書評のページ


 

星野 智『現代権力論の構図』

(情況出版、2000年)

            

 


 大学の「政治学」の講義を担当して、ほぼ20年になる。「政治学の基本概念」と副題して、政治、権力、支配、正統性、国家、民族、民主主義といった概念を解説し、最新の政治過程・事象と関連させて論じるのだが、学説・研究状況の変化に伴う講師側の講義内容改善とは別に、学生側の問題関心と反応に伴う主論点の長期的変化がある。かつては古典的政体論から始めて支配の三類型や国家論の系譜が中心だったが、最近は権力論やエスニシティ論に関心が集まる。その権力論も、権力実体説対関係説、エリート論と多元主義論、その日本的形態での政官財三角同盟論対仕切られた多元主義論といった定番的説明よりも、フーコーのまなざしの権力論、メディア権力論、学校権力論、家庭内暴力、ジェンダー論といった、身近な生活・社会関係のなかでの権力関係に、関心が移ってきている。

 星野智氏の手に成る本書は、そんな時代の流れに対応し、同時に棹さそうとする、20世紀権力論の骨太な鳥瞰図である。各章の構成と、とりあげられる主な論者を挙げれば、次のようになる。第1章 エリートと権力(モスカ、バーナム、リンド夫妻、ハンター、ミルズ)、第2章 多元主義と権力(トクヴィル、ベントリー、トルーマン、ローウィ、リースマン、ポルスビィ、ダール)、第3章 非決定と権力(バカラック=バラツ)、第4章 三次元的権力論(ルークス)、第5章 階級と権力(アルチュセール、プーランツァス)、第6章 匿名の権力(フーコー)、第7章 システムと権力(パーソンズ、ルーマン)、第8章 コミュニケーションと権力(アレント、ハーバーマス)、第9章 役割と権力(廣松渉)、第10章 世界システムと権力(ウォーラーステイン、モデルスキー、コヘイン、ストレンジ)。

 先に述べたイマドキの学生たちの関心と、ゼメスター・ビジュアル教育を奨励する「大学改革」の動きに迎合するならば、社会学の教科書によくみられるように、絵解き図表を加えて本書の約半分の分量と価格にし、ルークスの三次元権力論、M・フーコーのミクロ権力論=「権力の第四の側面」までで閉じることも可能であったろう。だが著者は、フーコーを多元主義論・分散権力論への回帰とみなす皮相な見方はとらず、ちょうど晩年のプーランツァスがそうであったように、むしろ国家論・構造的権力論への理論的挑戦とみなし、ミリバンド=プーランツァス論争、パーソンズ=ルーマン論争等をくぐって、資本制社会の原理的・世界的機制と関わらしめて再構成しようとする。それが、第5章以下の旅であり、その「導きの糸」が、第9章で主題的に論じられる廣末渉の物象化論・役割行動論であることは、本書がもともと『情況』誌に連載されたものであり、著者自身が「あとがき」に明記しているところからしても、明らかである。しかし、そこにいたる諸理論の紹介・整理は要を得ており、バランスを失していない。

 「思想史」とは違って、「理論史」や「学説史」では、ともすれば「なぜその時代に、その論者により、その理論が生まれたか」の説明が省略されがちであるが、モスカ、バーナムを論じるにあたってその時代の社会主義との対抗を挿入したり、アレント理論の背景にユダヤ人としての亡命体験をさりげなく配するような、工夫も入っている。欲をいうならば、フーコーの「系譜学」に学んで、こうした工夫は、もっとあった方がよかったであろう。たとえばダールの多元主義理論が「アメリカの黄金時代」に由来し、アメリカ社会の変容と共に彼の議論も深化・変遷していくこと、プーランツァスの「ラ・ポリティーク」と「ル・ポリティーク」のはざまに潜む、ギリシャ左翼運動の理想と現実のギャップ、等々。

 権力論一般や政治学原理ならば、かつてラスウェルや原田鋼『権力複合態の理論』(有斐閣、1981年)が試みたような、抽象的議論がありえよう。ミクロ権力論に徹するならば、著者自身も「あとがき」で認めているように、ジェンダーや差別論が主題的に扱われていないという不満も出るだろう。評者のような「社会形成理論」「対抗権力論」への関心からは、「新しい社会運動」やメルッチへの言及もほしいところである。現代日本に関心をもつ読者ならば、なぜ廣松渉だけで丸山真男、福田歓一や山之内靖はでてこないのか、宗教やエスニシティと権力論の関係はどうかといった、ないものねだりもあるだろう。

 だが、ミクロから世界システムまで視野においた「現代」権力論としては、洗練された整理であり、「第三ミレニアムの権力論」への出発点としての意味を充分にもっている。原理に関心を持つ学生や大学院生に、ぜひ読んでほしい書物である。(かとう・てつろう)

(『週刊読書人』2000年6月30日号に掲載)



図書館に戻る

ホームページに戻る