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『週刊 エコノミスト』リレー書評「歴史書の棚」(2002下半期)

 以前からいくつか書評を寄せていた『週刊 エコノミスト』誌が、2001年6月の大判化を機に、「歴史書の棚」というリレー書評欄を設けた。日本史・現代史・東洋史・西洋史の順番で、それぞれ月に2冊の歴史書紹介をするということで、私はその「現代史」を担当することになった。引き受けるさいの条件に、販売終了後に本HP書評欄に収録することをお願いし、編集部の了解を得た。


 小熊英二『<民主>と<愛国>──戦後日本のナショナリズムと公共性』(新曜社)

 

下斗米伸夫『ソ連=党が所有した国家』(講談社選書メチエ)

 

 小熊英二『<民主>と<愛国>──戦後日本のナショナリズムと公共性』(新曜社、六三〇〇円)は分厚く高価だが、「戦後」を真面目に生きたと自負する人は、耳を傾ける価値がある。自分の知識・記憶とぶつかりスパークし、思わぬ発見があるはずだ。

 「戦後」も還暦近くになると、意味が混濁してくる。敗戦・占領下で貧困と混乱の中にあった「第一の戦後」と、高度経済成長開始後の「第二の戦後」では、同じ言葉で正反対の意味を持ちうる。なるほど「戦後改革」では財閥解体や日本国憲法だが、「戦後政治」では自民党長期支配をイメージする。40歳の著者は、冷戦崩壊以降は「第三の戦後」に入ったという。

 この手の交通整理自体は珍しくない。著者はさらに、「民主」「愛国」「国民」「市民」「近代」等々も同床異夢の世界だったのではと見立て、特攻青年の遺書から丸山真男ら知識人の言説へと聴診器をあて、解読し、診断していく。

 すると例えば、「鬼畜米英」と「アメリカ帝国主義打倒」の心情が、50年代国民的歴史学運動・共産党山村工作隊と68年全共闘運動の主張が、不思議に似た響きを帯びてくる。活字で残した言説を若気の至りという弁明は、時代背景も個人史もふまえた診断への答えにならない。願わくは異なる文脈から新たに解読した別のカルテも現れんことを。「戦後」の知のパノラマは、ようやく見えてきたばかりだから。

 日本の「戦後」より二回りほど早く生まれ老衰死したソ連邦となると、もはや弁明の余地なく解剖のメスが入る。下斗米伸夫『ソ連=党が所有した国家』(講談社選書メチエ、一五〇〇円)が語り部に選んだのは、自己切開できずに逝ったレーニンやスターリンではなく、凡庸・忠実故に指導者のすべてをみてきた元外相モロトフだった。

 最新の研究・資料を用いて語られるソ連74年の診断書は、出生の秘密より幼年期からの病歴に注目し、かつて日本で長く流布した「社会主義の祖国」像を打ち砕く。丸山「忠誠と反逆」風の裏話もある。政治家も財界人も学者も要注意。言説は結果責任である。死後の自分の評価を想像して慄然とし、長生きしなければと思うだろう。

(『エコノミスト』2002年12月31日号掲載)


吉見俊哉編著『一九三〇年代のメディアと身体』(青弓社)

 

加藤周一・凡人会『テロリズムと日常性』(青木書店)

 

 現代史の対象は自分が生きた時代で、書き手も読み手も体験を共有していると前提しがちだ。しかし若い世代にとっては「体験の記憶」自体が学びの対象で、時に「眼からウロコ」の鋭い質問を受け、教えられることがある。

 吉見俊哉編著『一九三〇年代のメディアと身体』(青弓社、一六〇〇円)は、1957年生まれの編者が、多くは70年前後に生まれた東大社会情報研究所大学院生たちのワークショップ報告をまとめた本だ。無論、吉見の「一九三〇年代論の系譜と地平」は手堅い。50年代思想の科学研究会『共同研究 転向』、60年代の南博ら『大正文化』、70年代以降の雑誌『思想』の二度の30年代特集、90年代山之内靖らの「総力戦体制論」の問題設定と研究成果の変遷を辿り、「30年代」イメージ自体がいかに歴史的に構築され再構成されてきたかを、鮮やかに描き出す。

 だが面白いのは、野上元「一九三〇年代と『戦争の記憶』」、難波功史「プロパガンディストたちの読書空間」、高媛「『二つの近代』の痕跡」、北田曉大「メディア論的ロマン主義」、真鍋昌賢「『新作』を量産する浪花節」、山口誠「<耳>の標準化」と続く院生たちの問題設定と叙述である。「日本人の居場所」は朝鮮・中国・満州・台湾に回帰し、「文化」の射程は「満州観光」から浪曲「佐渡情話」へと拓かれる。

 だから、加藤周一・凡人会『テロリズムと日常性』(青木書店、二二〇〇円)が、「『9・11』と『世直し』68年」と副題されているのは、驚くにあたらない。米国同時多発テロを1968年の若者たちと結びつけたのは、19年生まれの碩学加藤周一ではなく、凡人会という勉強会で加藤から「語り」を引きだした聞き手=高度成長期生まれの市民たちだ。二つの時代をつなぐのは「暴力」にとどまらない。ジョン・レノン「イマジン」がベトナム反戦ソングとして生まれ、「宗教も国境もない世界」をうたって9・11後に一旦放送禁止となり再生したことが、「凡人」たちには強烈なメッセージだった。加藤も誠実にこれに応え、真剣勝負になっている。未だ当時のことを語り得ない日本の「68年世代」にとっては、眩しくうらやましい光景である。

(『エコノミスト』2002年12月3日号掲載)


金子勝『長期停滞』(ちくま新書)

 

藤原帰一『デモクラシーの帝国』(岩波新書)

 

 鋭い現状分析は、歴史の再解釈に裏打ちされている。「いま」の深層に肉迫すると、近過去の出来事も、新しい意味と相貌を帯びて現れる。

 金子勝『長期停滞』(ちくま新書、680円)の場合は、昨年来の世界同時不況の分析にあたって、1929年世界恐慌を鏡とする。多才な著者は、もともと19世紀イギリス財政と植民地インドの関係や、資本主義における土地・労働・貨幣の歴史的分析から「市場原理主義」を批判してきたが、日本経済の現局面を診断し処方箋を出す本書では、現代史に引照点を求めた。

 ウォール街「暗黒の木曜日」後の世界恐慌とニューディールは、当時も今も経済学上の論争点で、新たな危機が生起するたびにふり返られてきた。著者もこのオーソドクスな手法で「歴史は繰り返す」と大恐慌との共通性を抽出し、同時に変動相場制や国際協調システムなどの違いにも目配りして、同僚から大臣になった竹中平蔵経済財政・金融相とは異なる処方箋を示す。

 これなら経済学の専門家でなくても、株価低落、日銀による銀行所有株購入やペイオフ解禁延期の問題点がわかる。経済と政治の関係についても、現代史を見るヒントが満載されている。

 政治の世界でも、同じことが言える。藤原帰一『デモクラシーの帝国──アメリカ・戦争・現代世界』(岩波新書、740円)は、同時多発テロから対イラク戦争が切迫する世界でのアメリカ一極集中と単独行動主義を、冷戦時代の「超大国」や「覇権」でも、19世紀末から20世紀初頭の「帝国主義」でも把捉できないとして、古代ローマに遡る「帝国」概念で捉えようとする。

 欧米で話題のハート=ネグリ『帝国』に触発されたのは明らかだが、著者の本領は、それに「デモクラシーの」と冠して現代性を抉る点にある。84年のアメリカ映画「インディアナ・ジョーンズ」と96年「インディペンデンス・デイ」の比較から「世界政府を代行する」アメリカの「自由の戦士」「正義の戦争」を読み解く手法は鮮やか。CIA諜報員の東南アジア暗躍の物語もベトナム戦争の意味を逆照射する。ここから20世紀の意味を考え直すのは、私たち読者の問題となる。

 

(『エコノミスト』2002年11月5日号掲載)


タイン・ティン『ベトナム革命の素顔』(めこん)

 

原田健一・川崎賢子『岡田桑三 映像の世紀』(平凡社)

 

 現代史研究は、時に残酷である。青春時代の希望だった「青い鳥」の汚点やシミを、生きているうちに暴き出す。思い入れの強かった人ほど副作用が効いて、幻滅を味わい、内省を迫られる。

 ベトナム戦争は、いわゆる団塊の世代にとって、当時のアメリカの理不尽に抵抗した「正義の戦争」で、映画や文学でも「英雄的」と讃えられた。だが「解放」から30年近く、ドイモイ政策にいたるその後の情報は少ない。

 元党機関紙副編集長タイン・ティン『ベトナム革命の素顔』(めこん、3500円)は、「解放」後のベトナムからモラルが失われ、結局は旧ソ連や中国と似た党官僚支配の国になり、もう一つの革命を要するにいたった経緯をリアルに暴く。フランスに亡命した著者の眼は健全だが、かつてベトナムに希望を夢見た人にとっては、その特権・腐敗の描写はほろ苦い。「再教育」という名の収容所から土地改革、芸術弾圧、ホー・チ・ミン崇拝まで、ソ連・東欧ものでおなじみの話の連続で、著者らの在外民主化運動は救いだが、革命のもたらす宿命にやりきれない想いになるのは、評者も団塊世代ゆえか。

 原田健一・川崎賢子『岡田桑三 映像の世紀』(平凡社、5800円)は、そんな「青い鳥」探しの解毒剤になる。

 岡田桑三とは、戦前プロキノ俳優山内光の本名。祖父が英国人で関東大震災前に旧ソ連経由ドイツ留学、エイゼンシュテインに感激し左翼の二枚目俳優へ、陸軍肝いりで東方社に私財を投じグラフ雑誌『フロント』創刊、甘粕正彦の満映にも出没し波瀾万丈、戦後は渋沢敬三と組んで南方熊楠を世に出し、科学映画のパイオニアとして微生物や海藻をミクロに映像化、「海洋生物学者昭和天皇」の演出も手がけた。

 二人の若い著者は、岡田の型破りな実像と周辺を、文化プランナー、プロデューサーの先駆として詳細に追い、日本人離れしたたくましい個性とネットワークを魅力的に描き出す。副題は「グラフィズム・プロパガンダ・科学映画」で、映像文化論としても見事な出来栄え。小田実が「何でも見てやろう」「ベ平連」をくぐり身体化した生き様を、とっくに生き抜いた先達がいたことを示し、「青い鳥」探しとは自己内対話であることを教えてくれる。

(『エコノミスト』2002年10月8日号掲載)


倉沢愛子『「大東亜」戦争を知っていますか』(講談社現代新書)

 

澤地久枝『わが人生の案内人』(文春新書)

 

 インド初代首相ネルーが、獄中から娘インディラに宛てた名著『父が子に語る世界史』は、例の扶桑社教科書で、日露戦争がアジアの独立を鼓舞したという戦争肯定の文脈に利用された。

 倉沢愛子『「大東亜」戦争を知っていますか』(講談社現代新書、680円)は、「母が娘に語る日本軍政史」だ。母は、戦後生まれだがジャワ島をフィールドに日本軍の足跡をくまなく聞き取りした歴史家、娘は、親の仕事で8歳から18歳までインドネシアで過ごした。カッコ付き「大東亜」戦争という呼称が、「太平洋戦争」ではイメージしにくい東南アジア民衆にとっての日本軍政の歴史的意味を浮き彫りにする。 

 単純な侵略戦争批判ではない。現地の人々がなぜ一時期日本軍政を受け入れたか、それはどういう想いからか、日本に留学した対日協力者子弟の軌跡、敗戦後も現地に残り独立運動に加わった日本兵のその後も、丁寧に語る。

 現地の宗教政策、国民学校の日本語教育、映像宣撫工作等での朝鮮・台湾との違いに目配りし、戦時女性の役割や慰安婦問題での語りは率直で具体的だ。ネルーが結局「侵略的帝国主義のグループにもう一国をつけ加えたにすぎなかった」と結論づけた「アジアの目覚め」の深層に迫り、個人補償を拒む日本政府と「許そう、しかし忘れまい」という民衆の対日感情のはざまで、9.11以後の世界で戦争にどう向き合うかを娘と読者に問いかける。無名の人々の記憶と女性の眼差しに媒介されて、日本史は世界史に連接された。

 澤地久枝『わが人生の案内人』(文春新書、700円)は歴史書ではないが、味わい深い。大岡昇平、山本周五郎、中野重治、石堂清倫ら先達23人の追悼はそれぞれに暖かく、向田邦子、平林たい子、丸岡秀子、石垣綾子ら女性たちへの観察が光る。作家小林多喜二の通夜に現れた「タキ」と2・26事件中橋中尉の愛人「O女」への「凛として生き、言葉はなくても深くすがすがしい音色をひびかせるみごとな退場」という評言に、歴史は個人史の集積にほかならず、歴史学は人間観察の学でもあることを、思い知らされる。   

 真理は具体性の中に宿る。日本でも歴史を語りえぬ人々への眼は、すぐれた女性たちの手で切り拓かれつつある。

(『エコノミスト』2002年9月10日号掲載)


藤原彰『中国戦線従軍記』(大月書店)

 

山本武利『ブラック・プロパガンダ』(岩波書店)

 

 今年も敗戦の夏がやってきた。本職の政治学研究で、昨年9.11以降の日本民衆の「戦争」観を調べたら、米国同時多発テロで想起された記憶上の「戦争」は、ベトナム戦争でも湾岸戦争でもなく、圧倒的に60年前のアジア太平洋戦争だった。体験者ばかりか若い世代も「あの頃」とか「当時」と年号抜きで語り合った。しかし「あの頃」のディテールに立ち入ると、「飢えていた」「怖かった」という断片が飛び交う。戦争体験は風化しつつも、そうした「被害」の記憶に結晶し、語り継がれた。

 藤原彰『中国戦線従軍記』(大月書店、2000円)は、そんな時代だからこそ意義深い「加害」体験記である。著者は『昭和史』で著名な歴史家で、近代日本軍事史の専門家である。だがその学問的歩みを支えたのは、19歳で陸軍士官学校を卒業し、中国戦線で多くの年長の部下を失い、大尉として千人の兵士の命を預かった敗戦体験だった。その回想は、可能な文献資料と自己の記憶をつきあわせ、喪った兵士たちに想いを馳せる自己切開を伴う。戦時国際法を教わらなかった士官学校の短縮教育、泥沼化した中国戦線で日米開戦が画期とは思えなかった実感、「三光作戦」以前にも「燼滅」という焼尽作戦が常態化し「陣中日誌」は恩賞の基準になるので戦果の誇大化が奨励された前線の実態、「大陸打通作戦」が馬と歩兵に頼る前時代的強行軍で戦死者の過半は病死・餓死だったこと、等々。淡々とした叙述に戦争の無意味が滲み出る。

 藤原証言によると、軍事的に制覇しえても、情報戦では、民衆を掌握した中国八路軍にかなわなかった。日本軍の電話連絡網にさえ、八路軍からのよびかけが入った。

 そうした情報戦は、アメリカ軍の得意としたものだった。山本武利『ブラック・プロパガンダ』(岩波書店、2900円)は、戦時期ラジオ謀略戦を扱う労作。現代情報戦を読み解くヒントが満載されている。45年のOSS(米戦略謀略局)本土向け日本語ラジオ番組は、詳しい放送原稿が米国立公文書館に残されていた。  

 謀略はナチスや日本軍も手がけたが、非公然のブラック・プロパガンダでは、英米連合軍が圧倒した。「敵国内の反体制勢力や内通者」の声を装うため、本土向け工作ではジョー小出ら日系米国共産党員が重用され、中国戦線では野坂参三らが協力した。事実は戦後も秘匿されて、多くの謎を残した。

 9.11以後のアメリカでは、世界に偽情報を流す「戦略影響局」が暗躍し、世論の反発で廃止された。ブラック・プロパガンダは、より洗練されて、今も生きているのだ。

(『エコノミスト』2002年8月6日号掲載、ただし字数計算を間違え、掲載されたものはこの草稿を短縮)


法政大学大原社会問題研究所編『ポスターの社会史』(ひつじ書房)

 

西成田豊『中国人強制連行』(東京大学出版会)

 

 情報が氾濫する現代では、「まんが日本史」のようなヴィジュアル教材があなどれない。時には教科書以上に子供たちの歴史像形成に影響を与える。 

 法政大学大原社会問題研究所編『ポスターの社会史』(ひつじ書房、2400円)は、付録CDーROMに戦前のポスター2700点を収録し、すこぶる面白い。柳瀬正夢らの「読め! 全民衆の味方、無産者新聞」風の勇ましい左翼ポスターもいいが、内務省社会局等の公共ポスターもなかなかだ。左翼に対する情報戦で、権力側が「健康は幸福の源、国家の為に妻子の為に健康第一」と「健康」「清潔」「家庭」価値を対置したのがよくわかる。梅田俊英の解説は簡にして要を得ている。横書きがいつ右書きから左書きに変わったか、左翼宣伝で女性はどう描かれてきたかといったマニアックな読み方もできる。

 だが、勇ましい「無産階級」のポスターの下層に、見えない抑圧・抵抗があった。被害者が語り得ぬサバルタンならば、加害者側資料の裏を読み、苦吟する声に耳を傾けなければならない。

 西成田豊『中国人強制連行』(東京大学出版会、6400円)は、画像とは別の迫力と重みを持つ。前著『在日朝鮮人の「世界」と「帝国」国家』で朝鮮人強制連行を扱った延長上で、その規模は小さいが過酷さにおいて劣らぬ中国人強制連行を、極東軍事裁判に備えて作成されながら長く秘匿されてきた1946年外務省『華人労務者就労事情調査報告書』から再現する。それも外務省報告のもとになった事業所別個票「華人労務者就労顛末報告書」まで遡り、史実を掘り起こす。

 「特殊慰安」まで契約に明記した「労工狩り作戦」から、労務管理・強制労働・生活実態、花岡「暴動」にいたる抵抗緒形態が浮き彫りになる。「華労ニ負ケルナト日鮮人努力ス」といった会社側報告から、朝鮮人以上に悲惨な中国人強制労働の実態を読み解く。資料を整序する視角がそのまま骨太な戦時資本主義論となり、その「奴隷包摂経済」の特質までみえてくる。学問的想像力は、画像がなくても「現場」を再現できるのである。

(『エコノミスト』2002年7月9日号掲載)

 


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