本田創造追悼文集編集委員会編『毅然として』(2001年6月刊、非売品、所収)

追悼 本田創造教授(1924.5.5-2001.1.7)

三度目の悲痛

   

加藤 哲郎


 ジェントルマンという英語がある。日本語で「紳士」と訳される。私の知る本田創造先生は、まさに「紳士」であった。物腰も言葉遣いも丁寧で、酒の席でも決して乱れることはなかった。政治学の藤原彰さん・田中浩さん、社会学の故古賀英三郎さん・故佐藤毅さん、歴史学の佐々木潤之介さんら豪傑揃いのかまびすしい席で、いつもにこやかに笑ってつきあいながら、時に鋭く的確なコメントを発されるのが、本田先生であった。無口な故良知力さんと本田さんが「差別」をめぐって話すときには、禅問答のように含蓄ある会話が交わされた。明治期なら「洋学紳士」にされたかも知れないが、しゃれたスカーフやチェックのブレザーがロマンスグレーに良く似合い、かといって英米かぶれでもなく、グローバルスタンダードのジェントルマンであり「紳士」であった。

 私が本田先生のおられた一橋大学社会学部に赴任したのは一九八〇年、それから十数年、後輩として、同僚として、本田先生のお世話になった。おだやかでやさしい先生だった。教授会ではなぜか、真向かいにお座りになることが多かった。決して饒舌ではなかったが、おかしな報告があったり、ここ一番と言うところでは、毅然として発言され、原則をまげなかった。

 しかし本当は、さらに十年ほど遡ったところで、一度はお会いしている。本田先生は、一九七〇年に、W・Z・フォスター、貫名美隆訳『黒人の歴史』(大月書店)の解説をお書きになり、七二年三月、『アメリカ社会と黒人──黒人問題の歴史的省察』(大月書店)を出している。七〇年春に大学を卒業した私は、大月書店編集部に在籍していた。七一年春に大学闘争仲間で親友の松井坦君が同じ編集部に入ってきて、入社後まもなく本田先生の御著書を担当した。本郷の編集部か会議室で、松井君と一緒のおだやかな「紳士」風著者に、ご挨拶した覚えがある。当時私や松井君は、編集者稼業のかたわら、日本資本主義分析の共同研究を進めていた。私は平野義太郎や小林良正の著作を編集しながら日本資本主義とドイツ資本主義との比較を担当し、七二年秋からドイツに留学した。近代資本主義と前近代ウクラードのからみあいを検討する、講座派理論の再検討の場に、松井君は、黒人奴隷制を組み込んだアメリカ資本主義の論点を出してきた。それは、本田先生からの受け売りだったにちがいない。

 その松井坦君が、私より一足先に大月書店を辞めて東大経済学部大学院に入り、八〇年秋、研究職への就職直前に不慮の交通事故死を遂げた。私は友人としてご遺族支援や遺稿集刊行の事務局をつとめたが、すでに同僚となっていた本田先生は、親味になって松井君のご遺族のことを心配してくれた。それからちょうど二十年たって、今度は一橋大学の本田先生担当講義を引き継いだ辻内鏡人君が、辻内君自身がご遺族支援で奔走した先輩松井君のケースとよく似た不幸な突然死に遭った。しばらくお目にかからなかった本田先生とも、葬儀でお会いした。私たちの辻内君轢殺事件真相解明のビラまき活動やご遺族の支援に、病身をおして激励にこられた。後で聞くと、私たちの国立駅前でのビラまきを、本田先生は、師走の寒風の中で見守ってくださったという。

 その時こんな電子メールをいただいたのが、最期になった。本田先生ご自身の訃報が届いたのは、それから一か月もたたなかった。私信ではあったが、敢えてここに発表することを、本田先生は、許してくださるだろう。二度あることが三度になった。悲愴で、痛切な、やるせない想いである。合掌!

 
「加藤哲郎様 辻内君のことではひとかたならぬお世話になり、心から感謝しています。ホームページに書かれたあなたの文を拝見し、僕も二十年前の松井さんのことを、胸の痛む思いで回想しています。
というのは、僕が辻内君と初めて会ったのは、彼が学部の最終学年の晩夏、辻内君が中村雅子さんも一緒に、松井さんに連れられ拙宅に来て、大学院への進学問題や将来の研究方向について、いろいろと意見をもとめられた時だったからです。まさに、松井さんが辻内君との出会いをはからずも、とりもってくれたのです。これも運命というには、あまりにもむごい! 
以後、大学院に進学後は、辻内君がコンパの席などで、よく使った自己紹介の言葉によれば、『本籍は東大だけど、現住所は一橋大(本田ゼミ)』という間柄で、今日に及んでいました。
あらためて有難う。とりあえず一筆。 本田創造」
 


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