公共哲学ネットワーク編『地球的平和の公共哲学──「反テロ」世界戦争に抗して』(東京大学出版会、2003年5月)所収

 

 

 

 

9/11以後の情報戦とインターネット・デモクラシー

 

 

 


 はじめに

 

 二〇〇〇年のアメリカ大統領選挙は、「インターネット選挙」とよばれた。一九二八年の「ラジオ選挙」や一九六〇年にジョン・F・ケネディがニクソンとのテレビ討論で勝利を得た「テレビ選挙」のように、メディアをめぐる政治の画期で、ジョージ・W・ブッシュは、インターネットをフルに活用して大統領になることができたという(横江公美『Eポリティックス』文春新書、二〇〇一年)。

 そのブッシュ大統領のもとで起こった、二〇〇一年九月一一日の同時多発ハイジャック・テロと、それに対するアメリカのアフガニスタンへの報復戦争は、インターネットが政治の世界に強固にビルトインされたことを、如実に示した。デモクラシーを発展させる方向にも、撹乱・阻害する方向にも、二重に作用する両義的な意味で。

 この戦争の世界的に定着した名称は、勃発後一年たっても、未だに確定していない。戦争の性格と着地点が、曖昧なままであるからである。アフガニスタンのタリバン政権が崩壊し、「誤爆」によるアフガン文民の犠牲者数が同時多発テロの犠牲者を上まわっても、なお戦闘は継続している。それどころか、パキスタンとインド、イスラエルとパレスチナ等に紛争は拡大し、フィリピン、グルジア、イエメン、コロンビア等へも米軍「反テロ支援」作戦が展開された。

 二〇〇二年の年頭教書で、ブッシュ大統領は、イラク、イラン、北朝鮮をテロ支援国家の「悪の枢軸」と名指しし、三月にはこの三国に中国、ロシア、リビア、シリアを加えた七か国に対する核兵器使用ブランの存在も明るみに出た。一年後の九月には、国際合意を得ずともアメリカが「自由で開かれた社会の敵」と認定した国家を先制攻撃し、敗戦後日本におけるGHQのように「改革」を強制する「ブッシュ・ドクトリン」の輪郭も明確になり、最初のターゲットは、イラクのフセイン政権に絞り込まれ、二〇〇三年三月には国連決議もなしに武力攻撃し軍事占領した。

 こうしたアメリカ一極支配・単独行動主義の軍事的様相は、新聞・テレビ等既成メディアで報道されたが、米国防総省内には一時期、偽情報を意識的に流す世論工作機関「戦略影響局」まで設けられた。ハート=ネグリ『帝国』の言説が説得力を持ち、小林正弥が「今なおファシズムの世紀なのか?」と問いかけるゆえんである。

 だが、情報の双方向性を一つの特質とするインターネット上では、「テロにも戦争にも反対」の草の根ネットワークが、九月一一日直後からグローバルに形成され、今後の日本政治のあり方を変える可能性を孕む、大きな発展を示した。私自身、個人ホームページ「加藤哲郎のネチズン・カレッジ」に、丸山真男『自己内対話』の一節「戦争は一人、せいぜい少数の人間がボタン一つ押すことで一瞬にして起せる。平和は無数の人間の辛抱強い努力なしには建設できない。このことにこそ平和の道徳的優越性がある」を掲げ(みすず書房、一九九八年、九〇頁)、特設情報サイト「イマジン」を設けて、積極的に発信してきた。本稿は、その体験を交えた、一年間のインターネット情報政治の中間総括である※。

※ 本稿は、第三回公共哲学研究会 「地球的平和問題――反『テロ』世界戦争をめぐって」(二〇〇一年一二月二八〜三〇日、千葉大学)第七セッション報告に手を加えたものであるが、その原型は、二〇〇一年一一月に韓国で開かれた日韓平和文化ネットワーク形成シンポジウム基調報告「九.一一以後の世界と草の根民主主義ネットワークーーアメリカ、日本、韓国関係の再編」(日本語版は『日韓教育フォーラム』一一号、二〇〇一年一一月)であった。公共哲学研究会での報告は、その後の状況の進展にあわせて、『データパル 二〇〇二』(小学館、二〇〇二年二月)のために改訂した拙稿「ネットワーク時代に真のデモクラシーは完成するのか」をもとにしていたが、本稿は、これをさらに九.一一勃発後一年たった二〇〇二年一〇月の時点でヴァージョンアップし、新たな論点と事例を加えたものである(文中敬称略)。なお、「ネチズン・カレッジ」「イマジン」の経験にもとづいて、拙稿「ウェブ上に集った市民が現実政治を変えている」(『エコノミスト』二〇〇二年七月二日号)、「現代日本社会における『平和』──情報戦時代の国境を超えた『非戦』」(『歴史学研究』第七六九号、二〇〇二年一一月)も発表している。初期の日本語サイトの対応については、森岡正博氏のMasahiro Morioka, Japanese Responses to the World Trade Center Attack(http://www.lifestudies.org/wtc〇〇.html)がある。本稿で紹介するウェブ・サイトは、すべて「ネチズン・カレッジ」「イマジン」(http://www.ff.iij四u.or.jp/~katote/imagine.html)にリンクされているので、URLは省略する。リンク切れも含まれているが、あわせて参照されたい。

 

 一  情報戦としてのテロと報復戦争――政治の機動戦・陣地戦から情報戦へ

 

 二〇〇一年九月一一日を、世界の多くの人々は、テレビの映像を通じて知った。世界貿易センタービルへの自爆突入・倒壊はあまりに衝撃的で、アメリカのテロに対する怒り、ブッシュ大統領の「これは新しい戦争だ」という規定は、当然のように思われた。だが、一〇月七日にアメリカ軍のアフガン空爆・地上戦が始まると、国連NGO事務所や病院を含む住民への「誤爆」で、新たな犠牲者がうまれた。

 すでに二〇年も平和を知らない大量の難民が国境に溢れ、アメリカはテロの首謀者とされたオサマ・ビンラディンへの報復と共に、「テロ支援国家」の口実でタリバン政権転覆をねらい、新たな中東支配・世界支配に向かうのではないかと、疑問や留保が付されるようになった。日本の自衛隊派遣についても、憲法上の疑義を含めた草の根の討論があり、NGOが加わる難民救済など、別のかたちでの国際貢献も模索された。

 かつてイタリアの反ファシズム思想家アントニオ・グラムシは、二〇世紀の政治を軍事技術の変化から読み替え、ロシア革命型の機動戦から、西欧民主主義型の陣地戦への移行を語った。今日では、軍事にも政治にも情報戦が組み込まれ、情報をめぐる国内・国際政治が、世論形成に決定的なものとなった(加藤哲郎『二〇世紀を超えて』花伝社、二〇〇一年)。

 情報戦は、情報操作・統制を伴い、諜報戦がつきまとう。アメリカからテロの首謀者とされたオサマ・ビンラディンは、もともとソ連のアフガン侵攻に対するゲリラ戦の中で、CIAの援助を受けて育った「鬼子」だった。もちろんアメリカは、ビンラディンの動きを追ってきた。一九九八年のクリントン大統領によるアフガン・スーダン空爆の標的もビンラディンであったが、作戦は失敗した。いくつかのテロリスト・グループは、ホームページで「聖戦」を公然と主張し、衛星電話や電子メールで世界にネットワークを持っていた。

 九月一一日の同時多発テロについても、テロの可能性自体は事前に察知され、在日アメリカ大使館は、日本政府にも警告していた。米国防総省国家安全保障局(NSA)のグローバル通信傍受装置エシュロンは、グループの交信をキャッチしていたが、その情報を解析できたのは事件後だったという。膨大な情報の行き交うサイバー・スペースでは、事件直後に流言蜚語も飛び交い、「ハイジャック一一機」情報や怪しげな合成写真も出回った。

 しかし、情報戦は、グローバリゼーションと「IT革命」の所産でもある。中国天安門事件や湾岸戦争の時にはなかった新しい手段を、二一世紀の市民に提供していた。

 アメリカでは事件をきっかけに、平和の祈りや癒し・チャリティのインターネット・サイトが急増した。炭疽菌郵便事件は報復テロ連鎖の恐怖と不安を広げたが、そこではインターネットが、市民が自分で情報を収集・選別し、安全・安心を双方向で交感しあう、有力なオルタナティヴ(代替)メディアとなった。

 すでに十年前の湾岸戦争がその兆候を示していたが、二〇〇一年のアフガン戦争は、情報戦・メディア戦の性格を色濃く持っていた。事件直後に流れたパレスチナのこどもたちが喜ぶCNNの映像は、犠牲者の痛みを考えれば不謹慎で非難が殺到し、メディアが世界の多くの民衆の実感をストレートに伝えることを躊躇させた。ただしそれは、事件と無関係の古い映像が交じった「やらせ」ではないかと、ブラジルの一学生がインターネット上で報じ、ドイツの新聞等がそれを報じて、その真偽をめぐって世界中で論争される素材となった。CNNは、特別の声明を発して、画像の信憑性を説明しなければならなかった。

 おそらくその画像は、真実であったろう。一〇月に入って米国の報復空爆が始まると、事件に対する世界の民衆多数の実感が、報じられるようになった。一〇月一七日の朝日新聞紙上には、中国の米国通の長老李慎之氏の言葉が、さりげなく報じられた。「むろんテロはよくないし、江沢民総書記も批判した。だが米国人に同情しつつも、自業自得と考える中国人は多いはずだ」と。フランスの高級誌『ルモンド・ディプロマティーク』のイニャシオ・ラモネ編集総長は、一〇月号巻頭「『敵』の出現」で次のように指摘し、インターネット上の日本語版でも直ちに紹介された。

 「ニューヨークのテロ事件に巻き込まれた無実の被害者に同情するのは当然であるにしても、アメリカという国までが(他の国と引き比べて)無実なわけでないことは指摘せざるを得ない。ラテン・アメリカで、アフリカで、中東で、アジアで、アメリカは暴力的で非合法的な、そして多くは謀略的な政治活動に加担してきたではないか? その結果、大量の悲劇が生まれた。多くの人間が死亡し、『行方不明』となり、拷問を受け、投獄され、亡命した。

 西側諸国の指導者とメディアが示したアメリカ寄りの態度につられて、手厳しい現実を見逃してはいけない。世界中で、とりわけ発展途上国において、断罪すべき今回のテロ事件に際して最も多く表明された心情は、『彼らに起こったことは悲しい出来事だが、自業自得である』というものだった。」

 日本のテレビや新聞は、もっぱら政府の発表やCNN等米国メディア情報に依拠し、「二一世紀の新しい戦争」を報じた。しかしその間に、巨大メディアに乗らない少数意見や、米国でのアラブ人差別、アフガニスタン難民やイスラム諸国の実情を、日本の市民がインターネットで流し始め、欧米知識人の憂慮のメッセージや反戦運動を伝えるネットワークを、急速につくりあげた。二〇〇〇年韓国総選挙で「落選運動」が大きな力を発揮し、アメリカ大統領選挙が「E・デモクラシーの開始」といわれたように、日本の政治のなかでもインターネットが本格的に稼働しはじめた。

 

 二 9/11以後の草の根平和ネットワークーー日本政治の深層変動

 

 インターネット上で市民として情報を集め、相互に交信し活動する人々を、ネットワーク・シチズン=ネチズンという。日本のネチズンの最初の対応は、テレビや新聞には現れない、アメリカ市民の多様な声を集めることだった。

 

(一)「もう一つのアメリカ」情報の伝達

 マス・メディアの「ゴッド・ブレス・アメリカ」「テロに報復を」の圧倒的な声の中でも、「もうひとつのアメリカ」が見えてきた。

 ニューヨーク貿易センタービルで息子を失ったロドリゲス氏、ハイジャックで一人娘を失ったボドリー夫妻、ペンタゴンで夫を亡くしたアンバー夫人らが、テロを憎み、肉親の喪失を深く悲しみながらも、戦争というかたちでの暴力的報復には反対し、ブッシュ大統領に「報復よりも正義と平和を」「私たちに、さらに多くの無実のいのちを奪う権利があるのでしょうか。それはまたひとつのテロではないでしょうか」と問いかけていた。

 それらはすぐに、だれかが英語を日本語に翻訳し、多くのメールングリストで日本中に流され、続々と生まれた各種のホームページに発表された。

 冷泉彰彦「FROM 九一一/USAレポート」や西海岸在住日本人の「ベイエリア通信」は、アメリカ滞在中の日本人の眼で、アメリカ社会の変貌の様子を、ネット上に伝え続けた。

 

(二)異論・少数意見の紹介・リンク・発信

 アメリカのインターネット上に現れた少数意見、イマニュエル・ウォーラーステインやノーム・チョムスキー、エドワード・サイードらの事件直後の論評は、ただちに翻訳されて、在米日本人サイトや日本のネチズンのホームページにリンクされた。

 欧米思想研究の定番サイト中山元「哲学クロニカル」は、「九一一テロ事件特集--哲学クロニクル・スペシャル」を設けて、九月一一日のサスキア・サッセン、翌日のジャック・アタリ、スーザン・ソンタグ「民主主義はどこへ」からサミュエル・ハンチントン「文明の衝突ではない、少なくともまだ……」にいたる世界の知識人の反応・論調を、一部は自ら日本語に翻訳して系統的に紹介し、後に中山編訳『発言ムム米国同時テロと二三人の思想家たち』(朝日出版社)にまとめられた。

 日本での知識人・研究者の対応も、学術研究リソース・サイト「ACADEMIC RESOURCE GUIDE(ARG)」を主宰する岡本真によって、大学サイトのすみずみまで精査され、「対米同時多発テロ事件をめぐる発信」リンク集に収録された。世界と日本の平和団体、宗教団体、NGO・NPOから学会・労働組合にいたる各種組織の声明・宣言は、田口裕史のホームページ等に整理されて集積され、データベース化された。

 九.一一以前に累積数十万アクセスに達し、月数千人のリピーターを持っていた森岡正博の「生命学ホームページ」や私の個人ホームページ「加藤哲郎のネチズン・カレッジ」は、これらを特設コーナーで紹介し、普及につとめた。 

 

(三)意見広告、反戦署名、難民支援 

 ニューヨーク在住の日本人ミュージシャン坂本龍一の「報復しないのが真の勇気」という朝日新聞九月二二日の短文は、たちまち数十のホームページにリンクされた。「ブッシュ大統領への手紙」や嘆願署名サイトが次々につくられ、ニューヨークの犠牲者への義捐金と共に、アフガン難民を支援するサイトも生まれた。

 千葉の主婦きくち・ゆみが始めた「グローバル・ピース・キャンペーン」は、わずか二週間で目標一二五〇万円の募金をインターネット上で達成し、アメリカのNGOとも提携して、ジョン・レノンの誕生日一〇月九日の『ニューヨーク・タイムズ』一面を買い取り、英文意見広告「アメリカは世界を平和と公正に導くことができるか?」を掲載した。さらにその後、募金は一か月で二五〇〇万円に達し、『ロスアンジェルス・タイムス』、イタリア紙『スタンパ』、ペルシャ語『ジャヴァナン』にも意見広告を掲載、一一月二六日以後は難民救済と「地球平和賞」を設立して運動を継続した。

 そうした動きは、シカゴ大学の一学生が始めた「報復ではなく正義を!」のサイトが、三週間で七〇万人の署名を集め、二〇か国語に翻訳して世界の指導者たちに届けたように、世界的広がりをもっていた。日本でも地域レベルを含めた署名サイトが陸続と作られ、「とめよう戦争への道、百万人署名運動」の場合は、二か月で七万人を超える署名を集め、国会に提出した。

 アフガニスタンという、それまでほとんど知られてこなかった国の実情を知らせ、難民救済・募金を訴えるサイトや、テロ廃絶のために恒常的な国際刑事裁判所をつくる運動も、ネット上で始まった。世界中の論調や反戦運動の動きも、日本語に翻訳されて紹介された。

 

(四)意見表明・双方向討論と政治情報のデータベース化

 多くのホームページの掲示板・討論欄で活発な議論が交わされると共に、それらはそのまま同時進行の時代の記録として、歴史的資料となり、保存されることになった。

 「Peace Weblog」には、地方新聞を含む戦争と平和のニュースが毎日記録され、「そのとき誰が何を語ったか」というホームページでは、毎日の政治家の発言が克明に記録された。次の総選挙では、「落選運動」の有力なデータベータとなるだろう。

 有名無名の無数のネチズンが、九.一一以後の事態を憂い、ホームページやメーリングリスト、掲示板で発信した。作家宮内勝典「海亀日記」や池澤夏樹「新世紀にようこそ」のように、日誌風に展開する反戦文学が現れ、若い政治学者小林正弥は、丸山真男の平和の精神を今こそ思想的に発展させようと、「黙示録的世界の『戦争』を超えて」という長大論文を、雑誌ではなく「公共哲学ネットワーク」ホームページに連載した。八〇歳をこえる歴史学者である吉田悟郎は、自らのホームページ「ブナ林便り」でこれらを詳しく論評し、歴史教育で知り合った教師たちが行った高校生の世論調査や平和教育の実験授業を紹介した。私の特設ホームページ「イマジン」は、それに大学生の世論調査・平和運動を加え、「高校生平和ニュース」「大学生平和ニュース」のコーナーにデータベース化した。

 カルフォルニア州バークレー市議会が、アメリカで初めて自国政府の戦争反対を決議したことは、直ちにインターネットで紹介された。ローマ法王やダライ・ラマ、ノーベル賞受賞者たちのメッセージが流され、「文明の衝突」を憂うる多くの宗教者が、インターネットを通じて平和をよびかけた。それらを教材にした教師たちの実践記録がネット上に公開され、教育現場でも共有された。

 とりわけ影響力を持ったのは、「もし、現在の人類統計比率をきちんと盛り込んで、全世界を一〇〇人の村に縮小するとどうなるでしょう。その村には、五七人のアジア人、二一人のヨーロッパ人、一四人の南北アメリカ人、八人のアフリカ人がいます」で始まり、「七〇人が有色人種で 三〇人が白人」「六人が全世界の富の五九%を所有し、その六人ともがアメリカ国籍で、八〇人は標準以下の居住環境に住み、七〇人は文字が読めません、 五〇人は栄養失調に苦しみ、一人が瀕死の状態にあり、一人はいま生まれようとしています 、一人は(そうたった一人)大学の教育を受け、そしてたった一人だけがコンピュータを所有しています」と語る、現代版フォークロア「一〇〇人の地球村」であった。

 これは、朝日新聞「天声人語」で紹介されるずっと以前に、インターネット上で広く急速に出回り、私の特集サイト「イマジン」でも、ジョン・レノンの音声ファイルと共にカバーページにかかげ、大きな反響があったものであった。それが、もともとローマ・クラブ・レポート『成長の限界』(一九七二年)の起草者の一人であったDonella H. Meadowsが作成した学術レポートをもとに、「一〇〇〇人の地球村」として九二年ブラジル地球サミットのポスターに使われ、世界の環境問題・エコロジー運動のサイトで広く流布していたものであったことも、「グローバル・ピース・ネット」メーリングリストや「ブナ林便り」での議論の中で、学術的に明らかにされた。私のホームページは、ここ数年「インターネットで歴史探偵」を目玉の一つとしてきたが、インターネットが現代史研究の一つの手段になりうることを示した一例であった。

 

(五)規模と影響力の拡がり、現実政治へのインパクト

 こうして二〇〇一年九月一一日以後の日本のインターネット政治は、韓国総選挙「落選運動」なみの、本格的開花期を迎えた。

 新聞紙上にも「全米同時多発テロとインターネット」「文化人、ネットで懸念語る」といった記事が現れた。その一年前に、自民党加藤紘一がインターネット世論に依拠して森内閣に反旗をひるがえし失敗した時のオフィシャル・サイト「改革の広場」支持者が数万人だった。春の自民党総裁選のさい、党内基盤が弱い小泉純一郎を首相にしようと、党外勝手連がインターネットで集めた募金が一か月で一〇〇万円、当時は画期的とさわがれた。「グローバル・ピース・キャンペーン」は、一か月で二五〇〇万円の募金を集め、あっさりと記録をぬりかえた。

 二〇〇一年六月に首相官邸が始めた「小泉内閣メールマガジン」には二〇〇万人が登録し、「日本におけるネット・デモクラシーの幕開け」といわれたが、けっきょく双方向討論の場を設けることができず、週一回の政府情報の一方的垂れ流しで、ネチズンに見放された。

 逆に、草の根デモクラシーのネットワーク上では、きわめて活発な議論が行われた。ヒロシマの女子高校生は、原爆とアフガンのこどもを結びつけて、日本語と英語で詩を送るサイトを開設した。こどもたちの討論の広場「KID'S PEACE」や、画像ページ「キッズ・ゲルニカ」も誕生した。長期不況で戦争より景気対策を求める数百の中小企業は、社名を公然と掲げた連名で、"Stop the bloody chain !"というキャンペーンを始めた。在日アメリカ企業でも、コンピュータ・ソフトのアシスト社ビル・トッテン社長は、「暴力では問題は解決しない」と、自国の戦争への疑問をサイトで公然と表明した。

 日本では、新聞・テレビの世論調査でも、自衛隊の海外派遣や「国際貢献」のあり方をめぐって、男性と女性の意見が大きく分かれたが、「テロにも報復戦争にも反対」を掲げたインターネット民主主義の開花には、若い女性や主婦たちの加わる平和ネットワークが大きく貢献した。

 ただし、既成政党や政治家は、こうした深層の動きを十分認識できず、その時点では永田町・霞ヶ関の「政治」を大きく動かすにはいたらなかった。しかし世論の動きは、二〇〇二年二月になって、アフガン復興東京会議へのNGO代表出席を自民党鈴木宗男議員が外務省に圧力をかけて妨害した問題が明るみになり、田中真紀子外相の更迭をきっかけに鈴木議員の外務省支配と疑惑が次々に出てきて、小泉内閣の支持基盤を揺るがすまでにいたった。

 

(六)既存の社会運動へのインパクト

 インターネット・デモクラシーの広がりは、既成の社会運動にも、大きな影響を与えた。

 たとえば日本消費者連盟は、一〇月七日の反戦平和集会直前に、集会場やプログラムを知らせ、全国の連帯する動きを伝えるために、新しいサイト「反戦・平和アクション」を立ち上げた。内部に意見の違いがあるさまざまな市民団体・労働組合・地域組織が協力して、情報と運動経験を交流する「ANTI-WAR」という反戦ポータルサイト(情報の入口)がつくられた。

 歌手の宇多田ヒカルの「二一世紀が泣いてる」や俳優黒柳徹子の「これ以上、こどもたちを戦火にさらさないで」、プロ・サッカーの中田英寿選手の「空爆はまちがい」などの反戦発言は、新聞やテレビが報じる前にネット上に流されて、全国のネチズンによって共有され、とりわけ若い世代や女性のピース・ウォーク、平和コンサート、署名・募金などへの政治参加に、大きな影響力をもった。私のホームページ内にも祈り・癒し系コーナー「イマジン・ギャラリー」を設けて、ジョン・レノン「イマジン」の拡がりや喜納昌吉「すべての武器を楽器に」など音楽・詩・文学・絵画・写真・映画・漫画などでの反戦平和運動を紹介し、坂本龍一ホームページ、有田芳生ホームページ等と共に、こうした人々が戦争と平和の問題を考えるきっかけをつくり、ゲートとなった。

 

(七)国際連帯の拡がりと深まり

 インターネットは、瞬時に国境を超える特性をもつ。二〇〇一年九月一一日を契機に、国際交流・国際連帯も、飛躍的に広がった。

 たとえば九月二七日に発表された韓国五五三団体が名を連ねた共同声明は、当初日韓交流を進める若者たちのメーリングリストに数種の日本語訳が流され、やがてホームページに発表されて、たちまち全国に広がった。私の主宰するホームページ「ネチズン・カレッジ」には、韓国、アメリカ、カナダ、イギリス、オーストラリア、ドイツなどから匿名を含む反戦情報が寄せられ、九月に開設した特集情報サイト「イマジン」および英語ページ「Global Netizen College」に収録された。 

 アフガン難民救済を進めてきたNGOサイトからは、現地の深刻な事情が伝えられ、報復戦争はアフガン民衆にいっそうの悲惨をもたらすという認識が共有された。中村哲医師を中心とした福岡を拠点にする「ペシャワールの会」の活動は、各地の中村医師講演情報が次々にネット上で伝えられ、アフガン民衆支援の中核となった。その「アフガンいのちの基金」は、一〇月一二日から一か月間だけで、実に一万五千件二億五千万円の基金を達成し、小麦粉五か月一四万人分、食用油五か月一七万人分を現地に搬入した。その活動状況と基金の使途は、同会ホームページ上で、逐一報告された。

 またパキスタンの「日パ旅行社」から発信される督永忠子の現地報告「オバハンからの気まぐれ通信」は、日本政府や与党幹事長代表団など政治家の現地視察が、いかに現地の実情からかけはなれたものであるかを具体的に報告し、日本のマスコミ報道の問題点を毎日厳しく指摘して、ネチズン必見の定番サイトとなった。後に『パーキスターン発 オバハンからの緊急レポート』(創出版)として本になり、日本ジャーナリスト会議賞を受賞した。多くの日本のNGO・NPOサイトは、この反戦平和活動を通じて、新たな国際連帯・運動支援のパートナーを見いだした。逆に既成の政党系列の運動組織の中には、こうした社会運動の様変わりに対応できず、二一世紀のとば口で衰退の波をかぶるものも現れた。

 

(八)言論の自由の危機と学問の自由擁護

 「公共哲学」にとってとりわけ深刻なのは、思想・言論の自由の問題だった。アメリカにおける言論抑圧、アカデミック・フリーダムに関する情報は、日本のマスコミがほとんど取り上げない状況のもとで、インターネットでの発信が、重要な役割を果たした。

 「反戦クラブ」結成を計画した女子高校生が退学を余儀なくされたニュースは、日本のテレビ・新聞でも報じられたが、そればかりではなかった。全米で四〇人以上の研究者が「非愛国者」のレッテルを貼られ、職場を追放されるケースも現れ、「マッカーシズムの再来」が公然と語られた。こうしたニュースは、アメリカ在住の日本人留学生や研究者から、私のホームページの特集「イマジン」や森岡正博ホームページの「対米テロ事件報道を相対化するために」、それに小林正弥「公共哲学ネットワーク」などを通じて、全国に伝えられた。

 デービッド・エーベル「大学関係者はアメリカ国民団結のマイナス面に注目」、マイケル・フレッチャー「大学では報復攻撃への反対意見を出しにくくなっている」、「米国立平和研究所で反戦を理由に解雇」などのニュースは、小林正弥「実践的行動案内──戦時下の『学問的自由』のための声明」が憂慮したように、自由な言論の危機を示していた。

 私のホームページでは、ハーバード大学のサマーズ学長が大学新聞『クリムゾン』のインタビューに答え、予備役将校の受け入れやテロ容疑者捜査に大学が積極的に協力したいとした愛国発言記事を、ハーバード滞在中の友人の知らせでいち早く翻訳・掲載し、大きな反響をよんだ。日本でも、日本ジャーナリスト会議ホームページが「ジャーナリズムの退廃」を逐一報告し、アジア経済研究所のテロ・リポートが回収・廃棄される事件が起こっていて、「対岸の火事」ではなかった。

 エドワード・サイード教授等の緊急要請「アメリカの言論の自由を守れ!」に応える署名の窓口は、私の「イマジン」のほかに、千葉大小林正弥「公共哲学ネットワーク」、大阪府立大森岡正博「対米テロ事件報道を相対化するために」、ANTI-WAR、PREMA21等々のホームページに、次々に作られた。アメリカからも、スミス・カレッジ講師の大山めぐみが、自らの体験をふまえて、英語と日本語でAcademic Freedomの問題をリンクし、発信しつづけた。

 

(九) マスコミや活字出版の先駆け

 軍事情報は措くとして、こと少数意見や反戦運動の紹介では、日本のマスコミは、インターネットの後追い、ないし無視・無定見だった。私は、すべての論説・記事に、電子メールアドレスを付して発信責任を明示する運動を提唱しているが、インターネット上では、マス・メディアに出せない情報を私たちに電子メールで寄せたり、ネット上で個人意見を述べるジャーナリストも、多かった。『ハリー・ポッター』までが米国で「問題本リスト」に載せられたニュースや、NHK特集『イスラム潮流』を制作したプロデューサーの意見などは、インターネット上でのみ報じられ、読めるものとなった。

 活字出版の世界は、事態の流れについていけず、タイミングを失して、インターネット論議の後追いが目立った。日本の雑誌特集の外国人の寄稿には、すでにネット上で広く流布していたものが多く含まれていた。一一月から一二月にかけて出版された書物、モフセン・マフマルバフ『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない,恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』(現代企画室)、田中宇『タリバン』(光文社新書)や『イスラム対アメリカ』(青春出版社)、ノーム・チョムスキー『九.一一』(文藝春秋社)等は、インターネット上で話題となった論考を集め活字化したものであった。

 一二月にタリバン政権が崩壊した頃から、かの現代版フォークロア(ネットロア)「一〇〇人の地球村」をアレンジした池田香代子=ダグラス・ラミス『世界がもし一〇〇人の村だったら』(マガジンハウス)が出版メディアをも席巻し、一二〇万部を超える大ベストセラーとなった。それにあやかり便乗して、吉田浩『日本人一〇〇人村の仲間たち』(日本文芸社)という日本版までが、ベストセラーに仲間入りした。坂本龍一ほか『非戦』(幻冬社)、外岡秀俊・枝川公一・室謙二編『九月一一日 メディアが試された日』(本とコンピュータ編集室)等は、インターネット上での平和運動そのものを主題に、活字で紹介し論じるものとなった。

 ことインターネット・デモクラシーに関するかぎり、二〇〇一年九月一一日以後の日本での情報戦では、報復戦争反対の世論が支配的であった。

 

  三.9/11一周年における情報戦の様相――「手作りジャーナリズム」の勃興と「戦争の記憶」の公共データベース化

 

 二〇〇二年九月一一日は、米国同時多発テロの一周年であったが、イスラエルのパレスチナ侵攻はやまず、アメリカのイラク攻撃が切迫する雰囲気の中で、インターネット上でも、さまざまな一年の回顧が行われた。

 

(一) 戦争の終わらない一周年 

 日本語のインターネット評論の定番となった「ルモンド・ディプロマティーク」「田中宇の国際ニュース解説」、船橋洋一の「世界ブリーフィング」「日本@世界」などは、それぞれにアメリカのイラク攻撃に焦点を合わせて、「終わりなき戦争」を論じた。

 アメリカでは、「世界の正義を守るアメリカ」「単独でもイラク武力攻撃を」の論調が強まる中で、チョムスキー、サイードらの声を世界に発信してきた「Znet」が、CNNに対抗する「ZNN」という反戦平和サイトをたちあげた。「AlterNet」「The Nation」「Independent Media Center」などと共に、英語圏での平和の声が、世界中から集約された。直ちに日本語版も立ち上がり、スペイン語、イタリア語、フランス語、ノルウェー語、トルコ語、クルド語、チェコ語、スロバキア語、ブルガリア語、朝鮮語版もできて、CNNやTime誌に対する、グローバル・オルタナティヴ・メディアになった。

 そうした中で、最も痛切な一年間の政治的総括は、「解放」されたはずのアフガニスタンから世界に発せられた「九・一一に寄せて」のRAWA(革命的アフガニスタン女性協会)の声明、「原理主義は全文明社会の敵」と題するメッセージだった。日本では「転送歓迎」と付して「AML(Alternative Mailing List)」を通じて流された。

 「RAWAは、他の文明世界の人びととともに、昨年九月一一日に命を落とされた人びとを偲び、また、世界中でテロリズムと抑圧によって命を失う人びとを偲びます。アフガニスタンで女性、子供、そして男性が永年にわたり、原理主義テロリストの手中にあって受けてきた苦しみを他の人びとも経験するのを見ることは、RAWAにとって、たいへん悲しむべきことです。
 アフガニスタンの民衆、とりわけ女性は、一〇年もの長きにわたって、弾圧され、残虐な目に遭わせられてきました。それはまず、「北部同盟」原理主義者の相次ぐ残虐行為によってであり、ついで、タリバンによるものでした。この全期間を通じて、西欧大国は、こうした犯罪者たちと「協力」する道を見いだすことにのみ汲々としてきました。これら西欧諸国の政府は、私たちがこうしたテロリスト集団の支配のもとで日日堪え忍んでいた悲惨を気にとめていなかったのです。彼らにとっては、人権と民主主義の諸原理が日常的に想像を絶する蹂躙を被っていることも、さしたる問題ではなく、重要なのは、中央アジアの石油パイプラインを、利用しやすい港まで延長するために、これら宗教的ファシストと「協力」することでした。
 九月一一日の悲劇の直後に、米国は、この、かつて自分が雇っていた連中を懲らしめにかかりました。人類史上最も高度な最新の兵器によって爆撃されたアフガニスタンは、逃れる術もなく、血を流し、荒廃し、飢え、窮乏化し、旱魃に打ちのめされて、不運にも、世界から忘れ去られたのです。九月一一日に失われた人びとの数をすら大幅に上回る無辜の命が、奪われました。楽しい結婚式の集まりすら、この攻撃を免れませんでした。タリバン体制と、そのアルカイーダ支援は転覆されましたが、彼らの戦闘のための人的資源は大した影響を被りませんでした。取り除かれずに残ったのは、世界全体に対するテロリストの脅威と、その分身である原理主義者のテロリズムの不吉な影です。
 アヘン栽培も、軍閥政治もアフガニスタンからなくなっていません。この虐げられた国には平和も安定もなく、極度の貧困化、売春、ほしいままな略奪といったさまざまな災厄からの救いも一切ないままです。女性はかつてより以上に安全を奪われているのを感じています。大統領その人の安全ですら外国の護衛なしには守れないという苦い事実と、最近のわが国におけるテロリストのさまざまなふるまいは、テロリストにずたずたにされたこの国の混乱し切った状況を雄弁に物語るものです。なぜ、こんなことになったのか。なぜ、九月一一日のあとのあの騒然たる世界の動乱が、なんの成果ももたらさなかったのか。」
  

(二) 9/11が喚起した「手作りジャーナリズム」「公共の広場」

 同時に、インターネットを通じての情報収集と情報発信の新しい地平も、さまざまなかたちでふり返られた。英語では「One year later: September 一一 and the Internet」という学術的総括が、PEW INTERNET PROJECTの「Internet and American Life」サイトに発表された。

 この調査は、九.一一直後から、アメリカ合衆国の数千万人の市民がインターネットを情報源として事態の勃発と進行に対処したことを述べ、調査結果を、(一)合衆国政府の少なくとも一三のサイトと州政府の四つのホームページで「情報公開はテロリストに利用される」という理由でデータが削除された、三分の二以上のアメリカ市民はこうした措置をやむをえないと考えているが、政府による電子メールやオンライン活動の監視については、意見が半々に分かれる、(二)アメリカ市民は、九.一一以降、インターネットにより頻繁に接するようになり、電子メール、ウェブ情報収集、寄附活動から癒し系サイト訪問にいたるあらゆる面でインターネットの活用が増大した、(三)一一%の市民が、九.一一以来「自分たちはノーマルな生活の中にない」と考えており、インターネットのハード・ユーザーほどその傾向が強い、(四)ウェブ上の六三%のサイトが何らかの形で九.一一に関する情報を提供した、等と挙げて、「手作りジャーナリズムの勃興(The rise of do-it-yourself journalism)」「公共の広場としてのウェブ(The Web as a public commons)」などと特徴づけた。

 日本における同種の調査はなされていないが、インターネットの「手作りジャーナリズム化」「公共広場化」は、前節での私の分析にも合致する。

 

 (三) 巨大な情報アーカイヴ構築と平和のデータベース化

 同時に、即時性・双方向性といったインターネットの特性と共に、デジタル情報の恒久性に着目すると、九.一一以降の世界の動きが、後世のために幅広く保存されたことが注目される。英語では、すでに九.一一直後から、米国国務省の「Response to Terrorism」や「Attack On America Tuesday 一一 September 二〇〇一」「The Terrorism Research Center:the United States Homeland on September 一一, 二〇〇一」等が系統的に情報を提供してきたが、一周年にあたって、マス・メディアの特集のほかに「The September 一一 Digital Archive」「The September 一一 Web Archive」のような巨大なアーカイヴ・サイトが立ち上がり、前述ZNN」や「Znet Terror-War Links Since 九/一一, Chronologically」「Alter Net: 九.一一 One Year」のように、反戦平和の論調・運動記録もアーカイヴ化された。

 日本でも、私の英語サイト「Global Netizen College」が「Global IMAGINE」を設けて英語の重要論文・リンクサイトを保存するほか、巨大化した日本語「イマジン」情報は「IMAGINE GALLERY」「IMAGINE DATABASE 二〇〇一」「イマジンIMAGINE! 反戦日誌」等に分割し、いつでもアクセス可能なかたちで保存している。九.一一直後に林立した平和サイトの多くが更新されないまま残されているなかで、「CHANCE!平和を創るネットワーク」「プレマ(PREMA)二一ネット」「とめよう戦争への道!百万人署名運動」「反戦・平和アクション」「ANTI-WAR」などは持続的に活動を続け、「アメリカ同時多発テロへの武力報復に反対するホームページリンク集」「平和に向けたニュースを読むためのPeace Weblog」「VIDEO ACT! 反戦プロジェクト」等が一年以上も情報を収集・発信して、有事立法・言論三法・住基ネット等を含めた九.一一以降の重要な政治データベースとなっている。

 

 (四) インターネット署名の定着、議員とネチズンの直結

 そうしたなかで、アメリカでは「ブッシュ・ドクトリン」とイラク侵攻に反対する世論も公然とネット上に現れ、九.一一犠牲者遺族たちのなかからキング牧師の言葉"Wars are poor chisels for carving out peaceful tomorrows"にちなんだ「September Eleventh Families for Peaceful Tomorrows」のホームページが作られ、ブッシュ大統領に公開質問状を送った。上下両院でのイラク攻撃決議を阻止するために九月二四日に立ち上がった署名サイト「Don't Attack Iraq; Work Through the U.N.」は三週間で八〇万人以上の反対署名を集めるなど、インターネット平和運動の新たな高揚も見られた。「Don't Attack Iraq」サイトは、署名のメールがそのまま上下両院議員の事務所に送られるように設定されており、バーバラ・リー議員ほかイラク侵攻に反対する数十人の議員からは署名者に直接返事のメールが届くしくみになっている。こうした市民と政治家の双方向でのインターネット活用は、日本でもやがて普及するだろう。

 イラク侵攻については、このほかにも、「Americans Against War With Iraq (AAWWI)」「Petition to Congress"No War on Iraqモ」の市民署名や、職業・政治志向に即した「AN OPEN LETTER FROM THE ACADEMIC COMMUNITY OPPOSING A U.S.INVASION OF IRAQ」「Health Community Against the War Petition」「Media Workers Against the War:TELL YOUR MP 'NO TO ATTACKS ON IRAQ'」「ZNet Open Letter to the UN Secretary General」などのウェブ署名サイトが現れ、日本にも「STOP・ザ・イラク攻撃 日米首脳と国連に対する緊急署名」のようなかたちで波及して、反戦平和の表現様式・圧力行動として定着した。

 

 (五) 「戦争の記憶」の公共的データベース化

 最後に注目すべきは、九.一一以後のインターネット上での情報戦が、二〇世紀の「戦争の記憶」をも呼び起こし、第二次世界大戦から湾岸戦争にいたる過去の戦争の記録と記憶が、ウェブ上に大量に蓄積されつつあることである。

 私の個人サイト「イマジン」では、終戦記念日であり丸山真男の命日であった二〇〇二年八月一五日から九月一一日にかけて「八・一五ム九・一一  インターネットと戦争の記憶」という小特集コーナーを設け、「戦争の記憶」媒体としてのインターネットの可能性を探ってみた。リンク集「戦争を語り継ごう」「日本の戦争責任資料センター」、林博史「日本の現代史と戦争責任についてのホームページ」などから入って、「満州」「シベリア抑留」「南京事件」「南方戦線」「沖縄戦」「従軍慰安婦」「空襲」「疎開」「原爆」「焼け跡・闇市」「朝鮮戦争」「ベトナム戦争」「湾岸戦争」などを問題別に検索し追いかけてみると、日本語のウェブ上にも、膨大な戦争体験が入力され、戦争の記録と記憶が収蔵されていることがわかった。もちろん戦闘機の写真や軍歌・予科練ものを集めたマニアックなサイト、日本のアジア侵略を正統化し中国人・朝鮮人を排斥するナショナリスト・サイトもあるが、大部分は、「加害体験」を含む戦争の悲惨さ・怖さ・無意味さを訴えるサイトであった。

 その過程での発見が、二つほどあった。一つは、日本におけるインターネットの社会的・市民的活用の大きなきっかけとなった阪神大震災が、戦後五〇年の年と重なり、地方自治体や学校同窓会・教育関係者などの手で「戦争の記憶」の系統的収集・記録化が行われ、そのよびかけに応えた膨大な証言・手記が、地方史・学校史などの書物や記録集に収められなかったものを含めて、震災ボランティアの活動記録や参加記と共にインターネットにインプットされ、膨大な量が所蔵されていることである。

 

 (六) 「自分史」は自費出版からインターネット文化へ

 もう一つは、「自分史」の流れで、かつて「自費出版」として親族・友人向けに極少部数印刷されてきた市井の自伝・語りの類が、安価で永久保存可能なホームページ上に公開され、アルバムの写真や昔の日記と共に、立派な第一次資料として蓄積されるようになったことである。そこには、絵画・写真・漫画・音楽・短歌・俳句・詩等あらゆる表現ジャンルがあり、当時の日記や手記・遺稿の類を含め、良質の「戦争文学」と形容しうるような珠玉の作品まで入っている。

 また、アジア・太平洋戦争の体験者は高齢化しているため、かつて「親から子へ」語られた戦争体験が、いまや「おじいちゃん、おばあちゃんから孫へ」の語りになり、コンピューターおばあちゃんの会「記憶のままに 私の八月一五日」や「八五才のホームページ」「私の世代・戦争・戦後」「孫に伝える、おじいちゃん・おばあちゃんの戦争体験」「隣のおじいちゃんの戦争体験/中学生への手紙」「孫たちへの証言」「おばあちゃん引き揚げ体験記」といった高齢者サイトが、ここでの主役となる。

 さらに、「父の語った戦争、語らなかった戦争」「一兵士の従軍記録──祖父の戦争を知る」のように、子どもや孫の世代が親族の加害体験をも直視して「記憶の深層」に迫っていく例もある。「ベトナムに平和を! 市民連合」(ベ平連)の記録のように、インターネット上で過去の社会運動の体験や資料が収集され、日々蓄積されてアーカイヴとなる事例も現れている。

 この面では、インターネットは無限の可能性を持っており、映像・画像・音楽のかたちを含めて、独自の文化を形成して行くであろう。

 

 四 インターネット・デモクラシーの現段階と課題

 

 とはいえ、インターネット政治の現実は、バラ色の未来にはほど遠い。私のHP「ネチズン・カレッジ」には「情報の海におぼれず、情報の森から離れず、批判的知性のネットワークを!」と掲げてあるが、インターネット上には膨大なジャンク情報が溢れており、その中から意味ある情報を取り出すのは、容易なことではない。

 ハードの面で見ると、まだまだ情報戦の中では、脇役である。地球上でパソコンを持てる人は、急速に増えているとはいえ、なお数%、いうまでもなく、資本主義先進国に集中している。テレビのワイドショー政治の方が、世論形成においては支配的である。日本国内にもデジタル・ディバイドがあり、中高年リストラの口実にも使われている。電話代も高く、コストもかかる。 

 日本が技術的に誇る携帯電話iモードでは、情報容量の制限からネット・デモクラシーの討論は難しく、むしろ「出会い系サイト」や迷惑メール・犯罪に使われて、刹那的・感性的チャットによる紛争激化を生みがちである。ちょうどマイカー族だけで道路を決めれば歩行者がはじき出されるように、IT革命の勝者である先進国のみが特権を享受し、ネチズンだけで政治を決めるのは、デモクラシーの根本原理に反する。つまり、インターネットの世界にも、今回のテロと戦争の背景となったグローバリゼーションと格差の構造的問題が存在し、むしろ象徴的に現れている。

 OSやソフトの世界では、マイクロソフトの独占が進み、サイバー空間のコード規制、英語の世界語化も進行している。米国防総省エシュロンによる盗聴傍受の問題性は、欧州議会特別報告書「個人および商業通信を盗聴する世界規模のシステムの存在について」(二〇〇一年七月一一日、日本消費者連盟訳)がいうように、個人の自由・人権に対する重大な侵害であることは、いうまでもない。インフラ整備に責任を持つ政府の方は、アメリカでも日本でも、「テロ対策」を理由に情報統制・インターネット規制を強めた。アメリカのテロ対策法には、アメリカ国内のホームページに入る外国人ハッカーをも起訴できる条項が盛り込まれた。日本では、個人情報保護法案が、言論の自由の制限に道をひらこうとしている。

 セキュリティの面でも、九.一一以降、マイクロソフトの定番プラウザInternet ExplorerやメーラーOutlook Expressを介した悪質なウィルスが世界中で蔓延し、膨大なコンピュータが被害を被った。反戦サイトとして著名な写真家藤原新也のホームページ、歴史学者吉田悟郎「ブナ林便り」、私の「イマジン」サイトが、ほぼ同時に同種のウィルス攻撃を受け、いくつかの反戦メーリングリストも無数の人々に感染する被害を受けて、「Alternative Mailing List(AML)」上では「この嫌がらせは偶然だろうか?」と論議された。

 九.一一以後のインターネット上の討論では、顔のみえない匿名チャットが過熱し、「愛国者・売国奴」のレッテル張りが横行した。多くのホームページの討論欄・掲示板が、「二チャンネル化」というべき無責任な投稿被害を経験した。ホワイトハウスや首相官邸の偽物サイトが現れ、個人情報流出・名誉毀損・著作権侵害もあとをたたない。

 インターネット上での討論は、その匿名性やグローバル性のメリットを尊重しつつも、ローカル・インディヴィデュアルな対面討論を補完するものとして考えるべきであり、ハイパー公共哲学の構築にあたっては、その意義・可能性とともに、問題点・限界をも、あわせて検討すべきであろう。

 この点からみると、インターネットのデモクラシーは、国家、企業、圧力団体、NGO・NPO、市民のせめぎあう情報戦ばかりではなく、ネチズン内部での自治とルールづくり──「ネチケット」とよばれる──の面でも、まだまだ発展途上にある。

 二一世紀の入口での情報戦を契機に、地球的規模でのインターネット・ガバナンスが問われている。公職選挙法改正によるインターネット選挙運動や電子投票の実験はすでに開始されているが、インターネット・デモクラシーを可能にする土台作りと民主的討論、さらにはそれを基礎づける公共哲学と情報政治学こそが、地球的規模で、求められているのである。 


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