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遠州尋美『グローバル時代をどう生きるか』(法律文化社)

 

                                                              加藤哲郎

 


 いわゆるグローバリゼーションを論じる書物は、数多い。A・ギデンス『暴走する世界』(ダイヤモンド社、2001年)、D・ヘルド『グローバル化とは何か』(法律文化社、2002年)、同『グローバル化と反グローバル化』(日本経済評論社、2003年)、金子勝『反グロ−バリズム』(岩波書店 1999年)、伊豫谷登士翁『グロ−バリゼ−ションとは何か』(平凡社新書、2002年)といった定番から、G・リッツァ『マクドナルド化する社会』(早稲田大学出版会、1999年)、G・ソロス『グローバル資本主義の危機』(日本経済新聞社、1999年)、同『グローバル・オープン・ソサイアティ』(ダイヤモンド社、2003年)にいたるまで、書店の書棚の一角に定着した。

 面白いことに、インターネット書店アマゾン等で検索すると、日本ではK・ウォルフレン『アメリカを幸福にし世界を不幸にする不条理な仕組み』(ダイヤモンド社、2000年)や、J・スティグリッツ『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』(徳間書店、2002年)、同『人間が幸福になる経済とは何か』(徳間書店。2003年)といった、「幸・不幸」など感性に訴えるタイトルが売れている。わが身に引きつけて、損得勘定をしたうえで、スタンスを決める構えであろうか。

 グローバリズムは、2001年9・11以降、経済的秩序としてのみならず、戦争と平和に関わる政治的選択としても、切実になってきた。欧米のベストセラーであるアントニオ・ネグリ=マイケル・ハート『帝国』(以文社、2003年)やノーム・チョムスキー『グローバリズムは世界を破壊する』(明石書店、2003年)も翻訳されて、藤原帰一『デモクラシーの帝国』(岩波新書、2002年)、渡辺治・後藤道夫編『「新しい戦争」と日本』(大月書店、2003年)など、グローバリズムを「帝国」や「帝国主義」と関わらせて論じる書物も出ている。

 評者自身、文献ガイドからネグリ=ハート『帝国』の批判的検討まで、IT革命や非戦平和運動に関わらせて幾度か論じ、インターネット上でも発表してきた(「現代資本主義を読み解くブックガイド」『エコノミスト』2002年11月26日号、「9.11以後の情報戦とインターネット・デモクラシー」公共哲学ネットワーク編『地球的平和の公共哲学』東京大学出版会、2003年5月、「反ダボス会議のグローバリズム」『エコノミスト』2003年5月13日号、「情報戦時代の世界平和運動」『世界』2003年6月臨時増刊号、「マルチチュードは国境を越えるか?」『情況』2003年6月号、「情報戦時代の『帝国』アメリカ包囲網──インドで世界社会フォーラムを考える」『葦牙』29号、2003年7月「グローバリゼーションは福祉国家の終焉か」『一橋論叢』130巻4号、2003年10月、「グローバル情報戦時代の戦争と平和」日本平和学会編『世界政府の展望』早稲田大学出版局、2003年11月など、http://www.ff.iij4u.or.jp/~katote/Home.shtml)。

 つい最近も、2004年1月インドの第4回世界社会フォーラム(WSF、ムンバイ)に向けて、ウィリアム・F・フィッシャー=トーマス・ポニア編『もうひとつの世界は可能だ――世界社会フォーラムとグローバル化への民衆のオルタナティブ』の日本語版を監修し、出版したばかりである(日本経済評論社、2003年12月)。

 グローバル化を日本で論じようとすると、とりわけ、高度成長どころか冷戦終焉・ソ連崩壊さえ幼児体験でしかない若者たちに語りかける場合に、いくつかの困難につきあたる。

 ひとつは、海外体験も外国人労働者・留学生との接触も少ないこの国の学生たちが、生活感覚のうえでは、衣料品は中国、マグロはオーストラリア、音楽はアメリカ、テレビドラマは韓国という具合に、グローバル化を当然のものとしている。そこに「マクドナルド化が世界中で進んでいる」と言っても、例えばインドや中東で若者が受けるそのインパクトを、体感することはできない。また、なお世界第二の経済大国ながら「失われた十年」が続き、学生たちの就職活動も深刻で、グローバル化が自分の生活や「幸・不幸」とどうつながるかまで語りかけないと、なかなか問題を掘り下げようとしない。

 本書、遠州尋美『グローバル時代をどう生きるか――自律コミュニティが未来をひらく』は、「大学2年生に半年間で講義する『地域政策』の教科書として使用すること」を第一に企図して、「可能な限り平易に、高校生にも理解できるように」執筆されたものである(「あとがき」)。なるほど語り口は平易で、ビジュアルな図表が随所に使われている。

 全体は、プロローグ・エピローグと13章、ちょうど週1回半年で講義できる構成だ。

 プロローグの「グローバル時代」では、家電製品や衣服の例で身のまわりの生活とグローバル化の関わりを示唆し、トヨタの海外生産拠点地図で日本企業のグローバル化を考えさせる。「でも足下の地域が元気が出ないのはなぜだろう」と問いかけ、現代は「産業革命」「大量生産経済」に続く「グローバル経済」という近代経済システムの第3段階に入ったという見通しを述べる。快調な出足である。

 第1章「グローバル化の出発点――アメリカ大企業の選択」は、産業革命から200年の先進国・途上国格差、アメリカ・フォード主義と多国籍企業の問題である。T型フォードの生産システムの説明をチャップリン「モダン・タイムス」に譲るのは、時間の節約か。ここでテーラーシステム・効率性から消費ノルム・性倫理まで話しておくと、日本的経営の説明やNHKスペシャル「変革の世紀」のフォード社「逆ピラミッド」経営のビデオを用いた討論などで、後で役に立つのだが。

 第2章「グルーバル化の進展――プラザ合意と日本企業の多国籍化」は、日本企業の海外進出の根拠を、円高とアジアの低賃金労働に求める。あわせて東京一極集中=世界都市化と途上国政府・総合商社の役割、コンビニ・ファストフードの広がりに目配りし、プッシュとプルの両面からグローバル化を描く。「帝国」「帝国主義」や「新自由主義」「ソ連崩壊」は出てこない。

 第3章「グローバル化の恩恵」は、ユニクロやパソコン生産を事例に、中国やアジアの低賃金労働を用いた価格破壊のしくみを説き、先進国の工場のない「ファブレス企業」や途上国で下請生産を受託する「ファンドリー企業」、両者を結び創業利益を狙う「ベンチャー企業」などの企業類型が、全体としてアジアの経済成長を牽引し、途上国の貧困緩和をもたらしたという。もっとも「こうしてみると、グローバル化はよいことづくめのように思えてくる、はたして、そう考えてもよいのだろうか」と、各章末「まとめ」では、しっかり問題提起も忘れない。

 第4章「グローバル化と平成大不況」は、バブル経済を境に「ジャパン・アズ・ナンバーワン」から「失われた十年」へと転落した日本経済を素材に、通常「空洞化」とくくられる海外生産の進行によるデフレ不況・雇用縮小を扱う。「構造改革」「リストラ」があまり出てこないのは、政府与党の土俵を避けての迂回作戦か。

 第5章「技術立国・日本の危機」は、ベンチャー企業の「ブレークスルー」に対して、日本企業の得意にしてきた新技術の応用・製品化=「フォロースルー」能力が海外生産依存により失われ、技術開発力が弱まっていることを、アイワ等の事例で示す。

 第6章「地域の空洞化:社会的生産基盤の崩壊」は、トヨタのカンバン・システムや東京大田区・東大阪の機械金属産業などの集積メリットが、生産工程の海外流出で競争力が弱化ないし崩壊し、商店街を含む地域ぐるみの空洞化を産み出しているという。

 第7章「グローバル化と途上国」は、開発独裁や輸入代替工業化によるアジア諸国の成長が、輸出志向を強める過程で技術移転にうまく結びつかず、環境破壊をも深刻化しているという。ここで日本のODAの問題点を説明してくれれば、評者の政治学の講義にも使えるのだが、著者は、地域分業・経済循環に焦点を絞っている。

 第8章「金融グローバル化とアジア危機」では、97年アジア金融危機をドキュメント風にとりあげ、そこで「ヘッジフォンド」や「金融デリバティブ」という、初学者にはわかりにくい金融問題を具体的に論じ、「カジノ経済」に問題をまとめあげる。

 第9章「グローバル化と国家の危機」は、政治学の立場から期待して読んだが、WTO・GATTと保護主義・円安誘導政策の関係から「新国際分業論の落とし穴」へと向かって、福祉国家や企業社会の問題は素通りし、「規制緩和」問題にまとめている。「無意味になった企業の国籍」は確かに重要だが、もっと「国民国家」に執着し、サービス労働の変容やこども・女性・老人・外国人に内在してほしかった。

 第10章「戦後地域開発の歩みと社会的生産基盤」は、全総から自民党都市政策大綱・新全総、3全総の定住圏構想、多極共存型4全総構想下の東京一極集中といった政府の地域開発政策とその帰結を段階的に追いながら、「世界都市症候群」と社会的生産基盤の重要性を説き、「地域づくり」へと誘導する。

 第11章「社会的生産基盤の再構築」が、その具体化で、阪神淡路大震災の教訓等から「人の住まないまちに未来はない」「必要なのは成長神話からの脱却」「まちづくりの伝統がまちを救った真野地区の教訓」「対決型から自ら築く運動に」「特産品づくりから一村一品へ」「一人一芸の岩手県大野村」「文化と景観づくりで輝く長野県小布施町」「東京都墨田区の3M運動」等々を、生き生きと描き出す。この章こそ、著者の本領で、ユニクロから説き起こしたグルーバル化の話を、「ローカルな地域コミュニティの豊かさ」に導こうとする講義であることが分かる。

 第12章「格差と貧困克服をめざす地球規模のパートナーシップ」では、地域コミュニティに着地した地点から、改めてグルーバル世界を見渡し、地球的規模での格差拡大に注意を促し、グローバル生産は、人権尊重を基礎に「フェアトレード」でなければならないという。

 第13章「経済システムの歴史的大転換」は、以上のプロセスを「産業革命」「フォード主義」に続く、ロバート・ライシュのいう「グローバル・ウェブ蓄積様式」と概念化し、日本の役割を「アジアを高品質サプライヤー」に導く牽引者に設定する。

 従って、講義の最後のエピローグは、「グローバル社会と地域の自立」となる。

 なるほど「地域政策」のテキストとしては、グローバルな視野とローカルな内発的発展論を組み合わせ、具体例で学生たちをひきつける。「フィールド重視、国際性、地域社会、問題解決」をキーワードに「関心を呼び起こす」という執筆意図は成功している。だが、9・11以後の政治学と学生の関心からすると、こうした筋立てに、疑問がないではない。

 「ローカルな地域おこし」には、政治的な分権が欠かせない。日本の場合は「3割自治」以来の論点で、地方財政の裏付けなしで「コミュニティの豊かさ」は不安定である。それを補う「地域通貨」や「コミュニティ福祉」も、ぜひ若者たちに伝えたい。

 地域の困難や学生の親たちが直面しているのは、「構造改革」という名の出口なき経済政策の帰結である。政府の自衛隊イラク派遣強行には、総選挙で投票しなかった4割の多数を占める若者たちにも責任の一端がある、と問いかける必要もあるのではないか。

 近代資本主義の歴史的3階梯を、ライシュの「グローバル・ウェブ」で締めるのは魅力的だが、技術史の「産業革命」とレギュラシオン理論の「フォード主義」をライシュの「ニューエコノミー」に接ぎ木し延長するのでは、経済理論としては一貫しない。「帝国主義論」や「国家独占資本主義論」を教える必要はないが、ウォーラーステインにせよ、ネグリ=ハートにせよ、グローバルな資本主義を一貫した視角でとらえる見方の一つぐらいは、紹介すべきではなかったか。

 スミスやハイエクまで遡る必要はないにしても、「市場と国家の関係」や「新自由主義」を知らずに「カジノ経済」「規制緩和」「ファブリス企業」「フォロースルー」を学んだ場合、「リストラ」中高年の苦しみも、スリム化した日本企業の「過労死・過労自殺」にも関心を持たぬまま、「プロジェクトX」風の「高品質サプライヤー」への憧憬だけが残るのではないか。

 アジア経済危機にせよ、9.11以後のアフガン・イラク戦争にせよ、相互依存が進み、経済と政治が一体化した、グローバリゼーションのもとでの「グローバル・ガバナンス」「グローバル市民社会」が重要である。アメリカ単独主義に対する国連の動きや、京都議定書・国際刑事裁判所の役割も知ってほしいし、憲法作成中のEUの実験や、いまや国際競争力でも上位を独占する北欧福祉国家の実験も学んでほしい。

 「ファアトレード」をいうなら、ODAの役割やトービン税にもふれたいし、「世界都市化」が、実際には女性の人身売買さえ伴う労働力移動、移民・難民問題を伴い進行していることに、もっと注目してほしかった。

 総じて本書では、産業革命以来のモノとカネのグローバリゼーションは具体的かつ明快に説かれているが、現代グローバル化の重要な特質であるヒトの国際移動、そのもたらす地域変容まで踏み込んでいないため、「地域おこし」の担い手のイメージが、相変わらず日本人・日本語だけのコミュニティになりがちである。「地球規模のパートナーシップ」は、別に国境を越えた彼岸にあるのではなく、豊田市や浜松市・太田市のように、日本の地域社会の内部でも必要になっていることを、若者たちに問いかけるべきではないか。

 私の政治学の講義では、やはり「グローバル化」のイントロには、池田香代子=ダグラス・ラミス『世界がもし100人の村だったら』(マガジンハウス、2002年)を使う方がよさそうだ。新自由主義的グローバル化は、ローカルにも、ナショナルにも、リージョナルにも進んでいる。それに対する「もうひとつの世界」も、ローカルを基礎としつつ、ナショナル・リージョナルからグローバルまで、モノ・カネ・ヒト・情報の流れを横断して、構想されるべきだろう。

 確かに大学再編の時代に、講義の改革も必要になっている。ハーバード大学の日本史講義テキストAndrew Gordon, A Modern History of Japan: From Tokugawa Times to the Present (Oxford UP, 2003)は、学生・読者用ウェブサイト(http://www.oxfordjapan.org/)と併用されて、基礎資料やレポート課題はウェブ上にある。本誌537号(2003年8月)で野村一夫『インフォアーツ論』(洋泉社新書、2003年)を書評し、実際に「情報政治学」講義のテキストとして使ってみた経験から言うと、大学の講義テキストにも、ビデオやインターネットなど学生自身のなじんだ媒体を組み込み、コラムや討論欄を設ける工夫があってもよかったのではなかろうか。

(遠州尋美『グローバル時代をどう生きるか』法律文化社、2003年4月)

(かとう・てつろう 一橋大学大学院社会学研究科教授・政治学)  

 

(『大原社会問題研究所雑誌』545号、2004年4月号掲載) 



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