インタビュー記録(聞き手 海妻径子、根本宮美子)
海妻●私は、八〇年代主婦フェミニズムの盛り上がりをふりかえったときに、男性中心の企業社会が専業主婦というマンパワー、加藤哲郎さんの用語をお借りすれば「全日制市民」の層を厚くすることに大きく寄与した、という背景を看過するわけにはいかないと思っています。もちろん企業社会には負の側面は多々あったわけですけれども、それがいま、くずれてきているときに、皮肉なことに市民運動の担い手の供給システムまでもくずれてきているのではないか、と思うんですね。「かつては、専業主婦が市民講座の受講後に地域の女性運動の中核になってくれていたが、いまは受講すると再就職して、それきりになってしまう」という声を、あちこちの女性センターから聞きます。もちろん主婦フェミニズムの時代にも、働く女性の運動も並行して存在していたわけですが、「ともに女だから、主婦だから」ということで横につながることができていたと思うんです。それがいま、グローバリゼーションの中で、ジェンダー・アイデンティティをはじめ様々なアイデンティティの拡散が指摘されています。この事態の到来自体にはフェミニズムも寄与した側面があるわけですが、しかし共通のアイデンティティがない中で、市民が何を媒介にしてつながればいいのかという課題を、フェミニズムもまた抱えてしまっているのは確かだと思うんです。結果、男女共同参画施策は「女性の男並み化」を促進し、運動のパワーを企業社会に吸い取られてしまっただけだった、という批判がフェミニズムの中からも出てきているわけです。
一方ではフリーターなどの、労働時間上は「全日制市民」になれそうな男性が増えているわけですが、低賃金ゆえにチェイン・ワーク(仕事のかけもち)に走らざるを得ず、市民運動の担い手層が厚くなることに必ずしもつながっていないのではないか、という気もします。加藤哲郎さんは、『現代日本のリズムとストレス エルゴロジーの政治学序説』(花伝社)などで、過労死に至るほどの日本人の「勤勉神話」の歴史的成立過程を検討されているわけですが、その加藤さんがこの問題をどうとらえていらっしゃるのか、お伺いしたいのですが。
加藤●たとえばね、昨年のワールドカップ中、クロアチアは試合のある日を「国民の祝日」にしたわけですが、そういうことから始めることもできると思うんですよ。あるいはかつてフィリピンがやったように、そんなにナショナル・アイデンティティが大切ならば選挙期間を一ヶ月に延ばして、その間経済活動はやめて政治をやりましょうとかね。提唱してもなかなか実現しないでしょうけれど、少しは休日が増えるかもしれない。そこは私は単純でね、男女すべての人間が「全日制市民」になればいいという考え方ですね。
今度、残業の割増率が高くなるでしょ、二五%から五〇%に。その結果おそらく現実には、名目上の残業は減るけれどもサービス残業部分は増える。銀行なんかはそうなるでしょうね。でもあまりにも現実とかけはなれてくると、過労死問題もそうでしたけれども、必ず批判は出てくるし、労働基準監督所なんかも、みせしめであってもどこかを摘発する、ということをやるわけですよ。少なくともそういう部署に関係した人達は、残業しないことを権利として自覚するし、ベルギーという国ではパートでも時間あたり賃金も社会保障の権利も同じらしい、単に労働時間を選んでいるだけをフレキシブル労働というらしい、ということがわかってくるわけですよ。グローバル化というものには、そういう理解を推進する要素もあるわけですよね。だから今回の割増率変更は、実態ではサービス残業は増えるだろうとは思いますけれども、労働条件が現実に変わっていくということも、起きてくると思いますよね。
運動の方向としては、フリーターを正社員に、という方向もあるかもしれない。でもそうではなくて、時間あたり賃金というものは、正社員だとかパートだとか、雇用形態にかかわらず同じであるべきではないか、という、労働基準法か何かを提起していくとかね。フリーターとかニートという人達が生まれる原因だと言われていた、「あまり働きたくない」とか「自分の好きなことをしたい」とか、そういう要素をすくいあげるような対案をね、つくるべきだと思います。
「働きたくない、でも食っていきたい」というのは、最も自然な欲求なんじゃないかな(笑)。「労働によって救われる」なんて、強制収容所と同じですよ。私は「労働には救いはない」と思っている。私は七年間出版社で労働者をやって、自由時間が欲しいから、給料は三分の一になりましたけど研究者になった、という人間なので、それを信じますね。労働というものが無き社会、を想定した時に、それは地球的規模での生産・分配システムになってくるわけで、その社会の軸は「男対女」ではないだろうと。つまりたとえば、男は働かなくちゃ生きて行けなくて、女は専業主婦になりたいと思っている、ということではないだろうと思う。この点は、今日同席しているケンタッキー大の根本宮美子さんが、ジェンダーの社会学を専門としていますから、彼女の意見を聞いた方がいいことでしょうけれど。労働に生き甲斐なんかを求めるのは…なんてことを言ったら、あなたはどこから給料をもらっているんですかとか、何のために生きているのか、ということを問われてしまうから難しくなっちゃうんだけど。
根本●驚くのは、日本では九時五時の仕事をしている女性が、夜中の十一時までとか働いているんですよね。アメリカでは考えられない。
加藤●学校の先生なんかは昔からそうだ、と言われてきたんだけれども、子どもたちを愛するがゆえに夜中にね、一生懸命試験問題をつくる。これは賃金にはもともと入らないものだけれども、しかし九時五時の労働時間と切り離されているわけではないんですよ。それはネグリも言っているけど、そもそも物質的労働と非物質的労働の区別がつかなくなってきているんですね。自由時間にやっているんだけれども自由ではないという。大学教員なんかも、本を読むのは何のために読むのか…。
海妻●非物質的労働に対するネグリの説明をどうお考えですか?非物質的労働になることによって、労働強化になる側面はないのかな、と思うんですが。
加藤●当然ありますよ。ネグリはうまいロジックを使っているんだけれども、しかし、非物質的労働が支配的なものになる、とか、物質的労働をおしのける、とかいうことは実はないだろうと思いますね。生産とか労働の定義にかかわることになりますけれども、自然の一部にはたらきかけて商品化する、という部分は変わらない。しかし非物質的労働という発想によって、オルタナティブを考える刺激を与えることができるというのが、ネグリの議論のポイントだと思うんですね。ネグリが使っている生権力という概念にしても、フーコーにしろ、デリダにしろ、既にいろいろなところで使われているものを使ってみたに過ぎない。しかしマルクスの資本論なんていうのも、実はそういうものなわけですよ。あんな引用だらけの本(笑)。ただしそれは、ひとまず全体を理解した上で、じゃあ自分はどこにいるんだろうという見とおしをつけてくれるものですよね。グローバルなものをグローバルな論理で、一貫して説明しようとしているものなわけです。
根本●アメリカでは、大学教員もパートタイムにしろという要求が、むしろ子どもをもつ女性などから出ている。パートタイム化して、テニュア(終身雇用資格)をやめた方が平等化されるという考えですよね。
海妻●私が大学生の頃から「裏総合職」という言葉があったくらいですから、一般職から総合職への転換制度のような制度化されている部分も含めて、一般事務職の九時五時の女性が経営者的にものを考えて、長時間労働をしてサービス残業もいとわない、というのは以前から日本社会に歴史的にビルトインされてきたといえるのではないかと思うんですね。そういう、労働者が自ら進んでサービス残業をやってしまうことを、どう位置付けていけばいいのか。
加藤●一人あたりの労働時間を短くして、最低限の労働を皆で分担するのが一番いい。つまり全ての人が失業しないで、賃金は下がるかもしれないけれども、労働時間が短くなるというオランダ・ベルギー方式が、シミュレーション上は一番万々歳の解決方法なわけですね。ところが日本では、賃金が下がるということに対する抵抗が、ものすごく大きい。組合などでそういう戦略をとれなかったのは、この抵抗感がネックになったんですね。単純に日給あるいは週給システムにして、ボーナスはなし。大学の教師であれば収入は授業のある九ヶ月分だけ、もっと収入がほしい人は、サマースクールを担当しろ。こういうふうにするのは合理的選択なんです、明らかに。そうならないのは、そうではないシステムのもとで、ある種の「右肩上がり」の経験をし得たからなんですね。だから「従来のシステムのままでも、工夫をすればまだ何とかなるだろう」という話が根強くて。そういう意味ではピュアなマーケットがあいかわらずできていない、という話になる。
「勤勉神話」もそうですが、国民性とか何とかいうのは信じない方がいいと思っています。社会心理学と人類学によってつくられたステレオタイプを一回ね、全面的に問い直してみる。実際にデータに則して、本当にそうなのと読み直してみると、違うように見えたりというのはいくらでもあるわけで。たとえば、アメリカ的と呼ばれているものは、ほとんど戦争準備のためにつくられたものではないかと私は思っています。せいぜい六〇年から八〇年くらいの歴史しかない、ニューディール以降のものという感じがしますね。
日本的なものも、同じような目で見直す必要がある。ソ連が崩壊したときにも、七〇年もかけてつくってきた社会主義というシステムが壊れて、がくっときている人がいるわけですよね。他方で「まだ七〇年、せいぜい一世代の歴史しかない。あれは実験だよ」というので済ませる人もいる。その七〇年間に生まれたシステムについても、それを制度化したものとみなすのか、それとも制度化形勢途上だったものとみなすのか。ある時代にものすごく確立したものとみなされていたものが、実は本当に確立していたのは数年だったというのがよくあるわけですよね。よく言われる日本的経営というのも、終身雇用と年功賃金と企業内組合という三つが一体になったというのは、たぶん十年間もない。それぞれ別々のルートでできて「幸福な結婚」をしたわけだけれども、いまつぶれているのはどこかというと、年功賃金というのは成果賃金がかなり入ってきちゃって明らかに崩れてきているところはあるし、安定期に対するある種の思い入れみたいなものは、イデオロギー的には必ずしもないという感じなんですよね。でも、企業内組合は生きているわけですよ。終身雇用も崩れてきているけれども、終身雇用「志向」となるとね。終身雇用というものは、まだ正社員のレベルでは崩れてないんだよね。
加藤●現在進行している労働力構造の変化は、「正社員をスリム化して、その下に専門職層というものをある程度おいて、その下にフレキシブルな労働者として、派遣とかパートの膨大な層をおく」という日経連の報告がおこなわれて、構造改革の波にのってひろがっていった、という国内的な政策転換として説明されがちですけれども、資本の側から見ればグローバリゼーションというものは、一国的な労働力構造を、もっと世界的な規模の生産の活動の中に位置付けるものだということを、視野に入れる必要がある。
グローバリゼーションというのは国境を超えた労働市場をつくりだす、少なくとも移民労働者は増えていくうねりをつくりだしたわけですね。したがって日本でも実態としては、最底辺には既にマニュアルワーカー層として外国人労働者が入ってきているわけです。つまり学生アルバイトとか、フリーターが増えているというだけの現象ではなくて、かつてはプロレタリアートと評されたような、現業の3K労働と呼ばれるところに外国人労働者が定着した上で、それ以前の、一九七四、五年のオイルショック後くらいから急速に増えていった女性の就労が、主要には彼ら外国人労働者の上の層に、フレキシブル労働として既に入っていたところへ、男性の、スリム化された正社員層にも専門職層に入れない層が下降してきている、という構成変化なわけです。
しかも現業部門の製造ラインというのは、海外へ、しかも韓国、ベトナム、中国から、最近はミャンマー、モンゴルにまで移ってきている。そこでは日本だけではなくて、力をつけてきた韓国資本、あるいは中国の沿岸部の企業も同じ事をやっていて競合になっている。中国の奥地よりアジアの安いところへ労働力を求めるという方向へ向かっているんですね。他方インドも自立的な産業構造づくりから、東南アジアの方へと押し寄せているような状況がある。このような変化はアジアだけではなくて、世界的な生産構造の転換として起こっている。多国籍企業のグローバルな生産システムは、単に安い労働力を求めるだけではなくて、販売市場の流通コストも含めて形成されてきているんですね。日本で起こっている労働力構造の変化は、このような全体的な動きの、日本的なあらわれなのであって、したがって日本的経営とか、終身雇用とか年功序列とかいわれたシステムが、単にドメスティックなマーケットの中で変わって来ただけではなくて、世界的な労働力移動の中に組みこまれたと考えるべきなんだと思うんですね。
そうなると、たとえばアジアの国でも、シンガポールのようなはじめから女性の労働力率が非常に高いところもあるわけですが、そういうところとの競争に日本の労働市場が投げ込まれたということですよね。あるいは中央アジアに、世界のいろいろなところの資本が入りはじめているんですけれども、そこはかつてはソ連という建前があったために、女性の就業率が高いわけですね。したがって男も女も失業という状況下で、新たに外資が入ったときに、どちらが就職にありつくか、という競争が起こってきている。しかも就業構造としては男女の労働力率が同程度という建前があるところに、ヨーロッパ型の性別役割観が入ってきて、女性はなかなか就労できない、おまけに家事は女性に任せるというようになっちゃって。そういうフラストレーションが、世界中で起こっているわけね。
このような世界的な変化の中で、日本の労働力構造がどうなるのかということは、国民国家とか、ドメスティックなマーケットがいつまで存続するのか、ということと関わってきますよね。あるいはいま起こっているのが不可逆的な変化なのか、構造改革とやらをやっているから起こっていることなのか。あるいはかつての日本社会が、雇用機会均等法はあってもなぜか女性にだけ総合職があるというね、そういう国であるから起こっているのか。いずれにせよ私は、世界的な労働市場の競争の中では男性も女性もなくなってくるんじゃないかと思いますけどね。
根本●職種におけるジェンダー・セグリゲーションは、日本よりアメリカの方が大きいですよね。「女性はソーシャルワーカー」とか「秘書」とか、ある程度確立されてしまっていて、男性が女性職に入ろうとした場合に、ものすごく入りづらい。あるいは入った後に、「あなたは男性だから、,優秀で野心的なはず。だから職場ではマネージメントに配置しますよ」というかたちで、男性性を期待される。野心的でないと逆に「なんだ、あの人意欲がないんじゃない」みたいに評価が悪くなったりしますけど。私の指導教官はそれを「グラス・エスカレーター」(注:女性の昇進差別をあらわす「グラス・シーリング〔ガラスの天井〕」からの連想)と呼んでいるんですが、男性が女性優位のところに入ると、ものすごく待遇がいい。
逆に女性が、マネージャー職とかの男性優位の職種に入ろうとすると、難しい。ウォール・ストリートなんかで問題になっているのは、クライアントを接待する時に、ストリップバーなんかに入ることがあるわけですよ。女性はそういう場に除外されてしまう。そのことで企業を訴える女性もいるけれども、男性の中でやっていきたいのなら、そういう接待も男女関係なく引き受けていくべきだ、という主張もありますよね。
ただ、ケアとか、相手の為にやること、フェミニニティと関連している職種は、アメリカでは高い価値を置かれない。マスキュリニティ自体が価値化される社会、というか。
加藤●しかもアメリカでは、ハイスクール後に専門化する教育システムによって、そういう性別職種分離がある程度できあがってくる構造になっているでしょう?日本では、大学でも専門教育をしない建前になっているしね。文科系に女性が多いけれども、少なくともそれによって将来的な職種が限定されることはあまりないと。就職後も、少なくとも日本的経営の時代には、企業はジェネラリストを育てるということになっていた。実は日本社会では、職種的な男女差を生み出す構造的な拘束力というのが、意外に強くない。だからこそ逆に、非制度的なマンタリテ(男らしさ)がはたらいている可能性がある、といえるかもしれない。
海妻●介護職などに男性が入っても、男性個人は「グラス・エスカレーター」の恩恵にあずかれても、職種全体はボトムアップされるわけではない、ということは、アメリカだけではなく日本もそうですよね。
しかも最近、男性にも必ずしも「グラス・エスカレーター」が用意されなくなってきているのではないか。というのは、介護労働の世界では、もちろん男性の方が管理職になっていくというのは依然としてあるんですが、近年は就職難を背景に、人手の足りない、介護のいわゆる「現場」に男性が増えていて、夜勤がありながら低賃金・日給制の、非ブレインワーカー、単純労働者として働いている。かつて、女性職への男性の参入を促進することで、職種全体のボトムアップを期待する議論があったわけですが、むしろ女性職に入った男性がフェミナイズされ、男性としてのスティグマを負う状況になっているのではないかと思うんです。
非物質的労働の増加が、マネージャー的職階あるいは職種の、アシスタント的なそれに対する優位を増幅しているとすれば、単純労働者に対するフェミナイゼーションも苛烈化することになる。マネージャー的な位置を獲得した一握りの男性にしか、うまみを持てない状況がつくりだされていくということになりますよね。そうなると、いったんは家族賃金制度という、マスキュリニティを最大公約数的に満足させる装置を獲得した男性労働者が、新市場主義的改革による、ブレイン・ワーカーと単純労働者との間の格差拡大を支持するのか、不思議といえば不思議です。この点、『国際論争・日本型経営はポスト・フォーディズムか?』(窓社)に収録されている論争で、「あれだけ長時間労働を強いられているのに労働者が反乱を起こさない日本的経営」にフォード主義を超える可能性を見い出す議論に対し、QCサークル等を活用したウルトラ・フォード主義支配だという異なる見方を提示なさった加藤さんに、「労働者による新自由主義的改革の、反乱なき受け入れ」についてどういう見方が可能なのか、ご意見を伺いたいんですけれども。
加藤●女性の管理職の下で働いている男性労働者が、なぜ反乱をおこさないのか、という問題ではなくて、男も女もなぜ人々は反乱をおこさないのだろうか、というのが本質的な問題だと思いますね。労働組合の組織率が低くなっているのは、男も女もです。
日本では、金持ちとかマネージャーなどが一極的に男へと集中しているようなところがあるんですが、国境を越えた視点で見れば、宗教の問題とか、階級運動の伝統とかいう要素は大きい。さきほど話に出た、職種間の格差についても、根本さんは男性性/女性性に着目して話していましたが、その問題にはジェンダーだけではなくて、エスニシティとか、受けてきた教育とか、移民から入ってきて何年目なのかとか、グリーンカードを持っているかとか、そういうのが全部からんでいますよね。アメリカでは看護師に、ある時期からフィリピン人が入ってきていますが、日本ではそういうエスニシティの要素などが見えない構造になっている。だからこそ海妻さんが言われた男性介護者の状況も起こっているのでしょうが、それでも「法的規制をしながらもフィリピン人を入れざるを得ない」というふうになりつつあると思います。少子高齢化で構造的に日本人では手に負えなくなってきて、以前から主婦も嫌だって言ってきたし、夜勤なんかのある看護師には成り手もいなくなってきている。その中で、ジェンダーの規定力を、これからどれくらい保てるかというと、疑問だと思いますね。
構造改革と呼ばれるリ・レギュラシオン(再・調整様式)が進んでいった場合には、世界市場にあわせなくてはいけなくなってくる側面が出てくるわけで、たとえば「女性でもある程度がんばれば昇進できる」という外資の世界がありますよね。いま、ものすごく優秀な学生には人気があって、そういう人にはかなわない、という学生が邦銀とかにいくわけです。外資に行った学生たちは、昇進の部分でははじめから不自由無しと思っているし、昔のように肩肘はらないで、余裕があれば結婚して、と思っているわけね。もちろん圧倒的部分はそういうふうにはなっていないですが、その部分と、外から入ってくる労働力とが競争になっている部分が相当大きいわけですね。だから男性/女性という切り口というのを、ある局面までいったらもう一回全体構造の話にくっつけてみて、果たしてそのことが社会科学においてどういう意味をもつのかを考えてみた方がいいと私は思うんですね。純粋に男性性/女性性の違いが貫徹しているレベルだけでものごとを見るのではなく、他のさまざまな差異の関係性と、どうリンクしあっているのかなと見ていったほうがおもしろい、というか、構造というものが見えてくるのではないかという気がします。そういう発想自体が、ひとつの男性性だ、という可能性はありますけれども。
加藤●マスキュリニティ・スタディーズが出てきたのも、あまりに女性差別にばかり注意をはらってきて、システムがみえなくなってきた、という側面があると思うんですよ。「男性だって抑圧されている」ということが、まだ伝わっていないから、フェミニズムがあまり有効な成果を提示できない。日本でもそういう感じなんですかね?
海妻●むしろ逆だと思います。これは、男性性研究に携わる私の自省もこめて言うのですが、マスキュリニティの抑圧された側面を指摘するというのが、日本ではむしろはやっていると思います。けれどそれがともすると、「男性もかわいそうなんだ」的な指摘に終わってしまい、エスニシティなど他の要素と結び付いた議論にまで発展していかない。
その点、アメリカやイギリスのマスキュリニティーズ・スタディーズでは、たとえばハイパー・マスキュリニティと呼ばれる、男性性と結びついたバイオレンスの強調が、人種問題とどうかかわるか、というのが主要テーマのひとつになっていたりしていますよね。黒人における人種と男性性に関する研究については、日本では北大で学振特別研究員をなさっている兼子歩さんが精力的に紹介していますが、彼も紹介している●などは非常におもしろいと思います。黒人の男性も文明化されている証左として、非暴力的で中産階級的に洗練した男性性が、黒人解放運動の中で強調される。すると、それを白人化だと批判する動きも出てくる。労働に関連がある分析でいうと、Stephen NorwoodのStrikebreaking & Intimidatio : Mercenaries and Masculinity in Twentieth-Century Americaは、スト破りを通じてアメリカの男性性がどう構築されていったかを論じたものですが、そこにおいてもスト破りには黒人が動員されていたなど、エスニシティは重要な要素として指摘されていますよね。
日本でも在日外国人の男性は、男性でありながらマイノリティでもあるわけですが、たとえば在日コリアンなどの民族運動と、男性性はどう関係しているのか。民族運動における男性中心主義の存在自体は、鄭チョヨンヘさんが「」の中で指摘していますけれど、それ以上の具体的な、ジェンダーのポリティクスとエスニシティのポリティクスがどうクロスしていたのかという実証研究というのは、なかなかおこなわれない。同論文での鄭さんの指摘にあるように、「男性中心主義を指摘することは、民族運動の足を引っ張ることになるのではないか」という懸念が、運動の内外を問わず強いからだと思うんですが。
加藤●ようやく崩壊してきかたら言えるけど、左翼運動ではハウスキーパー問題とかね。あるいは六八年の運動の中での女性というのは、おにぎりをつくる役目だとか。われわれは石を投げるんだけれども、その石を持ってきてくれるのはだいたい女性だったわけですよ。ウーマンリブというのはその後に出てきた女性運動だったわけですが、それを明確に自己批判している党派というのはないわけですよ。
海妻●さきほどお話に挙がったフィリピン人看護師のようなドメスティック・ワーカー、あるいはデトロイトなんかの衰退した製造業で生きてきた人達にもいえることだと思うんですけれども、周縁化された、しかしそれでも生きていかなければいけない人達が、どうやって自分達の再生産を維持できるのか。そのときに家族主義、つまりジェンダー化された家族によるアンペイドワークとして再生産をおこなわせることが、生存の最後のとりでになる可能性があると思うんです。私はそれが、ネオリベラリズムと新保守主義とを結び付ける、一番大きな要因になっているのではないかと思うんですが、今後もその結託は強まると見ることができるのでしょうか?
加藤●現実に東京なんかで広がっているのは、男性も女性も一人家族、というものですよね。単身家族、単身世帯ですから、まさに家族の崩壊の領域ですよね。高度経済成長期の核家族化の段階で、事実上壊してきたものがいまや定着しちゃっている。かたや、ジャパン・アズ・ナンバーワンの余裕ある時代に、雇用機会均等法とか共同参画とかいってきたのを、否定はできないままできているわけですから。そうなると、たとえ家族に依拠したいと考えたとしても、本当に家族の再建なんてあり得る?のというレベルですよね。世界的に見ればまだ家族主義を残していた国ではどんどん移民を送り出して、その仕送りで母国の家族の生活をまかなってというのがありますが、こういううるわしい家族主義というものは日本でほとんど期待できないわけですよ。イデオロギー的な再建は、ナショナリズムと同じで可能かもしれないけれども。
そもそも日系移民なんかは、ドミニカなんかが典型ですけれども、母国の家族からはほとんど見捨てられたようなかたちが、出稼ぎの典型だったわけです。しかし大部分の日本人は、いままでは家族主義に行きたいけれども家族が崩壊しているような状況とか、家族が世界的に移動しなければいけない状況とか、さいわい経験しないで済んできていたのかもしれない。けれども、ひょっとしたら経験しないといけないかもしれない。
それを決める最も基本的な要素は、現在のような世界市場がつくられているときに、日本資本主義というものがどういうふうな位置づけになってきているのかだと思っているんですね。実態的にみれは、バブルの頃にくらべての、日本資本主義の世界市場における相対的なかげりというのがでてきているわけですよ。GDPでいえばまだ「アメリカに次いで…」というレベルでやっていますけれども、他方でEU経済というものがアメリカに対抗するレベルとして出てきている。自動車だとか、家電だとか、日本が絶対と言われる特定の領域というものは非常に狭くなってきていますよね。かつてリーディングカンパニーを中心にして、世界的な産業構造の中で日本が優位を保っていた部分の、特に生産部門は、アジアNICSから中国へ、そしてBRICsと呼んでいますけれどもブラジル、ロシア、中国、インドというところへと、移ってきています。そういう中では、日本の存在意義というのはどこにあるの、ということになる。政策的にみれば、私は「ジャパメリカ」と呼んでいますが、日米がひとつの運命共同体になっていく、という方向はありますね。けれども、それはあくまでも、日本がアメリカの五十四番目の州になる、という位置付けですよね。そうなるといずれにせよ状況は厳しい。
そうなるとイデオロギー的には憲法改正とか教育基本法改正とか愛国心とか言っていますけれども、内にこもったシステムが、日本のマーケットがオープンになり、外からの圧力もいろんなかたちで入ってくる中で、何を保てるのか。「風船がふくらんだのがちょっとしぼんでいく」というレベルでは済まない。グローバル構造に投げ込まれた日本にとっては、後戻りできない冒険の世界に入ったというべきで、五〇年、百年というスパンでみたときに、この国はどういうかたちで生き残っていくのか…そういうときに、男も女もあるのか、というね、そういう問題になりそうな気がするし、スタルジックな家族主義とかナショナリズムとか男性主義というのは出てくるかもしれないけれども、事実上機能するのは難しいんじゃないでしょうか。
もちろん、擬似家族をつくるとか、中国から嫁さんをもらうとか、そういういわば「家族ごっこ」というのは生まれるかもしれませんし、政府も、家族を再建できるという確信にもとづく政策をしなければいけない状況にいまありますから、出産費用くらいは無料になるかもしれませんよ。だけどそれでも本当に、かつて臨時行政調査会の行革のときに、日本型福祉社会を支えうると考えられたような「核としての家族」なんていうのは、本当にできるの、という疑問はありますね。
日本型福祉社会が主張されたときには、ちょうど国際婦人年などと同じ時期になるものだから、「福祉社会を女だけに任せて良いのか」という意見も、当時出たりしたわけですね。お金の方は余裕がある中曽根内閣の時期ですから、単に「日本には古来、お嫁さんが夫のお父さんお母さんの面倒を見るという伝統がある」ということが強調されただけでもなかった。けれどもバブルが崩壊した後は、介護も医療も、一度つくりあげてしまった後に、制度を無くすわけにはいかないけれども、スリム化して公的負担の比率を低くし、財政支出を少なくせざるを得ない。するとどういう問題になるかというと、「そういう、妻が夫の親の世話をしなければならない、目がまわるような家族はいらない」という「結婚しない症候群」になりますよね。女性の方でそれが強くなれば、男性でも「結婚できない症候群」。事実、少子化が起こっている。子どもへの教育費についても、同様に公的負担は減っていますから、そうなると「子供ふたりもったときにいったいいくらお金がかかるのか…」というような計算もはたらくでしょう。
海妻●しかし、現在起こっている家族というものからの逃走は、家族主義から個人が自立する動きというよりも、新市場主義的な競争激化の中で、自らが抱えるコストをできるだけ減らして生き残ろうという試みといえるのではないかと思うんです。それは、アンペイドで再生産コストを引き受けさせようとする家族主義に対しての、抵抗といえば抵抗といえるんでしょうけれども、果たしてそれが望ましい方向性なのか、という疑問は私にはあるんですね。
加えてこのような、コストベネフィット的な次元でシングルが析出し、さらには彼らが、出稼ぎ単純労働者となって生きていくために世界中を転々としていく中では、市民的空間というものが造りづらい状況になっているのではないのか。ネグリはその点は、IT技術の発展によるネットワーキングで乗り越えられる、みたいな楽観的な書きぶりですけど。フェミニズムも、男女差別を現象面だけ問題にしてきたのではないわけで、女性的価値といいますか、男性企業社会の中で否定されてくる価値というものを見直すということもずっと言ってきたつもりではあるわけですね。その価値の中には、市民的な公共空間の創造につながる要素も、含まれていたと思っているんですが。
こんなかたちで析出している都市の若年のシングル層が、それでも何らかの政治的表明へと向かうときに、どのような政策を支持する方向にいくのか。もちろん一概には言えないと思いますが、私が気になっているのは、個人の権利の制限を、マイノリティ自身がむしろ支持する傾向がみられるのではないか、という点なんですね。民主党小沢体制後の初の国政選として注目をあびた、〇六年の千葉補選でも、三〇代女性の自民党支持、改憲支持が特に多かった、という朝日新聞の出口調査の結果があったと記憶しています。
根本●私は日本で未婚女性に対してインタビュー調査をしているんですが、これまでの結果だと二人くらいを除いて、後はほとんど「フェミニズムには興味ないです」「男性だとか女性だとかいう区別はあっていいと思います」と言うんですよね。自分が結婚しない理由も、フェミニズムというものとはまったく関係はない、と。
加藤●フェミニズムとか均等法というものは、総合職とか、少なくとも公然と男女差別をしない、という制度をつくってきたのかもしれないけれど、実際に男と競い合う環境に入ってきた人たち自身は、自分たちがここにいられるのはそういう制度のおかげだ、というふうには考えていないでしょう。この環境に入っていくことを自己選択できたのであって、それは自分自身の力だ、というふうに考えている。アファーマティブ・アクション(求人においてマイノリティを優先して採用する、などの「積極的是正措置」)についても、それによって上昇できた女性達は多いでしょうけれど、彼女達自身は「アファーマティブ・アクションのお蔭で就職できた」といわれるのは、迷惑だろうと思うんだよね。
海妻●そういう層によるフェミニズムへの敬遠もあると思うんですが、現在増加している非正規雇用者の若年女性層にとっても、フェミニズムが女性の権利を主張したことによる恩恵は、必ずしも実感できないのではないかと思うんですね。現実には自分が得ることの出来る収入は、夫による扶養を前提としたものでしかないし、そのような雇用環境から抜け出すことは非常に困難なわけです。しかもそれにもかかわらず、家族賃金男性は減少していて、そこだけはフェミニズムの主張が通っているかのように見える。
加藤●しかし、いわゆる「電算型の家族賃金」といいますか、男性のモデル家庭になったような賃金が本当に機能したことがあるのか、という疑問をもった方がいいですよ。実際には専業主婦だって、団塊の世代のある時期の、歴史的な事象だということになっているわけですよね。
海妻●もちろん家族賃金というのは、あくまでもイデオロギーだと思います。しかし右肩上がりの経済成長下であれば、たとえそれが実態としては成立していなくても、「いつか自分も家族賃金を得られる」という希望を持つことができる。その結果体制が支持されれば、イデオロギーとしては十分機能しているわけですよね。右肩上がりと家族賃金が実態としてはもはや望むべくもないとしても、そこに希望を見い出そうとすれば、ネオリベラリズム的な経済優先政策を支持し、「フェミニズムの行き過ぎ」を批判する、という方向になっていくというのもうなずける気がするのですが…
加藤●イデオロギーとしては、家族賃金というよりも、右肩上がりという方が、要因的には大きいんじゃないかと思いますね。より正確に言えば、マーケットメカニズムがイデオロギーとして機能しているということですよね、ネオリベラリズムというよりも。それによって社会的上昇性というものを残す、というのは、ネオリベラリズムが出てくる前からアメリカ社会はそうでしたし。社会的に上昇できる人は実際にはほんのひとにぎりだけれども、しかし「自分も何とかいけるんじゃないか」という希望はあるわけですよね。
ただし現在は、右肩上がりという価値意識とかイデオロギーのレベルと、不可逆的に起こっている実態経済のレベルのギャップがどうなのか。この十年間、ネオリベラリズムが広まればコストや価格が安くなるとか、仕事が増えるとか聞かされてきて、そして多少良くなってきているとはいわれていますけれども、本当に構造的に良くなっているのか、局面的に良くなっているだけなのか。あるいは中国がまだあの程度の経済力だからなのか…などさまざま考えると必ずしもまだ安定した回復とは言えないし、良くなったと言っても、十年前と比べると明らかに地域格差がみられますし、個人間でも、ライブドアの堀江貴文だの村上ファンドの村上世彰だのはいったいどこの誰なの?というくらいの格差が広がっている。つまり右肩上がりの復活そのものが、格差拡大したかたちであらわれているわけですよね。となるとそれが供給する希望というか幻想というものもね、かつての「社会全体が底上げしていくから、自分達もそこからチャンスをつかめるだろう」という時代のものとは、当然異なってくるだろうと思いますよね。
海妻さんがおっしゃりたいのは、競争に対してあきらめるかたちとか下りるかたち、ネグリでいえばエクソダス、競争に対して自律するというかたちでの抵抗は明らかに見えているわけですけれども、そういう抵抗がネオリベ幻想にもっていかれてしまっているのではないか、ということだと思いますが、ネオリベ幻想はそれほど強い拘束力をもっているんでしょうか?いまネオリベラリズムが支持されているとはいっても、それは「いまよりちょっとは上の生活ができるみたいだから、良いんじゃないかな」という程度の支持であってね、他の幻想にのりかえようという人達にとって、のりかえる先はオウム真理教でも何でも、ということになるのではないかと思います。
加藤●ネオリベ幻想というのは、アメリカ社会における「アメリカン・ドリーム」などというイデオロギーにくらべると、ずっとスケールの小さな希望だと思いますよね。
根本●アメリカの人は、アメリカン・ドリームを否定されると怒りますからね。
加藤●それは実際に、二〇年稼いでビジネス・ハイスクールにいって、ようやくマネージャーになる、というルートがあるわけですからね。アメリカは社会的な上昇ルートの存在を、まだいくらでも拡大再生産させてみせるということができるし、アメリカ国内に永住しなくても「この地で成功すれば、帰国後はエリート」ということが供給できる。移民については、ヒスパニックの締め出し問題とかいろいろ紛糾している部分はありますけれども、少なくとも優秀な人は受け入れますよ、というのが、世界のトップを維持するためのシステムとして完全に組みこまれている。
その点日本で、ネオリベ幻想みたいな小さな夢を与えるだけでイデオロギー的にやっていけるのは、経済力がまだ堕ちるところまで堕ちていないからですよね。日本は、流動化したとはいっても年齢別労働市場というのがやはり存在しているし、大学に行けば同じ年頃の人しかいない、留学生が増えたといっても、世界的に見れば大学としてみればかなりナショナリスティックにやっている。けれども経済構造的にみれば、いずれもっと苦しくなるはずです。一世代後くらいは大丈夫かもしれないけど、二世代三世代後はもうむずかしいんじゃないの、と私は思っている。そのときに大変だろうとは思いますけどね。
ハーバードのビジネススクールなんて、ジャパン・アズ・ナンバーワンの時代にはね、日本からの企業派遣だったらまちがいなくほぼ受け入れたんですよ。それは非常に単純な理由で、日本の産業構造と同じ物をビジネススクールの中につくって、銀行から何名、審議委員たちから何名、と受け入れれば、日本の産業のしくみはわかる、と。いまほとんど日本人は実は行けなくなっていて、そのかわりに圧倒的に中国とインドが入っていて、実態的にああいうところに行くメリットは人的コネクションをつくることですけれども、それがもう日本企業はできなくなってきている。本当に例外的にトヨタ、ソニーはできるかもしれないけれども、銀行はもう行けなくなってきている。一橋大や慶應大が何をしているかというと、アメリカに行けなくなった人たちに対して「日本にもビジネススクールがありますよ」とか言って、日本語を使って教育してやっているわけですね(笑)。
ジャパン・アズ・ナンバーワンと言われたことがあるとかいう記憶はまだ残っているし、いまの若い世代もそのもとで生まれてきた人達ですから、まだ堕ちたくはないというのはあるでしょう。しかし今後、リーマン・ブラザーズに行くようなごく一握りの人達を除いて、日本社会でドメスティックに果たしてどのくらい上昇可能性が残されているのかというと、アニメとかカラオケの世界、映画作りなどのような、ごく一部の領域にはあるでしょうけれど、それ以外の所で、たとえば中国やインドが本格的に参入してきたときに果たしてどれだけ維持できるのか。
海妻●ネオリベ幻想では間に合わなくなったときに、ナショナリズムが浮上する、ということはないのでしょうか。加藤さんは、日本企業社会における「菊(天皇制)タブー」についての言及もおありなわけですが、考えてみると日本の右肩上がりの記憶と天皇制というものとは、抜きがたく結び付いていると思うんです。アメリカン・ドリームというものも、建国の理念と結び付いているからこそ、否定されると怒る、という反応が人々から出ると思うんですが、右肩上がりと天皇制という組み合わせも、「明治以来、第二次世界大戦で一時的に挫折したけれども、でも一応はずっと天皇制と一緒に右肩上がりできたじゃないか」という、近代国家としての日本の建国の記憶と結びついている。
加藤●「菊タブー」まで意識しているかどうかは別にして、ワールドカップでも何でもいい、まだトップクラスなんだということを、代償行為で確認して、ある種のアイデンティティを維持しようとする、ということはあるだろうと思いますね。
ただ、天皇がどれだけの凝集力があるのかというと、それはまたちょっと別の問題だと思っています。というのも、戦前から高度経済成長というものは昭和天皇でうまくいけたし、いまの天皇なら、わりと無限抱擁型ですので、うまくいくかもしれないけれども。次のヒロ(現皇太子)になったらどうなるか、と思っているんですね。天皇制は制度として存在していますけれども、にもかかわらず本当にそのときどきのナショナル・アイデンティティを確保できるかというのには、実は相当大きな問題があって、天皇個人の人格というものが影響するんですね。昭和天皇と平成天皇との違いを見ておくと、そのことが分かります。NHKで五年ごとにやっている国民意識調査がありますが、その一九九〇‐九五年データが、それまでのデータとがらりと変わっているんですよ。昭和天皇のときは、拒否率と支持率が拮抗するかたちで、それでも支持率が多くなっていた。それが平成天皇になって、拒否率ががたっと減った。「尊敬する」というのが減って「好ましい」という感覚になったんですね。それがまさに、平成天皇という人が受けてきたとされている戦後民主主義教育とか、美知子妃とのエピソードとかでつくられてきたイメージで抱擁できるナショナリズム、というものなんですね。天皇制は確かに個人ではなくて制度なんだけれども、その制度それ自体が、個人のパーソナリティとか、何よりもそのときどきに人々が求めるアイデンティティにフィットしているかどうか、というものに則したものだということだと思います。
プチナショナリズムが、そのまま天皇制というものに収斂していくのかというと、あの天皇は「いや、私だけ尊敬してくれなくてもいいですよ。ワールドカップもがんばっていただきたいし、富士山も愛していただきたいし、韓国や中国の人も仲良くしていただきたいし」という余裕のあるスタイルですよね。逆にいえば、いまのナショナリズムはそれだけ余裕のあるスタイルで抱擁できる、だからこそプチナショナリズムだということなんだと思いますね。それが、日本が構造的に底辺化していく中で、ナショナル・アイデンティティの問題も、入ってきた外国人を追い出すかどうかという局面までいっちゃったときには、あの天皇じゃあ物足りないから…ということにもなりかねない。これは戦前にも、二・二六事件以降ある動きですけれども、たとえば秩父宮をかわりにもってこようとしたり、というようなことですよね。宮中クーデターのように見えながら、実は社会構造の深いところと関係しているような問題が、おこりかねないと思います。
海妻●そうなると、最近の男系・女系議論というのも、底辺化にともなうナショナリズムの変容、という文脈で見たほうがいいのでしょうか。
加藤●その点はジェンダーの問題というよりもむしろ、女系か女帝なのかというややこしい問題も含めて、基本的には自分達の天皇は自分達で決められるのかというレベルの問題に還元できるような程度にまで、日本の戦後六〇年というものと昭和天皇という人格が、寄与しているということのあらわれでしょう。憲法上は、国事行為はすべて総理大臣が面倒を見て、内閣が関与するようなシステムになっちゃったわけですよ。それを、皇室典範改正というかたちで、そのときどきの政府に影響を受けないようなシステムに何とかしよう、という動きがあるわけだけれども、その皇室典範を変えるかどうかということ自体が、自民党案というかたちで決められる、というようなことになってしまっている。
そんな中で、「女性天皇でもいいじゃないか」というのが、実は世論調査では圧倒的に多いわけですね。そこには、ジェンダー論やフェミニズム運動の成果も部分的に入っているのでしょうし、小泉首相までそう言っちゃっている。だから、男性か女性か、男系か女系かという話をずらしていくような論点を提起していくためにね、別に勧めるわけじゃないけれども、天皇選挙制というものをこの際左翼がパロディ風に打ち出していくとかの方がね、問題の性格を見えやすくしていくのではないかと思います。そこからスタートしてね、人々に「将来的には共和制というものもありえるんだよ」ということをどういうふうにわかってもらえるか、ということを考えていくのが、運動の現実的な道なんじゃないかな。
天皇制を無くするということを原理的に提起するという運動は、それはそれで重要なインパクトを持っていたわけですけれども、思想的選択にはなり得ても政治的選択になりうるのか。現実の政策選択の問題として考えた時には、そこに焦点をしぼるというかたちの運動が、果たしてどれだけのひろがりをもつのかな、というのが私の考えですね。
海妻●右肩上がりを保障する、ということで言えば、軍事の問題もありますよね。いまのグローバル経済というものは、明らかにミリタリズムと連動しています。そのような状況下では、アメリカが中国を重視するような動きに対抗して、加藤さんのおっしゃる「ジャパメリカ」で今後もやっていこうとする場合、アメリカが求める軍事化に一層応じていく、という方向になりますよね。
加藤●支配的な流れとしては、そうなっていますね。
海妻●これまでの軍事化というのが天皇制の下で行われてきましたから、いまの「ジャパメリカ」ミリタリズムも「君が代日の丸」の強制とか天皇制の強調をともなって進行していますが、ご指摘のように天皇のパーソナリティが必ずしもそのようなハードなナショナリズムを抱擁できない場合、天皇抜きでミリタリズムだけが強調されていく可能性はないのでしょうか。
加藤●「ジャパメリカ」ミリタリズムというか、日米同盟が、保守主義と必ずしも手を結べない状況はいまでもありますよね。以前NHKで、沖縄をはじめとする基地問題の討論番組をやっていたとき、当時の額賀防衛庁長官と、拓殖大の森本敏が「戦後日本は、アメリカと協力してやってきたんだ」などと、基地の必要性を必死になって主張していたんですよね。それに対して左側にいる護憲派と、一番右にいた小林よしのりがね、日米安保条約は必要ない、基地も縮小して軍事費も少なくするべきだ、というところまでは意見が一致していたんですよね。そこから後は違うけれども、日米同盟に関する争点については、全く小林と左翼が一緒になっている。
ただ、日米同盟批判というときの左派の選択肢にも、様々あります。原理的な平和主義、というのももちろんありますが、いわゆる知識人の立場からの発言だと法政大の鈴木佑司さんなんかの、国連中心主義重視路線が多いですよね。つまり「日本の外交は昔から日米同盟と国連中心主義の二本柱でやってきた。それを一方だけにのっかってしまったことによって、アジアとの関係、ヨーロッパとの関係が悪くなってきているのではないか。だからアメリカとの関係は相対化して、国連中心主義というのをもう一回取り戻そう」という主張です。自衛隊について具体的に言えば、米軍の指揮下で完全に動いていくようなシステムを考えるのではなく、むしろいままでのPKO政策の延長線上のところでの国際貢献を考えるべきだという主張になる。
これは、相当現実的な政治の選択肢として存在していますよね。靖国問題などに対するチェック機能を実際に果たす現実的な政治的勢力になるのは、たぶんこの選択肢になるでしょう。だけどそれだと自民党対民主党という選択肢にしかならなくて、おもしろくないわけですから、当然第三局は、少なくともイデオロギー的思想的にはあったほうがいいわけです。私も思想的に語るときには、原理主義の方で語ります。けれど政治選択を考える場面では、「国連中心主義に戻そう」と主張するような人達にもわかってもらえる論理で語りますね。
海妻●いままでの国連中心主義というのは、まさに国民国家単位での国連中心主義というものだったわけですよね。近年、国民国家単位という基盤がゆらいでくる中で、EUのようにリージョナリズム的な方向で国民国家を相対化する、という動きがあるわけですが、非キリスト教国家であるトルコの加入問題などをめぐっては、単なる拡大された国民国家ではないか、という批判が出ました。国連中心主義なりリージョナリズムは、ミリタリズムを抑止できるのでしょうか。
加藤●これまでの国民国家時代というのは、あくまでも国民国家がある種の特権性を主張し得た時代ということであって、グローバリズムが出てきたら国民国家がなくなるという関係ではないし、EUというリージョナルなものが出てきたから国民国家の主権がなくなるというものではないわけです。一番下のレベルは各地域や各国家に細かく分かれていて、さらにリージョナルなレベル、グローバルなレベルと、それぞれのレベルが重なり合っていく、という構造そのものは変わりようがないでしょう。
ただ国民国家時代と変化しているのは、そのどこに人々がアイデンティティをもつのかという問題なのだと思うんですね。ワールドカップがTV放映される夜には、対戦相手との関係でナショナルなレベルにアイデンティティをもつ人々も、しかし明日はコスモポリタンになるのかもしれない。そういうふうな、地球市民にとっての選択の幅が広がる、ということがグローバリズムということだと思っています。資本の支配というマイナスのことばかりではなくて、市民ネットワークの横のつながりの可能性が広がる、ということが、技術的にばかりではなくて現実的にも存在していますよ。ですから私は、アメリカ一極主義には非常に反対しますけれども、グローバリゼーションそのものが悪いとかいう価値観はないですね。重要なのはその下でおこってくる労働や資本、価値観とか宗教的な配置の再編であると考えています。
海妻●これまで男性性やミリタリズムは、国民国家時代の枠組みで研究されることがほとんどだったわけですが、グローバリゼーションの中でそれらの価値観やアイデンティティがどのように再編されていくのかを、検討していく必要がありそうですね。Dubravka Zarkov and Cynthia CockburnのThe Postwar Moment: Militaries, Masculinities and International Peacekeepingは、オランダでPKO活動への参加が男性性およびミリタリズムにどのような影響を与えたかを分析していますが、そのような研究が今後日本でも盛んになることが望まれる気がします。本日は長い時間、ありがとうございました。