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『週刊 エコノミスト』リレー書評「歴史書の棚」(2003年下半期)

 以前からいくつか書評を寄せていた『週刊 エコノミスト』誌が、2001年6月の大判化を機に、「歴史書の棚」というリレー書評欄を設けた。日本史・現代史・東洋史・西洋史の順番で、それぞれ月に2冊の歴史書紹介をするということで、私はその「現代史」を担当することになった。引き受けるさいの条件に、販売終了後に本HP書評欄に収録することをお願いし、編集部の了解を得た。


 

安田寛『「唱歌」という奇跡 十二の物語──讃美歌と近代化の間で』(文春新書)

 

上田浩二・荒井訓『戦時下日本のドイツ人たち』(集英社新書)

 

 ベートーベン第九交響曲の季節に、安田寛『「唱歌」という奇跡 十二の物語──讃美歌と近代化の間で』(文春新書、680円)。宣教師のもたらした讃美歌の旋律と日本の歌詞がドッキングし、ルソー作曲「むすんでひらいて」から「シャボン玉とんだ」まで、和洋折衷で近代唱歌が定着する軌跡を描く。スペイン民謡とされてきた「蝶々」は、アメリカ経由で入ったドイツ唱歌「小さなハンス」だった。

 音楽や美術は、たとえ戦争・侵略や布教から始まっても、その地に根づいてしまえば平和の絆となりうる。 

 第二次世界大戦期の日本は、ナチス・ドイツと同盟を組み連合軍に敗れた。しかし1930年代の在独日本人の生活を調べて驚いた。ナチス支配下の日本人がアーリア民族と同等に扱われたわけではない。東洋人差別は厳然としていた。ドイツの親日家にはユダヤ人が多かった。一部軍人が「ハイル・ヒトラー」と叫んでも、多くの日本人はナチの横暴を苦々しく見ていた。軍や政府間の同盟があっても一般市民の中では日本人内・ドイツ人内の対立があり、画家竹久夢二とユダヤ人画学生のような反ナチ平和の絆もあった。

 このことを裏側から照らすのが、上田浩二・荒井訓『戦時下日本のドイツ人たち』(集英社新書、680円)。著者たちは、戦前日本の滞在経験を持つ24人にインタビューし「記憶」を再現した。同盟国ドイツからの滞在者は、戦時中排除はされなかったが優遇されたわけではない。貿易商・留学生らドイツ人も食糧不足や住宅難を体験した。ナチを嫌って日本にきた者もいた。「蘭印」インドネシアの収容所からの引揚げ女性たちは、衣服は自分で縫えたが靴が合わなくて苦労した。戦争が進むと日本社会は閉鎖的になり、ドイツ人をも警戒した。河口湖や軽井沢・箱根の疎開先コロニーが、わずかに母国の情報を得られる場だった。

 ナチ党支部は在日ドイツ人社会を支配し、日独混血は陰に陽に差別された。だが日本人にはドイツ人とユダヤ人の区別がつかず、ユダヤ人音楽家ローゼンシュトックのコンサートは毎月開かれた。日米同盟下でイラク戦争が続く師走に、ちょっと心に残る話である。

(『エコノミスト』2003年12月23日号掲載)


 

古賀牧人編著『「ゾルゲ・尾崎」事典』(アピアランス工房)

太田昌国『「拉致」異論』(太田出版)

 

 ある史実について、いったんひとつの見方が定着すると、それをくつがえすのは、なかなか難しい。史資料や証言の豊富な現代史でも、学問内在的な転換には、長い年月を要する。

 太平洋戦争前夜のリヒアルト・ゾルゲの諜報活動の理解は、戦後すぐのGHQウイロビー報告と、ゾルゲの盟友尾崎秀実の弟尾崎秀樹の著作が、長く定番になってきた。しかし、在野での執念の研究や旧ソ連秘密資料の流出で、謎は一つひとつ解かれてきた。

 古賀牧人編著『「ゾルゲ・尾崎」事典』(アピアランス工房、4000円)は、在野ジャーナリストの探求成果を、事件の主要被告を大項目にまとめた百科全書。たとえば宮城与徳の項から入ると、出身地の沖縄とアメリカ西海岸の双方に目配りされ、父与正から従兄与三郎まで小項目に入る。当時は秘密にされた警視庁外事課通訳で宮城と交際があった鈴木邦子のその後まで書かれ、ウイロビー報告のいわゆる「伊藤律発覚端緒説」が、渡部富哉らの緻密な特高警察捜査記録の研究でくつがえされた過程が、フォローされている。 

 店頭販売されないのは惜しい。故松本清張なら、この一巻で、数冊の社会派推理小説を仕立てあげたであろう。

 だが丹念な史資料・証言発掘による学問内在的なかたちでなくとも、歴史環境そのものの変化で、支配的見方がくつがえる場合もある。政治的事件なら、なおさらである。

 たとえば1959年からの北朝鮮10万人帰還事業。当時は政府の「やっかい払い」の思惑から左派の「社会主義建設への貢献」まで、圧倒的に歓迎されていた。それがこの間の日本人拉致発覚、脱北者急増、核開発問題で、支配的評価は一変した。

 当時は無視された証言を含め、膨大な著作が書店に山積みされているが、日本人左派の発言で出色なのは太田昌国『「拉致」異論』(太田出版、1700円)。副題が「あふれ出る『日本人の物語』から離れて」で、北朝鮮=金正日暴露・告発ものとは違うが、拉致と強制連行を相殺するような言説とも線を画す。65年日韓条約国会当時の社会党議員の質問とは隔世の感。拉致被害者家族の苦悩を真摯に引き受けた痛みが重く迫る、問いかけの著。

(『エコノミスト』2003年11月25日号掲載)


永山正昭『星星之火』(みすず書房)

 

藤田省三『精神史的考察』(平凡社ライブラリー)

 

 

 秋も深まると、しみじみとした本を読みたくなる。永山正昭『星星之火』(みすず書房、2800円)は、そんな自分史。小林多喜二と同じ小樽出身で、生き方そのものが文学的。戦前は香港・ニューヨーク航路通信士で海員労働組合活動家、戦後は『アカハタ』記者など共産党本部勤務だが、活動家の自伝にありがちな気負いはない。

 退職後の手書き新聞『星星之火通信』に『無線通信』『辺境』等の文を加えた珠玉の追想集。編者の平岡茂樹・飯田朋子の入れ込み様は、半端でない。つまりは人の出会いと絆の産物、丸山真男が惚れ込み、生涯頼りにしたというのも、もっともなことだ。こんな共産主義者ばかりだったら、20世紀の有り様も違っていただろう。

 「退職経緯」のような史的証言もいいが、「こがらし」「浅学菲才」といったエッセイが光る。文が引締り、無駄がない。恩師や友人知己への想いとぬくもりが伝わる。家族や無名の友を語るとなおさらのこと。帯には丸山の永山評「人を見る目の輝きとそれを表現する文章の美しさは尋常のものとは思われぬ」。丸山真男にこう言わしめた海の男は、やはり尋常ではない。

 永山は94年に逝った。丸山は96年に没する。本書を書肆に持ち込んだ藤田省三も、この5月に天界に消えた。

 永山『星星之火』に比肩しうるのは、無論、多喜二や宮本百合子ではない。藤田省三『精神史的考察』(平凡社ライブラリー、1200円)は、著者の死の直後に出た。もとはといえば20年前の論文集の文庫化、だが全く旧さを感じさせない。「或る喪失の体験」や「戦後の議論の前提」は、すでに古典だ。「新品文化」は、驚くほど21世紀を衝いている。「生成経験と再生と復活の持つ本来の新しさ」を結晶した、磨き上げた渾身の文章である。

 実は刊行直後に紹介したかったが、藤田の「市村弘正『都市の周縁』をめぐって」を読み、ためらった。書評の書き方まで厳しく律している。藤田のユートピアを体現し、丸山がざっくばらんに「戦争責任論の盲点」を問い得た永山の書と一緒なら、藤田も見逃してくれるだろう。20世紀の中から生まれ、時代を突き抜けた2冊である。

(『エコノミスト』2003年10月28日号掲載)

 


松野仁貞『毛沢東を超えたかった女』(新潮社)

 

ジル・A・フレイザー著、森岡孝二監訳『窒息するオフィス――仕事に強迫されるアメリカ人』(岩波書店)

 

 タイトルから政治ものかと手にとった松野仁貞『毛沢東を超えたかった女』(新潮社、1500円)、かの名画「芙蓉鎮」主演女優劉暁慶の評伝だ。芸能ものかと気楽に読むと、抜群の面白さ、映画史に重ねて「赤い資本主義」と中国風「個人主義」形成史を実例満載でトレースしてくれるお買い得。

 劉暁慶は、80年代中国映画が生んだ大女優である。革命直後の51年に生まれ、幼時は黄毛で「醜いアヒルの子」と差別されたが、多感な文革期に軍の教育宣伝活動から映画女優に。とはいえ83年「西太后」主演までは、北京撮影所の月給は50元だった。

 それが昨年1458万元の脱税容疑で逮捕されるまでの蓄財物語が、本書の圧巻。「改革開放」の波に乗り、闇の地方興行からテレビ・コマーシャル、自伝執筆から政商会議全国議員に、松茸輸出・不動産投機にまで手を広げ、「フォーブス」で「億万富姐」にランクされる実業家に成り上がる。領収書改竄、詐欺、契約不履行と市場経済の隙間であらゆる悪行に関わり、とうとう「上海派」朱鎔基首相の逆鱗にふれて、富裕層へのみせしめ・納税勧奨のために脱税で監獄へと送られた。

 初来日に持参したドレスが一枚だけで感じた屈辱や、華麗な男性遍歴がからむ「影皇」の人間劇も面白いが、中国経済における「契約」観念の未成熟や中央・地方格差をリアルに描き出し、関係者は必読。劉暁慶逮捕を契機に、北朝鮮新義州経済特区構想が幻に終わったのだから、政治にも直結する。

 国際女優になった劉暁慶は、香港・台湾からグローバル化にも手を染めた。その行き着く先を示唆するのが、ジル・A・フレイザー著、森岡孝二監訳『窒息するオフィス――仕事に強迫されるアメリカ人』(岩波書店、2300円)。夏休みのアメリカで携帯電話片手のタクシーに冷や汗をかいたので、90年代アメリカの高ストレス・過労社会化が実感された。「繁栄」の背後で進むホワイトカラー職場の変容を緻密に描き出し、かつての日本のコマーシャル「24時間たたかえますか」がアメリカ企業に浸透したことがわかる。 こんな米中経済が一体化したら、地球村はどうなるかと、再び冷や汗。

(『エコノミスト』2003年9月30日号掲載)


半藤一利『日本国憲法の二〇〇日』(プレジデント社)

 

五十嵐仁『戦後政治の実像 舞台裏で何が決められたのか』(小学館)

 

 いわゆる「政治改革」が始まって10年、自民党総裁選・解散総選挙、自由党の民主党への合流、社共両党のスキャンダルと、政局の動きは急だ。こんな時こそ戦後政治の原点と現代史の軌跡を、改めて振り返っておきたい。

 半藤一利『日本国憲法の二〇〇日』(プレジデント社、1600円)は、1945年8月15日から日本国憲法の骨格が定まる46年3月閣議までの物語。類書は無数にあるが、GHQから「主権在民」を諭されるまで新時代が見えなかった旧支配層の狼狽・無能と、焼け跡・闇市をたくましく生き抜く庶民のコントラストが印象的。山田風太郎・高見順らの日記と、当時15歳で激動の日々を目撃した「少国民」著者自身の体験記が、面白さを倍加する。

 澄んだ「天井雑炊」や「バクダン」メチルアルコール、タレントばりの野坂参三人気の話もいいが、政府憲法草案を起草した元東大法教授・国務大臣松本丞治の国体護持の生真面目と挫折が、この国のその後をも暗示して、ほろ苦い。著者は戦争放棄の理想につくと明言し、自衛隊海外派遣の動きを憂慮する。「戦争体験のまったくない戦後生まれの知識人たちの脳天気」という苦言には、ただ脱帽あるのみ。

 五十嵐仁『戦後政治の実像 舞台裏で何が決められたのか』(小学館、1800円)は、児玉誉士夫が詐取した軍需物資が鳩山自由党結成資金になった話から説き起こし、この国の保守政治の裏面を、「永田町の失われた十年」まで一気に描き出す。個々の事実はおおむね知られたものだが、総理の座をめぐる吉田・鳩山密約から沖縄返還核密約、ロッキード事件、竹下「ほめ殺し」事件、村山社会党首班内閣成立の舞台裏まで執拗に示されると、この国のトップの決まり方は、「主権在民」からいかに遠かったかを思い知らされる。

 政治資金と利権、女性問題に加え、佐藤首相が「臣栄作」と自称し、天皇への「内奏」に縛られ変動相場制移行に対応出来なかった話は深刻。「権力は腐敗する、絶対的権力は絶対に腐敗する」は日本政治でも真理のようだ。もともとインターネットに連載されたもので、わかりやすい叙述の中に、政治の巨悪への怒りが滲み出ている。

(『エコノミスト』2003年9月2日号掲載)


伊井一郎『女剣一代──聞書き「女剣劇役者・中野弘子」伝』(新宿書房)

 

太田哲男・高村宏・本村四郎・鷲山恭彦編『治安維持法下に生きて──高沖陽造の証言』(影書房)

 

 聞書きインタビューという形の歴史記録は、やがて消え行くのではないか。「子曰く」型の伝承は古くからあるが、史実としての信憑性は乏しい。これからはデジタルビデオで表情や声色も記録されるだろうから、活字で残す必要はなくなる。すると速記やテープ起こしをもとにした聞書きは、20世紀に固有の歴史資料になるのでは?

 忙しい政治家や財界人、芸能人の著書には、元々聞書きが多い。聞き手のゴーストライターがテープ起こしを波瀾万丈のストーリーに仕立て上げ、著者が最後に目を通し手を入れて、なぜかベストセラーになったりする。

 だから生の聞取りテープを忠実に再現した書物は、声色や表情をイメージできるだけ、良心的で信憑性がある。自叙伝や書簡と違って出典も自注もなく、歴史の証言としての価値は減殺されるが、聞き手の腕次第で、時に自筆原稿より本音がにじみ出る。

 丸山真男や加藤周一のような座談の名手の対談・インタビューは珍しくないが、周縁の人々の貴重な体験・人生も、このジャンルでは本になる。

 まずは珍しい旅回り役者の証言、伊井一郎『女剣一代──聞書き「女剣劇役者・中野弘子」伝』(新宿書房、3800円)。けばけばしいポスターやブロマイドが時代の雰囲気を濃密に伝えるが、昭和20年7月旅回り公演中に和歌山で空襲に遭う話には驚いた。敗戦直前に吉本興業が漫才師・歌手を引き連れ女剣劇公演中というのも貴重な実録だが、焼夷弾が「バーンと落ちちゃった。旅館がメラメラ」と剣劇ばりに擬音だらけの中野弘子証言は迫力満点。もちろん白浪五人男から国定忠治、長谷川一夫から美空ひぼりにいたる写真入り上演・交遊談は、ファンにはたまらないだろう。74歳で没する2年前の陽性インタビューである。

 これも小さな本屋では入手困難だが、太田哲男・高村宏・本村四郎・鷲山恭彦編『治安維持法下に生きて──高沖陽造の証言』(影書房、2500円)。女剣劇と同時代に労働運動・演劇運動を下支えし弾圧された文学者の愚直な記録。93歳の死まで手入れできず放置された87歳時の聞書きが、懇切丁寧な注解で甦り、静かな余韻を残す。 

(『エコノミスト』2003年7月29日号掲載)


大石嘉一郎・金沢史男編『近代日本都市史研究──地方都市からの再編成』(日本経済評論社)

 

成田龍一『近代都市空間の文化経験』(岩波書店)

 

川本三郎『林芙美子の昭和』(新書館)

 

 土俵は近代都市史論。いつもは2冊だが今回は3冊。かたや重厚な大石嘉一郎・金沢史男編『近代日本都市史研究──地方都市からの再編成』(日本経済評論社、1万2000円)、こなた華麗な成田龍一『近代都市空間の文化経験』(岩波書店、6200円)。どちらも横綱級なので、敢えて行司に川本三郎『林芙美子の昭和』(新書館、2800円)を配することにした。

 大石・金沢編著は、かつて明治期の地域再編を膨大な史資料をもとに『近代日本の行政村』として解明したグループが、10年の共同研究を経て、城下町から近代都市に向かった水戸・金沢・静岡、近代化過程の新興工業都市川崎・川口を対象に、その経済構造、行財政、市政の担い手と対抗の展開を綿密に分析し、「都市化をめぐる支配と自治」「国家的公共と地域的公共の相克」を構造的・重層的に描き出す。

 そこには、農村史に比して立ち後れた都市史研究は、その裏返しで東京・大阪など巨大都市に向かったが、両者を結ぶ「地方中心都市における近代から現代へ」に「標準」を設定して全体を見通すべきだとする主張がある。

 しかし成田の「近代都市空間」に照準を当てた「方法としての都市史」は、大石・金沢本では巨大都市偏重と批判されるが、門外漢には「帝都」の公衆衛生から広告まで、すこぶる面白い。

 「文明」と「立身出世」にあこがれる青年、『少年世界』『キング』を介した「われわれ」意識、震災報道の「哀話・美談」に「共感」を読みとり、奧むめおの戦時「働く婦人」論に戦後「女性解放」への文脈を見出す著者の鮮やかな分析は、切れ味よく臨場感がある。

 だが成田の視線を延長すると、異質を包み込む「世界都市化」に「標準」を見たくなる。川本は、がっぷり四つの両書の狭間で、林芙美子の青春を新宿に絞り込む。尾道から上京した芙美子には、浅草も銀座も肌にあわず、場末の盛り場新宿だけが「心くつろげる町」だった。東京は異界で、尾道・水戸もアメリカ・満州もパリさえも共棲していた。都市化の究極を「世界都市」に見ると、無数の異郷の出会いと衝突から情報都市=サイバーポリスが現れ、新たな共同性の発見があるだろう。

(『エコノミスト』2003年7月1日号掲載)


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