書評のページ


『週刊 エコノミスト』リレー書評「歴史書の棚」(2002上半期)

 以前からいくつか書評を寄せていた、『週刊 エコノミスト』誌が、2001年6月の大判化を機に、「歴史書の棚」というリレー書評欄を設けた。日本史・現代史・東洋史・西洋史の順番で、それぞれ月に2冊の歴史書紹介をするということで、私はその「現代史」を担当することになった。引き受けるさいの条件に、販売終了後に本HP書評欄に収録することをお願いし、編集部の了解を得た。


松尾尊よし『戦後日本の出発』(岩波書店)

 

田中秀臣『沈黙と抵抗 ある知識人の生涯 評伝・住谷悦二』(藤原書店)

 

 この4月に同時代史学会が発足し、20世紀日本の本格的総括が始まった。松尾尊よし『戦後日本の出発』(岩波書店、3800円)は、その先駆けとして味わい深い。「旧支配体制の解体」「象徴天皇制の成立についての覚書」「考証昭和天皇・マッカーサー元帥第一回会見」「敗戦直後の京都民主戦線」と、周到で濃密な実証と徹底した史料批判で書かれた研究論文を収める。 

 たとえば「旧支配体制の解体」の対象は、1945年8月15日から翌年5月の吉田内閣成立まで。そこでの旧支配勢力、GHQ、勤労民衆勢力の対抗・模索・角逐が骨太に描かれ「55年体制」への帰結が暗示される。その鳥瞰図をもとに、45年9月27日の昭和天皇とマッカーサーの会見とそこでの「天皇発言」が、可能なあらゆる史資料を吟味し子細に分析される。二人が並ぶ有名な白黒写真をスキャナーにかけ、ピクセル単位まで吟味してカラー写真に復元したような職人技だ。

 この顕微鏡風視点で、46ー47年の京都の民主戦線運動を解析した「敗戦直後の京都民主戦線」が、抜群に面白い。社会党・共産党・自由党・労働組合・社会文化団体の各々が、それぞれに異なる戦争体験を背負ったさまざまな内部グループにいったん分解され、それらの合従連衡が人民戦線京都協議会・京都民主戦線・救国民主連盟京都支部へと展開し解体していく様が、力関係の分子的変化として生き生きと描かれる。政治史叙述の一模範である。 無論その基底には、これまで主に大正デモクラシー期を描いてきた著者の、京の町衆や知識人へのリベラルでヒューマンな眼差しが貫かれている。

 民主戦線の思想的起源を辿って、松尾の叙述の群像の一人にスポットを当てたのが、田中秀臣『沈黙と抵抗 ある知識人の生涯 評伝・住谷悦二』(藤原書店、2800円)。61年生まれの著者が、『夕刊京都』で民主戦線に合流し同志社総長として戦後の京都の反骨精神を体現する住谷の生涯を描く。「公的アウトサイダー」としての住谷の社会参加に惹かれ、言論弾圧に対する「沈黙」という抵抗形態に着目するのが、よかれあしかれ今日的である。

(『エコノミスト』2002年6月11日号掲載)

 


川上武編著『戦後日本病人史』(農文協)

 

アーチ・ゲッティ、オレグ・V・ナウーモフ編『ソ連極秘資料集 大粛清への道』(大月書店)

 

 

 かたや八百頁1万2千円、こなた六五〇頁1万5千円。たまにはこんな高価な書物に、じっくり取り組むのも悪くない。十分元は取れそうだから。

 川上武編著『戦後日本病人史』(農文協、1万1429円)は、この著者ならではの、前人未踏の大作である。およそ何が病気で、何が健常であるかは、聴診器や医療技術で定まるものではない。本書を読むと、敗戦から今日にいたるこの国は、膨大な病人をつくりだし、その治療と予防の過程で、薬害から手術ミスにいたる、新たな病いをうみ出してきた。分厚いが「家庭の医学」風事典ではない。がっちり史観で武装された体系的研究だ。医学史でも医療史でもなく「病人史」であることで、患者と医師が、療養者と介護者が、病院と世間が、厚生省と労働省がつながる。要するに、人間であることと人間でなくなることの境界が社会的に設定され、目次がそのまま社会病理のパノラマになる。731部隊から臓器ビジネスまで、DDTからヒトゲノム計画までが、時々の社会の病いの縮図と診断される。門外漢でも、これはわかる。戦後社会史研究の金字塔が出たのだ、と。

 身体の病いから心の病いまで鳥瞰できたからには、社会そのものの歴史的病いにも、メスをいれたい。アーチ・ゲッティ、オレグ・V・ナウーモフ編『ソ連極秘資料集 大粛清への道』(大月書店、1万5千円)は、「スターリンとボリシェヴィキの自壊 一九三二−三九年」の副題からわかるように、一人の指導者と支配政党全体が狂気にさいなまれる時、たまたまその社会に生きた民衆がいかに人間の尊厳を奪われ、どのような人間が殺人ロボットになりうるかを教えてくれる。ナチスというもう一つの人間性破壊に対する「反ファシズム統一戦線」の背後で粛清が頂点に達した謎は、この記録だけでは解けない。だがいわば、政治体制の「自殺者の手記」として、後世の人々に予防と免疫のヒントを残した。

 これは他人事ではない。「失われた十年」の治療法を間違うと、「失われた世紀」へと病巣は広がる。「構造改革」のカルテは、大丈夫だろうか?

(『エコノミスト』2002年5月14日号掲載)


都留重人『いくつもの岐路を回顧して』(岩波書店)

 

川上徹『アカ』(筑摩書房)

 

 

 本誌の読者には申し訳ないが、昨今の大学では、経済学の評判はかんばしくない。景気予測はあてにならず、構造改革の処方箋はさっぱり効かない。グローバリゼーションの中で市場の仕組みがみえず、現物経済から遊離したマネーゲームばかりが跋扈して、理論と現実がなかなかつながらない。マルクス経済学はソ連崩壊で影響力を失い、数式中心の理論経済学は文科系学生に嫌われる。学生の理論志向も弱まって、実際的な経営学へと向かう。

 経済学が身近で華やかな時代があった。一方にマル経があり、ケインズ、シュンペーター、ガルブレイスらの名が輝いていた。都留重人自伝『いくつもの岐路を回顧して』(岩波書店、3000円)を読むと、そんな古き良き時代に、タイムスリップできる。

 1930年に旧制八高の社研・反戦活動で検挙され、裕福な親のつてでアメリカに留学、太平洋戦争前夜のハーバード大シュンペーター教授のもとでレオンチェフ、サムエルソン、スウィージーらと共に経済学の黄金時代の一翼に。戦後占領期の経済安定本部での活動は、学者が政府の経済運営に深くコミットし、それがそのまま経済復興につながりえた時代の栄光の記録だ。

 親友ハーバード・ノーマンの不幸な死に連なるマッカーシズムのエピソードには、さらりとふれるだけである。治安維持法検挙を奇貨とした「良家の子弟」の復権・栄達物語とも読める。

 同じ治安維持法犠牲者の個人史でも、川上徹の新著は、深紅の表紙にREDSの黒文字で、ずばり『アカ』(筑摩書房、1900円)。1933年に長野県でおきた「教員赤化事件」の物語で、農家出身で人権に目覚めたばかりの新米教師だった著者の父も、多くの教員と共に検挙された。父の死後に、どうやらその後の人生を決定づけたらしいと察した息子が、資料を収集し、亡父を知る関係者を訪ね、事件の真相に迫る。そのひたむきな姿はすがすがしい。そこで初めて知る父と仲間たちの軌跡は、理不尽なえん罪で共産党から「査問」され、栄光の全学連委員長から失業者になった著者自身の半生と重なる。

 経済学で人生は解けない。せめて時代の流れだけは、骨太に解いてほしい。

 

(『エコノミスト』2002年4月9日号掲載)


アンドルー・ゴードン編『歴史としての戦後日本』上・下(みすず書房)

 

鹿野政直『日本の近代思想』(岩波新書)

 


 同じ頃に同じ出来事を体験しても、内部にいたものと外部の観察者の記憶には、微妙なズレがある。そのズレは多くの場合、時と共に拡大する。一国の歴史についてならば、なおさらである。占領期日本についてのジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』の分析に、高度経済成長をくぐって忘れていた記憶を蘇らせた日本人も多かったはずだ。

 ダワーを中心としたアメリカ・ベトナム戦争世代の日本研究者たちが、またしても、私たちの記憶を「他者の眼」で揺さぶる刺激的書物を出した。

 アンドルー・ゴードン編『歴史としての戦後日本』(みすず書房、上2900円・下2800円)の原本は、もともとバブル経済絶頂期に行われた共同研究であるが、「失われた十年」を経て日本語になっても、時差を感じさせない。当時アメリカ人の書いた日本叩き本・礼賛本の多くは、今では読むにたえないが、本書に収められた9人の力作は、私たちの記憶の拠り所をえぐり出し、新たなイマジネーションを喚起する 

 進歩派知識人のしがみついた「原初的戦後」も、体制派が賞揚する「高度成長の物語」も、共に被害者意識に根ざしたナショナリズムの色が濃く、その「経済成長」さえ、公正と結びついた「経済的成功」ではなかったと診断される。アメリカ日本研究の成熟が感じられる書物で、眼からウロコと脱帽するか、日の丸・君が代に与して反発するかで、読者の現在が試される。

 外部の他者からは見えるらしい日本現代史研究のワナにはまらないためには、私たちが「日本」そのものを相対化し、内部の他者たる沖縄やアイヌの声に耳を傾ける視座転換が求められる。

 鹿野政直『日本の近代思想』(岩波新書、780円)は、20世紀日本の思潮の情景から「日本への固執力」そのものを切り取り、「マイノリティ・日常性・人類」という切り口を設定して、自己切開に成功している。著名人から無名の女性まで「過去からの声」がぎっしりつまっている。その声の選択・論証は周到で、埋もれた記憶の断片を「いのちの現在」に鮮やかにつないでくれる。新書版だが、まことに重い一冊である。

 

(『エコノミスト』2002年3月12日号に掲載)


高田里恵子『文学部をめぐる病い──教養主義・ナチス・旧制高校』(松籟社)

 

竹内洋『大学という病──東大紛擾と教授群像』(中公叢書)

 


 いまどきの大学は大変である。学生の学力低下に国立大の統合・独立法人化、トップ30競争もあれば私大倒産もある。人文社会系でも大量の大学院生が生まれたが就職先はない。そんな状況を「病気」と診断すれば、日本の大学は、かつても大病の経験がある。

 高田里恵子『文学部をめぐる病い──教養主義・ナチス・旧制高校』(松籟社2380円)と竹内洋『大学という病──東大紛擾と教授群像』(中公叢書1800円)は、共に学徒動員に帰結する「大学の危機」の時代における「教授」「講座」という患者たちを扱う。

 高田『文学部をめぐる病い』でクローズアップされるのは、ヘルマン・ヘッセの翻訳で知られるドイツ文学者高橋健二、竹内『大学という病』は、日本リベラリズムの殉教者、東大経済学部の河合栄治郎に焦点をあてる。

 高橋健二は、戦前「青春文学」の定番『車輪の下』を訳しながら大政翼賛会文化部長に就任、戦後は東大文学部の独文学の重鎮として日本ペンクラブ会長になる。河合栄治郎は、東大経済学部の大森義太郎・大内兵衛らマルクス派のパージに成功しながら、自派の弟子にも裏切られ、自らも平賀粛学の犠牲になる。両著とも、その経緯を子細に論じ面白い。高橋は河合の編集した教養本「学生叢書」に加わったから、共通点もある。しかし、本当の主人公は、二人ではない。彼らのつとめた大学、東京帝国大学そのものである。

 『文学部の病い』では、親から法科を勧められながら軟弱な文科に入学し、かといって作家にはなれずに語学教師に甘んずる二流性、そこでせいいっぱいドイツ的教養の体現者としてふるまい、ナチスもケストナーも一緒に訳してしまう「善良さ」が、『大学という病』では、大正8年に法科から分かれて創設されたが、学説がらみの派閥抗争で開戦前に自滅した経済学部の「消費される大学教授」の振る舞いが、悲劇というより喜劇として描かれる。

 両著者は、「病い」は今日まで続き、かつて『文学部唯野教授』が話題になった頃より重症と診断しているようだ。同感だが、誰かがロースクールに到る「法学部の病い」にまでメスを入れなければ、治療法はみつからないだろう。

 

(『エコノミスト』2002年2月12日号に掲載)


譚ろ美『中国共産党 葬られた歴史』(文春新書)

 

トルクノフ『朝鮮戦争の謎と真実』(草思社)

 


 現代史の資料は、文字ばかりではない。写真・音声・映画・テレビからインターネットまである。アルバムの家族写真でも立派な第一次資料になる。

譚ろ美『中国共産党 葬られた歴史』(文春新書)は、学術書として読むには難がある。巻末に参考文献一覧はあるが、重要史実の典拠が示されず、注もない。だがその語り口は面白い。話が事実であろうことは、著者の大叔父譚天度との対話で示唆され、波瀾万丈の叙述の迫力で十分伝わってくる。

 やむをえない事情もある。今日政権にある中国共産党がいつ誰によって創立されたかについてさえ、文書資料では確定できない。もっとも著者が「日本人であれば、おそらく日時や時間はもちろんのこと、克明な会議の記録を残しているだろう」というのは、ほめすぎである。日本共産党についても、創立日時は曖昧で、創立綱領は数年前にモスクワでみつかったばかりだ。

 中国共産党創立時の中核だった広東グループが、党内抗争で毛沢東らに敗れ、それが戦後香港の処遇をめぐる中英密約で再び役割を果たす話だが、親族である著者にとっては「名誉回復」であっても、非情な政治の世界では、周恩来にうまく利用された「使い捨て」物語とも読める。中南海の奥に潜む史資料を読みたくなるゆえんである。

 では、パンドラの箱が開くとどうなるか? トルクノフ『朝鮮戦争の謎と真実』(草思社)は、ソ連崩壊で可能になった画期的な研究である。著者のコメントや訳注は最小限だが、クレムリン宮殿の奥から現れたスターリン、毛沢東、金日成らの手紙・電報がすべてを物語る。淡々とした叙述に凄みがある。金日成の南進統一論に、スターリンは東欧をにらんで素っ気なく、毛沢東はようやく建国した中国防衛第一で、「プロレタリア国際主義」のタテマエのウラでの権力者間の確執が、行間からにじみでる。「アジア・コミンフォルム」という、長くその構想の有無が学問的争点になっていた問題が、さりげなく手紙に出てきて驚かされる。

 この底深い迫力を見ると、やはり文書資料の方に軍配があげざるをえない。

 

(『エコノミスト』2002年1月15日号に掲載)


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