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『週刊 エコノミスト』リレー書評「歴史書の棚」(2005年下半期)

 以前からいくつか書評を寄せていた『週刊 エコノミスト』誌が、2001年6月の大判化を機に、「歴史書の棚」というリレー書評欄を設けた。日本史・現代史・東洋史・西洋史の順番で、それぞれ月に2冊の歴史書紹介をするということで、私はその「現代史」を担当することになった。引き受けるさいの条件に、販売終了後に本HP書評欄に収録することをお願いし、編集部の了解を得た。                        加藤哲郎 (一橋大学大学院社会学研究科教授)

 


満州国という魔物をくぐって

女たちが見た魑魅魍魎の世界

 

佐野眞一『阿片王 満州の夜と霧』(新潮社)

由井格・由井りょう子編『革命に生きる 数奇なる女性・水野津太――時代の証言』(五月書房)

 

            

 日露戦後百年、アジア太平洋戦後60年の今年は、ノンフィクションでもすぐれた現代史発掘が相次いだ。

 読ませる史実、執念の探求記録として佐野眞一『阿片王 満州の夜と霧』(新潮社、1800円)。主人公は旧満州国通信社(国通)主幹から日中戦争下の「阿片王」としてA級戦犯になった里見甫。評者はゾルゲ事件を追って上海滞在中に読み、「魔都」時代の里見機関の暗躍と中国経済最前線での国際情報戦が重なった。面白かった。

 佐野の視角は「満州をセピア色の世界として描かない。上海をノスタルジーの色で塗り固めない」とあり、満州国を「戦後高度経済成長の秘密」を孕んだ壮大な実験と見る。歴史の鳥瞰図や懐古調武勇伝ではなく、あくまで等身大の人間たちの織りなす悲喜劇として語る。偶然手にした一枚の奨学募金名簿に始まる謎解きを、舞台裏までさらけだし描ききった凄み。里見の前では児玉譽士夫も笹川良一も岸信介も小物に見える。もっとも東京裁判里見釈放の記録はワシントンにあるはずだ。

 脇役たちが抜群に面白い。副主人公の里見の片腕、男装の麗人梅村淳の周辺からあぶり出される魑魅魍魎。幕間しか出てこない甘粕正彦、マキノ雅弘、吉田秀雄、白州次郎、吉野信次らが、それぞれ存在感を持って迫ってくる。

 ゾルゲと尾崎秀実の上海を追ってきた評者には、里見の阿片商売の相方、地下世界を仕切る幇と中国共産党の攻防が気になる。当時の上海共産党は毛沢東から独立した力を持ち、魯迅・郭末若ら文人を日本租界にかくまい、ゾルゲらを陰で支えた。佐野の集めた記録に、終戦間際に野坂参三が蒋介石の線で上海に秘かに現れ満鉄上海事務所の関係資料保存を依頼した、とある。

 ありうることである。由井格・由井りょう子編『革命に生きる 数奇なる女性・水野津太――時代の証言』(五月書房、5500円)を読むと、もう一つの魑魅魍魎が現れる。こちらは満鉄大連図書館出身で戦後日本共産党資料室を仕切った女性の遺稿集。与謝野晶子、水野廣徳をバックに、野坂ら共産党指導者の実像を孤高の女の眼で暴く。左翼版梅村淳と言わずとも、その人間洞察力はただごとではない。

(『エコノミスト』2005年12月6日号掲載)


20世紀のどこかで、労働の意味が変わった

            

ロナルド・ドーア著・石塚雅彦訳『働くということ グローバル化と労働の新しい意味』(中公新書)

稲葉振一郎『「資本」論 取引する身体/ 取引される身体』(ちくま新書)

 

 20世紀のどこかで、働くことの意味が変わったようだ。団塊世代の大量退職で熟練継承は危うい。正社員はどんどんスリム化し労働組合は存在感喪失。過労死・過労自殺の国にフリーター・ニートの群れ。豊かさの土台を作ったはずの日本型労働の収支決算は?

 こんな問題に、ロナルド・ドーア著・石塚雅彦訳『働くということ グローバル化と労働の新しい意味』(中公新書、700円)。著者は半世紀以上も日本の工場・職場を英米と比較観察したエキスパート、それもILO(国際労働機構)がノーベル平和賞を得た基金で行われた講演から作った本で、わかりやすい上に暖かみがある。

 いきなり「あなたの不安が私の平和を脅かす」と出てくる。貧困・労働苦が深い意味で紛争・戦争の種になるという1919年ILO設立時の言葉で、ケインズ主義的福祉国家の土壌になり、途上国への開発援助を可能にした。しかし新自由主義とグローバル化のもとで、平等には悪という接頭辞がつき、自由は競争と小さな政府に置き換えられた。余暇と自由時間は後退し、先進国の労働時間は延長へと反転。労働世界は二極化し、柔軟性の名で配転・解雇も資本の裁量に委ねられた。

 ドーア教授の描く公正規範の変容、市場個人主義による社会的連帯の浸食、アメリカの文化的覇権に、教授の説く資本主義の多様性で本当に対抗できるか。現に日本型も危ない。若い世代は、より原理的な回答を求める。

 稲葉振一郎『「資本」論 取引する身体/ 取引される身体』(ちくま新書、860円)は、ドーア教授の労働の現代史を近代の原点から問い直し、労働契約を自然状態・社会契約に戻して原理的に組み直す。ホッブズ、ロックからルソー、スミスの間にヒュームのコンヴェンション=慣習を配して私的所有と国家を解毒し、マルクスから「所有の解体」ではなく「所有の再建」の筋道を敢えて読みとる。「労働力=人的資本」と開き直って、セーフティネットと公共圏の再構築に向かう。

 かつてマル経を学び、高度成長を担って労働市場から退出する世代は、「労働は喜び」と総括するのか、「やはり搾取だった」と実感したのか?

 

(『エコノミスト』2005年11月8日号掲載)


現代史の連鎖視点と、非戦という平和思想の原点

 

山室信一『日露戦争の世紀 連鎖視点から見る日本と世界』(岩波新書)

梅森直之編著『帝国を撃て 平民社百年シンポジウム』(論創社)

           

 第二次世界大戦からは戦後60年だが、日露戦争からは百年になる。60年の回顧と百年の総括は自ずと異なる。アジア太平洋戦争と言い換えても敗戦・米国占領の刻印が強烈な60年とは違って、日露戦勝百年ではアジアの中の日本を考えざるをえない。

 夏休みソウルの学術会議で、韓国の国際法学者は1904年中立宣言時に韓国政府はベルギーの中立政策を深く検討していたという。山室信一『日露戦争の世紀 連鎖視点から見る日本と世界』(岩波新書、780円)に、その頃日本の伊藤博文らはイギリスとエジプトの保護国関係を研究したとある。

 山室の「連鎖視点」は、日露開戦前に一冊の半分を割き、韓国併合、満洲侵略・日中戦争へとつなぐ時間連鎖と、欧米列強がそれぞれの思惑でアジアに進出し、日英同盟で国際社会にデビューした日本が強国ロシアと朝鮮半島を焦点に衝突する「20世紀最初の世界戦争」として位置づける空間連鎖の双方を意味する。当時の黄禍論から社会主義にいたる「知の連鎖」をもメディア戦・広報戦として詳述し、新書だが濃密な問題提起が満載。「臥薪嘗胆」から日比谷焼打事件の戦勝ナショナリズム、限定戦争のはずが「つぎつぎとなりゆくいきほい」風に軍国化する日本を、多彩な史実を整理しつつ結節環を掴み、熱く描く。イラクの自衛隊駐留も「世論」におされて「主権線」から「利益線」「生命線」へと拡大・暴走するのではと背筋が寒くなる。

 山室の描く情報戦では、日本の勝利がアジアの民族解放運動をいったん鼓舞し、やがて失望に変える。寮歌のメロディが軍歌にもメーデー歌にもなり、戦勝祈願の千人針はヒロシマの千羽鶴に変身して平和につながる。梅森直之編著『帝国を撃て 平民社百年シンポジウム』(論創社、2500円)は、日露戦争時の幸徳秋水ら『平民新聞』の非戦論にオーストラリア、ドイツ、フランス、韓国の研究者が新しい光をあて、日本社会主義の前史として扱われがちな平民社に、ルソー、トルストイ、亜洲和親会を介して普遍性・平民性・連帯原理を再発見する。グローバルな百年連鎖の中で、日本の平和思想はリサイクル可能な原点に回帰した。

 

(『エコノミスト』2005年10月18日号掲載)


ふれあい、つきあい、はりあいのネットワークと平和運動

 

    天野和子『「つきあい」の戦後史 サークル・ネットワークの拓く地平』(吉川弘文館)        

道場親信『占領と平和 <戦後>という経験』(青土社)

 

 戦後60年という節目の出版界は、現代史の新刊本が目白押し。中にはキワ物もあるが、新資料・史実の発見や新領域開拓の意欲作も多い。

 そんな中から天野和子『「つきあい」の戦後史 サークル・ネットワークの拓く地平』(吉川弘文館、2800円)。社会学でいう小集団を「選べる縁」「つきあい」の観点からコミュニティとコミュニケーションの交点に据え、とりわけくらしの中の女性たちのつながりに、ゆるやかな自立と抵抗を見出す。

 最初に出てくるのが進駐軍相手の「パンパン」たちの互酬、「ふれあい」の仲間規範がサークルの原型とされる。鎌倉アカデミア、サークル村、エミールの会等学びの縁、生活をつづる会、人生手帖、草の実会といったいきがいを求める縁等が、サークル揺籃期、開花期、多元化期と十年ごと75年頃まで子細に記録される。目的のあいまいな「脱力型サークル」を末尾に置いて、後半30年の展開を示唆する。

 映画スターのファンクラブや沖縄・奄美の同郷縁を追えば、さらに陰影が出ただろう。二重、三重のくびきから脱する戦後女性の自立の日常史を、イマドキの若い女性にぜひ読ませたい。

 「つきあい」「ふれあい」とくれば、「はりあい」や「やりがい」ある運動の戦後も学びたい。天野本に出てくる原水禁「杉の子会」や60年安保「声なき声の会」にもふれて、戦後日本の平和運動をシャープに斬る道場親信『占領と平和 <戦後>という経験』(青土社、4200円)。著者は67年、ベトナム反戦期の生まれ。「戦後」を突き放し「冷戦を再審」する視角が鋭い。七百頁余の前半は占領期米国日本観の代表『菊と刀』批判。象徴天皇制も文化的ナショナリズムも包み込む米日合作「東アジア冷戦体制」を見出し、それと対決する視野と深度で後半の平和運動の思想的深みがはかられる。

 アジアを忘れた「日米戦争」観、原爆「被害体験」への依拠や「巻き込まれ拒否意識」の問題はもちろんだが、「社会主義の核は平和のため」の論理が一度は世界に先駆けた日本の平和運動をいかに傷つけたかがわかる。「護憲」に充足しがちな戦争体験世代、戦後民主主義世代こそ傾聴すべき本。

 

(『エコノミスト』2005年9月13日号掲載)


二人の女性研究者の本を、戦後60年の夏に味わう 

 

川崎賢子『宝塚というユートピア』(岩波新書)

武田清子『湯浅八郎と二十世紀』(教文館)

 

 華やかな宝塚歌劇を歴史と社会の俎板にのせ、戦後生まれの川崎賢子『宝塚というユートピア』(岩波新書、740円)を鋭く多彩に調理する。

 創設者阪急グループの小林一三にとっては「女の財布」を狙い沿線開発に結びつけた企業戦略だが、今風にはメセナの先駆で社会貢献になる。大正期田園都市構想の延長にあるが、モダニズムとノスタルジアが共存して屈折、歌あり踊りありのレビュー風は創立十年後の「モン・パリ」からで、満州事変頃までは男性客が中心だった。

 男役がいることで女性客を惹き付けると共に軍部に睨まれた。「良家の子女」を標的に「清く正しく美しく」を謳ったが、そのユートピアは和洋折衷の望郷・癒し系だった。オペラかレビューかは使い分けの世界、ナチスに呼ばれた時は歌舞伎とも称した。戦時慰問とアジールは背中合わせ、市場と消費者に敏感であることが時の権力との矛盾をも意味した。その両義性を万華鏡風に読み解く著者の力量に感服。

 「観ずに死ねない」と帯にある。評者も実は欧米ではオペラやミュージカルを必ず観るのに宝塚は未見。「百聞は一見に如かず」はここでも真理か。

 思想史家武田清子は、恩師で日本人離れした男性の生涯を、『湯浅八郎と二十世紀』(教文館、1800円)で暖かく描く。日中戦争期の同志社総長、戦時中は米国に滞在して戦後同志社に復帰、国際基督教大学(ICU)初代学長だった。

 群馬安中教会教徒と熊本バンド徳富家の間に生まれ、東京銀座教会の娘を娶った敬虔なクリスチャンだが、その前半生は波乱に富む。16歳で洗礼を受け18歳で渡米、それも留学ではなく少年移民のあてなき生活。農場で働きながら昆虫学を究めイリノイ大学で博士号、折から農学部を設けた京大に招かれ帰国。

 滝川事件後同志社総長になったが勅語誤読事件等で大学を追われた際の言葉「彼らは私を理解してくれなかった。しかし私は彼らを理解する者でありたい」が心を打つ。

 この精神が戦時米国での日本人救援、戦後ICUの人間教育へと貫く。再び強まる戦前風言説の中で「寛容」の清涼剤。

(『エコノミスト』2005年8月9日号掲載)


時代を振り返るにちょうどいい、戦後60年という長さ

 

森武麿『戦間期の日本農村社会 農民運動と産業組合』(日本経済評論社)

功刀俊洋『戦後型地方政治の成立 労農提携型知事選挙の展開』(敬文堂)

 

 かつて1930年代はじめに、岩波書店の『日本資本主義発達史講座』が一世を風靡した。野呂栄太郎、山田盛太郎、平野義太郎といった著者たちが具体的に分析したのは、ほぼ60年前の明治維新の意義であった。開国、版籍奉還、廃藩置県、地租改正といった変革の意味を、封建制から資本制、身分から階級へという視角で、その後の富国強兵・殖産興業が日清・日露戦争を経て満州侵略に到った60年の経路の中に、集団的・学際的に探った。当時の最先端の「現代史」だった。

 だからその後の講座派対労農派の日本資本主義論争の焦点も、60年前の明治維新が資本主義発展に道を拓くブルジョア革命であったか否かで争われ、それが当代日本の将来の見通しに繋がり、広く読まれ戦後に継承された。

 そんな目で見ると、戦後60年を画する『講座』風大企画はなくても、敗戦・占領改革の意味を再考する実証的研究は、着実に蓄積されている。

 森武麿『戦間期の日本農村社会 農民運動と産業組合』(日本経済評論社、6200円)は、いわゆる講座派理論を継承しながら、1920・30年代の変化を掘り起こして、戦後農地改革、農村社会変容への胎動を見出す。

 岐阜・群馬など地域レベルを調査し、小作争議から農民組合への下からの運動がムラ型地主・小作関係を突き崩し、それが30年代農村更正運動と産業組合という上からの組織化と結びつき、戦時農業会から戦後の農協=自民党合作の農村保守支配となる経路を辿る。45年は断絶・連続を共に孕むある種の「受動的革命」(グラムシ)となる。

 だが農協=自民党支配も、敗戦・占領ですぐに生まれたわけではない。功刀俊洋『戦後型地方政治の成立 労農提携型知事選挙の展開』(敬文堂、2800円)は、福島県を中心に、農地改革で産業組合・農業会から再編された農協が、戦後最大の地方改革である都道府県知事公選制で果たした役割に注目する。55年頃までの地方政治は保守分裂下で国政に直結せず、農協は社会党・野党連合知事の産婆役にもなった。変革期は流動的で、出自が官製団体であっても民衆利益の表出経路でありえた。だから現代史は面白い。

(『エコノミスト』2005年7月12日号掲載)


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