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『週刊 エコノミスト』リレー書評「歴史書の棚」(2003年上半期)

 以前からいくつか書評を寄せていた『週刊 エコノミスト』誌が、2001年6月の大判化を機に、「歴史書の棚」というリレー書評欄を設けた。日本史・現代史・東洋史・西洋史の順番で、それぞれ月に2冊の歴史書紹介をするということで、私はその「現代史」を担当することになった。引き受けるさいの条件に、販売終了後に本HP書評欄に収録することをお願いし、編集部の了解を得た。


大石嘉一郎・金沢史男編『近代日本都市史研究──地方都市からの再編成』(日本経済評論社)

 

成田龍一『近代都市空間の文化経験』(岩波書店)

 

川本三郎『林芙美子の昭和』(新書館)

 

 土俵は近代都市史論。いつもは2冊だが今回は3冊。かたや重厚な大石嘉一郎・金沢史男編『近代日本都市史研究──地方都市からの再編成』(日本経済評論社、1万2000円)、こなた華麗な成田龍一『近代都市空間の文化経験』(岩波書店、6200円)。どちらも横綱級なので、敢えて行司に川本三郎『林芙美子の昭和』(新書館、2800円)を配することにした。

 大石・金沢編著は、かつて明治期の地域再編を膨大な史資料をもとに『近代日本の行政村』として解明したグループが、10年の共同研究を経て、城下町から近代都市に向かった水戸・金沢・静岡、近代化過程の新興工業都市川崎・川口を対象に、その経済構造、行財政、市政の担い手と対抗の展開を綿密に分析し、「都市化をめぐる支配と自治」「国家的公共と地域的公共の相克」を構造的・重層的に描き出す。

 そこには、農村史に比して立ち後れた都市史研究は、その裏返しで東京・大阪など巨大都市に向かったが、両者を結ぶ「地方中心都市における近代から現代へ」に「標準」を設定して全体を見通すべきだとする主張がある。

 しかし成田の「近代都市空間」に照準を当てた「方法としての都市史」は、大石・金沢本では巨大都市偏重と批判されるが、門外漢には「帝都」の公衆衛生から広告まで、すこぶる面白い。

 「文明」と「立身出世」にあこがれる青年、『少年世界』『キング』を介した「われわれ」意識、震災報道の「哀話・美談」に「共感」を読みとり、奧むめおの戦時「働く婦人」論に戦後「女性解放」への文脈を見出す著者の鮮やかな分析は、切れ味よく臨場感がある。

 だが成田の視線を延長すると、異質を包み込む「世界都市化」に「標準」を見たくなる。川本は、がっぷり四つの両書の狭間で、林芙美子の青春を新宿に絞り込む。尾道から上京した芙美子には、浅草も銀座も肌にあわず、場末の盛り場新宿だけが「心くつろげる町」だった。東京は異界で、尾道・水戸もアメリカ・満州もパリさえも共棲していた。都市化の究極を「世界都市」に見ると、無数の異郷の出会いと衝突から情報都市=サイバーポリスが現れ、新たな共同性の発見があるだろう。

(『エコノミスト』2003年7月1日号掲載)


マイケル・ハート=アントニオ・ネグリ『帝国』(以文社)

 

鷲巣力『自動販売機の文化史』(集英社新書)

 

 

 歴史を見る眼にも、鳥の眼と虫の眼がある。鳥の眼で大所高所から眺めると、「地球は青かった」風に、日頃の視界になかった世界が見えてくる。 

 冷戦崩壊後の地球を鳥の眼で見るのは、ようやく邦訳が出た話題のマイケル・ハート=アントニオ・ネグリ『帝国』(以文社、5800円)。「文明の衝突」や「新しい中世」の雲の上に、国民国家を超えたグローバル主権者「帝国」が現れる。かつての「帝国主義」とは違い領土も首都ももたない。

 アメリカ中心に見えても米軍は「帝国の警察」として行動する。支配者は米国以下サミット大国、WTO・IMF・世界銀行等政治経済エリートたち、「爆弾」核兵器を独占して一見君主制風だが、多国籍企業や中小国家も「貨幣」を使い貴族制=元老院に組み込む。メディアや宗教団体、NGOには「エーテル」を介し民会型民主制を提供、情報も善意も汲み上げる。つまり古代ローマの三政体を融通無碍に使い分け、差異に応じて柔軟に支配する。

 最底辺には国民・人民でも労働者階級でもなく、スピノザ起源の多衆「マルチチュード」。グローバル「帝国」の支配とは、「マルチチュード」の多種多様な身体と欲望、知的創造も夢も愛も生産・消費に組み入れ応答する「バイオ・パワー」のネットワークだ。

 欧米では「ポストモダンの資本論」「21世紀の共産党宣言」ともてはやされた。確かに刺激的な問題提起である。湾岸戦争期の「新世界秩序」が焦点なので、EUやアジア経済の分析は手薄だ。9・11やイラク戦争論を求めるのはないものねだり。まずはこの壮大な起業家的イマジネーションに学び、人類史の今を瞑想すべきだろう。宇宙船にでも乗ったつもりで。

 とはいえ、くらしの虫の眼も捨てがたい。例えば鷲巣力『自動販売機の文化史』(集英社新書、720円)。起源は古代エジプトまで遡り、日本はドリンクからポルノまで何でもありの自販機大国とか。欧米にはコインを入れても出ない欠陥機が多いので大国なのはわかるが、それが飲酒喫煙文化の所産で景観をこわしているとなると、虫の眼の向こうにも、欲望の錬金術師「帝国」ドラキュラの顔が透けてくる。

(『エコノミスト』2003年6月3日号掲載)


『日本の歴史』第25巻『日本はどこへ行くのか』(講談社)

 

 

小林正弥編『丸山真男論──主体的作為、ファシズム、市民社会』(東京大学出版会)

 

 講談社版『日本の歴史』が完結した。

 網野善彦の第0巻『「日本」とは何か』の壮大な問題提起から始まり、第1巻の旧石器考証ではミソをつけたが、最終第25巻『日本はどこへ行くのか』(2200円)は、網野の時間軸での「日本」相対化を受けて、C・グラック、T・モーリス=スズキ、T・フジタニ、H・ハルトゥーニアンという英語圏を代表する日本ナショナリズムの論客に、在日出身の姜尚中、沖縄の比屋根照夫、アイヌ研究の岩崎奈緒子という魅力的な顔触れが、空間軸から「他者の眼差し」で「日本」を相対化する。

 ハルトゥーニアンの日本文化論はやや思弁的でわかりにくいが、グラックの「大きな物語」、スズキの国境と国籍の話、フジタニの昭和天皇と平成天皇の比較は面白い。

 比屋根照夫の伊波普猷「混成的国家論」の分析は力作。普猷や吉野作造の新資料を発掘し、謝花昇、伊波月城、比嘉静観らを配して、沖縄の個性的コスモポリタニズムは中国・朝鮮からハワイ・インドとも交感し開かれていたという。岩崎のアイヌ論と共に新しい史学の可能性を示す。

 姜尚中は福澤諭吉らの「朝鮮」表象を「日本的オリエンタリズム」として問題にする。

 これだけ読み応えがあると、福澤に内在し評価しつつ「他者感覚」をもって「自己内対話」を繰り返した丸山真男と並べたくなる。

 丸山については死後も出版が相次いでいるが、最新の小林正弥編『丸山真男論──主体的作為、ファシズム、市民社会』(東京大学出版会、3400円)は、「歴史としての丸山真男」の到来を告げる書物で、1934年生まれの山口定から71年生まれの関谷昇まで「革新的公共哲学」の構えで20世紀日本最高の知性に挑む。

 小林の序章・終章は、ポストモダン派の一面的「丸山=国民主義者」批判を学問的に正し、丸山の問題設定と思想的発展に即した内在的理解・継承をめざす。

 時に宿命論として扱われる「古層論」も多元的文明発展を踏まえた「精神革命」の対象として提起されたという解釈は、山口のファシズム論や平石直昭の市民社会論と共に説得的で新鮮だ。関谷や宇野重規ら新世代の丸山研究の登場が清々しく頼もしい。

(『エコノミスト』2003年4月29日/5月6日合併号掲載)


河上荘吾『河上肇と左京──兄弟はどう生きたか』(かもがわ出版)

 

茅原健『民本主義の論客 茅原崋山伝』(不二出版)

 

 20世紀は活字の時代で、膨大な著作・自伝・日記が残されている。これに家族や友人知己の回想が加わると、個人の思想史もおおむね再現できる。

 河上荘吾『河上肇と左京──兄弟はどう生きたか』(かもがわ出版、1800円)の著者は、求道の思想家・経済学者であった河上肇の10歳下の弟、画家河上左京の長男である。だから、研究者なら苦労して探る河上肇と評論家河上徹太郎の姻戚関係などは、あっさり判明する。京大教授を辞した河上肇が政治運動にのめり込み検挙されて後の、「アカ」の係累とされた家族の苦労も、甥の眼から実生活に即して語られ、等身大の思想が見えてくる。

 画家河上左京の絵が小さな白黒写真だけなのは寂しいが、幼時の「キャラメルの記憶」に託して、左翼運動に入った叔父と、留学中に東大医学部助教授を辞してドイツ共産党に加わった国崎定洞の秘密の交信を、父左京が仲介していた事情が淡々と語られる。このさりげない証言で、学問的に論争のあった共産党「32年テーゼ」の日本流入ルートは、あっさり確定された。だからこの種の本は見逃せない。

 近親者の証言とはいっても、孫ともなると、生前の記憶の濃度は薄くなり、本格的学問研究に近くなる。

 茅原健『民本主義の論客 茅原崋山伝』(不二出版、1800円)は、崋山次男の子の手に成る、そんな格闘の記録である。1870年生まれのジャーナリスト茅原廉太郎=崋山は、河上肇と活躍期が重なるが、河上ほどには知られていない。評者は数年前に日本における「人民」概念の形成を探って、明治期『人民新聞』記者で敗戦直後に『日本人民の誕生』を著した国際派リベラリスト茅原崋山を知り注目した。

 本書は、幸徳秋水・長谷川如是閑と同窓であった崋山が、『萬朝報』論説記者、『第三帝国』主幹として平民政治・民本主義・小日本主義など注目すべき論陣を張り一世を風靡した生涯を詳細に描く。日本から初めて「氷島」アイスランドを訪れ女性市会議員に驚く話など、すこぶる面白い。こうしたリベラルな伝統は、もっと発掘されてよい。孫の研究が祖父の復権に役立てば、これ以上の親孝行はあるまい。

(『エコノミスト』2003年4月1日号掲載)


姜尚中・森巣博『ナショナリズムの克服』(集英社新書)

 

小坂井敏晶『民族という虚構』(東京大学出版会)

 

 アメリカ、イラク、北朝鮮、靖国と、ナショナリズムをめぐる喧噪が連日テレビや新聞をにぎわす。出版界もまた、ネイションに焦点を合わせる。

 まずはお手頃な姜尚中・森巣博『ナショナリズムの克服』(集英社新書、700円)。共に団塊世代の辺境に属する、在日韓国籍の政治思想史家とオーストラリア在住のクロスオーバーな作家の対論。巧みな聞き手森巣は、挑発的な語りで姜の自分史までひきだす。

 三島由紀夫の頭と足の関係を詮索し、加藤典洋の議論を「癒し」と喝破して、ナショナリズムの今日的問題を浮き彫りにする。森巣の「草の葉民主主義論」「アイデンティティからの自由」など理論的仕掛けも随所にあり、新書の対談だからと読み流すのはもったいない。吉見俊哉のいう「ホームシックを感じると、マクドナルドに並ぶパリの日本人旅行者」に思い当たる人は、おちつかない気分になるだろう。

 姜・森巣対談に「90年代日本のネオ・ナショナリズムが意外に手ごわい理由──ナショナリスト自身が国家をフィクションと認めてしまうなんて」とある。この論点をつきつめたのが、パリ風エスプリの効いた小坂井敏晶『民族という虚構』(東京大学出版会、3200円)。

 歴史ファンには敷居が高いかもしれないが、「日本・日本人とは何か」と問い、B・アンダーソン、A・スミス、A・ゲルナー、E・ホブズボームと彷徨してきた人には刺激的。明晰な論理で、人種も民族も血縁も歴史さえも「虚構」であるゆえんを、社会心理学・認知科学からときほぐす。

 「近代的合理主義を批判する本書に対してポスト・モダンなどという無意味なレッテルが貼られることだけはないように」と著者はあらかじめ伏線を敷いているから、「集団的記憶の物語は食傷」と敬遠するよりも、まずはカントやマルクスに親しんだ教養青年時代に還って挑戦を。歴史事例も豊富で、頭の体操には最適。E・H・カーやG・イッガース『二〇世紀の歴史学』を座右に読むと、なんとか落とし所がみつかって、「虚構と現実の相補性」という著者の積極的主張から、新しい歴史認識のヒントが生まれるだろう。

(『エコノミスト』2003年3月4日号掲載)


加藤秀俊『暮らしの世相史』(中公新書)

 

吉田裕『日本の軍隊──兵士たちの近代史』(岩波新書)

 

 

 モノや習俗を通して時々の社会関係を射抜くのは、柳田民俗学から生活学・考現学へと受け継がれる、わが国歴史研究に定着した方法の一つである。加藤秀俊『暮らしの世相史』(中公新書、七六〇円)は、「かわるもの、かわらないもの」と副題し、円熟した著者らしい冴えを、随所に示す。

 デパート、スーパーからコンビニ、通販にいたる「人無しあきない」の話も面白いが、もともと「なにもない空間」だった日本の住まいが、タンスを手始めに「家具」により埋め尽くされ「倉庫化」する話は秀逸だ。

 「饒舌」への関心からカラオケのマイクを握る人を観察し、「カラオケとは既製品のパッケージにみずからを仮託して独白をおこなうための装置である」「『不自由』な時代にたいするため息のごときもの」と喝破する。

 「まれびと」「おとずれ人」から「内地雑居」「混住」問題に展開すると、外国人労働者問題への真摯なメッセージになる。叙述は平易で「なるほど」で終わりがちだが、実は憂国の問題提起が潜んでいる。

 この手法をオーソドクスな対象に応用したのが、吉田裕『日本の軍隊──兵士たちの近代史』(岩波新書、七四〇円)。

 「なぜ民衆は戦争に従ったか」の問いに軍事史研究から応え、「時間の秩序化、身体の規律化、言語の標準化」の分析視角を導入して軍隊と社会の連関を解き、もっぱら天皇制・軍人勅諭や戦時国民動員から説明されがちだった日本軍の「秩序」の秘密を探る。

 例えば農村出身者が軍で学ぶ読み書きや腕時計による近代的時間感覚の広がり、靴や洋服・パン食・カレーライス体験、隊列行進・兵式体操による身体化、家柄や学歴がきかない「擬似デモクラシー」等々。

 こう体系的に示されると、学校と並ぶ軍隊の「近代化効果」を認めざるをえない。もっとも著者は、それがいかに矛盾に満ち、願望と現実がかけ離れていたかも忘れてはいない。入営して初めて味わったメニューと、前線で調達できる食事は違っていた。そこから兵士の「下剋上」や戦争神経症も出てくる。

 軍事的合理性は社会的合理性とは似て非なるものだ。クーラー完備のイージス艦がインド洋に行っても同様であろう。

(『エコノミスト』2003年2月4日号掲載)


 

 小熊英二『<民主>と<愛国>──戦後日本のナショナリズムと公共性』(新曜社)

 

下斗米伸夫『ソ連=党が所有した国家』(講談社選書メチエ)

 

 小熊英二『<民主>と<愛国>──戦後日本のナショナリズムと公共性』(新曜社、六三〇〇円)は分厚く高価だが、「戦後」を真面目に生きたと自負する人は、耳を傾ける価値がある。自分の知識・記憶とぶつかりスパークし、思わぬ発見があるはずだ。

 「戦後」も還暦近くになると、意味が混濁してくる。敗戦・占領下で貧困と混乱の中にあった「第一の戦後」と、高度経済成長開始後の「第二の戦後」では、同じ言葉で正反対の意味を持ちうる。なるほど「戦後改革」では財閥解体や日本国憲法だが、「戦後政治」では自民党長期支配をイメージする。40歳の著者は、冷戦崩壊以降は「第三の戦後」に入ったという。

 この手の交通整理自体は珍しくない。著者はさらに、「民主」「愛国」「国民」「市民」「近代」等々も同床異夢の世界だったのではと見立て、特攻青年の遺書から丸山真男ら知識人の言説へと聴診器をあて、解読し、診断していく。

 すると例えば、「鬼畜米英」と「アメリカ帝国主義打倒」の心情が、50年代国民的歴史学運動・共産党山村工作隊と68年全共闘運動の主張が、不思議に似た響きを帯びてくる。活字で残した言説を若気の至りという弁明は、時代背景も個人史もふまえた診断への答えにならない。願わくは異なる文脈から新たに解読した別のカルテも現れんことを。「戦後」の知のパノラマは、ようやく見えてきたばかりだから。

 日本の「戦後」より二回りほど早く生まれ老衰死したソ連邦となると、もはや弁明の余地なく解剖のメスが入る。下斗米伸夫『ソ連=党が所有した国家』(講談社選書メチエ、一五〇〇円)が語り部に選んだのは、自己切開できずに逝ったレーニンやスターリンではなく、凡庸・忠実故に指導者のすべてをみてきた元外相モロトフだった。

 最新の研究・資料を用いて語られるソ連74年の診断書は、出生の秘密より幼年期からの病歴に注目し、かつて日本で長く流布した「社会主義の祖国」像を打ち砕く。丸山「忠誠と反逆」風の裏話もある。政治家も財界人も学者も要注意。言説は結果責任である。死後の自分の評価を想像して慄然とし、長生きしなければと思うだろう。

(『エコノミスト』2002年12月31日号掲載)


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