以前からいくつか書評を寄せていた『週刊 エコノミスト』誌が、2001年6月の大判化を機に、「歴史書の棚」というリレー書評欄を設けた。日本史・現代史・東洋史・西洋史の順番で、それぞれ月に2冊の歴史書紹介をするということで、私はその「現代史」を担当することになった。引き受けるさいの条件に、販売終了後に本HP書評欄に収録することをお願いし、編集部の了解を得た。
加藤哲郎 (一橋大学大学院社会学研究科教授)
秋の政局を揺るがした自民・民主「大連立」騒動。仕掛け人は読売新聞渡邉恒雄主筆といわれる。日本経済新聞連載「私の履歴書」に加筆した『君命も受けざる所あり』(日本経済新聞出版社、1600円)の発売は11月1日、タイミングがよすぎる。
時に上司に背いても自己の判断を貫けとサラリーマンに説き、取材対象の懐に飛び込んでのスクープを誇る。大野伴睦、中曽根康弘らに食い込んだ政治の裏話は生々しく、ジャーナリストというより黒幕フィクサー風。敗戦直後の東大共産党細胞・新人会の人脈を今日まで駆使し、強引な取材・経営手法は占領期共産党にそっくり。
ジャーナリストとしての武勇談も多いが、書かれていないこともある。佐藤・ニクソン沖縄返還交渉に肉迫しながら核持込み密約には触れない。隣国を「核保有を誇示する旧大日本帝国のような軍事独裁国家」と述べるが国名は名指さない。最後の著書にするのは惜しい。「大連立」の内幕を含む報道人としての完結編を残してほしい。
生臭い読後感の毒消しに、昨年末青森の地方出版社から出た菊池清麿『国境の町 東海林太郎とその時代』(北方新社、1800円)。紅白歌合戦で「赤城の子守歌」を熱唱する直立不動の歌手には哀愁の陰が感じられた。その秘密は満州にあった。歌手東海林太郎は早大大学院卒のエリートで満鉄調査部員だった。恩師は非合法共産党指導者から獄中転向の佐野学、「満州に於ける産業組合」という学術論文もある。
音楽好きの青年の生涯を変えたのは蓄音機と満州事変に向かう好戦ムード、学生結婚した幼なじみの妻の上昇志向になごめず、バリトン独唱をピアノで伴奏してくれた妻の友人に惹かれ家庭崩壊。退職・帰国して開いた中華料理店も学生への出血サービスで商売にならず、一念発起し音楽コンクールに応募、音楽学校も出ていない独学だが何とか入賞し、天才藤原一郎とは異なる硬派浪曲調で軍靴の時代の庶民の心をつかむ。流行歌手として前線慰問もいとわず戦後は冷飯、場末のキャバレーから復活して日本歌手協会初代会長、紫綬褒章。寡黙で一所懸命な歌声通り、潔くまっすぐな生き方が清々しい
(『エコノミスト』2007年12月18日号掲載)
団塊世代サラリーマンの大量退職が始まった。ほとんどの大学教師にも定年があり、教育の仕事から解放される。ただし研究には定年はない。現代史研究ならば、歴史好きのサラリーマンでも退職後に参入できる。
そんな人々に、功なり名遂げた大家が新領域に挑戦し、お手本を示した。今井清一『横浜の関東大震災』(有隣堂、2300円)の著者は、震災の翌1924年生まれ、かの『昭和史』共著者の最新研究で、地図と写真が効果的。
関東大震災というと、首都東京が壊滅し死者10万人中6万余、その後の復興も、帝都東京中心でイメージされる。ところが当時の震災誌にあたり詳しく調べると、震度も死亡率も、横浜の方がはるかに大きい。東京は下町火災で二次被害が広がったが、横浜は震災そのものに直撃され破壊されていた。
阪神・淡路大震災に心を痛め、新潟中越地震で筆を執ったという著者は、「一揺れで潰れた横浜」を、山下公園の崩壊から伊勢佐木町の惨状まで地域ごとに様相を再現する。最新の地震学から地形図と被災の関係を読みとる若々しさと、横浜から発した朝鮮人・中国人暴動の流言を発信地から追って史資料で裏付け歴史的意味を探る円熟した筆致が融合し、今日の都市政策、地域社会の防災に教訓を導き警告する。
今井の翌年、1925年生まれの藤田勇『自由・民主主義と社会主義 1917−1991』(桜井書店、11500円)は、別の意味で若々しい。著者は、ソ連法研究で知られる東大名誉教授で、歴史を論理的に突き詰める重厚な学風が魅力である。ソ連崩壊後、前著で1848年革命期まで遡りロシア革命と社会主義の意義を再考したが、本書で21 世紀へと論理の筋道をつける。
社会主義思想・運動の第1段階「自由・平等・共同社会」は19世紀末に「自由主義・民主主義と社会主義」の第2段階に移行し「ソビエト型社会=政治体制」が生まれた。本書は「社会主義史の第2段階とその第3段階への移行」と副題され「社会主義への民主主義的な道」が焦点とされる。読みやすい大河小説風ではないが、原書に当たり直し700頁を書き下ろした粘着力、奥深い問題意識と柔軟な思考に脱帽。
(『エコノミスト』2007年11月20日号掲載)
歴史書ではないが、歴史を読み解く道具立ての歴史を学ぶと、現代史を見るさいの刺激になる。そんな頭の体操に格好な新書を2冊。
ネーションとは難しい言葉である。民族とも国民とも訳され、時には国家と同義になる。その理論世界に革命をもたらしたのが、コーネル大学東南アジア研究のベネディクト・アンダーソン教授で、「ネーションとはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体である」テーゼは一世を風靡した。
その来日講演の記録、梅森直之編著『ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る』(光文社新書、700円)は、「想像の共同体」のアイディアがどこから生まれ、その著書が世界でどのように読まれ、スミスやゲルナーやホブズボームとどのように異なるか、デリダもフーコーも読まずに書いたのになぜポストモダンと誤解されたかを述べる。「想像」だからナショナリズムは近代だけの現象とする見方には反対し、「ネーションの持つ重力」から「共同体」のあり方に立ち入ってアナーキズムを評価する視角が刺激的。編者の解説も平明で秀逸。
ナショナリズムを追いかけると、言語の問題に突き当たる。アンダーソンも「翻訳のナショナリズム」に触れ、日本の学生に「英語以外の外国語をしっかり学べ」と勧めていた。
その世界に鋭く迫る日本の碩学の新著、田中克彦『エスペラント 異端の言語』(岩波新書、740円)は、巧まざる言語思想史入門になっている。
エスペラントというと、インターネットの英語帝国主義におされすっかり衰退したかに見えるが、国際人工語の構想がどんな理念から生まれどう普及してきたかを、実際の文例表記を交え、120年の歴史として振り返る。
日本には二葉亭四迷から大杉栄、新渡戸稲造から柳田国男へと世界語表現を切望する水脈があった。宮沢賢治の「イーハトーヴォ」も北一輝の「英語ヲ廃シテ国際語ヲ課ス」もエスペラントだった。日本から魯迅を経て伝播した中国は今日なおエスペラント大国という話に、著者の言う「自らの意識の基層の自由な表現」の切実さ、「ことばを人間の手に」の希望が見えてくる。
(『エコノミスト』2007年10月23日号掲載)
日本経済の「戦後レジーム」は占領下の財閥解体、労働改革、農地改革に始まる。そこで傾斜生産方式やドッジラインによる復興計画に参画した一群の経済学者がいた。ローラ・ハイン『理性ある人びと 力ある言葉 大内兵衛グループの思想と行動』(大島かおり訳、岩波書店、5700円)は、その中核をズームアップして、経済学と経済政策の関係史を描く。
著者が「大内グループ」とよぶ大内兵衛、有沢広巳、脇村義太郎、高橋正雄、美濃部亮吉、それに日米戦争前に没した大森義太郎の考えは、各章のタイトルで要約される。曰く「世の中に影響を及ぼす」「平和のための仕事」「資本主義の矛盾を和らげる」「消費と民主的家庭」「グローバルに考えローカルに行動する」。彼らは戦前マルクス経済学の労農派から出発、軍部と右翼に睨まれ東大経済学部を追放・蟄居、積極的戦争協力は拒み統計調査に専念、戦後はGHQニューディーラーや都留重人らも巻き込み「平和経済」再建と「合理化」に尽力、吉田茂から池田勇人に至る政権と経済官庁にアイディアを提供し、社会党・労働組合・市民運動へも影響力を行使。時代を先取りした思考は美濃部革新都政の自治、福祉、女性、環境政策に結実した。
その間の6人の結集と離反、協働と分業を追い、そのエリート主義には距離をおく。マルクス主義とケインズ主義が幸福に結ばれた高度経済成長期の矛盾は「民主主義対効率」と描かれる。著者が意識したか否かは別として、日本における「第3の道」の早熟的形成の記録とも読める。米国人女性学者ならではの男性経済学批判も随所に。
だが戦後の出発点は本当に1945年8・15だったのか。こう問いかけた『八月十五日の神話』の続編、佐藤卓己・孫安石編『東アジアの終戦記念日 敗北と勝利のあいだ』(ちくま新書、740円)が面白い。8・15を敗戦・解放と一対で記念するのは日本と韓国だけ。台湾・中国・旧ソ連・英米でそれぞれ第二次世界大戦の終期は異なる。日付の違いは意味づけの違いで、国内でも北海道・沖縄の「終戦」は異なる。
「国民国家の記憶」とは公教育とメディアの合作なのだと改めて得心。
(『エコノミスト』2007年9月25日号掲載)
国際赤十字といえば老舗のNG0で、政治的中立・人道支援のイメージが強い。そのジュネーブ国際委員会文書庫に、イギリス生まれでオーストラリアに住む日本研究者が見いだしたものは、1959年以後新潟から海をこえて北朝鮮に渡った九万人余の在日朝鮮人家族の悲劇のルーツ、帰還事業の背後にうごめく冷戦の論理と大国の思惑、赤十字の隠れ蓑を使った日本政府の積極的関与だった。
テッサ・モーリス-スズキ(田代泰子訳)『北朝鮮へのエクソダス 「帰国事業」の影をたどる』(朝日新聞社、2200円)は、著者自身が語り部になって現代史の深層を探る旅である。
旅は新潟から始まる。在日の人々の記憶と声をきき、釜山・済州島に、平壌・板門店にも出向く。そこに理不尽に引かれた38度線は、アジア太平洋戦争と朝鮮戦争の延長上に北朝鮮帰還事業があると語りかける。間をつなぐ記録はジュネーブにあった。日本政府が55年から赤十字国際委員会に厄介払いを働きかけ、それを人道の衣で実現しようとした仕掛けが見える。米国は日米安保の戦略的課題に従属させ、ソ連は社会主義の利害から妨害せず「沈黙のパートナー」となる。朝鮮総連も南北朝鮮も、実は主役ではなかった。
靖国神社の問題も、もっぱら国内「英霊」と中国・韓国との関係で語られるが、中村直文・NHK取材班『靖国 知られざる占領下の攻防』(NHK出版、1700円)を読むと、1945年に靖国神社が存続できたこと自体、「発言するパートナー」占領軍とのせめぎあい、それも日本側というよりむしろ米国側内部の、ルーズベルト大統領の「四つの自由」の一つ「信教の自由」と、神道をどの程度に宗教と認めるかの攻防が決定的だった。天皇制を象徴として残すことと、国家神道解体・靖国宗教法人化はワンセットだった。
NHK放映番組の取材成果を書物にするシリーズの目玉は、映像的読みやすさと新資料発見・公開である。今回の目玉は、オレゴン大学に眠っていたGHQ宗教課ウッダード資料だった。
戦後システムの終焉を言う前に、まずはシステムそのものの起源を20世紀世界史の中で再検証すべきだろう
(『エコノミスト』2007年8月28日号掲載)
シンガポールは、かつてリー・クアンユー元首相がルック・イースト「日本に 学べ」を唱え、親日の国と思われがちだ。だが林博史『シンガポール華僑粛 清』(高文研、2000円)を読むと、そう単純ではないようだ。
1941年12月8日、真珠湾攻撃より2時間早く日本軍のマレー半島上陸は 始まった。約2か月の電撃戦でシンガポールを攻略、インド兵が半数を占める イギリス軍13万人を捕虜にした。
進軍当初から始まった華僑虐殺は42年2月下旬に頂点に達し、現地では4 -5万人の中国系住民が日本軍への敵対・スパイの廉で虐殺されたと伝えられ る。「日本に学べ」で進められた近代化の工事現場から大量の遺体が発掘さ れ、「血債の塔」にまつられた。
問題は犠牲者の数ではない。オーラルヒストリーで発掘されたケースの一つ 一つに、かけがえのない人生と家族があった。従軍慰安婦や靖国神社が報じら れるたびに、深層の反日・嫌日感情が再生する。ラッフルズ・ホテルが昭南旅 館とされた屈辱の記憶が甦る。
日本人である著者は、軍資料と英米公文書を現地の記憶とつきあわせ、粛清 を再現する。こんな地道な努力の積み重ねこそ、長い眼でみれば、反日感情を ときほぐす。加害の記憶は風化しても、被害の記憶は長く残る。後の世代は歴 史的事実を正面から受け止め、非戦の思想として受け継ぐしかない。
山室信一『憲法9条の思想水脈』(朝日新聞社、1300円)は、日本国憲 法9条の平和主義を、戦争放棄・軍備撤廃、国際協調、国民主権、平和的共存 権、非戦の5つの基軸の思想的凝集と位置づける。その源流をたどり、サン・ ピエール、カントらの西欧恒久平和主義の水脈と、横井小楠の戦争廃止論、小 野梓の世界大合衆政府論、植木枝盛の万国共議政府等、幕末・維新からの日本 のコンスティテューション(憲法制定)構想の合流を見いだす。
福沢諭吉はソサイアティを「人間交際」と訳した。国家と国家の間にも、憎 悪と戦争に向かう流れに抗する地球社会と人間交際への希求があった。著者の いう思想連鎖から読めば、日本国憲法の世界へのよびかけは、おしつけでも例 外でもなかったと納得できる。
(『エコノミスト』2007年7月24日号掲載)