、市議会で予算化ができず、市長交際費から三四万七〇〇〇円を支出するかたちでおこなわれた。六月市議会第二回定例会での討論の模様は、以下のように報告されている。
このころから『市報くにたち』には「市長日誌」が掲載され、「市長に手紙を出す旬間」「納涼市政街頭相談」も恒例化していく。昭和四十三年の「市長に手紙を出す旬間」には六四四通・一二一〇件の要望・意見が寄せられた。トップは再び「公共下水道完備」で、昭和四十四年十月の第一回『市政世論調査』(一七二二世帯回答)での「市政で力をいれてもらいたいと思うこと」のトップ・スリーも、@「下水道整備」二〇%、A「道路整備」一一・九%、B「ごみ処理対策」九・七%、であった(『市報くにたち』二一四号、昭和四四年一二月五日)。
憲法記念日事業の議論にみられるように、野党が多数の議会は、石塚市政にたいして、是々非々の態度でのぞんだ。当初の助役・収入役決定、教育委員選任の遅れなどで紛糾したほか、昭和四十三年九月の市議会第三回定例会では、特別職の報酬改定審議会の答申にもとづく市長・市議などの給与引き上げ案が提案された。昭和四十一(一九六六)年町議会で「お手盛り引き上げ」とさわがれた経験から、第三者による審議会にかけ、「市民の声をきく会」を開いて提案したのが石塚方式であったが、これは、市民と議会の反対により否決された。石塚は、直後の「市長日誌」に、「いかに民主的手続きとルールと市民対話を調和させるか、ただ市長だけが一人相撲に終わってはいけないと思っている」と記した(『市報くにたち』第二〇〇号、昭和四十三年十一月五日)。
石塚は、昭和四十三年十二月に、他の革新市長にもよびかけて自治大臣に意見書を提出し、超過負担解消を訴える一方、昭和四十四(一九六九)年から三ヵ年の中期計画(四十四ー四十六年)での予算執行を試み、財政を見直し、学校施設を最優先する政策をとった。
昭和四十三年九月に待望の給食センターが完成、市立小中学校は完全給食になった。センター方式も斬新であったが、給食費の銀行振込方式が当時は全国でも珍しく、話題になった。
甲州街道に歩道橋がつくられ、四小・三小からはじまった小学校のプール建設も順調に完成し、昭和四十四(一九六九)年には全小学校におよんだ。くにたち福祉会館は四十四年十一月にオープン、六小開校や中学校の体育館建設など、学校整備もすすんだ。福祉会館オープンを機に、市民の「市の施設見学会」が毎月開かれ、家庭の主婦などが市政を知る機会となった。
大学通りの歩道橋問題
昭和四十四(一九六九)年秋から四十五年にかけて、大学通りの歩道橋問題が争点になった。児童生徒の安全登校のために歩道橋設置を求める請願と、環境・美観保護の立場から歩道橋に反対する請願・陳情の双方がたびたび提出され、市議会内でも意見が対立した。昭和四十五年九月に歩道橋は設置されたが、以後の行政による南部地区流通センター構想や基本構想づくりなど「環境か開発か」をめぐるまちづくりのあり方にも、波紋をなげかけた。
昭和三十七(一九六二)年六月二十五日の『東京新聞』には、「国立文教地区にも交通戦争、半年間に六人死ぬ、昨年の倍、立川署管内の三分の二も」という見出しで、中央線・南部線の踏切事故のほか、「整備された広い道路をむやみに突っ走り、しかも酔っぱらい運転をする」問題が報じられていた。国立駅前の自転車駐輪問題・自動車青空駐車問題も、富士見台団地完成とともに深刻になってきた。
昭和四十一(一九六六)年三月十四日の『サンケイ新聞』は、「国立駅南口大学通り、あとたたぬ青空駐車、緑地帯めちゃめちゃ」と報じ、五月二十五日同紙は、「公団富士見台団地(二千四百戸)ができたり、三月下旬から国立駅前ロータリーから東西に走る旭通りと富士見通りが全面駐車禁止になったため、近くの商店の車や団地族、買物客の車がいっせいに大学通りを青空駐車場に利用しはじめたもの。このため、大学通りは、ロータリー口から一橋大学正門前にかけて両側一〇〇メートル以上も車がつながり、非常識なドライバーは、堂々と横断歩道のすぐそばや歩道のうえ、さらにひどいのになると、バス停留所に駐車していくものも現れた」と事態を説明していた。昭和四十一年夏には、富士見台団地内を深夜にオートバイで暴走する「カミナリ族」が社会問題となり、昭和四十二(一九六七)年十一月八日の『毎日新聞』は、駅前広場とグリーンベルトが国土計画の私有地となっているため有効な駐車規制ができない行政の悩みを特集していた。
昭和四十四(一九六九)年九月の市議会第三回定例会に、大学通りの国立高校前に歩道橋設置を求める請願が、第三小学校PTA会長から出され、採択された。東京都の通達で歩道橋「必要設置箇所」の申請依頼があり、東京都建設局北多摩建設事務所は七〇〇万円の予算をくんでいた。このころ大学通りの交通量は一時間平均一二〇〇台で、三小・一中に大学通りを横断して通う児童生徒約二〇〇人(小学生八三人)の交通安全を考慮し、市としても設置を要望したものであった。
これが、歩道橋論争の発端となった。このころまでに、昭和四十一年の北地区、四十三年の東地区、四十四年十月からの中地区と町名・地番の整備が行われてきたが(西は四十五年)、反対の声は、東の住民たちを中心にはじまった。
昭和四十四(一九六九)年十一月十九日、三三五名の署名をそえて歩道橋建設反対の住民たちが、石塚市長に陳情した。「文教地区の象徴である大学通りに歩道橋をかけることは、美観上かんばしくない。しかも、歩道橋をかける場所は信号機設置の運動もしたことがない。歩道橋ができれば乳母車、老人、足の悪い人は無視されてしまい、車優先の道になってしまう」というのが、反対理由であった。「国立大学通り歩道橋設置に反対する市民の集い」(中村邑子代表)が結成され、十二月には反対署名は八〇〇を越えた。
市長自身は、当初、「今後ますます交通量のふえていくなかで、いたいけな学童の交通犠牲にはかえられません。市民と一体となっての市政、市民参加の行政の難しさを痛感させられた次第です。なにはともあれ、設置すべきだと思います」という態度をとった(『市報くにたち』第二一四号、昭和四十四年十二月五日、「市長日誌」)。
市議会では、昭和四十四年十二月第四回定例会に、歩道橋建設賛成二件・反対二件の請願・陳情が出されたが、「何より人名尊重を優先したい」と建設促進の請願を採択し、反対請願・陳情を不採択にした(『くにたち議会だより』第二五号、昭和四十五年二月一日)。
『朝日新聞』昭和四十五(一九七〇)年一月十一日は、「『歩道橋は美観こわす』、国立市で反対運動、『車優先も許せぬ』、市や父兄は建設賛成、最終的には都が『断』」と大きく報じた。
東京都と国立市は、四十五年春の新学期にまにあわせようと動きだした。しかし、反対住民の声を考慮して着工を延期、一月十七日、市民との対話集会を開いたが、車社会反対・人間優先の原理で反対する「理想論」と、さしあたりの通学児童優先の「現実論」がかみあわず、決着をみなかった。
ちょうどそのころ、市立六小の四十五年春開校にともない、富士見台の一部の学区が変更になり、これまで五小に通っていた児童二四〇人が六小に移ることになり、通学距離が長く危険になるのを危惧する住民運動もおきていた。歩道橋建設に反対する「市民の集い」は、二月に通学路の変更による解決案もだし、七〇〇〇枚のビラを配布して、あくまで環境維持を訴えた。
市議会は建設促進を決議
問題は、いったん解決するかにみえた。一月の対話集会に出席して論争しあった市民グループ同士の話合いによる「確認書」締結で、反対派が譲歩したのである。
三月十六日、歩道橋建設をのぞむ国立高校前通学路利用児童父母代表(斉藤マコト代表)と「国立市文教都市の環境を守る市民の集い」(中村邑子代表)が署名し、東京都知事と国立市長に提出された「確認書」は、(1)「歩道橋思想」は一見交通事故を防止するように考えられるが人間を「空中」におしあげるという車優先の思想である、(2)市街地のなかの道路は人間のためにあるべきで、歩道橋をつくればよいという交通行政は車をますますのさばらせるだけである、(3)学童の生命を守るため一時的には歩道橋建設を認めるが、今後は人間優先の交通行政を実現させるため賛成派も反対派も協力する、というもので、反対派の「理想」を認めながら、賛成派の「現実的要求」がおしきるかたちになった。反対派は将来の撤去をみこして移動式を望んだが、都の方は、夏休み完成をめざし、乳母車の通れる車路スロープを併置して高さ四・七メートル、長さ二二・一メートルの歩道橋建設にふみだした。
市議会では、四十五年三月第一回定例会で、「歩道橋設置促進に関する決議」を採択した。
歩道橋はつくられたが環境権裁判へ
昭和四十五(一九七〇)年五月に入って、今度は、別の市民グループが反対運動にのりだした。五月十日に発足した「国立の町づくりを考える会」(山辺賢蔵代表)は、「大学通りは市民のいこいの場でもあり、人間の住む町づくりを根本から考えなおそう」とあくまで歩道橋反対を主張、五月二十九日に美濃部東京都知事に代替案についての公開質問状を出し、六月には「拝啓、自動車様」ではじまるビラ三〇〇〇枚を国立駅前で配布した。七月には、市民四〇〇人を無作為抽出した面接式世論調査を実施し、「歩道橋は人命を守ってはいるが、歩行者には利用しにくく、車のスピードアップに拍車をかける。大学通りの歩道橋には六割が反対。市民の間には歩道橋が本当に人間を尊重したものとはいえない、との空気が強く、車をいまのように野放しのままでおいていてはいけないという声が強かった」という結果を発表した(『朝日新聞』八月五日)。
七月八日には、「文教都市の環境を守る市民の集い」がおこなった大学通りの路上駐車実態調査で、一日の駐車台数は平均二〇〇台、五〇%が市民でその他は立川・府中・国分寺からの通勤中継地としての利用や車庫がわりにされている、というデータが発表された。七月十八日には、国立高校の女子五人が富士見台の市営テニスコートで、この時期の典型的な自動車公害である光化学スモッグ中毒で倒れ、「文教都市の公害騒ぎ、市民に大きなショック」と騒がれた(『読売新聞』七月二十日)。
こうした動きは、全国的にも反響をよんだが、市側は独自の公害対策で測定機購入などを決めて歩道橋建設のかまえをくずさず、東京都は、全都四七二人の都政モニターに対するアンケート調査で、「交通事故防止上、美観より渡りやすい歩道橋をつくれ」五〇%、「現在の交通事情を考えれば、まだまだ歩道橋の設置は必要」二五%、「歩道橋は人間より車優先の産物である」二〇%の結果を得て八月に発表、着工にふみきった(『読売新聞』八月十五日)。
歩道橋建設予定地付近に立て札や横断幕がつくられるなか、九月に最終測量がおこなわれ、大学通り歩道橋は十一月に完成した。建設絶対反対の「町づくりを考える会」は、十月三日に「大学通り歩道橋は健康で文化的な生活を保障する憲法第二五条違反」と都知事を相手取り建設中止・計画取り消しの行政訴訟を提訴、当時は先駆的な「環境権」をめぐる訴訟として話題になった。東京地裁は、十月十四日に「この程度は我慢を」と仮処分申請を却下、「考える会」は、高裁へ抗告し闘争を続けた。
都ではなく国の環境政策こそ問題だとして、横断歩道をつくれと主張する「環境を守る市民の集い」の方は、十月六日に市民集会を計画した。これを建設賛成派が「反対派の主催では」と出席をためらったことから、急きょ国立市が主催と変更、反対派内部でも不協和音が生じてきた。市長主催の「国立大学通り横断歩道についての市民集会」を「町づくりの会」はボイコット、九月から第三の反対グループとして登場し出席した「国立東・ハイビスカスの会」は「市民の声を聞いたという形式的な口実づくりだ、建設中止を」と批判、賛成派と反対派の議論はかみあわず、空転におわった。
こうした経過を背景に、九月の市議会第三回定例会では、次のような議論がなされた。
十一月十九日の横断歩道橋使用開始にあたって、『読売新聞』四五年十一月二十日付は「歩道橋完成、まだ続く是非論、反対派は抗議声明、ホッとした小学校」と、問題にかかわったさまざまな市民たちの、それぞれの反応を報じた。通学児童をかかえる三小の学校側は「反対派の言い分もわかるがきょうやあすの安全を考えざるをえない」、PTA賛成派の母親は「子どもの安全を願う母親たちの懸命な運動が実をむすんだ」と評価した。市当局は「場所が大学通りという『聖域』だったから反対運動がおこったんでしょう。甲州街道あたりなら反対はなかったはず。反対意見は理想論としてはわかる。だが、道路整備が不十分なのだから『応急措置』をとらざるをえなかった」と複雑、都の北多摩建設事務所は「やりづらい工事だった」と語る。
反対派の方は、「町づくりを考える会」が「緑と人間優先の国立を守るために法廷闘争を通じて告発運動を続ける」と抗議声明、「環境を守る市民の集い」は「市民が地上を歩く権利をとりもどす日まで地道な活動をつづけたい。さしあたって、車社会告発のキャンペーン映画で市民に訴えてゆく」、「ハイビスカスの会」は「無理に歩道橋などを渡らされる子供たちがあわれ。憲法訴訟に協力する」と微妙に分かれた。
大学通りに、歩道橋はつくられた。しかし、「クルマ優先社会」に対する国立市民からの問題提起は、行政の姿勢をただし、全都・全国へと広がった。
歩道橋開通直後の四十五年十一月二十二日、一橋大学の大学祭である「一橋祭」、国立市商工会の「天下市」とあわせ、第一回「くにたち市民祭」がおこなわれた。兼松講堂での「市民のつどい」や市政相談もおこなわれたが、この日の目玉は「大学通りが片側通行に」であり、多くの市民が、人間が主人公となった大学通りの雰囲気を味わうことができた。「この日ばかりは、車を心配することなく国立市のシンボルである大学通りでたのしい一日をおすごしください」と『市報』は報じた(第二二五号、昭和四十五年十一月五日)。
以後、この「市民祭」の「大学通り歩行者天国」は恒例化し、昭和四十七(一九七二)年の市民祭からは、大学通りの全面が「歩行者天国」として市民に開放された。大学通りの毎朝七ム九時の駐車禁止も、昭和四十六(一九七一)年から始まる。四十六年十一月二十一日、多摩地区二五の市が共同して「ノーカーデー」を実施、主な通りを歩行者天国にし、一酸化炭素濃度調査や青空集会が開かれた。昭和四十九(一九七四)年十一月からは、大学道りが全面駐車禁止となった。
「国立の町づくりを考える会」は、歩道橋裁判と並行して、昭和四十六年には「大学通り公園化構想」をうちだした。環境権を訴えた裁判そのものは、四十八年五月の東京地裁判決では「実害は認められない」と敗訴、控訴した東京高裁でも四十九年四月に控訴棄却となり、原告は上告を断念した。
昭和五十三(一九七八)年四月に小学校の学区割が変更され、大学通りの歩道橋は、ほとんど使われなくなった。しかし、歩道橋そのものは、その後も撤去されずに残された。
この歩道橋問題は、国立市の市政のなかでは、いくつかの新しい特徴をもっていた。
第一に、従来の本町地区と国立市街区、商工業者とサラリーマン市民といった対立の構図ではなく、市街区の一般住民内部での対立が市政に及んだ。第二に、市民内部の対立は、石塚革新市政のかかげる「教育・福祉」と「環境」のどちらを優先するかという、市民の求める二つの要求の優先順位設定・行政的調整にかかわるものであった。第三に、その対立が、市議会内部の対立や市長と議会の対立としてではなく、文教地区闘争のときのように住民団体同士であらそわれ、しかも、行政がはっきり建設にふみきっても反対運動はやまず、裁判にまで及んだ。全国的にも多くの自治体がこの種の問題をかかえこむようになるが、歩道橋問題を通じて新しい住民自治の問題を投げかけたという意味で、国立の事例は、先駆的なものであった。
競輪開催権申請を僅差で可決
「歩道橋問題」がまだつづいていた昭和四十五(一九七〇)年三月の市議会第一回定例会で、石塚市長の施政方針演説は、「市民参加で民主市政の定着を」と訴え、学校用地の確保をめざす国立市開発公社を四月に発足させることにし、「長期的な視野にたった国立市民のくらしを優先する総合基本計画の策定」にとりかかることを明らかにした。
昭和四十五年四月二十八日の市議会第一回臨時会で、東京都の美濃部知事の都営ギャンブル廃止を機に、保守系議員のなかから、競輪開催権の申請決議が出された。賛成一四対反対一三の一票差で採択されたが、石塚市長はギャンブルによる財源確保には反対だとして、申請執行を留保した。六月の第二回定例会で、競輪開催権申請の是非が再び大きな議論となったが、石塚市長はギャンブルに頼らぬ市政をうたって、申請の意思なしと表明した。
当時の『くにたち市議会だより』第二七号(昭和四十五年八月一日)は、「ギャンブル財源は是か非か、競輪開催権の申請を決議」と大きく報じている。
市議会の活動と特例条例による議員定数据え置き
昭和四十五(一九七〇)年九月三十日の市議会第三回定例会では、公害対策に関する意見書が可決され、十一月十四日には、市議会に公害対策特別委員会が設置された。公害問題についての議会意見書は、ようやくこの年十二月に国の公害対策基本法から「経済との調和」条項が削除され、翌年七月に環境庁が発足する時代の流れの中で、当時の自治体議会としては先駆的な内容のものであった。
実際国立市でも、自動車公害、光化学スモッグ、清化園の臭気公害などが問題になっており、直後の四十五年十月末には、国立市の水田から取れた米から高濃度のカドミウムが検出されてさわがれた。
昭和四十五年十二月、立川警察署が文教地区内に風俗営業を認めるという方針を出し、国立市と鋭く対立した。
市議会は、四十五年十二月の第四回定例会で議論し、「国立文教地区指定地域内における風俗営業を許可することに反対する意見書」を賛成多数で決議して、東京都知事、東京都公安委員会、太刀川警察署長に提出し、抗議した。
昭和四十五年の国勢調査で、人口が五万九〇〇〇人を突破し、地方自治法第九一条一項をそのまま適用すれば、議員定員は三六人になることになった。昭和四十六年市議会第一回定例会最終日に、各会派で話し合った結果として、同法の昭和四十五年臨時特例法附則第二項により、まだ人口が五万に達していなかった昭和四十年国勢調査結果を用いて、議員定数を三〇人に据え置く「国立市議会の議員の定数についての人口適用の特例に関する条例」を定めた。
提案理由は、「いろいろ会派で相談いたしました結果、議員定数が多いほど市民の声の反映ということはいい結果を来たすかもしれないけれども、しかし現状の市の財政事情を勘案いたしますと、三六人ではこの建物、会議場の設備にいたしましても今後非常に問題が残っている。そういうことで、現行の三〇名の定数のワクでいいのではないかということが話し合われたわけでございます。……参考までに申し上げますと、事務局の調べでございますけれども、現在の議員報酬といたしましては四万五〇〇〇円の一七か月で七六万五〇〇〇円……、その他もろもろの費用を加えますと一〇〇万円に近いものが出費されるということが確認されたわけでございます。そういうことを勘案した中で、現行条例どおりの定数を用いる」というものだった。
本会議ではほとんど討論もなく、「法定定数を少なくするのは問題があるのですが、議場の状態と現状を無視できないので、条件がととのうまでの措置として」という条件付きの会派を含め可決成立し、四月の市議会選挙は、定数三〇のままで実施されることになった(昭和四十六年第一回定例会議事録、三月二十一日)。
昭和四十六(一九七一)年四月二十五日の統一地方選挙で、石塚市長は再選されたが、市議会では初めて会派となった自由民主党が三、自由民主党同志会三、日本共産党四、日本社会党二、公明党三、民社党二、市民クラブ三、国立クラブ三、清和会三、無所属クラブ二、所属なし二と、相変わらず少数与党であった。
再選した石塚市長は、市役所の「夜間電話サービス」が始め、公共下水道工事も開始された。
昭和四十六(一九七一)年六月の市議会第二回定例会から、昭和三十(一九五五)年の町議会時代から続いてきた総務・社会・建設の常任三委員会制を、社会委員会を民生産業委員会と文教委員会に分割し、総務七人・文教八人・民生産業七人・建設八人の四委員会制に再編した。市議会の議席はそれまで抽選制であったが、会派別に割り振ることになった。この年から公共下水道工事が始まり、矢川児童館が開館、矢川保育園が開園した。
十二月第四回定例会で、一般質問の第一回質問は二〇分、答弁・再質問は無制限としたが、四十七(一九七二)年六月市議会第二回定例会で予定質問を終えることができなかったため、同年九月第三回定例会からは、一人一時間を守るよう協力するという申し合わせで運営するようになった。
昭和四十七(一九七二)年三月市議会第一回定例会で、市長が打ち出した南部地区の流通事業団地開発構想について、議会内外から強い反対意見が出され、市議八人による流通センター誘致に反対する市議団もつくられた。同年六月二十二日の第二回定例会では、市長不信任案が提出されるまでになったが、けっきょく七月十三日に市長が白紙撤回を表明し、流通センター誘致は断念された。「環境か開発か」の問題が、顕在化したのである。
昭和四十七年、第七小学校が開校し、市の木はイチョウ、花はウメ、色はミドリと決められた。
新市庁舎建設が日程に上り、昭和四十八(一九七三)年一月三十日に、議員に一般市民を加えた国立市総合市庁舎建設計画審議会が設置され、八月一日に第五小学校南への建設が答申されたものの、昭和四十九(一九七四)年六月第二回定例会、五十(一九七五)年一月第一回臨時会に、第五小学校父母会から環境保護のための予定地変更の請願が出され継続審議となるなど、一時は紛糾した。
昭和四十八(一九七三)年八月から、市議会事務局は『月刊 くにたち市議会』を発行しはじめた。第一号はガリ版刷りで、市議会日誌、常任委員会の動き、各種委員会・協議会の動きを伝え、資料として(1)議員研修会アンケート結果、(2)都議会議員選挙結果、(3)国立市心身障害児通所施設公営化対策懇談会、(4)国立市ごみ処理方法改善協議会のニュースを伝えた。第二号からは活版印刷になり、今日まで続いて、議会活動に役立てられている。
昭和四十八(一九七三)年は、市内でみつかった戦時中の不発弾処理さわぎではじまったが、石油危機による物不足さわぎで終わる。立東福祉館がつくられ、下水道工事や施設拡充は順調にすすんでいたが、市財政は苦しくなってきた。第一次石油危機で日本経済の高度成長は終わり、昭和四十九(一九七四)年十二月二十五日の市議会第四回定例会では、地方財政危機打開のための緊急立法制定に関する意見書が可決された。
昭和四十九(一九七四)年、市にも「消費生活対策室」が開設され、「品不足に関するアンケート」や洗剤にかんする業者と消費者の懇談会がもたれるなど、高度経済成長の終焉が、国立市民の生活にも影響を及ぼした。市立中央図書館がオープンし、清掃工場が稼働しはじめ、大学通りが全面駐車禁止になったが、新しい時代の新しい施策が必要になってきた。
昭和四十四(一九六九)年に、行政内に総合基本計画企画会議がつくられ、議会でも四十五(一九七〇)年十二月の国立市基本構想審議会発足以来の課題となっていた国立市第一期基本構想の原案づくりは、流通センター構想挫折の経験をふまえて、昭和四十九(一九七四)年三月二十六日に、行政も議員も市民代表と一緒に原案をつくる、国立市基本構想原案作成委員会が発足した。以後、のべ一九回、一年三ヵ月の、マラソン審議といわれた市民参加方式で、自治体の憲法というべき基本構想づくりが行われることになった。
昭和四十九(一九七四)年十二月市議会第四回定例会で、議員定数については、特例条例によって三〇名を続けることにした。十二月二十八日には、選挙時のポスター公害から美観を守るため、国立市議会議員及び国立市長選挙における任意制公営ポスター掲示場の設置に関する条例が公布された。
昭和五十(一九七五)年三月二十六日市議会第一回定例会は、全国で初めての市民のプライバシー保護を盛り込んだ「国立市電子計算組織の運営に関する条例」を採択した。
基本構想策定と共に流通センター誘致構想が浮上
昭和四十六(一九七一)年一月一日付『市報くにたち』(第二二七号)に、市民に初めて「国立市基本構想」の素案が発表された。昭和四十五年十二月二十六日の東京都の都市計画審議会では、四十四年の新都市計画法にもとづき、国立市の面積八〇八ヘクタールのうち七九二ヘクタールが市街化区域に、多摩川河川敷一六ヘクタールが市街化調整区域に線引きされ、総合的な都市計画が義務づけられた。他方、東京都の「中期計画」(四十五年十二月)では、新設流通センター予定地として、「国立市南部水田地帯」をあげていた。
基本構想とは、昭和四十四(一九六九)年三月の地方自治法改正で、「市町村はその事務を処理するに当たっては、議会の議決を経てその地域における総合的かつ計画的な行政の運営を図るための基本構想を定め、これに即して行うようにしなければならない」と自治体がもつことを義務づけられた、計画的なまちづくりの指針であった。国のレベルでは、それは、佐藤栄作内閣のもとでの新全国総合開発計画(四十四年五月)と連動していた。
国立市では、これを受けて、昭和四十四年四月に企画開発本部が設置され、七月から総合基本計画のための資料作成を開始、一一月には、石引靜一助役を委員長とし、理事者および各課長からなる総合基本計画企画会議が作られた。九月の自治省行政局長「基本構想の策定要領について(通知)」は、「基本構想の策定手続」を「その性格上市町村長の責任において原案を策定し議会に提案すべきもの」としていたから、企画会議を「市職員の中から市長が任命」する(「国立市総合基本計画企画会議規程」第三条)庁内プロジェクトチームとして組織すること自体は、自治省通知にみあったものであった。
企画会議は、(1)地域開発推進、(2)生活環境整備、(3)産業振興、(4)教育文化振興、(5)市民生活向上、(6)行財政運営の各分科会および全体会議で数十回にわたって討議し、四十五(一九七〇)年六月には第一次素案を作成した(「国立市の未来像」は、1.健康で住みよい都市、2.文化の香り高い文教都市、3.子供を大切にする都市、4.東京西南部の流通センター)。
「総合基本計画」全体は、(1)十年規模の「基本構想」でまちづくりの将来像をきめ、(2)五年単位の「基本計画」で構想に近づけるための努力目標をたて、(3)三年単位の「実施計画」で財政計画ともマッチさせる、と構想されており、基本構想の第一次素案はさらに検討・修正されて、昭和四十五年十月には素案として完成されていた(『庁内報くにたち』第一六・一七号、昭和四十五年十月二十五日・十一月二十五日、参照)。
もっともこれは、後に「行政主導型」と反省されるように、あくまで行政部内での机上の原案にすぎなかった。
昭和四十五(一九七〇)年九月十七日、市議会第三回定例会に、「国立市基本構想審議会条例案」が提出され、十二月中旬には市民七〇〇人へのアンケートが行われる一方、学識経験者九名・市議会議員七名・市職員四名計二〇名から成る基本構想審議会(佐藤康胤会長)が十二月四日に発足、十二月二十六日に第二回が開かれて、数回で結論を出すと予定されていた。市議会でも、この段階では、とりたてて問題にされていなかった。
この審議会の審議途上で、昭和四十六(一九七一)年一月一日に発表された「国立市基本構想」素案は、イラスト入りで「市の未来像」を語っていた。それは、(1)安全で健康的な住みよい都市、(2)文化の香り高い文教都市、(3)こどもを大切にする都市、(4)東京西南部の流通都市、とイメージされており、(4)については、次のように述べていた。
「流通都市」像批判のなかで石塚市長再選
南部地域の開発は、田島町長時代にすでに構想されていたし、市議会でも「南部水田地帯の開発」「ゴミ処理場と総合開発計画」等についての質疑はおこなわれてきた。しかし、カドミウム公害が出、市の基本構想の四本柱のひとつが「流通都市」と明確に位置づけられることによって、にわかに重要な争点になってきた。
発表直後の昭和四十六(一九七一)年一月二十三日には、「国立の町づくりを考える会」が、市側から石引助役と田村正義企画開発本部長をよんで、「市の説明をきく会」を開催した。約六〇人の市民からは、「市民不在の構想だ」「(4)の流通センター構想は、(1)の『健康的なすみよい都市』と矛盾する」と批判の声があがった(『毎日新聞』昭和四十六年一月二十四日)。街のミニコミ紙『くにたち市民新聞』も、「市民の問題として『国立市総合基本計画(原案)』に注目を」と訴えた(第一六・一七合併号、一九七一年一月一・十五日)。
基本構想審議会では、審議途上で委員にはからず一方的にアンケートが出され、素案が『市報』に発表されたため、審議会無視だ、市民の意見が反映されていない、南部地域の委員をふやすべきだ、と委員から批判が続出した。市民レベルでも批判がでてきたため、一月二十二日の第三回審議会以来、審議未了のまま活動停止におちいった。
市長・市議会選挙直前の四十六年三月議会第一回定例会では、「流通都市」像とともに、「基本構想の作成には市民の声を反映せよ」と、その作成手続きも問題とされた。「基本構想は市民参加のもとににつめていくと言われたが、アンケート方式でかなり一方的なものであった」「処理場設置の付近住民の反対をどう考えているか」と強力な意見が出され、市側は「財源の確保は、南部水田地帯の開発による歳入増を期待するほかない」と答弁した(『議会だより』第三〇号、昭和四十六年五月一日)。
昭和四十六(一九七一)年四月、市政施行後二度目の市長・市議会議員選挙が、行われた。石塚市長は再び社会党から立候補し、共産党・市民団体の推薦も受けて、当選した。保守側は、候補者選びで難航し、保守乱立の再来をおそれて、二月二十四日、谷保天満宮でのくじ引きで一人にしぼりこみ、全国的な話題になった。共に元議長である沢井左源太、柳田公太郎をそれぞれ推す陣営がたがいにゆずらず、自民党国立支部の党員アンケートでは沢井支持が多かったが、柳田陣営が離党しても立候補しようとしたため、結局自民党福田篤泰代議士らの立会いのもとで、くじ引きで候補者を一本化したのである。
直前の東京都知事選では、現職の革新統一候補美濃部亮吉が、保守の秦野章を破り、再選していた(国立は美濃部二万〇〇三八票対秦野九〇二三票)。四月二十五日投票の国立市長選挙(投票率六七・五%)の投票結果は、次の通りで、石塚が再選された。
同時におこなわれた市議会議員選挙は、当選後の会派別で、初めて自民党が会派をつくって三議席、自由民主党同志会三、日本共産党四、社会党二、公明党三、民社党二、市民クラブ三、国立クラブ三、清和会三、無所属クラブ二、所属なし二となった。
二期目に入った石塚市政は、七小開校(昭和四十七年)など教育施設の充実、道路舗装、ゴミ処理工場建設などの実績をつみあげ、恒例化した「納涼市民相談」などのほか、「市役所夜間電話サービス」、行政組織の「部制」や市民相談室設置、「市報」の点字広報発行、「六万人市民の声を聞く月間」と毎年の市政意識調査などで「住民自治の市政をすすめよう」と訴えていた。
基本構想策定手法をめぐる市長と議会の対立
昭和四十六(一九七一)年六月、新発足したばかりの市議会第二回定例会では、この石塚の「住民自治」「市民参加」の意味を問う観点から、真っ先に「基本構想」が質問された。
『くにたち公民館だより』の新市会議員へのアンケートでも、当選議員に「基本構想」についての考えが質問され、「まちづくりへの市民参加」「都市計画市民会議」などが議員の声として出されていた(第一三五号、一九七一年六月五日)。
九月市議会第三回定例会では、基本構想審議の経過と今後の方向が問題とされた。基本構想について、市は議会に「市民会議条例案」を提案した。素案の内容で具体的に問題されたのは、「構想案によると、国立インター付近に流通団地を誘致するとあるが、交通、ごみ公害等激しく市の財源にはならないという批判に当局はどう対処するか」であった。市側は「農耕地を市街化地域とする結論づけがなされ、構想では流通団地の方向を打ち出しているが、市民会議や都市計画審議会等市民の意向で決定される」と答えた。
しかし、この「市民会議」とは、市長の選出する市民代表六名を、審議未了のまま任期満了となった基本構想審議会に加えるという趣旨であったため、議会では「市民会議」の名にはふさわしくないとして、「基本構想審議委員会」と修正され、採択された(『くにたち議会だより』第三三号、昭和四十六年十一月一日)。十二月からは、この国立市基本構想審議委員会の人選に入った。
昭和四十六年十月、革新石塚市長のもとで、人事異動に伴う特別昇級の方法が「市長のメガネにかかった職員だけを優遇する措置ではないか」として、市長と市職員組合が鋭く対立し、「石塚天皇、人間回復せよ」などと書かれたビラが市庁舎内にはりだされる紛争がおこった。
また、昭和四十七(一九七二)年二月には、市水道部の業務課会計係長が二〇〇万円を横領し、しかもそれを課内で穴埋めし隠していた事件が発覚し、行政への不信が高まっていた。
その昭和四十七年二月は、「六万人市民の声を聞く月間」と名づけられ、全市民にアンケート用紙を配り、市政への意見を徴することになっていた。ちょうど、昭和四十五年の建築基準法改正に伴う用途地域の指定替えの時期と重なり、市側は「地域の指定替えは皆さんの意見をとりいれて」とうたっていた(『市報くにたち』第二四一号、昭和四十七年二月五日)。
流通センター・準工業地域指定問題
昭和四十七(一九七二)年三月六日、国立市は、「基本構想」素案にうたわれていた「流通事業団地」開発計画を新聞発表した。その骨子は、四十五年五月の東京都首都整備局「東京都の流通センター構想について」、四十五年十二月に基本構想素案立案段階の資料として市の企画開発本部が作成した「流通業務団地調査研究報告書」(部内資料で非公開)にそったものであった。市のほぼ四分の一を占める国立インター付近の九六万平方メートルに、東京都の計画である流通センターを誘致し、周辺にトラックターミナル、倉庫、卸売市場などを集め、多摩地域の流通の中心とする青写真であった。
昭和四十五(一九七〇)年七月十日に、多摩川流域都市計画下水道(二号幹線)の終末処理場建設計画に関連し、南部地域住民九五九名が署名した国立市流末処理場反対期成同盟「多摩川流域都市計画下水道にかかわる都市計画案に対する反対意見書」は、「国立インターチェンジの活用をあやまるな」として、「国立インターチェンジ周辺一帯は生鮮食料品はじめ生活必需物資の集配センターとして最好適地である。かかる使命をもつ重要な地区内に不潔極る悪臭公害の恐れある汚水処理場を建設しようということは国立市のため大局を誤った愚策である」と反対したいきさつがあった。四十五年九月には、この計画をみこして、東京多摩青果株式会社が用地を買収していた。
ところが流通センター誘致は自動車交通の集中を伴うため、東京都が当初予定していた世田谷区や調布・狛江市などでは、「車公害を招く」と敬遠されていた。また、都の都市計画では、当該地域が住居地域とされていたため、地元住民の了承をとり、用途地域を準工業地域に変更しなければならなかった(『サンケイ新聞』昭和四十七年三月七日)。
ちょうどこのころ、国立市が市道とは認定していない多摩川べりの堤防道路が甲州街道のバイパス化し、一日二〇〇〇台ものトラックが未舗装道路を走って、問題になっていた。
この流通センター・準工業化地域指定替えの計画具体化を機に、市民の反対運動がまきおこった。「国立準工業化反対市民の会」など環境保護の立場からの市街地住民の運動が始まった。昭和四十七年四月十四日には、かつて流通センター誘致を支持したこともある谷保の建設予定地住民二〇四人が反対署名を集めて、農民たちも反対運動に加わった。それは、準工地域指定そのものに反対するものではなく、市から「流通センターについての説明がなかった」という手続き上の問題と、「流通センターに関連する建物しかたてれないのでは困る」「農民から土地をとりあげるための準工業地域指定(流通センター誘致)であっては、私ども農民は承服しません」という趣旨であった。
「国立準工業化反対市民の会」(古海美智子代表)は、(1)流通団地は車公害を誘発する、(2)南部地域の緑と自然が失われる、として四月十五日から反対署名運動をはじめ、一一三四名の署名を市に提出した。「国立の町づくりを考える会」も、四月十一日に市長に抗議文を手渡したほか、市民に訴え立看板をたてるなどして抗議した。
昭和四十七年四月十七日、用途地域指定替えと東京多摩青果会社の卸売市場建設をめぐって開かれた国立市都市計画審議会の席上には、反対グループがおしかけ、市長の選出母体である革新系議員の一部からも「地元住民との話合いがたりない」と批判が出された。石塚市長は、いったん用意した多摩青果卸売市場建設の同意書を、撤回せざるをえなくなった。
その席上で、市長は「かけなくてもいい協議会にかけたため、あれこれ言われる」などと、日頃となえている「市民参加の市政」に反する発言をしたため、反対派は、いっそう態度を硬化することになった。この模様を『読売新聞』四月十八日付は、「国立市の都市計画審、流通団地問題で波乱、市長が『強硬発言』、反対派『市民の声無視』と対立」と報じた。
けっきょく、都市計画審議会は、四月二十四日の会合でも結論を出せず、卸売市場建設について市長に一任するというかたちになった。翌日の市議会全員協議会でも、石塚の所属する社会党と保守系建設促進派議員以外からは、「地域指定替えの市試案で、谷保地区を準工業化地域にしているのは、将来同地区に流通センターを誘致するための下準備とみられる。町づくりに市民の声が反映されていない」といっせいに反発され、合意がえられなかった(『読売新聞』四月二十六日)。
市民の反対運動で白紙撤回
石塚市長は、『市報くにたち』(第二四五号、昭和四十七年五月五日)の「市長日誌」に「多摩青果と地域地区指定の経過」を発表することで、市民の理解をえようとした。
石塚市長はここで、問題全体を市民に示し、(1)多摩青果市場問題、(2)準工業化地域指定問題(用途地域地区指定変更)、(3)「流通都市」の将来像(基本構想、「流通センター」)を分けて考える方向を示唆した。
事実、反対運動のなかでも、地元農民は必ずしも(2)(3)への反対は明瞭ではなく、決定手続きと(1)の具体的レベルでの車公害やゴミ悪臭を問題にしていた。
だが、こうして問題の奥行きが見えてくることで、ますます問題は大きくなっていった。市は、(2)の用途地域地区指定の説明会を地区毎に開始したが、四月二十一日の説明会では、大学通り両側二〇メートルの地域指定をめぐって、市側が当初の第一種住居専用地域の案を第二種住居専用地域に変更して提案したところ、環境派は「文教地区の環境を守るために一種住専指定を。二種住専など規制をゆるめると、通りに高層マンションが建設される」と主張し、商工業者らは「大学通り沿線は、立地、道路条件からみて当然商業地域。厳しい規制を設けることは財産権の侵害で、補償の対象となる」と主張して、板挟みにあってしまった(『読売新聞』昭和四七年四月二十二日)。
五月に市は、四月一日にさかのぼって「開発行為ならびに集合住宅建設にともなう指導要綱」を実施すると発表し、高層マンションなどへの規制を強めたが、住民の多様化した要求の調整は、市民参加がすすめばすすむほど、時には困難になる。大学通りの用途地域指定替えについては、これを支持する商工業者と環境保護を主張する住民が対立した。もともと大学通りの第二種住専指定は、昭和四十五年の建築基準法改定に伴う用途地域の全面見直しの際、東京都と国立市が合意し議会の了承もえたものであったが、それでは大学通りに中高層の建物が立ち景観が壊れるということで、住民たちは署名を集め、より規制の厳しい第一種住居専用地域にする運動を展開した。南部地域の問題と併行して問題化したため、市側も九月に方針を転換、昭和四十八年十月の東京都都市計画地方審議会は、一橋大学以南の道路と沿道二〇メートルを一種住専に指定した。
五月二十二日の南部地域の説明会で、石塚市長は、五月十六日に(1)の多摩青果市場建設に同意をあたえたことを明らかにし、「同市場を市南部再開発のモデルにしたい」と語ったことから、反対派からいっせいに攻撃されることになった。
六月六日、「準工業化反対市民の会」を中心に、市議会の民社・共産・市民クラブの議員、国立の町づくりを考える会、一橋大学教職員組合など一五団体、それに反公害の学者や医師らを含め「国立準工業化反対市民連合」が結成された。「市民連合」は反対声明を発表して署名運動を開始、議会内にもこれに呼応した「都流通センター誘致に反対する市議団」が八人で結成された。
六月十三日には、南部地域住民一七六八名の「南部水田地域準工指定に関する陳情書」も市長に寄せられ、地元の準工指定・流通センター反対の声も明確になった。
六月十五日から始まった市議会第二回定例会は、この流通センター・準工地域問題一色となり紛糾、市長不信任案まで出される事態にいたった(六月二十二日、賛成六、反対一三、白票九で否決)。(1)の青果市場は、市長の同意を受けて六月十九日の東京都都市計画審議会が認可してしまったが、反対派はこれを、「市民不在・議会軽視の非民主的行政」であり、(2)の準工業地域指定と(3)流通センター構想の先取りだとして批判し、「ガラス張り市政」「市民参加」の公約違反だと迫った。
この六月市議会第二回定例会の一般質問の項目を、当時の『くにたち議会だより』は「地域地区改正素案をめぐり南部開発問題に質問集中」と要約し、質問項目を以下のように挙げている(第三六号、昭和四十七年八月一日)。
七千人の流通団地反対署名を背景に、市議会でも反対派が攻勢にまわり、問題が準工地域にとどまらず市政全般へと波及し、市長の基本姿勢を問題にするにいたっていた。
そしてそれは、(3)の基本構想にも波及せざるをえなかった。「百年の大計である基本構想を市民の意見を十分きいて決定した後、用途地域の変更をするのが筋だ」「一年近く経過するが基本構想審議委員会はなぜ発足できないのか」「審議委員会条例を改正する意思があるのか」「基本構想案から流通団地誘致計画を削除せよ」といった質問に、市長は、条例改正や基本構想の慎重審議を、約束せざるをえなくなる。
こうした反対運動の高揚と市議会での追求を受けて、七月十三日、石塚市長は、最終的に流通センター構想を白紙撤回する。それは、市長の選出母胎である「明るい国立革新市政をつくる会」(沢登晴雄会長)との会合で、市長から出されたものであった。
というもので、多摩青果市場建設だけは残したものの、市長の南部再開発計画の全面撤退であった。そしてそのことにより、町づくりの長期構想である基本構想全体をも見直すことになった。
内部に対立を抱えこんできた市長の支持母体「明るい革新市政をつくる会」は、「市民参加の市政にたちかえったもの」として市長の白紙撤回を了承、「まちづくり論争のうちきり」を宣言した。
「準工業化反対市民連合」は、「市長発言は圧倒的な市民の声に屈したもので当然」と反対運動の成果を誇り、多摩青果市場建設の見直しをも求めてゆく(『読売新聞』昭和四十七年七月二十一日)。
石塚市長自身は、八月の「市長日誌」に「準工業地域指定替えは白紙に」という文章を書き、その心境を「ローマは一日にしてならず」と表現した(『市報くにたち』第二四八号、昭和四十七年八月五日)。
「市民のための市政」のかげり
この流通センター、準工業地域指定問題は、従来から国立市がかかえてきた矛盾を、いわば公然と、市政の争点にしたものであった。端的にいえば、「環境か開発か」であり、文教都市国立の将来像の中で、南部地区をどのように位置づけていくのかが問われたのであった。
石塚市政以前から、市当局は、南部地域開発以外に市財政健全化の道はないとしてきたが、具体的な計画は示されていなかった。それが多摩青果卸売市場の建設許可をきっかけに、多摩青果だけで一日三五〇台の車が出入りし騒音・排気ガス・交通事故などにつながること、文教都市の環境としての南部地域は自然の宝庫であることがあらためて注目され、市長の行政手続きの強引さもあり、さしあたりは「環境派」が勝利したものであった。
市議会と市長との関係では、「市民参加」をキャッチフレーズに掲げる市長の逆手をとって、「市民不在の市政」に対して、市民の代表としての議員たちが攻勢に出たことを意味した。
この流通センター・準工業化地域指定反対運動が高揚しているあいだに、二月におこなわれた「六万人市民の声をきく月間」の市民意識調査結果が集計された。『市報くにたち』への発表は、計画白紙撤回後の九月であった(第二四九号、昭和四十七年九月五日)。
皮肉なことに、その市民調査の結果は、はっきりと今回市長が失敗したゆえんを説明していた。市長への手紙七〇四通、アンケート回答一〇九四通が寄せられたが、市民の市政への関心度はきわめて強く八八%、国立に住みつづけたいという人が七九%、「あなたの住んでいるところの環境(風俗・日照権など)が破壊されようとした場合、その反対運動に参加しますか?」の質問に七五%が「ぜひ参加したい」と答えるなど、国立市民の環境意識と参加意識の強さを示していた。
そして、市長への手紙にも、「谷保地区に流通センターを建設するといううわさがあるが、国立市の文教地区としての誇りと、全国の模範としての誇りのためにも建設しないでほしい」(本町、会社員、三四歳)といった基本構想についての意見が一二通含まれており、素案への賛成意見はゼロであった。
問題別件数では、清掃(一五・一%)、市政一般(一二・三%)、土木(九・五%)、教育(九・四%)、交通安全(九%)などであったが、市民の意見・要求は多様であり、「市民参加の市政」のむずかしさを示していた(国立市市民相談室『六万人市民の声』昭和四十七年八月)。
昭和四十七年九月、市の木、市の花、市の色を『市報くにたち』を通じて募集し、同十一月、市の木に「いちょう」、市の花に「うめ」、市の色は「みどり」と決まった。流通センター・準工業地域指定問題の白紙撤回の直後に、市のシンボルカラーが「みどり」と決められたところに、国立における環境問題の重みが表現されていた。
こうして、国立市基本構想の素案は、流通センター・準工業地域指定問題と一緒に、いったん白紙に戻された。
石油ショックのもとでの積極財政
いったん白紙撤回された基本構想作成が再浮上するのは、昭和四十九(一九七四)年に入ってからのことである。このころ、日本経済は、四十八年秋のオイル・ショックを契機に、高度経済成長から低成長時代へ、大きな転機を迎えていた。
昭和四十七(一九七二)年九月市議会第三回定例会で、清化園へのゴミ焼却工場建設が本決まりになった。このころ発表された昭和四十五年国勢調査結果によると、国立市では、第一次産業(農業)人口が四十年の三・四%から四十五年一・九%へとほぼ半減し、第三次(小売・サーヴィス)産業が六八・八%を占めていた。東京都平均と比較しても、専門的技術者・事務労働者が多く、生産工程従事者が少ないという特徴を持っていた(『市報くにたち』第二五三号、昭和四十七年一二月五日)。
昭和四十八(一九七三)年三月、市議会第一回定例会で可決された昭和四十八年度国立市一般会計予算は、四一億四三三一万三〇〇〇円という、前年当初予算を七四・二%をも上回る大型のものとなった。これは、学校施設充実やゴミ焼却場着工、市立図書館建設、中学校建設用地買収、学童保育所増設、多摩川堤防道路整備など、石塚市政のキャッチフレーズである「教育と福祉」充実の諸施策を盛り込んだものであり、美濃部東京都政が四十八年七月から六五歳以上の老人医療費無料化に踏み切ったのと同様に、「革新自治体」としての積極施政をうちだしたものであった。
昭和四十七年十二月に国立市総合市庁舎建設審議会がつくられ、四十八年八月、新しい市庁舎建設計画が答申された。昭和十一(一九三六)年以来の木造庁舎を立て直し、第五小学校南に新築しようというもので、「将来人口一〇万人にまで対応できるもの」とうたわれていた。
石塚市長は、四十八年九月二十七日、東京都下九つの革新市長の先頭にたって、「保育所運営に要する国庫支出金に対する意見書」を、内閣総理大臣・衆参両院議長宛提出した。学校・道路建設や保育所建設への国の補助金の算定基準・方法が実態からかけ離れて低くおさえられ自治体財政が圧迫される、いわゆる「超過負担」の解消を求めたものであった。石塚は、市民にも「国の肩代わりはもうゴメンだ! 市民要求を阻む超過負担、現実を無視した国の施策が市の財政を圧迫している」と訴えて、積極的な教育・福祉施策を革新市政らしく推進しようとした。四十九年五月には市立図書館が完成・オープンし、ゴミ処理工場も七月から稼働しはじめた。五十年四月、市立第三中学校が開校した。
しかし、四十八年十月の第一次石油ショックは、世界にも例をみなかった日本の高度経済成長をおわらせ、新しい時代の到来をつげるものであった。国立でも、インフレ・物価高騰と物不足のなかで、市民生活を守るためのさまざまな施策がとられた。市議会では、昭和四十八年十二月第四回定例会で「市民生活防衛に関する意見書」を決議し、「失対労働者に対しての越年手当支給に関する請願」「生活保護世帯に関する陳情」などを採択した。
昭和四十九(一九七四)年三月第一回定例会に提出された予算は五七億円の大型予算で、原案通り可決はされたが、生活防衛対策の緊急支出を強いられる一方で、財源確保の見通しの危うさが問題にされた。一般質問では、「「市民の生活防衛の基本的立場と方針は」「物価高の中の市民生活防衛対策」「経済の見通しと市政の展開」「自主財源の確保をどのようにしていくか」「財源確保の具体的行動は」などと問題にされた(『くにたち市議会だより』第四四号、昭和四十九年五月一日)。市当局の施策は、生活保護世帯・母子家庭・老人家庭への見舞金、学校児童への学用品の確保、洗剤確保などのほか、消費生活対策室が市民部産業課に設けられ、消費生活実態調査や業者・消費者との懇談会などがもたれた。
昭和四十九年二月実施の「品不足に関するアンケート調査」によると、市内の主婦の九二%が洗剤・トイレットペーパー・灯油・砂糖などの物不足を実感していると答え、「余分なものはかわない」「電気はこまめに消す」「テレビをあまり見ないようにする」「日中は暖房を使わない」「風呂は一日おきにわかす」「洗剤はアワがなくなるまで何回も使う」など「節約している」と答えた人が八五%にたっした(『市報くにたち』第二七〇号、昭和四十九年三月五日)。食料品も値上げし、学校給食の献立も苦しくなった。三月市議会第一回定例会でもこんな議論が繰り広げられた。
「市民思考型」の基本構想へ
その石油ショックのさなか、昭和四十九(一九七四)年三月二十六日に、国立市基本構想原案作成委員会の第一回会合が開かれた。前回の素案の流産を教訓として、今度は原案作り段階からの市民参加をうたい、マスコミも「『流産』の国立市基本構想、市『お仕着せ』を反省、原案から市民参加で」(『読売新聞』二月八日)と大きく報じた。
第一回基本構想原案作成委員会での石塚市長の「あいさつ」は、次のように述べていた。
ここには、原案作成の内容的手がかりとなるものは、「文教都市」像を含め、いっさい入っていなかった。市役所内では、昭和四十五年末から四十七年七月の「素案」の流産後も、四十七年八月から庁内企画会議のメンバーを増やし、他市町村の基本構想づくりの経験を学び、「職員参加」「市民参加」や「流通都市構想」の検討をつづけた(『庁内報くにたち』第三八・三九・四〇号、昭和四十七年十二月二十五日・四十八年一月三十日・三月三十一日)。明治大学教授西尾孝明を招いて「素案」への忌憚のない批判を聞くなど(『庁内報くにたち』第四一号、昭和四十八年五月二十日)、「素案」流産の内部的な検討も加えてきた。その反省を踏まえてとられたのが、原案作成段階から市民に委嘱する「市民思考型」方式で、文字どおりの白紙委任であった(「市民思考の中から生まれる基本構想」『庁内報くにたち』第四六号、昭和四九年三月)。
原案段階から市民が参加する基本構想づくりの国立方式は、全国的にみても、ユニークなものであった。当時、すでに全国三二七七市町村の内二〇二三市町村で基本構想が作成されており(昭和四十八年五月現在)、多摩地区でも、武蔵野・調布・国分寺・町田・田無ではできていたが、八王子・小平・青梅市など一二市一村では基本構想づくりが進行中であった。
「武蔵野方式」とよばれ「市民参加」の全国的先進例とされていた武蔵野市では、学者四人・助役二人の基本構想策定委員会が、市議会・市民代表五三人から成る基本構想策定市民会議の意見を聴取して原案を作成、昭和四十六年九月に市議会で承認されていた。
隣の国分寺市では、「健康で文化的な都市をめざして」という基本構想素案が昭和四十八年三月に発表され、立川市も、四十九年三月に長期総合計画審議会の答申を発表し、共に基本構想への市民の文書による意見を求めていた。
昭和四十八年八月発表の横浜市新総合計画原案は、数十回の市民討議集会で検討する方式を全国で初めて採用していた。町田市では、長期計画策定グループが「市ぐるみ、楽しい町づくり、知恵を出し合おう」と「考えながら歩くまちづくりの提言」をまとめていた。
国立市の方式は、これら他自治体から学び、原案段階から市民にまかせようというものだった。昭和四十九年はじめに庁内でまとめられた「国立市基本構想作成事務のすすめかた」という文書は、(1)施設建設至上主義を排して基本構想づくりを市民の運動に、(2)町田市に学び計画書作成第一主義を反省、(3)西尾孝明教授の「政策立案段階から市民の意見を聞く」べきという提言、(4)「大学通り公園化」構想など国立市民の町づくり提案の存在、(5)南部問題などには市民同士の意見交換が必要、(6)「流通センター構想」流産による市民の基本構想への高い関心、(7)これまでの経過からして作成方法そのものへの反対を危惧、と原案作成を「直接不特定多数の市民にまで降ろし、時間をかけて作成する方法」の必要理由を説き、それが時間的・費用的にむずかしいので、「市民・学者・職員による作成委員会」を提言していた。
基本構想原案作成委員会
原案作成委員会は、昭和四十九(一九九四)年三月に、市長任命の市民代表三三人と市職員から「職員参加」方式で応募した九人の計四二人で発足した。当初、二月の発足が予定されていたが、「国立の町づくりを考える会」「国立市農業後継者の会」などから「委員会を公開にし、参加したい市民はすべて委員会に加えよ」「南部地域が議題となる時はより多くの地元市民を討議に参加させて」などの要望が出され、委員の選考に難航したためであった。これら住民組織の代表も、委員に選ばれた(ただし、「町づくりを考える会」の山辺賢蔵代表は昭和五十年二月辞任)。
市側は当初、十回程度の集中審議で、七月までに南部地域構想を含めて原案作成委員会の結論を出してもらい、それを市・市議会・市民代表からなる基本構想審議委員会に諮問、その答申を議会で検討して、昭和四十九年中に決定する予定だった(『読売新聞』四十九年三月二十八日)。
しかし、実際に原案作成委員会を開いてみると、そもそも委員会の性格と役割についての意見がくいちがい、会議はたびたび紛糾し、延べ一九回、一年三ヶ月のマラソン委員会となった。
三月二十六日の第一回会合(三八名出席)では、市長のあいさつと委員の自己紹介ののち、委員長に専修大学教授早坂禮吾を選出しただけで終了、四月五日の第二回委員会(三五名)は、原案作成委員会の性格と任務や傍聴を認めるか否かで紛糾、「これからの議論のための市長原案をつくる任意の協力機関であること」の確認に費やされた。四月二十二日の第三回委員会(三四名)で傍聴のルールがつくられ、ようやく各委員のまちづくりのヴィジョンが出はじめた。
この間、「町づくりを考える会」のビラが審議の模様と問題点を逐次報告、『市報くにたち』は、四十九年五月五日(第二七四号)で「住みよいあしたを求めて、基本構想原案作成委員会がスタート、くにたちの未来づくりは市民参加のもとで」と原案作成委員会発足を特集、市民に広報した。そこには、四二人の委員の紹介と共に、早坂委員長の「朝鮮戦争以来、むちゃくちゃな『発展』を遂げてきた日本にも、その『狂騒曲』を静めて自らをかせりみる時がきた。『大きいことはいいことだ』とばかり、人口増を即『発展』と考えるような愚かさからめざめる時がきた。国立にとって『発展』とは一体何だろう。かつて『発展』のためには歓楽街の誘致もやむなしとする無政策と戦って『文教地区』を育ててきた国立市民の叡知は、今、もう一度、『発展』の意味と方向を見定めておかねばならぬ時を迎えたようである」と心境を述べた一文が紹介されていた。また、「こどもたちが夢みるくにたち」と題したデッサンや、基本構想の決定手順も提示されていた。
このころ市議会では、石塚市長から東京都で初の市職員の四週五休制の四月実施が提案され、三月第一回定例会で「市民サービス低下につながる」「時期尚早」と見送られた経過があった。また、市庁舎の新築計画に対しては、予定地の北側の第五小学校PTA内から、日照権や交通安全を心配しての反対運動がおこっていた。
五月二十日の第四回原案作成委員会(三三委員出席)は、前の基本構想素案の撤回された経緯を検討する予定であったが、市庁舎建設問題を基本構想とからめて審議すべきか否かで冒頭から紛糾、市庁舎は市のシンボルなのだから当然基本構想と関連するという主張と、将来像の方に議論を進めるべきだという主張が対立、六月十日の第五回委員会(三一名出席)も、この議事の進め方の議論に費やされた。同二十一日の第六回委員会(三一名)に具体的なヴィジョンづくりに入りかけたが、市側の委員会事務局員の配転問題が出されて再び紛糾、七月十七日の第七回委員会(二八名)で、ようやく前回素案の撤回経緯が市職員から報告され、南部問題を含む問題の整理にこぎつけた。
市庁舎問題の方は、「五小父母会市庁舎建設問題対策委員会」(永島宏子代表)「市庁舎の建設を延期させる会」(甲野綾子代表)などの市庁舎建設予定地変更を求める署名が一万名をこえ、六月市議会第二回定例会で継続審議となった。五十年一月の市議会第一回臨時会で、市議会市庁舎建設特別委員会が建設位置を敷地南端に寄せるなどの修正を加えて、五小父母会などの反対陳情を退け、当初計画より半年遅れて着工されそうになったが、それも本会議で逆転・継続審議と、暗礁にのりあげた。
けっきょく、早坂委員長が、基本構想原案作成委員会に討論のたたき台になる新たな素案を提案できたのは、市当局の当初の思惑から大幅に遅れ、昭和四十九年八月十九日の第八回委員会(二六名出席)で各委員の提案・意見を整理し、九月二日の第九回委員会(二四名)で南部問題の扱いなどが議論されて後、十月三十一日の第一〇回原案作成委員会(二四名)においてであった。年内作成はもはや不可能になり、委員の欠席も目立ち、出席した委員からも「来るのが気が重い」という声がもらされていた。
十月三十一日の第一〇回原案作成委員会に出された委員長素案「文教都市くにたち――まちづくり構想」は、「まちづくり構想の目的」「まちづくりの共通目標――理念の確立」「まちづくりの構想」「まちづくりの目標」「まちづくりの施策――施策目標」「行政」と全六章から構成される、ガリ版刷り二〇頁にわたる膨大なものであった。そこでは、南部地域を「国立市に残された『ふるさと』」と位置づけ、「市民委員会」など「市民参加によるまちづくり」、「行政の優先順位」など「計画的なまちづくり」、「憲法の保障する基本的人権と主権在民の思想を地方政治を通じて具体化」する「規範によるまちづくり」、「文教都市くにたち」の都市像、「自然を愛し大切にすると同時に、市民相互が人間を愛し大切にする」市民像、それに「最大人口八万人」などが、うたわれていた。
このたたき台ができることによって、ようやく、原案作成委員会の審議は軌道にのった。第一一回(十一月十二日、二九名出席)、第一二回(十一月十八日、二七人)、第一三回(十一月二十日、二四名)、第一四回(十二月三日、二四名)、第一五回(十二月十七日、二三名)、第一六回委員会(昭和五十年一月二十日、二二名)と「素案」を逐条的に検討、第一七回委員会(二月十七日)までに、三人の委員が辞任、出席者も一八名と委員の半数以下に減っていたが、全体の柱の組み直しを議論し、第二次原案づくりを早坂委員長に委嘱する段階まで到達した。一斉地方選挙もあるため、そのまま休会に入った。
『月刊 くにたち市議会』刊行
新市庁舎建設にあたっては、議員に一般市民を加えた国立市総合市庁舎建設計画審議会が、昭和四十八(一九七三)年一月三十日に設置された。同年八月一日に第五小学校南への建設が答申されたものの、市議会では、四十九年六月議会第二回定例会、五十年一月第一回臨時会に、第五小学校父母会から環境保護のための予定地変更の請願が出され継続審議となるなど、紛糾していた。
四十八年八月から、市議会事務局は、『月刊 くにたち市議会』を発行しはじめた。第一号はガリ版刷りで、市議会日誌、常任委員会の動き、各種委員会・協議会の動きを伝え、資料として(1)議員研修会アンケート結果、(2)都議会議員選挙結果、(3)国立市心身障害児通所施設公営化対策懇談会、(4)国立市ごみ処理方法改善協議会のニュースを伝えている。第二号からは活版印刷になり、今日まで続いて、議会活動に役立てられている。創刊号の「はしがき」は、その刊行の目的を、次のように伝えている。
昭和五十(一九七五)年の一斉地方選挙に向けて、四十九年九月の市議会第一回定例会では、選挙のさいの任意制公営ポスター掲示場の設置に関する条例を決定し、十二月二十八日に交付された(熊本県菊池市についで全国二番目)。六月の市議会第二回定例会に、市民から「参議院選挙のポスターのはんらんは目に余るものがある。町の美観等のためにも市長、市議選のポスターは掲示板のみを使い、講演会のポスターは終了後すみやかに撤去するよう条例化してほしい」という請願を受けてのものであった。
昭和四十九年十二月の市議会第四回定例会では、地方自治法に従えば四五年国勢調査結果により三六名となる定員を、特例条例により三〇名の定員を引き続き維持することにした。「面積的、財政的事情などかいろいろの観点から、これまで議会内各会派で検討されてきたが、……委員会定数のアンバランスから、二名ふやしたらとも思うが、市民感情から現状は無理だと思う。各市の現況を見ても三十人が適当」ということで、各会派代表者会議で検討し、議員提出議案として本会議で可決された。
選挙直前の昭和五十年三月二十六日、市議会第一回定例会は、全国で初めての市民のプライバシー保護を盛り込んだ「国立市電子計算組織の運営に関する条例」を可決・採択した。これも、前年三月第一回定例会、九月第三回定例会での市議会議員の一般質問に答えるかたちで、政策化されたものだった。
昭和五十(一九七五)年、第三中学校が開校し、身障児通園センターがオープンした。四月二十七日の統一地方選挙では、女性の対立候補がでて全国的に注目されたが、現職の石塚市長は僅差で勝ち、三選された。基本構想原案作成委員会が精力的に国立市の将来像を考え原案を答申する一方で、市長は全国革新市長会で自治体財政に負担をしわよせする超過負担の解消を訴えた。
五十年四月選挙での市議会会派別構成は、社会党四、共産党五、公明党四、自民党三、同志会三、一政会五、無所属クラブ四、所属なし二であった。十月二十八日の市議会第四回臨時会で、市庁舎の位置を変更して建設することが決定されたが、十二月二十二日の市議会第四回定例会で助役・収入役の選任が否決され、翌五十一(一九七六)年六月十七日第二回定例会での選任まで、半年間の空白となった。昭和五十一年三月十一日の第一回定例会では、市長が前年末の仕事納めの職員訓示で議会を侮辱したとして、石塚市長問責決議が可決された。
市民投票制度などをうたった基本構想原案は、昭和五十年七月三十一日に市長に答申された。翌五十一年六ム九月の基本構想審議会での検討を経て、九月二十七日の市議会第三回定例会で、「文教都市くにたち」をうたった第一期基本構想が承認された。
この第一期基本構想でかかげられた「人間を大切にするまちづくり」の目標は、(1)文化を創造するまちづくり、(2)教育を尊重するまちづくり、(3)生活を大切にするまちづくり、(4)自然を保護育成するまちづくり、というもので、「文教都市くにたち」を都市像としてうたった。
その具体化のために、昭和五十二(一九七七)年には、第一次基本計画がつくられた。この年、新市庁舎も完成して、近代都市としての体裁はととのってきたが、他方で、日本経済全体の停滞と国の財政危機は、もともと収入の少ない国立市の財政を直撃し、福祉や教育の充実が困難になってきた。
昭和五十二年は、市政施行十周年で、九月四日には新市庁舎の落成式が行われた。市議会も九月第三回定例会から新議場に移ったが、四月に元建設課長による中学校増築工事にまつわる収賄事件、八月に総務課主事による車検代金一八〇万円の横領事件が発覚し、議会で追及された。
昭和五十三(一九七八)年、第八小学校が開校し、八月から市議会は会派別に調査研究費を支給することを決定、一人一会派でもよいことになった。九月市議会第三回定例会で教育長の再任が議会で否決され、五十四年(一九七四)七月一〇日まで空席となった。五十三年九月二十七日の市議会第三回定例会では、「石塚市長の無責任な政治姿勢に反省を求める決議」が可決されるなど、市長と議会の間は、たびたび紛糾した。
昭和五十四(一九七九)年四月の市長選挙で、四期目に挑戦した現職石塚市長は谷清に敗れ、国立の市政とまちづくりは、新たな段階へ移った。
石塚市長、辛くも三選
基本構想について、市議会は、昭和四十八(一九七三)年十二月市議会第四回定例会で、市側の四十九年中作成の意向が表明されてのち、昭和四十九(一九七四)年三月第一回定例会、九月第三回定例会、十二月第四回定例会、昭和五十(一九七五)年三月第一回定例会と、原案作成委員会の進行状況について質問がなされたが、内容的には、五十年九月第三回定例会で、問「南部の問題をたな上げして[審議を]やっているときくが」、答「南部問題は、本町の委員から、自然と文明の調和を考えた都市づくり等の意見があったが、委員会の中では別の組織で取り組んでもらうという意見も出されている」というやりとりがあったくらいで、原案の内容そのものについては、原案作成委員会の自主的審議に委ねられた。
市民むけの『市報くにたち』での基本構想への言及は、基本構想原案作成委員会そのものの審議の遅れを反映して、昭和五十年三月五日付の「基本構想づくりすすむ」という記事まであらわれなかった(第二八五号)。そこには、すでに三人の委員が辞任したことや、委員会の出席率が必ずしもよくないこと(市議会三月第一回定例会での市側答弁では、三人減って三九人になった委員中、二二ム二五人の平均参加と報告)、南部問題については別途検討というかたちでたなあげされていることは、ふれられていなかった。その記事では、すでに延べ一七回の原案作成委員会が開かれ、「現在、第一次素案を検討し、国立市の都市像や行政運営の目標などを、集約するという形でまとめられたため、いろいろな意見が数多く出されました。このため、『冗漫すぎる』『矛盾点がある』といった指摘がなされ、現在、この第一次素案に対する推敲が行われています」と進行状況が報じられた。そして「基本構想の主な柱となるもの」として、(1)市民参加、(2)自然保護、(3)社会福祉、(4)教育、の四つがあげられていた。
こうして市の憲法にあたる基本構想の原案審議がまだ続いている段階で、昭和五十(一九七五)年四月二十七日、国立市制施行後三度目の市長・市議会選挙がおこなわれた。
このころ、全国では、革新系知事・市長のもとで生活する人口が四二%に達していた。国会でも多党化・保革伯仲・連合政権構想が語られ、「日本列島改造」をかかげた田中角栄内閣が四十九年末に金権体質を批判されて崩壊したように、日本政治のおおきな曲がり角を迎えていた。高物価・インフレのもとで労働運動も高揚し、国民春闘の賃上げは、四十九年三二・九%、五十年一三・一%に達した。
同時に、石油ショックによる高度経済成長の終焉は、昭和四十九年が戦後初のマイナス成長になり、完全失業者が百万人に達し、民間企業では「減量経営」が開始されて、国家と地方の財政危機が叫ばれ、地方公務員給与の見直しが話題になっていた。
そのうえ、いわゆる革新自治体を支える大きな柱であった社会党と共産党の選挙での共闘方式(社共共闘)が、同和問題などでの社共対立の深まりを背景に、あやうくなってきた。大阪では、社会党が黒田了一府知事の支持から不支持にまわり、黒田は、共産党と市民団体の支持でようやく再選された。
東京では、同和問題をめぐり社共対立が深まり、美濃部知事が一時不出馬を表明、選挙直前にようやく社共協定が成立し、三期目の出馬となった。四月十三日の都知事選挙投票結果は、現職美濃部が自民党の推す石原慎太郎候補にわずか三五万票差に迫られながら、辛うじて三選、前回より得票数・得票率とも大幅に減らした。
国立市でも、この「美濃部ばなれ」の傾向は著しく、美濃部一万五八六七票、石原一万二八六〇票と、美濃部は前回二万〇〇三六票から五千票近くを失い、石原は前回秦野票に三千以上を上乗せした。つまり、全国的な革新共闘のうえにたつ石塚にとって、三選出馬の環境は、厳しいものであった。
しかも、国立市長選挙に限ってみると、石塚に不利な事情が、さらに重なっていた。
四月から開園予定の市の身体障害児通園センターの運営と職員採用をめぐって、革新市政の目玉のひとつである福祉の問題での市民との紛争がおこった。規則をたてに保母の新規公募を主張する行政と、それまで市の委託で通園施設「あすなろ教室」を自主運営してきて、その四人の保母をそのまま市の正規職員として採用してほしいと願う「国立市手をつなぐ親の会」(堀内一代表)が、真っ向から対立したのである。市は臨時職員として採用するという妥協案を出したが、三月市議会第一回定例会の民生産業委員会(田村きみ委員長)は、全員を正規職員として採用すべきだと「親の会」の請願を採択した。この対立状態のまま、選挙に突入する。
また、三月二十八日には、寝たきり老人や身障者に市から食料品などを支給するインフレ手当の制度について、それまで市職員から事前に連絡・趣旨説明されて送られていたものが、この年は事前連絡なしにデパートから「国立市役所」「国立市長石塚一男」名で直送されていたことが判明、「無神経で血の通った福祉ではない」と批判されて、市長が釈明する事件もあった。
現職石塚市長の有力な対抗馬となったのは、市議会民生産業委員会委員長で、「手をつなぐ親の会」からも支持された、民社党市議田村きみであった。田村は、石塚の選挙母体が社共の対立で定まらないうちに、自民党・民社党・公明党の推薦を受けて「あすの国立を育てる市民の会」を母体とした無所属新人として立候補を表明、全国でも珍しい女性市長候補として、脚光をあびた。
石塚の方は、知事選投票日直前の四月十一日になってようやく社共共闘が成立、これまでの二回の選挙とは異なり、社会党公認の看板をおろし、「明るい革新市政をつくる会」からの無所属候補として、三期目に臨んだ。
しかし、自民党国立支部が民社党の田村を推薦したのに反発して、印刷業の井上敦雄がもう一人、保守からの立候補者となった。投票直前まで石塚と田村の互角の激戦が報じられたが、けっきょく、またしても保守の分裂が石塚の窮地を救い、四月二十七日の投票結果は、石塚の辛勝となった。投票率は六七%と前回なみであったが、石塚は、前回より二千七百票余りを失ったことになる。
同時に行われた市議会議員選挙の新会派は、社会党四、共産党五、公明党四、自民党三、同志会三、一政会五、無所属クラブ四、所属無し二であった。石塚は、選挙結果を、「予想以上のきびしい選挙戦となりました……。『福祉の心に欠けた市政』といった批判には、謙虚に耳を傾けたいと思います」と受けとめた(『庁内報くにたち』第五一号、昭和五十年五月)。
流域下水道、市庁舎建設と基本構想原案決定
選挙後初の昭和五十(一九七五)年六月市議会第二回定例会開会にあたって、石塚市長は、当面の市政の課題として、(1)障害児通園センター問題、(2)北多摩二号幹線流域下水道事業促進、(3)基本構想、(4)市庁舎問題をあげた。
(1)の障害児通園センター問題は、六月市議会第二回定例会の直前に、市側が「あすなろ教室」保母四名の身分を一年以内に正規職員とするかたちで保障し、親の会、指導員(保母)、議員などでセンター運営委員会を設けることで合意、七月一日開園の運びとなった。
(2)の北多摩二号幹線問題は、石塚市政の発足した昭和四十二(一九六七)年十月に北多摩二号幹線排水路建設促進協議会設立準備会がつくられ、石塚自らが会長になり、四十三年九月市議会第三回定例会で二号幹線排水路建設促進特別委員会が設けられて以来の、懸案であった。
それは、隣接する立川・国分寺市とも協力し、国立市内を南北に縦断する下水道を通し、終末処理場を国立南部地域に予定するもので、昭和四十五年二月に市議会・国立市都市計画審議会で幹線ルートについて了承され、同年八月には東京都および建設大臣の認可を得ていた。
ところが、昭和四十六(一九七一)年の基本構想素案における流通センター・準工業化地域指定問題の白紙撤回で、南部地域の将来像がクローズアップされ、四十八年五月に東京都が市議会および地元住民に事業開始にあたっての説明会を開催するにおよんで、本町地区「農業後継者の会」や中区「道路拡張をともなう幹線排水路計画に反対する市民の会」から、二号幹線計画白紙撤回の声があがった。四十九年七月には「北多摩二号幹線流域下水道建設対策協議会」(遠藤邦教会長)も結成されて、四十九年十月、一度は石塚市長も「住民不在で決めたことは申し訳なかった。今の計画はとりあえず白紙にもどします」と地元住民に陳謝したいきさつがあった。
他方で、昭和四十九(一九七四)年十一月に実施された国立市政世論調査では、国立を「住みよい」とする答えが八〇%に達しながら、市政への要望で一番高い項目は「下水道の整備」(一五・一%)であり、これが、第三期石塚市政のもとでの中心課題の一つであった。
昭和五十(一九七五)年七月に、東京都から測量実施の申し入れがあり、地元千丑・坂下地区住民の反対運動は、文化財・史跡保護の立場からの文化人・学者の支持も得たが、「対策協議会」会長と地元有力市議らが九月に測量協力に合意、同年十二月には事業計画が認可されて、東京都による用地買収が進み、昭和五十二(一九七七)年三月には、南部水田地区から大学通り紀ノ国屋までの事業が許可された。しかし、その着工までには、さらに紆余曲折がつづいた。
(4)の市庁舎建設問題は、基本構想原案作成委員会でも問題になったように、五小父母会などの反対運動で暗礁にのりあげていたが、昭和五十年六月市議会第二回定例会で、五小父母会の「周辺地域教育環境を守るためにどのような施設を建設するさいにも五小と同校父母会の了解を得ること」という陳情を採択、九月十三日に市と五小・五小父母会のあいだで、新庁舎を五小運動場境界線から一七メートル離すなどの協定書がつくられ、ようやく着工のメドがたった。
こうしたなかで、(3)の基本構想作成は、選挙後の昭和五十年七月九日の第一八回原案作成委員会(委員一九名出席)に、早坂委員長が、二月までの討議をふまえ、素案に比べ大幅に簡潔にした第二次原案を提出、字句修正の後、七月二十二日の第一九回委員会で、答申案がようやく最終決定された。最終採択の委員会には、三九委員中二一人が出席、賛成一八・反対三の多数決の結果であった。七月三十一日、早坂委員長から市側に正式に原案が手渡されたのは、当初の予定より一年のびて、実に一年三ヶ月の審議を終えてのことであった。
これを「マラソン審議」として伝えた『読売新聞』七月二十四日には、委員たちの答申決定への、率直な感想が述べられていた。「民主主義にはむだがつきもので、むだを恐れずにやった。南部問題のような具体的な問題については、市民会議で煮つめてほしい。基本構想は市民のモラルづくりとでもいったもの」(早坂委員長)、「三分の一の委員が常時欠席で、できたものの具体性を欠く。憲章ならそれでいいが、基本構想ではない。行政には五分の一もいかせないのでは」(遠藤邦教委員・農業・「北多摩二号幹線流域下水道建設対策協議会」会長)、「きれいごとに終わってしまった感じ。わからないことが多すぎて、簡単とはいえないが、なにか無力感が」(隆矢洋子委員・画家)、と。
第一期基本構想の構成と特徴
原案の内容は、『市報くにたち』基本構想特集号(昭和五十年九月、第二九五号)に、大々的に発表された。その骨組みは、次のようになっていた。
その特徴は、第一に、氓フ「都市像」に「まちづくりの伝統をふまえ、都市像を『文教都市くにたち』とする」とうたったことである。これにより、「文教都市」は、国立市の過去・現在・未来を貫く、シンボリックな意味を獲得した。
第二に、かつての「素案」で「流通都市」とうたいあげて反発された南部地域問題には、直接言及していなかった。の「自然を保護育成するまち」で「現在のくにたちは、自然の中でなお散策を楽しむことができることを誇りとしている。これは自然と人間の親しい触れ合いであって、東京という都市環境の中で他に類をみない。現存する森と川と緑は、どうしても保存しなければならない。それにとどまることなく、失われた良い環境をとり戻すために、積極的な緑化を推進しなければならない」と一般的基準を設け、「の3(ハ)で「国立市に生活する農業、商工業者と消費者は、お互いに共存関係を創り出し、地域経済の振興と発展を図る。さらに、農業の振興地域の設定等を行ない、市の実態に合った都市開発を進める。市は、流通機構、安定供給、適正価格等に共通理解をもつため一層進んだ話し合の『機会』を作る」と開発の可能性をも残した。
そして、。のなかに「市の将来展望にかかわる重要問題に対する課題別市民委員会(課題に密接に関係する市民、直接利害関係にある市民、専門的知識を有する第三者による)」や「市の性格をいちじるしく変更するような重要問題に関しては、市の判断によって市民投票の制度を採用することもできる」などの市民参加の方法・手続き規定を明確にすることによって、その将来を、市民自身の判断に委ねた。
第三に、「の2(イ)に「国立市は、教育の自主性尊重のために闘った歴史に誇りをもち、教育基本法の精神を見失うことなく、教育委員の公選制をめざす」、「の5(イ)に「(1)国・都・市の分担するそれぞれの責任を明確にし、その不明確からくる市民の不利益を排除する。(2)そのためには、財政権の確立が最も重要である。国立市は市政に経営の理念を導入し、超過負担や地方交付税制度、さらには広く税・行・財政制度全般の不合理に対し、積極的に改善を図る。(3)市民のモラルは、ギャンブルに頼る市政を許さない。市はこれによって生ずる財政上の不利を、地方交付税等によって補うよう努力する」などとして、当代日本の地方政治・行財政のしくみのもとでの、最大限の市民自治と自治権の拡大を宣言したことである。
第四に、「の5(ハ)で「市民生活の水準を保つために、人口は、地域の諸条件に調和したものでなければならない。『人間を大切にする』まちづくりを標榜する国立市は、市民のよりよい生活環境を保持するために最大人口規模を設定して抑制策を含む深い考慮を払う。その規模は一平方キロメートルにつき最大一万人とし、八・〇八平方キロメートルの国立市の最大人口を八万人とする」と最大人口規模を八万人に設定したことであった。
基本構想から基本計画へ
こうしてようやく作成された基本構想原案について、昭和五十(一九七五)年九月市議会第三回定例会では、つぎのような質疑があった。
この最後の考え方にそって、昭和五十一(一九七六)年六月二日、基本構想審議委員会がスタートし、今度は原案作成委員会のつくった原案の審議に入る。委員は二五名、学識経験者・地域市民代表一六名、市議会議員五名、市職員四名で、委員長は柴田政利(明治大学教授)、原案作成委員会委員長の早坂禮吾も委員に入った。
この審議委員会段階での討論は、スムーズに進んだ。六月二十三日に第二回を開き、七月十四日の第三回委員会では「市民の意見を聞く会」として『市報』での公募に応じた五人の市民の意見を聴取、七月十八日の第四回は委員による市内の視察に当てた。七月二十一日、二十八日、八月十一日、二十五日の第五ム八回委員会で集中的に原案の字句を修正、九月一日の第九回委員会では最終案がまとまり、九月六日には、市長に答申された。
マスコミもこれを、「国立市審議委、基本構想を答申、ギャンブルに財源求めず、重要案は市民投票で」(『毎日新聞』五十一年九月三日)「市基本構想審、国立の未来像を答申、自然を守り教育の街に、文教都市さらに推進」と大きく報じた(『サンケイ新聞』昭和五十一年九月七日)。
石塚市長は、審議委員会案を九月十三日からの市議会第三回定例会にそのまま提案、九月二十七日の本会議で可決採択された。その内容は、『市報くにたち』第三一一号(基本構想特集号、昭和五十一年十月五日)に全文が発表された。
審議委員会での修正は、原案の構成を変えることなく、若干の字句修正に留まっていた。原案が南部問題を棚上げにしていたためもあるが、「市長がかわれば、また別の構想ができるだろう」(小沢潔委員、第二回委員会議事録)といった保守系委員のさめた思惑もあって、基本的に原案がそのまま継承された。
主な変更は、「はじめに」に「国立は、古くは甲州街道を中心とする村落によって形成されていたが」と挿入したり、原案「の5「行政の推進のために」の項に「自治体は国の出先機関ではない」と書き込み「市民のモラルは、ギャンブルに頼る市政を許さない。また、国立市は文教都市の道を選んだ。市はこれによって生ずる財政上の不利を、特別補助、地方交付税等によって補うよう努力する」と加筆修正したことぐらいであった。
もっとも、南部開発問題とのからみで、の3「生活を大切にするまち」の末尾に「なお、今後発展が期待される地域については、現状と調和のとれた方策を考える」と追加され、「の5の(3)ムム原案のイ・ロ・ハは(1)(2)(3)に修正されたーーの「最大人口規模の設定」は、「国立市の最大人口は八万人を目標とする」と、「上限」を決めた抑制策とも「目標」にむけての発展策ともとれる、両義的な表現に変えられた。
議会の承認から南部地域整備へ
第一期基本構想最終採択にあたって、『くにたち議会だより』第五五号(昭和五十一年十一月一日)は、「五つの特徴を持つ基本構想案」として、九月市議会第三回定例会での質疑・可決を報じた。
「五つの特徴」とは、(1)都市像を「文教都市くにたち」と定めた、(2)市の将来展望にかかわる重要問題に対しては、市民委員会を設置して決めていく、(3)市の性格を著しく変更するような重要問題に関しては、市民投票制度を採用する、(4)自治権の確立の中で、自治体は国の出先機関でないことを明示すると同時に、市民のモラルはギャンブルに頼る市政を許さないとうたった、(5)教育委員の公選制をめざす、であった。
こうして、国立市民の憲法ともいうべき基本構想は、昭和五十一ム六十年度にわたるものとして、ようやく発効した。
しかし、原案段階から「市民参加」を強調してきたにもかかわらず、基本構想の市民への浸透は、必ずしも進んでいなかった。
昭和五十二(一九七七)年五月実施の第三回国立市政世論調査は、基本構想を基本計画・実施計画に具体化するための基礎資料とするため実施されたが、基本構想が制定されたことを「知っていた」市民は二七・三%にとどまり、七二・七%は「知らなかった」と答えた。基本構想の四本柱である(1)文化を創造するまち、(2)教育を尊重するまち、(3)生活を大切にするまち、(4)自然を保護育成するまち、については、「大いに賛成」五三・二%、「まあ賛成」三二・七%と計八六%が賛意をしめしたが、周知度が三割弱のもとでは、「市民の憲法」の行く末は、おぼつかなかった。
そして、基本構想が市民のものとなりきっていないもとで、基本計画・実施計画への具体化は、行政に委ねられた。『庁内報くにたち』第五八号(昭和五十二年三月)は、「総合基本計画九月策定へ、燃える企画会議」と題して、「基本構想の制定(昨年の九月)を受けて、その具体化をはかる基本計画の策定にむけて、企画会議は活発な討議を行っている。五二名の企画委員(委員長石引助役)で構成する企画会議は、教育や福祉など七分科会にわかれ、九月策定を目途に燃えている」と、市役所内部の意気込みを報じていた。
第一期基本構想第一次基本計画は、昭和五十二年十月の『市報くにたち』(第三二七号、国立市基本計画特集号)に素案が発表され、四回の「市民の意見を聴く会」を経て、十二月に『国立市総合基本計画』という分厚い書物にまとめられた。
それは、昭和五十三ム五十七年度の基本計画で、(1)都市整備の推進、(2)生活環境向上、(3)産業振興、(4)教育文化推進、(5)社会福祉充実、(6)行政推進、と基本構想を具体化したうえで、(7)南部地域整備計画の柱をたてていた。
この(7)では、流通センター構想挫折後の将来像を、市街地整備、農地の有効利用等の必要を述べつつ、「南部地域の整備問題は、行政、一般市民、南部地域住民、農家などの主張と利害が複雑に絡み合うタイプの問題である。したがって、相互間の利害調整システムの確立が必要である」と、基本構想段階から一歩ふみだし、具体化していた。
石塚市長の問責決議
こうして長年の懸案であった基本構想・基本計画は、石塚市政三期目にして、一応軌道に乗った。新市庁舎も市制施行十周年にあたる昭和五十二(一九七七)年八月から使用を開始、市制十周年記念事業が盛大におこなわれた。
国立市は、昭和五十二年の市政施行十周年記念行事で、『市報縮刷版』を六五〇〇円、市歌レコード五〇〇円、ペナント三〇〇〇円、ワッペン大三〇〇円・小二〇〇円などで売りだし、「国立市、商売っ気たっぷり、なんでも有料、記念品」と、マスコミからやゆされた(『毎日新聞』五十二年九月三日)。
たしかに市政施行後の国立では、教育と福祉を重視した行政が行われてきた。昭和四十五(一九七〇)年の六小、四十七(一九七二)年の七小、五十三(一九七八)年の八小と、次々に小学校が開校した。五十(一九七五)年には、第三中学校が開校した。昭和四十三(一九六八)年九月からセンター方式での学校給食がはじまり、五十一(一九七六)年には、第二給食センターも開設された。各学校には、プール、体育館などがつくられた。
昭和四十四(一九六九)年六月の「国立市文化財調査員の設置に関する規則」にもとづき、仮屋上遺跡の発掘など、予算をつけての文化財保護も行われた。市内の遺跡・寺社・仏像・板碑などを系統的に調査し、わらべ唄の収集もおこなわれた。
昭和四十四年十一月二十四日の国立福祉会館開設は、とりわけ老人たちのいこいの場を広げるものだった。市立保育園の増設、学童保育所の設置、私立幼稚園への助成、母子福祉資金貸付制度、老人家庭奉仕員制度なども設けられて、「人間を大切にする町づくり」の実現をめざした。
心身障害者の教育も重視され、昭和四十六(一九七一)年六月に、国立福祉会館内の重度心身障害児の「あすなろ教室」を一小教諭が訪問するという、東京都でも初めての訪問教室が開かれた。四十八年には重度精薄児の特殊学校が第五小学校内に、四十九年には六小、七小、五十年には二中、三中に、特殊学級が併設された。五十一年には第一中学校に通級制の難聴学級もつくられた。
昭和五十(一九七五)年五月五日、六万三〇〇〇冊の蔵書で国立中央図書館がオープンした。目の不自由な人のための朗読サービスが設けられたのは、国立らしい特色であった。
全国に知られるようになった公民館活動も、若いミセスの教室のための保育室や青年学級室を設けて、市民大学講座・市民大学セミナーを中心に、国立の社会教育を発展させた。
もっともその過程では、特に石油ショックを境に、市の借金である市債への依存が強まった。市が独自におこなう国庫補助負担事業に対して国庫補助金が削減される「超過負担制度の解消」を国に訴えたが、当時の全国の革新自治体と同じように、財政危機への不安の声が次第に高まってきた。昭和五十二年の保育料の五七・二%にのぼる大幅値上げや、五十三年の市職員六五歳退職勧奨制度新設、五十四年の「さくらフェスティバル」への補助金カットなど、石塚市政も、財政危機への対処を余儀なくされていた。
したがって、第三期石塚市政は、順風万帆にはほど遠かった。
昭和五十年の三選直後から、身障児施設問題や市庁舎建設・二号幹線問題などで、いくども住民運動や市議会と対立した。助役・収入役の任命が市議会で認められず、五十年末から五十一年六月まで半年間、空席を余儀なくされた。昭和五十一(一九七六)年三月市議会第一回定例会には、「前年末の市役所仕事納めの職員訓辞で議会を侮辱した」として、以下のような石塚市長問責決議が可決され、予算案も特別委員会でいったん否決された。
革新自治体の終焉
石塚市長が「自治元年」と位置づけた昭和五十二(一九七七)年の四月に、元建設課長の学校建設工事にまつわる収賄事件が発覚して市長自身が減給処分、その直後の八月にも、総務課主事が庁用車の車検代金を横領するという不祥事がおこった。
この時も、五十二年九月市議会第三回定例会は、「職員の服務規律に関する決議」を採択し、市長の管理責任を問題にした(『国立議会史 あゆみ編』六二四頁)。
昭和五十三(一九七八)年の公民館改築過程では、付近の住民から日照権で異議がとなえられ、設計変更を迫られた。二号幹線流域下水道工事も再び住民の反対で大幅に遅れ、ルートと工法を変更しなければならなかった。
昭和五十三年九月市議会第三回定例会では、多摩川べりの少年野球場から条例なしで使用料を取っていた問題などをきっかけに市長と市議会が対立、教育長再任が否決され、与党の社会党議員が分裂して、九月二十七日に「石塚市長の無責任な政治姿勢に反省を求める決議」「石塚市長の新庁舎建設に伴う、議会を無視して行った責任を求める決議」と、市長問責決議案が二度も可決されるにいたった((『国立議会史 あゆみ編』六二七ム六二八頁)。
五十三年十二月第四回定例会では、昭和五十二年度一般会計決算が「ずさんな予算執行」だとして不認定になった。
このように、市長と議会および市民との関係はギクシャクし、行政運営は、スムーズにいかなかった。
そのうえ、革新自治体の環境は、低成長と財政危機のもとで、全国的にも厳しくなっていた。石塚自身は、革新市長会などで超過負担解消の先頭に立ち、昭和五十二年四月には国会衆院地方行政委員会で意見陳述するなど、財政自主権確立を訴えつづけた。しかし、飛鳥田横浜市長が五十年七月の全国革新市長会で、これまでの福祉政策の反省を述べて物議をかもし、これに反論した赤字財政下の美濃部東京都知事には「福祉ばらまき」の批判が強まるなど、財政危機への対処は、不可避の課題となっていた。
民間企業の「減量経営」が進むなかで、相対的に高い地方公務員給与・退職金へは自治省から抑制の指導が入り、全国的にも国民のなかで「革新自治体ばなれ」が進行していた。
大型小売店の進出
富士見台団地の入居の後、国立市の人口増は、頭打ちになった。しかし、小売・卸商店・飲食店は、増加の一途をたどり、昭和四十五(一九七〇)年から六十(一九八五)年の間に、人口は一割しか増えなかったが、小売商店の数は三割、店舗面積は九四パーセントも増加した。
昭和四十九(一九七四)年三月の大規模小売店の事業活動の調整に関する法律、いわゆる大店法の施行で、競争の激しくなった地元商店街は、スーパーなど大型小売店の進出に敏感になった。
それ以前の国立には、昭和三十五(一九六〇)年のスーパー原幸、四十一(一九六六)年の西友ストア国立店、原幸富士見台店、四十五(一九七〇)年の紀ノ国屋国立店などが、すでにできていた。しかし、昭和五十年代に入ると、各地で大型スーパー進出に対する地元商店街の反対運動がまきおこり、立川ではダイエーが進出を断念、小金井では稲毛屋が反対を押し切って出店強行などと、多摩地域でも紛争がおこっていた。
昭和四十九(一九七四)年五月、八王子に本社をもつスーパー忠実屋が、矢川上公園東側の空地に三七番目の店舗開設を計画していることが発覚すると、地元商店街から、強硬な反対運動がまきおこり、市議会にもたびたび請願・陳情が寄せられるようになった。
商店街からは反対署名三二二五人分、消費者側からはスーパー誘致署名三三六八人分が市議会に提出され、四九年十二月市議会第四回定例会は、反対陳情を継続審議にして判断をさけた。
そこに、昭和五十(一九七五)年九月、忠実屋が店舗建築着工を強行しようとしたため、警察も出動するさわぎとなった。けっきょくこの時は、市と国立市商工会があいだに入って両者が話し合い、忠実屋は、矢川への出店を断念した。そして、今度は富士見台に照準を定めて谷保駅北口商店会と交渉に入り、昭和五十二(一九七七)年十一月八日、ようやく忠実屋国立店は開店にこぎつけた。
その後、東区の丸藤、矢川駅前の稲毛屋の出店についても、地元商店街と進出業者のあいだで紛争・交渉が繰り返され、市議会でも問題になった。昭和五十三(一九七八)年八月の市議会第三回臨時会で継続審議となった「マルフジ国立店」出店反対に関する請願・陳情三件は、続く九月の第三回市議会定例会では可決・採択された。
昭和五十四(一九七九)年四月二十二日投票の統一地方選挙で、石塚市長は四選を阻まれ、保守系に推された消防庁救急部長であった谷清が、新市長に選ばれた。全国的にも、地方財政危機のもとで、東京都・大阪府の革新首長が破れ保守系知事が誕生するなど、いわゆる革新自治体の時代は終焉した。
市議会は、自民七、社会・市民クラブ五、公明四、民社一、共産五、国立クラブ三、新風クラブ二、所属なし三の会派構成となり、議員の五分の一が一人ないし二人会派で交渉団体ではないことから、一人会派にも会派代表質問と討論を許すこととし、代表質問については一会派一〇分を基礎に所属議員数で加算、代表討論は二人以上会派一〇分、一人会派五分という時間制限を設けて、昭和五十五(一九八〇)年二月二十九日から実施した。
少数与党の議会に悩まされた石塚市政とは異なり、谷市政のもとでは、与党が多数になった。しかし、初議会である五月十四日の市議会第二回臨時会では、正副議長の選出で紛糾し流会、五月二十三日に第三回臨時会を開いてようやく選出された。一年近く空席だった教育長は、七月十日にようやく選任された。
谷市長は、財政再建や南部地域開発にとりくんだ。昭和五十四年六月第二回定例会では、六月十九日に南部開発のために市民意委員会を設置する方向が示され、七月二日には、国立音楽大学付属高校跡地に集合住宅を建設することに反対し福祉総合センター(仮称)を建設促進する決議が可決された。九月の市議会第三回定例会では、財政調査会設置条例案などをめぐって紛糾し継続審議となったが、十二月の第四回定例会で、国立市財政問題調査会条例が採択された。十二月十七日に、国立市高齢者事業団が設立された。
昭和五十五(一九八〇)年、休日医療センターーがオープンし、休日歯科応急診療がスタートした。二月二十七日に財政問題調査会が発足し、十月三十一日に総花的政策の見直し、コスト意識の徹底、受益者負担の適正化などを盛り込んだ行財政の見直し答申が出された。
昭和五十五年九月に『議員ハンドブック』、五十六年二月に『国立市議会先例集』が議会事務局の手で作られ、議会運営のあり方も定まってきたが、市議の中からは、市議会の議員定数三〇を二四人に削減する動きが現れ、署名運動が始められた。昭和五十六年三月二十四日の市議会第一回定例会に、請願やアンケートをふまえた定数削減案が上程されたが、この時は否決された。しかし以後、たびたび争点となる。
昭和五十六(一九八一)年三月二十三日の市議会第一回定例会で、全国初の自転車利用促進安全条例が可決され、一時は全国ワースト・ワンとも報道された駅前放置自転車対策が、駐輪場設置などを通じて、実施に移された。同日、国立市地域防災センター設置条例案も可決された。六月十二日の市議会第二回定例会で、市職員に五八歳で退職勧奨をすることができるようになり、六月十九日採択の国立市組織条例にもとづき、大規模な行政の組織改革が行われた。以後、市職員のスリム化が進行する。
昭和五十六年四月十九日、初の地域防災センターとして中平地域防災センターがオープン、十月一日に、国立市保健センターが開設された。六月二十五日には、市議会第二回定例会で採択された国立市南部地域開発整備委員会条例が公布され、マスタープランがつくられた。十二月には、第一期基本構想第二次基本計画が作られた。
昭和五十七(一九八二)年二月十五日の市議会第一回臨時会で、北多摩二号幹線終末処理場・遮断緑地の用地買収が認められ、市民の懸案である下水道整備が軌道にのった。同年三月二日の第一回定例会では、第二中学校の過密を解消するため、市立第四中学校の早期新設を求める陳情が採択されたが、第四中学校建設問題は、この頃から議会と行政の大きな争点になった。結局、財政難を理由に中学校建設は見送られたが、第四中学校建設を求める請願の採択方法などで市議会は紛糾し、健康上の理由による議長の辞職、一会期で議長不信任動議ほか五件の動議の競合、懲罰特別委員会設置、議員提案による議員定数削減動議などが出されて、波乱をよんだ。
六月二十六日の市議会第二回定例会では、国立市非核武装都市宣言が採択された。この六月議会では、議会会期中に海外旅行に出かけた市議の懲罰をめぐり紛糾し、九月七日の第三回定例会開会日に、五日間の出席停止処分が出された。議員のモラルが問われた事件で、九月二十一日に現行議員定数三〇を二六に削減する議案が再び提出されたが、この時も否決された。十二月十一日、くにたち市民総合体育館がオープンした。
議会運営の面では、昭和五十八(一九八三)年三月十八日の内規改正で、議会運営委員会は議長の諮問機関であること、請願紹介議員は二名以内とすることなどが申し合わされた。この期の市議会は、定員三〇名で出発しながら、都議選出馬、一身上の都合による辞職、逝去などで四名が欠員になった。そのため昭和五十八年市議選では、議員定数削減問題が一つの争点になった。
石塚市政から谷市政へ
昭和五十四年四月二十五日投票の市長・市議会議員選挙は、石塚市長が四度目の立候補を決意したものの、前回にもまして厳しい環境のもとにあった。
すでに前年の京都府知事選挙では、二八年続いた革新知事が敗北し、自治官僚出身の実務派保守知事が誕生していた。市長選告示直前、四月十一日投票の東京都知事選挙では、美濃部都政の継承をうたった革新太田薫が、保守の新人鈴木俊一に敗れた。大阪知事選でも、鈴木と同じ自治官僚出身岸昌が勝利して、「革新自治体の崩壊」が言われていた。
伝統的に革新の強かった国立でも、都知事選では、太田票一万〇六六五対鈴木票一万〇三〇四と拮抗し、麻生良方に投じられた中道票四三七三票が、市長選の行方を左右するものと予想された。
国立の保守勢力は、市政奪取のこの好機に、これまで三たび自陣営の分裂により石塚に市長の座を許してきた苦い経験に学び、この選挙には、自民党・民社党・公明党・新自由クラブの推薦で、有力な統一候補を準備した。それが、消防庁救急部長をしていた新人谷清であり、年齢も五六歳の石塚より三歳若く五三歳、自治省出身の鈴木新都知事のイメージに近い、堅実な実務家であった。そして、この保守・中道一本化が成功したことにより、現職石塚は、社会党・共産党の推薦でほぼ前回に近い得票を得たにもかかわらず、谷に敗れる。
投票率は六五・六一%、市議会選挙での党派別議席数は、自民七、社会四、公明四、民社一、共産五、無所属九(当選後の市議会の会派では、市民クラブ一が社会党と共同会派、国立クラブ三、新風クラブ二、所属なし三)であった。新聞は、石塚の敗因を「敗れた石塚市長、もろかった革新の拠点、住民とのミゾ露呈、対決型、離反招く」と報じた(『読売新聞』昭和五十四年四月二十四日)。
当選した谷市長の『市報くにたち』での第一声は、「ひとりひとりの市民を大切に、明るく心のふれあう市政の実現に努力する」というものであった(第三五一号、昭和五十四年五月五日)。
この五月の『市報』に、石塚市長時代には恒例になっていた「憲法記念くにたち市民のつどい」の案内が入っていないのが、国立市政における、一つの時代の終わりを象徴していた。国立市における「市民参加の市政」の実験は、市制施行一二年にして、ひとまず幕を閉じた。
市議会の方では、自民七、社会・市民クラブ五、公明四、民社一、共産五、国立クラブ三、新風クラブ二、所属なし三となり、谷市政のもとでは、与党が多数になった。しかし、五月十四日の初議会は、正副議長選出で紛糾し流会、五月二十三日になって選出された。一年近く空席だった教育長は、七月十日にようやく選任された
国立高校野球部、甲子園出場
昭和五十五(一九八〇)年夏、都立国立高校野球部は甲子園大会に出場し、一大旋風をまきおこした。
七月三十一日、神宮外苑の西東京大会で駒沢大学付属高校を二対〇で破り優勝を決めると、国立市内は「くにこうフィーバー」一色となった。優勝旗を手にしての国立高校球児の凱旋を、夕方の国立駅に迎えた市民はおよそ一万人、国立高校までのパレードも、人並でいっぱいであった。
なにしろ都立高校としては、戦前・戦後を通じて初めての甲子園出場という快挙である。しかも、国立高校は、都立高校のなかでも有数の進学校であり、その春にも東大三二人・東工大二三人・一橋大一二人・慶応大六九人・早稲田大五四人などの合格者を出していた。「首都球史に新たな一ページ」「勉強と両立、自由な校風」などと、国立高校は「都立の星」とたたえられ、「ひときわ色の白さが目だつ国立球児の活躍は、さわやかな風を野球ファンに送り届けた」と、マスコミも大騒ぎであった(『朝日新聞』『日本経済新聞』昭和五十五年八月一日)。
この予期せぬできごとで、国立高校PTA・同窓会・国立商工会などは、急遽、選手と応援団派遣の一五〇〇万円カンパ活動にとりくんだ。国立市と市議会も、超党派で百万円の補助を決定した。短期間に集まった寄付金は六三三〇万円、あとで使途に困ってしまうほどであった。市内では、記念の大安売りの店もでるフィーバーぶりであった。
甲子園の全国大会では、惜しくも緒戦で、前年度優勝の和歌山箕島高校に五対〇で敗れた。しかし、満員の甲子園スタンドは圧倒的に国立高校を応援、「さわやか旋風」「笑顔の敗者」とよばれ、国立の名を全国に知らしめた。
国立を「こくりつ」ではなく「くにたち」と正しく読む人を日本中に増やしたのは、国立高校野球部の大きな功績であった。
財政問題調査会答申
谷清市長が、石塚市政に代わる独自の行政に本格的にとりかかるのは、国立高校野球部の「さわやか旋風」のころからであった。
昭和五十四(一九七九)年六月市議会第二回定例会での初めての施政方針演説で、「財政の健全化に全力をあげる」と決意を述べた谷市長は、その当面の行政課題として、(1)財政の健全化で市民サービスの向上、(2)防災に積極的なとりくみ、(3)生き甲斐ある福祉行政を、(4)教育行政内容充実、(5)都市環境づくり(南部地域・下水道)、をあげた。新市長は「基本構想を継承するのか」という一般質問に、「基本構想の内容は全部私の政治信条と合っているので継承していきたい」と答えつつ、「ただ五十三年から五十七年の五カ年計画で、構想の内容をすべて満たすということは、約束できない」「教育委員の準公選については、現行法律の中で考えるべきである。したがって、基本構想の準公選を進めるという点については、もう一度検討していきたい」と答えた。
当選後の昭和五十四年七月に庁内人事異動で組織を刷新し、五十四年十二月の市議会第四回定例会では、市職員組合などに反対されながらも、国立市行財政の抜本的見直しにとりくみはじめた。
昭和五十四(一九七九)年九月第三回定例会で、財政問題調査会設置条例案が提案された。財政危機のもとで「行政内部の検討だけではなく、専門的有識者、納税者、主権者である市民の参加のもとに財政問題を調査し、検討してもらう」という趣旨で、「諮問事項」には、(1)財政収入確保のための方策(自主財源の確保、市民負担の適正化)、(2)財政支出の適正化のための方策(事務事業の見直し、市補助金のあり方)、(3)国・都との関係における税財政制度の調査改善に関する事項(税源配分の是正・交付税増額のための検討、超過負担の解消のための検討、国と地方公共団体間の責任と負担区分の検討)、(4)市民本位のための財政運営方針(実施計画の優先順位の検討、公共施設整備計画の検討)が入っていた。市議会では「市民負担の適正化」や「減量経営」「民間委託」が問題にされたが、いったん継続審議になり、十月十二日の第四回臨時会に再提案され、十二月第四回定例会では、市職員組合などに反対され、総務委員会では継続審議になりながらも、本会議で六時間の長時間審議のうえ、ようやく可決された。ちょうど自治省が地方公務員給与の実態を調査し、国家公務員に比して地方公務員給与が平均七%も高く、会計検査院は、カラ出張・不当見積もり・高額接待などで国費二七〇億円が無駄遣いされていると発表した頃であった。
翌昭和五十五(一九八〇)年三月市議会第一回定例会での施政方針演説では、「市政運営の基本的な考え方」として、(1)生きがいのある市民福祉の推進、(1)文教都市にふさわしい教育の充実と文化活動、(2)市民の安全と健康に関する施策、(3)中小企業施策と農業の振興策、(4)南部地域の整備と用途地域の見直し、(5)都市施設の基盤整備と人間を大切にする町づくり、(6)市財政の健全化、(7)職員の意識改革と能力の発揚、をあげた。
財政問題調査会は、昭和五十五年二月二十七日にスタートした(委員長・大川政三一橋大学教授ほか一一名の委員で構成)。当初八月答申が目途とされたが、実地調査やヒアリングを含む一三回に及ぶ審議の結果が答申されたのは、国立高校野球部フィーバーが去った、五十五年十月三十一日のことであった。
国立市財政問題調査会答申は、「国立市の財政状況は経常収支比率の高まりが示すように、財政構造は硬直化し、円滑な財政運営に支障をきたしています」と現状を警告したうえで、「市行財政運営の基本的なあり方」として、(1)市民生活の充実・向上と地方公共サービス、(2)市民生活の充実・向上のための費用意識、(3)市民の生活便益増加に寄与する重要政策事業(生活基盤充実、既存の良好な生活環境の維持・改善、社会福祉効果の実質的向上、南部地域の効率的利用)、(4)市民満足最大化のための効率的財政、をあげた。
「財政健全化のための具体的方策」としては、(1)計画行政の推進、(2)事務事業の見直し、(3)行政職員の活力化と職員の意識改革、(4)自主財源の確保、(5)受益者負担の適正化、(6)市民本意の財政運営、が指摘された。
中央でも地方でも、全国的に行財政改革が進行しているもとで、谷市長は、これを積極的にうけとめたが、石塚時代とは異なる「費用意識」や「受益者負担」の強調を危惧する市民の声もあった。
事実、市議会や市民運動レベルでは、二中の学級増がプレハブ教室でまかなわれているもとでの第四中学校建設問題や、保育料値上げ、給食センターや学童保育の職員削減などの議論がおこるたびに、この財政問題調査会答申が、問題にされた。
昭和五十五年第四回定例会での質疑では、「財政問題や行政のあり方、人員の問題等について非常に細かく分析している答申で、むやみに歳出を切り詰めるというものではない。この答申に基づき、市民の理解を得ながらできることから実行していかなければならない」と低姿勢であった。しかしそれから十年で、市職員の数は昭和五十四年の六一七人から平成二年の五七四人へと保育・清掃などで四三人減、職員一人あたり時間外労働時間は下水道・水道職などで増大、という行政改革の出発点になった(国立市職員組合『蘇れ住民自治の街くにたちーーニセ「行革」十二年からの転換』一九九一年)。
とはいえ、行政の継続性からして、福祉や教育の施設拡充では、石塚市政時代の「総合基本計画」を、継承せざるをえなかった。昭和五十四年四月に公民館が改築完成し、旧市庁舎跡地には、財政再建のため当初の計画より遅れながらも、市民委員会方式で構想された市民総合体育館(昭和五十七年)、芸術小ホール(昭和六十二年)が建設された。
昭和五十五年に国立医師会の休日診療センターがオープン、五十六年には市の保険センターが完成した。
谷市政に特色あるものとしては、昭和五十六(一九八一)年四月にオープンした中平防災センターにはじまる地域防災センターの建設と、地域自主防災組織づくりがあった。石塚市政末期に問題となった国立音楽大学付属高校跡地には、東京都多摩障害者福祉センターを誘致し、国立市障害者センターを隣接させて、昭和五十九年にオープンした。
南部地域開発整備マスタープラン
国立の歴史のなかで、戦前までの中心は本村谷保地区であったが、戦後の都市化で、すっかり甲州街道・南部線以北の国立地区が中心になった。しかし、北部の国立地区の宅地開発が飽和状態にたっすると、南部の谷保地区をどうするかが、市全体にとっての重要な問題になってきた。住民の反対で撤回されたが、石塚市長時代の基本構想素案に「流通都市」がうたわれ、南部地域を準工業地区にして流通センターを誘致しようという計画も、そのひとつだった。
高度経済成長が終わり、地球環境問題や自然生態系の重要性が唱えられるようになって、気がついてみたら、国立の豊かな緑は、ほとんど南部にしか残されていなかった。おまけに、国立の南北問題は、し尿処理場にしても周辺下水道整備にしても、国立地区の都市化のツケを南部地域においやるかたちで進んできた。
昭和五十年代になると、南部地域の開発整備が行政の重要な課題として浮上し、昭和五十四年の市長選挙で、三期一二年続いた石塚革新市政は終わり、東京消防庁救急部長をしていた谷清が市長になったが、東京都知事も革新美濃部亮吉から自治省出身の実務家鈴木俊一に代わり、一つの時代の終わりとうたわれた。
谷市政は、実務において手堅く、着々と手をうっていった。第一期基本構想に即した「総合基本計画」の施策を財政再建・行政改革と併行して積み上げながら、昭和五十六(一九八一)年六月第二回定例会には、「簡素で効率的な」行政のための国立市組織条例案と共に、市都市環境部で作成した南部地域開発整備マスタープラン(素案)を検討するための「国立市南部地域開発整備委員会条例」を提出、本格的に南部地域問題に取り組み始めた。
南部地域問題は、昭和五十一(一九七六)年制定の第一期基本構想では抽象的にのみ扱われたが、五十二年決定の五十三ー五十七年度「第一次基本計画」のなかで七本柱のひとつにかかげられて、計画策定の手順が示されていた。石塚市政の末期、五十三年十月に『南部地域整備リーフレット』第一号を作成、「農地と宅地等の両立整備」をうたって、(1)農業問題、(2)土地利用、(3)道路交通、(4)生活環境整備の四項目について、「南部地域のまちづくりをみんなで考えましょう」と訴えた。これをもとに、五十三年十月・十一月に地域住民との一二地区での南部地域整備懇談会(第一回懇談会)が行われ、そこで寄せられた声を『リーフレット』第二号にまとめて、五十四年二・三月の第二回懇談会(一一地区)で検討、谷市政にバトンタッチされていた。
谷市政のもとでは、現況調査や戸別対話のほか、専門コンサルタントに委託して「環境評価調査」がはじめられ、その結果が昭和五十五(一九八〇)年八月に『リーフレット』三号にまとめられた。南部地域を「ハケ上」と「ハケ下」に大別したうえ、「ハケ上」は主として住環境整備と農地保全、「ハケ下」は、(1)農地保全、(2)多摩川と調和した環境整備、(3)都市計画道路一・三・一号を軸にした終末処理場・インターチェンジとの整合、と地域別に課題を提示し、八・九月に一一地区で第三回懇談会がもたれた。
昭和五十五年十月には、庁内都市環境部内に南部地域開発整備推進本部が設けられ、二号幹線流域下水道工事と都市計画業務を統合、財政問題調査会答申にある「南部地域の効率的利用」、すなわち「将来を左右する鍵は、いわゆる南部地域の利用をいかに高度化するかにある。これは、市の社会的責務であり、巨額な市費の投入が、社会資本投資として必要なことを自覚しなければならない」を受けて、本格的検討に入った。
この間、北多摩二号幹線流域下水道と終末処理場について、南部地区選出議員・地権者の協力をえて、都市公園整備や遮断緑地を条件に地元住民の建設合意を獲得できたこと、立川・国分寺両市と財政負担割合について調整できたことが、南部地域開発整備計画進展の条件となった。また、昭和五十五年の用途地域地区の見直しにおいては、市議会や市民への説明会で問題にされながらも、清化園と国立インターチェンジ周辺の一部地区が、準工業地域に指定された。
これらをもとに、昭和五十六(一九八一)年七月五日付『市報くにたち』(第三八〇号)に「南部地域開発整備マスタープラン(素案)」を発表、市長の諮問機関である南部地域開発整備委員会に諮ることになった。
このマスタープランは、国立市の面積の四六%を占める南部線以南地域を、各地区ごとにきめこまかな土地利用構想をたて、城山と都市計画道路一・三・一号線の区域に「地区中心施設ゾーン」を設けて城山公園、郷土館、運動公園、ショッピングセンターなどを集中させる方向を、示していた。
南部地域開発整備委員会は、「マスタープラン(素案)」発表当時は「五十六年度中に答申されることを目途に早急に委員会を発足」とされていたが、五十六年一〇月に地元市民を中心に二〇人で発足(佐藤康胤委員長)、一七回にわたる慎重審議のうえ、昭和五十七年九月二十九日に全員一致の結論を、谷市長に答申した。
昭和五十七(一九八二)年一月の『市報くにたち』(第三八七号)に発表された「第一期基本構想・第二次基本計画(案、昭和五十六ー六十年度)」では、第一次基本計画で第七の柱とされていた南部問題が、第一章「都市整備の推進のために」の冒頭に「南部地域開発整備事業」として「中央線立体化複複線化事業促進」とならぶ目玉に昇格し、(1)終末処理場の上部利用と周辺環境整備の促進、(2)都市計画道路1・3・1号線の促進、(3)緑川改修による周辺地域の開発整備の推進、(4)城山公園を中心とした歴史環境保全地域の整備、と具体化された。
南部地域開発整備委員会答申は、『市報くにたち』第三九九号(昭和五十七年十一月五日)に発表された。それは、(1)南部地域の現状と問題点、(2)南部地域の特性をいかした計画を立てるために、(3)南部地域開発整備基本計画作成のために、(4)今後の課題と実現の方策について、と構成され、その(2)では、「南部地域は、国立地域の『文教地区』と対比できる国立市のもうひとつの顔である」と位置づけ、「今後の計画では、今までの経過をふまえ、地権者の土地利用に対する意向に基づいた計画づくりを、進める必要がある」としていた。
より具体的には、「昭和五十五年度国立市南部地域開発整備に関する調査報告書」で出されていた「マスタープラン(素案)」の基本方針、(1)歴史的環境を重視した居住環境づくり、(2)農地を残し農業環境を守るまちづくり、(3)水と緑のまちづくり、(4)地権者の土地利用の意向をもとにしたまちづくり、(5)コミュニティづくりをめざしたまちづくり、(6)良好な業務地を図るため計画的な誘導策を考えるまちづくり、(7)公共的空間の確保、(8)防災に強い地域、を確認しながら、「農地と宅地の純化」「ハケ上の整備」「水田地帯の整備」を、「マスタープラン(素案)」を継承して、各地区毎に土地利用・道路計画・施設計画として提示した。今後の課題としては、(1)土地利用の誘導、(2)水田地帯の整備、(3)行政境の整備、(4)ハケ上の道路整備、(5)市の姿勢と対応、をあげた。
このころ発表された昭和五十五(一九八〇)年十月の国勢調査結果では、国立市の人口は二万二〇三五世帯六万四一四四人であったが、市民の産業別就業比率は、農業など第一次産業が一%にまでおちこみ、第二次産業二七%、第三次産業七二%と、農業従事者は三四八人まで減少していた(『市報くにたち』第四〇二号、昭和五十八年二月五日)。
「文教都市」の光と陰
国立市のキャッチフレーズは、「文教都市」であった。
昭和五十(一九七五)年元旦の『読売新聞』に、全国「文化の薫る町番付表」が載っている。番付を作成した「行司」は、地域問題に造詣の深い磯村英一・星野光男・恒松制治、東の横綱には、宮城県仙台市(教育環境を評価)、西の横綱には、京都市(歴史)があげられた。
国立市は、東日本の大関鎌倉市(歴史)、関脇松本市(教育環境)、小結札幌市(教育環境)に次いで、東前頭筆頭にランクされた。教育環境のすぐれた点が評価されたもので、西の三役(大関金沢市、関脇奈良市、小結倉敷市)を含めて比較しても、当時人口六万五千弱の国立は一番規模が小さく、いわば、軽量級チャンピオンであった(『読売新聞』昭和五十年一月一日)。
昭和五十六(一九八一)年十二月に、国立市と国立市商工会が実施した「地域小売商業近代化対策調査」で、市民に「国立から連想することば」を聞いたところ、@大学、A文教、B緑、C学生、D並木、E住宅街、F散策、G自然、H文化、I静寂、という結果が出た(『市報くにたち』第三九三号、昭和五十七年六月五日)。
昭和五十七(一九八二)年十月に、東京都が選定した「新東京百景」には、国立から「大学通り」と「谷保天満宮」と、二つも選ばれた。
大学通り・谷保天満宮をはじめとした環境のすばらしさのほかにも、国立は、全国に誇れる文化の伝統をもっていた。文教地区闘争や市民の自主的な運営による公民館活動は、全国の先駆的模範とされてきたし、歩道橋問題での環境権の問題提起など、住民運動・市民運動の盛んな街としても知られていた。コンピューターに対するプライバシー保護の条例制定は全国で最初のものであったし、市民参加による基本構想策定も、ユニークな実験であった。
その国立「文教都市」の名も、石塚市政の末期のころ、さまざまな面でほころびが現れ、風化したのではないか、といわれた。
政治面では、革新市政のもとで市役所職員の汚職・不正事件がおこり、住民運動同士の対立は「文教都市エゴ戦争悲し、利用決まらぬ私立高[国立音楽大学付属高校]跡地、都立高なんかよりと、子育て卒業派誘致に反対、市議会も政争激しく」(『読売新聞』昭和五十三年十月九日)と報じられた。子供たちの非行は、「文教都市に『非行汚染』、『学習会』で防衛へ」(『朝日新聞』昭和五十三年三月十一日)とさわがれ、市内にある大学と住民の絆の弱まりが、「『文教都市・国立』今や名だけ、大学が『市民離れ』、文化人組織も開店休業」(『読売新聞』昭和五十三年四月十五日)と指摘された。市内十数箇所にあった「国立文教地区」の看板標示そのものが朽ち果て、わずか三箇所しか残っていなかった状況は、「色あせた『文教都市』、まず『看板』塗り替え、イメージアップ作戦へ」と皮肉られた(『東京新聞』昭和五十四年三月五日)。
こうした「文教都市」のイメージダウンの最たるものが、駅前放置自転車の問題であった。昭和五十二年十一月に総理府交通安全対策室がおこなった駅前放置自転車の全国調査で、国立市は、中央線国立駅前が放置自転車五千台と発表され、ありがたくない「日本一」にランクされてしまった。
市民のあいだでも、駅前放置自転車への不満は、たかまっていた。昭和五十三年十二月に行われた第四回「国立市政世論調査」での「市政への要望」は、それまでの調査で常に第一位を占めてきた「下水道の整備」(一〇・二%)をおしのけて、「駅前周辺の自転車対策」が、トップ(一二・六%)におどりでた。
昭和五十四年四月の選挙で当選し、石塚一男に代わって市長に就任した谷清が直面したのは、こうした状況であった。
駅前放置自転車問題の推移
国立の駅前放置自転車問題の歴史は、昭和三十年代までさかのぼり、石塚市政のもとでも、手をこまねいていたわけではなかった。
すでに昭和三十七(一九六二)年七月四日の『読売新聞』は、「国立駅、駅前は自転車でいっぱい、駅の業務にも支障、警告無視に強硬措置も」の見出しで「文教地区に指定されて十年、文教地区協議会では駅周辺を美しくする運動が行われているが、放置される自転車が美観をそこなう結果にもなっている」と報じていた。
昭和三十八(一九六三)年に、国立駅南口の大学通り緑地帯が自転車置き場とされたが、富士見台団地完成などで、問題は次第に深刻になっていった。北口についても、「国立駅北口、なんとも邪魔な自転車、通勤客が放置して苦情よそに歩車道『占領』」(『朝日新聞』昭和三十九年六月十三日)、「国立駅北口の『自転車群』、こんどは町道を占拠、対策に悩む町当局、立川署、交通妨害面で調査へ」(『サンケイ新聞』昭和四十一年六月十五日)などと、繰り返し話題にされていた。
昭和四十六(一九七一)年一月、自動車公害が叫ばれ、国立でも歩道橋問題が市政の争点になった直後、国立駅南口商店会は、放置自転車の写真をとり整理を市に要請、国立市と立川警察署は、荷札をつけ所有者の確認と整理を実施した。同年六月二十一日には、国鉄に自転車置き場用地の借用を申し入れ、併せて、南口周辺の歩道の一部を白線で区画し自転車置き場にしたが、問題解決にはほど遠く、「国立駅前、跡たたぬ自転車の群れ、取締り効果なし」(『東京新聞』昭和四十七年五月七日)と報じられた。
もっともこのころは、大学通りのマイカーの青空駐車取締りと交通事故の方が、問題とされていた。昭和四十八(一九七三)年七月には、大学通りに片側バス・自転車専用レーンが設けられ、八月に多摩川べりのサイクリングロードが完成した。「脱クルマ、自転車ブーム」(『毎日新聞』昭和四十七年八月二十三日)といわれたように、自転車は、マイカー時代においてむしろ、無公害で健康と「人間性回復」につながるものと期待されており、通行者の保護と利用者の自覚が訴えられた。
昭和四十九(一九七四)年三月には、国立駅南口一二〇〇台、北口七〇〇台、矢川駅二〇〇台、谷保駅一〇〇台の放置自転車と記録され、四月から国立駅南口に毎朝市の整理員を配置、昭和五十(一九七五)年五月には、大学通り車道に沿って、両側に二〇〇メートルの自転車置き場を設置した。同年十月三十一日、石塚市長は、市の交通安全対策審議会に「国立駅前等の自転車対策について」諮問、昭和五十一(一九七六)年一月から、ようやく国鉄用地を借りての一二〇台分の自転車置き場も開設された。
しかし、昭和五十一年二月の調査でも、国立駅南口二二〇〇台、北口一二〇〇台、矢川駅二八〇台、谷保駅二五〇台と、放置自転車の状況は悪化していた。全国的にも問題になりはじめ、昭和四十九年十一月に東村山市が久米川駅前に多摩地区初の市営有料駐輪場を設置、五十一年九月十六日に大田区蒲田駅で都内で初めて放置自転車七〇五台を強制一斉撤去、五十二年五月には、政府の「自転車駐車場整備促進研究委員会」の提言が出され、総理府が立体式自転車駐車場のモデルを公開するなど、さまざまな試みが、現れはじめていた。
国立市も、昭和五十一(一九七六)年十一月に南口で強制一斉撤去を試み、翌十二月に南口ロータリー周辺歩道の時間帯駐車規制を実施したりしたが、効果はあがらず、昭和五十二(一九七七)年九月に市議会が国立駅南口立体駐車場設置計画を公表、同年十一月、市の「国立駅前自転車対策協議会準備会」が、総理府・東京都・国鉄・立川署・商工会などをメンバーにつくられた。総理府調査で、国立駅の放置自転車が全国ワーストワンとなったのを受けてのものであった。
ネックになったのは、立体駐輪場開設の用地問題であり、国鉄との交渉がはかばかしく進展しないことであった。昭和五十二(一九七七)年十二月から南口ロータリー歩道および大学通り歩道一五〇メートルを終日駐車禁止にし、昭和五十三(一九七八)年四月からは週一回強制撤去をはじめ、市役所での撤去自転車公開もおこなったが、イタチごっこであった。建設省のあっせんで立体駐車場用地について国鉄と合意ができたのは、石塚市政末期の五十三年十一月のことであった。
このころ、市がおこなった自転車利用者へのアンケートでは、通勤自転車利用の理由が、(1)時間が自由、(2)バスより経費が安い、(3)ほかに交通手段がない、と出ていた(『朝日新聞』昭和五十四年二月三日)。
自転車安全利用促進条例
「防災」を公約のひとつにかかげた谷市政の発足当初、昭和五十四(一九七九)年七月に一橋大学に駐輪場用地借用を申し入れたが、五十四年十一月の総理府調査では、千葉県柏市の常磐線柏駅前が六一八三台でトップになり、国立は五五〇〇台と全国ワースト・ツーに順位は下がったものの、放置自転車台数はいっそう増えていた。
谷市長は、昭和五十五(一九八〇)年年頭の『市報くにたち』紙上でのあいさつで、「問題は、いま駅前の自転車洪水状態に象徴されているように、人びとのまちへの愛着心がうすくなり、心を合わせて魅力的なまちづくりを目ざしていこうとする意欲が次第に失われてしまっていることではないだろうか。連帯を喪失したバラバラな住民が自己本位のエゴに走るのは当然の結果である」と、行政の中心課題のひとつとして、放置自転車問題にとりくむ決意を表明した(第三五九号)。
昭和五十五年四月十四日、石塚市政時代に計画された国立駅南口の二層式駐車場がようやくオープンしたが、四〇〇台しか収容できなかった。七月の『市報くにたち』(第三六六号)で「近くの人は歩きましょう」と自粛をよびかけたり、五十五年十二月、大学通りの両側緑地帯二二〇メートルを自転車置き場に指定したりしたが、焼石に水で、問題の抜本的解決にはならなかった。
市民のなかからは、昭和五十五年八月、「本邦唯一の放置自転車専門紙」と銘打って、『報知新聞』をもじったパロディ新聞『放置自転車新聞』(すっぽん企画)が発刊され、三万部が無料で配られた。「やった! 国立、日本一に! 堂々と放置自転車六千台、苦節二十年、悲願の全国制覇成る!」と、おりからの国立高校野球部甲子園出場になぞらえて、「放置自転車戦争」を痛烈に皮肉り、話題となった。五十五年秋の一橋大学一橋祭も、熱気球に放置自転車問題をスライドで映し出す企画を「泣くな自転車」と題して催し、反響をよんだ。
昭和五十六(一九八一)年新春の『市報くにたち』は、こどもたちの絵と作文で「ぼくの見た夢、わたしの見た夢、未来のくにたちは」を特集した。そこに掲載された四人の小学生たちの「夢」の作文のうち二人までが、「私はこの春、国立にひっこしてきました。はじめのいんしょうは、とても緑が多いところだなと思いました。けれども、駅の前の自転車にはびっくりしました」「わたしは、とてもせまい国立のことを考え、全部地下から四階まで区分した町づくりをします。まず地下には自転車おき場、国立駅前には全国一といわれるほおってある自転車があります。これを全部地下に入れてしまいます」と、放置自転車問題にふれていた(第三七四号)。
昭和五十五年十一月実施の第五回「市民世論調査」でも、「市政への要望」は、「駅前自転車対策」(四八・六%)は、「下水道整備」(三五・八%)などを抜き、断然トップであった。
谷市長は、この問題への積極的とりくみのなかで、衆議院交通安全対策特別委員会に参考人としてよばれ「自転車置場にもっと国庫補助を」と訴え(昭和五十五年十一月五日)、東京都の「自転車駐車問題等協議会」のメンバーとなり(五十六年二月)、朝日新聞社主催の自転車問題シンポジウムでも国立の現状を報告するなど(五六年五月十九日)、放置自転車問題のエキスパートになっていった。
昭和五十六(一九八一)年三月に、全国でも初めての「国立市自転車安全利用促進条例」を市議会第一回定例会に提出、建設委員会では持ち主不明自転車の処分方法などについて疑問も出され継続審議となったが、三月二十三日の本会議で可決され、五月二十日からこれをスタートさせた。建設省が「『放置自転車』、国立市に学べ」と自転車駐車場設置基準を設け、東京都は国立の条例を参考にモデル条例づくりに乗り出すなど、全国的にも話題になった。
具体的には、昭和五十五年十二月オープンの谷保駅北口自転車置き場(二五五台)から駐輪登録制度を実施、五十六年六月十日に国立駅南口第一(二層式四〇〇台)・第二(平地六六〇台、七月に二五〇台追加)を一キロ以遠の市民に限っての有料登録制(一台年額二〇〇〇円)でオープン、あわせて整理区域を設けて、放置自転車をとりしまることにした。矢川駅北口にも八月に三五〇台分を開設、国立駅北口には、国分寺市と負担割合国立四対国分寺六の協定を結んで、昭和五十七(一九八二)年三月に三〇〇〇台収容の駐車場(無料)のオープンにこぎつけた。五十七年十二月には、谷保駅にさらに駐輪場を増設した。
これらの結果、当初は「国立の自転車条例一年、モグリ駐車あと絶たず、放置数は減ったが登録証書き換える不心得者も」などと報じられたが(『毎日新聞』昭和五十七年五月二十日)、国立駅南口に第三駐車場が設けられた五十八年ごろには、「国立駅前、全国ワースト・ツー返上へ、放置自転車に『終息宣言』」(『毎日新聞』昭和五十八年一月十七日)と、マスコミからも評価されるまでになった。
「市政世論調査」の「市政への要望」で見ると、「駅前自転車対策」への不満は、第六回(五十八年八月調査)には「下水道整備」(四一%)につぐ第二位の二一・五%へと半減し、第七回調査(六十年六月)では、(1)「下水道整備」(四〇・二%)、(2)「中央線の高架複複線化」(二九・八%)に続く第三位(二二・五%)へと、鎮静していった。
こうして、国立市の長い「放置自転車戦争」も、ようやく解決の方向へと向かった。
とはいえ、第一期基本構想にかかげられた「わがまちを愛し、人間同志の連帯を深める市民」「わがまちの発展と平和のために、みずからが努力する市民」という「市民像」とはうらはらに、「文教都市の顔」である駅前大学通りの美観と環境を、市民一人一人の自覚とモラルによってではなく、行政的取り締まりの強化によってしか保持できなかったことに、変わりはなかった。
それは、くにたち中央図書館の蔵書が、年に一万冊も盗難にあうという市民のモラルの問題とも、相通じていた(『毎日新聞』昭和五十七年四月八日)。昭和六十二(一九八七)年十月の第八回「市政世論調査」の「市政への要望」では、「駅前自転車対策」は、ふたたび第二位に浮上し(第一位は「下水道整備」三六%)、二九%の高率を示した。
第四中学校建設問題
「文教都市」としての意味は、教育問題そのものでも、行財政改革とどう折りあわせるかが問題となった。
昭和五十七(一九八二)年二月十五日の市議会第一回臨時会で、北多摩二号幹線終末処理場・遮断緑地の用地買収が認められ、市民の懸案である下水道整備は軌道にのったが、同年三月二日の市議会第一回定例会では、第二中学校の過密を解消するため、市立第四中学校の早期新設を求める陳情が出され、採択された。しかしこれは、実現されなかった。
昭和五十五(一九八〇)年六月の第二回定例会で、市民総合体育館の着工見通しとの関わりで、第二中学校の過密を解消するため第四中学校を建設する問題が質問された。
財政問題調査会の審議途上である昭和五十五年九月の第三回定例会には、二中PTAなど一万三三一一名による「市立第四中学校(仮称)の新設促進に関する陳情」が出されたが、市側答弁は「人口が八万人になることを想定した場合には、第四中学校の新設が必要である。現在の人口が横ばいなので、当面の措置として、第二中学校の増設で対処する」というもので、継続審議となった。十二月の第四回定例会で再度問題になり、陳情は趣旨採択されたが、市側から「二中の学級増対策を進めながら、将来四中を目指していく」「財政上の問題を十分考え、生徒急増団体の対象になる年度に合わせて年度設定をし、財政当局にその意思表示を行った」「基本計画の見直しの中で四中新設を最優先にしていきたい」と一応前向きの答弁を引きだしたが、予算は第二中学校増築につけられるかたちになった。その間、教育委員会の準公選制や市民投票制度など、第一期基本構想に入っていた政策決定への市民参加の制度に対しては、市長から否定的見解が出された。
翌昭和五十六(一九八一)年三月の第一回定例会では、自転車条例案が可決されたが、四中建設については、「現在の財政状況から生徒急増団体の対象となる可能性が最も高い年度を選んで」昭和六十年度末完成・六十一年四月開校・建設費四七億円を見込む、といったん具体化されるに見えたが、教育委員会が生徒数増の試算を行ったところ、生徒数減少の見通しが出され、生徒急増団体の対象にならないことが判明して、九月の第三回定例会では「客観情勢が変わった」と答弁され、十二月の第四回定例会では、基本計画の見直しの中で「中学校の適正規模、適正配置を検討し、適切な時期に中学校の新設を図る」という抽象的表現に留められた。野党からは、「四中建設無視の政策に不満」「四中建設など市民要求無視の政治姿勢浮き彫り」と批判され、与党は「財源確保を図り、市民要望にこたえる努力を」と、四中建設問題は、財政問題調査会答申にもとづく行財政改革、基本構想・基本計画見直しの枠内に組み込まれていった。
こうした中で、昭和五十六年十二月第四回定例会に、国立市公立小中学校PTA連絡協議会(P連)から、一万八一三六名という市民の三割におよぶ四中新設陳情が改めて提出された。文教委員会では採択されたが、本会議で継続審議となり、昭和五十七(一九八二)年三月第一回定例会では、陳情者名が追加され一万八三〇六名になった段階で、三月二日の本会議で審議され、賛成多数で陳情が採択された。
しかし、市長は「財源問題」を最優先し、「現行制度では、生徒急増団体の対象になるかならないかによって、特定財源の上で大きな差がある」「北部再開発、人口政策をできるだけ速やかにとらえながら実現できる方途を探る」という姿勢をくずさず、「五月一日の学校基本調査をもとに再度推計をし最終判断をする」とした。
この五月学校基本調査で、将来的に児童数は減少するという見通しが出され、生徒急増団体指定の可能性は遠のき、財源難を理由に、第四中学校建設は見送られた。
昭和五十七年六月市議会第二回定例会には、国立市総合体育館条例案が提出され、九月の第三回定例会で採択されたが、四中建設問題の方は、市議会でその後も質問されたものの、谷市長は「陳情については謙虚に受けとめているが、市長として、財政計画の立たない要請には、決断できない」と答え続けた(『くにたち議会だより』第八四号、昭和五十八年二月五日)。
この間市議会は、第四中学校建設を求める陳情の採択方法などでたびたび紛糾し、健康上の理由による議長の辞職、副議長の死亡、議長不信任動議、懲罰特別委員会設置、議員定数削減動議などが出され混乱した。
懲罰特別委員会は、議会会期中に海外旅行に出かけた市議の懲罰をめぐって開かれたもので、ちょうど四中建設問題で市民が市議会に注目しているさなかにおこった、議会の不祥事であった。特別委員会ではいったん当該市議を除名とする案が採択されたが、昭和五十七年九月の第三回定例会開会日に、本会議で五日間の出席停止処分が出された。
議員のモラルが問われた事件で、九月二十一日には、現行議員定数三〇を二六に削減し「市議会の一層の活性化を図り、広く市民の負託にこたえる」とする議案が提出されたが、これは賛成少数で否決された。
非核都市宣言
同じ頃、昭和五十七(一九八二)年六月二十六日の市議会第二回定例会では、「国立市非核武装都市宣言」が採択された。
国立市議会は、市民の要求に対して敏感に反応し、しばしば住民内部の対立が持ち込まれ、行政とも対立する局面を経験してきたが、世界平和や国内政治の問題についてもさまざまに反応し、決議や意見書のかたちで議会としての態度を表明してきた伝統を持つ。文教地区指定自体が、朝鮮戦争と米軍駐留を背景に行われたものであったが、市制施行以後の主なものに限っても、以下のような決議や意見書が、くりかえし採択されてきた。
こうした意見書・決議は、国政での政党間の対立とは相対的に離れて、少数会派の議員からの提案であっても、市議の一人一人の思想信条に応じて判断され、採択される場合があった。「国立市非核武装都市宣言」は、以上のような流れに沿って採択されたものであった(『くにたち市議会だより』第八二号、昭和五十七年九月五日)。
昭和五十八(一九八三)年、四月に西児童館がオープンした。四月二十四日の統一地方選挙で、谷清市長は再選された。市議会選挙では、自民党一〇、公明党四、社会党三、共産党五、国立・新風クラブ四、民主クラブ三、林道クラブ一となった。昭和五四ム五八年の市議会では、定数三〇名で出発しながら、中途で都議選出馬・辞職・死亡などで四名の議員を失っており、選挙では議員定数削減が一つの争点になった。改選後、与党会派が、正副議長、各常任委員会正副委員長、議会運営委員会正副委員長、議会報編集委員会正副委員長、議会選出監査委員のポストを独占した。
昭和五十八(一九八三)年九月八日に、国立市は国から障害者福祉都市の指定を受け、十二月二十一日の第四回定例会で国立市障害者教育センター条例が採択され、公布された。
昭和五十九(一九八四)年二月、議長を座長とする「会派代表による議員定数問題検討部会」が市議会内部に設置されたが。十二月十九日の第四回定例会最終日に、四人の議員から議員定数三〇を二六に削減する提案がなされたものの、否決された。市職員については、五十九年六月十五日第二回定例会に六〇歳定年制の条例が提案・可決・公布され、定員削減・民間委託をうたった「国立市行政改革大綱」もつくられた。
昭和六十(一九八五)年五月、二年交代の市議会役職人事について臨時会では調整がつかず、六月第二回定例会でようやく改選された。十一月一日に、国立市婦人問題行動計画が策定された。十二月二十日、市議会第四回定例会で第二期基本構想が採択され、「活力ある文化都市の創造」がうたわれた。この十二月議会でも、議員定数削減案が提案されたが、否決された。
昭和六十一(一九八六)年一月、青少年海外派遣事業がスタートした。この年五月一日、城山公園がオープンした。六月第二回定例会で、「国立市情報公開及び個人情報保護に関する条例」が公布され、翌六十二年一月一日から施行された。昭和六十一年度から、議員に一人当たり十万円の行政視察旅費、会派研修視察旅費が計上され実施された。
昭和六十一年九月二十七日、国立インターチェンジ付近のラブホテル建設計画の問題から、ラブホテル及び類似施設建設に反対し、文教都市国立の誇りである住環境を守る決議が採択された。十二月二十二日には、国立市ラブホテル建築規制に関する条例が採択され、公布された。
昭和六十一年九月市議会第三回定例会で、四会派七議員から提出された国立市議会議員定数条例改正案が、徹夜の審議でついに可決され、次期市議会選挙からは、議員定数が三〇から二八に減らされることになった。
谷市長の再選
谷市長は、南部地域開発整備委員会答申を受けて、昭和五十八(一九八三)年三月市議会第一回定例会の施政方針演説で、「流域下水道終末処理場周辺の谷保緑地の整備、南部地域開発整備のための基本計画の策定」「城山公園の基本構想の策定」「河川敷公園の整備」「特産野菜の出荷改善事業援助」「優良集団農地の試みと農業後継者育成等への援助」を施策の中にもりこんだ。四月の市長・市議会議員選挙を控え、第一期四年間の実績としては、(1)流域下水道北多摩二号幹線工事の促進、(2)放置自転車対策の推進、(3)保健センターの建設、(4)市民総合体育館の建設、(5)府中都市下水路負担金問題の解決、(6)東地域防災センターの建設、(7)西児童館の建設、などをあげた。
昭和五十八年四月二十四日投票の市長選挙では、谷市長が再選された。対立候補は、再び社会党・共産党に推された前市長石塚一男、つまり前回と同じ候補者同士の、攻守をかえての対決だった。
石塚は、谷市政が「国や都のいいなり」になっており、市立四中建設を求める請願が延べ三万数千に達して市議会でも陳情が採択されたのに、財政難を理由に建設できずにいる問題を衝いた。しかし、四月十日投票の都知事選挙では、現職鈴木俊一(保守・中道推薦)が一万二八一四票を獲得、革新統一候補松岡英夫の一万〇六八三票を上まわるという、国立市の過去の都知事選結果からすれば、劇的な変化がおこっていた。文教地区闘争以来はじめて、都知事選挙の保守票が革新票を抜いたのである。
市長選挙の開票結果は次の通りで、国立市民の政治的力関係は、前回選挙から約千票ほど、保守寄りに傾いていた(投票率六四・三%)。
同時に行われた市議会議員選挙には、市長選挙とは趣を異にした、一つの争点が含まれていた。数人の候補者が、住民運動にも支持されて、市議会議員の定数三〇人は人口に比して多すぎるとして「議員定数削減」を政策にかかげ、立候補したのであった。その結果は、当選後の議会会派別で、自民党一〇、公明党四、社会党三、共産党五、国立・新風クラブ四、民主クラブ三、林道クラブ一であった。
議員定数削減問題
国立市議会の議員定数は、市制施行以降も特例条例で三〇人に抑えられてきた。
民主主義を、デモクラシーの字義通りに「民衆の権力」と理解すれば、古代ギリシャの民会やアメリカのタウン・ミーティングのように、全員が参加し議決に参加することが望ましいという直接民主主義の考え方が生まれる。しかし議会制民主主義は、住民の選挙によって選ばれた住民代表である議員によって構成される、間接民主主義によって民意を決する仕組みで、その議員数は、何名に一人が最適という合理的根拠はない。一つの考え方では、できるだけ直接民主主義に近づけるよう議員は多ければ多いほどよいということになるが、それでは「代表」としての意味をもたなくなるし、論理を尽くした理性的討論が困難になり、当時でも一議員当たり年五百万円以上といわれる議会経費も膨大になる。しかし議員数を減らすことは、民意を代表するという議会の本質的役割を狭めることにつながりかねない。
わが国の法律上は明解で、地方自治法第九一条第一項(市町村議会の議員の定数)に、人口二千未満の町村一二人、二千以上五千未満の町村一六人、……、人口五万未満の市及び人口二万以上の町村三〇人、人口五万以上一五万未満の市三六人、等と規定し、第二項で「前項の議員の定数は、条例で特にこれを減少することができる」とされていた。これは、国政とは異なり、地方自治では、住民から直接選ばれる首長と、それとは別個に直接に選ばれる議員にチェック・エンド・バランスの役割を期待し、議会の機能として、(1)住民代表に留まらず、(2)市民への情報開示と審議、(3)条例制定など意思決定、(4)執行機関たる行政への監視機能をもたせたものであった。。
ここでの人口は、五年ごとの国勢調査結果を基準とするため、国立市は、市制施行の昭和四十二(一九六七)年時は、昭和四十(一九六五)年国勢調査時点で人口五万人に満たず、町議会時代と同じ定数三〇人で出発した。ところが昭和四十五(一九七〇)年の国勢調査で、人口が五万九〇〇〇人を突破していたため、地方自治法のうえでは議員定数三六人となるが、「市民参加」を唱える石塚革新市政のもとでも、さすがに議員定数を増やすという議論はおこらず、昭和四十六(一九七一)年四月選挙直前の三月二十二日市議会第一回定例会は、地方自治法第九一条二項にもとづき、定数を三〇人に据え置く特例条例を議員提出法案で定めた(『くにたち議会だより』第三〇号、昭和四十六年五月一日)。
昭和五十(一九七五)年選挙の前にも同様の問題が生じ、再び三〇名に据え置かれたが、昭和四十九(一九七四)年十二月第四回定例会における議論は、次のように報じられた(『くにたち議会だより』第四七号、昭和五十年二月一日)。
ここで「委員会定数のアンバランス」というのは、当時の市議会の総務・文教・民生産業・建設の四常任委員会制のもとで、総務と民生産業が七人、文教と建設が八人で構成されていることを指し、四委員会を八人づつにすると三二人に増やす案になるが、増員は現職議員の再選可能性を高めることになるので、議員報酬引き上げと同じようなお手盛りとして市民から反発されかねず、「市民感情から現状は無理」となった。
いいかえれば、議員定数の問題は、市議会自身が民意を本当に「代表」できているかが問われる市民との関わりでの試金石的意味を持ち、行政によってではなく、市議会自身によって律せられる、市民に対する正統性のバロメーターとなる。
例えば町村合併による市制施行にあたっては、二つの議会の定数を単純加算するわけにはいかず、地方自治法の規定により現職議員の誰かは立候補しても議席を維持できなくなるという意味で、むしろ上限を定めたものと受けとめられ、議会内部からは増員も削減も意見が出にくい性質の問題で、これは、当時の日本の多くの市町村で抱えている問題だった。国会での選挙制度論議と似て、議会の存在意義が問われるのである。
議会内部からの削減案
谷市政二期目の昭和五十六(一九八一)年三月二十四日の市議会第一回定例会に、請願やアンケートをふまえて市議会議員定数三〇を二四人に削減する議案が提出されたのは、議員定数論議の一般的意義とはやや異なる、新しい意味を持っていた。行財政改革の中で市職員や教員の定員を減らす動きが進行しており、行政がスリム化し厳しく経費が切り詰められるもとで、議会の方は、果たして市民の要請に応え税金の無駄使いがないかが問われていた。全国的にも、公務員たる地方自治体職員の給与・退職金、労働時間・休暇等が厳しく点検され、地方議員についても、研修名目の物見遊山や料亭接待が問題にされるようになり、市民の納得できる「議会の活性化」なしには、「民意の民主的反映」名目の議員の増員はおろか、現状維持さえ難しくなってきたのである。
この時提案された、市民四二三二名の署名に基づく国立市議会議員定数条例改正に関する請願」は、その後の定数削減論議の論拠のほとんどを先取りしていた。
提案理由は、第一に、人口、面積、財政規模から見て、三多摩他市に比べ三〇名は多すぎる、第二に、議員を一人減らせば五〇〇万円、一〇人減らせば五〇〇〇円の節約が可能で、それを福祉や教育の財源に回せる、第三に、少数にすれば市民の議員への眼が行き届き、少数精鋭の効率的な議論ができる、第四に、三〇名という現行定数に合理的根拠はない、第五に、国立の類似団体は三〇名以下で運営されている、第六に、議員一人あたりの市民数、市民一人あたりの議会費の歳出に占める割合から見て、二四名に減らしても緩やかな変化である、将来は二〇名に削減すべきだ、というものであった。
これに反対する議員の論拠も、地方自治法では本来三六人であるのをすでに減らしていること、市民の代表はできるだけ広く各層の多様な利害と意見を反映させるべきであること、議会制民主主義と住民自治の根幹に係わるので財政面だけで考えるのはおかしい、常任委員会制度の運用が難しくなる、現行制度で何ら不都合・デメリットはない、といった反論で、結局賛成少数で否決されたが、以後、繰り返し問題になるようになる(昭和五十六年市議会第一回定例会議事録)。
昭和五十七(一九八二)年九月の市議会第三回定例会では、議会会期中に観光を含む海外旅行に出かけた市議の懲罰をめぐり紛糾して議員のモラルが厳しく問われ、九月二十一日に、現行議員定数三〇を二六に削減する議案が提出されたが、この時も否決された。
『くにたち議会だより』第八三号(昭和五十七年十一月五日)は、次のように報じた。
昭和五十七年十二月第四回定例会では、議会不信を背景に、市民の中からも議員定数削減の声があがって陳情が出され不採択になったが、翌昭和五十八(一九八三)年四月二十四日の統一地方選挙では、中途で都議選出馬・辞職・死亡などで四名の議員を失って実際に二六名で市議会が運営されてきた経緯もあり、賛成派の何人かは、選挙で議員定数削減を公約にし、当選してきた。
昭和五十九(一九八四)年十二月十九日、第四回定例会に、四人の議員から議員定数三〇を二六に削減する提案が再びなされたが、これも賛成少数で否決された。しかし『くにたち議会だより』第九三号(昭和六十年二月五日)は、大きく扱わざるをえなくなっていた。
昭和六十(一九八五)年には、九月の市議会第三定例会、「活力ある文化都市の創造」をうたう第二期基本構想が採択された十二月の第四回定例会にも、二六名削減案が提案され、否決された。そこでの質疑には、問「なぜ定数を減らさなければならないと考えているのか」答「近隣市、同規模の自治体の状況及び国立の将来を眺める中で、二六名でも市民の付託に十分答えていけると判断している」問「今回の削減案は、どれだけ財政を潤すと考えているか」答「議員一人当たり約五七〇万円程度であると考えている」とあり、谷市政のもとで進む行財政改革に、議会も自ら姿勢を示さねば、という提案趣旨が含まれていた。
地方行革の波、国立市議会に及ぶ
こうした動きは全国的であり、中曽根内閣のもとで進行する第二次臨時行政調査会(第二臨調)答申を受けた行政改革のもとで、昭和六十(一九八五)年、自治省「地方公共団体における行政改革推進の方針(地方行革大綱)の策定について」が「地方議会の合理化」を掲げ、減量化、効率化の波は議会レベルに及んで、議員定数削減は、「経費節減」のシンボル的意味を持つにいたった。この年四月の地方自治経営学会でも「地方議会に対する住民の不信」が指摘され、本来「民主主義の学校」であった地方議会が、「古い体質ムム一般住民の感覚・意識と非常にかけ離れた世界」「住民の議会離れ、議員の住民離れ」「議会審議も低調」「地方議会と執行部のなれあい、ヨコからのチェック・監視機能が希薄」であると診断され、「住民との距離を縮めるーー議会を住民に知らせる努力を」「もっと実りある内容のある議会審議を」と語られていた。
国立市議会も、谷市政のもとで着々と行財政改革が進められるもとで、この大きなうねりに逆らうことはできなかった。一斉地方選挙を翌年に控えた昭和六十一(一九八六)年九月市議会第三回定例会で、これまでの四名減員提案を緩和し、二名減員にした四会派七議員提出の国立市議会議員定数条例改正案が提出されついに可決、次期市議会選挙からは、議員定数が三〇から二八に減らされることになった。その審議過程を『くにたち市議会だより』第一〇一号(昭和六十一年一一月五日)が伝えた。
平成四(一九九二)年四月の調査では、全国三二三六町村で総定数は八万一九六二人が地方自治法上の定員であったが、定数を削減した市町村は九六・九%三一三七団体に及び、条例による総定数は六万二〇六六人となっていた、減員は、二四・三%一万九八九六人であった。
国立市は、法定定員三六人に対して二八人で減員八人二二・二%で、なお全国平均よりは減員は少なく、平成六年(一九九四年)に二名を減員し二六名、平成十一(一九九九)年にはさらに二名を減員して二四名になる。
計画行政と行政改革の推進
再選された谷市長のもとで、昭和五十八(一九八三)年十月、城山公園基本計画がまとまり、南部地域整備が具体化されてきた。国立駅前ロータリーと大学通りの整備のために、「円型公園、大学通り」のイラスト・イメージの公募が行われ、四三点の応募があり、最優秀賞には国立市富士見台三ム一〇ム一、佐藤卓史の作品が選定された(『市報くにたち』第四一三号、昭和五十八年一一月五日)。
商業振興のための『国立地域小売商業近代化対策調査事業報告書』(『市報くにたち』三九三・四〇七号)や中央線高架複複線と国立・立川間新駅設置の計画についての『中央線周辺地域の住民意向等調査報告書』(昭和五十七年十一月調査、同第四〇六・四〇七・四一〇号)、『新駅周辺の街づくり検討のための市民ワークショップ報告書』(同第四二一号)、国立市情報公開制度懇話会『国立市の総合的情報公開・個人情報保護制度のあり方に関する提言』(同第四二九号)、『国立市地域防災計画(震災編)』(同第四三二号)『国立市婦人問題行動計画』(同第四三二・四四一号)、『国立市行政改革大綱』(同第四三八号)などが次々に発表され、各論的なまちづくりの計画が、着々と具体化された。
昭和五十八(一九八三)年九月に「障害者福祉都市」に指定され、翌五十九年春には都立多摩障害者福祉センター・市立障害者センターがオープンした。
昭和六十一(一九八六)年二月の『国立市行政改革大綱』では、(1)事務事業の見直し、(2)組織・機構の簡素合理化、(3)給与の適正化、(4)定員管理の適正化、(5)民間委託・OA化等事務改革の推進、(6)会館等公共施設の設置及び管理運営の合理化、(7)職員の士気高揚策、(8)受益と負担の適正化・自主財源の確保、と「くにたち丸のシェープ・アップ」がうたわれた(『庁内報くにたち』第九四・九五号、昭和六一年五・七月)。しかし、中央線高架複複線化・新駅問題は、市当局と住民の努力にもかかわらず、中曽根内閣のもとでの国鉄分割・民営化のなかで、実現は困難になった。
こうした施策を、谷市長は、昭和五十九(一九八四)年三月市議会第一回定例会の施政方針演説で、「計画行政をさらに推進し、文化性豊かな潤いのあるまちづくり」と表現した。そこでは、市史編纂事業の開始などとともに、「昭和五十九年度は、基本構想の見直しを行う年であります。今年度中には識者を含めた委員会を発足させ、人々が心豊かに暮し、住んでよかったといえるまちづくりを目指し、十年を一つの区切りとして、二十一世紀を展望した新しい基本構想をつくりあげたいと思います」と、昭和六十年度が最終目標年度となる石塚時代の第一期基本構想の改訂にとりくむ決意が述べられていた(『市報くにたち』第四一九号、昭和五十九年四月五日)。昭和六十(一九八五)年施政方針では、「市政運営の三つの柱」として、(1)個性的で文化性のある地域社会の創造、(2)開かれた計画行政の推進、(3)行政の発展に資する行政改革の推進、とした。
昭和五十九年三月に、前年の答申を受けた「南部地域開発整備基本計画」がまとめられ、七月の『市報』に発表された(第四二二号)。そこでは、南部地区を「ハケ上」と「水田地帯」に二分し、前者の「居住環境整備計画」、後者の「都市基盤整備計画」がたてられ、土地利用については地区毎に構想・区分された。
第二期基本構想の作成
こうして、昭和五十九(一九八四)年十月、『市報くにたち』(第四二五号)に、市議会議員五名・学識経験者五名・一般市民五名計一五名から成る審議委員会をつくり、「国立市第二期基本構想」作成に着手するという、企画広報課のプランが発表された。
そのベースとなったのは、七月から庁内部長職以上の職員を委員として設置された基本構想検討委員会により作成された、「国立市基本構想検討委員会報告書・第二期基本構想の策定にあたって」(昭和五十九年十一月)であった。
「国立市基本構想検討委員会報告書」では、石塚市政時代に市民による原案作成委員会により起草された第一期基本構想の、行政サイドからの「見直し」が行われた。そこでは、「社会経済情勢の変化に伴って、現[第一期]構想における『目標』と『現実』のギャップが顕在化した」として、(1)経済低成長時代への移行、(2)高齢化社会の到来、(3)高度情報化社会の進展、(4)行政の文化化の進展、(5)住民ニーズの変化、(6)市行政の状況変化、を挙げた。「現構想中、見直しを要する部分」としては、(1)「ギャンブルに頼らない」市政、(2)「教育委員の公選制」、(3)都市基盤の整備、(4)行財政運営の効率化、(5)市民参加、(6)平和問題、(7)人口規模の設定、と列挙し、全体の構成骨子についても提案されていた(『庁内報くにたち』第八七号、昭和五十九年十二月)。
第二期基本構想審議委員会(委員長・市原昌三郎一橋大学教授)は、昭和五十九(一九八四)年十一月三十日に発足、当初は六十年中ごろまでに答申と予定されていた。しかし、検討委員会報告書をもとに、今回も一六回に及ぶ審議委員会と起草委員会に一年の審議を要し、市内三ヶ所での「市民の声を聴く会」を経て谷市長に答申されたのは、昭和六十(一九八五)年十一月十五日のことであった。
第二期基本構想は、第一期基本構想とは骨格そのものを異にして、次のように構成されていた。
この答申案(『市報くにたち』第四四二号、国立市第二期基本構想案特集、昭和六十年十二月五日)は、そのまま十二月市議会第四回定例会で採択され、発効した。議会での討論では、第一期基本構想との違いについて、(1)時代に対応する計画の運営指針であるというように修正すべきところは修正した、(2)行政の実態を考え、現実的に、実態的に行政運用に資するための具体性を導入した、と答弁された(『くにたち議会だより』第九八号、昭和六十一年二月五日)。
起草・作成自体は、市長の諮問機関の委員たちの手によるものであっても、第一期基本構想が石塚市政の「憲法」に当たるものであったとすれば、第二期基本構想は、谷市政のもとでの「憲法」ともいうべき性格をもっていた。
第二期基本構想の特徴
この点に留意して、第二期基本構想の内容をみると、その特徴は、次のようなものであった。
第一に、第一期基本構想は、当初の「行政主導型」素案の流産の経験を経て、「市民思考型」でつくられた「理想像」「理想の国立市」を強調したものであったが、第二期基本構想は、「現実的行政指針」「目標の着実な達成」を強調するものになった。
それは例えば、の「まちづくりの目標」において、「前構想において、国立市のまちづくりは『人間を大切にする』ことを基調とする、と明記した。このことは、まちづくりのための基本的な合意として現在もなお市民がひとしく共有し、今や、まちのあり方を示す理念にまで高められた。しかし、同時に、この理念は現実的な諸条件を無視して成立するものではない。国立市を取りまく様々な社会的環境を現実的に見つめながら、市民が求めうる人間的な夢を現実のものとする努力こそが大切である」とされている点に、典型的に示されている。また、「おわりに」でも、「本構想に掲げられたまちづくりの目標とその基本施策は、単なる理想としてではなく、現実的な行政運営の指針として存在する」と繰り返されている。
こうした「現実主義的」性格は、第一期基本構想に比して、。の内容が多面的で具体的になったところに、端的に現れている。他方で、第一期基本構想でかかげられた、「人間同志の連帯を深める」「わがまちと、日本の民主化に努める」「他人の生活と意見も大切にし、差別や不正をゆるさない」といった「市民像」が消えた。「ギャンブルに頼る市政を許さない」「教育委員の公選制をめざす」「自治体は国の出先機関ではない」といった第一期基本構想の「目玉」というべき表現も、抹消された。「の1に「市民参加の推進」の柱自体は残され「市政情報の公開」は継続してかかげられたが、「市民委員会」「市民投票」「教育委員準公選」などの制度は消えていった。
第二に、高度経済成長から低成長への端境期につくられ、なおその時代の転換を反映しきっていなかった第一期基本構想とは異なり、第二期基本構想は、「新しい時代への対応」を強調した。
それは、「はじめに」冒頭で、第一期基本構想にふれつつ「市政をとりまく社会的環境は、経済低成長時代への移行、高齢化社会の到来、高度情報化社会の進展、市民ニーズの多様化および社会資本の蓄積をはじめとするまちづくり計画具体化の要請など、その後大きく変化した」とする文章に端的に示され、の2や。でより具体化されている。
「都市像」そのものは、「文教都市くにたち」と第一期基本構想の規定が踏襲されたが、これを支え肉付けする言葉として、「緑と文化とふれあい」(Green-Culture-Community)が提唱された。
「に「行政の文化化」「婦人の社会参加」「行財政運営の効率化」がうたわれているのも、かつての「市民参加」「福祉と教育」の時代から、「行財政改革」「文化の時代」「生活の質」「アメニティー」へと行政のキーワードが移行してきた、日本社会全体の流れを反映していた。
第三に、南部地域開発整備計画の進展をベースにして、南部地域の問題は、第二期基本構想の要所要所に積極的にかかげられた。
氓フ1では「豊かな緑の環境を積極的にまもりながら、開発整備の期待される南部地域をふくめ全市的に土地の有機的利用をすすめる」、同2では「とくに、中央高速道路インターチェンジを中心とした地域は、多摩圏域の自動車交通の要衝として今後の開発整備によって一層の発展が期待されており、市としての主体性を維持しつつ計画的な都市形成がなされるならば、他市にまさる立地特性を有すると考えられる」と位置づけた。
昭和六十(一九八五)年十月の国勢調査結果で、国立市の人口は、六万四八八一人と停滞していた。の3で「将来人口を八万人とする」点は、第一期基本構想を踏襲しながらも、同4や。の4・5で「南部地域の開発整備は国立市のまちづくりにとってもっとも大きな課題」であることを強調した。
この第二期基本構想完成を受けて、谷市長の昭和六十一年度施政方針のキャッチフレーズは、「思いやりと心のふれあいをもとにした『活力ある文化都市』の創造」とされた。
昭和六十一(一九八六)年三月には、これが『第二期基本構想・第一次基本計画』に具体化されていった。この年、元国立町長佐藤康胤(昭和六十年十月死去)から寄せられた一億円の基金をもとに、市内在住の中高校生を夏休みに海外のホームスティに派遣する制度もはじまった。「国際化時代」を反映して、六十一年夏の第一回派遣には、一〇人の定員に二八七名が応募するという狭き門となった。
市役所周辺の市民総合体育館(昭和五十七年完成)、芸術小ホール(昭和六十二年完成)、国立音楽大学付属高校跡地にオープンした東京都多摩障害者福祉センター(昭和五十九年)などに続いて、南部地域の整備も進み、城山公園は昭和六十一年五月一日にオープンした。
国立スカラ座が消えた
昭和六十二(一九八七)年十月の「国立市政世論調査」での「国立市の魅力」ベスト・ファイブは、(1)大学通りをはじめ街並みがきれい(四〇%)、(2)落ち着いた住宅地区(三四%)、(3)緑や公園が多い(三四%)、(4)一橋大学などがあり文教地区(二四%)、(5)通勤・通学が便利(一三%)、であった。
ちょうどこの調査が行われた頃、昭和六十二年十月二十七日に、旭通りに面した国立唯一の映画館、ホームシアター国立スカラ座が閉館となった。
スカラ座の開館は、昭和三十一(一九五六)年七月十日、当時は国立コニー劇場という名であった。開設にあたって、文教地区にふさわしい映画を上映してほしいという住民の要望があり、教育委員会でも検討した結果、公民館に小学校教員・PTA代表・学識経験者代表らを加えた「くにたち映画懇談会」が設けられ、月一回、映画館の支配人も加えて翌々月の邦画中心のプログラムを検討するという、ユニークな方法がとられた。開館最初の上映は「ビルマの竪琴」と「ジャンケン娘」で、「ジャンケン娘」には「文教地区が泣く」という父兄の批判も出たというが、「満員の盛況で、子供が観客の六割を占めていた」という滑り出しであった(『朝日新聞』昭和三十一年七月十二日)。
国立コニー劇場は、昭和三十年代の国立町民のいこいの場になった。まだテレビもクーラーも普及していない時代で、暑い夏の夜などは、夜一〇時からのナイトショーが満員で、蒸し風呂のようになる人気であった。くにたち映画懇談会も、月に一度優良映画の推薦週間を設けるなど、初期には積極的に支援した。
しかし、東京オリンピックの頃から、家庭にテレビが普及し、日本の映画産業全体が、急速に衰退してきた。国立コニー劇場も、次第に客足が遠のき、昭和三十七(一九六二)年八月には、アトラクションとしてストリップショーを上演するところまで、追い込まれた。文教地区協会や国立婦人の会がただちに抗議し、同年十二月には、いったん閉館に追い込まれた。館主が夜逃げして行方不明となり、しばらく劇場は荒れ放題、化け物屋敷とよばれた。
昭和四十二(一九六七)年八月、劇場は改装され、東宝系洋画中心のホームシアター国立スカラ座の名で、生まれ変わった。毎年九月十五日の敬老の日には、市内在住の六五歳以上のお年寄りを無料招待するなど、五十年代半ばまでは、毎日千人をこす映画ファンでにぎわった。
しかし、映画界全体の衰退、封切館でないこと、レンタル・ビデオの普及などで、しだいに客足がおちてきて、週末で五〇〇人、平日は二〇〇人を割るようになってきた。こうしてスカラ座も、昭和六十二年には、幕を閉じることになった。国立における古き良き文化の灯は、テレビ文化におされて消えていった。一つの時代の終わりを象徴していた。
そうした時代の波は、国立市にも浸透してきた。昭和六十一(一九八六)年八月、国立インターチェンジ付近にラブホテル建設計画が浮上してきた。付近の住民から反対運動がおこり、市議会は、九月二十七日の第三回定例会では、「ラブホテル及び類似施設建設に反対し、文教都市国立の誇りである住環境を守る決議」が採択された。十二月二十二日第四回定例会では、国立市ラブホテル建築規制に関する条例が採択され、公布された。
昭和六十二(一九八七)年三月市議会第一回定例会には、中曽根内閣の売上税導入に反対する請願・意見書が出され採択された。折から統一地方選挙直前で、「国立市議会が単独で『売上税反対』垂れ幕」と報じられた(毎日新聞、四月十一日)。
昭和六十二(一九八七)年、市の情報公開及び個人情報保護の制度がスタートしたが、四月の統一地方選挙は、議員定数が三〇から二八に減らされて、初めての市議会選挙であった。市長には、谷清が三選された。二八人の議員の会派別は、自民八、公明四、民社一、社会三、共産六、国立クラブ四、林道クラブ一、21クラブ一となった。予算及び決算特別委員会の運営について見直しが行われ、日程四日間、会議時間午前一〇時から午後五時、持ち時間一人一日一〇分で会派毎に割り当て、などの方式が採用された。
この年は、市制施二十周年で、十一月三日に完成したばかりの芸術小ホールで、記念式典が行われた。
昭和六十二(一九八七)年の国政では、売上税導入が争点になり、国立市議会第一回定例会では、選挙前の三月二日に、全会一致で売上税反対が決議された。十二月第四回定例会でも、大型間接税導入反対の意見書が可決された。
昭和六十三(一九八八)年度から、議会の会派研修費一〇万円を一五万円にし、議員の健康診断を行うことになった。同年十二月二十日の第四回定例会では、リクルート疑惑徹底糾明・消費税廃棄・内閣総辞職を求める決議が可決された。
平成元(一九八九)年一月十九日、粗大ごみを処理する国立市環境センターが落成した。三月二十七日の市議会第一回定例会で、高齢者いきがい・ふれあい福祉基金条例が可決された。五月八日には、北多摩二号幹線流域下水道終末処理場が完成し、通水式が行われた。市民の悲願であった公共下水道整備が、ようやく実現したのである。
六月二日の市議会第二回定例会で、市議会最大会派の自由民主党が議長人事をめぐって分裂、三つの会派に分かれた。六月二十日の議会では、リクルート疑獄と宇野首相のスキャンダルでゆれる国政に対して、内閣総辞職・国会解散を求める意見書と共に、全国でも初めての「リクルート汚染の高石前文部次官の作った新学習指導要領の撤回を求める陳情」が趣旨採択された。
この頃世界は、中国天安門事件、東欧の民主化、「ベルリンの壁」崩壊、冷戦終焉と、激動を経験していた。日本はバブル経済のさなかで、土地・不動産投機の波は、駅前ワンルームマンションや国立インターそばのラブホテル建設などとして、国立にも及んできた。
平成二(一九九〇)年三月二十八日の市議会第一回定例会では、「ゆとり創造宣言」が採択された。五月六日、「インターナショナル・フェスタ一九九〇」が開かれ、国際化に対する国立市の本格的取り組みが始まった。九月二十一日、市が情報公開・個人情報保護条例に違反して、シルバーパス交付判定に個人の課税用データを無断流用していたことが明るみになり、市長は陳謝した。九月市議会第三回定例会で、育児休業法の早期制定を求める意見書、国立市ワンルーム形式共同住宅の建築に関する指導要綱(案)ほかに基づく指導要綱の策定に関する陳情などが採択された。九月二十九日、市主催の「九〇フェミニスト・フォーラムくにたちーー男と女のくう・ねる・あそぶ」が開催された。十月から国立市のイメージアップをはかるCI活動が始まったが、谷清市長は次期市長選挙に出馬しない意向を表明した。
平成三(一九九一)年三月市議会第一回定例会で、リサイクルセンターの設置を求める陳情、「国立市中高層建築物の建築に係わる紛争の予防と調整に関する条例(案)」に基づく条例の策定に関する陳情を採択した。三月、市は英語・ハングル語・中国語による暮らしの情報誌『くにたちハンドブック』を発行した。
谷市長の三選
昭和六十二(一九八七)年は、市政施行二十周年にあたり、同時に、市長・市議会選挙の年でもあった。
四月の市長選挙は、早くから三選出馬を表明していた自民・公明・民社党が推す現職谷清と、社会・共産両党に推された前国立市建設部長寺西崇雄の争いになった。
寺西は、石塚市政時代の第一期基本構想原案作成などに行政側で中心的役割をはたした一人であり、このころ争点となっていた国立インターチェンジ付近のラブホテル建設反対の住民運動に、「市民が主役になるまちづくり研究会」のリーダーとして、加わっていた。寺西は、中曽根内閣が当時唱えていた売上税への反対を前面に出し、谷市政のもとでの「福祉と教育の切捨て、市民負担の増大」を批判した。
しかし、四月十二日投票の都知事選挙は、自公民三党で三選をめざす鈴木俊一に、社会党が和田静夫、共産党が畑田重夫と、社共が独自候補を出す革新分裂選挙となった。開票結果は、現職鈴木の予想通りの圧勝で、国立でも、鈴木一万一九五九票、和田四九四六票、畑田五四四八票であった。そのうえ国立では、元社会党市長の石塚一男が、都知事選挙で共産党系の畑田候補を推して市長選挙中に社会党から除名されるというハプニングがあり、社共の足並みも乱れがちであった。
四月二十六日の市長選挙では、行政改革・財政再建の実績をかかげた谷清が、三選された。投票率が五八%に下がって、開票結果は次の通りであった。
市議会議員選挙の方は、議員定数が削減されて、定数二八に三〇人が立候補という少数激戦となり、党派別当選者数は、自民六、公明四、民社一、社会三、共産六、無所属八という結果となった。当選後の議会会派では、自民八、公明四、民社一、社会三、共産六、国立クラブ四、林道クラブ二であった。
市制施行二十周年
市政施行二十周年記念式典は、昭和六十二年十一月三日に、完成したばかりの芸術小ホールで盛大におこなわれた。ちょうど、天下市・一橋祭と重なる、第一八回市民まつりのさなかであった。『市報くにたち』や『くにたち議会だより』の縮刷版が刊行されたほか、市政施行二十周年記念「テレホンカード」がつくられたのが、新しい時代を反映していた。
二十周年を記念してつくられたパンフレット『文教都市くにたち』は、「イラストマップ くにたち」のほか、国立市の現況をしめす「グラフでみるくにたち」を載せていた。
それによると、人口は、六二年一月一日現在で二万五一八三世帯・六万五一七六人、一世帯平均人口二・七人、市内の工場は九〇、農家数二三八、登録外国人は四七七人、六五歳以上人口七・九%、平均人口密度は一平方キロメートル当り八・〇六六人、一日当り出生一・九人、死亡〇・七人、結婚一・一組、転入一六人、転出一七人。昭和六二年度一般会計予算総額一三三億五六〇〇万円、市税一人当り一二万一五五九円、職員数は市民一一二人に一人、ゴミ一日六七トン、医師は一一六七人に一人、公園一人当り二・一七平方メートル、登録乗用車一世帯二台、交通事故三日に一件、国立駅の乗車一日四万八九一一人、などとなっていた。
谷市長は、このパンフレットに収録された記念式典のあいさつのなかで、次のように述べて「はたちの国立」を祝った。
「はたち」を迎えた国立市政
昭和六十一(一九八六)年十一月二十二日の『毎日新聞』に、「なんでもベストテン 住みたい土地」が掲載された。全国一は東京の自由が丘、国立は全国八位に入った。
ちょうど日本経済の競争力が強まり、円高からバブル経済へと入る時期であった。土地価格も高騰し、昭和六十二(一九八七)年にはタレントの三浦友和・百恵一家が国立に転居してきてマスコミや見物客にさわがれるなど、「くにたち」も、ある種のブランド名として定着してきた。
市政施行二十周年の昭和六十二年十月に、第八回「国立市政世論調査」がおこなわれた。
国立市の「市政世論調査」は、石塚市政初期の昭和四十四年十月調査(サンプル数一七七二)が『市報くにたち』第二一四号(昭和四十四年十二月五日)に掲載されているほか、昭和四十七年第一回から毎年の調査結果が、系統的にパンフレットにまとめられている。これらの「市政世論調査」結果を歴史的に比較して、「はたち」を迎えた国立市政と市民の関係の、二十年間の長期趨勢をみてみよう。
ここでは、昭和四十四年調査を起点に、石塚市政第二期で流通センター・準工業地域問題時の第一回(昭和四七年二月、有効サンプル一〇九四)、オイル・ショックがあり第一期基本構想原案作成期の第二回(昭和四九年一一月、サンプル四九四)、石塚市政三期目の終わりの第四回(昭和五三年一二月、サンプル七三九)、谷市政初期の第五回(昭和五五年一一月、サンプル七六六)、それに市政施行二十周年で谷市政三期目に入った第八回(サンプル七八三)の結果を、比較可能な限りで検討してみよう。年により設問テーマが異なり、テーマが同じでも表現がやや異なる設問があって、必ずしも厳密ではないが、おおざっぱな傾向は抽出できる。
「くにたちの住みよさ」については、昭和四十四年からデータがある。
市制施行当初の施設の不便・不満が、長期的に解消してきたことがわかる。
「市政への要望」の上位三項目を見ると、以下のように時代の流れを映し出している。
「下水道整備」が、国立市民にとって悲願ともいうべき切実な課題であったことを、示している。もっともこの点は、谷市長が市制施行二十周年記念のあいさつで述べたように、石塚市政の時代にはじまった北多摩二号幹線流域下水道の完成で、新たな段階に入ろうとしていた。
平成元(一九八九)年五月八日、北多摩二号幹線流域下水道の終末処理場が完成し、通水式がおこなわれた。この第一期工事完成と運転開始により、国立市の公共下水道普及率は、二%から一挙に八五%へと高まり、「下水道普及率後進市」の汚名を返上することができた。
市民の「市政への関心」の強さは、次のように推移してきた。
流通センター・準工業化反対運動時の市民意識の高揚と、それとは対照的な石油ショック直後における市政無関心層の急増、石塚市政末期から谷市政の時代へと継承される関心層と無関心層の分化・固定化、が指摘できる。
市民運動と国際化、女性たち
市民が市政へ自分の意見や要望・苦情をどう伝えるのかという、市政への伝達・参加手段の上位三位をみると、次のようになる。
市役所の窓口改善や市民相談の制度化で、市民と行政が近づいた反面、住民運動・陳情・請願など直接参加型の市政への接近が、長期的には衰退してきたことが認められる。
それは、昭和五十年代からの全国的傾向であるが、それが国立では、市民運動と行政のあつれきを伴った。例えば昭和五十七(一九八二)年、それまで一三年間続いてきた新成人たちの手づくりによる実行委員会方式での「二〇歳のつどい」が、教育委員会と予算や方針で対立して実行委員への応募者がいなくなり、教育委員会主催の「成人式」にきりかえられた事件(ただし翌年復活)、などに現れていた(『読売新聞』昭和五十七年一月九日、『毎日新聞』昭和五十八年一月一六日)。
同様な問題を、昭和五十九年に「国立市民意識調査」として実施した一橋大学社会学部の研究グループも、政治意識の面で国立市民が全国平均や埼玉県上尾市・茨城県下館市より「革新的」で「参加型市民」が多いものの、「国立市民の『革新性』といわれてきたものの内容が、その量的・形態的継続にもかかわらず、高度経済成長を経た日本社会全体の変容に応じて、静かなる変貌をとげつつあるのではないか」と結論づけている(一橋大学社会学部『多摩圏の総合的研究』一九八六年三月)。
国立市民の住民運動・住民組織の伝統は、根強い。谷市政に入ってからも、北多摩二号幹線流域下水道問題、財政問題調査会設置、南部準工業地域指定、四中建設、教育委員準公選、教科書問題、市議会議員定数削減、七小敷地内市道建設問題、保育料値上げ、スーパー進出、駅前ワンルームマンションや国立インターそばのラブホテル建設など、問題がおこるたびに住民の運動がおこり、組織がつくられてきた。ラブホテルについては、昭和六十一(一九八六)年十二月二十二日の市議会第四回定例会で、建設反対の陳情を採択し国立市ラブホテル建築規制に関する条例をいったん可決したが、この規制が手ぬるいとする住民が二五〇〇人の直接請求名簿を提出、全面改正を求めたが、昭和六十二(一九八七)年三月第一回定例会で市議会がこれを否決した。
福祉・教育・環境・反原発・まちづくりなどについては、地道な学習活動を続ける運動体が継続して存在し、公民館のコーヒーハウス、「国立土の会」、「矢川を見守る市民の会」、地域国際交流委員会のような、文化活動・文化団体も活発である。それら市民の活力が、市政とまちづくりにどのようにいかされるのかが、「活力ある文化都市の創造」のひとつの課題となった。
それはまた、国立の将来像にかかわる問題でもあった。昭和六十二年の「国立市市政世論調査」では、国立市の将来像について、選択回答させた。その結果は、(1)文教都市(三四・五%)、(2)住宅都市(二三・五%)、(3)福祉都市(一二・九%)、(4)歴史都市(九・一%)、(5)田園都市(八・四%)、(6)防災都市(四・〇%)、(7)情報都市(二・三%)、(8)商業都市(二・〇%)、であった。文化と教育と豊かな居住環境を市民が望んでいることは、ここからもうかがえる。しかしそれが、どのようなプロセスでつくられ、どのように市民一人一人がかかわっていくのかは、必ずしも明確ではなかった。
また、設問の選択肢そのものに「国際都市」がないように、国立市は、「国際化」の面での課題をかかえていた。外国人が多く住む街といわれながら、他の自治体で急速に進んでいる国際化への対応は、青少年派遣事業が始まったとはいえ、最も初歩的な姉妹都市提携すらなかった。公民館のコーヒーハウスや地域国際交流委員会などのボランタリーな活動が、この面での重要な「活力」であり、市内の大学・文化人の力のまちづくりへの吸収とともに、新時代の課題となった。
国立市立図書館に英文図書案内ができたのが昭和六十三(一九八八)年二月、市と一橋大学の協力で地域国際交流委員会が設立されたのが同年六月、初めてのイベントは、外国人留学生を迎えての田植えの会だった。
平成元(一九八九)年二月二十二日、市役所内に国際化検討プロジェクトチームが発足、五月に公民館が外国人のための日本語教室を開始し、六月の中国天安門事件にあたっては、中国人留学生たちが「中国情勢について国立市民と語り合う会」で直接交流した。十一月からは、韓国人留学生を講師にハングル入門講座が始まった。
市役所でも、平成元年六月十九日から、月二回、市民相談コーナーに中国語・ハングル語・英語による外国人専用の相談窓口を設け、平成二(一九九〇)年には、公民館に韓国『東亜日報、中国『人民日報』、英文『ジャパンタイムズ』『ニューズウィーク』などがおかれて、留学生などに喜ばれた。三月、市は英語・ハングル語・中国語による暮らしの情報誌『くにたちハンドブック』を発行した。同年五月六日に在日外国人日本語弁論大会など「インターナショナル・フェスタ一九九〇」が行われ、以後、国立市の国際交流の恒例行事となる。
国立市の市民運動を支えてきた主力は、女性たちであった。昭和六十(一九八五)年一一月に、市は国立市婦人行動計画を策定、六十一年六月には国立市婦人問題市民委員会が活動を始め、六十二年十二月に最終答申が出された、平成二(一九九〇)年の市主催婦人問題シンポジウムは「女性の自立と高齢化社会」と題され、「婦人」から「女性」へと、行政の扱いも変わってきた。この頃行われた市の婦人問題意識調査結果では、「男は仕事、女は家庭」を肯定する市民は、男性二五%・女性一四%、否定は男性三一%・女性四三%で、国立市の女性たちの男女平等参画への関心の高さを示していた。同年、国立市の女性教師が、男女別出席簿を考える集会で、市内一三七学級中四五学級で実施されている男女混合名簿の体験を報告し、全国から注目された。
平成二年三月に市の女性向け広報誌『くにたちウィ・アー』が創刊され、九月二十九日の市主催「90フェミニスト・フォーラムくにたちーー男と女のくう・ねる・あそぶ」は、二一世紀に全国初めての女性市長と女性市議会正副議長の同時選出にいたる新時代への幕開けとなった。
二号幹線流域下水道の開通
平成元(一九八九)年三月二十七日の市議会第一回定例会で、高齢者いきがい・ふれあい福祉基金条例が可決された。
谷市長が市制施行二十周年記念式典で述べた「公共下水道の整備」は、国立市民の悲願ともいうべきものであったが、その夢は、平成元(一九八九)年五月八日の北多摩二号幹線流域下水道終末処理場完成・通水式によって、ついに実現された。
ふるくは昭和三六年の国立町による「立川都市計画下水道事業の決定についての申請」、昭和四十二年市制施行直後の国立・立川・国分寺三市による北多摩二号幹線排水路建設促進協議会設立準備会結成にまでさかのぼる、市当局と市民の長い努力は、ようやくむくわれることになったのである。
かつて国立は「水郷国立」とさえよばれたように、雨期にはいると、東地区や北地区では、必ず出水を繰り返していた。昭和四十二年の「北多摩二号幹線排水路建設促進協議会(仮称)設立趣意書」は、次のように述べていた。
しかし、昭和四十五年八月の都市計画決定(東京都告示第八四六号)後も、開通までには、幾多の紆余曲折があった。ルートの選定、用地の買収、東京都や立川・国分寺両市との財政分担の協議、処理場に隣接する府中市民との協議から、工法の決定や環境保全・流域文化財保護にいたるまで、多くの問題を、一つ一つ解決して行かなければならなかった。
市民の危惧や反対も根強く、処理場予定地付近住民の「流末処理場設置反対期成同盟」のほか、「住民無視の宅地と史跡を破壊する流域下水道計画に反対する会」「くにたちの文化と市政を考える会」「二号幹線中一丁目市民の会」「くにたちのいのちとくらしを守る会」「国立の緑と史跡を守る会」「国立の町づくりを考える会」などによる住民の反対運動があった。その反対理由も、決定過程での市民参加手続きや財政負担を問題にするものから、処理場予定地付近住民の土地利用についての疑問や悪臭公害・自然破壊への不安、千丑地区の史跡保護問題、合流式か分流式か、凝固剤使用による水質汚染など設計・工法上の問題など、さまざまであった。市当局は、それらのすべてに、議会と協力して説得にあたらなければならなかった。
石塚市政の末期、昭和五十三(一九七八)年に、建設促進協議会の活動が本格的に再開された。住民との話合いで一部のルートを変更し、トンネル式シールド工法での幹線工事が、昭和五十四(一九七九)年四月に着手された。
ところが、谷市政に移ってまもない昭和五十四年十一月に、前市長時代に工事委託契約を結ばないまま五十三年に完成された府中市第三・第四都市下水路について、国立市の建設負担分未払い問題が表面化した。市は、苦しい台所から約八億円の債務を負担することで府中市と決着をつけたが、議会では監査請求が出されるなど紛糾した。
昭和五十五(一九八〇)年秋に、市は、南部地域開発整備推進本部で下水道事業と都市計画を統一的に進める体制をつくり、終末処理場予定地南側に環境保全のための遮断緑地整備の方向を決定、用地買収・代替地補償と並行して国分寺・立川両市との間での財政負担の交渉もまとまり、ようやく実現の目途がたった。処理場付近の環境整備についても、地元住民との了解が成立し、昭和五十九(一九八四)年四月には終末処理場建設に着手、平成元(一九八九)年から使用の運びにいたった。
この間、市当局は、東京都や地元選出議員らの協力を得て粘り強く反対住民を説得、市政施行二二年にして、ついに完成にいたったのである。
総事業費は、累計二二〇億円、この幹線流域下水道の完成により、国立・立川・国分寺にまたがる一八万六千人分の下水処理が可能となり、国立市の下水道普及率は、二%から一気に八五%にアップ、「下水道普及率後進市」の汚名を、ようやく返上できることになった。
しかし北多摩二号幹線流域下水道終末処理場完成・通水式の直後、平成元(一九八九)年六月二日の市議会第二回定例会では、市議会最大会派の自由民主党が、議長人事をめぐって分裂、三つの会派に分かれた。その最中の六月二十日の市議会では、リクルート疑獄と宇野首相のスキャンダルでゆれる国政に対して、内閣総辞職・国会解散を求める意見書と共に、全国でも初めての「リクルート汚染の高石前文部次官の作った新学習指導要領の撤回を求める陳情」が趣旨採択された。同じ日、下水道の工事延長で議会を混乱させた責任をとって、市長自らが減給処分案を提出し可決された。九月二十八日、市役所内にOA化検討プロジェクトチームが発足した。
ゆとり創造宣言
バブル経済の最盛期、平成二(一九九〇)年三月二十八日の市議会第一回定例会では、自治体議会としてはユニークな、「ゆとり創造宣言」が採択された。この半年後の九月二十五日第三回定例会では、同趣旨を「勤労国民の『家庭の幸せ』づくり」の観点から述べる、「ゆとり宣言の決議」が採択された。
ワンルームマンション問題
この頃、バブル経済のもとで、市内のワンルームマンション建設をめぐって、住民運動がおこっていた。昭和六十二(一九八七)年四月一日の『産経新聞』には「どこまで続く東京の狂乱地価、田園調布の三〇坪より国立の一〇〇坪」といった記事が見られたが、バブルの土地・不動産投機は「文教都市」にも及び、平成二(一九九〇)年三月二十日、「文教都市の環境を考える会」は、五九五名の署名を添えて、マンション乱立を抑えるよう市長に要望した。
平成二年六月の第二回定例会・九月の第三回定例会で、建築規制や市の指導要綱作成を求める陳情が採択された。八月二十三日には、「文教都市の環境を考える会」が、独自のワンルーム形式共同住宅の建築に関する指導要綱案を作って、市の都市整備課に提案した。九月市議会第三回定例会に、この指導要綱案にもとづく要綱作成を求める陳情が出され、九月二十五日に採択された。しかし十月、市は文教都市の環境を考える会の案とは別個に、住民案よりも規制が緩やかな開発行為等指導要綱施行基準の改正とワンルームマンション建築に関する指導指針を作成し施行した。また、十月十一日には、土地の有効利用に主眼をおいた用途地域指定の改正がなされ、第二種住居専用地域の容積率が一〇〇%から一五〇%になるなど、大幅な規制緩和が行われた。これが後に、バブル経済の波及による国立マンション・ラッシュの背景となる。
九月二十五日の第三回定例会では、こどもの権利条約批准促進を求める意見書を採択するとともに、市民団体「原発の大事故が本当に怖いと思う市民一同」が一一九七人の署名を添えて提出した陳情も採択され、東京電力福島第二原発三号炉の事故に関連して、関係各庁に福島原発事故再発防止の要望と原子力発電への依存度を減らすことを求める意見書を送ることが、全員一致で可決された。十二月十九日の市議会第四回定例会は、小選挙区制に反対し、国会の議員定数の抜本是正を求める意見書を可決した。
平成二年十月、谷清市長は次期市長選挙に出馬しない意向を表明した。谷市長のもとでは、昭和五十五(一九八〇)年の財政問題調査会答申に基づく行財政の見直し、五十六年の全国初の自転車安全利用促進条例制定や南部地域開発整備マスタープラン作成、五十八年の城山公園基本計画、それに市民総合体育館、芸術小ホール、地域防災センター建設などが、行政と議会の二人三脚で進められた。それは、石塚市長のもとでたびたび議会と首長が対立してきた国立市の歴史の中では、相対的に見れば、市長と議会の蜜月時代だった。
平成三(一九九一)年四月の一斉地方選挙では、谷市長のもとで助役であった佐伯有行が、新しい市長に就任した。市議会議員の会派別構成は、自由民主党新政会一二、日本共産党六、公明党四、民社党・市民クラブ三、日本社会党一、林道クラブ一、生活者ネット一となった。市議会の会議規則が改められ、議会運営委員会が議長の諮問事項のほか、議案、請願・陳情の審査ができるようになった。
この年五月、市教育委員会は、江戸中期に建てられた古民家を城山公園南側に移築・復元した。七月に行われた第一〇回市政世論調査における市政への要望の上位は、(1)駅前自転車対策、(2)老人福祉対策、(3)ごみ対策、(4)交通安全対策、(5)中央線高架複々線の推進・特別快速の国立駅停車、であった。
五月に市教育委員会が「インターナショナル・フェスタ」をくにたち市民芸術ホールで開催した。八月から国立市役所は、第二・第四の土曜日を閉庁することになった。九月の市議会第三回定例会で国立市乳児健全育成手当条例を可決し、十月から、約六〇〇人の一歳未満児すべてに、月額二〇〇〇円の手当が支給された。十一月二十八日、市は第二期基本構想第二次基本計画を策定した。十二月市議会第四回定例会で、国立議会史編纂のために議会史編纂調査特別委員会を設置し、平成四年十一月十一日から議会史編纂委員会、平成六年三月二十三日には議会史編纂特別委員会を設けた。
平成四(一九九二)年一月、市は『市勢要覧』を日本語・英語併記で発行した。三月二日の本会議で、国立市ごみ問題市民委員会条例が採択された。五月一日に、くにたち福祉会館が新装オープンした。六月五日の市議会第二回定例会では、国立市違法駐車等の防止に関する条例が可決された。この年一一月から、市役所は完全土曜閉庁を実施した。昭和五十九年に市制施行二十周年記念事業として開始された『国立市史』の刊行は、この年完了した。市議会では、平成四年度から、一人年間一二万円の市政調査研究費が会派毎に交付された。
平成五(一九九三)年三月末に国立市リサイクルセンターが落成し、粗大ゴミの再生などの活動を開始した。十二月の市議会第四回定例会では、廃棄物の処理及び再利用の促進に関する条例と高齢者住宅サービスセンター建設事業委託契約の締結が採択された。国際化と共に、環境問題、少子高齢化問題など、新時代の課題に本格的な取組が求められるようになったのである。
平成六(一九九四)年三月市議会第一回定例会で「(仮称)国立遠藤ビルに関する請願」が採択され、大学通りの高層建築をめぐる市民の景観を守る運動が表面化した。七月十二日の第二回臨時会では、国立市用途地域等見直し案の変更に関する決議を否決した。十一月九日、市は景観形成の基準になる条例策定をめざし、庁内に「都市景観形成施策検討委員会を設置した。十一月十六日、待望のくにたち郷土文化館が、斬新な半地下式ガラス張りの建物のなかに完成・開館した。九月市議会第三回定例会で、国立市基本構想審議委員会条例が可決され、平成七年(一九九五)年一月二十七日には基本構想審議委員会が発足、第三期基本構想の作成が着手された。
平成六年十二月八日の市議会第四回定例会では、国立市議員定数条例の一部改正が可決され、議員定数は二八名から二六名に減らされた。厳しい財政状況のもとで、最小経費で最大効果を挙げること、人口十万人以上の近隣市でも二六名の議員で議会が運営されていることが、論拠とされた。国政レベルでは政治改革・政党再編が進み、駅前の高層マンションと景観との関係が議論されるもとで、平成七(一九九五)年四月選挙から実施されることになった。
佐伯市政の誕生
平成三(一九九一)年四月の統一地方選挙は、東京都知事選挙で、現職鈴木俊一に、与党だった自民党の党本部が公明党・民社党との連携を優先して、鈴木の「高齢」を理由に対立候補としてNHKアナウンサーであった磯村尚徳を担ぎ出し、都議など自民党都連がこれに反発して鈴木を支持、「自民党本部対都連」という異常な構図で争われた。結果は鈴木が圧勝し、自民党は小沢一郎幹事長が引責辞任したが、それは、新しい時代の政治再編の予兆であった。
四月七日投票の東京都知事選挙は、鈴木二二九万二八四六、磯村一四三万七二三三、共産党推薦の畑田重夫四二万一七七五、社会党に推された大原光憲二九万〇四三五票だった。国立市では、鈴木一万三四一三、磯村七三九七、畑田三四二二、大原二〇六八で、保守が分裂すると革新が漁夫の利を得てきた、かつての国立市の投票行動のパターンが変わってきたことを示していた。保守候補同士の競り合いが総保守の得票をおしあげ、かつて石塚市政の与党であった社会党・共産党の得票を縮減するようになったのである。
その結果は、四月二十一日投票の市長・市議選(投票率五六・四一%)に、如実に現れた。谷市長引退のもとで、助役であった佐伯有行が谷市政の継承を唱え、対立候補の社共推薦候補、市民運動で活躍してきた加藤正文を破り、新しい市長に就任した。同時に争点も、かつての「教育・福祉か環境か」「環境か開発か」「市民参加か行政改革か」から「環境規制による景観か、規制緩和による開発か」にシフトしてきた。選挙結果は、以下の通りであった。
市議会議員の会派別構成は、自由民主党新政会一二、日本共産党六、公明党四、民社党・市民クラブ三、日本社会党一、林道クラブ一、生活者ネット一となった。
世界と日本の激動が国立にも
この頃、世界と日本の政治は、大きく揺れ動いていた。
平成元(一九八九)年に東欧諸国でつぎつぎと民主化・自由化を求める革命がおこり、社会主義体制から離脱した。そのため東西冷戦も崩壊し、平成三(一九九一)年末には、ソ連国家そのものが解体した。
日本の国際的位置と役割も、大きく変化した。冷戦崩壊により、日本は世界第二の経済大国として、新たな世界秩序維持の役割を、期待されるようになった。平成二(一九九〇)ム平成三(一九九一)年には、中東で湾岸戦争が勃発した。国連決議を受けてアメリカを中心とした多国籍軍がイラクを包囲・制裁、日本は一人当たり一万円以上の資金を提供した。国連の平和維持活動(PKO)のために、自衛隊の海外派遣も平成五(一九九三)年のカンボジアを手始めに開始された。アジアでは、日本に続き次々と経済成長を遂げる国々が現れ、安価な労働力をもとに、衣料や電気製品の世界市場の工場となった。
一九八〇年代後半から九〇年代初頭の日本経済は、飛ぶ鳥を落とす勢いの消費ブームで、土地と株式投機を中心に景気が過熱していた。高価なブランド商品がデパートで次々に売れ、都会の小さな土地をめぐって「地上げ屋」の札束が乱れとんだ。そのツケは、ちょうど「ベルリンの壁」崩壊からソ連解体という世界史の激動期が終わると、深刻な不況としてはねかえってきた。バブル(泡)経済の崩壊である。天井をうった地価はさがりはじめ、株価は低迷するようになった。都心のオフィス・ビルに空室が目立ち、企業倒産も続出する。
冷戦が崩壊し、バブル景気がはじけた頃、日本政治にも大きな転機がおとずれた。昭和三十(一九五五)年の結党以来常に政権にあった自由民主党の支配がほころび、政党政治の大きな再編に突入した。リクルート疑獄事件で竹下内閣が崩壊し、宇野・海部内閣から宮沢内閣に移ったところで佐川急便事件が発覚、金丸信自民党副総裁が五億円を受け取ったことを認め議員を辞職した。
平成五(一九九三)年の政変は、金権政治・政治腐敗に対する国民の怒りをどのように受けとめるかという、政治改革の進め方をめぐって勃発した。宮沢内閣は、政治改革を金のかかる衆議院中選挙区制を廃止し小選挙区制の導入でのりきろうとしたが、社会党・公明党・民社党は小選挙区制と比例代表を組み合わせる対案で対抗した。そこに自民党内の対立がからんで、旧田中派の小沢一郎らが野党に同調して内閣不信任案に賛成し、衆議院の解散になった。七月総選挙で自民党は過半数を割り、社会党も惨敗、自民党から離れた羽田孜・小沢一郎らの新生党、公明党、元熊本県知事細川護煕の日本新党、元滋賀県知事武村正義のさきがけなど「新党ブーム」に乗った非自民勢力が連立、細川内閣が生まれた。社会党の元委員長土井たか子が、女性としてはじめての衆議院議長となった。
細川内閣のもとで、小選挙区比例代表並立制採用の政治改革が行われたが、、税制改革でつまづいて、もともと反自民だけで連立した与党は不安定になり、平成六(一九九四)年四月に羽田内閣が成立したが新生党と社会党が対立、六月には社会党と自民党・さきがけの連立した社会党委員長村山富市を首相とする内閣が生まれた。野党となった新生党・公明党・日本新党・民社党に政界再編下で自民党を飛び出したグループが加わり、同年十二月には新進党という新党が生まれ、小選挙区制のもとでおこりうる保守二大政党制への布陣を敷いた。
他方、政権に入り首相をだした社会党は、それまでの革新の党是を改め、自衛隊や安保条約をつぎつぎと認めて、自民・新進と異なる第三の道を模索し始めた。一部は社会党から離れて「護憲」の旗を守ろうとしたが、社会党も分裂して社会民主党と改名、自民党二対社会党中心の野党一という力関係下で続いてきた、いわゆる「五五年体制」は崩壊し、先の見えない政界再編ゲームに入った。
国立市へのこうした時代の流れは、ひとまず平成元(一九八九)年頃からの、国立市内への土地・マンション投機となって現れた。バブル経済のさなか、平成元(一九八九)年に、東京都の用途地域地区の見直しが行われ、駅周辺と大学通りの両サイドの富士見通りと旭通りが、容積率六〇〇%の商業地域地区になり、高さ制限も撤廃された。
国立におけるマンション・ラッシュの始まり
この都市計画上の見直しは、昭和六十一(一九八六)年東京都都市計画審議会の「昭和六十二年度基本計画」策定から始まり、昭和六十二(一九八七)年六月市議会第二回定例会では、一般質問でも取り上げられた。市側の答弁によると、都の「用途地域等の指定方針・基準」の特徴的な点は、(1)一種住専の容積率・建坪率が細分化され高さ制限が緩和、(2)幅一二メートル以上の幹線道路沿いの地域範囲が道路の境界から三〇メートルに拡大、(3)商業地域では「周辺の住宅地に対する環境保全上の配慮が特に必要な場合を除き」原則高度制限を加えない、というもので、当時の谷市長は、「大学通りは原則として余程の事情がない限り、手を付けるべきでない」と答えていた。ところが国立市商工会などから、規制緩和により土地の利用価値を高めようと、十月に「見直しに関する要望書」が出され、同年十二月の市議会第四回定例会では、国立の地価高騰率は前年比九五%も上がり全国で三番目であること、土地の有効活用のために建坪率、容積率とも上げる方向で検討すると答弁され、十二月二十二日の市議会全員協議会にも、東京都の「指定方針・基準」にもとづく「見直し」により容積率を高くすれば、駅前、富士見通り、旭通りに五ム六階建ての建物が可能になると報告されていた。
昭和六三(一九八八)年一月二十日の『市報くにたち』第四七一号は「用地地域等見直し特集」の臨時号に市の「見直し試案」を発表し、国立市は八回の地区説明会を開催、二月末に都の「指定方針・基準」以上に規制が緩和された「用途地域等変更案(原案)」を都に提出、三月市議会第一回定例会では、緑の保全と静閑な住環境を求める市議の質問に、市側は「土地の有効利用はビルの乱立につながらない」「大学通りは「『国立の顔』というのは市民の合意である」と答えていた。
翌平成元(一九八九)年三月第一回定例会では、行政から「国立駅南口再整備計画」の予算化が提案されたが、市議会では大きな議論にならず、東京都が市側の緩和要求をやや抑制した「用途地域等の変更」が八月二十八日の東京都都市計画審議会で採択、十月十一日には公示された。
それまでも、国立では、駅前ワンルームマンションや南部地域のラブホテルなど、ビル建設に伴う紛争は起こっていたが、この用途地域変更によって、中層ビル、ワンルームマンションの建設ラッシュが始まった。
平成二(一九九〇)年は国立のバブルブームの頂点で、市内のどこかでほとんど毎月マンション紛争が起こっていた。三月市議会第一回定例会に、市側が「国立駅南口周辺地区再整備調査」を報告、九月市議会第三回定例会には、市民運動が「ワンルームマンション指導要綱(案)」をつくって議会に陳情、九月二十五日に一三対一一のきわどい差で採択、翌平成三(一九九一)年三月から市の「ワンルーム指導指針」が施行された。しかしマンション建設は進み、三月までに市側は「国立インターチェンジ周辺地域整備調査」「国立駅南口地区整備計画」を作成、三月市議会定例会では、市民がまとめた「紛争予防条例案」が議会に陳情として提出され、三月二十七日に採択されていた。
平成三年四月の市長・市議選は、このマンション・バブル期に行われたが、谷市長の行政方針を補佐する助役だった佐伯有行が「環境派」の加藤候補に圧勝することで、ひとまず「規制緩和」が流れとなった。佐伯新市長は、三月市議会で採択された「紛争条例」を、選挙後の九月には作成しないと述べた。平成四(一九九二)年六月に、政府レベルの都市計画法及び建築基準法の一部を改正する法律が公布され、冷戦崩壊後の「規制緩和」「新自由主義」の考え方の強まりのなかで、国立市もその流れに合流するかにみえた。
駅前遠藤ビル問題と市民の景観形成条例案
しかし、佐伯市政下の平成五(一九九三)年十一月、駅前大学通りの中心に一二階建ての「国立遠藤ビル」(のちのナイスアーバン・ビル)建設計画が公示されると、新たな局面に入った。それまでの「環境権」から「景観権」へと、問題は発展した。
大学通りは、かつて市長も答弁したように「くにたちの顔」であり、昭和四十五年の建築基準法改定に伴う用途地域の全面見直しの際、東京都と国立市の行政は市議会の了承も得て、大学通りと道路沿道奥行き二〇メートルの住宅地を二種住専にする案を作ったが、それでは大学通りに中高層の建物が立ち景観が壊れるという理由で、反対派の市民たちは署名を集め、より規制の厳しい一種住専に変更させる運動が、昭和四七ム四八年に展開されていた。昭和四十八年十月の東京都都市計画地方審議会は、一橋大学以南の道路と沿道二〇メートルを、住民の要求に沿って一種住専に指定した経緯があった。
国立遠藤ビルの建設に対して、平成六(一九九四)年一月七日、「大学通りの景観を考える会」が発足し、二月二十四日には七五六一名の署名で 市議会に「遠藤ビルの計画変更」の請願を提出した。三月第一回定例会では、三月二十三日に、この請願が採択された。三月二十七日には、「大学通り公園を愛する市民の会」も発足、市民独自の考え方から四月に「景観条例」策定を佐伯市長に提案、四月二十日には「景観形成条例市民案」の検討が開始された。五月二十六日に、東京都が「景観マスタープラン」を発表したのも、追い風になった。しかし、この年三月第一回定例会に提出された新年度当初予算は、前年比マイナス二・六%の十年ぶりの減額予算になっており、規制緩和によるマンション・ビル建設で住民増・商店街の売上げ増・税収増をはかる考え方もあった。
七月十二日の市議会第二回臨時会は、議員提案の「用途地域の見直しの見直し決議」を賛否同数・議長裁決で否決したが、その質疑で市側は「法的な問題で強権的な指導は大変難しい」としつつも、「高さを二〇メートルぐらいに抑えるにはどのような用途に変えればよいのか」という質問に、「建築協定か地区計画で高さを制限するとかしないと、用途を変えることでは難しい」と答えていた(『くにたち市議会だより』第一三五号、平成六年五月五日)。
佐伯市長は、独自に「見直し」案を作成し、市の都市計画審議会に提案、十一月九日に市は独自に景観形成の基準になる条例策定をめざし、庁内に「都市景観形成施策検討委員会」を設置した。市民の側は、七月二十五日に「景観形成条例市民案」をまとめ、議員提案にしようとしたが、提出できなかった。そのため九月二十五日には直接請求に訴えるため、国立市都市景観条例直接請求実行委員会を発足させ、八一五四名の有権者の署名を得て市長に提出したが、十二月第四回定例会で、市民運動の「国立市都市景観形成条例市民案」は、賛成・反対・継続がいずれも少数で、否決となった。市側の反対意見は『くにたち市議会だより』第一三八号(平成七年二月五日)によれば、@個人の財産にかかわる問題なのでより多くの市民の意見・視点を採り入れることが望ましい、A都のマスタープランや第三期基本構想と整合させるべく庁内で検討を開始している、B市は建築確認業務を行わないので市民案は手続き的に疑義があり拙速、というものだった。
十二月二十七日には佐伯市長が「国立遠藤ビル」建設を承認、継いで翌平成七年一月二十四日に国立駅北口の「尾亦ビル一、四番館」、二月二十五日に「アレックス国立(富士見通りの再開発ビル)」も承認されて、国立市は「景観・環境保全か規制緩和か」で対立する中で、市長・市議会選挙を迎えることになった。三月市議会第一回定例会では、「尾亦ビル」建築計画に関する二つの陳情が不採択になった。
谷市政を継承した佐伯市政
佐伯市長の市政は、右の建築規制緩和にも見られるように、基本的に、谷市政を継承するものであった。
就任直後の平成三(一九九一)年七月に行われた第一〇回市政世論調査における市政への要望の上位は、(1)駅前自転車対策、(2)老人福祉対策、(3)ごみ対策、(4)交通安全対策、(5)中央線高架複々線の推進・特別快速の国立駅停車で、かつて上位にあった下水道問題は姿を消したが、再び駅前自転車対策が求められると共に、高齢化問題やごみ対策が浮上してきた。五月に、市教育委員会は、江戸中期に建てられた古民家を城山公園南側に移築・復元し、「インターナショナル・フェスタ」をくにたち市民芸術ホールで開催した。八月から、国立市役所は、第二・第四土曜日を閉庁することになった。
九月の市議会第三回定例会で国立市乳児健全育成手当条例を可決し、十月から、約六〇〇人の一歳未満児すべてに、月額二〇〇〇円の手当が支給された。十一月二十八日、市は第二期基本構想第二次基本計画を策定した。十二月市議会第四回定例会では、国立議会史編纂のために議会史編纂調査特別委員会を設置し、平成四年十一月十一日から議会史編纂委員会、平成六年三月二十三日には議会史編纂特別委員会を設けた。
平成四(一九九二)年一月、市は『市勢要覧』を日本語・英語併記で発行し、国立市の国際化も本格的に始まった。三月二日の本会議で、国立市ごみ問題市民委員会条例が採択された。五月一日に、くにたち福祉会館が新装オープン、六月五日の市議会第二回定例会では、国立市違法駐車等の防止に関する条例が可決された。この年十一月から、市役所は完全土曜閉庁を実施した。昭和五十九年に市制施行二十周年記念事業として開始された『国立市史』の刊行は、この年完了した。市議会では、平成四年度から、一人年間一二万円の市政調査研究費が会派毎に交付された。
平成五(一九九三)年三月末に国立市リサイクルセンターが落成し、粗大ゴミの再生などの活動を開始した。十二月の市議会第四回定例会では、廃棄物の処理及び再利用の促進に関する条例と高齢者住宅サービスセンター建設事業委託契約の締結が採択された。
国際化と共に、環境問題、少子高齢化問題など、新時代の課題に本格的な取組が求めらるようになった。平成六年十一月十六日、待望のくにたち郷土文化館が、斬新な半地下式ガラス張りの建物のなかに完成・開館した。
平成六(一九九四)年九月市議会第三回定例会で、国立市基本構想審議委員会条例が可決され、平成七年(一九九五)年一月二十七日には基本構想審議委員会が発足、第三期基本構想の作成が着手された
財政危機下で議員定数を二六名に削減
平成六(一九九四)年十二月の市議会第四回定例会では、国立市議員定数条例の一部改正が可決され、議員定数は二八名から二六名に減らされた。厳しい財政状況のもとで、最小経費で最大効果を挙げること、人口十万人以上の近隣市でも二六名の議員で議会が運営されていることが、論拠とされた。この時、定数削減に反対する議員からは、「議員定数削減に反対し議会費の経費削減を求める決議」が提案されたが、これは十二月二十一日に否決された。『くにたち市議会だより』第一三八号(平成七年二月五日)は、「議員定数を二八名から二六名へ」と報告している。
国政レベルでは政治改革・政党再編が進み、駅前の高層マンションと景観の関係が議論されるもとで、平成七(一九九五)年四月選挙から実施されることになった。
四月の市長選挙では、現職佐伯有行が再選されたが、市議は定数が二名削減されて二六名となり、当選者は会派別で、自由民主党九、日本共産党六、公明四、市民クラブ三、生活者ネット二、林道クラブ一、日本社会党一であった。
平成七(一九九五)年一月二十七日に発足した国立市基本構想審議会は、同年十月三十一日に答申案をまとめ、市民にも示されて、十二月市議会第四回定例会で承認された。この頃『国立議会史 あゆみ編』が発刊された。
平成七年九月二十八日には、国立市都市景観形成審議会が発足した。十一月二十九日には、JR中央線連続立体交差事業認可の告示が出された。
平成八(一九九六)年一月十九日から新用途地域等に関する都市計画案が縦覧され、一月末に国立市「行政改革の基本方針」がまとめられた。三月二十九日には、都市景観形成基本計画案の中間答申が提出された。三月に第三期基本構想の第一次基本計画(平成八ム十二年度)が策定された。四月一日に国立市開発行為等指導要綱が改正された。五月三十一日に都市計画新用途地域等の変更が行われ、七月五日に都市計画形成基本計画案・中間答申についての「市民の意見を聴く会」が行われた。九月二十七日に、都市景観形成基本計画案が答申された。七月に国立市医師会訪問看護ステーションがスタートし、十一月には第二次男女平等推進計画が策定された。
平成九(一九九七)年、市の鳥が「ジュウシマツ」に決まった。五月に国立市行財政問題懇談会が発足し、十月二十七日に財政健全化への中間提言が出された。十一月三日に、国立市制施行三十周年記念式典が行われた。十二月に、国立市景観形成審議会から「国立市都市景観形成条例(案)等の策定について」が答申された。
危機的な市財政のもとで、十二月市議会第四回定例会に、議員提出提案の「市議の報酬及び費用弁済に関する条例の特例に関する条例案」が可決され、平成十年一月から一年間、報酬の五%減額を行い、総額一一三〇万円を節約した。会派・個人研修視察旅費は、市政調査研究費一人一二万円に統合し一本化した。国立市財政再建緊急措置により、議会事務局職員数を八名から七名に削減した。
平成十(一九九八)年三月市議会第一回定例会は、市の行政改革に市議会も積極的に協力するため、「議会に於ける行政改革調査特別委員会」を設け、事務局体制、議会事務経費、議会運営、議員の市長諮問機関参加などについて調査検討し、報告書にまとめた。四月、国立市都市景観形成条例が施行された。五月一日に北と南の市民プラザがオープンし、六月八日に国立市の人口が七万人を突破した。七月から事業系ゴミと粗大ゴミ収集が全面的に有料化された。十一月六日に、国立市行財政審議会は、最終提言「再建から再生へ」を答申した。
平成十(一九九八)年市議会第四回定例会は、行財政改革の一環として、議員定数を二六から二四へとさらに二名削減する「国立市議会議員定数条例の一部を改正する条例」を賛成多数で可決した。
平成十一(一九九九)年四月一日、国立駅南口駐車場がオープンした。
安全神話崩壊のもとでの佐伯再選
平成七(一九九五)年一月に阪神大震災がおこり、神戸市を中心に、六〇〇〇人以上の犠牲者を出した。。高度経済成長・経済大国化の動脈となった新幹線・高速道路が倒壊し、欠陥工事があらわになった。被災は社会的弱者を直撃した。死者の半数以上が六〇歳以上の高齢者であった。政治離れが語られて久しかった大学生など若者たちが、ちょうど春休みと重なって、ボランティア活動の中心部隊になった。 三月、東京都心の地下鉄車内で、朝のラッシュアワーに突然猛毒ガスが流れだし、多数の死者・負傷者を出す地下鉄サリン事件が起こった。後にこれは、オウム真理教という新興宗教教団による、弁護士一家誘拐殺人・裁判所攻撃・信徒リンチ殺人・財産強奪・反対運動指導者殺人未遂などの一連の犯罪の一部と判明した。この年、銃をつかった凶悪犯罪も多発した。バブル経済と一緒に、「安全な日本」という神話も崩壊した。
平成七(一九九五)年の統一地方選挙が行われたのは、そのさなかであった。東京都知事選では青島幸男、大阪府知事選挙では横山ノックという、共に「無党派」を掲げたタレント候補が当選した。地方選挙にも「五五年体制崩壊」の波が及んだのである。都知事選挙は、臨海副都心計画の見直しや世界都市博覧会の中止を公約にした青島候補が一七〇万〇九九三票、自民党推薦の石原信雄一二三万五四九八、以下、岩国哲人八二万四五八五、大前研一四二万二六〇九、黒木三郎二八万四三八七、上田哲一六万二七一〇であったが、国立市での得票は、当選した青島九九二七票、自民党が推した石原六五七五票、岩国五三六〇、大前二五四五、共産党の推した黒木二三九一、元社会党の上田哲八一七と分岐した。
その一週間後の四月二三日投票の国立市長選挙では、現職の佐伯有行に対し、対立候補は共産党推薦の宮本晋一人であったため、勝敗は、ほとんど決していた。都知事選挙で共産党の推した黒木の得票に佐伯批判票をつみあげたという意味では、共産単独推薦の宮本の得票は健闘ともいえたが、いわゆる「革新」票は、国立市でついに一万票を割った。投票率は五三・〇九%と史上最低を記録し、結果は次の通りであった。
新しい市議会の構成は、定数削減で二六名となり、会派別で、自由民主党九、日本共産党六、公明四、市民クラブ三、生活者ネット二、林道クラブ一、日本社会党一であった。
その頃国政レベルでは、政党政治が混迷し、政治不信が強まっていた。平成八(一九九六)年一月に村山首相が退陣し、自民党の橋本龍太郎が、総選挙のないまま首相に就任した。橋本内閣のもとで、同年十月に初めて行われた小選挙区比例代表並立制による総選挙は、国民の政治不信・政党不信で、有権者の六割を割る戦後最低の投票率であった。自民党が議席をのばしたのに対して、小沢一郎を党首にした新進党、鳩山由起夫・菅直人らが第三勢力をめざして選挙直前に結成した民主党も、ブームに乗れなかった。護憲の旗をおろして与党となった社会民主党は惨敗して、共産党より議席の少ない小党に転落した。
新時代にチャレンジする第三期基本構想
国立市の第三期基本構想は、平成六(一九九四)年九月市議会第三回定例会で、国立市基本構想審議委員会条例が可決され、平成七年(一九九五)年一月二十七日には、市議五人を含む一五人で基本構想審議委員会が発足、市長・市議会選挙をはさんで三回の「市民の意見を聴く会」、四回の起草委員会、一〇回の審議委員会が行われ、佐伯市長再選後の十月三十一日に、答申案がまとめられた。市民には、市議会での審議以前に、十一月二十日の『市報くにたち』第六一三号で全文が掲載されていた。
「人間を大切にするまちづくり」をうたった石塚市長時代の第一期、「活力ある文化都市」をうたった谷市長のもとでの第二期基本構想と比べると、第一期の「文教都市」、第二期の「緑と文化とふれあい」を継承し、その理想を「いきいきとした文化都市の創造」とうたいあげた。
市民像に「多様な市民が集う魅力的なまち」「「個性豊かな顔をもつ発展性のあるまち」「市民が創る文化的なまち」を盛り込み、「多様性と個性」「ゆとりと潤い」「リサイクル」「国際化」「男女平等参画」「高度情報化」など少子高齢化、成熟社会化、行政需要の複雑化・多様化への対応をうたったところに、この第三期基本構想の、新時代へのチャレンジを読みとることができる。
一二月市議会第四回定例会での質疑では、景観条例や平和憲法の問題が欠落しているとか、教育が重点政策に入っていないといった批判も出されたが、賛成多数で可決された(平成七年第四回定例会議事録)。
「第三期基本構想(平成八ム十七年度)」は、以下のように構成されている。
議会での可決を経て、市は、第三期基本構想第一次基本計画の作成に入り、平成八(一九九六)年三月八日の市議会全員協議会に報告、『市報くにたち』第六二二号(三月二十日)に発表した。
財政健全化提言「再建から再生へ」のもとでの市制施行三十周年
平成七(一九九五)年九月、『国立議会史 あゆみ編』が発刊された。十一月二十九日には、JR中央線連続立体交差事業認可の告示が出された。
平成八(一九九六)年一月十九日から、新用途地域等に関する都市計画案が縦覧され、一月末に国立市「行政改革の基本方針」がまとめられて、『市報くにたち』第六二三号(平成八年四月五日)に発表された。事務事業の見直し、組織・機構の簡素合理化、給与の適正化、民間委託等事務改善の推進、定員管理の適正化、公共施設の設置及び管理運営の合理化、職員能力開発の推進、受益と負担の適正化、自主財源の確保、等がうたわれた。七月には国立市医師会訪問看護ステーションがスタートし、十一月には第二次男女平等推進計画が策定された。
平成九(一九九七)年は、市制施行三十周年の年で、二月二十一日に北第一公園がオープンしたが、五月に国立市行財政問題懇談会が発足し、十月二十七日に、厳しい財政状況を踏まえた財政健全化への中間提言「再建から再生へ」が出された。平成六年度から三年連続の赤字決算という危機的財政状況をふまえて、行財政運営に@資源有効活用、A誘因制度導入、B適正な受益者負担、C民間委託、D情報公開の五つの原則の徹底を求め、人件費の抑制、事業運営の見直し、事務的経費の削減を緊急の課題とし、市議会にも「議会費は市民一人当たりで二七市平均より高く、議会の責任において総額の節減に努めることが必要である」としていた(『市報くにたち』第六六二号、十一月二十日)。
そのため三十周年記念行事は、六月の『市報くにたち』で募集した「市の鳥」が、九月に市民一九一通の応募で「シジュウカラ」に決定したくらいで、十一月三日の国立市制施行三十周年記念式典も、十周年、二十周年に比べれば、簡素なものとなった。
財政健全化提言を受けて、十二月市議会第四回定例会に、議員提出提案として「市議の報酬及び費用弁済に関する条例の特例に関する条例案」が提出され可決された。平成十年一月から一年間、議員報酬の五%減額を行い、総額一一三〇万円を節約、会派・個人研修視察旅費を市政調査研究費一人一二万円に統合して一本化するものであった。国立市財政再建緊急措置により、議会事務局職員数も、八名から七名へと削減された。
平成十(一九九八)年三月市議会第一回定例会は、市の行政改革に市議会も積極的に協力するため、「議会に於ける行政改革調査特別委員会」を設け、事務局体制、議会事務経費、議会運営、議員の市長諮問機関参加などについて調査検討し、報告書にまとめた。五月一日に、北と南の市民プラザがオープンし、六月八日には、国立市の人口が七万人を突破した。七月から事業系ゴミと粗大ゴミ収集が全面的に有料化された。
平成十一(一九九九)年四月一日、国立駅南口駐車場がオープンした
市の景観形成審議会と市民の景観権訴訟
佐伯市長の再選で、市民の景観条例制定運動は、新たな段階に入った。
景観条例制定を求める市民運動は、平成七(一九九五)年八月三十日、決定権者である東京都に対して、用途地域指定の「見直しの見直し」を求める陳情書を提出した。二四の市民団体が名を連ねたもので、東京都もこれを受理、九月六日には市民団体が瀬田副知事と会見し、趣旨を説明した。もっとも十月二十三日の東京都都市計画局長会見での回答は、社会背景として規制緩和の要請が強い、平成元年の「見直し」の大幅な規制緩和は国立市と協議して決定したもので再見直しや修正は「既存不適格」が生じ前例がない、という素っ気ないものであった。その後の都側の回答も、.国立市は都の指定方針・基準により原案を作成したものだ、しかも平成元年の国立市の原案はより大幅な緩和案だったが都がこれを抑制して修正した、すでに東京都都市計画審議会は終わっていて修正は不可能、と門前払いするものだった。
この頃、厚生省と製薬企業の癒着を背景にした薬害エイズ事件、特定業者による大蔵・通産官僚の接待など官僚スキャンダルが相次ぎ、官僚の天下り先である公社・公団の放漫経営のほかに、カラ出張・官官接待など地方自治体の税金のむだ使いも全国的問題になっていた。行政改革・規制緩和がさけばれ、村山内閣の決定で消費税率は平成九年四月に三%から五%に引き上げられたが、財政再建のめどはたたなかった。銀行・証券など金融業界もバブル時代の不良債権の処理にゆきづまり、世界経済のグローバル化・競争激化のもとで、倒産する銀行まで現れた。栄華を誇った日本経済も、先行きの見えない不況とリストラの時代に入り、世紀末の日本は、後に「失われた十年」とよばれるようになる。
このような情勢のもとで、国立市も、佐伯市政一期目の平成七(一九九五)年九月、「国立市景観形成審議会」(大西隆会長)を発足させ、市民案をも一つの基礎として、景観条例作成へ向かい始めていた。同年六月の市議会第二回定例会に市から提出された国立市都市景観形成審議会設置条例案には、市民代表を増やすべきだという修正案も出されたが、原案通り可決採択された(『くにたち市議会だより』第一四一号、平成七年八月五日)。十月には「景観に関する市民意識調査」のアンケートが行われた。平成七年十二月には「緑と文化とふれあい」を目玉にした第三期基本構想が告示されたが、この間も、佐伯市長は、「マイキャッスル国立」「コスモ国立」「東加賀屋ビル」などを、時には異例の「条件付き」ながら、承認していった。
東京都の側は、市民運動に対して、「国立市にも景観形成審議会が設置されたので、都市景観については住民の合意形成が進むだろう、紛争斡旋不調の案件は裁判所に委ねるべきだ、国立市は建築指導行政を行っていないので都が「紛争条例」制定を指導することは不適当、と国立市側に責任を委ねた。
平成八(一九九六)年三月二十九日、「国立らしい都市景観」をうたった「国立市都市景観基本計画」が中間報告された(『市報くにたち』第六二五号、平成八年五月五日)。
市民運動の側は、五月二十五日「文教都市のまちづくりを進める市民の会」を発足させ、五月三十一日に公示された東京都の新しい用途地域案についての都と市の交渉をチェックすると共に、八月七日には、東京地裁八王子支部で、東京都及び国立市を相手に、「市民がつくり育ててきた固有の都市景観を都市計画の段階で損ねた」ことに対して損害賠償を請求する「国立大学通り景観訴訟」訴状を提出し、提訴するにいたった。十月から審理が始まったが、その間も「長谷工マンション」「尾亦ビル弐、参番館」「ナイスアーバンビル(旧国立遠藤ビル)」などの建築確認は、佐伯市長により承認されていった。
市の景観形成審議会は、一一回の審議を経て、平成八年九月二十七日に「国立市都市景観形成基本計画」(案)を答申、市長は、引き続き計画実現のための「国立市都市景観形成条例(案)等の策定」を諮問した(『市報くにたち』第六三六報、平成八年十月二十日)。十二月市議会第四回定例会に、佐伯市長は、「景観形成基本計画」を報告するにいたった。平成九年正月の『市報くにたち』(第六四一号、平成九年一月五日)の市長巻頭言には、市制施行三十周年にあわせて「国立らしい都市景観形成を推進するための条例制定をめざす」とうたわれていた。
国立市都市景観形成条例の成立
景観訴訟の進む平成九(一九九七)年十二月十九日、「国立市都市景観形成条例」が答申され、十二月二十四日には「東京都景観条例」が施行、平成十(一九九八)年三月二十五日、市議会第一回定例会に市側から提案された「国立市都市景観形成条例」は、「なぜ高さ制限をもりこまなかったのか」等の意見も出されたが、賛成多数で可決成立、四月一日から施行された。
国立市都市景観形成条例は、第一条で「この条例は、国立市の都市景観の形成に関する基本的事項を定めることにより、『文教都市くにたち』にふさわしく美しい都市景観を守り、育て、つくることを目的とする」とし、「都市景観の形成」とは「国立の自然的・歴史的特性を生かし、国立らしい都市景観を守り、育て、つくることをいう」以下、全五三条に及び詳細なものであった。第二章「都市景観の形成」で「都市景観形成基本計画」作成を義務づけ、第三章を「市民の景観形成活動」と名づけ、「第三六条 市長は、一定の区域内において、都市景観の形成を図ることを目的とする市民が組織する団体で、規則で定める要件を満たすものを景観形成市民団体として認定することができる」、「第三七条 一定の区域内に存する土地、建築物等又は広告物の所有者等は、当該区域内における都市景観の形成に関する協定を締結することができる」等と規定し、「都市景観形成重点地区」の設定、重点地区以外でも「大規模行為」を「国立市都市景観審議会」を常設して審査し罰則規定も設けるなど、かなり斬新なものであった。
市民運動の側は、一方で市の景観形成審議会の景観形成条例策定に意見を述べながら、市民の権利としての景観権を明確にするための景観権訴訟を続けた。都市計画や法律の専門家の助力をあおぎ、この頃急速に普及してきたインターネットを駆使して、都や市との交渉過程、八王子地裁での審理過程を直ちに市民に公開し、飛躍的に広がりを見せることになった。市議の中にもホームページをつくって、自らの見解を示すものが現れた。これまで議場での傍聴や市立図書館での議事録閲覧でなければわからなかった市議会の様子、個々の市議の対応も、傍聴者や市議のホームページを通じて、市民に伝えられた。例えば平成七(一九九五)年四月に開設された「Kunitachi Town Guide」(http://www.vrenpo.com/kunitachi/index.html)には、市街地図やショッピングガイド、画廊案内などと並んで、「市政・市民運動・市の問題」のコーナーがあり、昭和五八(一九八三)年からの市議選政党別投票数、衆議院選挙・東京都知事選・都議選・市長選の推移や景観訴訟の関連サイトがリンクされて一目でわかるなど、市民自身による行政・市議会情報が、データベースとして蓄積されていった。
しかし、行政による既成事実の積み重ねで、「都市景観形成条例」ができても実際の街並みが破壊されていく問題に危機感を持ち、平成十(一九九八)年四月二十日には、一年後の次期市長選へ向けての準備を始め、東京地裁八王子支部への景観訴訟の原告幹事である市議の上原公子を、佐伯市長に対する対抗馬に絞り上げていった。
平成十一(一九九九)年一月には上原市議の立候補表明があり、同年四月の市長・市議選は、地裁八王子支部での市を被告とした一三回の審問を背景に、「景観訴訟選挙」の様相を呈することになった。
二六名から二四名への議員定数再削減
平成十(一九九八)年十一月六日に、国立市行財政審議会は、最終提言「再建から再生へ」を答申した。
平成十(一九九八)年十二月市議会第四回定例会は、厳しい財政状態のもとでの行財政改革の一環として、議員定数を二六名から二四名へとさらに二名削減する「国立市議会議員定数条例の一部を改正する条例」を賛成多数で可決した。『くにたち市議会だより』第一五六号(平成十一年二月五日)は、「議員定数を二十六名から二十四名に」の審議の過程を報じた。
平成十一(一九九九)年四月の統一地方選挙では、国立市長選の結果が、全国紙の一面トップを飾った。東京都で初めての女性市長、全国でも史上四人目の、上原公子市長の誕生である。二四人に減員された市議会の会派別構成は、自由民主党六、日本共産党四、公明党四、民主クラブ三、生活者ネット二、新しい風二、自由民主クラブ一、社会民主党つむぎの会一、こぶしの木一、であった。平成十三(二〇〇一)年五月には,、市議会正副議長にも女性議員が選ばれ、首長・正副議長がすべて女性の全国初の事例として話題になった。
平成十一年七月、大学通りに高さ一八階建て高さ五三メートルの明和地所による高層マンション建設計画が発覚し、全国から注目され、現在まで続く大問題となった。当初計画は一四階建て高さ四四メートルに変更されたが、市の人口に匹敵する七万人の反対陳情が寄せられ、市長や市民運動も、生まれたばかりの景観条例や全国初の地区条例制定などあらゆる手段を用いて抵抗したが、建築主の明和地所と建築確認を許可した東京都は既成事実を積み重ね、市に対する訴訟をも提起して対抗し、平成十四年には、ンション販売も開始された。
これをめぐって市議会も大きく揺れ、平成十二(二〇〇〇)年一月三十一日の市議会臨時会が、議長と一部議員の不在のまま地区条例を採択したため、議員同士の訴訟になった。住民と東京都、住民と明和地所、市と明和地所、議員同士等の訴訟が入り乱れ、国立市は、市制施行以来の大きな激動を経験した。
そのさなかの平成十二(二〇〇〇)年四月から平成十三(二〇〇一)年三月にかけて、全国で進む公立学校の卒業式・入学式における日の丸掲揚・君が代斉唱を行わないできた国立市の教育行政が、十二年三月国立第二小学校卒業式での「校長土下座事件」報道に端を発して、全国的に注目され、これまでの国立の教育のあり方を大きく変貌させるものとなった。教職員の組合活動の権利や給与不正支給の問題にまで波及し、国会や都議会でもとりあげられて、市教育委員会も学校管理体制を強化する指導を強め、翌平成十三年の卒業式・入学式では、すべての公立学校で日の丸掲揚・君が代斉唱が実施された。
平成十二(二〇〇〇)年一月から小学校でのパソコン授業が始まり、日の丸問題で揺れる同年六月二十一日、市議会第二回定例会で、国立市平和都市宣言が制定された。 十月一日から、プラスチックごみの分別収集が始まった。十月二十八日には、初めての国立市こども議会が行われた。
平成十三(二〇〇一)年三月、国立市第三期基本構想第二次基本計画がまとめられた。四月一日から流域下水道処理場広場がオープンし、六月、国立市主催のIT講習会が始まった。八月二十五日に都市計画マスタープランの市民提案書が提出され、八月に公立学校プールが初めて一般に開放された。九月に国分寺市との市立図書館相互利用がスタートした。十一月には国立市地球温暖化対策実行計画が策定された。
平成十四(二〇〇二)年三月二十七日の市議会第一回定例会では、全国に先駆けて「有事立法に反対する意見書」が採択された。四月には「国立市第三次男女平等推進計画ム認め合う あなたとわたしの輝きプラン」が、五月には「国立市行財政健全化プラン」がまとめられた。平成十三年二月に発足した第四期ごみ問題市民委員会は、五月に「環境にやさしい循環型社会をめざして」の答申をまとめ、『市報くにたち』第七七二号(平成十四年六月五日)に大々的に発表された。
第二節 女性市長の誕生と高層マンション問題
環境派女性市長の誕生
平成十一(一九九九)年四月統一地方選挙では、国立市長選挙の結果が、全国紙の一面トップを飾った。東京都で初めての女性市長、全国でも史上四人目の、上原公子市長の誕生である。
直前の東京都知事選挙では、青島知事の行政手腕を批判する有力候補が乱立する中で、無所属の作家石原慎太郎が当選した。全都的には石原一六六万四五五八、民主党推薦の鳩山邦夫八五万一一三〇、舛添洋一・八三万六一〇四、自民党の推した明石康六九万〇三〇八、共産党推薦の三上満六六万一八八一、柿沢弘治六三万二〇五四のもとで、国立市では、石原九七三四、三上五五七七、舛添五一七五、鳩山五〇七七、明石四五五四、柿沢二九二一の順であった。
国立市長選挙の結果は、女性の当選という意味では、全国の市議会選挙レベルで女性当選者が史上初めて一千人を突破した、時代の流れを反映していた。接戦であったためか、投票率も久しぶりで上昇に転じ、五八・一五%に達した。
定数二四に減った市議選の結果は、会派別で、自由民主党六、日本共産党四、公明党四、民主クラブ三、生活者ネット二、新しい風二、自由民主クラブ一、社会民主党つむぎの会一、こぶしの木一、であった。
上原市長は、就任直後の六月七日市議会第二回定例会での施政方針を、「国立市の歴史を振り返ってみますと、国立市民は重要なまちづくりには、まさに主人公として参加していくという市民自治の輝かしい伝統があり、市民はこの伝統を何より誇りにしてきました」と石塚市長時代の第一期基本構想をふり返り、具体例として「二十三年前の国立市基本構想の中で、市の性格をいちじるしく変更するような重要な問題に関しては市の判断によって市民投票の制度を採用することもできる」と「近年ようやく起こり始めた住民投票を、市民主権に基づく市民自治を発揮できるシステムとして位置づけ」る方向を示した。
しかし、景観・環境保全の市民運動をバックにした市長が生まれたことは、、それで環境と景観が守られることを意味しなかった。地裁八王子支部の景観権訴訟は、原告団幹事だった上原市長が当選し、被告である国立市の首長となったため、五月に上原市長が自身の訴えの取り下げを申し立てたが、もう一つの被告である都が不同意で、継続することになった。すでに平成九(一九九七)年十一月に、大学通りから見ると国立駅の三角屋根の後ろに高層マンション(「尾亦ビル」)が完成するなど、国立の景観は、大きく変わってきていた。
大学通りに十八階マンション計画
新市長就任後間もない平成十一(一九九九)年夏に、大学通り沿いの旧東京火災海上跡地に、一八階建て高さ五三メートルのマンション建設計画が浮上してきた。
上原市長は、情報公開と市民参加を公約していた。七月三日、三井不動産のマンション建設に反対している東四丁目地区の集会の場に、明和地所のマンション計画情報が、市長からもたらされた。その情報は、たちまち近隣住民、市内のさまざまな市民団体、マンション紛争を抱え環境・景観を守ろうとしてきた団体や学校に広がり、七月十四日には、計画地に隣接する桐朋学園が上原市長にマンション建設反対・跡地買い上げの要望書を提出、七月十九日には、東四丁目地区住民有志が東京海上に土地を売却しないよう要請した。しかし、東京海上は、七月二十二日、明和地所に土地を九〇億二〇〇〇万円で売却した。建設予定地は大学通りに面し、桐朋学園が北側、都立国立高校、東京都多摩障害者センター、国立市障害者センター、障害者スポーツセンター、福祉会館などが隣接した「国立の顔」そのもので、当初予定では一八階建て・高さ五三メートル・四四一戸の大型マンションが計画されていた。
八月八日、近隣住民、桐朋学園、市民団体等が福祉会館に集まって対策を練り、八月十八日には「東京海上跡地から大学通りの環境を考える会」(石原一子会長)が発足し、明和地所のマンション計画の大幅見直しを求める陳情署名運動を始めることを決定した。すぐに街頭署名運動がはじまり、明和地所に対しては近隣説明会開催を要求した。
夏休み中ではあったが、教育関係者もすばやく反応し、桐朋学園は九月九日にマンション反対の看板を設置、東京都多摩西部建築指導事務所へ明和からの確認申請を受理しないよう要請した。学園内に小学校、中学校、高等学校の保護者からなる「子ども達の教育環境を守る会」、卒業生、保護者より自発的に申し出のあった建築家、法律家など十数名の専門家で構成される「専門協力者会議」を九月中旬までに発足させた。
「東京海上跡地から大学通りの環境を考える会」の構成団体も、個人会員のほか、近隣の東京海上跡地西側住民の会、大学通り東側住民の会、ガーデン国立管理組合、桐朋学園、国立市肢体不自由児・者父母の会、国立市「手をつなぐ親の会」、知的障害者通所更生施設「あさがお」保護者会、自主学校「遊」も加わり、東四丁目の住環境を考える会、国高南の住環境を守る会、中一丁目共同住宅建設に異議申し立てをする会、国立駅北口の環境を考える会、大学通りを公園道路にする会、国立の大学通り公園を愛する市民の会、文教都市のまちづくりを進める市民の会、滝乃川学園史に学ぶ会、緑と文化の会、市民参加でまちをかえよう会の十八団体に達した。その後、平成十二年一月には、富士見台団地自治会も加わった。運動は、国立市始まって以来の大きな広がりを見せ、陳情署名は、またたくまに五万人に達した。
上原市長の方は、八月二十六日、明和地所に対して新しい指導要綱の順守を要請、九月八日、明和地所社長宛に文書で近隣説明会を要請した。市議会では、九月十四日、市議会建設環境委員会が陳情を採択、二十二日の第三回定例会本会議では、実に五万〇四七九名が署名した陳情を、自民党を除く賛成多数で採択した。市長は、「国立市に対して、これほどの多くの市民の皆さんが危機感を持って陳情を集めてくださったことにまず感謝申し上げたい。こういう市民の声をうけて、景観条例を持っている行政としては、陳情が採択されましたから、ぜひ、皆様の力も借りながら、精一杯頑張ってまいります。議会の皆様も市民の皆様もあらゆる手段で、この問題に対決できるようにご協力をよろしくお願いしたいとおもいます」と、議会と市民への協力を呼びかけた。
十月五日、議会の陳情採択をうけて、市は明和マンション対策の緊急部長会議を開催、十月八日、市長は明和地所に、景観形成条例に基づき並木に調和するよう、高さを二〇メートル以内におさえるようにという指導を文書で行った。十月十八日の景観審議会では、行政側が景観条例を通過しなければ指導要綱の審査に入らない旨を言明、十月二十日、上原市長は、明和地所に対して二回目の説明会開催要請文書を出した。
地区計画条例の制定へ
市民の側は、陳情に加えて、地区計画を作り、建設予定地を景観形成条例に基づく重点地区に指定するための運動を始めた。十月二十二日、「考える会」のメンバーが東京都地区計画担当部長に面会した際、建物の高さ制限の地区計画は、前年から知事の承認が不要となり、市レベルで決定できるという情報を得た。十月末の市民祭と十一月十三日の「大学通りの景観を考える市民の集い」に併行して、地区計画の素案を作り、新聞、テレビでも大きく報道された。地区計画とは、大都市近郊における無秩序な都市化を防ぎ、良好な市街地の環境を形成し保全するために、昭和五十六年に設けられた都市計画の制度のひとつで、今回の国立の場合でいえば、桐朋学園や明和マンション計画地周辺などの一三・五ヘクタールの区画について、建物の高さを一〇メートル及び二〇メートル以下に規制できるものであった。
建設主の明和地所は、十一月六日、市長・市民や世論の要求におされ、約二〇〇名の市民が福祉会館ホールに集う中で第一回説明会を開催、さらに十一月二十日、十一月二十七日、十二月十八日と説明会を開催し、当初案の一八階建て・高さ五三メートル・四四一戸を、一四階建て・高さ四四メートル・三四〇戸に変更する、と発表した。「採算面からこれ以上は低くできない」とコメントされていた(『毎日新聞』十一月二十五日)。
市民の側は、建物の高さを二〇メートル(七階建て相当、イチョウの木の高さ)以下に規制する地区計画の要望書を、地権者の八二%の賛同を得て、十一月十五日に市に提出、市側もすばやく対応し、十一月二十四日に、地区計画原案の公告・縦覧を開始した。明和地所は、これに対する「緊急避難」策として、十二月三日に東京都多摩西部建築指導事務所に対し、建築確認を申請した。「地区計画決定後は当社の建築計画を実施することは事実上困難となり、 回復不可能な損失を被ることも予想される」という理由であった(『毎日新聞』十二月四日)。
十二月十三日、市長は明和に対して、景観条例、指導要綱に基づく手続きが完了していないことを理由に、十二月三日に提出された確認申請の取り下げを要請した。
市民運動の側は、地区計画の早期条例化を求める署名運動に入り、東京都、建設省への建築確認作業停止の要請、明和地所への融資銀行に対する説明、立川消防署へ建築確認の同意を与えない要請、立川警察署へマンション建設によって交通安全が脅かされるという要請、と関係各方面への要請を行った。マスコミも全国版で大きく報道し、十一月九日には、国会でも超党派で「国立の景観をまもる国会議員有志の会」がつくられていた(『朝日新聞』十一月十日)。
しかし、年明けの平成十二(二〇〇〇)年一月五日、東京都多摩西部建築指導事務所の野本建築主事は、建築確認済証を明和地所に交付した。これにもとづき明和地所は即刻工事に着手、、市長は助役と共に建築指導事務所へ明和の確認済証交付に抗議し、一月七日には、明和地所に工事の中止を要請した。近隣住民、「考える会」は、一月五日から二十日まで、駅頭で連日抗議のビラを配布した。
地区計画の制定と早期臨時市議会開催を求める署名は、一橋大学同窓会の如水会や桐朋学園も協力して全国に広がり、十二月十三日に二万八四八五名だったものが、平成十二(二〇〇〇)年一月十九日には六万八九二八、臨時市議会直前の一月二十八日には、国立市の全人口に相当する七万〇二八四名に達した。こうしたうねりを背景に、上原市長は、都市計画審議会の早期開催を求めて各委員へ都市計画審議会での地区計画決定の要請を行い、一月二十一日、「国立市の人口に匹敵する七万人近い署名は市にとりまして大変重大かつ責任の重いものです」という市長の挨拶を受けて、都市計画審議会は、十三名中出席した八名(自民党系五名欠席、公明党は出席)の委員の全会一致で地区計画を決定、二十四日には、地区計画の都市計画決定が公示された。
市議会の分裂と訴訟合戦
平成十二(二〇〇〇)年一月十八日に、市長は、市議会議長に都市計画審議会のあとに臨時議会を開きたい旨告げたが、議長は応じなかった。市長は、市議会議長に一月二十八日に臨時議会開催を改めて要請したが開かれず、二十七日、市議会会派代表者会議で、翌二十八日の臨時議会開催を要請した。しかし、二十八日の会派代表者会議は意見が整わず、市長は、議会召集要件である「急施(緊急性)」にあたるとして、一月三十一日の臨時議会開催を告示した。
一月三十一日の臨時市議会は、自民党・公明党及び正副議長が議会をボイコットする中で、臨時議長、仮議長の下で、一三名の市議により「中三丁目地区・地区計画」の条例を可決し、翌二月一日公布した。この模様を二月一日『毎日新聞』多摩版は、「国立市議会臨時会は三十一日、『高さ二十メートル以下』制限条例案を可決」「この日の臨時会は、上原市長の議員召集の告示をめぐり紛糾した。召集の要件となる『急施(緊急性)』について、上原市長は『早期条例化を求める七万人の署名が提出された』と説明。しかし自民党などは『急施に値せず、議会の開催通知から開会まで四日しかない』 などと反論。関文夫議長は『地方自治法に基づき、開会の七日前に告示すべきだ』と述べ、議会の開会宣言をしなかった。約七時間にわたる折衝の末、議席の過半数を超える市議会与党の十三人が、自民、公明抜きで本会議を開会。議長、副議長を『事故』とみなして仮議長を選出し、仮議長を除く十二人全員一致で改正条例案を可決した。議会終了後、関議長は『私が開会宣言をしないで開かれた議会は無効だ』と話した。また、市議会事務所は、今議会の扱いについて、都などに助言を求めると説明している」と報じた。
この一月三十一日臨時会については、有効ならば平成十二年市議会第一回臨時会となるはずであるが、その成立を認めず無効訴訟をおこしている会派があることによって、平成十四年現在、公式議事録は存在しない。ただし以後の臨時会は、第二回(五月十六日)、第三回(十二月二十八日)として公示されている。『くにたち議会だより』においても同様である。三月三十一日には、一月三十一日の市議会臨時会をボイコットし無効を主張する自民党系市議七名が、臨時市議会を開催した十三名の市議と市長を相手に、自分たちの不在中に地区計画条例案を強行採択し、「違法な手続きによるもので、議員の権利を奪われた」として、総額四〇二五万円の慰謝料を求める侵害賠償訴訟を起こす事態に発展した。この訴訟は、二〇〇二年八月現在、継続している。
明和地所は、都の建築確認を得て一月五日から工事に着手したため、一月二十四日、市民運動の側は、東京地裁八王子支部に、建築禁止の仮処分を申立てた。二月十八日、市民側は、東京都建築審査会へも野本建築主事が行った確認処分に対する審査請求と執行停止を申立てた。逆に明和地所側は、二月二十四日国立市を相手に、三月九日には国立市長を相手取って、東京地裁に「地区計画、建築条例の無効確認」の訴訟を起こした。
国立市景観審議会は、三月九日、明和地所への「勧告」を是とする決定を下し、四月五日に市長に答申した。市長はそれを受けて、五月二日に「高さは二〇メートル以下に」とする勧告文を、明和地所本社に手交した。それに対して明和地所は、五月十六日、勧告に対応するのは困難であると国立市に回答した。
この間、東京地裁八王子支部で建築禁止仮処分の審尋が二月二十五日、同二十九日、三月二十一日、四月十四日の四回行われた。東京都建築審査会においては、三月二十四日、多摩西部建築指導事務所野本主事からの弁明書・意見書が出され、五月一日には明和地所の意見書も提出された。市民側は四月十一日、野本主事弁明書・意見書への反論書を提出、五月二十四日に明和地所の意見書への反論書を出して抵抗した。
六月六日、東京地裁八王子支部は、住民側の建築禁止仮処分の申立てを却下する決定を下した。住民側は、六月十九日、東京高等裁判所に即時抗告、東京高裁での審尋は七月十一日、八月三日、九月十四日、十月三日、同二十七日と行われたが、平成十二(二〇〇〇)年十二月二十二日、東京高裁は、本件建物は地区計画改正条例施行時に「現に建築の工事中」であったと認めることはできないから抗告人らに受忍限度を超える被害が生じているとは認められないとして、住民らの建築禁止仮処分申立は却下したものの、決定理由中で、明和地所の計画マンションは地区計画(建築条例)の適用除外を受けることができず、高さ二〇メートルを超える部分は違法建築物にあたると認定した。この間十月十四日、明和地所は二〇メートルを越える部分の工事に着手し、既成事実をつみあげた。
景観権訴訟の住民側敗訴
他方、五年半にわたって争われてきた「大学通り景観訴訟」の方は、平成十三(二〇〇二)年十二月十日、東京地裁八王子支部で、景観権を認めない原告住民側の全面敗訴の判決が下された。
十二月十一日付『読売新聞』多摩版は、「景観権認めず住民敗訴 国立『大学通り』訴訟」と報じた。
この問題でも、市議会は、大揺れになった。十二月一日から二十一日の第四回定例会で、景観訴訟の敗訴により、市の提出した原告団との間の和解案に「地権者の同意を得ずに高度制限を行うなどと書かれている」などと野党が反発、一般会計補正予算案と共に否決された。議長・各委員会正副委員長が相次いで辞表を出し、審議が空転する事態にいたり、三三議案のうち四議案が可決、五議案が認定、補正予算案を含む二四議案が審議未了となった。十二月二十八日に第三回臨時会を開いたが、今度は市側の提案した景観訴訟和解案と野党自民党・公明党提出の保育料引き下げ案の扱いをめぐって紛糾、保育料引き下げ条例案は可決されたが、一般会計補正予算案は否決された。そのため翌平成十三年一月十九日に再び第一回臨時会を開き、補正予算はようやく可決された。
違法性を認める地裁判決は高裁で逆転
平成十三(二〇〇一)年に入って、「東京海上跡地から大学通りの環境を考える会」は、石原東京都知事宛「違法建築の取り壊し命令を出してください」の署名活動を始めた。インターネットをも利用したもので、署名は一一万人に達し、三月二十六日に都知事に届けられた。
三月二十九日には、市民側が、高裁で違法と認定された二〇メートルを超える部分の撤去を求める民事訴訟を提訴した。国立市も、着々と進む明和地所工事現場前に、景観条例違反の公表看板を設置した。また、「考える会」の十一万署名に対して、五月一日に東京都建築指導部長から出された回答は市民の要請に応えていなかったため、市民側は、五月三十一日に、東京都が除去命令を出さないのは違法であるとする行政訴訟を、東京地裁に提訴した。他方、明和地所側は、四月二十八日、東京地裁に国立市らを相手に四億円の損害賠償を求める民事訴訟を提起した。
七月十日、国立市長は、東京都知事に対して、建物のうち高さ二〇メートルを超える部分について、電気・ガス供給の申込みに対する承諾を保留するよう電気・ガス事業者に要請するよう申し入れるとともに、国立市が受託している水道の供給についても同様に給水申込みに対する承諾の保留を承認してほしい旨申し入れた。しかし東京都多摩西部建築指導事務所長は、七月十八日、建物の建築工事には現在のところ何ら違法性は認められず、建築基準関係規定に基づき適法に進められていると考えており、供給事業者に対して供給留保の要請等を行う予定はない旨回答して拒否した。八月二日には、東京都水道局多摩水道対策本部長も、現時点では建築基準法上特定行政庁により違法との判断がされていないため、承諾の意思表示を留保するだけの理由はないと判断する旨回答した。
市民側の東京都に対する行政訴訟は、七月十九日から審理が行われ、十二月四日に、東京地裁は、住民らの建築除却命令等請求について、東京都多摩西部建築指導事務所長が建築基準法九条一項に基づく是正命令権限を行使しないことが違法であることを確認し、その他の訴えを却下した。明和地所のマンションについては、「本件建物のうち地盤面からの高さ二〇メートルを超える部分は、本件建築条例、建築基準法六八条の二に違反する違法建築物であるというほかない」と再び違法性を認めたものだったが、東京都は、十二月十四日に地裁判決を不服として東京高裁に控訴し、執行停止を提訴した。住民側も十八日に控訴した。
この時、東京都は、判決直後の十二月十七日に、明和地所が出した工事完了届けを受理し、翌十八日に完了検査を断行、二十日には竣工検査済証を交付して、市民運動と真正面から対立した。市民側は、東京都多摩西部建築指導事務所に抗議、折からの国立市議会第四回定例会では、十二月二十一日、「くにたちの大学通りの景観を守ることを求める意見書」を可決した。
市民側の提起した民事訴訟は、五月十六日、七月十一日、九月十九日、十一月十四日と口頭弁論が重ねられたが、越年した。
翌平成十四(二〇〇二)年二月九日から明和地所は完成したマンションの販売活動を開始し、既成事実を積み重ねたが、二月十四日、東京地裁は、明和地所側が提訴していた地区計画・地区計画改正条例無効確認を却下する判決を下した。この地裁判決は、マンションの違法性については建築物制限条例違反を認めたもので、明和側の三連敗であった。同時にこの判決は、明和地所の建築確認受領後に発効した地区計画条例を「後追い」で明和地所を「狙い撃ち」したものだとして明和側の不利益を認め、賠償請求については、国立市に四億円の損害賠償を命じるものであった。国立市は、二月二十六日の市議会第一回臨時会で、自民党議員六名が退席したものの、出席議員全員一致で四億円の損害賠償判決を不服として控訴を決定した。
六月七日の東京高裁での行政訴訟控訴審の判決は、地裁の違法性判断をくつがえし、「条例施行前に着工」された建築物は合法としたため、住民側は、六月二十日に、最終審である最高裁判所に上告及び上告受理申立を行った。
また、住民側の提起した二〇メートルを超える部分の撤去を求める民事訴訟は、平成十四年二月六日、三月二十日、四月二十四日、五月十七日、六月十四日、七月十二日と口頭弁論が重ねられ、九月四日に最終弁論、十一月二十七日に判決が出される予定である。
国立の日の丸・君が代問題
明和地所のマンション建設問題で議会が大きく分裂し、市議同士での訴訟にまでいたったのに併行して、「環境か開発か」と並ぶ、もう一つの国立市政の中心問題が浮上していた。公立学校の卒業式・入学式での日の丸掲揚・君が代斉唱問題が、平成十二(二〇〇〇)年度の国立市政の争点になった。
国立市議会では、学校教育をめぐる問題は、古くから討論の柱になっていた。石塚市政の時代にも、昭和四十三(一九六八)年十二月第四回定例会で「公立学校の偏向教育に関する請願」が論議されるなど、幾度か問題にされてきた。平成元(一九八九)年二月の新学習指導要領によって、「国旗」「国歌」教育の義務化が明記されたが、国立市は、同年六月二十六日第二回定例会において「新学習指導要領の撤回を求める意見書」を採択し、卒業式・入学式での掲揚・斉唱は、行われてこなかった。国立PTA連絡協議会(P連)も、平成に入って毎年、「掲揚・斉唱を強制しない」ことを求める要請書を、市教育委員会に提出していた
市教委は、長く「決議や要請書の存在を踏まえ、式典での混乱を避ける」 との立場を保ってきたが、平成十一(一九九九)年一月には、 学習指導要領に乗っ取った式典を実施するよう、全校長に通知していた。全国的にはすでに、『産経新聞』三月二十日に「国立市 三中学校で卒業式『国旗』『国歌』学校側が断念 市民団体阻止行動『混乱避けるため』」と報じられたように、卒業式に日の丸掲揚・君が代斉唱を行わない公立学校は数少なくなっていた。市内の国立高校や一橋大学でも長く掲揚問題が起こっており、マスコミも注目していた。
平成十二(二〇〇〇)年三月の卒業式シーズンに、再び国立は、注目されることになった。三月十日の国立高校卒業式が、「国立市の国立高校では、午前八時過ぎから正門前に市民団体のメンバー約十人が立ち、 卒業生や保護者らに 『強制的な日の丸・君が代のおしつけは反対』」と書かれたビラを配った。八時半ごろ、敷地内の掲揚台に国旗が掲げられたが、大きな騒ぎはなかった」(『毎日新聞』三月十日夕刊)と報じられた。三月十七日の中学校卒業式では、「卒業式場に国旗国家なし 東京国立三中学校」(『朝日新聞』三月十七日夕刊)「混乱なく屋上に国旗掲揚 国立市立中の三校で卒業式 式場では取りやめ 国の方針に一歩近づく」(『東京新聞』三月十八日)「国立の全市立中 卒業式で屋上に国旗 市教委『適正に近づいた』」(『読売新聞』三月十八日)と多少ニュアンスを異にして報じられたが、三月二十三日のテレビ朝日「ニュースステーション」で「日の丸・君が代 ムム国立(くにたち)の場合」が放映され、「国旗国家法が施行されて初めての卒業シーズンを迎えている。 政府は法制化にあたり『強制はしない』と答弁しているが、 文部省や都道府県の教育委員会は指導を昨年よりも徹底している。日の丸・君が代のない卒業式を続けてきた東京・国立市の都立国立高校では、今年初めて国旗掲揚、国歌斉唱を行った。その変化の背景にはいったい何があったのか。 卒業式の日の日の丸・君が代をめぐる教育現場を取材した」と、特集で全国に流された。
そこに、四月五日の『産経新聞』が、「児童三〇人、国旗降ろさせる 国立の小学校屋上校長に土下座要求 卒業式直後 一部教員も参加、国立第二小学校で先月行われた卒業式の直後、 屋上に掲揚していた国旗について、五・六年生の児童約三十人が 『旗を降ろせ』『基本的人権に反する』などと校長に詰め寄り、日の丸を降ろさせていたことが[四月]四日、関係者の証言で明らかになった。児童が土下座を求め、校長が陳謝する場面もあったという」と、大々的に報じた。四月十三日の『産経新聞』「主張」は、「土下座請求 子供のやることではない」と社説で論じ、今度は入学式を含めて、大きな政治問題となった。いわゆる「国立二小問題」「校長土下座事件」の発端である。
『産経新聞』のキャンペーンは、四月末には、全国の右翼街頭宣伝カーが国立市に集結する事態まで誘発し、「国立の教育荒廃」「地域ぐるみの恐ろしい偏向」と、市長や教育委員会に圧力が加えられた。国会や東京都議会でもとりあげられ、文部大臣が「違反なら懲戒も」と述べたり、二小・五小に「子供誘拐し殺す」という脅迫状が届いたりする雰囲気の中で、六月市議会第二回定例会を迎えた。
この六月市議会では「国立市平和都市宣言」が可決されたが、「市民の人権擁護について」として情報漏洩を問題にする質問や、マスコミなど外部の圧力に屈せず教育の自主性を守れという意見も出されたが、「第二小学校の校長が国旗掲揚に関し謝罪しているが、その経緯と市教委の対応は」などと事実関係が質疑された。すでに日の丸問題を調査中だが「違法なら厳正に対処」と答弁せざるをえなくなっていた教育長に、六月七日、「組合活動で教室占有 国立第二小 教員ら許可得ず四年間 明け渡し要求を拒否 公明市議指摘 市教委事実確認『規則違反』調査へ」という議会での質疑が、全国に報じられた(『産経新聞』『読売新聞』六月八日など)。
公明党市議から監査請求が出され、東京都教育委員会も本格的に動き出し、市民の中からも「国旗と国歌を考える市民の会」が生まれ、「教員が子供たちを政治的に利用し、 特定の思想を押し付けることは問題だ」と、これまでの国立の教育のあり方全体に批判が及んできた。上原市長にも市教委を支持するか否かを問う緊急質問がなされ、市長は「国立は教育の自主性を守る市だと市民は誇りに思っている。 市教委の対応を待ちたい」と答弁した。教員組合は、目的外使用とされた二小の教室を撤去するなど対応したが、教員会議の持ち方、校長の管理能力や「総合学習」など授業内容までが槍玉にあがるようになった。
全国包囲網の中で教育行政の転換
市教委は、平成十二(二〇〇〇)年六月二十日に、二小教職員の日の丸掲揚に対する抗議行動が規則違反の可能性があるという中間報告をまとめたが、当事者の証言は食い違い、七月東京都議会代表質問でも問題にされて石原都知事が「グロテスクな出来事」と述べるなど包囲網がつくられ、八月十日には、東京都教育庁が十七人の教職員に対する戒告・訓告などの処分を発表した。市教委も、八月二十一日、八人の教諭への文書訓告処分を全員一致で決定した。都の処分には、ピースリボン着用が「職務専念義務違反」、校長への児童の面前での抗議が「信用失墜行為」と認定されるなど教職員の組合活動への規制強化の内容が含まれていたため、教職員側は抗議し、都人事委員会に不服を申し立てたが、その後も教職員の勤務時間内組合活動が「給与不正支給」として問題になるなど、都教委から市教委への指導が強められ、市教委も厳しく対応した。
九月の市議会第三回定例会では、「不登校生徒が東京で一番多い」とか「教育庁の責任は」と質され、市教委は「苦渋の決断」を弁明せざるをえなかった(『くにたち市議会だより』第一六四号、平成十二年十一月五日)。そのさなかに、十月二十八日、「国立市こども議会」が開かれ、議員たちが答弁にたったが、十二月の市議会第四回定例会では、教職員のメーデー参加や自動車通勤も問題にされるようになった。
十二月には、「国立市教委 卒業・入学式での国旗掲揚、国歌斉唱 小中学校へ通達へ 従わない場合は処分も 四対一で議決」(『読売新聞』十二月十八日)と報じられ、市教委は、都でも初めての学校管理運営規定を作って、校長の権限強化など管理強化の方向を明確にした。景観権、明和マンション問題で大きく動いていた国立の市民運動やPTAの中でも、「国立の学級崩壊」まで報じられている中で、この問題での教職員側にたった盛り上がりはみられなかった。こうして平成十三(二〇〇一)年三月、国立の公立小中学校卒業式での日の丸掲揚・君が代斉唱は、大きな混乱もなく、戦後初めて実施された。四月の入学式でも完全に実施されて、全国的な流れに合流していった。
市議会では、景観訴訟敗訴に伴う混乱とも重なり、平成十三(二〇〇一)年三月の第一回定例会では、平成十三年度一般会計予算案が市制施行以来初めて否決され、暫定予算となった。五月十六日第三回臨時会で女性の正副議長が選出された後、六月の第二回定例会は国立市乳幼児医療費の助成に関する条例の一部改正案などが可決成立した。
夏の公立学校教科書の採択シーズンに、今度は教科書問題が起こった。すでに「多摩全地区 推薦を廃止 教科書選定 教諭ら懸念の声も 教諭らが好ましい教科書を選んで推薦する制度を廃止」(『朝日新聞』六月二十一日)と報じられて。教育委員会に教科書採択の実質的権限が移った中で、国立市教育委員会の中に、全国的に問題になっていた「新しい歴史教科書をつくる会」の扶桑社版中学歴史教科書を採用しようとする動きが現れた。七月二十四日、約二百名の市民が見守る中で、市教委は結局扶桑社版を採択しなかったが、教育委員の役割と人事が教育内容にも大きく関わることが、市民にも実感された。
この問題を背景にして、九月の市議会第三回定例会は、冒頭から二人の教育委員の選任をめぐって市長と野党三会派が対立、空転して審議に入れず流会、十月十六日の第四回臨時会も報告のみ、十一月九日の第五回臨時会で教育委員の一人のみを認定、十二月第四回定例会では、一般会計補正予算は成立したが、議長の「議会運営に反省を求める動議」、市長に「教育委員選任に関する責任について陳謝し自ら戒告処分することを求める動議」が共に可決された。教育委員の空席は、平成十四(二〇〇四)年三月定例会でようやく野党推薦の委員が市議会での同意を得たが、この議会では、前年に続いて当初予算案が否決され、市長と野党との根深い対立が示された。
国立市平和都市宣言
平成十二(二〇〇〇)年一月から、小学校でのパソコン授業が始まった。日の丸問題で揺れる同年六月二十一日、市議会第二回定例会で「国立市平和都市宣言」が制定され、八月十一日に記念講演会が開催された。この宣言は、市民から宣言文案を公募して作られたもので、平成十三(二〇〇一)年九月十一日の米国同時多発テロに始まる新しい戦争の危機に際して、国立市民の意志として、指針にされることになった。
平成十二(二〇〇〇)年十月一日から、プラスチックごみの分別収集が始まった。十月二十八日に、国立市こども議会が行われた。
平成十三(二〇〇一)年三月、国立市第三期基本構想第二次基本計画がまとめられた。四月一日から流域下水道処理場広場がオープンし、六月、国立市主催のIT講習会が始まった。八月二十五日に都市計画マスタープランの市民提案書が提出され、八月に公立学校プールが初めて一般に開放された。九月に国分寺市との市立図書館相互利用がスタートした。十一月には国立市地球温暖化対策実行計画が策定され、十二月八日、市の平和計画事業として「戦争体験を聞くつどい」が行われた。
平成十四(二〇〇二)年三月二十七日の市議会第一回定例会では、全国に先駆けて「有事立法に反対する意見書」が採択された。ただしその採決には自民党議員六人が退席し、賛成九、反対六の賛成多数であった。四月には、「国立市第三次男女平等推進計画ム認め合う あなたとわたしの輝きプラン」が、五月には「国立市行財政健全化プラン」がまとめられた。平成十三年二月に発足した第四期ごみ問題市民委員会は、五月、「環境にやさしい循環型社会をめざして」の答申をまとめ、『市報くにたち』第七七二号(平成十四年六月五日)に大々的に発表された。
情報公開の遅れと都市計画マスタープラン作成
平成十三(二〇〇一)年十二月、国立市は、「いきいきとした文化都市」「住んでみたいまちランキングの上位」にふさわしくない、不名誉なランキング入りをした。東京オンブズマン・ネットワークが行った第二回都内市区町村情報公開度ランキング報告で、東京都区内五四自治体中、国立市は四四位、トップの多摩市や千代田区・文京区の一一〇ポイントに対し、国立市は半分の五五ポイント、情報公開の落第生と診断された(『読売新聞』十二月二十七日)。情報公開条例の有無、その規則の市民にとっての内容、議会の政務調査費、首長交際費などの公開度をポイント化したもので、かつて全国に先駆けたコンピュータ条例等を作ってきた「文化」水準が、いまや時代に乗り遅れ「先進」から「後進」になっていることを、市民オンブズマンの手で診断されたのである。
環境問題や教育問題をめぐって、世紀の変わり目の国立市議会は、幾度か大きな分裂、流会、議場ボイコット、空転、果ては議員同士の訴訟さえ経験してきた。長く続いた保守市政から、石塚時代の基本構想を継承する上原市長に変わったとはいえ、今期のような長期の深刻な市政と議会の混乱は、石塚革新市政時代にも見られないものであった。にもかかわらず、『市報くにたち』『くにたち議会だより』や国立市の公式ホームページを見る限りでは、こうした市政と市議会の様子は、ほとんど伝わってこない。国立市の情報公開は、行政と議会の全体としてみれば、未だ二十世紀段階である。
重要なことは、こうした事態が、全戸に配布される『市報くにたち』や『くにたち議会だより』からはほとんどわからないにしても、もはや藪の中の密室政治ではありえず、マスコミによって大きく報じられたばかりでなく、いまや七万を越す市民によっても常に監視され、簡単にチェックされるようになったことである。本書終章の執筆にあたっては、文書資料に加えて、インターネット上に蓄積された国立市関係のデータが参照された。
無論市政の側にも、情報公開の遅れを克服する動きはみられる。明和マンション建設問題で浮上した景観やまちづくりのあり方は、もともと二十一世紀の国立にとって、避けて通れない問題だった。
平成四(一九九二)年の都市計画法の一部改正により、それまで東京都が広域的観点に立って定めていた「都市計画」が、区市町村が地域の個性にあわせ独自に策定する「都市計画マスタープラン」に基づく「都市計画」に変わった。日本全体で進められた分権化の動きの一つで、市では、平成九(一九九七)年十一月に「国立市都市計画マスタープラン施策検討委員会」を設置し、約二十年のスケールで、国立市の将来ビジョンを定める方向に踏み出した。平成十(一九九八)年八月に報告書をとりまとめ、同年の市報十月二十日号に発表して、市民アンケートを実施した。
平成十一(一九九九)年五月に新たに就任した上原市長によって、都市計画マスタープランの策定にあたっては「徹底した市民参加」により「基本理念、全体構想、地域別構想」を作成する方針が打ち出され、平成十一年十二月十一日に都市計画マスタープラン・国立まちづくりサポート会議がスタートした。
平成十二(二〇〇〇)年四月十六日には、都市計画マスタープランの市民提案づくりが始まった。平成十三(二〇〇一)年五月十三日に「市民提案の素案」が発表され、同年八月に「市民提案書」が市に提出された。この「市民提案書」と「国立市第三期基本構想」などに基づき、庁内の検討委員会において平成十四(二〇〇二)年五月に「素案」を作成し、国立市都市計画マスタープラン審議会において「原案」を作成する段階に入った。平成十四年七月十日に第一回審議会が開催され、市長から国立市都市計画マスタープラン原案作成についての諮問が行われ、審議が始まった。平成十四年秋には、市長へ審議会の原案が答申される。?
この過程で大きな役割を果たしたのは、国立市のホームページであり、まちづくりに関心を持つ市民たちのインターネット上での提言、討論であった。
情報公開・インターネット時代の市民の眼
国立市の公式ホームページ(http://www.m-net.ne.jp/~kunicity/)がようやく開設されたのは、平成十一(一九九九)年九月一日、まだ数年にしかならない。多市町村に比して内容は乏しく、アクセス数も、平成十四(二〇〇二)年八月現在、一八万ヒットに留まっている。多摩地域でも多くの自治体は市報、議会報をホームページに入れているが、国立市ではそれを読めない。市議会にいたっては、国立市サイト内のコーナーさえ持たない。
すでに国会については、国会図書館ホームページで、戦後のすべての両院議事録を国民が検索できる。市議会レベルでも、ホームページを持たない自治体は珍しく、広島市議会は昭和六十年以降の全議事録を、徳島市、埼玉県狭山市・草加市等は平成元年から、京都市、熊本市、佐賀市等は平成三年以降の議会議事録を公開しており、議員名やキーワードで、全発言が簡単に検索できる。議会議事録を公開している自治体は数十にのぼり、三重県津市、大阪府河内長野市・高槻市、神奈川県厚木市、沖縄県浦添市などのように、本会議だけではなく委員会レベルまで公開している例もある。東京でも、平成七年以降の議会議事録を公開した三鷹市を始め、武蔵野市、田無市、中野区、世田谷区などに広がっている。愛媛県新居浜市、京都府綾部市などでは、議員が自分のホームページに全議事録を公開している。
これらに比べると、国立市の行政及び市議会の情報公開はきわめて遅れているが、しかし実際には、議会の動きは、個々の会派・市議や市民・市民団体のホームページで、広く簡単に伝わるようになっている。
例えば明和地所マンション問題をめぐる市議たちの一挙一動は、「東京海上跡地から大学通りの環境を考える会」を始め、多数の市民運動団体や個人のホームページで、日々市民に公開されていた。市長の支持母体や地区条例を推進した市議たちの多くも、自前のホームページを持っていた。新聞やテレビは数日で忘れ去られるが、インターネット上では、議事録や訴訟書面、新聞報道など、すべての動きがデータベースとして蓄積され、日々更新されていく。平成十二(二〇〇〇)年のアメリカ大統領選挙や韓国総選挙「落選運動」でその絶大な効果が知られるようになり、日本でも長野県知事選挙などで強力な力を発揮している、新時代の情報政治である。国立でも、市民運動の側は、インターネットを効果的に用いるようになった。例えば「考える会」の東京都知事宛署名は、インターネット上に窓口を設けて、きわめて短期間に全国から十一万人もの署名を集めることができた。
国立市民のあるホームページには、明和地所マンション反対運動に加わって初めて市議会の実態を知ったとして、公式には議事録がない平成十二年一月三十一日の市議会臨時会前後の模様が、個々の議員の動きを含めて、克明に伝えられている。。
新聞、テレビ報道はもちろん、市民に全戸配布される『市報』や『市議会だより』では決して得られぬ臨場感である。こうした情報は、確実に増大しており、今後の選挙運動や「落選運動」に用いられることは間違いない。国立市議会は、自ら情報を市民に公開する面できわめて遅れており、さしあたり国立市ホームページ内に議会のコーナーをたちあげ、議員紹介、議事日程の公開、『市議会だより』のデジタル公開などが求められ、多くの自治体並みに、議事録の過去に遡った公開を迫られるであろう。
市民の市政意識の現在
平成十三(二〇〇一)年版『統計くにたち』によると、国立市の人口は三万一六九三世帯七万一六九三人、その中には、登録外国人が一二六五人(二%)、六五歳以上の高齢者が一万〇三三三人(一四%)含まれている。九〇歳以上の人も三二四人いる。
本書の終わりに、国立市の「市政世論調査」から、これまでの国立市政の流れと、二十一世紀に入っての市民にとっての課題を見ておこう。設問方式が異なるものもあるが、先に第六章第二節で掲げた昭和期のデータをも可能な限りで採用し、市制施行以降の国立市政と市民の関係の長期的趨勢をふり返る。
ここでは、平成に入ってからの、谷市長時代の第九回(平成元年=一九八九年、有効サンプル数八三八)、佐伯市長時代の第十一回(平成五年九月=一九九三年、八四四)、上原市長誕生時の第十二回(平成十一年十月=一九九九年、八三八)の結果を、比較可能な限りで検討する。石塚市長時代を含めて流れをわかりやすくするため、年号は、西暦表記を用いる。
「くにたちの住みよさ」については、昭和四四(一九六九)年からデータがある。
定住志向が定着し、居住空間としての「ブランド」は歴史的に高まったことがわかるが、同時に高年齢層ほど定住志向が強いことから、高齢化問題が深刻になってきたことがわかる。
「住み続けたい理由」については、平成期に入ってから順位は全く変わらず、最新一九九九年調査でいえば、「自然環境に恵まれている」四九%、「持ち家だから」三九%、「通勤・通学・買物に便利」二六%、「この土地に愛着があるから」二三%、「自分の生まれ育ったところだから」一四%、の順になっている。
「市政への要望」の上位三項目を見ると、以下のように、時代の流れを映し出している。
「下水道整備」が、北多摩二号幹線流域下水道の完成で劇的に解決されたのに対し、駅前自転車対策は、七〇年代から変わらぬ課題となっている。また高齢者福祉対策・ごみ問題が、新たな市政の中心課題になってきたことがわかる。\
市民の「市政への関心」の強さは、次のように推移してきた。
市制施行直後の熱気はなくなったとはいえ、四分の三程度の市民が常に市政に関心を寄せており、近郊居住都市としては、きわめて高い関心が持続されている。同時に、その多くが「無党派」でもあり、行政や市議会は、四年に一度の選挙の時だけではなく、市民の強い反発を受けると市政が立ちゆかなくなる構造を示している。
市民が市政へ自分の意見や要望・苦情をどう伝えるのかという、市政への伝達・参加手段の上位三位をみると、次のようになる。
市役所の窓口改善や市民相談の制度化で、市民と行政が近づいた趨勢は変わらないが、「町内会・自治体・団体などの役員に頼む」と「市議会議員に頼む」が合計で二割近くを占め続けており、「伝えても解決しないのであきらめる」「面倒だから伝えない」も合計一〇%以上で底流にある。
注意すべきは、平成十一(一九九九)年調査で初めて選択肢に加えられた「国立市ホームページにアクセスする」が四%以上になり、「町内会・自治体・団体などの役員に頼む」型回答減少の一因とみられることである。この回答は、次回以降増えるであろう。また、同じく初めての選択肢「伝えたいことはない」が八%で「市議会議員に頼む」を上回ったことが、二十一世紀型市政にとっての、新たな問題として浮上している。
総じて、市政も市民意識も定住都市型として成熟してきたといえるが、少子高齢化、情報化、グローバル化、分権化、男女平等参画、リサイクル循環型社会などの日本社会全体の新しい課題に対して、行政も市議会も新たな対応を迫られているのであり、それに挑戦するさいの情報公開と市民参加のあり方が、焦点になっているのである。