以前からいくつか書評を寄せていた『週刊 エコノミスト』誌が、2001年6月の大判化を機に、「歴史書の棚」というリレー書評欄を設けた。日本史・現代史・東洋史・西洋史の順番で、それぞれ月に2冊の歴史書紹介をするということで、私はその「現代史」を担当することになった。引き受けるさいの条件に、販売終了後に本HP書評欄に収録することをお願いし、編集部の了解を得た。 加藤哲郎 (一橋大学大学院社会学研究科教授)
「呼び屋」という商売がある。今風にはイベント屋かプロモーター。タレントや芸術・スポーツ団を日本に呼んで、成功すれば一攫千金、客入りが悪いと莫大な借金の興行師。虚業ゆえに、どうしてもマスコミや実業家のスポンサーが必要になる。
そんな世界の戦後の草分け、「赤い呼び屋」といわれた男の波瀾万丈を辿った大島幹雄『虚業成れり――「呼び屋」神彰の生涯』(岩波書店、2800円)。呼んだ公演がすごい。「芸術交流師」としてドン・コサック合唱団、ボリショイバレー、レニングラード・フイル、ロストロポーヴィッチを旧ソ連から。ウィーン合唱団、イベット・ジロー、ピカソ展、北京曲技団と絢爛。若くしてはったりをかまし、作家有吉佐和子との結婚・離婚が事業の盛衰に重なる。個性的な脇役社員たちの話も面白い。ボリショイバレー公演成功を元手に、国立ソ連邦サーカス団を日本向けに「ボリショイサーカス」と改名させたというから驚く。
説得力があるのは、著者自身がサーカス・プロモーターの「呼び屋」で、同時に『サーカスと革命』等でしられる学究であるから。評者とは実はメル友で、互いにホームページをリンクし古きよき時代の歴史を追っている。
「呼び屋」がいれば「仕掛け人」もいた。大マスコミの戦後「知識人」売り込みの仕掛けを明かす大井浩一『メディアは知識人をどう使ったか――戦後「論壇」の出発』(勁草書房、2400円)。「使う」側の毎日新聞論壇担当記者による、過去への参与観察。ただし露悪趣味のエピソードや守秘義務違反の裏話を期待する向きは肩すかし。オーソドクスな歴史的手法で、「軍国主義時代の受難は戦後社会では大勲章」だった敗戦直後のメディアによる「知識人の利用」を手堅く描く。
新聞論調への「補強材料」効果を賀川豊彦、林悟堂、美濃部達吉、大内兵衛らで解析。大学教授や評論家といった肩書きも、実は「権威づけ」狙いと知ると、本誌で自由に書かせてもらっているつもりの自分は、と気になる。時には「逆効果」もあるそうだから、気をひきしめて「読み物」効果、「特ダネ」効果で勝負しなければ。
(『エコノミスト』2004年6月22日号掲載)
タイトルに惹かれ手に取る本もある。クラウス・レゲヴィー著、斉藤寿雄訳『ナチスからの「回心」――ある大学学長の欺瞞の人生』(現代書館、3000円)は、国立大学法人化で学長権限が強化される中、日本現代史の「転向」との連想で、ドイツの「回心」が気になった。拾いものだった。
すさまじい物語である。ドイツ語原題は「シュナイダーからシュヴェーアテへ」。ナチス親衛隊将校ハンス・シュナイダーが、1945年に35年の前半生を抹殺して西独左翼リベラルの教育者ハンス・シュヴェーアテに改名・変身、同じ女性と再婚してライン=ヴェストファーレン工科大学学長まで登りつめたが、95年に褐色の過去を暴かれ失脚した事件の顛末である。日本なら、さしずめ野坂参三か。
その精神史のすべてが重いが、国が変わったから名前を変えただけだという開き直りに虚をつかれる。翻って平和国家日本も大学のあり方も大きく変わった。同じ名前で出ているこちらこそ「転向」かもしれないと戦慄。
ナチスに協力した知識人もいれば、ナチスを逃れ亡命したユダヤ人もいた。1930年代のパリは、知識人がアメリカ大陸に逃れる経由地だった。桜井哲夫『戦間期の思想家たち――レヴィ=ストロース・ブルトン・バタイユ』(平凡社新書、820円)に出てくる、亡命ハンガリー哲学者コジェーヴのパリ大学ヘーゲル講義に集った顔触れの壮観。ドイツから亡命したハンナ・アレントからレイモン・アロン、ジャック・ラカン、メルロ・ポンティ、ロジェ・カイヨワ、ジョルジュ・バタイユら。きら星の如き20世紀の知性が織りなす色欲がらみの公共圏で、シモーヌ・ヴェイユの生真面目が光る。
アンドレ・マルローのアンコール遺跡盗掘、クロード・レヴィ=ストロースの左翼体験、アンドレ・ブルトンの共産党時代、バタイユの稀覯論文等を発掘しながら描かれる知のネットワークは、評者が追跡する当時の在外日本人知識人・芸術家ネットや新宿中村屋の文化サロンの景観と、驚くほど似ている。若き日にシュールレアリズムや実存主義・構造主義にはまった人なら、大脳再活性化の格好のクスリになる。
(『エコノミスト』2004年5月25日号掲載)
イラクに今自衛隊がいる。治安は悪くテロは日常的だ。派兵していたスペインで鉄道が爆破された。自衛官に何かあったら、日本は撤退できるか。
そんな局面で改めて戦争とは何か、イマドキ戦争体験はどう継承されるかを考えるのも、無駄ではないだろう。
女子学院中学校「祖父母の戦争体験」編集委員会編『15歳が受け継ぐ平和のバトン――祖父母に聞いた235の戦争体験』(高文研、3000円)は、ずっしり重い。「親から子」ではなく「祖父母から」の聞き書きだ。
軍隊生活・疎開・大空襲、満州・ジャワ・シベリア抑留、もんぺ・千人針・日の丸弁当と、記憶は多彩だ。別れと出会い、いのちにこだわる文章が多い。「私が今ここにいること」「一歩の命」「生き抜くという強さ」と実に真面目だ。企業戦士として青春を送り、芥川賞を読んで若者を知ったつもりの団塊世代こそ戦争体験風化の元凶と思い知らされる。歴史に正面から向き合う娘たちに、未来の希望を託せる。
鶴見俊輔・上野千鶴子・小熊英二『戦争が遺したもの――鶴見俊輔に戦後世代が聞く』(新曜社、2800円)は、同じジャンルの思想史バージョン。
「語り」のうまさに引き込まれる。書かれたものを前提に、書かれざるものを吐き出させようとする聞き手の鋭い問いを、祖父母世代の元「不良少年」ががっちり受けとめ、真剣勝負。
政治家だった父への反発、厳しい母、優しい姉の刻印したもの。「家」との格闘が自立の拠点になりうることを、15歳の米国留学、ジャワの「慰安婦」体験、「思想の科学」創刊からベ平連脱走兵援助にいたる軌跡に即してあぶりだす。ついでに佐野碩の亡命、佐野学の転向など異端の親族への想いも聞き出してほしかったが、タヌキや「がきデカ民主主義」へのこだわり、藤田省三の査問を掘り起こし、連夜の雑談テープまで記録に残した聞き手の辣腕に脱帽。上野千鶴子が女性観で突っ込むと、なにやら論理が混濁してくる「不良老人」の初々しさが面白い。
「聞き取り」という手法の可能性と極限を試した逸品である。すべての世代が、それぞれ何かを得るだろう。
(『エコノミスト』2004年4月20日号掲載)
いわゆる「戦後歴史学」へのかつての批判は、もっぱら経済構造から政治や文化が説かれ「人間が描かれていない」というのが定型パターンだった。
大門正克・安田常雄・天野正子編『近代社会を生きる』(吉川弘文館、2800円)は、「さまざまな人生」にこだわって、日本の近代を再構築する。
長志珠絵の書き出しがいい。「裸体を現して蚤を捕へ居た」女性を警官が連行したのが「文明開化」とある。漁村から地域を、マッチ女工で下層社会を、捨て子で家族を、裏日本から帝国を、労働者ではなく無産階級をと、かつての「典型」をズラす。家庭と石鹸をダブらせ、白樺派を朝鮮から、沖縄を南洋移民から描いて、「経験のリアリティ」に「さまざまな人生」を取り込む。こうした叙述の工夫が心憎い。
大門正克の巻末も巧みだ。エスペランティストから満蒙開拓団、水俣日本窒素を朝鮮興南工場まで追って、その生き様を「がんじがらめ」「きずなとしがらみ」と締める。歴史学が人間を取り戻した証しで、他領域の吸収、女性執筆者登用も成功している。姉妹編『戦後経験を生きる』と共に旬の魅力。
こんな世界を日本近代史に切り拓いたのは、色川大吉、鹿野正直と共に、安丸良夫だった。安丸良夫『現代日本思想論』(岩波書店、3200円)は、「歴史意識とイデオロギー」と副題して、生活世界の足場を自らの生き様と状況への関わりを通じて確かめる。
異例に長い「あとがき」だけでも、読みごたえがある。近世から近代の民衆思想史に内在してきた著者が「本文には9・11事件以後の状況についての直接の言及がないので、新しい事態についての素朴な感想」を追記した。
アメリカの世界戦略やグローバリズムを論じるわけではない。イラク攻撃反対の若者の集会に、70歳近い著者が加わり遭遇した体験から、「社会的なものについての自分なりのものの見方や感受性を、日常的な生き方や生涯の仕事を通してゆっくりと媒介的につくりあげ」身体感覚や人格に具体化していくプロセスを紡ぎ出す。「表象と意味」をコスモロジーにつなぐこうした力作の母胎だったとすれば、「戦後歴史学」も捨てたものではない。
(『エコノミスト』2004年3月23日号掲載)
読後のこの爽快さは、久方ぶりだ。右か左かといっても、政治の話ではない。かつて戦前の政治ポスターを集めた時、横書きスローガンが、ある時点で右から始まる「右書き」から今日の「左書き」に変わるのに気づいたが、そのままにしていた。大正・昭和初期の雑誌広告でも、横書きの左右が気になった。そんなひっかかりが、一挙に解けた。屋名池誠『横書き登場――日本語表記の近代』(岩波新書、740円)一冊で。新年一押しである。
なにしろパイオニアの仕事、あたった文献資料が半端じゃない。幕末蘭学文献・旧植民地学校教科書から映画ポスター、紙幣、楽譜、切手、たばこパッケージまで。特に鉄道時刻表や駅名表示の話が究極にマニアックである。
こんな本は中身を要約するより、現物にあたってもらうに限る。ただ書字方向の「横書き」とは、外国語との接触から生まれ、「二行以上であり、かつ行変わりの部分が意味の切れ目でないもの」という要件を満たし、初出ばかりでなく流行・定着も追い、ついに戦中・戦後に「左書き」が「右書き」を駆逐し公文書でも実用化されるまでの長い物語、とだけ言っておこう。この具体的事例で、システム論から政治シンボル論まで学べるのも楽しい。
「横書き」を徹底的に解明して脱亜入欧から電子テキストまでわかるなら、出生・死亡・結婚、身長・体重・病気等をデータマップにして、時代を読み解く手法もある。速水融・小嶋美代子『大正デモグラフィ――歴史人口学で見た狭間の時代』(文春新書、720円)は、マルチな視角で大正民衆誌に迫る。教養主義や白樺派、「不機嫌の時代」とも「民本主義」ともいわれる中途半端な時代を、都市化と人口移動、電灯普及と生活水準、出生・死亡の地域差、国際化の影のスペイン風邪と予防ポスターなど、なるほどの統計指標で切り取る。大正中期に婚外子率が低下するのは、皇室側室制度の廃止、女性解放運動、教育の普及で「妾」が減ったためと分析されるが、そこから安易に「大正デモクラシー」を謳歌する説への実証的批判も含まれている。
最近の新書ラッシュで、手軽だが中身の濃いこんな本が増えて頼もしい。
(『エコノミスト』2004年2月24日号掲載)
歴史を振り返ることは、失敗の教訓を得ることである。栄光の回顧にはノスタルジアがつきまとうが、敗北の反省は、自己切開の痛みを伴う。
小倉和夫『吉田茂の自問――敗戦、そして報告書「日本外交の過誤」』(藤原書店、2400円)は、21世紀の行方が見えないまま自衛隊のイラク派遣が強行される今日、二重の意味で、貴重な自己反省となっている。
素材は1951年サンフランシスコ講和時、宰相吉田茂が満州事変から敗戦処理にいたる日本外交の問題点を若手外交官に率直に分析させた秘密調書「日本外交の過誤」、半世紀を経て明るみに出た調書を読み論じるのは、自ら当事者として韓国・フランス大使等を歴任した外交官。叙述は戦前・戦中の歴史的岐路を戦後外交と現代日本に重ね合わせ、過去と現在を縦横に往き来するが、かつて『パリの周恩来』で史家としての力量を示した著者の実証的視点、柔軟な思考で、外交とは未来への理念と世論をバックにした政治選択の積み重ねであること、大義名分こそ力であることを、重厚に説く。
戦前の悲劇を「軍部の暴走」に矮小化できないとした「過誤」調書を受け、著者は、戦後日本の「脱亜入米」外交にも危うさを見る。日華事変についての「海外派兵の意味」や、終戦時自己欺瞞外交の帰結など、ブッシュホン風「国際貢献」で憲法前文を誤読し暴走する小泉首相に、ぜひ読ませたい。
失敗の教訓は、政府与党だけのものではない。戦後日本の護憲平和勢力の中核社会党が消滅したからには、その収支決算も必要になる。山口二郎・石川真澄編『日本社会党――戦後革新の思想と行動』(日本経済評論社、2800円)は、その端緒的試み。評者と同業の政治学者たちの分析視角は多種多様で、歴史書としては読みにくい。
だが、解剖の手掛かりは、山川均と向坂逸郎のズレを析出した巻頭米原謙の力作から、土井社会党の裏側を描く石川真澄のメモまで、豊富に用意された。村上信一郎が、イタリア社会党と比較しつつ、社会党の「失敗」は進歩派知識人の「敗北」であると喝破した切り口に、自己切開から産みの苦しみへの筋道が、微かに見えてくる。
(『エコノミスト』2004年1月27日号掲載)