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『週刊 読書人』2006年9月8日号掲載書評 

 

アン・アプルボーム著、川上洸訳『グラーグ ソ連集中収容所の歴史』白水社

 

 

評者 加藤哲郎 

 

 

 スターリン粛清、強制収容所といえば、私たちはソルジェニツィン、メドヴェーデフ、コンクェストらの本でとっくに知っており、政治的異論抑圧がソ連を崩壊させ民主化・自由化を導いたと納得しがちだ。旧ソ連秘密資料が大量に現れたその後の研究は、レーニンとスターリンの連続性や国家資本主義・国家社会主義・全体主義といった体制概念が問題にされ、強制収容所=グラーグについては、粛清最盛期の犠牲者数の統計的確定、評者らの追いかけてきた日本人犠牲者の足跡探求、ある時代の日本に影響を与えたディミトロフや野坂参三の陰鬱な実像の解明といった「落ち穂拾い」になりがちだった。

 アメリカ人女性ジャーナリストの手に成る本書は、旧ソ連のグラーグに正面から向き合って体系的に再総括し、二〇〇四年のピューリツアー賞を受賞した。ソルジェニツィン以降に現れた公文書・裁判記録や回想・手記類を整序し、新生ロシアに生き残った犠牲者たちの声を復元して、それを二一世紀の私たちがどう記憶すべきかと問いかけている。

 「大方のロシア人はじっさいに経済と社会の完全な変容への対処に忙殺されている。スターリン時代ははるか昔のこととなり……二一世紀初頭にあっては、二〇世紀半ばの出来事は国民の多くにとって古代史のように見える」――著者の慨嘆は、この夏、日本人粛清犠牲者健物貞一の遺児アランをニジニ・ノヴゴルドに訪れた評者の印象とも重なる。

 本書は、グラーグの歴史を一九三六−三八年の大粛清期に限定せず、ロシア革命(著者はクーデタと呼ぶ)からゴルバチョフ時代までを一続きに扱う。

 事実、NKVDの統計では、大粛清後も収容所囚人は増え続け、ピークは一九五〇年の二五六万人だった。貴重な写真を添えて詳しく描く、逮捕・投獄から移送・選別・労働ノルマ、懲罰・疫病・餓死にいたるラーゲリの実態は、政治囚と刑事犯の混住、衣食住と女性・子供の悲惨を含め、ソ連史を通貫する。

 革命直後のエスエル派やクロンシュタット水兵も、大粛清期の古参ボリシェヴィキ・外国共産党員も、第二次大戦後のドイツ人捕虜・日本人抑留者も、泥棒や殺人犯と一緒に「もう一つのソ連」と化した巨大な収容所・産業複合体システムに組み込まれていた。その本性は「古代史」にふさわしく、人間性を極限まで奪う奴隷労働だった。

 かつて評者は、旧ソ連を強制収容所労働を基底におく「奴隷包摂社会」と規定し、一部の左派に反発された。唯物史観の原始共同体から共産主義への単線発展の想定とは異なり、奴隷制は二〇世紀の世界システムにもビルトインされていた。

 本書の収容所経済の不採算性分析は、中国にも今日の北朝鮮にも応用可能である。ただし政治的には、かつてソルジェニツィンが述べたように、基底に収容所体制があることを知る恐怖が、収容所外の「娑婆」での秘密警察支配、相互監視システム、共産党独裁を可能にしたのである。

 評者がこの夏会ったアランさんは、実父健物貞一が一九三八年に逮捕され、朝鮮人革命家の母はウクライナに追放されて、二歳の時から「孤児院」で育った。これが本書一五章に出てくる「児童コロニー」で、「両親のことは忘れなさい、人民の敵なのだから」と教えられた。しかし、七〇歳を越えた今も日本人の顔で日本語を解さぬアランさんは、父がアメリカ西海岸でアジア人移民労働運動の指導者だったという評者の調査報告を、本気で喜んでくれた。幼時のイデオロギー教化の記憶が、自分史の真実への欲求を触発したのである。

 古代史と現代の共生は、ロシアだけではない。帰国すると、首相が靖国神社を参拝して若者に喝采される日本があった。

 本書に記されたロシアのメモリアル協会のような、二〇世紀の悪夢を記憶し保存し歴史的に評価する運動が、世界的規模での「真相究明委員会」(アントニオ・ネグリ)へとネットワーク化できないものだろうか。

 

 (かとう・てつろう、一橋大学大学院社会学研究科教授、政治学・比較政治・現代史専攻)



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