書評のページ


『週刊 エコノミスト』リレー書評「歴史書の棚」(2008年下半期)

 以前からいくつか書評を寄せていた『週刊 エコノミスト』誌が、2001年6月の大判化を機に、「歴史書の棚」というリレー書評欄を設けた。日本史・現代史・東洋史・西洋史の順番で、それぞれ月に2冊の歴史書紹介をするということで、私はその「現代史」を担当することになった。引き受けるさいの条件に、販売終了後に本HP書評欄に収録することをお願いし、編集部の了解を得た。

                        加藤哲郎 (一橋大学大学院社会学研究科教授)


『大暴落』と『オンリー・イエスタディ』を今こそ

 

ジョン・K・ガルブレイス『大暴落 1929』(日経BPクラシックス)

F・L・アレン著、藤久ミネ訳『オンリー・イエスタディ 1920年代・アメリカ』(ちくま文庫)

 

 これは絶妙のタイミングというほかない。ジョン・K・ガルブレイスの名著『大恐慌』が装いも新たに再生した。『大暴落 1929』と改題した村井章子の新訳で、発売日は9月29日(日経BPクラシックス、2200円)。リーマン・ブラザースの破綻を予期したかのように、世界金融危機を読み解く必読書が甦った。

 発売1か月で4刷、すでに多くの読者に読まれている。ウェブ上のブログにも多くの読後感がある。1929年恐慌を「夢見る投資家」たちの土地と株の投機熱から追いかけ、ゴールドマン・サックスの登場、投資信託とレバレッジ効果の「理論」も出揃ったところで10月24日の大暴落、いったん持ち直したが翌週大破綻、11月13日の下げ止まり以後も長く乱高下が続く。減税以外は何もできなかったフーバー大統領の無策、ウオール街を嘲笑していたロンドンへのはね返りが世界大恐慌、ドイツ・ナチス政権樹立に繋がるのだが、80年前の日々を圧倒的臨場感で体験できる。M・フリードマンの訳もある村井の日本語はわかりやすい。

 ハイエク、フリードマン全盛の時代に、しばらくケインジアンは顧みられなかった。だが高度経済成長期の日本では、ガルブレイスはベストセラー・エコノミストだった。『大恐慌』は「バブルや株安など何事かが起きる」たびに改訳・再版されてきた。今回『大暴落』と改題して商機を捉えた訳者と出版社に喝采を送るべきだろう。

 本書を読むと、29年恐慌からの脱出がいかに大変だったかがわかる。フーバー大統領やFRBの市場信仰と無策が公的介入を遅らせ、国際協調の欠如が問題を深刻にした。米国オバマ新大統領の就任は来年1月、それまで待てるかと不安になる。

 このさいもう一冊古典を挙げる。F・L・アレン著、藤久ミネ訳『オンリー・イエスタディ 1920年代・アメリカ』。ガルブレイスも要所で引く名著だが75年研究社版も93年ちくま文庫版も品切れ。バブルやベンチャーの時代が「つい昨日のように」想起される。ぜひ再版を出してほしい。

 ただし1929年と現在は違う。オバマがF・D・ルーズベルトになれるかどうかは、政府の迅速な危機管理と国際協調にかかっている。第二の経済大国日本の責任は重い。

(『エコノミスト』2008年12月9日号掲載)


世界恐慌も自分のルーツも 公文書館で追いかけたい

 

       仲本和彦『アメリカ国立公文書館徹底ガイド』(凱風社)    

小川千代子・小出いずみ編『アーカイブへのアクセス 日本の経験、アメリカの経験』(日外アソシエーツ)

 

 アメリカから発した世界金融危機は、1929年の世界恐慌を想起させる。GMもトヨタも株価を下げて、信用収縮の出口は見えない。

 そんな時は、目先の処方箋ではなく、文明史的見通しを得たい。現代の国際社会の枠組みは、世界恐慌から第二次世界大戦の総括の仕方で定まった。IMF・世界銀行も国連も民主政治もその産物で、世界恐慌からファシズムとニューディールが生まれ、戦後ケインズ主義・マルクス主義の隆盛を方向づけた。ハイエクやポランニーのアイディアもこの時代の洞察に発した。

 20世紀をじっくり見直すには、当時の第一次資料に立ち返った史実の探求が一番。ワシントン郊外の米国国立公文書館には、超大国の軍事力・経済力を誇示するかのように、ナチスドイツや軍国日本の押収文書、旧ソ連から朝鮮戦争・ベトナム戦争を含む世界史の膨大な第一級資料が眠っている。

 戦時日独関係を探索中の評者は今夏もワシントンにでかけたが、すこぶる役に立ったのが、沖縄のアーキビスト仲本和彦の『アメリカ国立公文書館徹底ガイド』(凱風社、2500円)。ワシントン市内からの交通アクセスから資料の探し方、閲覧請求の書き方、コピーの取り方、収集資料の郵送法まで、かゆいところに手の届く案内が写真や図表入りで出ている。訪問自体は5回目だが今回は効率的に調査できた。

 日米戦争・占領期の有名・無名の日本人個人ファイル多数も解禁・公開されているので、ゆかりのある人は自分のルーツ探しに出かけてみては。

 日本にも公文書館はある。小川千代子・小出いずみ編『アーカイブへのアクセス 日本の経験、アメリカの経験』(日外アソシエーツ、3800円)は公文書保存・公開の重要性を説く。ウェブ上のアジア歴史資料センターは、国立公文書館、外務省外交史料館、防衛省防衛研究所の原資料を索引ばかりでなく画像でも公開している。戦時日本の官庁資料が敗戦時にすべて焼却されたというのは神話で、実際は検索手段の未整備で活用されていなかった。官庁・自治体のみならず企業や大学の資料もアーキビストの手で整ってきた。

 こんな日米競争なら大歓迎である。 

(『エコノミスト』2008年11月11日号掲載)


経済思想の流れの中の、柳田国男と青木昌彦

 

藤井隆至『柳田国男 「産業組合」と「遠野物語」のあいだ』(日本経済評論社)   

青木昌彦『私の履歴書 人生越境ゲーム』(日本経済新聞社)

 

 なるほどこんな読み方もありかと感心した藤井隆至『柳田国男 「産業組合」と「遠野物語」のあいだ』(日本経済評論社、2500円)

 「評伝・日本の経済思想」シリーズの1冊だから、柳田民俗学が農商務省官僚としての農政学と関連づけられるだろうとは予想できたが、その接着剤に田山花袋や島崎藤村の文学が効果的に使われ、日本語の経済学の原義、経世済民の意味が浮き彫りになる。

 全生涯を描く伝記ではない。『遠野物語』を柳田が大学で学んだ自助と協同の産業組合思想の延長として、前半生の政策構想を論じる。根底には農村の貧困の社会政策的救済があり、その由来と形成過程は、花袋の小説や藤村「千曲川のスケッチ」、泉鏡花の怪談論との対比で裏側から語られる。すると『遠野物語』は山村の「生活」をスケッチした『職工事情』農民版、天狗や河童は「家々の小さな不安」の人間観察で、農政官僚としての著書『産業組合』『農政学』『農業政策』における「郷党の結合心」「地域の個性」を基礎とした「衰退しつつある小市場」活性化の経済政策の一環に読み込まれる。

 今風には分権自治、内発発展論、地域通貨論、ネットワーク論のアイディアも萌芽的に見えて、柳田における経済学と民俗学と文学のコラボレーションが巧みに整理され、刺激的だ。

 同じ伝記でも、青木昌彦『私の履歴書 人生越境ゲーム』(日本経済新聞社、1900円)は、現役第一線経済学者の自伝で、その読み方は、後生の研究者に委ねられる。著者が「姫岡玲冶」名での60年安保全学連指導者から、米国留学を経て近代経済学の比較制度分析の国際的権威になったことはよく知られているが、その知的「進化」過程が、本人の筆で平明に語られる。 

 ブント学生運動時代の内幕話も無論興味深く、本書の出版記念会にはその「同窓生」が多数集まったと言うが、評者には、ミネソタ大学での宇沢弘文ゼミ、スタンフォード大学セラ・ハウスに集うケネス・アロー、コルナイ・ヤーノシュらとの濃密なネットワークの話が面白かった。

 それは通説に対する挑戦、知的ベンチャーの意味で「対抗文化・対抗思想」の一部だった。

(『エコノミスト』2008年10月14日号掲載)


同時代をリアルに見直す困難、現実を大胆に理論化する困難

 

湯浅誠『反貧困――「すべり台社会」からの脱出』(岩波新書)

金子勝『閉塞経済――金融資本主義のゆくえ』(ちくま新書)

 

 現代史では、時代の新しい特徴が現れると近過去が見直され、時に評価が逆転する。国際関係が密になり、世界史と日本史がひとつになる。例えば日本型経営の評価は覆り、環境問題・冷戦崩壊は歴史の見方を変えた。

 かつて日本は一億総中流の勤勉な平等社会と言われた。だがグローバル化と「失われた10年」で社会環境は一変し、格差社会論が台頭した。時代を読むキーワードもフリーター、ワーキングプアから「貧困」へと転回した。

 湯浅誠『反貧困――「すべり台社会」からの脱出』(岩波新書、740円)は、今や貧困論の定番だ。凡庸な経済学者よりはるかに深く現実をとらえ、政策的問題の指摘も鋭い。事例の豊富さと適切な統計が説得力を強める。1969年生まれのNPO代表である著者は、平和と民主主義、日米同盟や冷戦崩壊には触れない。だが繊細で健全な民主主義的感性を持っている。団塊の世代ならあれこれ理屈をつけて理論化する問題を、貧困の現場をリアルに示して政策の貧困を説く。かつて庄司光・宮本憲一『恐るべき公害』が持ったような時代の歴史的証言となるだろう。

 とはいえ高度成長もバブル経済も体験した世代は、貧困が再審される時代を理論化したい誘惑に駆られる。

 金子勝『閉塞経済――金融資本主義のゆくえ』(ちくま新書、680円)はテレビで見慣れた明快な切り口で、石油危機の1970年代以降を「商業資本主義」「産業資本主義」に続く「金融資本主義」の時代と特徴づける。

 本書の面白さは主流派経済学にも正統マルクス主義にも距離をおき「経済学批判」として時代を斬る姿勢だ。  「バブルの経済学」「構造改革の経済学」「格差とインセンティブの経済学」と最新の経済理論が整理され、グリーンスパンからジョン・ロールズまで小気味良く批判される。市場原理主義の無力を暴き日本経済の閉塞を説く。

 もっともその主張は論争的で挑発的だ。経済成長の処方箋を求める読者は反発するだろう。だが「経済学は役に立つか」「経済学の枠組みそのものを大きくとらえ直す必要」を文明史的に問い直す経済学者がいることに、門外漢としては一抹の希望を持つ。

(『エコノミスト』2008年9月16日号掲載)


『蟹工船』の時代の権力に抵抗する良心

 

井上學『日本反帝同盟史研究 戦前期反戦・反帝運動の軌跡』(不二出版)

太田哲男『若き高杉一郎 改造社の時代』(未来社)

   

 小林多喜二『蟹工船』がベストセラーだという。ワーキングプアの若者たちの共感と共に、出版社の広告戦略も見え隠れするが、戦前日本の名作が甦るのは喜ばしい。

 だが派遣労働のタコ部屋と工場が今風でリアルなだけではない。文庫本で合冊の『党生活者』も読んで、その時代背景を想像してほしい。『蟹工船』は20年前にハングルに翻訳され、韓国民主化運動の中でも読まれた。多喜二がなぜプロレタリア文学に近づき、何をめざして奴隷労働を告発したか、なぜ特高警察の手で虐殺されたのか、韓国の若者がなぜそれに共感したかを知るには、井上學『日本反帝同盟史研究 戦前期反戦・反帝運動の軌跡』(不二出版、8500円)のような重厚な専門書にも挑戦してほしい。

 綿密な資料収集と時代考証で著者が描いた反戦平和・反帝植民地解放の「もうひとつの伝統」は、当時の最下層ワーキングプアである在日朝鮮人の労働運動、朝鮮半島の抗日独立運動と連帯していた。国際反帝同盟のグローバルな運動に加わることで、自国の貧困から他国への侵略に向かう誘惑の回路を断ち切ることができた。

 文学の世界なら、治安維持法下の政党・労働組合弾圧の後にも、個人の思想的拠点構築の営み、リアルな認識から抵抗への文脈の追体験が可能だ。  

 太田哲男『若き高杉一郎 改造社の時代』(未来社、3500円)は、シベリア抑留体験を描き芥川賞候補になった『極光のかげに』や『スターリン体験』で知られる高杉一郎の本名小川五郎時代、改造社『文藝』編集者としての軌跡を丁寧にたどり、軍国日本にも社会主義ソ連にもなびかなかった自立の根拠を探る。本年初めまで存命した本人の記憶の聞き取りを当時の記録で検証して史実を再現し、学生時代からのロシア文学、エスペラントの素養、「日中文学者往復書簡」の編集、「権力とたたかう良心」を精選した欧米文学の翻訳に、「紀元2600年」への思想・言論・出版の自由のぎりぎりの抵抗線を見出す。

 当時の『蟹工船』はトルストイや魯迅と併読されて希望につながった。今の若者に出口を示す羅針盤がほしい。

(『エコノミスト』2008年8月12/19日合併号掲載)


日本の満州国・朝鮮半島支配に、善意や人間性を見ていいのか

 

佐野眞一『甘粕正彦 乱心の曠野』(新潮社)

水野直樹『創氏改名』(岩波新書)

 

 甘粕正彦といえば、関東大震災の戒厳令下で、無政府主義者大杉栄、伊藤野枝と少年の3人を虐殺した非情の憲兵大尉として知られる。

 佐野眞一『甘粕正彦 乱心の曠野』(新潮社、1900円)は、その生涯を「主義者殺し」から敗戦時満州映画理事長の服毒自殺まで丹念にたどり、映画『ラスト・エンペラー』で坂本龍一が演じた冷酷無比な謀略家とは一味違った甘粕像を描き出す。

 前半の甘粕事件そのものの検証は、陸軍士官学校時代のノート・書簡、新発見の大杉「死因鑑定書」や関係者の証言で、甘粕一人に帰された犯行の背後に東京憲兵隊本部の組織的指令、淀橋警察署特高課の関与を見出し、むしろ軍法会議で汚名を一身に引き受けた甘粕の責任倫理を浮き彫りにする。そこから1939年満映理事長就任までの空白を埋める熟練のノンフィクションが、迫力満点の歴史物語になっている。満映での関東軍の干渉排除・中国人厚遇、旧左翼映画人の登用、矢内原忠雄の研究支援といった点で、李香蘭や森繁久弥らの回想を補強している。

 確かに面白い。だがそこで描かれた「人間甘粕」を直ちに受け入れていいのか。私利私欲に潔癖で責任感の強い個性はその通りだろうが、満州事変への関与、関東軍の裏金作り、「満人にも通じるプロパガンダ」の日本中心主義はぬぐえない。「合理的」植民地支配、「帝国」強制の方法的差異に見える。

 水野直樹『創氏改名』(岩波新書、780円)は、そんな「帝国の善意」と「帝国主義」の紙一重を、1940年 朝鮮半島における「創氏」と「改名」の実施過程から丁寧にあぶり出す。もともと姓を持つ朝鮮人に氏=イエを与える「自発的」日鮮同化という総督府の政策には、日本人と朝鮮人の区別がつかなくなるという根強い批判があった。だから「改名」は「創氏」ほどには強要されず、実施率も低かった。植民地支配の同化と差別の組み合わせが、当事者の心情とは関わりなく論議・決定され「名前の文化」が奪われた。

 「満州国の夢」に戦後の高度成長や「東アジア共同体」の原型を見る論は多い。だが現実を体験した中国・朝鮮の人々との「夢の共有」は難しい。

(『エコノミスト』2008年7月15日号掲載)



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