地上の天国に一番近づいたとき

         ~ パリ・コミューン考 ~

                                宮内広利

1 プロローグ

 

マルクスは、1871年のパリ・コミューンにふれて、次のように描いている。

 

《コミューンの第一の布告は、常備軍の廃止と、武装人民によるその代替とであった。コンミューンは、市内各区における普通選挙によって選出され、有責であって短期に解任され得る市会議員から形成された。その議員の多数は、勢い、労働者、乃至は労働者階級の公認代表者であった。コンミューンは、代議体ではなく、執行権であって同時に立法権を兼ねた、行動体であった。警察は、依然として中央政府の手先きであるかわりに、ただちにその政治的属性を剥奪され、そして責任をおいいつでも解任され得るコミューンの手先きとなった。行政府の他のあらゆる部門の官吏も、そうであった。コミューン議員以下、公務は、労働者賃金においてされねばならなかった。》

『フランスの内乱』 マルクス著 木下半冶訳

 

また、一般論として、《労働者階級は単にでき合いの国家機関を掌握して、それを自分自身の目的のために使用することはできない》と述べている。そして、コミューンは、《本質的に労働者階級の政府であり、所有階級に対する生産階級の闘争の所産であり、そのもとで経済的解放を達成し得べき、ついに発見された政治形態であったのだ。》とした。

 エンゲルスは、『フランスの内乱』の第三版の序文において、パリ・コミューン20周年記念に当たり、パリ・コミューンを「プロレタリア独裁」と呼び、マルクスがパリ・コミューンに抱いた思い入れを補足するように、労働者階級は権力を掌握した場合、古い国家機関で間に合わせることはできないこと、行政上・司法上・教育上の代表者を一般投票で行うこと、また、その代表者は他の労働者が受けとる賃金を超えることがない金額を受け取ることを取り上げて追認している。とりわけ、この労働者階級は、単にでき合いの国家機関を掌握して、それを自分自身の目的のために使用することはできないことが必要不可欠な要素であると結んでいる。

これに関するマルクスの主意は、革命は政権交代ではなく、およそ政治革命と呼ばれる限り、既存の国家機構を、そのまま奪取するのにとどまるのではなく、その官僚・軍事国家機構すべてにわたって、これを粉砕し、新しい国家機構を構築しなければならないことであると述べている。そして、マルクスはこの貴重な経験をふまえて、あえて『共産党宣言』の一部を修正することを、1872年のドイツ語版の序文において示した。

なお、エンゲルスは、その上、パリ・コミューンが、ブランキストとジャコバン派、プルードン主義者などの寄り合い世帯が主導した限界もあり、マルクスの理念にもとづき、すべてのことが実現できなかったほか、特に、経済的解放に関する多くのことが、等閑視されていたという批判も忘れなかった。

のちにレーニン(1870~1924)は、1917年10月のロシア革命の前夜に書き上げた『国家と革命』のなかで、パリ・コミューンの経験に関するマルクスの分析に論及している。その国家論は、折にふれてコミューンの教訓に学んだレーニンの思想が、歴史の未来にとどきうる長い射程をもっていた唯一の場所である。レーニンがその只中にいたロシア革命では、目の前に何百という労働者、兵士、農民の「ソヴェト」がつくられていた。レーニンは、これを前にして、マルクスがこのパリ・コミューンの経験を足がかりにつかんだプロレタリア革命の成果を重ねるかのように、従来の理論の見直しを行なおうとした。

レーニンには、まず、国家とは何かという設問があった。

 

《マルクスによれば、国家とは階級支配の機関、すなわちある階級が他の階級を抑圧するための機関であり、また、「秩序」を形成することによって、そうした抑圧を合法化・固定化しつつ、階級相互間の衝突を緩和することにほかならない。》

『国家と革命』 レーニン著 角田安正訳

 

つまり、あらゆる国家は、階級抑圧の暴力的装置であり、資本主義の国家は、プロレタリア階級を抑圧する道具である。ここでレーニンが述べているのは、国家と呼ばれる権力は、社会のなかから発生しながら、社会のうえに君臨し、逆に社会から疎遠になっていく権力の総体である。それは武装した人間からなる特殊部隊(警察・常備軍)をもち、監獄そのほかの施設をともなっている暴力組織である。抑圧された階級を、搾取する道具としての国家の役割は、大衆が普通選挙権をもっている民主共和制のもとでも、本質的には変わりない。

レーニンは、資本制社会を転覆するためには、まず、一握りのブルジョアジーが、大多数の被抑圧人民を支配する道具にしているブルジョア国家を、政治革命によって、逆に、プロレタリアートがブルジョアジーを抑圧するための、独裁権力におきかえなければならないとした。組織されたプロレタリアートは、はじめに、政治権力を掌握し、政治的国家の支配権を手に入れ、国家を支配階級として組織された武装したプロレタリアートに変えなければならないのだ。そして、これこそがプロレタリア革命によるブルジョア国家の「廃絶」である、とした。

ただし、プロレタリアートが政治権力を握っても、できあいの国家機関を継承して、それを自分自身の目的のために使用することはできないのだから、従前の国家を構成するブルジョア国家・官僚制度を根こそぎ「廃絶」して、ブルジョアジーにたいする抑圧装置に変えることが、「プロレタリア独裁」の国家である。そして、エンゲルスはいう。《諸君はこの独裁がいかなるものであるかを知りたいのであるか?パリ・コミューンをみよ。それこそは、プロレタリアートの独裁だったのだ》。

その際、このブルジョア国家からプロレタリア国家への転換は、暴力革命をぬきにしては不可能である。なぜなら、プロレタリアートは、中央集権的な暴力組織を必要とする。それはブルジョアジーの抵抗を排除するためであり、社会主義の新たな経済・社会構造をつくりだす作業(社会革命)において、圧倒的多数の住民、農民、プチブル、半プロレタリアートを組織化するためである。したがって、「プロレタリア独裁」の国家は、つねに中央集権的な国家である。

 しかし、この「プロレタリア独裁」の国家自体は、政治が社会の目的ではないのと同様

に、究極の目的ではなく、あくまで過渡期の国家であり、つまり「準国家」または「半国

家」と呼ばれることを原則とし、当然、官僚機構におちいらないための必要な制限が加え

られる。なぜなら、この段階においては、国家はすでに、特定の階級を抑圧するための特別な権力という枠組みをこえ、本来の意味では、国家とはいえないものに転化しているからである。つまり、人民の大多数が支配する権力は、もはや階級抑圧の必要性が薄れ、国家は、死滅を準備する段階に入ろうとしているからだ。

 そして、レーニンによると、その「廃絶」された国家機構の替わりに、新しいコミュー

ン(国家機構)が誕生する。コミューンは常備軍を廃止し、労働者独自の軍隊をつくる。また、公職者を公選で選び、すべての役職を解任権(リコール権)の対象にする。そして、議員報酬や官僚の金銭的特権を廃止する。これらが実現できたとき、ブルジョア民主主義から「プロレタリア民主主義」への質的移管が行われたとした。

また、レーニンは、マルクスが議会制度を否定していることに着目した。レーニンにと

って、議会制度とは、支配階級の人民抑圧の道具の名残りであり、これは立憲君主国に限らず、民主主義の最先端の「共和国」においても同様である。コミューンは、駄弁のとびかうブルジョア議会の腐敗した代議制度にかえて、《議員が自分の足で活動し、自分の手で法を執行し、自分の目で実施事項の確認を行い、選挙民に対して自分自身で責任を負う》代議制の実働機関に変換するのである。この国家は、議会制のようなおしゃべりの団体ではなく、法律の布告と実行に責任をもつ実働的な機関である。

 「プロレタリア民主主義」の諸原則のうち、レーニンが、特にこだわったのは、その代議員(官僚)の俸給が、通常の労働者の賃金を超えないものとすること、議員報酬や官僚の俸給の引き下げなど、官吏の経済的特権の廃止であった。そこで、こういう原初的な民主意識の実現のためには、従来の国家権力とことなって、国家の機能そのものが、簡略化され、全員が官僚になると同時に、だれも官僚になれない、通常の労働者の賃金で遂行できる程度にまで簡単な機能になっていることが必要だった。レーニンの描いた構想はこうだ。

プロレタリアは権力を握るや、従来の官僚特有の「上からの指揮」を廃止し、それにか

えて「現場監督や会計係」にたとえられるような、新たな官僚機構を構築し、その新官僚機構が、あらゆる官僚制を徐々に廃止に追い込むのだ。こうして、国家は行政機関として、「現場監督や会計係」にたとえられる管理と監督の役割を、人民全員で果たす体制へ移行する。

これが、プロレタリア政治革命を成就するための第一条件である。ますます役割が平易化するにつれて、「現場監督や会計係」の仕事は、人民全員が輪番でこなすようになる。

社会主義の第一の政治的原則を提示したレーニンが、愚直なまでにこだわったのは、マルクスが、パリ・コンミューンに垣間見た、以上のような原則だった。レーニンの思想の分水嶺は、徹底した民主主義が社会主義に転化していくことであった。国家を開放するためには、国家行政の機能を単純化し、それを住民の大部分に務まる「監督や会計事務」という単純な作業にしていることが必須条件だった。また、出世主義を完全に排除するため、国家行政ポストには、労働者と同等の賃金を与えるとしているのである。

しかし、レーニンにとっては、ここでとどまることなく、社会主義と政治革命が、最終的には、国家を「死滅」させるものでなければならなかった。支配階級として組織されたプロレタリア独裁は、国家の消滅にいたるまでの、あくまで過渡的形態であると結論づけたのである。レーニンの社会主義とは、国家消滅の過程であったからである。

したがって、この段階では、まだ、ブルジョア国家は「死滅」するのではなく、やっと政治革命を終えたばかりである。そこでは、政治権力が、プロレタリアートによって「廃絶」されたばかりである。

そこで、次の段階は、政治権力にもとづき社会革命を推し進めることになる。この段階

の経済・社会構成上の原理は、資本主義社会から共産主義社会の間に介在する移行期の性格をもっている。その過程においても、政治的移行期をぬきに考えることはできないから、「プロレタリアート独裁」はまだ存続している。ただし、それは資本主義のもとでの国家のような国家としてではなく、「準国家」または「半国家」として、ようやく社会革命をスムーズに推し進めるための過渡的な国家であり、言葉の真の意味での国家ではない。そして、プロレタリア国家は、社会革命をつうじて、生産手段の社会化等の経済・社会的解放を行い、共産主義社会の第一段階をかたちづくる。しかし、資本主義社会を母体としてこの世に生まれたばかりの共産主義社会は、社会主義社会と称すべきものである。この経済的・社会的構成は次のようなものだ。

 

《生産手段はすでに個々人の私有を脱し、社会全体のものとなっている。社会の各構成員は、社会に必要な仕事を決められた量だけこなし、かくがくしかじかの仕事量をやり遂げたという証明書を社会から受け取る。そしてこの証明書に基づいて、消費財用の公共の倉庫から、しかるべき量の生産物を受け取るのである。したがって各労働者は、社会的ストックに充てられた労働量を控除された上で、社会にもたらすのと同じだけのものを社会から給付される。》      『国家と革命』 レーニン著 角田安正訳

 

これはマルクスの説明からみると、依然として「労働に応じて」消費財を分配せざるをえないという点で、「ブルジョア的権利」の限界にとどまっている。したがって、共産主義社会の第一段階は、すべての大衆に、まだ、公正と公平をもたらすにはいたらない。この社会においては「ブルジョア的権利」以外の基準はまだ存在しない。そして、その限りにおいて、依然として「準国家」、「半国家」は必要とされるのである。ここでは、生産手段の社会化を擁護し、労働の平等と生産物の分配の平等を擁護するために必要なのである。

だが、これは究極の理想でもプロレタリア革命の目的でもない。全員が社会生産を自力で管理することをおぼえ、管理をおこなうようになると、その社会生活の簡単かつ基本的なルールを守る必要性は、ごく短期間のうちに習慣化するからである。そのときより、共産主義のより高次の段階がはじまる。

レーニンは確信する。社会主義は共産主義に転化し、それにともなって、人間一般にたいして暴力を行使する必要や、一部住民を他の住民に服従させる必要がいっさいなくなるという社会をつくることでできる。つまり、社会革命がより進展し、共産主義のより高度な段階=共産主義社会に達すると、分業は姿を消し、頭脳労働と肉体労働の対立も解消され、人間社会の生産力が飛躍的に発達する。そうなれば、「各人は能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」ことができるようになる。こうなってはじめて、国家は完全に「死滅」する段階にいたる。こうして、ブルジョア的権利の視野の狭さを克服するこの段階になってはじめて、生産物の分配についても、各人が受け取る生産物の量を、社会の側から規制する必要がなくなるからである。共産主義社会になると、資本家の抵抗もなくなり、資本は消滅し、階級もなくなる。こうなってはじめて国家が、地上から姿を消し、人々がはじめて自由について語ることができるようになる。

そして、言葉の厳密な意味において国家の「死滅」というのは、社会全体の名において、生産手段が社会化されたあと、すなわち共産主義社会への過渡期において、国家の統治形態が、ようやく消滅の途をたどりはじめる。このようにして、やっと国家が不必要になる過程をさして、国家の「死滅」とよぶのである。社会全体の名において、生産手段が社会の支配下におかれたあと、共産主義のより高度な段階にいたれば、国家はその役割を終え「死滅」する。なぜなら、プロレタリアートとブルジョアジーなどの階級対立のない社会では、どちらかの一方が、他方を抑圧する必要がないため、国家は必要ないし、その存立条件を失うからである。

だから、そもそものはじめから、プロレタリアートにとって必要な国家(コミューン)とは、いわば、逆説的な国家、次第に、死滅していく国家、ただちに死滅しはじめ、必ず死滅することが条件づけられている国家のみである。

 以上のようなマルクスの原則の見取り図の上にたって、レーニンは、ひとつは、資本主義から共産主義への移行期において、ブルジョア国家を徹底して粉砕したうえで、「プロレタリアートの独裁」を認めるかどうかが、「日和見主義者」や「改良主義者」と、マルクス主義の歪曲とを分かつ試金石になるという。また、もうひとつは、究極の目的である国家の死滅を認めるかどうかである。つまり、人間一般にたいするあらゆる暴力が残らず死滅することを求めるかどうかである。

それは国家の完全な死滅につながる経済・社会的な条件であるとみなされる。レーニンは、マルクスやエンゲルスの言葉の断片を切り張りして引用しながら、パリ・コンミューンの体験の検討にもとづいて、プレハーノフやカウツキーをマルクス主義の歪曲・日和見主義であるとして批判した。

 国家にたいしてプロレタリア革命がいかなる態度をとるべきかは、ソヴェト=コミューン型の国家をめざしたはずのソ連邦が、レーニンの掲げた原則を明瞭に示した。しかし、歴史は皮肉にも、レーニンの思惑とはまったく対極のソヴェト・ロシア国家をもたらしたことをおしえている。国家は死滅するどころか、党と官僚組織はますます肥大化し、テロと粛清と相互不信の恐怖政治が産まれた。その後のソ連邦の歴史は、レーニンの描いた理想をことごとく裏切った。それは1991年のソ連邦崩壊まで続くことになる。

 おそらく、ソヴェト国家は、失敗したパリ・コミューンではない。パリ・コミューンにあったもので、ソヴェトになかったものが必ずあるはずだ。だから、もし、「準国家」、「半国家」としてのこのコミューンが、1871年にフランスで成功していたとしたら、ソ連邦の歴史の彎曲はなかったかもしれなかった。また、人類はその厖大な回り道を辿る必要がなかったかもしれない。そのことを確かめるためにも、マルクスやレーニンの思想の最先端が、現実的に最も遠くまでいって、パリ・コミューンと交叉した歴史は、深くわたしたちの心に刻まれ、忘れてはならない歴史の里程標にちがいない。

 

2 歴史の背景の中で

 

 パリ・コミューンは、なによりも大衆運動であった。大衆の中からうまれた自己権力の確立という呼び方が適切だ。72日間の短命におわったパリ・コミューンとは一体何だったのか。その意味を理解するためには、大衆運動そのものの、その何倍もの地層のなかに分け入って考察しなければならない。

1870年9月4日以後はじまった、パリ20区共和主義中央委員会(以下「20区中央委」という。)の「革命的コミューン」の要求運動が、休戦後の国民軍中央委員会(以下「国民軍中央委」という。)下の大衆運動を媒介にして、幾倍にも膨れ上がり、はじめてコミューンを実現した。前例のないという意味でいえば、まったく、下からの民衆運動であり、民衆的、まったく集団的であり、しかも、匿名で満場一致の革命だったことである。

しかし、パリ・コミューンの言葉は、突然に起こったのではない。1789年のフランス革命以来の伝統のなかに、いわば、埋め込まれた種子が新芽を出し、開花した事件であった。フランス革命の経験は、民衆運動の遺産として、パリ・コミューンの行動の範囲を決定し、、パリ・コミューンのあり方の秘密を解きほぐすキーポイントにさえなっている。

フランス革命は、1789年から1799年までの、ほぼ10年間とみなされる。ブルボン絶対王政にたいする、ブルジョアジーを中心とするブルジョア革命のさきがけであった。フランス革命の主体には、複合的な力が加わった。王侯を除いて、「特権貴族」、「ブルジョアジー」、「都市民衆」、「農民」のエネルギーの合力が、「融合」して、革命の推進力になったのである。なぜなら、ブルジョア革命といっても、その中心になる推進力は、必ずしも、第三身分としての中・小ブルジョアジーのみではなかったからだ。議会にあつまった議員よりも、むしろ、その体裁のよいブルジョアジーの背後には、多くの商人や手工業者、農民などの階層、あるいは群生としての大衆の力が、強力なあと押しをはたした。それをわたし(たち)は「群生革命」と呼ぶことができる。

ブルジョアジーよりも、むしろ、彼らのほうが革命の推力の中心になったとさえいえる時期も多かった。しかし、これらの人々が目標とした社会は、曖昧で、一部の人々を除けば、資本主義的なものではなく、むしろ、擬似資本主義的なもの、あるいは反資本主義的なものさえ含まれていた。実際におこった革命は、@政治的自由の獲得、A普通選挙制、B中央集権単一国家、C経済活動の自由、D封建的権利の無償廃止、E人権の尊重、Fギルドの解体、G資本主義に向かう原始的蓄積等アンシャン・レジームの解体Hナショナリズムの発揚などのブルジョア的権利を獲得した。これらの成果をもとにして、公式的な「ブルジョア革命」を一般的に括ることは、わたし(たち)にはできない。歴史を遡って、逆に見ていることになりかねないからだ。

フランス革命は、はじめは貴族の王権にたいする反抗から始まった。そこに、中・小ブルジョアジーが割って入り、背後から民衆の支持を受けながら、1789年7月9日、憲法制定国民会議が発足し、民衆の政治的解放を勝ち取り、政治革命が始まった。最初、自由主義貴族や大商人を代表するミラボー、ラファイエット、バルナーブなどの穏健な立憲君主制が台頭し、議会の第三身分の代表と対立する。やがて、モンターニュ派(ジャコバン派)が登場し、ジロンド派共和主義者と、熾烈な党派闘争を展開し、モンターニュ派が勝利した。ジロンド派は、対外戦争を積極的に推進し、革命の終結を願い、民衆に向かって「これ以上革命を進めることはない」と訴えていた。

こうして、残った党派は、モンターニュ派のみになってしまった。ところが、モンターニュ派は、ロベスピエールを中心に、マラー、ダントンなどを指導者とする「恐怖政治」とよばれるようになる。モンターニュ派の革命政権は、「恐怖政治」とよばれ、反体制派、プロシア、オーストリアとの戦争の脅威にさらされた「非常事態」を宣言し、革命勢力内部の統一が、何よりも強調された。そのため、「公安委員会」が、議会内で独裁的な権力を持ち、中央集権体制を整備した。 

やがて、「テルミドール9日」(7月27日)がやってくる。ロベスピエールの没落である。ロベスピエールも、モンターニュ派の内部分裂により、テルミドール派に倒されるのである。1794年7月27日、反ロベスピエール派において策略がめぐらされ、議会で発言の機会があたえられないまま、モンターニュ派の左右両派から「独裁者」との非難、攻撃を受け、ロベスピエールほか5名の議員が逮捕された。

 このモンターニュ派(ジャコバン派)独裁を倒して、指導権を握ったのは、総裁政府派であった。この派閥は、立憲王政派やジロンド派の残党からなり、革命をフランス革命の後衛線まで後戻りして、保守的な政治を安定させようとしたが、再び、反革命の脅威にさらされた。1798年5月、エジプト遠征のため出発したナポレオンが、無断で戦場を離れ、1799年10月9日に帰国して、総裁政府に変わる権力樹立を狙っていた。「ブリュメール18日」と19日の両日に、軍事行動によって、総裁政府が打倒され、ナポレオンの統領制に移行するのである。このクーデタをもって、フランス革命に終止符が打たれる形となった。

フランス革命の当初、民衆の圧倒的支持を集めた集団の中に、後のパリ・コミューンにも関係してくる運動体として「サン・キュロット」がいた。それは、「キャロット(半ズボン)をはかない者」という意味で、都市労働者庶民など、長ズボンの労働服をきた人々をさしていた。いろいろな伝統的職種の手工業者や、独立の小店主が主なメンバーだった。彼らは、バスチーユの攻撃などの事件の主役をつとめたが、議会は、第三身分のブルジョア議員が勤めるところと考えて、革命の後押しを院外でなしていた。

彼らの政治理念が、直接民主制で、徹底した人民民主主義者であったからであり、彼らの舞台は、職業政治家の支配する議会ではなく、パリの各居住地区の集会であった。サン・キュロットは、議会に送りだされた議員を「代表者」とよばず、住民の意思を託された「受任者」と呼んだ。彼らは議会活動をしなかった。だから、自分たちの意思にそぐわない議会にたいしては、院外から圧力をかけるだけで十分であった。なぜなら、かれらの理念そのものには、国家の権力を掌握する意思がなかったからである。

しかし、フランス革命の時期において、議会のブルジョア間には、やむをえない共通の利害関係があった。封建的特権である都市ギルドの独占や、工業規制政策や領主による通行税や市場税や、王権のギルド規制は、新興ブルジョアジーに、同様の足かせとなってきていたのである。貴族達が特権身分として君臨し、そのもとで、軍事、官僚組織が整然とつくられ、商人や手工業者は、ギルド組織のなかに組み込まれていた。縦割りの(アンシャン・レジーム)階層制度が、すべての人間を、網の目のように包みこんでいた。

そして、何よりも、食料問題が深刻であった。18世紀になって、パリの人口が急激に増大し、需要が多くなると、全国的な流通網が必要になってきたが、輸送機構の整備がそれに伴わなかった。また、絶対王政の「社団」体制が国内関税その他の地方割拠主義を残しているため、食料供給を一層悪化させていた。

一方、立憲君主制やジロンド派は、大衆にたいして警戒心をもっていたが、ブルジョア議員のあいだでも、大衆運動の盛り上がりにつれて、これとどう連繋をとり、運動をどう進めるかが、1792年頃から、真剣に議論されるようになった。ロベスピエールのジャコバン主義は、大衆運動に立脚して、ブルジョア革命を遂行しようとする立場に立っていた。そのためには、雑多な分子の多いなかでは、議会内の公安委員会が独裁権力を握ることが必要と考えられた。しかし、ロベスピエールのその考えは、矛盾を含んでいた。なぜなら、彼の大衆主義は、あくまでも議会を中心とする、民衆の革命勢力を結集する中央集権主義であったため、大衆運動をその統制下においてしまうと、サン・キュロットなど、直接民主主義を信条とする大衆運動が、十分なエネルギーを出すことができなくなり、運動の潜在化をまねくことになった。それでも、議員が大衆の声をよく反映している限りでは、うまく連繋がとれていたが、政治が独裁化し、民衆と離れてしまうと議会は孤立する。

こうして、サン・キュロットも、また、議員多数派と乖離してしまった時点で、直接民主主義の立場から、ロベスピエールのもとを離れ、「テルミドール9日」に加担してしまったのである。それ以降、サン・キュロットには孤立化が待っていた。直接民主主義どころか、議会は、保守化して運動は衰退してしまったのだ。

このようなとき、ジャコバン主義とサン・キュロットの運動を結合させようとするような革命思想が生まれた。それが、1796年の「バブーフの陰謀」と呼ばれるものである。その準備・指導の中心は、少数の前衛組織がなり、クーデタや一揆でなく、大衆運動の蜂起を重視する運動である。また、革命達成後には、一定の過渡的な独裁期間の必要性も認めていた。そして、目標としては、ジャコバン派、サン・キュロット共通の「小所有者の共和国」から半歩進み出て、所有を否定する共産主義を掲げた。このバブーフの運動は、鎮圧され壊滅したが、のちのパリ・コミューンの際には、ブランキズムという後継者を輩出した。

 パリの民衆が抱いていたコミューンの観念の中には、実にさまざまな歴史的追憶と未来への願望が秘められていた。とりわけ、革命的で愛国的なパリの大衆の心情を共通に支配していたのは、何よりもフランス大革命時のコミューンであった。王政を転覆し、ジロンド派の支配を打ち倒した「反乱のコミューン」への熱烈な追慕の念が強かった。外国との戦争と王党派の陰謀という当時の状況が、80年前の状況に酷似していたからである。

 フランス革命からパリ・コミューンの間の約1世紀は、フランスは、大衆運動の静観期に当たっているが、次第に資本主義化が進展する中で、主役は大衆ではなく労働者とブルジョアジーの対立に変わっていく。

1789年の国民議会の成立から、1796年のバブーフの陰謀までの期間が、1815年の王政復古で反動化し、今度は、ゆっくりとした革命の土壌がきづかれていった。1830年の7月革命では、王政を打倒するにはいたらず、立憲王政派が勝利した。この栄光の3日間をバリケードで闘ったのは大衆であった。このブルボン復古王政を、オルレアン朝の立憲王政にかえた7月革命は、革命とよぶにはあまりに矮小化していた。したがって、その成果は、王政復古の反体制派の政治グループであった「自由派」の政治工作によって、簡単に収拾された。7月革命でバリケードをきづいた人々は、新しい政府からはじきだされ、政治の実権をにぎったのはブルジョアジーであった。

フランス自由主義の主権をになうこのブルジョアジーの勝利は、以後のフランスのいずれの体制においても、つねに歴史の歩みを背後から決定した。自由主義者の多くはブルジョアジーであった。彼らは、復古王政時代には、ルイ18世やシャルル10世にたいして批判的であったが、7月王政下で権力の座についてしまった。革命の闘士が目指した新しい共和国の到来は、オルレアン家の支配機構に変わり、その統治理念に同調する人々によって、遠ざけられた。「銀行家の統治がはじまった」といったのは、ブルジョア自由主義者ラフィットだった。このころ、パリは繁栄を誇った。すべての鉄道は、パリを中心に放射線状に敷設された。商業も政治も外交も、すべてパリを中心に回転した。

 一方では、穏健な民主主義者が、議会制を基礎にして、国家体制の確立を目指そうとしていた。その一方では、ようやく定着した産業革命が、産業ブルジョアジーとプロレタリアートの角逐をもたらし、社会主義思想が急速に力を持ちはじめた。プルードン、ルイ・ブラン、フーリエ、ジャコバン派、ブランキ、サンシモンなどの諸派が、百花燎原のように、無視できない影響力をもって彼らの背後にひかえていた。

 その後にくる1848年2月革命は、フランスから王政の時代を、再度、放擲した。この第二共和制が始まったとき、主人公は、小ブルジョアや労働者たちだった。臨時政府は共和主義者と社会主義者の合同で成立した。労働者が初めて、そのメンバーとなった。しかし、2月革命の市街戦を闘い、オルレアン派政府を倒したパリの民衆は、7月革命の経験に懲りて、この革命によってもたらされたブルジョア共和派の政府に気を許すようなことはなかった。

ルイ・ブランは、大衆運動の高揚を背景に、新政府に参加し、「社会的共和国」を構想した。しかし、ブルジョアジーと大衆との利害関係は、あまりにかけ離れており、彼は、自然発生的な大衆運動が、体制の枠内に押さえ込まれることが、分かっていた。その間もなしに、4月の保守的な国民議会の成立によって、政府と大衆運動との力のバランスが崩れ、ルイ・ブランは政府から排除された上、6月の蜂起をつうじて、大衆運動は徹底的に弾圧された。

そして、11月には憲法が制定公布され、自由、平等、博愛を基本原理とする共和国が誕生した。しかし、1848年10月10日の人民投票が選んだのは、ルイ・ナポレオンである。フランスは、再び、現実より幻想を選んだ。 

 パリ・コミューンが起きる20年ほど前、ルイ・ナポレオンが、初代大統領選挙に勝利をおさめた。このナポレオン三世は、ナポレオン一世の甥にあたるルイ・ナポレオン・ボナパルトである。彼は、伯父に心酔して、フランスの栄光と再建を夢見る単純な男であった。

 この凡庸な人物が、多くの意に反して、1848年の社会的激動の中で、突如として登場し、暮れの大統領選挙をかっさらっていったのは、鮮やかであった。民衆は、打ち続く混乱と不安にみちた生活からの救いを、この男の片腕にゆだねた。彼は「革命のロマンは終わった。今はその歴史を始めねばならぬ」とうそぶいたが、この男そのものがロマンに違いなかった。

ルイ・ナポレオン、この得体の知れない男が、就任後、ほどなく1851年12月2日に、伯父ナポレオン一世のアウステルリッツの戦勝と、戴冠式の記念日を期して、大統領職を投げ棄て、クーデタを決行した。これはナポレオン一世の農民政策に対する幻想に迷うフランス農民の支持を受けて成功した。異父弟モルニ公爵が、全体の指揮をとり、陸軍大臣サン・タルノー、パリの正規軍司令官マニャン、警視総監モーパの三本柱が、これに協力した。ティエール、シャンガルニエら、ブルボン王朝またはオルレアン王朝の復活を策していた領袖は逮捕された。議会は軍隊に包囲された。戒厳令が布告され、立法議会の解散と普通選挙の復活を告げる布告が貼り出された。

逮捕を免れたヴィクトル・ユゴーやジュール・ファーブルら、ブルジョア共和派のよびかけで、その夜、抵抗委員会が組織され、「反逆者ルイ・ボナパルトの失権」を宣言して、下町の労働者に蜂起をよびかけたが、同調する市民は少なく、サン・タントワーヌ街を中心に築かれたバリケードも、12月3日夜から4日にかけての市街戦で、政府軍の集中砲火を浴びて粉砕された。

1848年の2月革命の結果、第二共和国政府が産まれ、普通選挙が宣言されたとき、バリケードで戦った労働者は、どんなに大きな希望をはずませていたか。しかし、彼らの期待はたちまち裏切られた。ブルジョア共和派の臨時政府は、労働者階級の台頭に不安を抱き、労働問題、社会問題を解決しようとしなかったばかりか、労働者を挑発した。それが「6月暴動」であった。フランス最初のブルジョアジーとプロレタリアートの大規模な武力衝突だったが、政府は反動勢力と手を結び、4日間のすさまじい市街戦ののち、労働者の反乱を徹底的に鎮圧した。

その反動のせいか、1851年の12月21日のルイ・ナポレオン・ボナパルトの信任投票は、約740万票対60万票という圧倒的多数で、大衆はクーデタを追認した。翌年には「帝政とは平和を意味する」という声明をだし、戦争への不安を解消する宣伝を行った。翌年12月2日にナポレオン三世は皇帝におさまり、第二帝政が正式に発足した。

「帝国憲法」によれば、行政、軍事、外交の全権は、皇帝に集中され、県知事、市町村長を含めて、あらゆる官職は任命制となり、大臣は皇帝にたいしてのみ責任を負い、責任内閣制は否定された。また、法律の発議権は、政府のみが握り、皇帝の任命する国家参事院がその起草に当たる。立法機関としての立法院は、男子普通選挙によって選ばれる任期6年の議員から構成されるが、この権限はきわめて制限され、法案や予算案の発議権も修正権もなかった。

確かに、「権威帝政」と呼ばれたルイ三世の治世の前半期には、諸階級の対立関係からも超然とした、強力な国家権力をもつかに見えた。労働者も産業資本家も、カトリック勢力も農民も、期待をもって見たのだ。しかし、こうした状況から、皇帝が、現実に二大階級の調停者として機能したと考えてはならない。第二帝政の支配体制は、あくまでも市民的自由と労働運動を抑圧した点で反動的であり、激しい弾圧が、ブルジョア共和派や共産主義者へも続けられた。皇帝に熱い視線をそそいでいたヴィクトル・ユゴーも国外追放され、権力の簒奪者としての皇帝を呪うことになる。

だが、何よりもルイ三世の支えは、大ブルジョアジーと提携して、資本主義化=産業革命を強力に推進・稼動する主導的役割を果たした。そして、積極的な経済膨張政策をおしすすめるなかで、おりからの経済好況にのって、大ブルジョアの意向に沿うように、経済が好転しはじめたことである。1860年に、ルイ三世がイギリスと結んだ通商条約は、英仏関係を改善して、国際的孤立を改善したいとの外交的配慮にもとづくものであった。新通商条約は、フランス産業に革命的に作用し、機械制大工業への道を開くとともに、自由主義経済を実地にうつすことによって、フランス産業革命のステップアップを演出した。

こうして、1860年代末になると、巨大企業による寡占的傾向や、大銀行による資本輸出の本格化など、のちの帝国主義時代を先取りしたような徴候が現われ始める。フランスの経済は、明らかに離陸の時代に入った。鉄道、石炭、鋳鉄、鉄の生産が、1850年から1860年までの間に、何十倍にも増えた。また、対外商業も約3倍、綿花の輸入も12倍に及び、商船も同様の比率で増加した。要するに産業革命は、フランスでは第二帝政のもとで進められ、ほぼ完成に向かう。そして、生産諸力のこの急激な成長が、資本と生産の同様に急激な集中をともなった。これにより銀行資本が大きな役割を果たすようになる。

一方、高炉の数は半減する、紡績工場は7%の減、織物業においても減少が見られた。新式の有力な企業においては、労働者の数は、当時としては莫大な数に達する。クルーゾーのシュネーデルのもとでは10,500名、パリのカイユ(冶金)のもとでは2,000名、武器製造所では2,000名などである。同様の集中傾向は、商業においても認められた。百貨店は、配給網と取扱高における重要性を、きわめて急速に増大させた。しかしながら、こうした大産業のめざましい進歩にかかわらず、あくまで中小企業が、フランス産業の特徴であり続けた。フランス産業の全体では、約60%のプロレタリアが10名以下の労働者を雇用している小業主のもとに働いており、これらの業種は事業所の75%以上を占めていた。パリの労働者のうちわずか10%のみが、職人的あるいは半職人的でない大企業で働き、言葉の厳密に意味でのプロレタリアートを構成した。

従って、ほかの労働者は、仕立屋、建築、食品、家具、小間物生産、つまり、手工業的な消費財生産など、2名から10人名程度の企業に、就いていたことになる。資本主義は、なおきわめて多くの、独立した手工業的企業を存続させていた。経済成長にもかかわらず、自由競争の資本主義は、なお、自己の内部にもつ生産力を十分、完全に発展させていなかった。独占体の前触れをしめし、用意しているものの、しかし、1870年においても、それはなおほど遠かった。H・ルフェーヴルは、この時期の就業人口がほとんど変わっていない実態があり、フランス資本主義の発達に、きわめて独特の様相を与える「安定性」の土台について指摘している。

この期間の労働者は、きわめて低い賃金しか受け取っていなかった。名目賃金は上昇するが、生活費はそれよりもさらに急速に上昇する。その間に機械化は、労働の強化、利潤率の低下と労働力の搾取の増大をもたらす。労働条件は、労働者階級の状況をさらに悪化させた。第一は、何の保障もなく、失業・解雇が、労働者の生活資源を減少させたことである。第二は、労働時間の短縮を要求にもかかわらず、実現しなかったことである。

したがって、当時の労働者の状態は、彼らのため、妻のため、子供たちのための、日々のパンの問題だった。自然発生的な反抗や、自己の道と表現を捜し求める革命的本能の諸条件を把握するためには、マルクスの言葉を借りなければ、理解できなかった。ボナパルティズムと家父長主義が組み合わさって、労働者のあらゆる欲求を窒息させたのだ。労働運動は、威嚇や弾圧や煽動によって、長い間抑圧されてきたが、1869年と1870年には、再び、活気づき高い強度に達するようになる。

しかも、ルイ第二帝政は、ブルジョア国家でありながら、専制国家(ディスポティズム)という独特な構造を特徴とした。支配しているブルジョアジーが、権力の中枢を占めることなく、寡頭支配としてボナパルトがトップに存在した。だから、その皇帝は、中立的な官僚と軍隊を支柱としながら、独裁的な皇帝が、ブルジョアジーの代理人として君臨することになった。この「ボナパルチィズム」が政権に座におさまりつづけたのには理由があった。ボナパルティズムは、膨大な国家装置、すでに巨大になった官僚制を整備している。この国家は、社会の上にそびえ、支配階級の諸分派が、自分自身の利益をもとめて互いに争いあう。皇帝はすべての社会階級のあいだの、公平な判定者であり、仲裁者であると自認する。

 

《それは、議会政治を破壊することにより、またそれとともに、有産階級に対する政府の露骨なご用振りを破壊することによって、労働者階級を救うと称した。それは、労働者階級に対するその経済的優越権を支持することによって、有産階級を救うと称した。そして、最後に、それは万人のために国威という幻想を復活することによって、あらゆる階級を結合すると称した。実際、それは、ブルジョアジーが既に国民を支配する能力を失いはしたが労働者階級が未だこの能力を獲得していなかったある時に、可能な唯一の政府形態であったのだ。》            『フランスの内乱』 マルクス著 木下半冶訳

 

こうしてルイ三世の帝政国家は、1860年頃、保護主義者の味方である資本家たちと、自由貿易論者との紛争に終止符をうつために介入し、イギリスと通商条約を締結したのである。このこみいった手口は、支配階級の諸分派に順番に不満をあたえ、結局その覚醒をもたらす。この政治権力の二重構造こそ、ナポレオン三世の統治の秘密なのだ。
 それは大ブルジョア層の不安感の結晶でもあった。彼らは、1830年の7月王政のときも、大地主とともに「名望家」層が、国政を左右してきたが、資本主義社会が発展し、生産、流通の場が地域性を離れ、全国的な基盤を必要とする時代が迫っていることを、いち早く大ブルジョア層が察知した。とすれば、地方の「名望家」としてのみでは、選挙で多数派をとることはむつかしくなってきたのだ。まして、1848年の2月革命による第二共和制の樹立がそれを如実に示していた。 

 ルイ三世は、こうした新しい政治動向をふまえ、不安定な政治秩序を矯正して、より安定した新秩序を求めた。そして、自ら自由を捨て独裁を選んだという訳だ。独裁が再来したのはそれだけの理由ではなかった。ルイ三世がブルジョア以外の諸社会層からも、幅広く嘱望されて登場したことには訳があった。特に、左右の攻勢にさらされて、動揺を重ねたルイ三世は、ここに「自由帝政」という構想をひろげて、労働運動の自由化を促進し、議会の権限の拡大や、一定の政治的自由に活気をよびもどしたのだ。

1863の総選挙にはアドルフ・ティテールら反対勢力が大幅に進出した。にもかかわらず、ルイ三世の国民的シンボル的な存在理由は、国民の大多数を占める農民が支持したからである。農民は、「農民の保護者」ナポレオン一世の甥という幻想に賭けた。この期待は労働者階級にしても同じに抱かれていた。その一方の手で、今度は、皇帝は、ブルジョアジーを牽制するため、1864年以降、労働者にたいしても和解の手をのばした。生活改善のため、社会政策の実施や、労働争議のための一時的団結権を認めたのである。

しかも、このルイ三世は、『貧困の絶滅』という書物を出して、皇帝の権威を利用して、社会主義を覆うベールをもって、1848年の6月蜂起のショックから解放されていない労働者階級の傷跡にたいして、「皇帝社会主義」という安軟膏を塗った。なるほど、ルイ・ナポレオンは、労働者階級にたいして、また、その周囲に多くの支持者があったサン・シモン主義にたいして、漠然とした同情を抱いていた。しかし、全国的に起こっている経済的変動は、住居費や食費の高騰の一方で、賃金を固定化し、その購買力の増大をもたらさなかった。フランスの労働者は、もはや、かつてのような活動家を自分たちの身近にもっていなかったが、亡命地からは、彼らのもとに小冊子や新聞や手紙が届いていた。

そして、帝国は1860年に自由貿易主義に転じ、みずから労働者の友をもって任じるようになった。こうして、ルイ三世は、あらゆる階級の守護者として、今までと同じ生活が保障されると確信して疑わなかったのだ。帝国フランスは、国際舞台で成功や失敗をくりかえしながら、ともかくも平和を保って歩んでいく。

 このような独特な国家形態をもつボナパルト国家の危機は、ボナパルトに一時的に預けていた代理権を取り戻そうとするときにやってきた。その危機の到来は意外に早かった。1857年の立法院(下院)選挙で、5人の自由主義者が当選し、院内の反対派を形成した。これは、ナポレオン三世への不信感のはじまりであった。ついで、1860年の英仏通商条約には、これに反対する対外保護主義の産業資本家の不満が表明され、1863年の選挙では反政府的な「自由連合」が、大量に進出して政府を脅かした。このような劣勢を挽回しようと焦るボナパルトは、外交、軍事的施策に大衆の期待をつなごうとした。ヴェトナム、中国、スエズ運河、イタリア、クリミアに、そしてメキシコに、フランス人とフランス兵士が進出して活躍の場を求めた。だが、いずれもことごとく失敗した。彼は手を広げすぎたことに気がつかなかったのだ。しかも、その戦闘のさなかに、この鈍重で非能率的な軍事機構は、その欠陥を表わした。1867年、軍事相にランドン元帥に代わってニール元帥が就任する。彼は前年から軍隊の再組織計画の研究をはじめていた。それは50万に達するほどの誘動隊を創設した。だが、この計画は有名無実になった。ボナパルティズムの名誉の象徴である軍隊は、その弱点でもあった。しかも、ちょうどこの頃、イタリアやドイツでは、統一に向けて国民主義の運動が高鳴っていた。

フランスもこれらの影響を受けないわけがなかった。特に、1861年からはじめたメキシコ革命への武力干渉は、メキシコの大衆の抵抗と国際的孤立にあい、1867年に撤退せざるをえなくなった。1866年の普墺戦争では、ルイ三世は、プロイセンの宰相ビスマルクの領土割譲の口約束に欺かれ、介入の機会を失した。オーストリアの優勢を予想していた皇帝にとって、「サドワの戦い」に象徴されるプロイセンの勝利は、まさに晴天の霹靂であった。これによって、ライン河の右岸に、プロイセンを中心とする強大な軍事国家「北ドイツ連邦」が出現し、皇帝のライン左岸への領土的野心を打ち砕いた。

このような政治状況に押されてか、ルイ三世は、1870年頃から、自ら「権威帝政」から「自由帝政」への転換を図るようになった。議会の権限を強めて、ブルジョアジーへのご機嫌うかがいをはじめたのがそのはじまりである。この年の5月、皇帝は国民投票による信任を求めた。結果はおもいのほか上々であった。そのため、ブルジョアジーは、共和制の樹立よりは、帝政の自由化の方を歓迎する空気が強くなった。日増しに高まる国民の不満と反体制勢力の攻撃を前に、皇帝は、再度、譲歩を余儀なくされた。1867年1月、ルイ三世は、内閣に辞職を求め、責任内閣制の復活を主張する温和な「第三党」の要請を入れて、立憲的改革を断行する意向を示した。これによって、議会の権限はさらに拡大され、出版、集会、結社の取り締まりも緩和された。大衆運動の中にも、新しい世代の革命指導者が、時代の息吹をあげて、ぞくぞくと成長しつつあった。 

 

3 第二帝政の崩壊

 

 1860年頃から、労働者の意識は次第に変貌しつつあった。その頃、急速に労働運動が高まってきた。ルイ三世が懐柔策としてとった、1862年のロンドン万国博覧会へ派遣した労働者が、イギリスの労働者運動に刺激され、帰国後、労働組合の設立とストライキ権の承認を要求しはじめるようになる。これは労働者階級の覚醒の合図であった。この頃から、全国的に賃上げ闘争や労働時間短縮のためのストライキが頻発した。1863年の総選挙のときには、労働者の候補者リストが提出された。このため、1864年5月、ルイ三世は、労働争議のための一時的団結権を認めたため、ボナパルト国家が次第に傾いてくるにしたがって、ますます反政府運動の力が増してきはじめた。

第二帝政の初期の反政府運動は、少数の反動的な「ブルボン王朝派」のほか、立憲王政主義の「オルレアン派」、それより左寄りだが保守的なブルジョア「自由派」、急進的なブルジョア「共和派」に区別されていた。これらの政党が、第二共和制下の主要政党であったが、ナポレオン三世のクーデタ前後に国外追放になっていた人々が、恩赦で次々帰国しはじめていた。1860年代に入ると、ブルジョア「共和派」は分裂した。「急進派」、「ネオ・ジャコバン派」、「ブランキ派」が並立状態になる。このうち、「ネオ・ジャコバン派」と「ブランキ派」は社会主義者であり、のちに、パリ・コンミューンの議会を構成するグループである。

ここで上げたグループを区分けすると次のようになる。

 

 

○ 反動的なブルボン王朝派

○ 立憲王政主義のオルレアン派

○ ブルジョア「自由派」

○ ブルジョア共和派

・「急進派」又は「共和派」              

・「ネオ・ジャコバン派」(社会主義)        分 

・「ブランキ派」(社会主義)              

○ 第一インターナショナル(フランス支部)

 

 

このうち、自由派は、保守的なブルジョア自由主義政党である。かつて、総裁政府派がナポレオン一世の独裁に甘んじたように、自由派も第二帝政の中で、せいぜい皇帝にたいする議会の権限強化を望んでいた。これにたいして、急進派は、フランス大革命のジャコバン主義の継承者を自認し、「民主主義的で社会的な共和国」の基盤の拡大を志向していた。運動目標は、社会問題の解決を政治改革、つまり、普通選挙制の実現を政策の第一に上げていたが、所有関係の根本的改革をめざすものではない。したがって、運動の進め方が、議会中心主義となる。彼らは、大衆の直接行動による革命を避ける点では、自由派とおなじだが、改革への圧力を必要とする場合には、大衆運動を求める。

急進派は、1848年2月革命で主要な役割を演じたが、その後、1848年世代には、第二帝政下において自由派に接近して、自由帝政による部分的進歩で満足していた。これにたいして、帝政末期にいたると、急進主義の原点に戻ろうとする、より若い世代が登場してきた。ガンベッタやクレマンソーである。彼らは、のちに政府とパリ・コミューンとのあいだの調停役を演じようとした。また、地方諸県のコミューンを牛耳ったのはこの世代である。

ネオ・ジャコバン派は、急進派の中で、特に、非妥協的で、大衆運動により接近しようとする傾向のグループをさす。急進派を右派ジャコバンとすれば、いわば、左派ジャコバンといえる。彼らの中には社会主義者が多く、シャルル・ドゥレクリュズは、ロベスピエールに深い敬愛の念を抱き続け、1793年の「ジャコバン憲法」のなかに、社会問題を解決する鍵を求め、革命的集権制による「民主的・社会的共和国」の建設を通して、人間疎外の解消と真実の平等社会を実現できると信じた。このグループは、1868年に刊行した新聞『ル・レヴェイユ(めざめ)』に政治綱領を発表し、「政治改革は手段であり、社会改革が目的である」と述べている。ネオ・ジャコバン派には、シャルル・ドゥレクリュズのほかに、生物学者のフルーランスのようなブランキ主義者に近いものや、ジュール・ヴァレスのような、インターナショナルに近い人も含んでいたが、そのメンバーの経歴、信条は多彩で、のちにパリ・コミューン議会の多数派を占める。

ブランキ派は、生涯の大半を牢獄でおくった革命家のオーギュスト・ブランキを中心にした秘密結社である。1830年代から革命運動に加わっており、第二帝政下の牢獄生活の間に、1865年に脱走して、ベルギーへ亡命した。その牢獄の中で、もはや60歳にもなるこの老人の周辺に、若い世代の心酔者が集まって、1867年にブランキストの秘密結社が再建された。その組織の中核は、少数の学生、知識人で構成され、同調者は、1868年末に800人にのぼった。ブランキ派とネオ・ジャコバン派との間に大きな違いはない。

ネオ・ジャコバン派が、言論を主にする統一性のない人々の集合であるのにたいし、ブランキ派は、行動を重視する組織集団であり、規律と統制、献身的行動において、最もまとまった集団であった。ジャコバン主義の中で、最大限、大衆運動に接近した運動である。ブランキはロベスピエールを批判しているが、これは、ロベスピエールの後継者と呼ばれる人々にたいする批判であって、革命路線からいえば、ブランキは、サン・キュロット運動の系譜ではなく、ジャコバン主義の伝統をひいている。

ブランキは、大衆にたいする意識浸透とともに、少数のエリートからなる軍事的秘密結社組織をもって、街頭行動により大衆を武装蜂起に巻き込み、直接民主制的革命独裁をパリで実現し、その永続的な革命をつうじて、共産主義社会を実現しうると考えた。いわば、一種のエリート主義があり、意識的な少数の前衛による革命の準備と指導を行い、そして、完璧な革命独裁論がその特徴であった。したがって、ブランキは、労働組合運動にたいしては、不信感を抱いていた。彼は、労働者のストライキに期待しつつ、一時的なストライキの成功がかえって、闘争の論点の解決の方向をずらせるのが許せなかった。また、彼にとって、大衆組織がそのままで有効な革命組織になるとは、とうてい信じられなかった。1867年~1868年頃に、ブランキが『武装蜂起教範』を執筆したとき、彼は、きわめてきまじめに深く、戦術の問題を考えた。つまり、「技術」としての蜂起である。

ブランキは、第一インターナショナルとは、全く別の道をあゆむブランキ派の特徴を端的に象徴していた。ブランキは帝政の崩壊後に、パリへ帰国したが、逮捕され、パリ・コミューンの間は獄中にあった。だが、ブランキ派の活動家は、コミューン期に活躍する。デュヴァールらの戦闘的労働者や、ウード、リゴー、プロトー、トリドン、フェレら学生、ジャーナリスト、弁護士など、知的エリートを結集したブランキ派は、時として一揆的冒険主義に陥る危険性をはらみつつ、次第にプロレタリア化していった。ブランキとブランキ派の純粋な愛国主義は、プルードン派、アナーキスト、インターナショナル派の傾向と、情熱的な愛国主義において結びついていた。彼らは、コミューンにいたるパリの革命運動の牽引力となっていく。1869年と1870年において、ブランキ派は、勇敢にも反教権派、反人民投票派、反戦派、平和主義者であった。親しい人々は、ブランキを「コミューンの父」とよんだりする。彼の周囲に集まる革命軍団が絶えないのは、政治思想を普及させようとするとき、エベール派の思い出を生き返らせるためである。

 これまでのグループとは別に、「第一インターナショナル・フランス支部」の活動も忘れてはならない。この頃から、その運動は、純粋プルードン主義者から、マロン、ヴァルラン、パンディらの革命的集産主義者とよばれる指導者の手に移りつつあった。1869年のインターナショナル・バーゼル国際大会は、プルードン主義の敗北と、集産主義の勝利とを確認した。マロン、ヴァルランらの努力によって、「パリ労働者組合連合会議」「インターナショナル・パリ地区支部連合」の結成、地方都市の支部との連合などは、いずれもバーゼル大会の決議を実践に移したものである。

ネオ・ジャコバン派、ブランキ派のグループは、ジャコバン主義の系譜のうちにあるが、第一インターナショナルは、サン・キュロットの流れを汲んでいた。サン・キュロットは、自然発生的な民衆運動を下から組織していくものであり、ジャコバン派の「政治革命」路線にたいして、「サン・キュロット」の「社会革命」路線を継承していた。

「政治革命」論とは、社会問題が政治的民主主義の徹底によって解決されるという考え方で、急進派がその典型であった。それにたいして、「社会革命」論は、「政治革命」が単なる政権争奪にすぎないとして、政治党派は、本来、社会・経済構造の変革をめざすものと考えていた。「政治革命」論に対抗する「社会革命」論は、主に、大衆運動の系譜をひく労働運動の指導者たちによって推進された。それは、既存の政治グループに指導・統制されることを拒否した大衆、労働者が、包括して自己主張をはじめたことを意味している。

ヴァルランら革命的集産主義者は、生産手段の共有制にもとづく平等社会の実現を構想してはいるが、プルードンの連合主義の影響を受け継いで、一切の革命独裁と政治権力には反対した。このため、彼らは、マルクスの「権威的共産主義」にたいして「反権威的共産主義」とよばれた。当時、東南部フランスに巨大な影を投げていたバクーニンの無政府主義に強い影響を受けていた。

 第二帝政下において、大衆運動に大きな影響を与えたていたのは、ピエール・ジョゼフ・プルードンである。彼は、1840年に書いた『所有とは何か』のなかに、「所有とは盗みである」というセンセーショナルな言葉を挿入した。この言葉の意味は、所有が自分の労働にもとづかないことを、収入源にしている所有のことをさしている。プルードンのなかでは、階級相互間の闘争、それらの対立及び利害の結合が、政治制度を決定するとした。プルードンによれば、これらの階級は、二つのものに帰着する。一方は、上位者(貴族、族長、ブルジョアジー)であり、他方は、下位者(平民、またはプロレタリアート)である。一方は、「権威」の原理を体現し、他方は、「自由」の原理を体現する。この二つの原理は、理論においても、歴史においても、一種の分極化によって継起する。現に、「権威」の原理に「従属させられていること」が、われわれを自由な政治契約の理念へと導く。

所有についてイメージしているのは、たとえば、地代、家賃、年金、利潤などのことである。だから、独立小生産者の所有は当然含まれていない。彼が理想とする社会は、このような盗みがない、各生産者が独立の仕事場をもち、自分の労働の産物だけで、搾取されることのない小所有者の社会であった。

そのために、小生産者間の相互扶助の制度、いわゆる生産者の協同組合と、人民銀行による無利子の信用制度を提唱した。このため、プルードンは、マルクスによれば、「小ブルジョア的社会主義者」とよばれていた。ただし、プルードンは、小ブルジョア的とよばれたものの、改良主義者ではなかった。事実、1848年の2月革命のときには、ブルジョア共和派やルイ・ブラン流の改良主義的社会主義に不信感を抱いていた。プルードンが、「政治的」グループに反対するのは、当時の社会主義者の中でただ一人、労働者出身であったことと、サン・キュロットの流れを汲んでいるからである。したがって、彼は、「政治革命」ではなく、直接的な「社会革命」を志向した。これまでの革命は、「政治権力」を奪取し、おきかえることがその目的であったが、彼によれば、真の目的は、「政治」を消滅させ、有機的な調和をもつ社会を思い描いたのである。プルードンの思想は、1850、60年代の労働者たちの心をとらえた。プルードンの思想は、労働者を議会へおくりこむのではなく、既存の国家機関である議会から離れて、社会組織のなかの変革を、コンミューン連合として発展させることであった。1871年のパリ・コミューンに当たって、実際に、プルードン派は、階級闘争から噴出する革命的行動を軽蔑しなかった。  

そのほか、フランスにおける大工業の出現、他方では経済的・社会的な変革の諸様式にともなって、諸処の主張があった。サン・シモン主義、フーリエ主義、さらには無差別に、共産主義や社会主義の名を与えられた理論の出現は、フランス大革命から第一帝政にかけての時期が終わるのと時を同じくしている。大革命に際して、1795年4月1日、1795年5月20日の叛乱、次いで、バブーフの「平等主義者の陰謀」が、フランス史のなかで大きく反響した滋養をとりこんで、これまでにない新しい潮流をよびこんだ。

しかし、社会主義的な希望によって、次第に、より明るく、未来がいろどられるようになった労働者の変革の試みが盛んになるのは、ルイ・フィリップの治世である。すなわち、1831年11月のリヨンの絹布労働者の叛乱、1833年の同盟、このとき『工場のこだま』紙は、「全労働者階級は行動に移り、新しい世界の征服に向かって進む」ことを告げた。1839年と40年のパリ市の叛乱、これと同じくして、『仕事場』紙の出現、あるいはフロラ・トリスタンの『労働者の団結』の計画、あるいは「最も完全な平等の基礎の上に築かれた社会」を目指すカベの宣伝、あるいは、量質と影響力において巨大なプルードンの著作などである。

1845年前後には、マルクスとプルードン、また、バクーニンとルイ・ブラン、ピエール・ルルーとコンシデランらは、パリで出会い、気質の点では衝突しあいながら、政治的ならびに社会的に大胆になっていた雰囲気のなかで、1848年の革命の広汎な準備に参画していた。この革命は、ヨーロッパのいくつかの国では、自由主義的ないしは国民主義的なものであったが、フランスにおいては明確に社会的であった。マルクスとエンゲルスの『共産党宣言』はこの年に発行され、この両者によって象徴される運動は、血に染まった6月の労働者の叛乱をもって衰滅した。この叛乱の弾圧によって、民主的、社会的共和国の夢は破られ、ルイ・ナポレオン・ボナパルトのクーデタへの道が開かれる。1851年12月2日の悪質な策謀(ルイ・ボナパルトのブリュメール18日)は、6月事件の政治上の一帰結にほかならなかった。クーデタは、1852年11月22日の国民投票と、ナポレオン三世の即位を予告するものであった。

一方、1864年9月に、ロンドンのセント・マーチンズ・ホールで、英仏の労働者を中心にして、国際労働者協会(第一次インターナショナル)が結成された。総評議会議長にはカール・マルクスが推され、『共産党宣言』と同様、「万国の労働者の団結」をよびかける宣言が発せられた。第一インターは、労働者の自力解放をめざす国際組織で、本部の総評議会は、ロンドンに設置され、加盟団体が各国で支部を作った。フランスでは1865年に、パリ、リヨン、カンを拠点に、フランス支部が結成された。その後、ルーアン、マルセイユも拠点にもなった。

実際は、マルクスによって構想されたこの組織は、まだまだ労働者のあらゆる欲求を束ねるまでには到っていなかった。1866年から開催された大会では、思想的諸傾向が衝突しあい、そこでは、フランスのプルードン主義が、最も活発な発言の一つをなしていた。

しかし、グラヴィリエ街、次いでコンドリエ街に事務所を設けていたインターナショナル・パリ支部が、酵母の役割を果たしたことは確かである。インターナショナルは、共和的、平和主義的、プロレタリア的なものとして、最初のうちは、トラン、フリブール、リムーザンのような、穏健な精神の持ち主である労働者によって、指導されていたが、やがてB・マロンやヴァルランのような人々に替わり、完全な「社会革命」の明確な目標に方向づけられた。

インターナショナル会員の有罪判決は、一方では、大罷業など社会的葛藤の悲劇的性格を血なまぐさく浮かび上がらせていた。このため、滅びゆく帝政の空気をひどく不安ならしめて、あらゆる戦争の脅威と結びつき、大衆の注目を集めた。そして、次第に、各地で頻発するストライキに対応するため、新しい指導者が登場し、組織は拡大していった。政府はこの傾向を恐れて、弾圧を加え、壊滅寸前になりつつも、よくもちこたえた。

このインターナショナル・フランス支部の指導者たちは、「集産主義」者とよばれた。これはプルードンの考え方から出発していた。旧指導者が改良主義に陥り、ストライキを否定したり、所有権の廃止に反対したのにたいして、新指導者たちは、労働組合を発展させるために、ストライキを行い、所有権の廃止を打ち出し、生産手段や土地を社会そのものに奪還しようとした。

ただ、マルクスの共産主義が「社会革命」を行うために、「政治革命」を必須条件とするのにたいして、彼らの集産主義は、政治を否定し、国家を含む一切の権威を否定する点で、マルクスとは異なっていた。これは、一種の自主管理運動または第三共和制期に展開するアナルコ・サンディカリズム運動に酷似しており、労働者の個別的な経済闘争から運動をはじめて、労働者自身が生産を自主管理して、全面的な社会革命まで推し進める方針であった。しかし、当時のパリ・コミューン期直前のフランスの政治状況は、この自己管理方式のみに集中している状態ではなく、やむを得ず、政治闘争への関わりをはじめたグループも存在した。

当時のインターナショナルが、プルードン主義に傾いていたのは、フランスの産業革命は完了段階を迎え、1860年代には、資本の集中・集積が進行し、巨大企業が形成されたが、このことは国民経済全体が、均等に資本主義の軌道にのったことを意味しない。生産部門間と地域間の不均等発展が著しく、農村の閉鎖性も完全には破壊されていなかった。首都のパリでさえ、1企業当たりの平均労働者数は5人に過ぎなかった。このような労働力の構成を考えるなら、プロレタリアートを、独立の小生産者に転化しようとするプルードンの思想が、小仕事場の熟練労働者をひきつけた理由が理解できる。

しかし、1867年の恐慌を契機として、都市の工業労働者は、労働運動の第一線に登場してきた。彼らは首切り、賃金引上げ、労働強化という資本の攻勢に直面して、階級意識にめざめた。不況の深刻化につれて、都市の職人層のもつ革命意識を吸収しながら、資本にたいする賃金労働の解放を担う、体制変革勢力としての自己の存在と力を自覚し始めたのである。彼らは「皇帝社会主義」の幻想を遥かに越えて前進した。

このような状況から、パリ支部は、トランらの純粋プルードン主義の立場から、次第に、ストライキの階級闘争としての有効性を認め、「政治革命」と「社会革命」の不可分の関係に立って、集権国家を解体し、生産手段の共有制を実現しようとする若い世代の「革命的集産主義者」の手中に移っていったのである。

1869年に議会選挙があった。ボナパルトの延命策が功を奏したのか。反政府派の候補が292議席中116人を確保した。つまり、政府派が大幅に後退し、反政府派がほぼ2倍の大量進出をもたらしたのである。ジュール・フェリーやガンベッタ、クレミューなど、急進共和派も多数当選し、ロシュフォールも補欠選挙で、パリから選出された。だが、反政府派といっても、大部分が保守的な自由派であった。ナポレオン三世は、1869年7月に、国務大臣を副皇帝の異名をとる側近のルエルから、1870年1月、反政府派の中で最も保守的なエミール・オリヴィエに組閣を命じた。1870年1月、オリヴィエ内閣が成立し、その上、内閣が議会に責任を負い、皇帝が人民投票によって国民に責任を負う議会帝政を公約した「1870年憲法」が公布され、皇帝と議会の二重体制が完成されつつあった。それは急進共和主義者が要求していた「分権化」の主張に、一定の譲歩を示すものであった。この議会帝政の成立によって、帝国の制度の弱体化をもたらし、革命派や共和派に帝政打倒の展望をひらくことになった。したがって、成立早々のオリヴィエ内閣を待っていたのは、以前にもまさる大衆運動と労働運動の高まりであった。

この年の4月には、インターナショナルの加盟人員は、最大限34万5千人に達した。デュヴァールのようなブランキストの流入が、インターナショナル・パリ支部の活発化に拍車をかけた。

政府はすかさず巻き返しに転じ、軍隊と警察力を動員して、労働運動、革命運動を弾圧しようとした。こうして、再び、政府は、第一インターの指導者を一斉逮捕した。その一方で、政府は「1860年以後の自由主義的改革」の可否を問う「国民投票」を組織した。これは、この投票に賛成投票することは、対内的には、専制に賛成投票をすることを意味し、対外的には戦争に賛成投票をすることを意味した。帝政の可否を、改革か革命かにすりかえる投票であり、共和派、プルードン主義者、ブランキ派、ネオ・ジャコバン派は、棄権又は反対票の宣伝をした。にもかかわらず、5月7日の投票結果によると、不幸にも農民地方のひどい無知のために、賛成735万票、反対157万票になり、ボナパルト三世はこの結果を見てにんまりとした。投票だけを見ると、ルイ三世の治世は安泰に見えたからである。力を得た政府は、直ちにインターナショナル、ブランキ派の弾圧を開始し、指導者を逮捕して裁判にかけた。帝政は、一時、強化されたかに見えたが、しかし、それは外見にすぎなかった。多くの都市では反対票が高率を占めたし、賛成票を投じた者も、帝政の存在そのものを支持しているわけではなかったのである。

ところが、国内では革命運動に揺さぶられていたが、その上に、対外的にはフランスの軍事力が、メキシコ遠征のために弱体化しており、フランスは、羨望と共に嫌悪の情をもってみられていた宮廷と首都との悪評のため、政治的な弱体化と孤立化をまぬがれなかった。さらに、内外ともに窮地に陥ったナポレオン三世の危機は、別のところからやってきた。

そのルイ三世が、1870年7月19日、全土にわたって、ほぼ組織だてられ訓練と準備のゆきとどいたドイツの軍事力を向こうにまわして、プロイセンに宣戦布告したのだ。この戦争の陰謀は、1851年12月のクーデタの訂正版に過ぎなかった。有名なエムス偽電報事件が、フランス対プロシア戦に巻き込んだ。スペイン王位の継承問題についてのフランス大使とプロシア王ウィルヘルムのエムス会談の内容を、ビスマルクが王の電文を改ざんして報告した。それは、当然、フランス人の怒りをかきたてるものであった。ボナパルト国家にとって、帝政延命の手段として、戦争は最後の軍事的賭けであった。また、失政を挽回する絶好のチャンスでもあった。世論は、政府側からでる戦争の噂を、単なる株式売買上の詭計として摘発していた代議士のいうことを信じていた。戦争がついに公然と立法議会に宣言された時、全野党は予備金の投票を拒絶した。ティエールさえも、これを「憎むべきもの」として烙印づけた。パリのあらゆる独立の新聞紙はこれを非とし、地方新聞もほとんど異口同音に、同じ態度にでた。フランスの軍隊たるや、指揮系統も武装も訓練もお粗末そのものであった。1870年8月9日から9月4日にかけて、ボナパルト体制は敗北から敗北へと、最後の転戦の日々を送る。ルイ・ボナパルトとプロシアと戦争の成り行きがいかなるものになろうとも、第二帝政の弔鐘は、すでにパリに鳴り響いていたのだ。 

 「現在、ひきおこされようとしている戦争は、正義の戦争でも、国民的なものでも、フランスの真の利益に合致するものでもなく、われわれの分裂は、ただラインの両岸において、専制主義の完全な勝利をもたらすものにすぎないであろう。優越ないし王朝の君主のための戦争は、労働者の眼からみれば、一個の犯罪的愚劣事であるにすぎないものである」というインターナショナル・パリ支部の反戦への訴えは、フランスの労働人民の偽らない感情を表現していた。しかし、騒々しい排外主義の宣伝口調に、たちまちかき消された。病身のボナパルトが前線へ出て行ったのは、大勝利後に皇帝をパリに凱旋させ、クーデタでオリヴィエ内閣を罷免して、「権威帝政」復権させるための思惑に裏づけられていた。

なぜ、フランスは、ルイ・ボナパルトをして、ドイツに戦争をしかけることを思いついたのか。プロシアだ。ドイツをホーエンツォレルン王朝に併合するために、ルイ・ボナパルトと陰謀を企てたのは、ビスマルクであった。戦争への準備が不足したまま、ビスマルクのしかけた罠にまんまと飛び込んだフランス軍は、急ごしらえで戦備を整えたものだから、ドイツ諸国の援軍をえたプロイセン軍に、たちまちのうちに撃破された。フランス軍がアルザス、ロレーヌで後退し、8月6日には、フレーシュヴィラーとフォルバッハで、最初の敗北を喫した。この敗戦の政治的な効果は即座に現われた。

8月7日、摂政の皇后に指導されていた政府は、パリに戒厳令を布き、8月11日に国会を召集することにした。反政府派の諸新聞は、すでに「祖国は危機に瀕す」と見出しを書き、全市民の武装と防衛委員会の結成を要求していた。帝政派の代議士グループによって指名された6人の代表が、事態の切迫した8月8日に、摂政にたいしてエミール・オリヴィエを首班とする内閣の罷免とトロシュ将軍の陸相任命を要請した。しかし、皇后のウージェーヌは、国会を9日に召集する旨の政令を承認しただけだった。

9日の会議は革命的なものだった。立法院の臨時会議が開かれ、ジュール・ファーブルが、皇帝から軍事指揮権をとりあげ、行政権を15名の議員からなる行政委員会へまかせ、最後には、皇帝以外の一人の手中に、軍事力を集中することを要求する提案をだしたが、共和派の底をみぬいていたボナパルト派が、この提案を190対53で否決し、責任をオリヴィエ内閣に転嫁し、これを罷免した。代わりにボナパルト派右派のパリカオ伯に組閣を命じた。

パリカオはいかなる代価を払っても、皇帝を救出して、体制の権威を取り戻そうと臨み、トロシュはパリを防衛するという口実のもとで、それを監視しようとする。これらは採用されなかったものの、少なくとも内閣は覆された。軍隊については、ルイ三世はともかく身を引き、バゼーヌを総司令官に、トロシュをパリ総督に任命した。その間にパリカオ公クーザン・モントーバン将軍を首班とする内閣が作られた。

その間にも、プロイセン軍は、ライン河とヴォージュ地方の障壁をのり越え、フランス領内に怒壔の勢いで進撃を開始した。皇帝とマクマオン指揮下の東部軍は、大打撃を受けた。8月14日ボルドーで、16日グラヴロットで、18日サン・プリヴァで破れ、メッツに後退を余儀なくされたという、敗戦の情報がもたらされると、世論は沸騰し、民衆の帝政への怒りは爆発した。政府への信頼感は、音をたてて崩れ、パリ市内を駆け巡った。8月7日から市内各地で共和制を望む大衆デモと軍隊が衝突し、戒厳令がしかれた。9日、1万人の労働者を主体とする大衆が立法院を包囲し、議会の共和派左翼に決起を迫った。しかし、共和派議員はためらい、煽動によって動く気配はなかった。ルイ三世は、メキシコで名をはせたバゼーヌ将軍を総司令官に任命し、包囲されつつあるメッツの要塞を脱出して、シャロンに落ち延びた。皇后、パリカオ、ルーテルは、蜂起を起すことを恐れて、皇帝がシャロンの軍隊をパリに連れ戻すことを拒絶した。

一方、バゼーヌもたいした反撃もできず、メッツをプロイセン軍の完全包囲にまかせた。ナポレオンは、バゼーヌをメッツの包囲から解放することができるとまだ信じていた。また、トロシュ将軍をも、マクマオン将軍の補佐として、前線へ派遣した。しかし、パリ防衛論者のトロシュ将軍は、勝手に皇帝からパリ総督の地位をもらって、帰京し、反政府派に接近しはじめた。

1859年8月15日の大赦で、フランスに帰ってきた革命家ブランキは、8月14日、ブランキ派の慎重論を押し切り、ウード、グランジェ、ブリドー、フロットらの同志とともに、武装蜂起を企てた。彼らは、ラ・ヴィレット街の消防署を襲撃しようとした。それは同署の反ボナパルト的感情をあてにするとともに、武器を奪取しようと企てたのである。襲撃は失敗した。パリの防衛に心を奪われていた一般市民は、彼らの「帝政を倒せ。武器をとれ。」との必死の叫びに、動こうとはしなかった。こうして、反乱計画は失敗に終わり、首謀者のウードとブリドーは逮捕され、死刑を宣告されたが、影響の大きさを考慮してか、死刑は実行されず、執行猶予となった。地下に潜伏したブランキには、「プロイセンの手先」という汚名が着せられた。

皇帝は、メッツに行こうとしたところを、ドイツ軍に進路を妨げられ、マクマオン麾下の士気をうしなった混成部隊は、北方に押しやられ、スダンに逃れざるを得なかった。9月1日、スダンの戦闘がはじまったが、すでに2日前から、マクマオン将軍指揮下のフランス軍主力は、ムーズ川とベルギーとの国境の合間の狭い地域に、閉じ込められていた。ザクセン王国軍とプロシア王国軍からなるドイツ軍は、数においても装備や訓練の面でもフランス軍をはるかに凌いでいた。フランス軍は勇敢によく闘ったが、その日の午後3時、スダンの城壁に白旗が掲げられた。

戦闘はあっけなかった。1870年9月2日、フランス軍の降伏文書が、ヴィンフェン将軍と、ドイツの猛将モルトケ将軍との間で交わされた。3万人戦死、1万4千人負傷、ベルギー国境では武装解除された兵3千名、それにナポレオン三世はじめ、兵士の捕虜8万3千名、それに膨大な武器。弾薬の押収を加えれば、フランス軍の損失は甚大だった。ナポレオン三世は、これらの人員とともに捕虜となった。

 

4 はじまりのコミューン

 

戦争は、ルイ・ナポレオンの降伏、スダンの開城、およびパリにおける共和制の宣言とともに終了した。しかし、これらの出来事よりずっと以前に、ボナパルトの帝政軍隊の完全な腐敗が明らかになったその瞬間から、プロシアの軍閥は征服を決意していたのである。そして、プロシアは戦争の防衛的性質を力説するに満足しないで、フランス国境を越えることを余儀なくされた、ということをつけ加えた。彼らは、アルザス・ロレーヌのフランス愛国心を罰するために、6日間もめちゃめちゃにこの町を焼き、無防備の住民の多数を殺害した。

1870年のパリは、フランスの広汎な経済的変化が加わることによって、その独自の構造に、根本的な変化をこうむっていた。このパリの変化は、一方では近郊の町村の合併に、他方ではセーヌ県知事オースマンの都市計画に起因するものであった。金属、化学、抽出生産の諸工業が設立され、古典的な職人層の伝統をもたない労働力を集めていたが、この労働力は、都市の美化のために郊外に追いやられていた。プロレタリアートとブルジョアジーのあいだには、物質的ならびに精神的な溝があった。1866年の住民1,825,274人のうち、労働者は約50万人、職人は約7万人であったが、後者はその労働条件の点で前者に接近していた。

当時のフランスの労働者階級の圧力はきわめて強力になり、1864年5月25日には、団結の自由と、50年以上のあいだ、雇用主の法的優越を保障してきた民法1781条の廃止を、時の権力に承認せしめたほどであった。労働者の組織化は進み、1868年には、労働組合会議が設置された。対外政策に関して、反政府派の『左岸』、『フランス通信』、『点呼』、『覚醒』、『燈火』等の各紙は、帝政の無能を暴露したが、帝政は、労働組合会議や労働者の結束、人民の集会が組織されるにつれて、解体を待つだけになった。

その意味で、1869年という年は、社会の急激な変貌と、様々な潮流が交錯し、巨大な圧力が均衡しあった十字路のような時代であった。立法院において拡大しつつある反対派、平和主義の強い流れにひかれる学園の青年たち、そこでは、アメルのように、ロベスピエールや公安委員会の記憶をよびさます歴史家たちの仕事によって、革命的伝統が復活しつつあった。

一方で、大工業の技術革新によって、追い立てられた職人層や同業組合の小市民階級がある。また、ブランキズム、プルードン主義、生まれたばかりのマルクス主義によって、さまざまな方向に枝分かれした革命のエネルギーは、双方に引き裂かれつつあるかに見えたが、1794年、1830年、1848年の祖父たちや、父親たちの予測した社会改革という共通の理想に向かって集中してきた。この集積してきたプロレタリア大衆のすべての勢力が、プロイセン軍に侵略を受けたフランス、攻囲されたパリにおいて、より高みに動きだそうとしていた。

1870年9月4日、日曜日の夜が明けた。すでに多くの労働者、職人、学生などが、コンコルド広場とその周辺にあふれていた。スダンの降伏の電撃的ショックをうけたパリの50万人のデモ隊は、臨時集会に召集された立法院を包囲する。ブランキストたちは、コンコルド広場の労働者、学生たちとともにおり、別な一部は、パレ・ブールボンに隣接するセーヌ左岸の土手にいた。正午ころになると、コンコルド広場に、国民軍が姿をみせはじめた。7月王政時代に組織されたこの民兵隊の中には、武装している者もいない者もいた。そのあと、武装した国民軍数軍団が旗を上げ、太鼓をならしながら到着した。そのなかで指揮をとっていたのはブルジョア共和主義者エドモン・アダムであった。

コンコルド広場は、いつものたたずまいをみせていた。しかし、立法府の周辺には歩兵、騎兵がいりまじって、兵士が囲んでいた。パレ・ド・ランドゥストリやシャン・ゼリゼには2,500名から3000名の予備軍が駐屯していた。ブルジョアの共和主義者とオルレアニストは、ブランキストの労働者煽動を警戒していた。そのため、彼らは、デモ隊の先頭に立ってパレ・ブールボンへの行進に加わった。彼らが出したアピールには、午後2時にパレ・ブールボンの前に、国民軍の制服を着て集合するようになっていた。

ここで、突然、奇妙なことが起こった。橋の両側を守備する政府軍が、国民軍と接触するや、後退をはじめたのである。ブルジョア国民軍が政府軍と交替する。このときから秩序の維持は国民軍にゆだねられる。これは政府軍の動揺をおしはかって行われたものだ。また、議会を守っていた歩兵隊1,500名が、議長官邸の庭に銃を捨てて、逃亡したとの報告もあった。兵士は民衆と接触していたことから、任務から離れる気になったのである。

パリには、一つの声しかなかった。「廃位!廃位!」「共和国万歳!」の声であり、それがフランスの声であった。議員たちは何を宣言しようとしたのであろうか。共和制を宣言しようとしているのか、ティエールのように立憲議会が、体制を決定するのを待つことにするのか、単に国防政府を任命しようとするのか、権力の全体を立法院に移譲しようとするとのか、誰も分からなかった。デモ隊の主流は、パレ・ブールボンの議会場に向かったが、他の流れは、トロシュ将軍がいるルーブル宮へと進んでいった。憲兵隊が、議会場近くで、デモ隊に襲いかかり、死者と負傷者がではじめた。自然発生的に蜂起し、市民がブランキ派を先頭に、臨時に召集された立法院会議場のブルボン宮におしよせた。午後2時半、群集は口々に、「帝政を倒せ。立法院を倒せ。共和国身万歳。」を叫びながら、半円形の会議場に進入し、議会共和派に帝政廃止と共和制の宣告を迫った。

議場周辺には1万人の大衆が集まっているとのことであった。議長のシュネーデルは、「ル・クルーゾの殺人鬼」の罵声を浴びながら、からくも脱出し、摂政の皇后は、急いでテュイルリ宮を離脱、やがて、イギリスへ落ちのびていった。スダンの降伏は、帝政の最後の頼みの綱であった軍事権力の崩壊を意味した。ここに支配の基礎を完全にほりくずされてしまった第二帝国は、パリの民衆の突風をまともに受け、朽木が倒れるように、もろくも倒壊したのである。

議場にはほとんどの議員が集まっていた。帝国にとって正念場であった。各派の垣根は取り外されようとしていた。会議は午後1時半に開かれた。議事日程は3つの提案があった。第一はティエールの提案で「玉座の空白にかんがみ、内閣は統治及び国防委員会を任命する。事情が許せば憲法制定議会を召集する」というものだった。第二は、共和派は皇帝退位と「国防政府」の選出の提案であった。第三のティエールを中心とする中間グループ(自由派)は、一種の選挙管理内閣に当たる「政府・国防委員会」の選出と、その下での憲法制定議会の召集を構想したが、皇帝の不在のため皇帝退位問題は棚上げされた。これらの案が提起されたところで休憩になった。

休憩にはいると、コンコルド橋とパレ・ブールボンの正面にいた群衆が中庭、議場の廊下、階段に侵入し、傍聴席に殺到した。議場は「廃位!廃位!」「共和国万歳!」の声で満たされた。議場では、これ以上、議長席に止まることが危険だと判断したパリカオは、ボナパルティストの議員とともに引き上げた。シャネーデルも座席から立ち上がった。左翼の議員が、彼をまた座らせると、演壇に上がった。ブランキストがあらたな人数をつれて、あらためて議場に入ってきた。議場は「前進だ!共和国万歳!」の叫びで、何も聞こえなくなった。群集は、議長席、傍聴席、控え室を占め、書記の机、速記者の席をとりかこんだ。議長は散会を訴えた。午後3時だった。

この緊急事態を前にして、ジュール・ファーブルは、左翼を代表して、立法府議長に異例の深夜会議の招集を要求した。それで、帝位の廃止を宣言しようというわけである。右翼も同様の要請をした。立法院の特別会議は、深夜の1時に開かれ20分間続いた。ここで、ボナパルティスト、オルレアニストを主体とする政府の樹立、すなわち、ジュール・ファーブルの着想による、シュネーデル、トロシュ、それにパリカオを加えた三頭政治の構想に支持を与えた。民衆の津波のような圧力に圧倒された議会共和派は、急遽協議し、ガンベッタに次のような宣言を読み上げさせた。「祖国が危機に瀕し、……われわれが自由な普通選挙から生まれた正規の権力であり、またそれを構成するものであることにより、われわれは、ルイ・ボナパルトとその王朝は、フランスの上に君臨するのを永久にやめたと宣言する」。

群集からは「共和国はどうした!」という声が、四方八方から攻撃してきた。「まず、廃位だ!ついて共和国だ!」それでも群集は納得せず、共和国にこだわった。ガンベッタと相談したファーブルはいう、「諸君は内戦を望むのか、望まないのか?お願いだ。血にまみれた日がこないように、勇敢なフランス兵の銃口を、諸君の方に向けさせないでくれ。ひとつの愛国心と民主主義の思想のなかで一致しよう」。だが、それでも、反響してくる反応は「共和国万歳!」の叫びだった。「共和国だって!」いらいらしながら、帝政廃止を宣言した立法院会議場では、ぎっしりつめかけた群衆が、共和派議員に迫り、「共和制の宣言」と「新政府の樹立」を激しく求めた。しかし、この場で民衆の要求をのむことは、革命的な人民政府の樹立につながる。それは、ブルジョア議員にとっては、プロイセン軍よりもおそろしい事態であった。

ブランキストが議長席についた。大声をはりあげて、帝国の廃止と共和国の宣言をした。左翼議員たちは、ブランキストが自ら共和国を宣言し、革命政府を成立させることを恐れた。ガンベッタは群集に静粛に、議会の決定を待つように勧告した。だが、返ってきたのは「共和国万歳!」の叫びだけだった。このときブルジョア共和派議員ジュール・ファーブルがガンベッタに支えられて、沸騰している組織も政治的指導ももたない群衆に呼びかける。ファーブルが叫ぶ。「その宣言をするのはここじゃあない市庁舎だ!」「市庁舎へ行こう。共和制が宣言されるのはそこなのだ」。ファーブルが群集に呼びかける。「共和制だって?それを宣言すべきところはここではなくて市庁舎だ!」

大革命時のコミューンと7月革命、2月革命の思いもなまなましい市庁舎こそ、パリ民衆の誇りであり、憧れの的であった。だが、ブランキストが、これに反して叫ぶ「ここで共和国の宣言をしよう。共和国万歳!」。もうひとりが演壇に上がり、「ここで共和国の宣言をしよう」と繰り返した。ファーブルの提案は、この民衆感情に訴えて、それに巧みに誘導した。

ガンベッタとファーブルは、突然、議場の出口に向かう。デモ隊の流れが、ファーブルとガンベッタのあとに続いて、市庁舎の方への道をすすむ。市庁舎の上では、すでに三色旗にまじって、赤旗が翻っている。群集がひきつづく。なぜ、市庁舎なのか、1830年と1848年の革命のとき、臨時政府樹立の宣言をしたのは、パリ市庁舎であった。その思い出から出た言葉だった。しかし、同時に、市庁舎がパリの民衆にとって、沸騰する言葉の中核、組織の構成の中心、すなわち、パリ・コミューンを表現するところでもあるからである。群集は潮のひくように、ブルボン宮を去り、市庁舎に向かった。

ブランキ派は、サント・ペラジーの牢獄につながれている同志と革命家の救出に向かった。これを境に、群集のブランキ派の声はかき消され、市庁舎の方へ引き上げていった。共和派は、市庁舎が、新政府樹立の場所となった7月革命や2月革命の先例を引き出し、ブランキ派の追撃をかわし、時間かせぎをしたのである。このわずかな時間を利用して、ブルボン宮に残ったブルジョア共和派議員は、テュイルリ宮殿から駆けつけたパリ防衛司令官トロシュと急ぎ協議し、革命派を排除した新政府の閣僚名簿の作成にとりかかった。帝政反対派という理由で担ぎだされた敬虔なカトリックのトロシュは、「秩序と財産と家族の護持」の約束をとりつけた上で、新政府の首班となることを受諾した。

ガンベッタ、ファーブルを先頭にした人の波が、ほとんど同時に市庁舎に押し寄せた。防衛にあたっていた軍隊は、押し寄せた民衆には何もしなかった。市庁舎には赤旗が立ち、群集があふれていた。議員たちは、群集の中で議場に連れ込まれていた。共和派の議員は、ネオ・ジャコバン派、ブランキストの連中に、先をこされていることを知った。彼らは、すでに、ここで革命政府の閣僚リストが練っていた。

リストには、左翼議員の名にまじって、ブランキ、フルーランス、ドゥレクューズ、フェニックス・ピア、それにロシュフォールの名がみえた。ロシュフォールは、ブランキストと民衆の手でサント・ペラジー監獄から解放されたばかりであった。ファーブルは、大広間に入ると、そこに、8月14日、15日のラ・ヴィレットの消防署襲撃に加わったものや、この9月4日、立法府に進入したものの顔があるのが分かった。この間に、三色旗と赤旗が並んで立つ市庁舎では、第三共和制の誕生に狂喜した民衆の興奮は、獄中から救出されたばかりのロシュフォールを迎えて、その頂点に達していた。彼らは、ファーブルがもたらしたパリ選出のブルジョア共和派議員だけで構成される閣僚名簿に、口々に異議を唱え、ドレクリューズ、ブランキ、ヴィクシル・ユゴー、ルドリュ・ロランら、革命派の名を加えるよう、強く要求した。この時、ガンベッタが喝采を受けながら演壇に上がり、パリの議員だけが政府を運営する資格があり、この資格を持つロシュフォールだけを入閣させようと提案した。迫り来るプロイセン軍からの首都の防衛に、心を奪われていたパリ市民は、だまされているとも知らずに、不満ながらガンベッタの提案を受け入れた。

ファーブルの友人が、誰それと教えてくれた。ファーブルは時間稼ぎに、「ふたたび自由をとりもどした偉大な国民にふさわしい、秩序と威厳をもって行動しよう」と叫んだ。ネオ・ジャコバン派、ブランキストを排除することを望むものは多かった。しかし、ファーブルの叫び声は「共和国万歳!」の声にかき消されてしまった。ファーブルは、ついに、「共和国」の宣言をせざるを得ない立場になった。抵抗するにも限度があった。

左翼議員は、廊下の先の狭い場所に移動して、大急ぎで臨時政府のメンバー表を作成した。前日からすでに案を作ってあったのである。ケラトリーによれば、そのメンバーには、左翼中央派、特に少数派からなっているとのことであった。すなわち、ブルジョア共和派、とオルレアニストである。それでも左翼議員の会議はなかなか紛糾した。だが、ブランキストは、革命政府宣言の機を失した。民主派とくに労働者との接触の不在のためであった。だから、彼らには人気がなかった。さらに、自己の勢力範囲が分散していたのである。一部はブランキストの指令で、サント・ペラジーの政治犯釈放に向かったし、他は市庁舎にいたが、ここに主力を投入したブルジョア共和派には、有利な闘いはいどめなかった。

ブランキストはロシュフォールの到着を待っていた。彼さえくれば、革命政府宣言ができると信じていたのである。ロシュフォールは赤い肩章をつけて、意気揚々と市庁舎へ急いでいた。途中で群集から「ロシュフォール・パリ市長」という声援をうけた。グレーヴ広場に着くと、彼は、かつがれて市庁舎に入った。やがてこの『ラ・ランテルヌ』誌の有名な創始者は、政府リストを読み上げることになる。ブルジョア共和派とブランキストの争いの間で、彼はキーパーソンになっていた。

実をいえば、ジュール・ファーブル、フェリーのブルジョア政府構想と、ブランキの革命政府構想とでは、ロシュフォールには前者の方が好ましかった。それだけに、ブランキストの案の中に、同意なしに自分の名が加えられていることに困惑した。結局、新しいブルジョア政府が、ロシュフォールの参加を得て成立すると、エマニュエル・アラゴが窓から新メンバーの発表をして、リストをグレーヴ広場に撒いた。

 政府に加わっている右翼議員11名、パリの代表議員8名(ファーブル、フェリー、アラゴ、クリミュー、ガルニエ・パジェス、ロシュフォール、ペルタン、グレ・ビゾワン)、それにパリと地方で同時に選出された3名が、地方代表としての資格を選んで加わった。ガンベッタ、ピカール、シモンである。そして、ファーブルが政府の首班となった。こうして外相ジュール・ファーブル、内相ガンベッタ、蔵相ピカール、陸相ル・フロー、海相フーリション、警視総監ケラトリーなど、ブランキ派のロシュフォール以外は、すべてブルジョア共和派からなる「国防臨時政府」が成立した。帝政によって廃止されていたパリ市長には、1848年の古い革命家エチエンヌ・アラゴーが指名された。実質的な権力は反動派がにぎり、共和派は「おしゃべりするだけのポスト」を手に入れた。

 国防政府の成立の直後の9月9日、マルクスが書いた第一インター総務委員会の宣言は、次のような警告を発している。

 

《プロシアの侵略者に対するパリの勝利は、フランス資本家とその国家の寄生虫どもとに対するフランス労働者の勝利となったことであろう。この国民的義務と階級的利害との衝突に面して、国防政府は、亡国政府に転化することを、一瞬たりとも、躊躇しなかったのである。》         『フランスの内乱』 マルクス著 木下半冶訳

 

マルクスの考えでは、フランスの労働者が、共和制を擁護して、その組織の基盤を固めるべきと映ったのだ。だが、パリでは何の動きもなかった。それがマルクスの感じたもどかしさであった。

9月4日の夜、インターのパリ支部連合は、労働者組織連合会議と合同会議を開いて、「戦争と未組織の民衆の準備不足」の理由により、新政府にたいする闘いを控えることにした。この点はブランキ派も同様であり、政治的休戦を訴えていた。

 1870年9月4日の共和制樹立は、パリの労働者に、フランス革命時代の愛国心を再燃させた。この共和主義的な愛国心と国際主義(インターナショナリズム)は矛盾するのではないか。マルクスは、開戦直前の第一インター総評議会の『第一宣言』で、王朝戦争に際しては、愛国心にかられずに、戦争反対に立ち上がるのが、労働者の責務である、と訴えていたが、このインター・パリ支部のアピールについては、それにきわめて冷淡な態度をとった。マルクスは、フランス人の「国粋主義」をしめすものと考えた。彼にとって、ナポレオン三世の登場以来のフランス人の歴史的追憶は、すべてカリカチュアにすぎない。ビスマルクとの講和が不可避ないま、フランス労働者が、歴史的追憶にかられて、戦争を継続することは、フランス国内や国際的な労働運動の障害になるばかりである。マルクスの判断は、明快だった。フランス革命時には、敗北は共和制の否定に通じたが、今は、共和制は敗北によって否定されない。むしろ、労働者は一刻も早く、戦争の重荷を捨てて、敗戦で痛手をうけたブルジョア共和派にたいして、新たな攻撃をかけるべきである、とした。

 

《フランスの労働者階級は、だから、きわめて困難な状況のもとに動いているのである。敵が殆んどパリの城門を叩くばかりになっているという現在の危機にあって、新政府を倒壊するいかなる試みも、それは絶望的に愚劣なことであるであろう。》

『フランスの内乱』 マルクス著 木下半冶訳

 

《マルクスの憂慮を杞憂におわらせた9月4日直後の第一インター・パリ支部やブランキ派の新政府への態度は、単に民衆運動の弱体という戦略的判断からでているばかりでなく、共和国防衛という民衆意識と心情を共にしている城内平和論であった。愛国主義は、この時点で、共和制を希求したパリ民衆の意識の本質的部分の一つであった。そして、彼らが新政府からしだいに離反してゆくのは、階級意識と愛国心との渾然とした不信感のためであり、この意味で、愛国主義は社会主義を日程に上らせる梃子の役割を果たしたのである。》               

      『パリ・コミューン』 柴田三千雄著

 

 第一インター・パリ支部が間違っているのか、マルクスの方が間違っていたのだろうか。

柴田のような意見がとおるのは、「戦争」の問題について普遍的な指針を示しえなかっ

たからだ。「戦争」の問題について、パリ市民はもっと、緻密で冷静な検討をくわえることが必要であった。真剣に考えつくさず、感情的な交戦論が、人々の心をとらえて離さなくなった。すべての熱情が、ドイツに敗北したコンプレックスを、政府に八つ当たりしている感があった。そのつけは、あとあと、コミューンにおける方針の問題が、具体的に生じたとき、何倍にもなって、はねかえってきた。また、同様に「愛国」という言葉についても熟慮する必要があった。敵を打ち負かすことが「愛国」と勘違いしている左翼の煽動も、「愚劣」とすべきであったのだ。

労働者階級は、ロシュフォールをパリ市長にすることを求めていた。しかし、彼が市庁舎に到着して、このポストは、大急ぎでエチエンヌ・アラゴに与えられた。甥のエマニュエルの運動が実ったのである。この甥は臨時政府のメンバーであり、すでに市長の職を果たしたことがある。彼は叔父に、三色の肩章をまとわせた。長く政治の世界から離れていた48歳のエチエンヌは共和派で、「革命的」ということばが、およそ似つかわしくない人物であった。

同様に、ロシュフォールのほうも、実際は、労働者階級の利益を代表するような男ではなかった。しかし、パリの労働者の方は、彼に期待をしていた。彼は市庁舎の前の大衆に向かって、エチエンヌ・アラゴを「よき共和派として、彼に市長職が与えられることを歓迎する」と語った。ロシュフォールは、自分の意図と労働者の考えの食い違いを知っていたし、共和派の方も、市長にするよりは、政府の一員にした方が無難であることを知っていた。そして、ブルジョア共和派は、この政府の最後の仕上げとして、トロシュ将軍を新政府に加え、陸軍大臣、パリ総督の地位を用意していた。

トロシュはやってきた。最初、ロシュフォールがいることに驚いたようだが、結局、了承した。かくれたオルレアン派であるトロシュは、大統領と軍隊の指揮権をにぎっている。彼は、全権を要求したが、これは共和派との間で調整する問題だった。皇帝はオーストリア、アメリカ両大使とともに、国外に去った。市庁舎に翻っていた赤旗は、ここの守備をしていたボナパルティストが、ブルジョア的フランスの三色旗に代えていた。

臨時政府の最初の会議は8時に始まったが、そこで内閣が成立した。大統領のポストはトロシュ将軍で、将軍派パリ総督を兼任した。9月4日の夕方、「国防政府」が結成されようとしているとき、群集は四散し、市庁舎正面の赤旗は引きおろされた。時間は午後の6時だった。

トロシュのとった第一歩は、ティエールをヨーロッパの全宮廷歴訪の旅にのぼらせ、そこで共和制と王との物々交換を申し出ることによって、仲裁を哀願せしめることであった。トロシュは自分の同僚たちを前に、現在の事態においてプロシア軍に対抗して攻囲に耐えようと試みることは、愚劣事であると明言した。このように共和制宣布のその夜に、トロシュの計画が、パリの降伏にあることが、その同僚たちには知られていたのである。その彼らは、恥知らずにも、「われわれの領土の一寸も!われわれの要塞の一石も!」譲歩しないであろうと、公言することによって、パリを欺こうと決心した。

 9月4日夜、前年来、グラヴィリ街から移転していたコルドリー街のインターナショナル本部は、「パリ労働者組合連合会議」と「インターナショナル・パリ地区支部連合」の合同会議が開かれた。この日の午後の市庁舎における態度を議題として提案した。会議は、まず、帝政末期の弾圧で解体した組織の再建と、地方への団表派遣を決定し、次いで、『ドイツ人民とドイツ国民の社会民主主義への呼びかけ』を採択した。「フランス人民はすべての自由な人民の友であり、同盟者である。彼らは他国の政府に干渉しない。だが、他の国民が、自分たちの政府に干渉することも許さない。ラインを再び越えて去れ。争われている大河の両岸で、ドイツとフランスは手を握りあおうではないか。専制君主がわれわれを互いに戦わせた軍事的犯罪を忘れてはならない。普遍的共和国万歳」。このドイツ人民への呼びかけで、不正な戦争を停止できることに期待した。

この呼びかけに続いて、会議は新政府のもとへ代表団を派遣し、次のような協力条件を申し入れることを決定した。すなわち、@国民軍大隊の形成と、武装に迅速に着手する任務を持つ市会選挙の実施。A警視庁の即時廃止と選挙された司法官によるその職務の交替。B裁判官の選挙制。C出版及び集会・結社の権利に適用される税制上の、また抑圧的な手段の廃止。D宗教予算の廃止。最後に、E9月4日以前の諸事件に適用されるすべての有罪判決と政治的訴追の大赦によらぬ撤回。

しかし、ガンベッタのもとへ派遣された7人の代表団は、ていよくあしらわれ、何ひとつ、はっきりした約束をとりつけることができなかった。翌5日、400名~500名の労働者代表は、オマール街の小学校に集まり、帝政時代の官吏と治安警察官の追放、また、逮捕を要求、さらに首都の緊急防衛態勢の必要を確認した。同時に、パリの全20区が、それぞれ新市政機関と国防政府の行動を監視するため、「監視委員会」を設置する勧告を採択した。この決定は早急に実行された。この日、「20区中央委」は、『第一回目の赤いポスター』として知られるパンフレットの声明を掲示した。それにより、パリ市会と司法官の選挙、出版・集会・結社の自由、生活必需品の徴発とその配給制、全市民の武装等を提示した。

9月4日とは何か。大衆の無経験やそれにもとづく幻想、彼らの深い、そして真実の愛

国主義、あるいは政治的指導層の不在を思い起こすだけでは十分ではない。その他の条件はそろっているにもかかわらず、あたかも、その革命的危機が、その帰結まで導かれなかった理由を、何かの不幸な偶然によって説明しようとすることである。この危機は、いかに大きいものとはいえ、国家の危機であり、その危機はイデオロギーをも、固有の意味の構造、生産と所有の社会関係をも、まして経済的基礎をも捉えるものではなかった。意味も目的もわからない行動のために集められた人民にとっては、政府の変更で充分である。

集まったパリの大衆は、急進的な変化を期待せず、また、それを欲してもいない。歴史を直接的につかんでおり、事件と歴史の創造者である彼らは、重大な影響を及ぼすとはいえ、社会学的には表面的なこの変化、つまり別の政府をもつという変化に満足する。このことは、社会学的事実としての集合は、革命を行ったり、説明したりするには充分でないことを示すものである。

すでに、9月4日以前から、いくつかの地区で、愛国的市民により、自然発生的に監視委員会の萌芽ができていた。9月13日、インターナショナルのパンディ、パニェール、それにシャサン、ルフランセらの働きかけで、各区ごとに、公共集会で、各区監視委員会の代表4名計80名で構成される中央代表機関の設立が本決まりとなっていた。インターナショナルは、それ自身としては、分権的連合主義は別として、何らの明確な政治方針も、何らのプログラムももっていなかった。全く自発的な行動の出会いをとおして、インターナショナル派は、その闘士の核によって、民衆勢力の結集を実現することにした。それは、「パリ20区共和主義中央委員会」(以下「20区中央委」という。)の名称を採択していた。この委員会には3つの原則があった。ひとつは、設立のイニシアチブをとったのは、第一インター・パリ支部であり、インター系が、大衆運動の最大の指導力をもっていたからである。しかし、このグループも、戦争による生産活動の沈滞と、労働者の国防への従事が重なって、労働組合から、一般的な政治クラブに変わっていた。「20区中央委」は、コルドリー街にあるインターナショナル・パリ支部と同じ建物に本拠を置いた。

第二は、これは「中央委」の名称にかかわらず、上からの統制機関でなく、各区の監視委員会が、自主性をもち、連合体の形をとったことである。第三は、「20区中央委」は、祖国防衛を最大目標にしており、政府が国防に専念できるように、監視委員会が市内の一般行政を肩代わりするという態勢をとった。

ところで、戦争継続が中途半端な政府と「20区中央委」との関係は、9月末から10月にかけて悪化しはじめた。9月末に、政府は、「20区中央委」の要求に答えて、パン、肉の価格統制を約束したが、厳格に実行せず、公営店が閉鎖命令を受けた。こうして、政府と「20区中央委」は、責任分担から二重権力へと変わり始めた。「20区中央委」のような民衆の組織が不可欠にあるという考えが、広く伝わった。というのは、パリの人々は1830年の自分たちの闘いの成果が、ブルジョア代議士によって横取りされてしまった苦い経験をもっているからだ。

 コミューン選挙への要求が高まってきたのも、この時期である。コミューンの歴史は古く、民衆の無意識のなかに追憶として沈殿しているものであった。いうまでもなく、フランス革命において、コミューンの果たした役割は大きかった。既存の政府を乗り越え、自己権力を自らのものにしようとする願望の表現であり、もはや、パリの防衛、ひいては祖国の防衛を、政府に期待することができないとしたら、パリ市民みずから、自治権=自己権力の名において、それにやろうとする意志の表現であった。民衆は、まずコミューンを制度として概念化し、それから要求したのではない。コミューンは、愛国主義に発した大衆運動が、いまや国防政府を乗り越えようとするときの合言葉であった。9月11日に「20区中央委」が正式に発足した。

「20区中央委」は9月22日の「宣言」で、コミューンを「市民自身による市民の直接統治」とよび、さらに、10月9日の、「原理の宣言」で、「市民諸君、祖国の最高の危機において、権威と集中化の原理が無力であることが証明された以上、事物の力そのものによって自由で、自立的で、主権者となったわれわれは、フランスのコミューンの愛国的熱情のなかにしかもはや希望をもたない。パリの揺るがない抵抗の上に、今日、社会進歩と革命の延命がかかっている。パリにはゴール民族の救済の責任がかかる。パリに主導権をあたえよ……」とある。コミューンが政治的統一体をなし、国家はそのコミューン連合体にすぎないという、プルードン的発想が述べられている。 

こうして下部からの創意によって組織された大衆組織としての「20区中央委」は、インターナショナルの直接代理機関ではなかったが、連合主義の論理に立つ直接民主主義組織形態と、そのスローガンから判断すれば、インターナショナルのイニシアティブを確認することができた。その頃、大衆運動の組織として何があったか。労働者固有の組織としては、第二帝政下から、相互扶助を目的とする改良主義的なものから、ストライキを目的とする戦闘的なものまで様々あり、帝政末期のパリには約100の、このような労働者組織があったという。そのうちの約20がインターに加入し、また、約60がインターの影響下にある「労働者組織連合会議」に加盟していた。しかし、1870年はじめの弾圧と、これに続くパリ攻囲による生産力低下のため、労働者組織は20以下にまで減少していた。

 パリの労働者は何をしようとしたのか。彼らはナポレオン三世の帝国を瓦解させる革命の主人公ではあったが、議会の成果を自分たちのものにしたのは、ブルジョア共和主義者、左翼議員、オルレアニストの連中であった。パリではブルジョアの勢力が強く、そうした結果を産んだが、地方の都市では事情が違った。リヨン、マルセイユ、トゥールーズでは、「革命的コミューン」の宣言がなされた。期間は短かったが、地方の革命的権力組織、特に、リヨンのそれは急進的な政治的・社会的手段をとおして、多くの布告を出した。そのいくつかは、1871年のパリ・コミューンより先んじていた。ともかく、フランスの大衆は、9月4日の事態を、熱狂的に歓迎した。 

 1830年や1848年と同じように、1870年9月4日も、労働者や大衆が血を流し、ブルジョアが権力を握ることになった。「国防政府」と名づけられたこの臨時政府のメンバーは、ブランキ派のロシュフォール以外、すべてブルジョア共和派からなっていた。共和派、オルレアニストの差こそあれ、すべてがブルジョアといってよかった。首班の座は、時をおかずに、ジュール・ファーブルからトロシュ将軍に明け渡されていた。危急の事態に対処するのは、軍隊を掌握できるものでなければならないという理由からである。そのトロシュは、ブルジョア共和派と組んで、革命的な労働者運動を抑圧しようとしていた。王党派を含む大ブルジョアは、この政府を歓迎した。ボナパルティストもブルボン派も同じような態度を示した。彼らは内心では、目前に迫ったプロイセン軍よりも、武装した大衆、すなわち国民軍のほうが、はるかに恐ろしかったのだ。そのため、大衆の武装を解除し、共産主義の脅威を取り除くためには、1日も早く和平を進めなければならなかった。

しかし、ともかく帝政が倒され、共和国が成立したのだ。パリは浮かれていた。「ラ・マルセイエーズ」の歌声が、劇場でもカフェでも街頭でも聞かれた。1851年のナポレオン三世のクーデタによって追放されていたヴィクトル・ユゴーが、追放先のブリュッセルからパリ北駅についたのは、9月6日の午後4時だった。群集は熱狂的に歓迎した。文豪は感激のあまり、何度も涙を流した。「プロシア人は80万人、諸君は4千万人だ。立ち上がって、彼らを吹き飛ばし給え」と彼はよびかけた。パリ市民は本当に吹き飛ばすつもりでいた。

しかし、新政府は、1日も早い休戦を望んでいたのだ。そのためには、世論の理解を得て、有利な休戦条件をとりつけることが必要だった。国防政府は、樹立の直後から、和平の道を模索していた。和平調停をするため、オルレアン派のティエールを特使としてヨーロッパ諸国の宮廷に派遣し、和平の斡旋を乞わせた。外相のファーブルもパリの攻防がはじまった9月15日、パリの東のフェリエールで、ビスマルクとひそかに会見し、休戦協定を打診した。しかし、ビスマルクの出した条件は、アルザス、ロレーヌ地方の割譲を含む過酷なものであり、とても妥結できるものではなく、工作は失敗した。このため、政府は、当面、抗戦継続のジェスチャーを続けざるをえなかった。このような政府の弱腰と欺瞞的な態度が次第に明るみにでるにつれて、パリの民衆の感情のもどかしさが、裏切りへの疑惑とすり替わるようになった。「総攻撃」を要求する革命勢力、国民軍兵士と、口実を設けて決戦を回避とようとする国防政府との対立が、次第に高まっていく。

 9月19日から、パリはドイツ軍に完全攻囲された。不潔で不足がちの食料、その反対に、さまざまな物質的、精神的な我慢を要求される住民のあいだには、寒気のなかでアルコール中毒が増大していた。すでに食料の分配の仕方には、ひどい不平等がみられ、それが噂話によって増幅されていた。トロシュは、初期の敗北によって士気沮喪し、不統一だった軍隊の力にたいする不信感は大きかった。それからくる政府首脳の無気力にたいして、パリの住民の間から日増しに、大胆で正当な批判を呼び起こした。トロシュ代表部の設置によって、政府は明らかに弱体化した。「奔流出撃」、「大砲ぐるい」など、トロシュの繰言のような出撃プランは、国民軍の会話の話題にもなっていた。

 それとともに、なしにはすませない立憲議会並びにパリ市会の選挙の延期による政治上の不確定性と、ビスマルクとジュール・ファーブルとのフェリエール会見(9月15日)の失敗は、国家の将来について曖昧さを煽り、あわせて民衆の気持ちの上に重くのしかかった。プロレタリアの居住地区で、ブランキの新聞『祖国は危機に瀕す』を読み、刺激され、革命的行動のプログラムが練り上げられたとしても不思議ではなかった。その指導理念は「共和国、祖国、一般徴用、コミューン」という簡単な言葉で言い表されるようなものであった。

やがて、無名の人々によって、国民軍の254の大隊と、パリの各区に委員会が設置された。その精神状態は、多かれ少なかれ、住民の無意識の欲求をよく体現していた。それらがより集まって、のちに「20区委員会」と「国民軍中央委」の心情を互いに支えた。

ブランキ派は、いち早く、「国民裏切り政府」の打倒を叫びはじめた。政府と革命勢力との協力関係は、時を経ず、まもなくして冷却し、敵対関係へと変わったのである。大衆の自主管理組織としてのコミューンの選挙を要望する声が、はっきりとした形で沸き起こってきたのは、このような情勢下であった。

パリの籠城の歴史全体は、内側からみるならば、各方向において着手されたもろもろの歴史の試みから織りなされており、そうした試みのなかからコミューンの概念が、最初は漠然としていたが、おぼろげながら、やがて人々の心の透明な鏡に結像したのである。コミューンの概念のなかに見出したものは、中世都市の叛乱的な諸政府についての歴史的な思い出や、自治制度の要求であった。あるいは、バブーフや7月革命王制下の秘密結社や、マルクス主義の共産主義という言葉が喚起する革命的なイメージにいりまじって吸収された。それは、労働者と職人、知識人とユートピスト、若い学生と白髪のまじった48年の革命家たちが、それぞれの過去を背負いながら、あやふやな欲求を満たすイデオロギーのアマルガムであった。さらには、これにプルードンの相互扶助論や、バクーニンのアナーキズムが加味するならば、パリ市民の心情の最大限の振幅について、正確なあとづけができるはずだ。この時点で、大衆が具体的に心に描いたコミューン像のなかで一般的なのは、なによりも大革命時の「革命的コミューン」のイメージであった。それに中世都市で自治権が守られ、戦いとられたコミューンの思い出が、オーバーラップされた。それは、プルードン型のものか、ブランキ派が構想したものかははっきりしなかったが、そこから一般の大衆がうけとったのは、政府との間に、二重権力を構成する自立的市会のイメージだった。

9月20日の夜、コルドリーでは「20区中央委」が開催され、次のことが決定された。@共和国は国土を占領している敵と交渉することはできない。Aパリは降伏するよりは、破壊の中に身を埋める決意をする。B総動員並びに国土防衛と戦士の補給に役立つ物資の全面的徴発が、パリと諸県で布告されなければならない。Cパリ・コミューンの手中に市警察権を返還する。D1万人に1人の割合で選出される市会議員より構成されるパリ・コミューンの即時選挙の実施などが目標だった。

パリと国防政府とのあいだの溝は、ますます深まってきた。それにひきかえパリ市の選挙は遠ざかっていった。反動的なブルジョアにとって不安だったのは、「20区中央委」のメンバーが、各地区の諸団体によって選ばれていること、さらに、活動的な労働者、民衆と連帯する可能性がある組織が設けられたことであった。

9月20日、アルカザールで開かれた会合で、投票による5項目の決議が産まれた。この計画は、21日に政府に提出される。委員会の代表を受け入れたジュール・フェリーは、彼らにコミューンの選挙は、9月28日以前には行わないこと、区ごとの人口数の割合に関する原則を捨てることを申し渡したが、この点の同意を得ることはできた。

他方、国民議会の方も選挙が延期されていた。この最大の理由は、国防政府の主要なメンバーが、徹底抗戦とは全く反対の方向を向いていたことによる。選挙によって政府のこの体制がバランスを崩すことは避けなければならない。トロシュ自身、パリの革命的運動を抑えて、フランスを救う道は、休戦条約しかないと信じていた。9月22日付の「官報」には、ビスマルクとジュール・ファーブルが会見したことを告げていた。これは市民にとっては、驚くべき裏切りといわざるを得なかった。

9月22日と26日に行われた激しいデモのなかに「20区中央委」のメンバーの姿があった。デモ隊は政府にたいし、再度の有効な軍事行動とコミューン選挙の実施を求めた。このデモを支えたのは、国民軍の軍団中に組織された郊外地区の革命家たちである。彼らはフルーランスをキャップとする最も熱烈な民主派によって指導されていた。9月22日、「20区中央委」は、労働者のみではなく、国民軍大隊長を「20区中央委」の会議に出席させることにした。そして、26日、140人の国民軍大隊長が市庁舎におもむき、呼応して市会選挙を要求する声明と、パリ選挙人の即時招集を要求し、会見した三人の国防政府代表に選挙を約束させた。9月24日には、中央委の集会は穏健な(急進的)共和派ロクロワによって主宰されたが、これは共和派の戦線の拡大を示すものであった。

しかし、政府は10月2日、前言を翻して、戦局の重大化を口実に、憲法制定議会とともに、パリ市会選挙の無期延期を声明した。同日、政府部内の徹底抗戦派のガンベッタが、軽気球にのって、包囲下のパリを脱出、トゥールで政府代表団を設置し、ロアール軍団の組織にとりかかったが、彼の不在は、政府にとっては、厄介払いで都合がよかった。

10月5日、国防政府の異分子フルーランスは、国防軍10軍団とともに、ベルヴェルから下り、政府にたいして、前戦への出撃、シロャスポ銃を含む軍団の武装、政務に当たる反動分子の追放、即時選挙及び大量徴兵を要求した。トロシュ、ガンベッタ、フェリーが対応したが、それを無視し、逆に、無断で防衛部署を離れたという理由で、叱責処分をうけた。納得しないフルーランスは、その場で辞任を申し出た。ブランキも反動派士官の要求で、大隊長をリコールされた。2日後、政府は国民軍にたいし、その長によって召集されない限り、集合することを禁じ、また、選挙は攻囲が終わるまで延期すると発表した。政府の声明は、大衆にたいし武装デモの危険性を排除することにあった。

ついで、10月8日には、「20区中央委」の激越な抗議声明に呼応して、700名~800名の大衆が市庁舎におしかけ、「コミューン万歳」を叫んだが、かけつけた政府支持の国民軍に威圧された。10月8日の事件後、「20区中央委」と監視委から、シャサンらのジャコバン派の多くが離脱し、インターナショナルの影響力はそれだけ強化された。

しかし、10月8日、フルーランスは再び現われて、同じ要求を繰り返した。政府のメンバー5名が立ち合ったが、結果は変わらなかった。同じ頃、国民軍指揮官サピアが、反乱計画を実行しようとしたが、内部の裏切りで挫折し、彼自身逮捕された。

10月、フルーランスは再び部下を率いて、セーヌに向けて進出しようとしたが、部下がこれを拒んだ。警視総督ケラトリーは、ブランキとフルーランスによって開かれた軍団幹部65名の集会において、政府の転覆と、コミューンによる政権交代の動議に賛成し、署名した12名の名前を報告した。トロシュはただちに、彼らの解任を申し渡し、ブランキとフルーランスの逮捕を命じた。ブランキは姿を消し、フルーランスは武力で抵抗しようとした。

10月18日と19日に開かれた会合で、「20区中央委」は、「社会主義的・民主勢力を結集する」ことを目的にすると、規則改正を採択した。こうして中央委員会の代表にとって、社会主義を肯定することが義務となった。中央委員会は、社会主義の温床、いやほとんど社会主義政党であると自称するようになった。だが、このとき、厳密な共和主義的な対抗組織が出現する。すなわち、中央共和主義連盟、次いで1870年12月に産まれ、老いたルドリュ・ロランを含む急進派とジャコバン派を集める共和主義同盟、また同じく、共和政擁護者協会、全20区中央クラブ、および、中央委をはなれたブランキ派に指導された徹底的国防のための共和主義連盟などである。 

国民軍の軍団は、時間を経るにしたがって、初期の比較的穏健な志願者から、次第に尖鋭な兵士が集まって、編成されるようになった。社会的に低い層の多い郊外地区で結成された軍団は、政府にとって、もっとも警戒される存在であった。彼らを指揮する将校は、所定の投票の手続きに従い、その過去や政治的態度を尺度として選ばれた。彼らは、単に、軍人の長としてだけでなく、パリ市民の最も有能な代表として自認していたのである。したがって、「20区委員会」のデモによって始まった示威運動が、10月前半に一連の武装デモへと発展したのは、おどろくべきことではなかった。

フェリエールの密談がパリに知れると、早くも民衆のあいだには、政府の戦闘意欲の欠如にたいする不信感が強まり、国民軍の総武装、総出撃、コミューン選挙の要求が、政府につきつけられた。10月の戦況は不振だった。10月27日に『闘争』紙によって伝えられたメッツの投降が、10月31日の事件を決定づけた。

1870年10月31日に市庁舎で展開された混乱をどう理解すればよいのか。これはほとんど崩壊寸前までいき、政府が全くの欺瞞によって、あやうく窮地から脱した一幕の舞台に過ぎなかった。朝、冷たく風が吹いて照る。2日前にはじめて反撃に成功したブールジェが敵に奪還され、また、メッツの陥落と、17万余の兵力を擁するバゼーヌ軍の全面降伏という知らせをパリは受けた。騙されたことを知った大衆の怒りは大きく、市庁舎へのデモに駆り立てられた。しかし、政府は、ブルジョア地区の国民軍を動員した。別のポスターには、ティエールの到着と、その報告が掲載されていた。ヨーロッパの4つの国が休戦条約の仲介の労をとっている。この休戦は、国民議会の選挙を行うためのもので、これこそが平和を得る唯一の手段であると述べられていた。

いくつかの国民軍、武器をもたない市民のグループが、市庁舎の広場に集まりはじめる。その数は広場の道路にもあふれた。「トロシュを倒せ!休戦反対!コミューン万歳!」の叫びとともに、パリ市民の感情が沸点に達した。トロシュをはじめ、政府側は、軍と反デモ隊を市庁舎に呼び集めた。やがて「コミューンを倒せ!」の叫びが始まった。小さなパニックが広場で起こった。次第に、国民軍は暴力的になった。

「休戦反対。死ぬまで抗戦を。コミューン万歳」の叫びが哀願するように、湧き上がる。各地区で監視委員会が召集され、代表団が続々と市庁舎につめかけた。「20区中央委」はたちおくれ、午後2時頃に到着した。午前中に市庁舎に召集された区長たちにはすでに、政府からパリ市議選を行う約束をとりつけていた。そして、ルフランセなどの代表団が強引に市庁舎に入り、トロシュと会見し、国防政府の失権が要求され、続いてパリの軍事・行政を担当するコミューン選挙を即時行うことを要求した。

「20区中央委」は国防政府の替わりに、48時間以内にコミューン選挙をおこなうための選挙管理委員会の指定を提案した。群衆にかこまれた政府メンバーは、疲れ果て、トロシュは首班の地位を放棄するのに同意した。この日、あちこちの部屋で無秩序につくられた新内閣のメンバーのリストは、26種類にも及んだといわれる。建物の内部では、政府要員が捕虜の状態になっていた。パリ市長エチエンヌ・アラゴは区長に召集をかけていたが、集まった区長たちは、即刻、市の選挙を行うよう忠告した。政府の多数が、原則的に彼らの要求を受け入れたのにたいし、トロシュは、断固としてこれに反対した。パリ市の選挙を区ごとに4名という基準で、11月1日に実施するという文書が作られ、選挙管理委員長、副委員長、パリ市長、助役が署名した。混乱は大きくなるばかりだった。これは、遅くとも24時間以内に選挙の実施を約束したものであった。

この閣議の間に、突如として現われたのがフルーランスである。彼は、自分を筆頭に、ブランキ、ドリアン、ドレクリューズらからなる「公安委員会」の設立を宣言した。「秩序側」は、大臣ピカールが準備した。彼は包囲以前に市庁舎から去っていた。ケラトリーの後継者エドモン・アダムとジュール・フェリーがこれに協力した。だが、二人とも逃走していた。国民軍司令官タミジエ将軍が、市庁舎にとじこめられていたトロシュ将軍の救出を図った。

市庁舎の混乱と長談義は、反動勢力に巻き返しの機会を与えた。まず、サン・ジェルマン郊外のブルジョア国民軍大隊が、夜陰に乗じて市庁舎に奇襲をかけ、トロシュとフェリーの救出に成功した。彼らの手で直ちに、国民軍大隊長の非常呼集が行われた。集まった大隊長の多くは、トロシュの市会選挙と抗戦継続の約束に満足し、敵を門前に控えて内戦も「革命的コミューン」も望まなかった。市庁舎は政府支持の国民軍によって逆封鎖され、フランス語をほとんど理解しないブルターニュ遊撃隊の兵士が、ロボー兵舎から地下道伝いに市庁舎に突入した。流血の惨事をさけるため市庁舎に残った政府閣僚を人質として交渉が行われた結果、ドリアンとドレクリューズの仲介で妥協が成立した。

ブランキとフルーランスは、「市会選挙の実施とこの事件にたいする報復措置がとられない」ことの約束を、政府からとりつけ、手兵とともに市庁舎から退去した。この和解は死文と化した。群集は何を欲しているのか分からなくなっていた。市庁舎前に集まった群集は、混乱した情報によって、新政府が生まれたことを知った。ただし、それがルフランセのいう臨時委員会なのか。フルーランスのいう独裁的な公安委員会なのか不明だった。

午前1時ドゥレクリューズと政府メンバーとのあいだで、11月1日にコミューン選挙、2日に政府メンバーの選挙を行うことの合意があった。民衆の多くは、国防政府の存続問題もあいまいにしたままで、妥協案に満足し、選挙にすべてを託さなければならなかった。3,000人以上の国民軍兵士と、民衆のあふれる市庁舎では、新しい革命政権が、パリの自治体政府なのか、それともフランスの中央政府としての機能をあわせもつのかという問題や、反革命勢力、特に帝政派の要人にたいす措置などについて、果てしない議論が繰り返された。激しい怒声や混乱した言葉が、革命派相互の間でとりかわされた。こうして、「10月31日事件」は、正体のはっきりしないまま収拾されてしまった。

 

 《こうして「10月31日事件」は革命側の挫折に終わったのである。「10月31日事件」がもし革命側の勝利に終わっていたら、パリ・コンミューンは革命勢力にとって遥かに有利な状況の下で、5か月早く成立していたはずである。なぜならば、まず、第一に正規軍の大部分は捕虜になるか、プロイセン軍のとの交戦で全国に分散しており、包囲された首都に兵力を結集することは、とうてい不可能な状態にあった。第二に、後述するように中央から遮断された南フランスでは、革命勢力が急速に攄頭し、マルセーユを中心に、中央政府の権威を拒否し、徹底抗戦の決意を持つ「南仏連盟」が結成されていた。これら地方革命政権は、パリの革命に直ちに呼応できる態勢にあった。このような革命勢力が絶好の機会をつかみながら、内部の不統一、フルーランスのはね上った行動、それに革命権力についての具体的な構想を欠いたことなどのために、決定的勝利の機会をみすみす逃がしてしまったのである。》       『パリ・コミューン』  桂圭男著 

 

ここで桂が言っているのは、パリ・コミューンの選挙を確約しなかった政府の老獪さに革命派が敗北したことをさしているのである。普仏戦争の勃発以来、相次ぐ敗戦は、地方における帝政国家権力を、解体の方向に導いた。特に、バクーニンの無政府主義の影響を受けた南フランスの諸都市では、リオン、マルセーヌのインターナショナル支部の連合主義が、プチ・ブルジョア急進勢力の根強い地方分権化の要求と結びついて、急激に革命的情勢がつくられた。マルセーユでは、8月8日と9日に急進共和派のガストン=クレミューが、インターナショナルの支持をうけて、民衆を指導し、市庁舎を占拠、「革命委員会」の結成を宣言した。この暴動はひとまず鎮圧された。9日のル・クルーゾについで、10日にはマルセイユで戒厳令がしかれた。しかし、まもなく行われたマルセーユ市会選挙では、共和派が勝利を収めた。もし、パリにおいても、同時期に南フランスと連動したコミューンが成立していたならば、また、状況は変わっていた。

9月4日のパリの共和主義革命は、地方に波及した。この日、マルセイユの民衆は、再び市庁舎を占拠、1,200挺の小銃を奪取した。共和派の市会はパリにならって、共和制を宣言し、ブーシュ・ド・ローヌ県の革命委員会を結成した。一方、自然発生的に武装した労働者を主体として「民兵隊」が組織され、占拠した県庁を本拠として、ブルジョア共和派の支配する市会と二重権力を構成した。

同じく9月4日、リオンでも市庁舎を包囲した大衆の圧力によって、「公安委員会」が結成され、トゥールーズでも、急進派の支配する市会が、オート・ガロンヌ県革命委員会の結成を宣言した。また、ル・クルーゾでは、インターナショナルの指導者デュメーが、知事から市長に任命されたほか、グルノーブルやアルジェでも大衆の圧力で、帝政時代の軍事権力が解体され、文民権力が成立した。こうしてフランスの主な大都市においては、1870年の秋から冬にかけて、ブルジョア国家機構は、ことごとく解体した。市政の改正が進み、プチ・ブルジョア急進派の夢見たような「コミューン」が現実のものとなり、地方行政機関は、統制力をすべて喪失してしまった。この傾向は、プロイセン軍の侵入によって、中央との連絡が遮断されたことによって一層促進した。

こうした状況は、暴力革命論者バクーニンにとって、彼の無政府主義革命理論をためす絶好の機会であった。彼が着目したのはリオンであった。労働者大衆とブルジョアジーの溝と、パリ議員の独占する国防政府にたいする地方主義的反感が、根強く存在したからである。こうして9月中ごろ、インターナショナル・マルセーユ支部の指導者バステリカらとともに、リオンに潜入したバクーニンは、東南部フランスをアナーキー的に革命化できると信じた。

 9月25日、バクーニンの「目に見えないパイロット」たちがロトンド広場で掲げた『赤いポスター』は、「国家の即時廃止」と「諸コミューンの革命的連合」のために、市民に武器をとれと呼びかけていた。それから3日後の28日、日当引き下げに不満をもつ国営工事場の土工労働者を誘い込んで、バクーニン一派は、市庁舎を急襲、占拠した。市庁舎に乗りこんだバクーニンは、全市民に武装蜂起をよびかけたが、一般市民はだれも、性急な跳ね上がり行為に同調することなく、ブルジョア国民軍大隊の逆襲にあって、あっさり逮捕された。まもなく釈放されたバクーニンは、国外へ去った。「リヨンの9月28日事件」は、大衆の自然発生的蜂起に過度の信頼をおくセクト主義の欠陥を、さらけだした結果になった。規律と理論と組織の無用を叫び、破壊だけにすべてをかけたバクーニンは、無謀な反乱行為が挫折すると、陰謀の熱狂から絶望に落ち込み、闘争を放棄して孤立した労働者を見捨てた。

 リヨンの挫折は、マルセーユをもっぱら南フランスの革命運動の拠点に変えた。孤立したプロレタリアートの暴力革命の不確実さを反省したインターナショナルのバステリカらは、プチ・ブルジョア急進主義勢力と提携する方針を採用した。内相ガンベッタからブーシュ・ド・ローヌ県行政長官に任命され、大衆に歓呼して迎えられた急進派のエスキロスの存在は、急進共和派とインターナショナルとの提携関係を緊密化した。エスキロスは初審裁判所検事に親友のガストン・クレミューを起用し、労働者を主体とした「民兵隊」の要求をいれて、帝政時代の官吏の粛清、カトリック教会に対する攻撃に乗りだした。

温和派の市会は「坊主狩り」や旧官吏の恣意的逮捕などにみられた「民兵隊」の行きすぎを非難したが、エスキロスは「民兵隊」の行動を弁護し、市会に同調した知事のラバディエを辞任に追い込んだ。知事の後任には、急進派のデルペックが指名された。マルセーユの市政は、今や革命勢力に全面的に掌握された。マルセーユを中心とする「南仏連盟」が形成されたのはこうした状況の下であった。

連盟の起源になったのは、エスキロスの主宰するブーシュ・ド・ローヌ県委員会と、その創設になる地域国防委員会であり、この県単位の革命組織は、急速に近隣の諸県に拡大された。9月14日、エスキロス、知事、市会と県委員会のメンバーが署名し、ガンベッタに宛てられたメッセージは、3日以内に明確な行動路線が政府によってとられなければ、国防の関する南仏の行動の自由を要求すると宣言した。期限切れの18日、ブーシュ・ド・ローヌ県庁で開かれた臨時代表者会議は、新しい組織原則を決議し、「状況を考慮して、南仏の諸県が一致して行動できるような、臨時の連邦をつくる理由」を明らかにした。

こうして10月3日、13県の代表48名をあつめ、首府をマルセーヌに置く「南仏連盟」が正式に発足したのである。連盟議長にはエスキロスが、リコール可能な首相格の総裁には、急進派のアルフォンズ・ジャンが指名され、南仏連盟人民軍の総司令官には、リヨンの逃亡者クリュズレがおされた。南仏連盟は、愛国主義と急進主義、社会主義と連合主義、反権威主義から分離主義までも含む、幅広い一種の革新統一戦線であり、3,000万フランの富者への戦時課税、軍需物資の徴発、売国奴と聖職者の財産没収、僧侶の軍籍への編入、教会と国家の分離、職業的軍隊に代わる人民軍の創設、帝政官吏の粛清、出版の自由と保証金制度の廃止、裁判官の選挙制など、急進主義的色彩の強いスローガンを掲げ、「自立的な地方コミューンから構成され、主権を持つコミューン連合体制」の原則であった。それは国家の防衛を、すべてに優先することによって、地方急進主義勢力のヘゲモニーを確立し、社会主義的主張を背景に退けているが、集権国家の破壊という方向性を通して、あらゆる革命派を糾合することができた。

 南仏連盟という国家の中の国家の出現は、パリを脱出し、トゥールにある国防政府代表団を牛耳っていたガンベッタにとって、次第に脅威になっていた。彼は、強固な中央集権論者であると同時に、社会改革の面では十分すぎるほど、穏健派であったからである。こうして、エスキロスがジェスイット伝道教会を迫害し、その財産を差し押さえたことが直接のきっかけとなって、マルセーユの革命権力と、トゥールの代表団の関係は急速に険悪化した。

南仏連盟の指導で、ヴァランス、グルノーブルなどの諸都市でおこった大衆行動も、両者の対立に輪をかけた。ガンベッタは全力を挙げて、南仏連盟の機能を麻痺させようとし、これに抗議して辞任声明を出したエスキロスは、民衆の圧倒的反対運動で、連盟議長と県行政長官の地位にとどまらなければならなかった。しかし、ガンベッタは、エスキロスの辞任にあくまで固執し、10月30日、県行政長官に親友のアルフォンズ=ジャンを指名、国民軍司令官マリ少佐に、職務の執行を保障する措置をとるよう司令した。マリは直ちにマルセーユに戒厳令をしき、温和派の市会の支持をとりつけた。しかし、エスキロスに劣らぬ急進主義者の県知事デルペックは、翌日、マリ少佐のとった措置を無効と宣言し、その越権行為をはげしく叱責、同時に、市会の解散を宣告した。それから数時間後、今度はデルペックが、ガンベッタによって解任された。

その時、メッツ降伏の報が、電撃のようにマルセーユに届いたのである。11月1日午後1時、ソン・ミシェル広場を埋めつくした群集は、前日のパリの民衆蜂起の報にわきたち、やがて市庁舎に向かって津波のようにおしよせた。マリは急いで市庁舎から姿を消した。「エスキロス万歳。反動をやっつけろ」の叫びのうちに、群衆の占拠した市庁舎で「革命的コミューン」の樹立が宣された。インターナショナルのバステリカを含む20人のさまざまな革命分子が、「革命的コミューン」に参加した。国民軍司令官は、南仏連盟軍総司令官のクリュズレがおされた。ガストン・クレミューを加え、一層、急進的な方向に改組された県委員会は、「コミューン権力とその愛国的使命」を承認、一般市民も、市会が知事によって解散されたため、革命権力の合法性を疑わなかった。

コミューンは分離主義を否認し、コミューン連合体制の一環として、フランスの統一を保つ意志を表明、ガンベッタに合法性の確認を求めた。一方、失権した市長のボリーと市会も、ガンベッタに救いを懇願した。マルセーユ・コミューンは確立したかにみえた。しかし、その決定的瞬間に、病気で弱気になっていたエスキロスは、敵を面前にして内戦を望まず、市民に平静を呼びかけたのち、突如として引退の声明を出したのである。誠実なエスキロスの引退声明は、革命勢力に致命的打撃を与えた。

ついで、ガンベッタから臨時行政長官に任命されたジャンが、コミューン代表と激論中、何者かの発砲をうけて、負傷するという事件が起こると、情勢は決定的に革命側に不利な方向へと逆転した。世論の同情をひきつけたジャンの精力的活躍で、「民兵隊」は9月4日以来占拠していた県庁から、立ち退かざるをえなくなった。エスキロスとクリュズレは、逃亡し、革命的コミューンは、何の声明を出すことなく自然消滅した。11月14日に行われた市会選挙は、温和派の勝利に終わり「南仏連盟」もまもなく瓦解した。とはいえ、マルセーユ・コミューンと南仏連盟の経験が、半年後のパリ・コミューンの連合主義のプログラムを先取りし、パリの革命に多くの示唆を与え、ブルジョア国家権力の集権制を解体する方向性を示したことは高く評価できた。

 パリの11月1日の朝4時、フルーランスは軍の戦闘に立って、ベルヴィルにのぼっていた。副官ミリエールとランヴィエのあとから、タミジエ将軍に腕を貸したブランキが続いていた。数時間後、市民は、パリの壁に、新しい矛盾した3枚のポスターを見ることになる。第一のポスターは、この日、正午に市選挙のために選挙人を招集するという区長たちの決定を伝えていた。ところが、第二の政府側のポスターには、区長たちに投票を厳禁し、11月3日に「市選挙を近々おこなうべきかどうかを知る問題に関する」人民投票を行うことを告げていた。第三の貼紙には、現政府をのぞむかどうか。また、ブランキなどの革命的政府を望むかどうかを問いかけていた。つまり、国民軍にたいしてトロシュの声明が、長々とその状況を説明していたのだ。

政府は、翌日に早くも前日の約束を破ってしまった。市議選を選ぶべきコミューン選挙は、区長・区助役だけの選挙にかぎり、政府メンバーの選挙は、住民投票にすりかわっていた。11月3日に行われた現行国防政府の信任投票については、約55万7千対6万2千の大差で、トロシュは信任された。この結果は、ブルジョア地区を中心とするパリ市民の大多数が、政府の抗戦意志を信頼していることを示すものだった。

続く、11月5日と7日の区長、区助役の選挙では、20名の区長中12名の政府支持のブルジョア共和派が当選した。その一方で、B・マロン、ジャクラール、ドレクリューズ、L・メリエ、ミリエールなど、若干の非妥協的な反政府派の当選者がでた。政府の立場は安定したかに見えたが、それはみかけにすぎなかった。民衆の不信感は「国防」の合言葉の陰にかくれていたが、次の噴出の機会を求め、底流として流れていたのである。棄権者が多かった。

特に、労働者地区の第19区では、ネオ・ジャコバン派のドゥレクリューズ、第10区ではブランキ派のランヴィエが区長に選ばれた。ルフランセ、フルーランス、ミリエールは、第20区の助役に選ばれた。インター派のマロン、ブランキ派のメリエは、第17区、第13区の助役となり、また、クレマンソーはじめとする急進派も、3名が区長になった。

また、10月31日の危機をからくも切り抜けた国防政府は、事件指導者の免責の公約を踏みにじり、ただちに、革命派にたいする弾圧にとりかかった。ケラトリに代わって警視総監となったクレッソンは、ルフランセ、ピア、ブランキ、フルーランスらの逮捕状をだした。このため、逮捕令状を理由に、フルーランス、ランヴィエらの当選を、無効と宣言し、革命派にたいする追求の手を一層強めた。

その前日の11月4日に、革命指導者の幾人かが、新たな反政府暴動を企てた。トロシュ、ジュール・ファーブル、J・グレヴィ、ピカールが、首謀者の逮捕を要求し、フェリーが24名の名前のリストを作成した。警視総督のE・アダムは、「あまりに右より」な動向に嫌気がさして辞任した。替わったのはクレソンであった。選挙の翌日、クレソンに命令がおり、決定された逮捕が行われた。その結果、11月5日、市長エチエンヌ・アラゴが辞任し、パリの行政は、ひとりフェリーの手に渡された。もっともコミューン同調者にたいする逮捕が、すべて実施できたわけではなかった。10月4日の休戦条約の失敗が、世論の怒りをおこしたからである。

 この間にも、プロイセン軍の包囲網の輪は、じりじりと狭まってきた。クールミエの小さな成功(11月9日)のあと、ボーヌ・ラ・ロランドの敗戦があった。同じ日、トロシュは、西方への出撃計画をあきらめ、マルヌ川左岸で展開している地方の抵抗に手をかそうとした。そして、パリ市民に、スダンから逃れてきたデュクロ将軍に託した計画を発表した。デュクロ将軍は誓った。「パリに戻るのは死か勝利かのいずれかの場合である」と。だが、拙劣な作戦のため、多数の犠牲者を出して、結局、撃退された。これがシャンピニーの無益な流血の出撃作戦(11月30日から12月2日)である。デュクロは死にもせず勝利もなく、パリに帰ってきた。デュクロの失敗に交錯して、多くの失敗が重なる。プロシア軍により二つに分断されたロワール軍の失敗、12月6日のルーアン占領の失敗、ボルドーで脅迫を受けて出発できなかったトゥール代表団の失敗、熱血の人ガンベッタのティエール及び穏健共和派との政治闘争の失敗。こうしてトロシュ将軍の権威は失墜した。

パリは十重二十重の包囲網の中で、今や完全に孤立した。包囲の間に、市民生活と軍事生活との間の境界、住民大衆と武装人民との間の境界は消滅していた。ここパリにあるのは、新しい形態をとろうとしている混沌とした大衆であり、敏感で注意深く、熱狂的な大衆、しかも外部の力にかき乱されるような受動的な弱みを、何らもっていない大衆である。このように結合したこれらの男女は、行動し、もっと行動しようと欲し、自分たちの問題を引き受け、参加する。クラブがそれらの形態を反映する。

「将軍はジャンヌ・ダルクを待っている」こういう批判が、反対陣営から絶えず起こってきた。街の新聞や、ドイツ人が、フランス人の士気を弱めるべく発行する新聞などの中で、刻々と伝えられ、解説されるこれら一連のニュースが、パリ市民に与えた影響は大きかった。11月23日、軍当局から発表されるもの以外、戦局に関する一切のニュースを禁止する通達が出た。だが、人の口を封じることはできない。世論の形成に力があったのは、とくにクラブであった。フォーリー・ベルジェール、ヴァレンティーノ、アルカザール、エリゼ・モンマモトル、プレ・オー・クレール、それに幾つかあるファヴィエ・クラブ、医学校、コレージュ・ド・フランス、ミル・エ・アン・ジュールのクラブら、そこでは、何スーか支払えば、演説家の話を聴くこともできた。

孤立したパリは、包囲による食料不足に加えて、迫り来る冬の寒気は、例年になく厳しく、籠城するパリ市民の苦労は、12月に入ると、日とともに、言語を絶するものになってきた。しかし、政府は全面的な物資の配給制も、そのための調査さえもおこなおうとせず、金持ちは隠匿物資で飽食する反面、ねずみ1匹が2~3フラン、犬の肉1ポンドが5フランで売られた。休戦の予定がないため、生活物資は隠匿され、閾値は4、5倍に跳ね上がった。犬、猫、ねずみの肉まで、行列をつくって売られていた。パリの死亡率は前年の約4倍に達した。

 「20区中央委」のイニシアチブをとったのは、第一インター・パリ支部であったが、インターは組織としては、「20区中央委」に参加していない。メンバーの多数が、「20区中央委」と直結することを好まず、参加は個人資格になった。インター派には政治行動を嫌う雰囲気が残っていたことや、「20区中央委」に、政治的活動家が多く、肌合いが悪かったこともあった。ところで、インターも、そのころから、「20区中央委」を離れて独自の活動をはじめた。

というのは、政府の弾圧が強化したことと、10月上旬ごろから、各区の監査委員会が「20区中央委」に代表を送らなくなり、急進派も欠席がちになったことが主な理由である。革命運動の分散化は、インター系だけでなく、シャサンなどの急進派は、「中央共和主義同盟」、ドゥレクリューズなどネオ・ジャコバン派は、「共和派主義同盟」を結成して、パリには各地域に公共集会やクラブを組織しはじめた。局地的で自然発生的な運動を、中央の諸委員会によって構造化しようとする傾向が、急速に確実なものになる。ただし、中央という言葉にまどわされてはいけない。すべての組織が実行されるのは、唯一、連合の原理にしたがって構成されることにはかわりなかった。

このような情勢のなかで、「20区中央委」の活動も停滞してきたのであるが、大衆勢力の高まりにつれて、革命派の間に、新しい組織再編成の気運が、再び盛り上がってきた。組織再編成のイニシアティブをとったのは、「20区中央委」の中の「社会主義的共和主義中央クラブ」に結集したシャトラン、コンスタン・マルタン、サピア、ナピア・ピケらの、ブランキ派の戦闘的分子であった。彼らは、また、ブランキ派の結成した「徹底的国防共和主義リーグ」の活動的メンバーでもあった。

「20区中央委」は、監視委員会の離脱で弱体化するのだが、10月18,19日に新規約を作った。新規約では、目的が各区の自主性にまかせることなく、各区代表は、社会主義的な革命原則の同意書に署名しなければならなくなり、社会主義的・中央集権的な「党」に方向転換した。だが、人数は160人に倍加した。

また、「20区中央委」のもとに組織を系列化するため、ブランキ派は「徹底的国防共和主義リーグ」などのクラブをつくっている。そして、それが「20区中央委」のインターナショナルメンバーを吸収し、その名称が「パリ20区社会主義的共和主義中央委員会」(20区中央委)に「社会主義的」という言葉が加わった。

こうして、ブランキ派とインターナショナルの革命的社会主義者の合流点となった「20区中央委」には、ジュール・ヴァレス、トリドン、フロット、フェレ、ヴァイアン、パンディらが参加し、民衆の日常生活と密着しつつ、革命勢力の団結を強化した。このように「20区中央委」の性格が変化したのは、設立当初、監視委員会の活動に参加しなかったブランキ派が参加し、強い影響力をもちはじめた結果である。

ベルヴィール地区の「ファヴィエ・クラブ」をはじめ、多数の民衆クラブと、組織を再建した「パリ労働者組合連合会議」が、「20区代表団」の組織を支え、その活動に積極的に協力した。パリの防衛と食料問題を媒介として「パリ・コミューン」の要求が、あらゆる革命組織の願望を集約する合言葉になり、以前にもまして、激しく政府に向かってつきつけられるようになった。12月19日、ファヴィエ・クラブは、「コミューンは1793年と勝利とをわれわれに返すだろう」と宣言し、ネオ・ジャコバン派の「共和主義連盟」も、ドレクリューズの提案した「パリの利益と防衛を配慮する任務を持つ会」として、コミューン選挙の実現を目標にかかげた。それが、12月28日、ボーヴォー広場に召集された区長の会談で、ドレクリューズと急進共和派のクレマンソーが、トロシュに迫り、再び、コミューン問題を提起した。同時に、国防政府の欺瞞的行為をきびしく糾弾し、防衛委員会の設立、区長の権限拡張、無能なトロシュの解任を要求した。また、別な会合ではクレマンソーは、トロシュ、ル・フロー及びクレマン・トマ将軍の免職と、公共問題の処理への介入、民間人と軍人が同等の力をもつ防衛委員会を要求するアピールを行った。

トロシュ自身の命令で、ブールジェの奪取、ヴィル・エヴラールへの行軍が行われた。12月21日である。これもまた、1日だけの成功であった。27日、ドイツ軍はアヴロン台地、ノワジー、ロズニー、ノジャンの砦、ヴィルモンブル村を砲撃した。

これがパリ砲撃のプロローグだった。1月5日には、サン・ジャック街に幾発かの砲弾が落ちた。ウィルヘルム一世によって目標とされたこのあたりの下層民は、家が壊され、火災がおこり、犠牲がでても抵抗し続けた。だが、彼らは自分たちのこうした忍耐が不要であると考え、責任者を辞任させようと思いつきはじめる。

1月5日パリの砲撃が開始された。

1871年1月6日「20区中央委」は「20区共和主義代表団」(「20区代表団」という。)と改称した。そして、「20区代表団」のメンバーは、ブランキ派と急進派に向かって、新しい戦線拡大を可能にし、代表団の活動を活発化させるため、『第2回目の赤いポスター』を張り出した。趣旨は「無能なる政府は、人民に、コミューンに席をゆずれ!」であった。彼らは、政府にたいして厳しい非難攻撃を行い、降伏を避ける唯一の方法として、コミューンに場を明け渡すことを要求し、全面徴兵、大動員攻撃を予告した。トロシュは宣言文でこれに応じ、「パリ市民を欺瞞と誹謗によって混乱させるな」と応じた。この文書の署名をトロシュから求められた警視総監クレソンは、「赤いポスター」に署名した人物の中で最も危険と思われるものを追求しようと決心した。

彼らは、合法的にコミューンを選出することは不可能なことを知った。それで、「20区中央委」の「代表団」という名称変更とともに、12月に行われる各区の監査委員会は、コミューン結成のために選ばれた者としての代表団となることになった。そして、12月30日、「20区代表団」はブランキ派の多数出席のもと、「革命的コミューンを革命的に樹立するための実際方法」について討議した。

 しかし、パリは、すでにドイツ軍に包囲されていた。ドイツ軍は封鎖陣を敷き、持久体制をとっていた。ドイツ軍の兵力は15万から20万、これにたいしてパリ側は45万から50万と優勢だったが、その主力は30万の国民軍と10万の地方出身の遊動国民軍で、正規軍は6万にすぎなかった。政府は革命分子のまじる危険な国民衛兵(国民軍)を使いたがらないため、出撃は防衛を重視した。パリは次第に飢餓におちいった。国民衛兵とは、フランス革命期につくられた民兵組織である。自治制度を極度におさえた第二帝政下では、国民衛兵は富裕市民の地区に限って認められ、大隊数もパリ全体で60を越えず、幹部も政府に任命されていた。ところが、戦況悪化とともに、パリ市民の間に祖国防衛熱が高まるにつれて、政府は国民衛兵制度を復活し、40歳以上の全男子市民を国民衛兵に編成することを決定せざるを得なかった。

12月27日から、要塞へのドイツ軍の砲撃が開始され、1月5日からはセーヌ左岸の市内にも砲撃がとどき始めた。政府は、戦況を絶望的とみて、再度、休戦を急ぎだした。窮地に立った政府は、もはや降伏しか考えなかった。こうした雰囲気の中で、どのようにして抗いがたい民衆蜂起をひきおこすことなしに、パリを敵に明け渡すか、国防政府の政策はこの一点に集中した。

 サン・クァンタンでフェテルブ指揮下の軍が敗れた1月18日、ヴェルサイユでプロイセン王が、ドイツ皇帝に即位したという報がはいってきたその日、トロシュの国防政府は最後の出撃を命じた。この出撃は12月31日に決定され、1月前半中、延期され続け、16日の会議で再度決定されたものである。

攻囲最後の戦闘は、1月19日ビュゼンヴァルで行われた。前夜から氷雨の降る中を、夜営させられた国民軍は、ヴェルサイユを守る防衛線に攻撃をかけ、モントゥルトーの角面堡、ビュザンヴァール公園、サン・クルーの一部を奪取、指定された地点のほとんどを占領したが、デュクロ麾下の正規軍は前進せず、援護射撃も加えようとしなかった。こうして、折角、占領した高台に遺棄された国民軍は、敵の砲火に粉砕されるにまかされ、3千余の死傷者を出して、無傷の正規軍とともに、後退せざるをえなくなった。

国防軍司令官クレマン・トマは、敗戦の責任を「臆病な」国民軍のせいにした。戦略的にはまったく不必要な大規模な出撃を行おうとしたことになる。この出撃の意図は、明白だった。それは降伏準備をととのえるための出血作戦だった。1月17日の閣議の際、ファーブルは、降伏に伴うふたつの危険を上げて、悪意ある作戦を発表した。ひとつは、できるだけ抗戦しようとするパリの住民の幻想である。もうひとつは、この幻想が破れた後に、おこるべき絶望のなかで、政府打倒へかりたてる怒りである。そのため、この大出撃は、パリの住民に冷酷な軍事情勢について、身をもって知らせるための世論調査であり、また、休戦後、治安維持のためドイツ軍を市内に引きいれるための呼び水であった。

1月20日、政府はパリの区長を集め、降伏のやむなきに到った事情を説明し、休戦の了解をえようとしたが、憤激した区長たちの多くは、直ちに全員反対の意志表明をした。ドレクリューズはプロトー、アルヌールらと相談したのち、200名の「共和主義連盟」の署名を集め、48時間以内の市会選挙を要求する宣言を発した。

翌21日、ビュザンヴァルの裏切りに憤慨した国民軍の一隊によって、マザスの牢獄が破られ、「10月31日事件」に連座して逮捕されていたフルーランスその他の革命指導者が救出された。不穏な情勢をみて、政府はトロシュを、スケープゴートとして解任し、ボナパルト派のヴィノア将軍を後任の「パリ軍総司令官」に任命した。ヴィノアは直ちに騎兵隊と憲兵隊に戦闘準備命令を出し、地方出身の遊撃隊にパリ市庁舎をかためさせた。クレマン・トマは、「暴徒をたたくため、全員決起せよ」と国民軍に布告した。

 

5 コミューン革命ができるまで

 

1870年1月22日の事件は、「20区代表団」の説得に失敗したブランキ派が、ビュザンヴァルの出撃の失敗とその裏切りを責めて、単独で蜂起したものである。デュヴァール、リゴー、サピアら「20区代表団」中のブランキ主義者の呼びかけで、市庁舎前に集合した「革命クラブ」を中心に、最も戦闘的であった第11、13、14、18区の国民軍大隊200~300人が「休戦反対。徹底抗戦を。コミューン万歳」のシュプレヒコールのなか、警備隊指揮者プルードン主義者のショデーに交渉を申し入れた。しかし、ショデーは、市庁舎にこもる遊撃隊に発砲命令を出した。銃撃戦が展開され、サピアが射殺された。婦人、子供を含む約50名の死傷者がでた。サピアは突撃の際、「カルマニョール」を歌い「コミューン万歳!」を叫んでいた。こうして、ブランキの自重勧告を聞かず、兵力不足のまま強行されたこの日の蜂起は、革命側の敗北に終わった。

前日のトロシュの解任が、多くの市民を心理的に武装解除した事実も、失敗の原因にあげられる。こうした中、政府はパリ住民の大多数を敵にまわし、翌朝、全クラブの閉鎖、17の新聞の発禁、クラブの閉鎖などの弾圧を行う一方で、ドレクリューズら100名の革命家が逮捕、投獄した。

抵抗は終わりつつあった。1月25日から28日にかけてヴェルサイユで休戦交渉をすすめた結果、1月28日から3週間の休戦条約を成立させた。休戦の目的は、フランスに休戦期間中の講和の可否を問う「国民議会」選挙を許すことにあった。これが、4か月と1週間の攻囲と、国防政府の詐欺の仮面が剥がれ、1か月間の砲撃ののち得られたものだった。《国防政府はその開城条約において、ビスマルク認可フランス政府としてたちあらわれた》。休戦条件は、そのほか、2億フランの戦時課税、窮屈な条件での市民の苦しい移動、城外周辺、城壁及び諸部隊の武装解除、手紙の開封義務、これらがたっぷりと苦悩と苦痛を体験した人たちへの褒賞であった。彼らは、パリを血の海のなかにある堆高い廃墟とすることを躊躇しなかったのである。

1月29日の『官報』で突然発表された休戦条約は、大ブルジョアには歓迎されたが、プロレタリアのみならず、愛国的な中流市民層の憤激を買った。株価はたちまち休戦のせいで跳ね上がり、大商店の店先には、隠匿されていたデラックスな食料品や衣類が、山のように積まれた。ビスマルクは、国防政府全権のファーブルに「反乱は圧殺できる兵力を持っている間に反乱を挑発せよ」と助言した。混乱の中で、プロシアへの宣戦布告で始まった戦争は、その間、増大する大衆運動を産んだ。しかし、9月4日の運動を除いて、それらはすべて鎮圧された。長い間かけて準備されたコミューンは、無名の大衆とともに、確実に、人びとの心のなかへ浸透しようとしているのに。

政府が、1月28日の休戦協定にこぎつけたのは、この1月22日の蜂起のあとの弾圧のためであった。しかし、休戦はほとんどの住民の意思に反して実現されたのである。休戦協定は、ほとんどのパリ市民に失望と怒りをもってうけとめられた。休戦後、パリ市民の流出がはじまる。地方へ移住した市民は、約15万人といわれ、その大部分が富裕層であったため、パリはその分だけ、庶民的になった。国民軍は武装をとかず、休戦に乗じて新たに武器を入手したものもあった。仕事のない彼らにとって、支給されている国民軍兵の日当は貴重だった。

 戦争継続か、講和かを決定する国民議会の選挙が、2月8日に行われた。1848年の選挙法が適用され、投票は1回のみであった。それは、多くの団体や組合やグループが存在したことによる。とりわけ、パリでは、選挙戦は激烈をきわめ、各種の「選挙委員会」が、あるいは区単位に、あるいは全市にまたがって、それぞれの推薦候補者の当落を競い合った。その中でも、「20区代表団」、インターナショナル地区支部連合、労働者組合連合会議は、1864年の流儀を再び採用し、革命的社会主義者の共同候補者名簿を作成した。2月4日、「どのようなものであれ、共和政体を論議の対象とすることの否認、勤労者の政治的支配の必要の確認、政治寡頭と産業封建制の打倒、1792年の共和国が農民に土地を与えたように、労働者に労働用具を与えることによって、社会的平等を通して政治的自由を実現する共和国の組織」を、主なスローガンとして掲げる「共同宣言」を発表した。まもなく開始された選挙戦を通じて、浮かび上がってきたのは、パリでは、党派的集団や公開の討論会が急激に増加して、パリ市民の様々な矛盾した諸傾向をよくあらわしている雑多な候補者リストが、作られはじめたことである。

「20区代表団」、共和国擁護団体、セーヌ県市町村の共和選挙委員会、国民共和団体、共和同盟、パリ共和選挙会議、反王政同盟、共和主義自由委員会、カトリック委員会等々が共通のリストを用意していた。さらに、ブランキストたちの革命的社会主義中央委員会が43名の候補を立てて闘った。

初め768名の代表が選ばれることになっていたが、結局、ボルドーの議席についたのは650名であった。パリでは約55万の有権者中、33万が投票した。投票結果は、平和主義者6名にたいし、ガンベッタ派の急進主義者、ロシュフォールとその『マルセイエーズ』紙の同志たち、ガンボン、ドレクリューズ、ミリエールのような革命的民主主義者その他ルイ・ブラン、ヴィクトール・ユゴー、ガンベッタ、ガリバルディ、キネなど肩書きをもった名士など37名が当選した。ティエールは43名中当選者25位、外相ファーブルは34位にとどまった。ブランキは68位で落選した。パリの投票結果は、市民の大多数が共和制を望み、抗戦継続か、すくなくとも領土割譲のない名誉ある和平を支持したことがわかる。パリ以外は、この機会にこそ、日頃の復讐を果たしたいとおもっていた保守的な地方諸県を地盤にする「田舎紳士」が多数を占めた。

色分けすると、共和派は、すべてをふくめて約200名、ボナパルト派が300名、その他オルレアン派、ブルボン派、国防政府を構成した保守的共和派は退潮した。パリを含むセーヌ県では、共和国の維持と、抗戦を訴える反政府側の立場に立つ候補者の当選が目だった。地方からの当選者は、パリとは対照的に、圧倒的に王政主義者をはじめとする保守系が多かった。こうして、革命的な大都市と保守的な農村という宿命的な対立は、抗戦論と講和論の対立のもと、またしても前者の敗北に終わった。「20区代表団」が、一種の虚脱状態から脱するのは、やっと3月18日以降、コミューンの選挙を待つときしかなかった。

1871年2月15日、国防政府の国民議会が、ボルドーのグラン・テアートルで開かれた。アドルフ・ティエールを「フランス共和国行政長官」に任命した。かつての帝政の反対者であり、籠城中は成功しなかったが、積極的な和平交渉者であった彼が、あらゆる可能性の余地を残した曖昧な形で「フランス共和国行政長官」に選ばれたのは、ルイ・フィリップの元大臣という肩書きよりも、そうした最近の言動の結果によるものであった。大勢は、まだ、ドイツとの平和条約調印にためらいをみせていた。しかし、ティエールは、プロシアがパリに戦端を開くという条件においては、仮講和条約が議論の対象にならなければならないことを明らかにした。戦争は負債を恐ろしく膨張させ、国力の資力を無慈悲に略奪した。破滅を完全なものにするために、プロシアのシャイロックは、フランス領土上における50万の兵士の維持と、その50億フランの償金とそれの未払年賦金にたいする5歩の利息とにたいするその証文をもって、そこに控えていた。このようにしてフランスの巨大な破滅は、これらの愛国的な土地および資本の代表者たちを刺激し、プロイセンの注視と庇護のもとに、対外戦の上に市民戦を接合することになった。要するに、ティエールにとって、まず、問題なのは和平であった。そうした中で、2月19日、政府のメンバーが発表された。内訳は、次のとおりであった。

 

フランス共和国行政長官 アドルフ・ティエール

外務大臣 ジュール・ファーブル、

 法務大臣 デュフォール

 商業大臣 ランブレヒト

 内務大臣 エルネスト・ピカール

 文部大臣 ジュール・シモン

 公共事業大臣 ド・ラルシー

 陸軍大臣 ル・フロー

 海軍大臣 ボチュオー

 大蔵大臣 プーイエ・ケイティエ        

                                                                                  

3名の保守的共和派、4名のオルレアン派、1名ずつのブルボン派、ボナパルト派で内閣を組織した。共和派か王政かの政体は棚上げにして、和平締結とパリの秩序回復までは全保守勢力を糾合させる構想であった。ティエールは、ブルジョア共和派と大資本家と王党派からなる連立内閣を組織し、王制か共和制の決定を講和後にゆだねるという「ボルドー協約」を議会に認めさせた。パリを屈服させる前に、王制を復活するのは危険であると判断したからである。

9月4日以降の「20区代表団」の活動が、休戦協定によって押し切られたことは、かれらの組織が弱いことを示した。また、休戦の既成事実は、徹底抗戦を前提にしていたコミューンの要求の運動を、一時的に混迷に陥れた。このような反省の上に立って、「20区代表団」は、国民議会の選挙をつうじて、再び、インター派との接近を図った。国民議会中に、インターや労働者組織連合会議の三者合同で、「革命的社会主義者の候補者」のリストを発表した。そこに、ヴァルラン、フランケル、セライエなどインター派と並んで、ブランキ、トリドン、ランヴィエなどブランキ派が上げられ、ネオ・ジャコバン派はガンボン、ピアの二人しか含まれていない。ところが、インターはこのほかに「共和主義同盟」、「共和主義中央連盟」、「共和国防衛者協会」の急進派ないし、ネオ・ジャコバン系の三者と共同で、別の候補者リストをだし、そこでは、ネオ・ジャコバン派が主流になっている。この事実はインターの内部に、分裂工作が行われたことを表わしていた。選挙結果では、社会主義的な前者より共和主義的な後者の方が、圧倒的に支持率が高かった。しかし、内容的に大きな違いのほうが重要だった。「恵まれぬ人々の党」の名において提出されており、今回は、労働者の階級的利害とむすびつく政治勢力の結集の必要性を明確に提起していた。

ティエールは憂鬱そうであった。できるだけ早く、講和の既成事実を作ってしまわなければならない。彼にしてみれば、この和平交渉が、せめて、メッツ陥落以前に開かれていたら、という思いが去らなかった。しかし、彼は、ファーブルに、自分は単独で宰相と会見し、プロシア王への拝謁を求めるつもりだと言った。

ティエールは、まず、パリへ行き、フランス銀行と新たな前借金の交渉をした。国庫は空であった。ドイツ軍は、ロワール川までの税を徴収していた。南部では地方行政官が乱雑な財政管理を行っている。ついで、2月21日に、彼はヴェルサイユに赴いた。ビスマルクは、丁重に迎えたが、同時に、休戦条約が、木曜日正午で期限が切れることを念押した上、さらに領土の割譲、戦争賠償金、ドイツ軍のパリ入城、の3点に関する予備平和交渉の調印を、緊急に行う必要があると語った。ティエールはこの無茶な言い方に怒って言った。「大急ぎで選挙を行い、2日間で組閣を行い、1晩かけてボルドーから出てきたのだ。私が72歳でなくて30歳だったとしても、これ以上はできない!」

ビスマルクは、皇帝の同意をもらいに出て行った。調印は2月26日の日曜日に、独仏間で「ヴェルサイユ講和予備条約」が締結されることになった。これにより、フランスは、ベルフォール地区を除く、アルザス全部とロレーヌの三分の一をドイツに割譲し、50億フランという当時としては天文学的な数字の賠償金を支払い、ドイツ軍のパリへの一時入城と、一定額の賠償金が支払われるまで、パリの郊外その他にドイツ軍か駐留するのを認めた。

「メッツ問題は失敗した」とティエールがビスマルクに迫ると、自分はフランスの破滅をのぞまず、軍が出したロレーヌの三分の二獲得という案を取り下げさせたのだ、と言った。さらに、「ドイツでは、モルトケが得た戦闘の勝利を、私が失ったといって、私を非難しています。不可能なことは求めないでください」とつけ加えた。実際、賠償金に関しては、ティエールが10億フランもうけた。ビスマルクの要求は、60億フランだった。ティエールは粘りに粘って、ついに、ビスマルクに50億フランで手を打たせた。

ビスマルクは勇み足をおかした。ベルリンに大富豪がいるから、数十億フラン提供してもらっては、という趣旨のことを言った。ティエールの愛国心が爆発した。フランスの信用を傷つけることは許せないと反論した。彼は「わが国は誰の助けも借りずに、誓約を実行する」と喝破した。ビスマルクは機嫌が悪くなった。領土問題では、またもめた。フランスの東海岸の港町ベルフォールをめぐって交渉は白熱した。ティエールは戦略上の問題で、何が何でもその割譲を拒否したかった。他にドイツが要求したミュルーズやストラスブールを諦めても、ベルフォールだけは保持したかった。議論は延々14時間にも及んだ。最後に、ティエールは大見得をきってねじ入れようとした。ビスマルクは、王とモルトケにゆだねることに同意した。宰相が部屋を出たあと、ティエールとファーブルだけが残された。夕刻になってビスマルクが満足げな顔で現われた。「モルトケは同意しました。彼が王に説得に行くところです」。それからさらに45分待たされたとき、ビスマルクが戻ってきて、質問した。「どちらを取りますか。ベルフォールか、われわれのパリ入城か」。ティエールは叫んだ「ベルフォールの方を!」。

こうして、2月26日、仮講和条約が調印された。国民議会でティエールは叫んだ。ほとんど満場一致で、議会は「ナポレオンとその一門の失権と、フランスの破滅、侵犯、分裂にたいする責任」を確認した。フランスは、ベルフォールを維持することを許されたかわりに、ドイツ軍のパリ入城を認めた。それでも、国民議会は548対107で批准した。

議会は弾圧の道をまっしぐらに進んだ。ティエールの政府は、講和の糸口がつけた。最終的に1871年5月10日に、フランクフルトで調印されることになっていた。講和が成立した今、ティエールの残る問題は、パリの征服である。その実現の前に大きく立ちはだかっている障碍物は、パリの「国民軍共和主義連合」に結集する武装した大衆である。パリを武装解除することは、ティエールの成功の第一条件であった。ティエールは言った。「パリ国民軍の大砲は国家に所属する。それで国家にたいしてそれを返還されねばならない」。

これにたいして、パリの反応はどうか。パリでは、2月24日から激しいデモが続いていた。示威運動は、26日から3日間にわたって、より過激に繰り返された。26日の夜、集合太鼓が打ち鳴らされ、武装した国民軍は、女性や子供までまじえて、ワグナム広場とランラグの大砲陣地に侵入し、ティエールがプロイセン軍に引き渡そうとしていた市民の寄金で鋳造された400門の大砲とミトライユーズ砲を、大勢の腕で引き上げ、モンマントル、ベルウィール、ラ・ヴィレット、モンソー公園、ヴォージュ広場、イタリー広場の安全地帯に移しかえた。

2月26日、パリの愛国者たちは、ドイツ軍に委譲することになっている区域内にある大砲を引き上げた。これらの大砲の大部分は、籠城戦中に愛国的市民の醸金によって鋳造されたものである。それをプロシア軍が駐留する地域に集めたのは、ティエールの命令だが、その案を出したのは、敵軍によって国民軍を武装解除させようとするジュール・ファーブルであった。彼こそ、国民軍を武装解除から救った当人であったのだ。「われわれの大砲を救おう」を合言葉に、男も女も子供も大砲のある広場に殺到した。彼らは歌を歌いながら、駆け足で大砲を運んだ。パリは5か月間の飢餓によってやせさらばえていたが、一瞬たりとも躊躇しなかった。

バスチーユ広場の7月革命記念円柱の上に赤旗が翻り、その周りを人の波がうねった。警官一人が殺され、サント・ペラジーの監獄が、国民軍部隊に襲撃され、「1月22日事件」の抵抗運動を煽動したかどで、投獄されていたふたりの将校ブリュネルとピアッツァが解放された。情勢の険悪化に驚いたパリ軍総司令官ヴィノアは、急遽ブルジョア国民軍大隊に非常招集をかけたが、集まった者はわずか30名ほどにすぎず、国民軍にたいして差し向けた正規軍第一戦列部隊も、国民軍と手を結んだ。休戦に入って、邀撃隊や正規軍兵士の多くは出身地に帰り、パリの兵力が制限されたため、政府が武力弾圧の挙にでることは、この時点ではもはや不可能であった。

 2月19日に「20区代表団」は『原則宣言』を採択し、2月20日と23日に監視委員会の総会が承認された。ここで、監視委員会の全メンバーは、革命的社会主義者党に属することを宣言した。そして、革命的社会主義集団の代表からなる「革命的コミューン」しか市の政府として認めないとした。そして、「革命的コミューン」と労働者中心地の代表によってつくられた政治的清算の政府しか認めないとした。この宣言は、抗戦継続と切り離された「革命的コミューン」の観念に、社会主義的な裏づけがなされたことになる。また、「政治的清算の政府」という言葉から推測して、ブランキ派にかわって再びインター系が発言権を強めることになった。しかし、「20区代表団」の組織化は、第18区などの労働者地区を除いて、大きな成功をおさめているとはいえなかった。「20区代表団」は、インター派あるいはブランキ派が、大きな影響力をもつ革命的活動家たちの組織であった。『原則宣言』にみられる再編成が追究されたとはいえ、いきおい、別の大衆組織に押される結果になる。

 「20区代表団」にかわって登場してきたのが、「20区国民軍中央委員会」(「国民軍中央委」という。)である。攻囲国民軍は、すでに監視委員会の下で統制されていたが、状況の変化により、より強力な組織化の必要性が生まれ、その実現として創設されたのが「国民軍軍団連盟」とその行政機関である「国民軍中央委」であった。「20区代表団」がパリ・コミューンを実現するには、どうしてもこの兵士組織と連繋をとらなければならなかった。

 祖国と共和制を護持するために、愛国的国民軍を連合させようとする試みは、すでに籠城戦たけなわの1870年11月ごろから芽生えていた。しかし、計画が急速に具体化したのは、「1月22日事件」の直後からであった。この事件の翌1月23日、第3区の国民軍第145大隊の士官が「発起委員会」を設立し、セーヌ県の国民軍全員に「国民軍の行動の統一を確保するため、各区1名の兵士と各大隊1名の士官から構成される委員会の即時結成」と「各区委員会の代表からなる中央委員会の組織」及び「自らの義務を自覚した総司令官の自主的選出」を提案した。発起委員会は、さらに、1月30日に開かれる会議に代表を参加させるようよびかけた。 

1月30日の会議は流れたが、2月6日、「国立競技場」で開催された「国民軍代表総会」(第一回)は、「パリの国民議会選挙と候補者の選定」のため、共和主義連盟、共和主義同盟、インターナショナルなどの組織と協議した上で、これらの組織が提案した候補者名簿について、意見の一致をみた。総会事務局は、来る2月15日、第2回投票にそなえて、ティヴォリ・ヴォザール会堂で、2回目の総会を開くことを決めた。

「国民軍中央委」は、休戦後の情勢から産まれた組織である。休戦の報がパリに伝わると、連日のデモで叛乱状態になった市内で、唯一の武力は、武装解除しない国民軍の大衆だった。その大部分は、もはや司令官のトーマ将軍に従わず、各地区の隊長が実権を握った。この国民軍が互いに横の連絡を取ろうとし、2月15日にティヴォリ・ヴォクサル公会堂で開かれた第2回集会で、約3千人の国民軍兵たちが、武装をとかないまま、国民議会の和平締結に反対することで一致した。

また、連合体をつくる決定がなされた、国民軍連盟と「国民軍中央委」の規約作成の任にあたる臨時中央委員会員が選出された。委員たちは、小ブルジョアであり、商店主であり、雇われ人であって、いかなる党派にも無縁であり、大部分の者は、そのときまで政治にも無縁であった。彼らは発言し、事件に参加する。この日、出席者は、歓声とともに規約の前文を採択する。それによると、「全市民の義務は国土と国内秩序の防衛に協力することである。市民の権利は選挙人であること、及び自己の義務の遂行に必要な武器をもつことである。国民軍は、今後は常備軍にとって代わらなければならない。常備軍は、専制主義の道具でしかなく、不可避に自己とともに国の滅亡をもたらすものである」。ここに、新しい社会的・政治的勢力が、組織面におけると同時に、政治的イデオロギーの面においても、純粋に民主主義的な性格をもって生まれた。国民軍、武装人民の精神状態は、いまや日ごとに強く変化しつつある。パリの民衆の活動の中で、一種の質的飛躍が起こった。
 「20区代表団」はそこで、大衆の自然発生的運動の再組織に着手することになった。主要な役割が帰せられるのは、国民軍であり、武装人民の直接的な発現である「国民軍中央委」であり、その鼓舞者であるブランキ派である。「国民軍中央委」は包囲のあいだ、休戦ののち、そして講和会談のあいだに、徐々に、しかも強力に形成された。この組織の萌芽と前兆は、包囲の初期から現われていた。すなわち、国防政府に反対する士官の集会、叛乱的暴動への大衆大隊の参加、沸騰する大衆との接触を失うことなしに、構造化されると同時に構造化する。中央集団がますます大きくなる必要があった。この輝かしい発端から、1871年3月まで士官の集会や、中隊と大隊の会議やデモや暴動は休みなく続く。はじめは不定形で断片的であったこの巨大な一団は、徐々に国民軍として凝集した。

 

《この巨大であまりにもあいまいなプログラムを実現するために、コミューンは結局わずか2か月の時日しか与えられなかった。いずれにしても、そのことをはっきれ知るというよりも予感していたパリの人民は、そのために全身をささげたのだった。5月の血の週間の数えきれない死者、弾圧によるこれまた数えきれない苦痛は、コミューンの歴史がなによりも大きな社会的事実、膨大な集団的犠牲であることを十分に証明している。》

       『パリ・コミューン』 ジョルジュ・ブルジャン著  上村正訳 

 

それにしても、コミューンの形成のテンポはあまりにも遅かった。最初に、「20中央委」の発案であったが、コミューンという無意識の言葉が出たのが、9月の中旬であった。具体化するのに、5か月もよけいに時間をかけてしまった。そのことが、あとあとどのような推移になるかをパリ市民は知ることができなかった。

2月24日に、同じくティヴォリ=ヴォクサルで開催された国民軍代表総会(第三回)には、2千人以上の国民軍代表が参集した。まず、「27日に迫った休戦期限切れを前にして、国民軍の武装解除とプロイセン軍のパリ入城を武力で対抗する」と決議した。次に、臨時中央委員会の作成した「連合規約草案」が発表された。それによれば、各中隊は等級に関係なく、全構成員から直接選挙され、いつでも解任できる代表1名を代表総会へ、3名を大隊サークルに派遣し、大隊ごとに将校団から選出される士官代表は、各大隊長とともに代表総会と大隊サークルに参加する。軍団評議会は、パリの20区単位に大隊サークルから等級に関係なく選挙される2名の代表と、当該区の全大隊から構成される。最後に、中央委員会は軍団評議会から無差別に選ばれる2名ずつの区代表と、軍団ごとに同僚から互選される大隊長1名、合計20区で60名の委員から組織されることになった。

これは、連合組織の母体である代表総会の意志を直接踏まえた、執行委員会的性格をもっていた。この末端組織の自律性を尊重した直接民主制的組織形態には、あきらかに、インターナショナルの連合主義の論理が貫かれていた。それは、コミューンが実現しようと試みようとしている独自の政治組織の原型が提示されていた。

それは次のとおり構成されている。中隊→代表総会→大隊サークル→軍団評議会(区が軍団単位)→中央委員会で、順次、代議員システムで選出される国民軍連合体で、代表総会は2千名からなり、中央に60名の中央委員会がおかれる。それは、国民軍215大隊の選挙という自由な意思表示によって生まれた。いまやパリを牛耳るのは、「国民軍中央委」となった。18区の国民軍大隊が代表を送った。この日の集会を支配した愛国的、革命的雰囲気は、パリ大衆の共通の感情を集約したものであり、そこに、インターナショナルや、「20区代表団」の強い影響が見られた。すなわち、連合主義、直接民主主義をともなう民主的集権主義である。このあと代表たちは、バスチーユ広場でデモ行進を行うが、これは3日間続き、国民軍大隊の多くが参加し、つぎには遊動大隊、そして正規軍のかなりの部分(ことに猟歩兵の大部分)が参加する。しかも、それは政府の禁止命令にもかかわらず行われた。

一方、インターナショナルは、弾圧と戦争のため、組織を解体され、その活動は停滞状態を脱しなかったが、1月22日の夜、コルドリーの本拠で開かれた連合評議会で、組織再編と革命的共和主義者との統一戦線の必要が確認された。次いで、2月25日の連合評議会は、国民議会選挙の結果を分析し、パリの各区に支部をつくる計画を検討した。しかし、資金不足のため、再建計画はおもうように進捗しなかったが、指導的メンバーの多くは、「20区代表団」と監視委員会の中で、精力的な活動を続けた。この間に、日和見主義分子を粛清して、社会主義的原則の上に再編成されつつあった各区監視委は、2月19日、「20区代表団」と共同で原則宣言を行った。この原則には中央代表団として革命的社会主義政党の創設をめざす方向、新国家権力構成のために普通選挙を原則として退ける方向、ブランキ主義の革命独裁の方向の3点が示された。

「国民軍中央委」が方向転換したのは、革命的な活動家たちが介入したためである。このころから「国民軍中央委」と「20区代表団」との密接な関係がはじまった。しかし、「20区代表団」やインター派の革命的活動家たちは、あまりに大衆的なこの組織に、まだ信頼感を十分抱いていなかった。3月1日のパリ連合評議会では、「国民軍中央委」への代表は「個人」の資格にとどめられた。

ドイツ軍の入場は3月1日に予定されていたが、この屈辱の日が近づくにつれて、民衆の苛立ちはいよいよ険しくなった。入城する勝利者と住民とのあいだの、おそろしく力の不均衡な流血の衝突が、目前にせまっていた。ティエールの政府は、バスティーユ広場の7月革命記念円柱付近では、激昂した正規軍と民衆が「仲良くしている」こともしらないかのように、平然と、ドイツ軍の入城を予告する。インターナショナル、「20区代表団」、労働組合会議連合、「国民軍中央委」の代表者が、この危機を救った。

彼らは、「あえて流れに逆らい」黒枠つきのポスターを貼り出して、理性への訴えによって、ドイツ軍との衝突を回避しようとした。「いかなる攻撃も人民を敵の銃口にさらすことになり、彼らは社会的回復を血の流れに溺れさせてしまうであろう。…諸君、攻撃はすべての共和国の転覆を招くことになるのだ。…敵が占領するはずの地区の周囲には、完全にその部分を町から孤立させるよう一連のバリケードが築かれる。国民軍は、軍と協力して、敵がほる保塁の築かれた地域と連絡できないよう監視する」。さらに命令は、駐留地区のあらゆる鎧戸を閉め、黒旗を掲げよとあった。このアピールは、民衆に強い印象を与えた。この訴えで、ドイツ軍の入りこむことになっている地区からの撤去が予知されていたし、さらに交通遮断線によって、勝利者にたいする限界が形づくられた。

2月26日、10万人の国民軍が、ドイツ軍の接近をふせぐために城門の前に野営する。26日から3月3日までの1週間の間に、区の諸委員会が機能し始める。それは地区常設機関を設置し、区ごとの3名の代表が、中央委員会との連絡を確保する。また、サント・ペラジーの監獄からブリュネルが開放された。

 2月27日、約1万人の国民軍兵士は、プロイセン軍を邀撃すべく、シャンゼリゼの高台に徹夜の陣をはった。武力衝突は、目前に迫った。内務大臣エルネスト・ピカールは、ポスターに議事録のように乾いた調子で、3月1日、3万のドイツ兵が、シャン・ゼリゼを占領すると伝えている。講和条約にもとづくプロイセン軍のパリ入城は、シャン・ゼリゼを含む西部地域だけで、3月1日から3日間だけとなった。

実際、3月1日に、ドイツ軍はパリに入城した。家々には黒い旗が吊られ、通りは砂漠のように静まりかえり、無人の店は閉められ、泉は枯れ、コンコルド広場のさまざまな像は覆われ、ガス燈は灯らず、取りつくしまのないパリが、遠来の勝利者を迎えた。ドイツ軍は、セーヌ川、出入り口を閉鎖したルーブルと、サン・トノレ郊外地区に沿う帯状のバリケードに囲まれた地域に押し込められた。2日に予定されていたドイツ皇帝ウィルヘルム一世の「勝利の入城」は中止され、わずか2日でドイツ軍はパリを去った。いわば「象徴的占領」であり、武力衝突はおこらなかった。

正規軍武装兵力が解体し、地方の救援の見込みのない状況の中では、強大なプロイセン軍と武力で対決することは、不可能であった。こうして、ドイツ人が歩き回ることのできたのは、沈黙した人影のない、灯の消えたパリであった。2日、彼らはドイツ皇帝ウィルヘルム一世の勝利の入城をはたすことができずに、退去せざるを得なかった。プロイセン軍は48時間の象徴的な占領ののち、群集の罵声を浴びながら、パリを撤退し、東北部郊外の占領地区に引き上げた。

ティエールは、このドラマの筋書きを知らなかったわけではない。しかし、彼は、ヴィノワ、正規軍及び彼自身の管轄下にあり、ヴァランタン将軍の統率下にある警察をあてにしていた。結局のところ、彼は権力によって打ち砕かれたいくつかの叛乱の経験を積んでいることのみが、唯一の財産だった。ルイ・フィリップの治世、6月事件、クーデタによって、下等な大衆にたいする全面的な侮蔑と、所有権の心からの尊重にもとづく考えがはっきり打ち出され、すべてが大きな自負心となり、軍事史ならびに攻囲戦についての、正確な歴史的知識によって裏打ちされていた。

3月3日、「国民軍中央委」はサン・モール通りにおちついた。

だが、「国民軍中央委」の性格は、着実に変わりつつあった。「国民軍中央委」のブルジョア的分子に疑惑を抱いていたので、インターナショナルの発案で、戦闘的労働者が中隊代表に指名され、「国民軍中央委」に席を占めるように決定された。

インターナショナルは、パリの運動に、理念的として革命的、社会主義的、プロレタリア的内容を与えるのに貢献した。しかし、それらは、社会の諸勢力を指導したり、運動を準備し、方向づけたりはしなかった。インターナショナルは、混乱しつつも、政党として介入しようと試みるが、それが成功しない。この時から「国民軍中央委」の権威と影響力は急激に増大し、政府との二重権力があらわになった。「国民軍中央委」は起こりうる政府のクーデタにそなえて、兵士に直接、呼びかけるポスターを貼り出した。 

3月3日に任命された新たな臨時行政委には、旧メンバーのほか若干の「20区代表団」やヴェルランなどインター派4名が加わった。「国民軍中央委」のもとに結集したのは、国民軍約215軍団である。ヴァンドーム広場の国民軍参謀本部は、もはや影の薄いものになった。10日に連合規約が最終的に決定され、3月15日に開かれた代表総会には、全パリの260大隊のうち215大隊代表、合計1,325名が集まって、総会を開き、「国民軍中央委」が、最終的に正式に成立した。国民軍連合とその中央委は、今や、強大な革命武装勢力に転化したのである。

 その一方で、国民議会とティエール政府は、着々とパリを屈服させる計画を練り上げていた。2月15日、議会は「貧困者証明書」を提出しない限り、国民軍兵士の30スーの日当を廃止するという決定をした。この決定は、労働者である国民軍兵士に屈辱感を与え、その武装解除を容易にしようとするねらいをもっていた。政府は、プロイセン軍のパリ入城の屈辱をより挑発するような施策を、矢継ぎ早に打ち出した。反動的将軍オーレール・ド・パラディーヌの国民軍司令官への任命(3月6日)、パリの包囲以来とられていた満期手形の「支払い猶予措置」の停止(3月10日)、パリ軍総司令官ヴィノアによる革命新聞の発行禁止措置(3月12日)、「10月31日事件」を口実とするフルーランスとブランキにたいする欠席裁判による死刑の宣告(3月9日~12日)などである。今や、政府の政策を完遂する上で最大の障害は、「国民軍中央委」に結集した武装市民であることは明らかであった。そのことを知った政府は、何としても早急に、大衆の武装を解除することが先決であった。このためには、政府は、軍事クーデタさえ厭わなかった。

この問題を、ボルドーで解決することができないし、パリがどうしても必要であるとおもえた。しかし、議会は首都にたいして恐怖心を抱いており、議会を首都に近い場所に移転することを考えるにいたったのは、妥協の結果にすぎない。はじめフォンテーヌブローがとりあげられたが、議会の煮え切らない王制主義と、自分の共和的な考えを調停させた「ボルドー協約」に力を得たティエールは、首都としてではなく、議会の開催地としてヴェルサイユを提案した。それは3月10日に427票対154票で決定され、これはパリから首都の座を奪い、パリに近いヴェルサイユからパリに威圧を加えようとするもので、大衆感情を故意に逆なでする挑発であった。次の開催日は3月20日に定められた。

同じ3月10日、1870年8月13日から11月13日までの間に、満期となった商業手形の即時支払い請求権が承認され、さらに国民軍兵士の1フラン50サンチームの日当が廃止された。極端に鈍くなった経済生活は、底をついた財布をもって、パリの職人とプロレタリアには、一体いかなる未来が目前に開かれているというのか。内乱に最初の火をつけたのは、彼らではなかったようにさえおもわれた。

ドレクリューズ、マロン、ピア、ロシュフォールら、パリ選出の議員は、議会の使命は講和批准をもって終わったと主張し、議会の解散を要求して議員を辞任した。3月15日、ティエールは、ボルドーからパリに到着し、翌日から閣議の場所を外務省に定めた。警視総監には、反動的な「精力家」ヴァランタン将軍が任命された。政府はいよいよ、奇襲による国民軍の武装解除という最後の計画実行にとりかかったのである。

政府は、パリ制圧を急いでいた。それは財政問題からであった。彼らから、大砲をとりあげなければならない。パリ制圧の武力は何か。3月3日に国民衛兵総司令官に任命された保守派のオーレル・ドゥ・パラディーヌ将軍が、全市の大隊長を召集したが、30名しか集まらなかった。残る武力は軍隊であるが、士気を喪失し、大衆に同情的にさえなっている。ティエールは約3万の地方部隊をパリ周辺に集結させる計画を立てた。しかし、ティエールは、軍隊の威圧だけで解決したかった。しかし、区長と「国民軍中央委」とがおこなった大砲返還交渉は決裂した。

 3月10日の国民軍連合総会で「国民軍中央委」のアルノーはこういった。「もはや抑圧も、奴隷制も、いかなる種類の独裁もない。主権者としての国民、自らの好むがままに自分を統治する自由な市民となるのだ」。こうして3月中旬、政府とパリは、衝突の時を迎えようとしていた。ティエールは3月17日の閣議で、その日の夜、パリの全正規軍を動員して、国民軍を武装解除し、市内各所の大砲陣地の奇襲、奪還することに決めた。また、「国民軍中央委」メンバーと主要革命家の逮捕も行うというものだった。ヴィノワ将軍も危ぶんだ。オーレル・ド・パラディーヌ将軍の権威下になく、「国民軍中央委」に従う30万名の国民軍を前にして、自分は1万2千か1万5千の兵、それも「熱意もなく、全く訓練不足の」兵士しかもっていない。しかし、ジュール・フェリーが、力による大砲奪還という行政長官の意向を支持した。この計画については誰も予想していなかった。全くの奇襲計画といってよかった。

 

6 コミューンの成立

 

ティエールの作戦は、1871年3月18日の土曜日にはじまった。ティエールは、ヴィノワをやって、多数の警官と若干の正規軍を歩兵連隊とをひきつれて、モンマントルに夜行列車でやり、そこで国民軍の大砲を奇襲的に差し押さえさせることによって、市民戦(内乱)を開始した。ティエールは2日前からパリにきていた。パリ軍最高司令官ヴィノワ将軍指揮下の兵士2万が行進を始めていた。国民軍の手から、大砲その他の火気を取り上げるためである。大砲があるのはパリの17地点である。小雨が降っていた。シュビエル指揮下の約4千名は、午前5時半頃、モンマルトルに向かった。二つの旅団のうちパテュエル旅団は、難なくモンマントルの北側から丘の上に到着した。そこのテアトル広場に大砲がならんでいた。大砲の番をしていたらしい5~6名の国民軍はびっくりして逃走した。第17猟兵大隊は、その場に残され、第76大隊の3つの中隊と若干の警官が、近くの13門の大砲を確保するため、送られてきた。住民は、寒さに凍え、飢え苦しむ兵士たちを歓迎した。簡単な食事をすすめ、水筒の水をいっぱいにしてやったのである。兵役についていきなり敗戦を味わわされ、十分な訓練もうけず、風紀の乱れた若い兵士たちには、ティエールがその声明であきらかにしたような使命感をもつ能力はなかった。

第一、彼らのほとんどは、字が読めなかったのである。そのくせ、転戦中に住民から、パンやぶどう酒の提供をうけるのは、慣れっこになっていたのである。そこには、奇妙な光景がみられた。兵士たちは、モンマントルの住民と談笑しはじめたばかりか、かれらの「戦列万歳!ヴィノワをたおせ!」という声に唱和する者さえ出てきたのである。軍の制服が、労働者たちの服に溶け込んでいった。

モンマントルでは、逆上した将校が抜刀し部下を叱咤していたが、部下はすでに住民たちと仲良くやっていた。ウェルダニュという軍曹が叫んだ「戦友たちよ、武器を捨てろ!」おばさんがその武器を集めた。

 もう一つのルコント旅団の任務は、丘の東方にあるダンス・ホール「赤い館」に置かれている別の大砲を奪い返すことにあった。この隊は、それぞれ250名からなる二つの大隊を先頭に立てていた。そのひとつは、第16猟兵隊指令プーサルグの指揮下にあり、頂上近い小さな塔トゥール・ソルフェリノを占領することになっていた。もうひとつの大隊は、20名の警官、パリ衛兵隊の1中隊及び第88連隊の1中隊からなっていた。

指揮官は警官隊将校ヴァサールで、サン・ピエール教会を占領して、そこから打ち出される警鐘を妨害し、「赤い館」の大砲を確保するのが任務だった。残りの猟兵隊は、丘の頂上を占領し、第88連隊の残りの部隊は、丘の東方及び南方に小さな分哨を点線上に設けることを命じられた。ヴァサールの軍が到着したのはまさに日が昇ろうとするときだった。

彼らは、まず、散在する国民軍の歩哨に奇襲攻撃をかけた。国民軍主力がこれに応戦したが、はじめ彼らは、警官を味方だと錯覚していた。制服が似ていたのである。そして、ヴァサールに向かって非常呼集をかけろと叫んだ。間違いに気づくと彼らは発砲した。猟兵ひとりが負傷した。小競り合いののち、正規軍は、ロジェ通の家に設けられた彼らの司令部の周囲に集まり、そこで降伏した。5時45分までにはモンマントルの丘は完全に政府軍によって制圧された。しかし、この正規軍は、決して精鋭部隊ではなかった。このモンマントルを占拠したシュピエルの軍は大部分は、ロワール軍に属していたが、若くて無経験な兵士が多く、兵士の多くがベルウィルに宿営していたため、労働者の多い住民たちと親しかったのである。しかも、2日前に着いたばかりで、装備も貧弱なら糧食にも事欠き、寒さと疲労で士気も上がらなかった。

大砲はこれからどうするのか。司令官のヴィノワ将軍は、重大な作戦上の誤算をしていた。押収した大砲を引く必要な馬をまだ確保していない。シャン・ゼリゼとコンコルド広場に集められている馬を連れにいった。待つこと2時間、激しい警鐘の音と、せわしい太鼓の音で、パリが目覚める。非常呼集の太鼓が響き、モンマントルに通じるすべての道はたちまち群集でいっぱいになった。丘の麓から第88連隊の兵士たちが、国民軍の兵士と酒場で談笑しているという報告を、ルコント将軍は受けた。そして、事態の展開に狼狽した。部下を脅し、任務の遂行を命じたが、8時ごろ、国民軍と市民が散兵線を押し上げながら丘を登ってきた。将軍には、第88連隊が、これをとめる気のないことを知っていた。

ルコントは、丘を登ってくる群集に警告をするために、ラッパを吹かせた。だが、ラッパ手はこれを無視した。発砲の命令にも、兵士たちはそのふりをするだけで、薬包を投げ棄ててしまった。丘の南側にいた第18大隊指令プーサルジュは、3回群集に解散を命じた。ルコントはため息をついただけだった。

将軍はトゥーサン中尉をシュビエルのもとに送って、援助を要請した。だが、シュビエルが派遣した猟兵隊も憲兵隊も、国民軍の猛烈な射撃の前で立ち往生し、どうしても丘を登ることができなかった。ルコントは孤立した。やがて丘の上は完全に群集に埋めつくされ、そこここで彼らと兵士の交歓がはじまっていた。

プーサルジュ、ヴァサールとともにルコント将軍も、捕虜になった。パティエルの方も似たようなものであった。ここでは、第17猟兵隊の1中隊は、銃の装填と付け剣を命じられるとそのとおりにしたが、前面の国民軍の大軍の中にまっすぐ進んでいった。国民軍は銃の床尾をあげ、彼らを兄弟とよんで歓迎した。中隊はそのまま丘を下りていった。パティエルは、国民軍に包囲され顔に負傷したのち、将校に助けられたが、戦闘を諦めて、軍に後退を命じた。旅団はシャン・ド・マルスに引き上げ、そこからヴェルサイユに行くことになった。

 ベルブィル方面のファロン師団6千の方はどうであったか。ラ・ヴィレットに派遣されたレスピオー大佐の軍は、8時30分まで時間を過ごして、自然発生的に次第に増えてきた国民軍と住民に囲まれてしまった。その上、兵士たちは、大佐の言をかりれば、「これっぽっちの精力のかけらもなく」命令にはあからさまに拒否するのではないが、一兵たりとも従うものがないといってよかった。モンマントルからの悲観的な報告で、レスピオーは撤退を決心して、銃を群集に渡し、市庁舎に向かった。ファロンの主力のラ・マリューズ大佐も同様なありさまであった。その他も同様に民衆の手におちていた。

 早朝、総司令部の将校たちは、最初、作戦の相次ぐ成功の報告で有頂天になっていた。外務省に集まった共和国政府担当者にも、楽観的な空気がただよっていた。だが、次第に、容易ならない事態を告げる報告が、続々と送られてくると、閣僚の顔に緊張が広がった。しかし、こんなはずではないという思いを捨てきれるものではなかった。ティエールは、警視総督から、モンマントルからの悪いニュースをはじめ、正規軍の寝返りと住民を包含する国民軍の予想外の強い力を示す報告がはいってきたことを聞いた。

午前10時30分頃、相次ぐ凶報に、ヴィノワ将軍は、軍隊のヴェルサイユへの撤退を閣議で提案した。3人の共和派は反対し、即時、反撃にでることを強硬に主張した。ティエールは前の会議で、失敗した際のパリ撤退、そして時をみてのパリ奪還という考えを明らかにしていた。彼がこの考えに固執するのは、体験で得た教訓があったからである。1848年2月24日にティエールは、パリでおこった革命の騒ぎの中で、ルイ・フィリップ王に、ひとまずパリを出て、後日、ビュジヨー元帥と5万の兵とともに戻ってくるようにという意見を述べた。だがこの考えは退けられた。それでも、彼はこの考えに固執していた。会議は撤退問題について結論がでないまま席を立った。まさに恐慌状態だった。その議会で、ティエールはいう。「軍がこれ以上市庁舎を保持できないことは明白だ。分散された軍はわれわれをひとつずつ失うことになろう。私はパリにたいして義務を負っている。フランスにはもっと大きい義務がある。議会をヴェルサイユに移したのは私だ。私は絶対的に議会を保護することができなければならない。私は責任をとる。議会の前で、全フランスの前で、これが、パリからの完全撤退を命ずる最大の理由である。したがって、私は、自由に使いえる軍をすべてヴェルサイユに戻すつもりだ。その軍がそこで、政府と議会を守ってくれるだろう」。パリ選出のラングロ大佐が外務省を訪れ、ティエールに、ルコント将軍が捕らえられたことを報じた。危険を感じた大臣たちは、ティエールに一刻も早く脱出を勧めた。ヴィノワ将軍が準備した2倍に増強された護衛隊に守られ、彼は、馬車に乗って外務省を去った。4時を回っていた。ティエールは命令した。午後6時までに閣僚全員のパリ撤退を。

6時に市庁舎でなお抵抗を続けていたパリ市長ジュール・フェリーに、ルコント、クレマン・トマ将軍がロジェ街で殺害されたという衝撃的にニュースがはいった。「赤い館」にとらえられていたルコント将軍は、3時過ぎに、ロジェ通り6番地にある家につれていかれた。審問委員会がここにきて、尋問することになっていた。本人は、「ルヴォワの命令に従ったまでだ」という意見をめぐって、議論が続けられた。4時半ごろ白い髭のクレマン・トマ将軍が押されるようにやってきた。「殺せ!殺せ!」という群集の叫びが、窓を震わせた。「攻囲中、やつは俺たちを卑怯者扱いした!お前はビュゼンヴァルで俺たちを裏切った!」。カダカスキーが中へ入ってきた。クレマン・トマは、部屋から出された。二本の桃の木の下に、塀を背に立たされたこの老共和主義者は、正面をしっかりとみつめていた。激しい射撃音が響いた。トマは横倒れに身を二つに折って倒れた。弾丸は頭を砕き足に貫通していた。群集の興奮は一層高まった。猟兵隊の伍長、第88連隊の兵士、それに2名の遊動隊員の4人がルコントにつかみかかった。「お前の番だ。さあ来い!今朝、俺たちを銃殺しろと命じたな!」。将軍が妻や子供のことを語ろうとしても無駄だった。背中を銃弾が貫いた。彼はがっくりと膝を折る。処刑者たちは、その死骸をクレマン・トマの遺体の上に投げ捨てた。ルコントに関する証人たちの印象は一致している。すなわち、彼は、最大の勇気と最大の権威を示したということである。ことのなりゆきに驚いた国民軍の将校は、残りの捕虜たちを「赤い館」に送り返した。《クレマン・トマおよびルコントの殺害にたいして有する責任は、丁度英国皇太子妃がそのロンドン入りの日に雑踏のために押し潰されて死んだ人民の運命にたいして有する責任のようなものであるのだ。》(マルクス)

「国民軍中央委」メンバーの様子はどうだったのか。運動は全く自然発生的で、局地的であった。このため、「国民軍中央委」が介入したのは10時30分になってからだった。「国民軍中央委」は、主役とみなされる組織があるのに、その動きがあまりに鈍かった。「国民軍中央委」は実際、一つの命令しかあたえなかった。それはバリケードをつくることだった。地区の情報が、一度に流れ込み、蜂起が全市を支配したことがあきらかになると、「国民軍中央委」は、防御作戦から攻撃作戦に転じ、オーレール・ド・パラディーヌの国民軍参謀本部のあるヴァンドーム広場を占拠せよという司令をだした。「国民軍中央委」の対応は明らかに立ち遅れていた。

ブランキ派のウード、デュヴァルやインター派のヴァルランなどは、国立印刷所や警視庁、リュクサンブール宮など、重要拠点を襲撃しているが、これらは個人的判断にもとづき、少数の手兵で行われた散発的な行動であった。組織としての「国民軍中央委」は的確な情報をもたず、少なくとも夕方までは、自然発生的な局地的勝利の混乱のなかで動揺していた。明け方にモンマルトルでとらえられたルコント将軍が、おなじく視察中に逮捕されたトーマ将軍とともに、興奮した群集によって銃殺されたのは、「国民軍中央委」の手のとどかないこの混乱のなかであった。ともかく3月18日の「労働者革命」は、パリの支配権を握った。「国民軍中央委」はその臨時政府になった。

したがって、「国民軍中央委」が、市庁舎の主人になったのは、「蜂起」の指導部であったからではなく、大混乱の1日の終わりに、これがともかくも中央機関の役割をはたしうるパリでの唯一の組織であったからにすぎなかった。確かなことは、「国民軍中央委」がイニシアティブを取り戻した瞬間にも、「国民軍中央委」は、政治権力の奪取を目的としていなかったということである。「国民軍中央委」は、政府のおかれている王宮にたいして、またその時すでに叛徒の脅威をうけていた市庁舎にたいしてすら、兵力を投入していない。「国民軍中央委」は単に、ティエールとその共犯者によって押し付けられた参謀本部を、除去したいとおもったにすぎない。政府の会議では、不確実、不安、不和が増大する。政府は外務省に本拠をおいているが、猟歩兵半大隊に守られているだけである。

マルクスは、非常に早くから、この運動の経過を把握していた。世界のプロレタリアートにたいして、この運動の起源、意味、内容を説明することを、インターナショナルの総務委員会から委嘱されたマルクスは、毎日もたらされた資料を使って、動向を注視していたのだ。のちに『フランスの内乱』という著作で、それがまとめられている。そのマルクスが、「国民軍中央委」が、3月18日におかした誤ちを指摘している。第一は、ただちにヴェルサイユへ進撃し、ティエール政府と議会を破砕しなかったことである。もし、中央委員会が選挙などに訴える代わりに、ティエールがやっと着いたばかりのヴェルサイユにたいして、自分のもとにある二百の大隊を差し向けていたとするならば、事態は完全に一変していた。パリの城門を開放したまま、政府要人と正規軍敗残兵力が、ヴェルサイユに向かって逃走するのを放任したばかりか、ティエールが放棄したモン・ヴァレリアン要塞を占領しようとさえしなかった。

 

《中央委員会は、こんどは、常時完全に無援であったヴェルサイユへ即時に進軍することをせず、こうして、ティエールと田舎地主たちの陰謀の息の根をとめなかったという点において、決定的な誤りをおかした。そうするかわりに、秩序党は、またもや、コミューン選挙日の3月26日に、投票箱においてその力をためすことを許されたのであった。》 『フランスの内乱』 マルクス著 木下半冶訳

 

3月18日のティエールの挑発事件がなければ、おそらく、「国民軍中央委」は、政治権力を奪取とようとすることさえ、思い浮かばなかったにちがいない。住民、軍隊の内発的な喚起力が薄れ、コミューンも実現しなかったと予想される。して、何よりも「国民軍中央委」は、ティエール政府のヴェルサイユへの逃亡の間の、政治的国家の空白期をついて、クーデタとして、正規の臨時政府を獲得できる可能性があった。にもかかわらず、その機会を逃したことは、ウード、デュヴァル、ブリュネルら、ブランキ派の主張を退け、合法主義への執着に加えて、内乱とプロイセン軍介入への不安と優柔不断とが、「国民軍中央委」の多数に、この決定的措置をとるのをためらわせたためである。ヴェルサイユ側の兵力は、この時点で分裂状態にあり、士気も完全に沮喪していた。もし、「国民軍中央委」が、せめて半分の国民軍兵力をさき、数門の大砲を擁してヴェルサイユに追撃をしかけたら、政府軍兵力を一撃の下に粉砕し、ブルジョア政府と議会を解体することもできたはずだ。そうであったら、以後の展開は、かなり違った経過を辿ったにちがいない。最後の正規軍が、ヴェルサイユに行くのを妨げるため、パリの城門を、閉ざすだけでもよかった。

しかも、もし、コミューンの主導権を、マルクス主義者が握っていれば、マルクスのいうように、まず、コミューンのことを念頭におかず、ティエールを追撃していれば、直接、国家の政治権力を奪取していたはずだ。これは、コミューンの成立のみにかたよりすぎた政治的錯誤より生じたものだ。ただし、その結果、政治権力を掌握していたとしても、当時の歴史的条件、民衆の理解度、経済的・社会的状況の段階を勘案するなら、もちろん、このような未だブルジョア的影響に全然感染しているプロレタリアートによってなされる革命は、一挙に社会主義を実現することはしなかったであろう。しかし、それは、少なくとも、その将来における実現を容易ならしめ、これを準備したことであろう。しかも、このことは、ただ、パリばかりでなく、全国においてもそうだろう。なぜなら、革命というものは、反動と同じく、著しく膨張的なものだからである。1871年からのプロレタリアートの勝利は、ブルジョア的反動化を遮断していた。そして、大衆の意識を目覚めさせ、彼らの創造力を触発し、おそらく革命の進路を変えていたことであろう。だが……。

リオン、マルセーユ、ナルボンヌなど、多くの地方都市で、パリにならってコミューン運動が燃え上がっていたことを考え合わせるならば、地方都市の蜂起と連動した迅速な決断と行動の中にこそ、勝機が存在したはずである。だが、「国民軍中央委」は、ティエール政府の逃亡にともなって生じたパリの政治的空白を、自分たちに有利に利用することなく、自然と手に入った政治権力を直ちに行使しようともせず、ブルジョア国家権力にとってかわるべき自己の使命を果たすのをためらった。こうして決定的な勝利の機会を自ら逃がしてしまったのである。この一瞬の判断ミスが、のちに致命的な傷口を広げた。

もうひとつの過ちは、なぜ、早く権力を放棄して、コミューンの予定席に席を譲ったか、ということである。これは、「国民軍中央委」にあてはまる。今、「国民軍中央委」は、権力の二重状態を、中途半端に放置したままにしている。自分が何ものか、「国民軍中央委」は、何をなすべきかを、全く理解していないことを露呈した。現状認識の錯誤なのだ。

第三点は、資本主義の中枢であるフランス銀行と中央郵便局を即時に占拠しなかったことがそれである。これはエンゲルスが注釈している。たしかに、ここがチャンスであった。度を失った政府と、士気を喪失した軍隊を追撃すれば、政府や議会の解体は無理としても、それに応じたダメージを彼らに与えることができた。ただし、ここでも、ドイツ軍が出撃して、パリは制圧されるという不安感が働いたのかもしれない。そういう戦略的な判断より前に、「国民軍中央委」が、「社会革命主義」を、その足かせにしてしまったばかりに、「国民軍中央委」が政治権力の問題へ向かって無意識に具体的に接近しながらも、みすみす意識的な関心を払うことをためらわせたとおもえる。

一方、3日前に成立したばかりの「国民軍中央委」が完全に勢力下においているのは、パリの東部と北部だけであり、ブランキ派の強い南部は、かならずしも統制下にはないという事情もあった。西部のブルジョア地区への影響力は1週間はかかる。第1区、第2区、第16区の区役所は、保守派の手ににぎられたままであった。政府退去後のパリで、唯一の合法的機関となったパリ選出議員や区長たちに、調停工作の介入のすきをあたえてしまうことになる。「国民軍中央委」の態度には戦力の弱さだけでなく、運動の戦略や戦術面の未熟さがあった。今回の行動ははっきりそれを示している。ヴェルサイユの国民議会は反動の牙城であり、全国の農民は、パリに敵対している。それにもかかわらず、「国民軍中央委」は国家権力への追撃をもともと行う気がなかったのである。政府首脳が恐れていたのは、煽動による暴動の過激化だが、それを政府転覆まで発展させられるのは、必ずしも、破壊的なブランキストたちではないことを政府は判断していた。いわば、かれらの手の内は知り尽くしていたのである。不気味なのはむしろ、それまできわだった活動をしていない「国民軍中央委」の存在であった。政府の「赤狩り」の主な対象はここにあった。

3月1日になって、インターは、はじめて「国民軍中央委」と関係をもつが、すべて内部の意識統一ができていたわけではない。まして、3月18日の行動について、インターは全く予期していなかった。また、運動の前面にでるほどの構成員も確保していなかった。彼らも、「国民軍中央委」と同様、決定的な態度をさぐっていたものとおもわれる。確かに、やがて、彼らは運動の大きな渦に巻き込まれ、そのある者はコミューンのメンバーになったが、少なくとも、3月18日の時点においては、蜂起を指導するような立場ではなかった。

3月18日におけるインターの役割は、一般に過大評価されて伝えられてきたが、果たして、「国民軍中央委」との結びつきも薄く、この第一インターが、コミューンの指導に当たれるほど強力であったかどうかは疑わしい。インターは、世間では20万の勢力をもっていると信じられていたが、実は500にも満たなかったという意見もある。巨大な財力を抱えているということも虚像であった。

3月18日、「国民軍中央委」は市庁舎におさまった。パリ市長は、10時までは市庁舎に留まったが、「国民軍中央委」にここを明け渡すと、郊外の友人の家に身を寄せることになる。市庁舎の占拠は、権力奪取を大衆に明示する行為であった。国民軍の選挙人たちを前に、パリ市民を前に、そしてヴェルサイユの議会を前に、「国民軍中央委」は、自らの正当性を証明することになった。しかし、40万2兆挺の銃と250門の大砲を自由にできる力をもつことになった委員会の目的は、もともと、自ら権力を掌握することにあったわけではない。そして、内乱戦がおこるかどうかも、確かな予測をしていなかった。むしろ「国民軍中央委」は、それをひどく恐れていたし、パリの区長とパリ選出の代議士たちは、その点で、調停活動が有効なものだとおもっていた。「国民軍中央委」の性格として、今後、どういう方針をとるか、という大事な問題が生じた。「国民軍中央委」は、厳密に都市的な行政権を一時的に付託された、合法的自治体政府成立までの暫定権力なのか、それとも、ブルジョア国家権力にとって代わるべき、事実上のフランス共和国政府なのかという問題が、でてきたのである。この問題について、「国民軍中央委」のとった態度は矛盾したままであった。

3月19日の朝、パリは自由な朝のもとに目覚める。国家、軍隊、警察、つまり人間生活を上から圧迫しているすべてのものが崩壊し、消失し蒸発した。ティエールは、国家装置の崩壊を感知し、理解した。そこには空白が生じた。だが、彼にとってそれはどうしようのない出来事であったのだ。壁に貼り出された掲示によって、自らこうあろうとするところと、こうしようと欲することとをパリ市民にたいして示した。

「国民軍中央委」は「人民の息吹で打倒された政府にとって代わるつもりはなく、付託された任務を遂行したので、権限を人民に返還する」意思を明らかにし、来る3月22日に、コミューン評議会選挙を行うと声明した。各区は住民2万人につき1名、または1万人以上の区画ごとに1名の市会議員を選出する。翌日には、「国民軍中央委」声明で「単に首都と共和国ばかりでなくフランスを救済するために」と呼びかけた。これらから判断して、「国民軍中央委」のメンバーの多数は、明らかにコミューンを、都市自治体政府と理解していたと考えられる。この革命はパリに限定されなければならない。そして、パリは自ら自治を行い、直接統治の理論を可能な限り実現する「自由都市」として、開放されたコミューン、共和主義の都市にならねばならないとしていた。

しかし、「国民軍中央委」は、コミューン選挙までの暫定政権を自認しながら、状況の

論理に導かれて、事実上の共和国政府として機能した。「国民軍中央委」は、まず、戒厳令の解除を宣言し、ついで代表を各省に派遣して、逃亡した高官にかわり、行政職務の執行にあたらせた。大蔵省に派遣されたヴァルランとジュールドは、国庫が厳重に封鎖され、主要な証券類と書類が持ち去られていることを知ると、フランス銀行と交渉して、50万フランを借り入れた。30万人の国民軍兵士への給与の支給が、生活問題としてさしあたって是非とも必要であったからである。

コミューン権力は、政治的国家として存在するのか、それとも自治体の集合体のひとつとして存在するのか。当人たちには全く不明であった。これは、ティエールが、勝手に議会をヴェルサイユに移したために生じた混乱だ。コミューンの本質としては、地域権力であるから、ただの自治体にすぎない。しかし、内閣以下が首都から脱走するにいたっては、パリの権力がそのまま、フランスの政治権力になる可能性があった。しかし、パリのコミューンが自治体として自己限定すれば、いくら権力を掌握しても、政治的国家そのものには抵触しない限り「政治革命」は不可能であった。コミューンには、この逡巡が、つきまとった。だから、もし、パリにこのような、革命的状況が迫っている時期に、マルクス主義者が主導権をにぎっていたとすれば、コンミューンよりも、むしろ、議会への進出の方法によって、政治権力を獲得しようとするだろう。ただし、都市と農村の格差が変わらないかぎり、政権はとれない。もし、暴力革命にたよろうとするならば、国民軍との連繋を重視されるだろう。

ただし、もし、強力な前衛党(革命党)が存在していたら、どうなるか。コミューンの内在的特質(連合主義)と相反し、コミューンそのものが考えられなかったにちがいない。

そして、コミューンが実現したとして、首都機能と自治体機能の背反を考え、選択するとすれば、自治体機能が、当然、優先されるべきだ。なぜなら、彼らは国庫を実力で破壊したり、フランス銀行を強制的に差し押さえることまでは考えおよばなかったのである。また、もし、「国民軍中央委」が、政府の空白期にフランス銀行をはじめ諸銀行、供託局、証券取引所を掌握していたならば、コミューンは、もっと有利な展開をしていただろう。

外務省へは、ロシュフォールと親しいジャーナリストのパスカル・グルーセが派遣された。彼は、プロイセン占領軍と交渉して、「敵対行為をとらぬ限り、パリの政治問題に介入しない」との約束をとりつけた。その他、陸軍省へはウード、警視庁へはデュヴァールとリゴー、市庁舎へはアシ、国立印刷所にはモローが派遣された。モローは、早速、「国民軍中央委」の名による『官報』の発行に着手した。言論、出版、集会の自由、正規軍の軍法会議の廃止、政治犯の全面大赦と釈放が宣言され、21日には、公認質屋に寄託された抵当物品の売却停止、手形の支払い期限の1か月延長、新しい措置がとられるまで家主が借家人を追い出すことの禁止、などの措置がとられた。

混乱した郵便、通信、入市税、租税などの行政業務の再建も、急速に進められ、パリの治安は完全に維持された。つまりフランスにおいて、間接に国家に依存しているすべての機能に取り組むことであった。パリは臨時市議会である以上に、政府、それも人民の政府であると自ら宣言することもできた。中央委員会は仕事の分担を次のようにした。「国民軍中央委」の躊躇を示すと、最初から二面性をもっていたということだ。パリの臨時市議会と共和国の新政府との。

  

○議長      エドワール・モロー

○中央委員会   ヴァンラン

○大蔵省     ジュールド

  ○陸軍省     ウード

  ○外務省     パスカル・グルーセ

  ○警視庁     デュヴァル、ラウール・リゴー

  ○内務省     グロリエ、ヴァイヤン

  ○軍事基地    ベルジュレ       

  ○官報      エドアール・モロー 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「国民軍中央委」は、匿名の革命から産まれた匿名の権力であったが、これが公布した19日のポスター『人民へ』には「現在われわれへの委任は果たされた。われわれはそれを諸君へ返す。なぜならば、人民の息吹が倒したばかりのものに、とってかわる意志をわれわれはもってはいない。したがって、ただちにコミューン選挙のリストを準備し、作成されたい…それまで、われわれは人民の名において市庁舎を保持する」と書かれていた。

「国民軍中央委」の意向は、まず、「自治都市」あるいは「コミューン」選挙を実現することにあった。それは必ずしも、革命的な行為ではなかった。「国民軍中央委」は手に入れたばかりの権力を1日も早く手放そうとする。しかし、これは臆病さのせいではない。首都を自らの手にとりもどしたばかりのパリ民衆の解放感を、さらに、コミューン選出という行為で固めようとしたためである。コミューン選挙の前日、「国民軍中央委」は次のような声明を出した。「コミューン議会の成立するであろうその日に、投票の結果が発表されるであろう日に、中央委員会はその権力を放棄し、その義務を果たしたことを誇りながら、またその使命を終えたことを喜びながら、引退することができるであろう」。

3月20日の『官報』は、「地方が共和主義的な方法で自らを組織することによって、首都の例にならい、さらに代表を派遣してすみやかに首都と関係を持つ」ように諸県へ呼びかけた。この例でいけば、パリの限定された自立的政府としてのコミューンと「単一・不可分の共和国」との関係の曖昧さと、混乱がぬぐえると「国民軍中央委」メンバーが考えたからである。

また、「プロレタリアートは、祖国ならびにあらゆる希望の破滅に直面して、自らの運命を手中ににぎり、権力を奪取することによって、その勝利を確保する、至上の義務と絶対の権利」を主張した。この種の言葉は、保守的な人々、とりわけ首都にとどまっていたブルジョアに属する支持者たちの、顰蹙をかった。こうした、「国民軍中央委」のおかれている状態は、パリの臨時行政権を委託されていた区長、助役、パリ選出議員らによる調停派の介入をまねかずにはおかなかった。

3月21日には、翌日に定められた選挙に反対するブルジョアジーの宣言が現われた。また、午後には、株式取引上広場からヴァンドーム広場まで示威が行われたが、ヴァンドーム広場では、ベルジュレが素朴にも、示威者たちに向かって、その立場の代表者たちと議論することを申し出た。示威運動は、22日にも再び繰り返されたが、今度はもっと多勢であり、もっと威嚇的であった。解散勧告ののち、ベルジュレは発砲させ、負傷者と死者が生じた。この事件の実際上の結果は、まず、国民軍のうちの穏和な諸大隊が、セーセ提督とこれを支持するラングロア、シェルシェル両大佐の、いずれもセーヌ県の代議士である3名の指揮下に結集したことが、しかも、コミューンの選挙が3月26日に延期されたことによるものである。

この延期を利用して、「国民軍中央委」、第6区役所の占領、第2、10、12、18区の区長・助役と委員会代表との交替、セーセ一派によるサン・ラザール駅の占領を理由に、バティニョルで施行された鉄道の検札など、精力的な措置を講じた。

実際、ヴェルサイユ派と呼ばれるようになる人と、「国民軍中央委」の人々との間には、和解は問題はありえなかった。ヴェルサイユでは、その間に、第三の力、すなわち国民議会の力が確立されていた。議会はその最初の会議で、「叛乱政府」を非難し、行政府と協力すべく15人委員会を指名し、セーヌ・エ・オワーズ県の戒厳令施行を可決した。クレマンソーはこの硬化した議会に向かって、できるだけ早い機会にパリの市会選挙を行うことを提案した。しかし、この提案は再度にわたって拒絶された。ティエールは、パリに対して乱暴なくらい、そっけない態度を示し、さらにJ・ファーブルにいたっては、「血なまぐさい、貪欲な観念にとりつかれたひとにぎりの「極悪人ども」を非難し、国民軍から銃を取りあげなかったことを後悔した。

19日夜、市庁舎で行われた区長と「国民軍中央委」の交渉の席で、区長のクレマンソーが次のような発言をしたのは、「国民軍中央委」の妥協的態度を察知したからであろう。「反乱は非合法であり、大砲は国家に属する。パリの要求は正当であるが、首都は国家にたいして反乱を起こす権利は持たない。『国民軍中央委』は議会の権利を認め、市庁舎を区長とパリの議員に引渡し、ヴァンドーム広場に退去せよ。そうしたら、自治権の獲得を議会に認めさせることを約束する」。そして、クレマンソーは、ヴェルサイユ側に立って発言した。「パリの住民は、『国民軍中央委』とともになく、国民軍は区長側にある。市の要求は正当であるが、フランスに対して反乱し、ヴェルサイユの許可なしに、選挙の実施にとりかかることはできない。したがって、合法的な区長にその場を譲ることが必要である。そうなれば、議会から充分ない市制改革の権利を得るよう努力しよう」。クレマンソーは、最後に、「大砲は国家に帰属する」と、再度、断言した。「国民軍中央委」の大勢は、調停派の口車に乗って、妥協の方向に傾きかけた。これが、クレマンソーの妥協案であった。彼らにおいては、正規の権力の復権が要求され、叛徒との交渉の不可能性があらためて説明された。そのため、クレマンソー、パリ選出議員ルイ・ブランとトレン、それにシェルシュール、ティラール等が、調停のため奔走することになった。

別の区長のヴェルランらは、これにたいして、この運動を単なるレッテルの張り替えに終わらせることなく、次のように主張した。「われわれは選挙された市会を求めているのではなく、真実の市政の自治、警視庁の廃止、国民軍隊長の選挙制と国民軍の再編成の権利、合法政府としての共和制宣言、満期手形の無条件支払い延期、支払い期限にたいする公正な法律の制定、パリの管轄区域への正規軍の入城禁止を要求する」。この「国民軍中央委」のよろめきを立ち直らせたのは、「20区代表団」と各区監視委及び全面的に活動を再開したクラブに集まった大衆勢力の力強い介入であった。「20区代表団」と監視委の中からは、「国民軍中央委」の弱腰にたいする不満が高まっていた。

たとえば、第一区監視委のプランキ派のナピア・ピケは、「『国民軍中央委』は、直ちに革命的手段に訴え、『20区代表団』のメンバーを加え、公安委員会に転化せよ」との強硬意見が上がった。こうした中で、3月20日夜、コルドリーで開かれた「20区代表団」と各区監視委の合同会議では、ブランキ派が多く出席し、議論が沸騰した。「国民軍中央委」の無気力と、区長らの欺瞞工作に乗っているだらしなさを痛烈に批判した。会議に出席した数名の「国民軍中央委」のメンバーは、交渉を打ち切るべきではないと主張したが、ブランキ派の強硬論が、大勢を制し、「状況のもたらす結果に責任がある『国民軍中央委』は、市民的権力も軍事的権力も放棄することはできない」との結論に達した。この決議をつきつけられた「国民軍中央委」は、ヴェルラン、ジュールド、モローらが与えた言葉を取り消し、改めてコミューン選挙を、予定どおり3月22日に実施する旨、区長らに通告した。

ここでの議論は、合法的自治体政府成立までの暫定権力なのか、それとも、ブルジョア国家権力にとって代わるべき、事実上のフランス共和国政府なのかという選択の問題であったはずだ。それが「国民軍中央委」のとった態度をみると、矛盾したものに見えた。その問題が、区長の介入により、現状維持か前進するかの選択にすりかわってしまったのだ。

しかし、この答えは、区長たちには、正確な識別できたとは思えない。つまり、両方とも正解なのだ。なぜなら、この区別は、コミューンと政治革命との相違の問題にほかならないからである。

この相違は第一には、対象の概念の違い(広いか狭いか)の問題である。だから、ある特定の市長村を対象とすればコミューン、政治的国家それ自体を対象にすれば政治革命といえるのだ。そして第二は、コミューンは社会的な基盤を元に、権力と敵対関係になる場合のことであり、その範囲では「政治革命」は関与しない。だが、「政治革命」は、社会的な基盤のあるなしに関わりなく機会さえあれば、いつでも、どこでもできるものなのだ。たとえば、クーデタでも「政治革命」といってもかまわない側面がある。したがって、コミューンは、社会的な個別課題の問題から地域が拡大し、地域住民の権力をとった場合に限定されるといえる。それにひきかえ、「政治革命」は政治的国家を争奪し、変革するわけだから、特定の地域の問題だけで、そういう国家権力の転覆がおきるはずがない。ところが、パリ・コミューンの場合は、パリという首都で発生したため、両者の特徴をあわせもち、矛盾がでてきたのである。

パリ・コミューンは、一方では、国民軍や労働者の改革から、政治的な方向に上昇していった経緯があり、社会闘争でもあり、また、他方、政治権力の首班が逃亡し、政治空間が空白になってしまった例であるから、それにたいして、政治権力を国民(国民軍)が掌握しようとすれば、やはり、「政治革命」でもあるといえる。こういうパリ・コミューンの権力の二重性があるからこそ、「政治革命」のテーマとしてみるなら、国民軍を動員して市庁舎を占拠し、せっかく手中におさめた権力を、コミューンに権力を手渡す必要もないといえるのである。

また、逆に、コミューンを保持したまま、市会選挙を行って、実際にそうなったように、「政治権力」として認めてもかまわないのである。したがって、「政治権力」の空白期間の権力の奪取と、前機構の廃絶との問題は、革命の問題としては、それほどの違いはない。つまり、「政治革命」としてなら、手段は二通りあった。「政治権力」の直接的な奪取と、「コミューン権力」への譲渡である。だが、コミューンは当初から「政治権力」の名前に気をとられて、「政治革命」と「社会革命」の区別と連関の問題すらイメージできていなかっただけのことである。

ただし、「政治権力」として「政治的国家」の奪取は、いわば、意志として政治革命をめざした目的論的な発想が必要であるが、コミューンの場合、社会的な問題を解決する手段として利用するという差異があった。ところが、「国民軍中央委」の意識レベルからすると、パリ・コミューンの反乱を中心になって推進した人々でも、おそらく、そのコミューンと「政治革命」の交叉が整理できなかった。しかし、無意識のうちでは、コミューンは社会的なものと社会を、政治の上位におき、政治的意味を低下させ、「政治権力」の形式と意味を根本的に組み替えた。それは、「20区代表団」の「社会革命」的な志向性に集約的に現れていた。

だから、傍から見て、マルクスをやきもきさせたのだろう。しかも、「国民軍中央委」が次第に革命的になっていくのは、各政治組織と労働者階級とがコンドリエ街に、共通の場をもって、地域的にも理論的にも結合していく経緯をみるなら、なおさらである。この「政治革命」とコミューンの関係に関して、「政治革命」と「社会革命」の区別は、マルクスの主要な概念であり、現実の体験と突合しようとすれば、微妙な行動意識の差につながってくる。今度のパリの問題がそれに含まれている。滝村隆一はパリ・コミューンについて次のように述べている。

 

《パリ・コミューンに即して提起されたマルクスの<コミューン>論が、<政治革命>論としてではなく、あくまで<社会革命>論として展開されたという一点にある。したがって、-よくここにはマルクスの<プロレタリア独裁>論が最も体系的な形で提示されているといわれるが-ここで展開された<プロ独>論も、あくまで<死滅>論としてであって、決して<形成>論としてではないということを意味している。》

                          『革命とコミューン』 滝村隆一著 

 

このように、滝村は述べた上で、パリ・コミューンの意義は、狭い地域で部分的ではあ

るものの、共産主義的な社会組織の改革を実験的に行なわれたことに意味があり、片面では政治的に革命をおこすような可能性は準備されていなかったという。なぜなら、下からの大衆の自然発生的な蜂起という性格からいって、「社会革命主体」としては、あらわれるが、政治的に「政治革命」主体としての志向性や目的意識性、トータルな戦略プランを獲得していなかったからである。しかし、これは滝村にとっては、「政治」と聞くと、「政治革命主体」と直してはいるものの、目的論的な思考を持った「党」が介在するということであり、そういう無意識の予断が支配しているからである。もちろん、パリにも、保守からインター派までそろっていた。

従って、「政治革命」としてのパリ・コミューンというものはなかった、というのは、滝村が、パリ・コミューンをアナルコ・サンジカリズムとみなす明らかな誤解である。なぜなら、マルクスは、保守政府の首班ティエールが1871年3月18日に、パリからヴェルサイユへ逃走したとき、政治的にも、軍事的にも追走し、息の根をとめなかったことを、コミューンの決定的な誤りとして批判しているのである。ティエールは少なくとも「フランス共和国行政長官」であり、内閣の首班であった。ティエールが逃亡して、民衆が「社会革命」主体になりそこねたということはない。

だからこそ、あとあと、コミューンのパリとヴェルサイユ政府が二重権力状態になり、内乱が勃発したのである。しかも、コミューンをつくるに当たっては、従来の立法機関中心のシステムではなく、旧来の政府に対抗できる新たな特別委員会を作ると同時に、常備軍の廃止、官吏のリコール権などの、政治的システムをつくることができたのである。これこそが、マルクスが《労働者階級は単にでき合いの国家機関を掌握して、それを自分自身のために使用することができない。》と述べた「政治革命」主体の意味なのである。

しかも、「社会革命」主体として滝村が上げているのは、言論、出版、集会の自由、正規軍の軍法会議の廃止、政治犯の全面大赦と釈放が宣言され、公認質屋に寄託された抵当物品の売却停止、手形の支払い期限の1か月延長、新しい措置がとられるまで家主が借家人を追い出すことの禁止、などの措置がとられたり、混乱した郵便、通信、入市税、租税などの行政業務の再建も急速に進められ、パリの治安は完全に維持されている。この程度の労働・社会政策をいくら並べても、「社会革命」に至らないのは自明であり、気のきいたブルジョア政府ならどこでもやっている、まして、ヴェルサイユ政府だって、もちろんやっていることだ。

パリ・コミューンの権力構造の複雑さは、「政治革命」の特殊な二重構造に原因があった。事実として、パリ・コミューンは「政治革命」であった。いいかえれば、国家形態をめぐる争闘であることにはまちがいなかった。しかし、その発生の仕方が、ティエールの政治的逃亡によって、予想外の政治の空白期間を生じたため、政治権力の直接的な奪取を選ぶべきであったか、コミューンにたいして権力を譲渡する方法をとるかの方法で戸惑い、それに即応することができず、やむを得ずというよりも、民衆が選んだコミューンの形態の権力形態をとろうとしたのだ。

しかも、この「革命的コミューン」の案が、「20区中央委」などで、1870年9月頃に提出されているのにもかかわらず、「国民軍中央委」が実際に出発したのは、翌年3月初めのことだった。そして、正式発足したのが1871年の3月28日であった。コミューンの敗北が、1871年5月28日のことを考えると、あまりにも対応が遅すぎた。ヴェルサイユ側に、政治的にも軍事的にも立ち直りの機会を与えてしまったのである。いわば、短命のこのコミューンのなかで、滝村にとって本格的に「社会革命」を志向したと見えたのは、いわばドイツ軍との二重包囲のなかで「戦時体制」がはじまったということであり、共産主義や社会主義とは全く関係がない。

 パリは解放された、これから、ヴェルサイユとの力比べが始まった。パリは自ら統治し、直接管轄の理論をできる限り実現することができた。解放コミューンと名づけるのがふさわしい街になった。「国民軍中央委」が次々と公布した文書には、1789年の革命的伝統が開花した解放のユートピアが息づいていた。

政府が時間かせぎのために譲歩のふりをし、解放の夢に酔っている「国民軍中央委」が、市権力の意味を曖昧なままやりすごしたことが、一時的にせよ、区長たちとの調停工作の余地を与えてしまったのだ。調停工作は3月19日から25日まで断続的に続けられた。

 これにたいする「国民軍中央委」の意見はこうである。「議会はわれわれの上に恥ずべき将軍をおき、パリを非都市化し、その商業を破滅させようとし…われわれの親しい議員、ガリヴァルディ、ユゴー等を揶揄した。議会への委任はすべて終わった。フランスについては、われわれは国家にたいして法を課するつもりはない。重要なのは、われわれに委任されたものの中で、何が最も正当なものかを知ることである。革命が行われたが、しかしわれわれは簒奪者ではない。われわれはパリに、自らの代表を指名するよう訴えているのである。われわれを助けて選挙の実施に協力してほしい。われわれはあなた方の協力を喜んで受け入れる」。

 両者の意見はしばらく平行線を辿った。ヴェルサイユ議会も、また、態度を硬化させた。こうしたなか、選挙は3月22日の予定が延期されて26日となった。区長らは依然として調停工作を諦めず、辛うじて区長たちとの和解を得た「国民軍中央委」は、もとよりヴェルサイユの意に反してだが、選挙の指導権を握った。これは、クレマンソーなど、パリ選出議員、区長、区助役の三分の一がこれに同意したからである。この区長らの降伏が、コミューン選挙に半合法性を与えた。もちろん調停の難航は、共和主義に反感をもつ議会のかたくなな態度によるものであるが、「国民軍中央委」の側にも、議会は不完全であり、自由な人民主権を完全に代表していないとの強硬意見が支配的になり、一時、工作の余地をなくしたのである。

3月25日、「国民軍中央委」はパリの選挙民にあてて、選挙を公示する宣言を発した。宣言には、労働者の直接民主制政府への指向がはっきりよみとれる。「誠実な確信をもった人々、断固たる、行動的な、公正な感覚と周知の正直さを備えた民衆の人々を探し求めるように。諸君の票を漁りもとめたりすることのない人々に諸君の選択を向けるように。真の価値は慎み深いものである。選挙民がその代表者を知らねばならないのであって、後者が出しゃばる筋のものではない。われわれの確信によれば、諸君がこうした見方を考慮に入れるならば、諸君は最後には真の人民の代表をつくり出すであろうし、決して自らを諸君の主人と考えたりすることのない代議人を見出すだろう」。

1871年3月26日、ついにコンミューンの選挙日がやってきた。「20区代表団」は、もとの「20区中央委」にもどったが、彼らはよみがえっていた。3月18日には何もできなかったが、ヴェルサイユとの厳しい対決が予想される今、その役割は、一層、大きくなった。「20区中央委」は、あいついでパリの選挙民あて三つの宣言を発した。その三番目の宣言には、のちのコミューンの綱領のほとんど全部が含まれている。コミューン連合の一般原則として、個人の不可侵性、普通選挙の至上性、強制委任による官吏・裁判官の選挙権とリコール権、パリに関する原則として、行政区画の再編成、国民軍の自治、常備軍と警視庁の廃止、財政組織の改革、政府補助金制度の廃止、教育の世俗化、社会保険制度、生産者による生産手段の所有など、次のようなマルクスの原則も盛り込まれている。

 

《旧統治権力の中心であり、同時に、フランス労働者階級の社会的城砦であるパリは、帝政から自分らに残されたこの旧統治能力を回復し、かつこれを永遠化しようとするティエール及び田舎地主の企画に対して、武装してたったのだ。パリのよく抗し得たのは、ただ、攻囲の結果としてパリが軍隊を追っ払って、それに代えるに、その大部分が労働者からなる国民軍を以てしたが故である。この事実は、いまや、一の制度に転化されるべきであった。故に、コミューンの第一の布告は、常備軍の廃止と、武装人民によるその代替とであった。》            『フランスの内乱』 マルクス著 木下半冶訳

 

 マルクスによると、旧政府の物理力的要素たる常備軍および官僚制度をひとたび駆逐してから、コミューンは、財団としての教会全部の解散と寄進財産没収とによって、精神的抑圧力(坊主権力)を破壊した。教育施設の全部は、人民に無料で公開され、それと同時に、教会および国家の一切の干渉を取り除かれた。司法官たちは、彼らが忠臣の誓いをたてたり破ったりしていた一切の歴代政府にたいする卑屈なご用振りを覆うのに役立つにすぎなかった、あの虚偽の独立を剥奪された。その他の公僕と同様に、法官、判事も選挙され、責任を負い、解任されえるものでなければならなかった。また、マルクスによれば、パリのほか地方においても自治体が成立すべきであり、それは、パリのコミューンと連動して機構においてコミューン憲法において組織化されるべきであり、しかも、古い国家権力の破壊によって、コミューンに組織された人民に役立つべき機構に変えるべきであった。こういうわけで、近代的国家権力を破壊するこの新しいコミューンは、中世期のフランス都市組織のカリカチュア、地方自治体の再生とは取り違えてはならないものだったのである。マルクスには、復古主義も連合主義の影もなかった。

「20区中央委」と並行して、パリのインターナショナル支部連合も、23日労働者組合連合会議と共同で、次の『選挙宣言』を発した。「今や権威の原理は、巷に秩序を再建し、職場に労働を復活するうえで無力である。そしてこの無力は、権威の否定を意味する。利害の不一致が全般的な破滅を引き起し、社会戦争をもたらした。自由・平等・団結によって新しい基礎の上に秩序を確立すること、その第一の条件である労働を再組織することを要求しなければならない。労働者諸君。コミューンの革命はこれらの原理を確認し、未来における葛藤のすべての原因を取り除くものである。諸君はこの革命に、諸君の決定的な承認を与えるのをためらうであろうか。コミューンの独立は、その自由に討議された条項によって階級対立を終焉させ、社会的平等が確保されるような契約の担保である。われわれは労働者の解放を要求しており、コミューン代表制はその保証である。なぜなら、それは各市民に自らの権利を守り、市民の利害を管理する任務を持つ委任者の行為を、有効に統制し、社会改革の漸進的適用を決定する手段を提供するからである。各コミューンの自治は、その要求から抑圧的性格をすべてはぎとり、共和制をその最高の表現において確認する。労働者諸君。われわれは闘ってきた。われわれは、われわれの平等主義の原理のために耐え忍ぶことを学んだ。われわれは社会機構の最初の礎石を置くのに力を貸すことができる時に、後退するわけにはゆかぬ。われわれは何を要求しているか。労働者にその労働の全価値を確保するために、信用と交換と結社の組織。無償の世俗化された全面教育。集会と結社の権利、出版の絶対的自由と市民の自由。警察、軍隊、衛生、統計などの業務の都市自治体の見地からの組織…」。

『人民の友』に掲載された全区の候補者リストは、「20区中央委」の名で公表された。また、インター派も、3月23日になってはじめて、宣言を採択した。「労働者にその労働の全価値を確保させるための信用、交換、結社の組織化」といった社会的内容を盛り込むのとならんで、自治権を自律的な大衆運動の主張として明示した。こうして彼らは選挙をリードした。

選挙区の変更はなく、90名の市議会議員を選ぶことになっていた。2万人に1人、1万人増すごとに1人の割合である。485,569人の有権者の中で投票したのは、229,167人であった。棄権が70%に達した。ちなみに当時のパリの人口は、約200万人である。もっともこの数字には首都を去った人の数を把握していないので、その数が多い場合8万人を数えるという統計もある。下町の10、11、13、18、19、20区の投票数は、中央委員会の圧力が加えられたわけでもないのに、大量の投票が行われた。中心街の4区では、20区中央委と国民軍の11の大隊が作成した共同候補者名簿が、ブルジョア候補にたいして大勝した。7、8は低調だった。ポスターや民衆の集会などを通じた宣伝が影響を与えた。文書や、声明への議論によって、候補者の選択が容易になって、投票率を高めたのである。投票は朝の8時から夕方6時まで行われた。

 この大衆革命を遂行した無名戦士をコミューン派とよべば、大部分が労働者であるが、伝統的タイプの職人が多かった。親方や小店主など、小ブルジョアにたいして連帯感をもっていた。コミューン鎮圧後の軍事法廷の被告約3万6千人の職業を見ると、労働者が約70%以上を占め、小商人が約13%、自由業が約5%となっていた。

この労働者のなかには、親方層もかなり含まれていたことになる。第3区の国民軍約80名を例にとると、労働者60名、商人7名、事務員7名であり、労働者の内訳は44名が賃金労働者、14名が親方や企業家、2名が職工長となる。その職種は、宝石細工、時計製造、版画など、ほとんど伝統的な部門に属している。

次に、パリ・コミューンの評議員の職業別、出身階層別構成からみるとどうなるか。

80余名の議員中、労働者ないしは労働者出身議員は約25名を占めているが、近代的労働者は皆無であり、全部がヴェルラン、マロンのような職人的手工業労働者であった。そのうちの多くは、インターナショナルと労働者組合連合会議の活動的メンバーであった。次に、労働者議員とティラールのような、辞任したブルジョア議員を除けば、残りの議員の大部分は、学者、ジャーナリスト、弁護士、文士、芸術家、学校教師などからなる知識分子であり、プチ・ブルジョア的な色彩が濃厚である。大革命への追憶を捨てきれず、社会革命よりも政治革命を優先する傾向も、彼らに共通する特徴である。しかし、ネオ・ジャコバン派といえども、社会改革と「民主的・社会的共和国」を追い求めていたのであり、すべての社会主義を否定するわけではない。

このような数字をみる限り、コミューン派は、フランス革命期のサン・キュロットに比べても近代的賃金労働者(プロレタリアート)の割合が少なく、まだ、伝統的な手工業的世界から完全にぬけだしていない。いいかえると、コミューンの大衆運動は、資本と賃労働との対立をめぐって展開する労働運動よりも、もっと幅の広い基盤をもっていたといえる。当選者の顔ぶれを見ると、次のとおりである。「国民軍中央委」のメンバーは12名が当選した。「20区中央委」の推薦候補は約半分が当選した。

 

 

国民軍中央委       12名

  ブランキ派       15~16名

  インター        15~16名

 ブルジョア急進派・穏健派 20名

 

           

全体としてみれば、ブランキ派を含め、大革命時の革命独裁の伝統に憧れる過激共和派が多数を占めている。彼らは、コミューンの理想をもっていたわけではない。また、投票しなかった人々のことをどう解釈するか、この数字が不気味な数字であることには間違いなかった。ブルジョアが、この選挙の中心的存在であったことは事実である。いくつもの団体があり、これらが妥協派とよばれ、ヴェルサイユにもコミューン側にも関係を持った。分権主義を目指す彼らは、コミューンの政治的プログラムにも、十分対応できない理由をもっていた。

さらに重要なのは、クラブであった。選挙の結果は、地域別では、東部、北部、南部で圧倒的に革命派が当選し、中央部、西部では、区長系の共和派が選出された。定員は90名だが、重複当選者を除くと85名となり、このうち3月17日に逮捕されていたブランキは活動できなかった。さらに20名の区長系の共和派が辞任した。残る64名のコミューン議員の職業は、労働者25名、他はジャーナリスト、医師、法律家など小ブルジョア知識人である。

64名の内訳は、明白な党派を主張するわけではないので、正確には不可能ではあるが、ブランキ派は9名、インター派は17名、これに近い社会主義者が17名、ネオ・ジャコバン派は4名、それ以外は社会主義者とか、ときにはネオ・ジャコバン派とみなされるヴァレス、ヴェルモレルなどの独立革命家であった。なお、欠員については、4月16日に補欠選挙があり、17名が加わった。ここに成立したコンミューンは、正確にはコミューン評議会のことで、市議会をさす。コミューンつまり自治体は、ふつう、立法府の「評議会」のほか行政府の市長、区長を、もつものだが、このコミューン議員は分担して区行政を担当し、さらに、市行政はもちろん、政府機能をも行った。したがって、パリ・コミューンは、議会であると同時に集合的な政府を意味した。

 1871年3月28日、パリ・コミューンが宣言された。人民の祝祭という雰囲気のなかで、祝砲のとどろきと、無数の赤旗がはためき、約2万人の国民軍と一般市民が集まる市庁舎前の広場で、市庁舎入口には金色の総飾りの赤旗と、花で飾られた演壇がそなえつけてあった。赤い飾り帯をかけた「国民軍中央委」と、当選したコミューン評議員が、市庁舎の正面にしつらえられた演壇に姿を現したとき、万雷の拍手がおこった。

当選者の名前が呼び上げられ、「国民軍中央委」メンバーで、議員にも選ばれたランヴィエが「人民の名においてコミューンが宣言された」と叫ぶと、群衆から「共和国万歳!コミューン万歳!」の歓声が沸きおこった。そのあと、演説、軍楽、人民の歌(ラ・マルセイエーズ、出陣の歌)と続き、ブリュネルの指揮する国民軍の分列行進が続いた。

そして、プルードン主義者の老ベスレーが、落ち着いた演説を行った。パリ市民の運動は、パリにたいしてつねに拒否されてきたフランスの自治都市としての正常な体制を確保するための一手段として、自らを正当化することができたのであるが、今や、それは、ゆっとりとではあるが、ともかく、決然として、全面的な政治革命が行われようとしている。

コミューン議員に選ばれたインター派のフランケルは、マルクスの助言を求めた手紙を、3月30日付で、次のように書いている。「もし、われわれが階級関係へ急激な変更をもたらすことができれば、3月18日の革命は、かつて歴史が記録したすべての革命のなかで、最も実り豊かなものとなるでしょう。それは将来おこりうる革命にとって、あらゆる原因を除去することになるでしょう。というのは、もはや、なすべき社会的要求がなくなるからです」。また、3月30日付の『人民の叫び』の論説は、象徴的に『祭り』と題されている。この日、「国民軍中央委」は、暫定政府として最後の声明を出した。コミューンの宣言が発せられるや否や、コミューンは一つの政治権力として行動する。

H・ルフェーヴルは、この「祭り」こそが、パリ・コミューンの基本的スタイルを決定したと強調している。

 

《コミューンとは何か。それはこの世紀と現代における最大の祭りであった。最も冷静な分析でさえ、蜂起した人々が単に政治的決定に関することにとどまらず、日常性の次元においても、自分たちの生活と歴史の主人公になろうとする感動と意欲をもったことをそこに見出す。》 『パリ・コミューン』 H・ルフェーヴル著 河野健二・柴田朝子訳

                           

コミューンは、日常生活を永遠の「祝祭」に変貌させる。人々はみずからの生活と歴史との主人公になろうとする感動と意欲を持って、コミューンの日々を生き、それゆえに、その最後の捲祭のなかで死ぬことを願う。しかも、それは一挙に、共同体に、宗教共同体に転換し、そこでは労働、快楽、余暇、さまざまの欲求の充足が、もはや切り離せなくなるようなものだ。では、なぜ、この「祝祭」が、産業革命後の都市化のすすむフランスでコミューンとして突如として噴出したのか。

ルフェーヴルによると、それは「貧乏人の美しさ」の特権であった。組織化された余暇をもたない時期において、「祝祭」は世間への労働生活の華麗な開放であった。彼らの共同性はブルジョアのみみっちい道徳や倫理を乗り越えている。つまり、これが民衆の共同性なのだ。これは、彼らの生活、所有、階級関係を覆い隠す。ルフェーヴルは、その秘密を暴こうとする。《このイメージは、科学的にいえば、社会的現実の不十分な表象しか含んでいない。社会についての真実というよりも、社会学的事実であるこのイメージは、生産、所有、階級関係を覆い隠しながらも《反映》、あるいは屈折する》。

だから、彼らはイデオロギーの区別によって、コミューンを実践しているのではない。もっとも理論的自覚において実践することはないだろう。彼は、具象化の傍らで、生活者の固有のやり方で生きるとルフェーヴルはいう。そして、民衆が確かにうけとったかに見えたマルクス主義、プルードン主義、フランキズム、コミューン主義などのイデオロギーは、それだけでは、生活の根っこに触れることもないし、実践の爆発力に引火しない。片一方に生活者がおり、もう一方の岸辺に実践者がいるだけだ。そこにはそれをつなぐ媒介物がいる。でなければ爆発しない。

ルフェーヴルによると、《現実と理論の、また社会的事実と解釈とのあいだの媒介もしくは調停という概念を受け入れなければならなかった。こうした調停は言語や議論や意味づけの水準に位置するものだが、しかし有効であり、実践と不可分のものであり、社会学に由来するものである。》その媒介こそイデオロギーと実践を結びつけるものである。それは「歴史の要因としての歴史意識」であるという。

たとえば、実態的なものではないが、パリのイメージが累積されたものとして存在するなら、たとえばパリの街並の風景そのものであり、愛国心という神話なのだ。だが、まて。これは、ブルジョアとプロレタリアートの生活の差異に根ざした概念なのではないか。そうではない。言葉の中の仮想のプロレタリアート以外、ここにはいないはずだ。

にもかかわらず、ルフェーヴルにとって、マルクス主義は手放すことのできない方法である。「階級」、「矛盾」そして「階級闘争」、ルフェーヴルは、それを「素朴な階級意識」と呼ぶ。その階級意識が、機敏で、かくも生き生きとし、かくも複雑で、かくも感動性に満ちているとしよう。そこに「祝祭」の起源があった。ルフェーヴルは、大衆の生活をえぐるように「視ようとする」その限りにおいて、貧困そのものから直接的に、大衆の実践を見るような先見的なプロレタリア像から、まぬがれている。にもかかわらず、ルフェーヴルの吐く言葉には、民衆の生活をその表層でとらえてしまう。

だが、そこに不定形な媒介物をイデオロギーに結びつけ、コミューンの実践を見出すことによって、マルクス主義者であることをやめてしまった。だからこそ、ルフェーヴルは、次のようなことをついつい、いってしまうのである。《この意味でコミューンは、自由の抽象的な理想ではなく、自由の具体的な理念として理解された革命の理念それ自体と合致する。この理念は、歴史の方向、あるいはむしろ、真の歴史と真実の歴史へと向かうかぎりでの、人間の前史の方向を内包する。》真実と真実でないのを決めるのは何か。だが、ルフェーヴルは、ここでは、ただの理想主義者に変わってしまっているのだ。

ブルジョア社会の進展によって、やがて、貧困な長屋の生活も、こぎれいな小住宅に変わるだろう。道や建物はやがてアスファルトとコンクリートで埋まってしまうだろう。その時、「祝祭」は残っているだろうか。わたし(たち)なら、パリ・コンミューンに関してルフェーヴルとは、90度違った角度の見方をするだろう。

つまり、パリ・コミューンとは、民衆の貧困や敗北が、相対化されブルジョア化との「差異」が極点の達したところで起こしたものとみる。もし、ブルジョア社会が、より高度化していれば、起こらなかったであろうし、封建的な生産関係が残っているところでも起こらなかったにちがいない。コミューンに参加した人間の渦が、「準」又は「半」プロレタリアートだったからこそ、都市と農村の対立、街と町の矛盾が交錯したところで、叛乱は起こった。だから、マルクスの図式化にのっとった同じ階級闘争といっても、質の違いがあったのだ。つまり、プロレタリアートの自己意識上の亀裂が起爆剤になっているのである。コミューンの中で過ごしたわずかばかりの時間も含め、「祝祭」とは、時間性の齟齬の代名詞であった。

新しい市会が、コミューンの名称を採用したのは、3月28日、「人民の祭典」の日であった。叛乱から誕生したとはいえ、この市会は革命的機関であったとはいえないが、しかし、国民議会の眼には、ほとんどのフランス人の眼には、合法的機関とも映らない。

コミューンとは何か。この言葉は、住民にとっては救いを予測させるが、権力の側には絶えず謀反の危険性を結びつけて考えられる。特に、パリ・コミューンの場合には、既存の国民議会との対立の中で成立したので、はじめから「革命的」コミューンとみなされたのは当然である。

コミューン内部でも、このパリ・コミューンについて、さまざまな議論があった。第一は、コミューンが市政の独立、自由の表現という考えで、政府や議会による介入を拒んで自治性を確保する点で、それはいわば、パリ・ブルジョアの長年の夢の実現である。第二は、コミューンを1792年、1793年の革命的独裁の継続としてとらえる理解であり、これはブランキストやネオ・ジャコバン派が抱いていたコミューンの理想像である。そして、第三は、インターナショナルの連邦主義者たちの考えで、コミューンを、現在の労働者階級の渇望に応じる新しい社会秩序の基盤として意味づけたものである。コミューンの時代、パリと市庁舎には、少なくともこうした三つの解釈が共存していたことになる。

 緊迫した氾濫の情勢の中、パリ・コミューンは、どのような実体だったのだろうか。人は、マルクスの『フランスにおける内乱』をもって、その実体を信じようとする。「コミューン議員をはじめとして、公務は労働者なみの賃金ではたされなければならない」とマルクスは述べた。実際は、議員の得た1日15フランの日当は、労働者の平均賃金の3倍であった。また、マルクスは「他の公僕とおなじように、治安判事や裁判官も選挙され、責任を負い、解任できるものとならなければならなかった」と述べている。だが、実際は、選挙されたのは議員と国民軍士官だけであり、一般の官職や司法官には及んでいない。さらに、マルクスは「市政ばかりでなく、これまで国家が行使していた発議権のすべてが、コミューンの手中におかれた」と述べている。だが、現実のコミューンの権限は、それほど強くはなく、各区のクラブや監視委員会は、独自の決定を行い、「国民軍中央委」などは、自立性を主張してコミューンと張り合ってさえいる。マルクスにならっていえば、コミューン全体が、できたての荒削りな素朴さを持っていた、ということだ。

では、何が、大衆のコミューン議会にたいする要求なのか。政治面では常備軍の廃止、警視庁の刷新、官吏の責任体制、裁判の民主化、教育区の無償化・義務化・世俗化などであり、社会面では物価統制、食料徴発、累進課税、平等配給などである。これとならんで、生産手段の社会化や労働の組織化についての要求も、労働組合や個別的労働者からだされている。物価統制などは、フランス革命期のサン・キュロットが提出した要求とまったく同じである。しかし、これはパリ・コミューンがおかれた攻囲下の状況が、フランス革命期と酷似しているところから生じた要求である。

もし、コミューン派の社会的要求がこれだけに終わったら、1871年の大衆運動は、1793年から少しも進歩がないが、それとならんで、社会主義的要求が小出しにされていることが、80年間の変貌をわずかに象徴している。

しかし、それにもかかわらず、この時期の社会主義の問題は、大衆のあいだから自然発生的にでてきたというよりも、第一インターと関係をもつ労働者組織から提出されている。パリ・コミューンは、いかなる革命権力であったのか。バクーニンにはじまるアナーキスト系の解釈は、これを国家の否定にもとづく連合主義とみなし、エンゲルスは、「プロレタリアート独裁」とみなした。この二つの解釈は、コミューン議会内部の潮流すなわち、フランス革命期のジャコバン的革命独裁の系統をひくネオ・ジャコバン派、ブランキ派と、プルードンの連合論にかたむいているインター派のいずれが、優勢であったかを判断する材料になる。しかし、重要なことは、このような既存の政治的グループの理論の優劣や上下関係ではない。諸グループにとって、パリ・コミューンは新しい現実であり、この大衆革命の坩堝のなかに既存理論は、すべて溶解したとみなさなければならない。この新しい現実の動きのなかで、いかなる新しい経験として、このあとコミューンが何を残したかという点を問わなければならないのだ。

 

《コミューンにくだされた解釈の多種多様なことと、コミューンを我田引水的に解釈した利害関係の多種多様なこととは、コミューンが徹底的に発展的な政治形態であったのに、それ以前のあらゆる政治形態が甚だしく抑圧的なものであったということを示している。コミューンの真諦は、これであったのだ。コミューンは本質的に労働者階級の政府であり、所有階級に対する生産階級の闘争の所産であり、そのもとで労働の経済的開放を達成し得べき、ついに発見された政治形態であったのだ。》

                     『フランスの内乱』 マルクス著 木下半冶訳

 

これまでのコミューン観念の変遷を見てみると、1870年9月の国防政府下に、民衆

のあいだに高まってきたコミューン要求の動きは、みずからの運命がふりかかるパリの防衛の責任を、政府の手から、みずからの手へ移そうとする願望の表現だった。だが、コミューンと政治権力の区別と方法についての認識が、住民大衆に十分行き届いていなかったのは明白だった。しかも、コミューンの問題が、「20区中央委」によって発案されたのが、9月にもかかわらず、実際に実現したのは翌年の3月末であった。プロイセンとヴェルサイユとの二重攻囲のなか、講和を急ぐ意味からいっても、取り組みがあまりに遅すぎた。しかも、この都市自治権の要求であると同時に、既存政府を乗り越えようとする政治的意志の大衆運動に、インター派、ブランキ派、ネオ・ジャコバン派は、それぞれの仕方で定式をあたえようとしたが、「10月31日事件」は、活動家集団のコミューン論と民衆のコミューン論のイメージとの乖離を露わにした。それにつづく、民衆運動の沈滞期に、活動家集団のなかでは、合法的選挙によらない蜂起のコミューン、つまり、「革命的コミューン」論が優勢となる。

しかし、休戦後からの民衆運動の再燃は「3月18日」によって「半合法的」選挙によるコミューン成立を実現させたのである。自由帝政の危険な行動によって、集団活動によび返されたパリの人々は、9月4日の革命を行い、籠城のあいだに二度の革命的運動を企て、国民議会の選挙戦に参加し、3月18日の不手際に指導された叛乱にさいして、「国民軍中央委員会」を中心に従ってきた。

こうした一連の経験が、パリの人々の政治思想を豊かにならしめたのであり、3月18日に発足する体制が、そこから要求をさらに拡充し、明確化するにいたったことは自明であった。ヴィノワ将軍と警視総監クレソンの強迫的態度は、パリの住民のこうした議論と集団的願望への傾向を活発ならしめただけであり、新しい典型的な事例にたいして、革命的伝統主義に属する遠い過去の先例を引き合いにだすことができた。いずれにせよ、コミューンの観念そのものは、籠城下の集会のなかで、だれが言い出すともなく、おぼろげにつくり上げられ次第に形を与えられたのだ。

確実に分かることは、3月18日の叛乱が、1月22日の失敗も、ボルドー議会の選出のための選挙戦も、必然性も加担して、これを打ち砕いたり、他にそらしたりできなかった久しい間の努力の結果として生まれたものだということである。だから、医学院のクラブは、1871年2月19日、「むだな議論はもうたくさんだ。お歴々はもうたくさんだ。偉大な、着実な行動以外のなにものもいらない。労働者の解放、それがわれわれの目的である」ことを明らかにした要望を採択したのである。パリにはすべて真実があり、ヴェルサイユにはすべての虚言があった。そして、その虚言は、ティエールの口を通じて吐かれていたのである。

このようにして成立したパリ・コミューンをいかに定式化するかが、コミューン議会に課せられた新しい課題であった。「パリの望む政治的統一とは、すべての地域的創意の自主的結合、共同の財産、万人の福祉、自由、安全を目的とする個人のエネルギーの自発的で自由な協力である。パリの市民であるわれわれについては、われわれは、これまでの歴史を照らしたすべての革命の中も、最も広汎な、最も稔り豊かな近代革命を達成する使命を持っている」。

しかし、コミューン宣言のお祭り気分の陶酔がさめやらぬ間にも、ヴェルサイユでは着々と内乱再開の準備が進められ、リオン、マルセーヌをはじめ、地方都市のコミューン運動は、相次いで圧殺されつつあった。希望にはずむ民衆の胸のように、若芽のふくらみだした木々の梢の合間には、すでに血なまぐさい冷風が、無気味に漂い始めていたのである。

 

7 コミューンの中で

 

 コミューンは、自由な連合体制内の自立的都市共同体という立場に固執したが、いくつかの画期的政策を掲げ、ブルジョア国家とは異質の、次のような新しい人民国家の原型を示した。同時に、各省を差し押さえた。

@    ブルジョア的三権分立の原則を否定して、コミューンは議会ふうの機関ではなく、同時に立法を執行する。直接民主制的行動する機関となる。

A    安上がりの政府の構想のもとに、司法官を含めすべての吏員は徹底的なリコール制でいつでも解任でき、直接人民に責任を負う代表制に服し、官吏の政治的・職業的宣誓の義務は廃止される。

B    官吏の俸給は、労働者の最高賃金水準を超えない。コミューンの吏員ならびに議員の最高俸給は6,000フラン(4,800マルク)を超えてはならないと決定された(4月2日)。ただし、盗賊を働いた官吏は軍法会議にかけられ唯一の刑は死刑。

C    官吏の兼職による手当ての二重取りが禁止された(5月19日)。

D    徴兵制と常備軍は廃止されて、コミューンの国民軍をもって唯一の武装勢力とし、市の治安と防衛に当たる(3月29日)。

E    表現・結社・集会の自由など基本的人権と市民的自由を保障する。

F    正規軍の軍法会議の廃止。

G    政治犯の全面大赦と釈放。

H    政教分離および宗教的目的のために、教会はこれを国家から分離する。また、宗教国費予算の廃止、ならびにあらゆる宗教財産の国有化が布告された。あらゆる宗教的象徴即ち肖像・教義・祈祷の学校からの駆逐(4月3日)。

I    ギロチンが引き出され、人民の大歓呼のうちに公然と焼きすてられた(4月6日)。

このほか労働者の生活改善のための、社会政策、公共政策や文教政策が実施された。

@    1870年10月、1871年1月及び4月期限の家賃を全面的に延期し、借家人が過去9か月間に支払った全金額を将来の支払いから控除した(3月30日)。

A    公認質屋に預けいれられた抵当物品の販売を禁止した(3月30日)。

B    労働者の私的搾取であり、また、その労働要具と信用とにたいする労働者の権利に矛盾する質屋の廃止(4月30日)。

C    コミューン選出の外国人たちがその職掌を認められた(3月31日)。

D    ヴェルサイユ軍の砲撃で家を失った人々のための空家の徴発(4月29日)。

E    満期手形の支払いを7月15日以後3か月毎に無利息で分割払いすることを認める(4月18日)。

F    経営者によって遺棄された工場施設の接収と、その労働者協同組合による管理・運営(4月16日)。

G    労働者にたいする罰金制と賃金カットの禁止(4月27日)。

H    パン焼き労働者の夜業の禁止(4月20日)。

I    労働者搾取者によって独占的に経営されていた職業紹介所を廃止(4月20日)。

J    労働者の同職組合と直接契約を結ぶ方針(5月12日)。

K    商店員出身のヴィアールを代表する「食料供給委員会」の設置による配給業務。

L    郵便配達業務を迅速に再建し、自主的管理評議会を設立した。

M    印刷所などの国営企業では労働者の自主的生産管理システムを採用。

N    婚姻、死亡、出生などの法文書の無料化。

O    国民軍戦死者遺族は、正式の婚姻関係によると否に問わず、寡婦には年600フラン、遺児には年365フランの年金支給(4月10日)。

P    カトリック修道会系の学校の接収と世俗的学校を増設(5月11日)。

Q    完全な無料義務教育と職業教育。

R    画家のクールベによる「パリ芸術家連合」を組織(4月12日)。

S    ルイ16世の処刑の贖罪として建てられた懺悔堂の破壊(5月5日)。

 

この中でも、特に人民主権、常備軍の廃止、官吏のリコール制などの実施は、現代社会、

政治的国家においても、最高のモデルである。誰が何をいおうと、パリ・コミューンの価値はここにこそある。このように3月28日以来、パリの運動の階級的性格が鋭く、はっきりと出てきた。その決定もプロレタリア的性質をもっていた。

3月29日、議会は、当初、9の特別委員会(財務、軍事、司法、食料、公共業務、労働・工業・交換、教育、保安、外交)を設置した。これは各省に当たるもので、大臣にかわって数人の議員の集団指導で行った。さらに、翌日には、議員は区長の立場になって、各自の選出区の行政責任者にもなるのである。もとの各省に委員会を対応させたということは、コミューンが市政という枠を超えて、その権限を全フランスまで拡大するという可能性、あるいは究極の目標として、それを切望する要素を含んでいることを示していた。

議員は、過重労働で押しつぶされそうになりながらも、随時、仕事をこなしていかなければならなかった。そういう状態のなかで、任務の責任を理解することができない議員も出てくる。だから、議会を欠席する議員もでてくる始末だった。コミューン議会の議事録がそれを証明している。討論の途中で、別の提案に移ったり、重大な議論が、結論にいたらず、断ち消えになるのは当たり前だった。

パリは内情を知らない人々には、すべてうまくいっているように見えた。会議の模様はすばやく速記されて、記録ノートによって知られたが、この会議も相次ぐにつれて、ひとつの暗雲が急速に姿を現わす。コミューンは、熱烈で真剣なイデオロギー的・感情的な議論の渦巻きだった。それは不統一で、しかも熱狂的な議会だった。いろいろな個性が、いろいろな方向を示しながら旋風をおこしていた。

職員は13名のインターナショナル派を含めて、労働者は25名であり、残りは小ブルジョア(事務員、会計係、医師、教員、政論家)であった。穏和派の辞任、重複当選、ヴェルサイユ軍によって処刑されたデュヴァルとフルーランスの死によって、補欠選挙が必要になり、それが2度延期されたのち、4月16日に行われた。コミューンのメンバーの多くは、フランス革命の流れを継承しているものと思い込んでいたし、また、継承しようと欲していた。だから「代表委員」とか「公安委員会」など、大革命当時の用語が踏襲されていた。こうしてきわめて自然に、しかもいろいろな状況にも手助けされて、コミューンの中心には、いやおうなく過激派の精神状態が形成された。そして、政略家、旧クラブ会員、進歩的ジャーナリストたちによって、ネオ・ジャコバン派のグループが形作られ、このグループは急速にその優位を確立した。

このような困難な条件のもとで、コミューンは統治を行ってきた。攻囲に伴う熱狂が、第二のパリ籠城のあいだに再燃し、悲劇的な反応を呼び起こした。ヴェルサイユ軍の包囲の輪が狭まり、当初の希望が薄れていくにつれ、提出される案件のなかに、一種の誇張が見られるようになった。施策の全体としては、たしかに特記するに足りるものはなかったものの、ひろがりつつある不安の中でも、良識、意志、理想、つまり人間性を保っている人々が少なからずいた。各省の事務局は、籠城と3月18日によって解体されていた。

また、より民主化を進め、帝政下の官僚制の復活を阻止するために、コミューンは二つの方法を用いた。まず、行政上のあらゆる地位、司法と教育のあらゆる地位に使われるすべての役人について、普通選挙による選出を行ったことである。また、公務員の最高の待遇を6千フラン以内におさえ、行政上の地位に対する報酬を、労働者の賃金と平等にした(4月2日)。これらのことは、目立たないけれど、コミューンの根本に関わる重大な改革であると各人が自覚していた。

インター派のジュールドが代表になって、財務委員内は業務をしていたのであるが、エンゲルスは、のちに「フランス銀行の差し押さえをなぜおこなわなかったのか」というもっともな非難をしている。パリ・コミューンの議員が国民軍を牛耳っていたブランキストとネオ・ジャコバン派と集産主義的インターナショナリストの第一インターなどに分岐した知的分散主義になっていたことを指摘したエンゲルスは、科学的社会主義から縁遠かった理由を示して、次のような経済的(政治的)失策を上げている。

 

《経済的な点で、われわれの今日の観念によればコミューンのせねばならなかった多くのことが等閑視されていたことが、理解される。人々が、フランス銀行の門前で恭しく立ち停まっていた時に示した、あの聖なる尊敬は、全く理解し難いところである。これは、また同時に一の重大な政治的過失でもあった。コミューンの掌中に握られたフランス銀行-これは一万の人質よりもヨリ多くの価値があったのである。これは、全フランス・ブルジョアジーがコミューンとの平和のために、ヴェルサイユ政府に圧迫を加えることを、意味した。》『ドイツ版「内乱」第三版に対するエンゲルスの序文』マルクス著 木下半冶訳

 

これも、実務経験の欠如が影響していたのかもしれない。しかし、少数の例外をのぞけば、議員たちは全体的に精力的に活動していた。こうして各委員会は、放棄された諸官庁の業務を再開させるために、献身的な努力を惜しまなかったといえる。

軍事委員会は、特に難しい役割を背負うことになる。この委員会は、国民軍の訓練、武

装、被服、軍に関する法令の起草、また、保安委員会との協力によるコミューンの防衛強化といった任務を受け持った。それに、この委員会は、コミューン成立に重大な成果を収めた「国民軍中央委」との権限分担という複雑な問題をかかえている。「国民軍中央委」は自ら任務の完了を宣言したものの、ウェルサイユ側との軍事的緊張の高まりの中で、なお存続している。コミューン成立後のコミューンと「国民軍中央委」との確執は、最後まで解決できない問題として残った。

各委員会には、毎日、山のような案件が舞い込んできた。そこで、特別委員会は、急速に組織の改善の必要性が求められるようになった。中でも、とりわけ大きな問題は、「国民軍中央委」とコミューン政府との間の軋轢である。「国民軍中央委」は3月28日、正式にコミューンに権限を委譲したはずだった。しかし、国民軍の指揮権と士官任命権を保持しておきたいばかりに、国民軍を統制、指導しようとするコミューンとの間に、早くも摩擦が生じてきたのである。

4月1日のコミューン評議会では、アシが「国民軍中央委」の支持を受けて、コミューンの権限は純粋に、市政問題にかかわるものに限られるべきだと主張し、ブランキ派、及びジャコバン派と衝突した。4月3日の敗戦は、コミューンと「国民軍中央委」との間の対立に拍車をかけた。この日、「国民軍中央委」は、激越な宣言を発し、生ぬるいコミューンを乗り越える意図のあることを示唆した。軍経理部の支配権を握った「国民軍中央委」は、その出先機関である各区の「小委員会」を指示して、独断的な物資の徴発、国民軍服役忌避者の追及と家宅捜査などを行うなど、細かな日常問題にまで口をだしては、コミューンの行政機能と軍事指揮系統を混乱させた。

4月9日の「小委員会」の廃止をきめたコミューンの布告も、「国民軍中央委」の妨害工作で実効を挙げることができず、「小委員会」は依然として実際的に存続し、活動を続けていた。こうして、コミューン期のパリには、文民権力を代表するコミューン政府と、軍事権力として「国民軍中央委」の一種の「二重権力」が形成されたのである。この「二重権力」の存在が産みだす混乱が、戦局に敏感に作用したことはいうまでもない。

4月11日、12日にまたがる「パリ要塞司令官」ドンブロフスキーの果敢な反撃作戦にもかかわらず、補給と増援が不足したために、ヴェルサイユ軍の進出を阻止することができなかった。このため、4月12日から、シャンゼリゼにはヴェルサイユ軍の砲弾が落ちはじめ、17日にはべコン城が、18日にはアスニェール駅が落ちた。

4月5日、ヴェルサイユ軍が捕虜を惨殺したり銃殺したりしており、戦時慣行法規を無視し続けるのであれば、同数ないし2倍の捕虜を処刑するとした。

そして、4月4日、陸軍省代表のクリュズレは、17歳から35歳までの独身男子に、国民軍への服役義務を課し、コミューン兵力の再編成が完成するまで、要塞背後の防衛陣地にたてこもる防御戦術を採用することにした。この作戦の裏には、反撃作戦を主張するドンプロフスキーの人気にたいするねたみも絡んでいたが、特に、国民軍服役の義務づけは、一般市民に徴兵制復活の印象を与え、大量の服役忌避者・逃亡者を発生させるばかりか、「国民軍中央委」にさらに介入の口実を与え、軍紀の全般的な弛緩をもたらした。この状態を正すために、クリュズレの副官のロセルの建議で設置された「軍事法廷」も、「国民軍中央委」の妨害を受けて、効果を十分に発揮できなかった。裁判長となったロセルが下した厳しい判決は、「国民軍中央委」の圧力で、コミューン自身によって破棄されるか、大幅に減刑された。ロセルは憤慨して4月26日、軍事法廷を辞任してしまった。

4月20日の会議でグルーセが嘆いたのは、「コミューンにおいて毎日起こる権限争い」である。このため、編成を替え、各委員会の権限を限定する提案がなされ、これが決定された。3月29日、当初の9委員会のほかに、もう一つ「執行委員会」が設けられた。

この「執行委員会」は他の委員会とは、区別して考えなければならなかった。これはコミューンのあらゆる布告、他の委員会のあらゆる決定を、執行させる任務を負っている。この常置委員会は、二重の使命をもっていた。他の委員会の活動を調停し統合すること、コミューンの布告に法としての効力を与えることである。

いちはやく成立した「国民軍中央委」の設置と、それに続く国民軍連盟組織の結成、歴史的選挙によって成立したコミューンは、この選挙の結果、任務を完了したはずの「国民軍中央委」を存続させ、9委員会の成立と執行委員会による代表委員の派遣(4月21日)、特に、軍事代表委員にあたえられる重責と、それに伴うコミューン議会との対立、そうした入り組んだ複雑な関係が、わずか2か月の間に一挙にやってきたのである。

こうした問題に応えるのは、それほど困難ではないとおもわれ、事実、多くの提案がなされたものの、にもかかわらず、コミューン内部の各機関相互の権限の交錯、強力な指導力の欠如、「国民軍中央委」との緊密な連携の不足、その他、極言すれば、どこをとっても欠陥が目につくのである。それに階級闘争の理論的立場に立てば、フランス銀行や証券取引所をパリに残存させたばかりか、そこに財政的に依存するという矛盾が存続している。

また、こうした組織上、運営上の欠点に加えて、さらに人間関係が、各人を苦しめた。パリ・コミューンを誕生させ、育成した人々は、既成の政治家でも軍人でもなかった。彼らは商人であり、芸術家、弁護士であり、労働者であった。参加した労働運動の指導者たちのイデオロギーも、また、当然のことながら多様であった。大革命にこだわりつづけるブランキストやネオ・ジャコバン派、理想主義的社会主義者、労働者の連隊を求めるインターナショナル、いかなる形式における中央集権的体制をも否定するプルードン主義者の交錯、彼らのうち、あるものは民主的議会政治を望み、または、プロレタリアートの独裁を、また連邦主義にもとづく体制を、あるものは無政府状態を、あるものは理想的に、あるものは空想的に、あるものは現実的に、あるものは実践的に、あるものは過激に、あるものは穏やかさを求めていた。

コミューンの複雑多様な内部紛争の中でも、成立当初から、めだって大きな底流として伏在していたのは、コミューンを「革命独裁」の集権的中央政府に転化しようとするブランキ派、ネオ・ジャコバン派の多数派と、「自由なコミューン連合」のなかの市政的な「自律的コミューンを説くインターナショナルを主力とする少数派との見解の対立だった。この対立はことあるごとに露呈した。いずれにしても、彼らは、慨して、未経験で、不器用で、連日の熱心な会議にかかわらず、洞察力に乏しく、判断力に欠け、そして何より指導者としてのカリスマ的魅力をもちあわせた人物がいなかった。こうした人々がいきなり、いわば一国の政治に等しいパリの統治を、完璧な、あるいはそれに近い状態で維持することを求められたのだ。

これらの委員会は、よくその機能を果たしつつ、様々な対立が生じ、その改組が必要となった。多くの提案がなされたが、結局、4月21日になって次の方針が決定され、新しい人選が行われた。

@    行政権は、仮の資格において9委員会からの代表者に委ねられる。

A    代表者はコミューンによりその多数決で任命される。

B    代表は毎日会合を開き、その部局のそれぞれに関係する諸決定を多数決で行う。

C    代表は毎日、秘密会議によりコミューンに、彼らにより決定され、あるいは行使された処置を報告し、コミューンが判定をくだす。以上の提案が可決され、各ポストの人選が投票によって決まった。 

 

 

軍事  クリューズレ    労働・交易 フランケル

保安  リゴー       公共事業  アンドリュー 

司法  プロト       教育    ヴァイアン 

財政  ジュールド     渉外    P・グルーセ

糧食  ヴィアール

 

 

これにより、執行委員会の権限と、ネオ・ジャコバン的多数派の革命独裁の方向が強化された。しかし、ここには支配的な学説もなければ、人心の大多数を糾合する綱領もなかった。奇妙な知的分散状態が支配した。左翼プルードン主義者 もいれば、右翼プルードン主義者や集産主義者や強権的共産主義者も、自由主義的共産主義者もブランキストも純マルクス主義者などがいた。だが、はっきりしていたことは、武力をもって干渉しえる精選され権威ある革命的前衛組織なるものが存在しなかったことである。1871年には、社会主義思想と革命的意思が未だ融合しきっていなかったのだ。それは、大衆の動向にもいえた。相対立する二つの勢力がそこに絶えず現れていたことである。即ち、プロレタリアートのそれと革命的小ブルジョアのそれとだ。場末のプロレタリアートは、ジャコバン的小ブルジョアにたいして断固として自分の意思を強制し、革命の指導権を握れるほど、十分に数も多くもなければ、十分に組織もされておらず、十分にその使命を自覚してもいなかったのである。そのどちらもが、他方に優越するほど大きくなっていなかった二階級の間のこうした軋轢、その結果として生じる綱領および戦術における同一性の欠乏、あらゆるこれらのことが、コミューンの全期間を通じて重苦しく感じられたのである。このことから、人々は、1871年には社会革命は不可避的に無力と流産に運命づけられたという結論をくだすかもしれない。

代表のうち、保安委員会のリゴーは、クールネと、さらにクールネはフェレと交代することになる。問題は、コミューンが委任したこの執行委員会が、最高権力をコミューンから奪わないように注意することである。そのために、コミューン議会が頼ったのが保安委員会であり、「国民軍中央委」であった。この執行委員会の独走をふせぐためには、すでにラストゥールの提案による規約があった。すなわち各特別委員会の中に、監視小委員会を作って、執行委員会への代表者の発言、行動を監視させるのである。

そして、特別委員会が、毎日、コミューンにその結果を報告することにより、コミューンは、執行委員会のすべてを知ることになる。しかし、これも実際には円滑にいかなかった。権力争いが激化して、コミューンの存在を危うくする事態が起こり、コミューン議会は、その支持を、保安委員会と「国民軍中央委」にもとめることになり、さらに、ミオを中心とするネオ・ジャコバン派による「公安委員会」の設立という、まさに大革命の時代を思わせる状況が生まれたからである。その上、コミューン内部の動揺をうながした重要な要素として、本格化するヴェルサイユ軍のパリ侵攻が行われていたのだ。 

3月18日、外務省を去ったティエールとその一行は、ヴェルサイユに腰をおちつけて、反撃のチャンスを待っていた。何よりもティエールを悩ませていたのは軍隊の弱体化であり、その精神力の低下であった。彼のパリ奪回計画は、この改革なくしては絶対に実行不可能だったからである。ヴェルサイユの防衛体制はどうであったか。

ティエールは、正規軍の歩兵連隊残党が少なく、性質も油断がならなかった。ティエールはそこで烏合の衆を大急ぎでかき集めることを余儀なくされた。しかし、ティエールはこの間にビスマルクと交渉し、休戦条項を緩和して3月末までに、約8万人の帝政軍捕虜の送還を、ヴェルサイユに集めることに成功した。ティエールと地方の関係はますます難しくなった。国民議会の解散という基礎にたったパリとの和解を要求する代表団や上申書が、舞い込んできた。これにたいしては、「和解の叫び」を犯罪と見なしうると取り扱うよう対処したほどである。そこで、彼は、市町村会選挙を行うよう支持した。これによってパリ征服に対する物理力が国民議会にもたらされることを期待した。ティエールは、パリとの和解というささやきを欺瞞し、パリにおける中流階級分子をそそのかし、また、国民議会内部の自称共和派にたいしてティエールにたいする信頼を獲得させようとした。3月31日、未だ軍隊をもたなかった時に、彼は、議会にたいして宣言した。「いかなることがおころうとも、私は決してパリへ軍隊を差し向けないであろう」。ところが、実際は、彼は、リオンおよびマルセイユの革命を共和国の名において圧殺し、一方、ヴェルサイユでは、田舎地主の咆哮が共和国の名の上げるたび毎に、これも圧殺した離れ業をやってのけたのだ。4月1日、国民議会で「すばらしい陸軍」をほめそやしたティエールは、パリ攻撃の決定を下した。

ヴィノワ将軍は、望みどおり、モン・ヴァレリアンを3月20日の早朝に再占領していた。南方の5つの砦はほとんど、無防備のままであった。パリからヴェルサイユへの道路を監視することが緊急時だったのである。その最短路は、セーヴルとサン・クルーでセーヌ川を渡ってくる道だが、ここは憲兵隊が守りについていた。

これが、ドーデル旅団とともに、ヴェルサイユ側の最も信頼のおける軍だったのである。その背後には、第二帝政時代の軍隊の中でたったひとつ生き残り、3月18日の作戦にも参加したラ・マリューズ将軍の率いる旅団、第35及び第42歩兵部隊が控えて、援護にあたった。パリから南を迂回してヴェルサイユに迫るルートを監視する任務はデロージャ旅団に与えられた。その第109、第110部隊は、ヴェルジーにキャンプを張った。政府の中でも、もっともタカ派に属するガリフェ将軍は、騎兵隊をもってマイヨ門とトロカデロに攻撃をしようと提案して、ティエールから「君は気が変になったのか」と一喝された。そのガリフェが彼の騎馬旅団、第9、12軽騎兵隊を率いて、無人地帯をパトロールして警戒に当たっていた。

だが、この程度の防備では、パリの大攻撃の前にはひとたまりもない。セーヴルの憲兵隊は疲れ果てていて、どうせ聞いてはもらえない救援隊の派遣を求め続けているし、ラ・マリューズ旅団もデロージャ旅団も人手不足にあえいでいた。第109、第110部隊は、それぞれ500人前後の兵力しかもたなかった。これでは、とりあえず、和平を維持するほかなかった。軍当局がティエールの要望にもとづき、軍の改革、再建に乗り出したが、彼らがとった方法には、現状認識に欠ける点があった。「悪い兵士」を追放又は配置換えするという単純な方法では、信頼にたる強力な軍隊を作り上げることはできなかったのである。そもそも、悪い兵士とは何か。ヴェルサイユにとっては、危険でパリの反逆者に同調し、コミューン側に身を投じかねない兵や軍隊である。3月のはじめにバスティーユでおこったデモに関係した第23猟騎兵大隊と、3月18日のモンマントルでの出来事のために非難されていた第88連隊とは、北アフリカに転出を命じられた。各部隊は、信頼できない下士官や兵士のリストを提出したが、その数は数千人に達したという。だが、こうした大規模な追放や移動が与えた心理的影響のほうが、はるかに重大であった。特に、新たにヴェルサイユに到着した軍は、警察の厳重な監視のもとにおかれたため、一層、強い束縛感を抱いていた。

これは確かに軍の粛清という面では、ある効果を上げたが、パリ進攻への精神的準備という点ではどうであったか。反乱者に武器を向ける気のない彼らを、パリ進攻に駆り立てるのは容易ではない。コミューン側の軍が、新たにヴェルサイユ軍と呼ばれる軍の体裁を整えたのは4月6日の法令によって3軍団が設けられたときであった。4月6日、ヴィノワ将軍が更迭され、マクマオン元帥が総帥として全軍の指揮をとることになった。ヴィノワは予備軍団の司令官と授勲局総裁という地位に甘んじることになった。3月18日の責任をとらされたというのがもっぱらの噂であった。これにたいしてマクマオンは7月王政下でも第二帝政時代でも、彼の軍人としての規律は変わらなかったし、民衆も彼を敬愛していた。また、プロイセン軍の捕虜生活から帰還したところだった。

ヴェルサイユ軍は、北部及びロワールの国民軍を主力に、ビスマルクとの交渉によって、ドイツから送還された捕虜の将兵によって補充していた。ティエールはとりわけ、謙虚で単純な人柄を評価していた。捕虜の中でもとくに将校の場合、彼らは軍人としてのキャリアに自負をもっており、これが彼らを軍から離れさせなかった。確かに、コミューン側に同情をもつ兵士もいたであろうが、それは、自己保身を超えるものではなかった。第一に、彼らは国内の事情に暗く、その情報源はもっぱらヴェルサイユ側の新聞にたよっていた。4月初めの兵力約5万5千、これはコミューンの国民軍とほぼ同勢力であった。しかし、将校も下士官はもとより兵も、決して十分ではなかった。軍の編成もまちまちで、兵力だけでなく武器、糧食の供給も不十分であった。

パリがコミューンのお祭り騒ぎをしている間に、ティエールの方は、片時も無駄にしていなかった。地方の革命勢力をたたきつぶし、パリを孤立させようとして、作戦の実施に全力を傾けたのである。

コミューンは、もともとパリ市民の無意識に結びついた運動であった。フランスの若干の都市が、パリの運動と時を同じくして、叛乱を試みた。そこに、諸コミューンの自治に関するプルードン主義の理論の適用をみることができる。ただ、ここでは、社会主義的・共和的性格をもった散発的な企図が問題になるだけであり、パリ市民のコミューンは、その発展を把握することなく、これを見守ったり、助けたり、利用したりすることもしなかった。事実、パリの革命は、たちまち地方に波及し、地方はパリにならうかにみえた。3月22日から3月末にかけて、リオン、マルセーユをはじめ、サン・テティエンヌ、トゥールーズ、ナルボンヌ、ル・クルーゾなど、南仏の非占領地帯の重要都市で、パリ支援の暴動が起こり、40近い都市で、民衆の示威運動が行われた。リオンでは3月22日、パリから派遣されたインターナショナルのルブランが、リオン支部の指導者アルベール・リシャールや急進共和派の市会議員と協力して、大衆運動を組織し、市庁舎を占領した上、コミューン選挙を布告した。リヨンに近い工業都市サン・テティエンヌでも、24日労働者を主力とする大衆が、市役所を占領し、乱闘のなかで知事が射殺される事件もあった。

ル・クルーゾでは、インターナショナルの市長デュメーが、コミューンを宣言した。マルセーユでは、急進派のガストン・クレミューが、「エルドラド・クラブ」で蜂起をよびかけるアジテーションを行い、ドックの港湾労働者は、ストライキに立ち上がった。23日、急進派とインターナショナル同盟によって、革命勢力は知事を放逐、「ブーシュ・ド・ローヌ県行政委員会」を発足させた。行政委は、穏和派の市会に圧力をかけ、「革命的コミューン」の選挙を布告した。ナルボンヌでは、「南仏連盟」の組織者の一人で、急進派のディジョンが、24日、「コミューンの自立」を宣言し、一方、トゥールーズでも23日、民衆が市庁舎を占拠、翌日コミューンを宣言した。民衆は、ティエールによって解任された前知事のデュポルタルに、コミューンへの参加をよびかけた。

しかし、これら諸都市のコミューン運動は、「南仏連盟」以来、地方急進主義の主導下にあり、パリ・コミューンを「社会革命」としてよりも、「市政革命」としてうけとる傾向があった。このため、急進派指導者の多くは、インターナショナルや労働者の社会改革の要求に内心不安を感じ、パリの調停派のように、ティエール政府に妥協的な態度を示すか、闘争を途中で放棄して、戦線を離脱したものも多かった。植民地アルジェーの急進派などは、白人入植者の利害に密着しており、コミューンの理念が、原住民の独立運動と結びつく気配を示すや、直ちに正規軍と提携して、運動に敵対し、原住民の運動を残酷に鎮圧した。

こうして、リヨンのコミューンは、3月25日に自然消滅し、トゥールーズでは、パリとヴェルサイユを仲裁しようとしたデュポルタルの曖昧な態度に乗じて、ティエールの任命した知事ケラトリは反撃にでて、27日、短い戦闘ののち、市庁舎のカピトールを奪回、翌日、秩序を完全に回復した。ル・クルーゾでは、正規軍と国民軍の衝突ののち、正規軍は市役所を奪取、28日、デュメーは市長を辞任し、逃走した。サン・テティエンヌでも、指導者なしに孤立した民衆が、自発的に市庁舎を放棄し、28日、正規軍の手で秩序が回復された。ナルボンヌでも、ディジョンが、ペルピニャン、セートなどの都市の支援をうけて、よく正規軍と対抗したが、革命勢力の組織が不十分なため、やがて孤立し、3月31日、アルジェリア狙撃兵を先頭とする正規軍が、空になった市役所を再占拠した。

「南仏連盟」のかつての拠点であったマルセーユでも、事態はほとんど同じ経過を辿った。ガストン・クレミューの率いる「県行政指針会」と、穏和な市会との対立が深まる中で、パリから派遣されたランテイック、アムールーらの、目だった指導者意識に反発が生じて、行政委員会内部にも対立が起こった。これに乗じて、戦術的にオバーニュに撤退していた正規軍司令官のエスピヴァンは、4月3日、ティエールの戦術を先取りして反撃に転じ、市街戦ののち、翌4月4日、県庁を占拠、革命派にたいするテロルを組織した。

この日、リモージュで起こった労働者の暴動は、一時、県庁の奪取に成功したが、自然発生的運動の組織上の欠陥を暴露して、翌日、自然に秩序が回復された。このように、パリの革命に呼応して起こった地方都市の運動は、分権的コミューンを信奉する急進主義の軌道にのめりこんだため、結局、ブルジョア国家権力の反撃をゆるしてしまった。こうして、4月末までに、ティエールの思惑どおりに、パリは地方から遮断され、孤立した。

ティエールがゆっくり構えているとき、パリの方は、議論にあけくれて、時を過ごし、防備の不備をつくヴェルサイユ進攻の即時実行を唱える者など、ひとりもいなかった。戦闘が全くなかったわけではない。

3月27日の早朝、第109連隊と、ガリフェ将軍指揮下の騎馬大隊が、パリの南方、プティ・ビセートル、シャティオン、ソーの周辺にパトロールに出た。ガリフェ将軍は、シャティオン保塁を占領せよという指令を受けていたのである。ここは、パリからヴェルサイユへ向かう南廻りの路の途中の高地にある土塁である。偵察の結果、意外なことにこの重要地点に国民軍の姿がなかった。コミューンの軍は、まだここをさえ占領していなかったのである。こうして、ヴェルサイユ軍がひとり相撲を演じている一方、パリの国民軍もまた同じように一方的な行動をおこしていた。3月の終わりから双方の情報合戦が激しくなった。

4月2日の夜が明けた。朝、モン・ヴァレリアンの砲台からヌイイ大通りに向かって砲撃が開始された。同時に、警官隊、歩兵部隊及び騎兵隊がクールブヴォワとフイイに向かって進軍を開始した。その際、別に1歩兵部隊を、誰にもいわず参加させた。パリ南方、シャイィオンに向かったデュ・バライエ将軍の偵察隊は、ここの保塁を占領していた国民軍に発見されたが、砲撃は受けなかった。国民軍の兵士たちは保塁から、自分たちに合流しないかと叫んでいる。デュ・バライエが、この方面からの攻撃はないと判断したのは、夜がしらじらと明ける頃であった。

知らせを受けたヴィノワ将軍は、ただちにモン・ヴァレリアンの砦に通報した。「小さな作戦が行われようとしている」。作戦は二つの戦列を編成して展開することになった。ひとつは、ブリア師団の1旅団、すなわち第74混成連隊と海兵連隊及び陸戦隊であり、ヴィノワ将軍は、この軍とともにする。もう一つは、ドーデル旅団で、第113、114連隊からなっている。彼らは、モン・ヴァレリアンの北に集結した。支援を命じられたガリフェの騎兵隊と砲兵中隊の半分を加えて、総兵力は約9千であった。時刻はまだ7時前後であった。ヴィノワ自身は、すでにクールブヴォワの円形交差点から百ヤード足らずの地点に進出していた。第113連隊をガリフェの軍と合流させてクールブヴォワの交差点を北から包囲攻撃させる計画が立てられた。

ところが、その攻撃が行われる前に、一つの事件が起こった。軍の主任軍医であったパスキエ博士が本隊から離れて、国民軍の中に迷い込み、捉えられて射殺されたのである。この外科医の死は、これからの両陣営の捕虜の扱いに関する問題に、重要な影響を与えることになる。ガリフェ将軍は、砲兵隊に発砲を命じた。だが、だれ一人動かなかった。敵の砦からの最初の砲撃で、いっしょにいた第113連隊の兵士たちが前進を止め、中には、逃亡するものまででてきたのである。将校が部下を呼び戻そうとして、叫ぶ大声が聞こえた。馬に乗り剣を振りかざして、彼らを追いかける将校もいた。ガリフェ自身も、馬からおり、幕僚とともに連発ピストルを抜いて砲兵を叱咤した。

ピストルをつきつけられて、やっと彼らは発砲した。ガリフェ隊の砲兵を聞いてヴィノワ将軍も、砲兵に行動を命じた。クールブヴェワの砦の国民軍がすぐ混乱しはじめた。将軍は、第74混成連隊に前進を指令した。彼らがバリケードに接近したとき、そこに隣接した民家の窓から一斉射撃が起こった。この銃撃に驚いた兵士は、たちまち混乱し、将校をおきざりにして逃げ出した。砲兵隊も動揺した。逃げながら兵士たちはやたら発砲した。この非常事態にヴィノワ将軍は、温存していた最も頼りになる海兵隊の出撃を命じた。だが、闘う必要はなかった。

バリケードの国民軍は、数において劣り、側面から砲撃を受けたことに脅威を感じて、早くも持ち場を放棄してセーヌを渡ってしまったのである。ヴィノワ軍は、容易にここを占拠して捕虜30名ほどを得た。さらに彼らは、フイイ橋までほとんど抵抗なく進出してこれを占拠した。またしても、ティエールから、それ以上の前進を禁ずる厳命が与えられた。午後1時15分ヴィノワ将軍は、偵察行の終了を報告する。ヴェルサイユ側の損害はパスキエ博士を含めて3名戦死、21名負傷。将軍は引き上げに当たって、戦闘に参加しなかったブーランジュ大佐指揮下の第114連隊に、後処理をまかせた。捕虜があつめられた。ブーランジュ大佐は、そのうちの5名を射殺した。処刑は野原で行われ、他の捕虜たちはそれに立ち会うことを強制された。外科医パスキエを殺したとされるサン・タントワーヌ郊外地区の床屋ルイ・ペーム22歳と、国民軍に寝返った兵士2名、それに国民軍兵士2名が犠牲となった。

このブーランジュ大佐は、特異な存在であった。これはまぎれもない事件であった。パリでもヴェルサイユでも、捕虜の処置について議論が沸騰した。パリではラ・フェンテーヌからの情報として、ヴィノワの命令により200名が射殺されたという噂話が広まった。誤報であるとはいえ、これはコミューン側を激昂させた。一方、ヴェルサイユ側にとっては、捕虜射殺第一号のパスキエ博士の「殺人」が、格好の宣伝材料になった。

ヴェルサイユ政府との戦闘がはじまっていた。パリ市民は、まだ、ヴェルサイユ政府との和解の幻想の中にまどろんでいた。それだけに、政府軍がパリ西北郊外のクールブヴェワの陣地を、4月2日に攻撃し占拠したことに衝撃を受けた。いずれにしろ、パリにとって、4月2日は敗北の日であったことにはまちがいなかった。

この日の午後、攻撃の報をうけたパリでは、非常呼集の太鼓がうちならされ、ヴェルサイユ軍の蛮行に激昂した群集は、口々に、即時、ヴェルサイユに向かって総攻撃をかけることを主張した。この時点で、パリは、現役国民軍8万名、駐屯国民軍11万4千名、これにベルギー人700名、ポーランド人400名など外国人義勇軍を入れれば、20万近い兵力を擁していた。しかし、時期尚早に実施された総司令官制の廃止と、徴兵制の撤廃は、全般的な軍規と指揮能力の上に悪影響を及ぼし、実戦闘要員は約4万名位にすぎなかった。

その日、ヴァンドーム広場で軍事会議が開かれた。中心人物は、新軍事委員のクリューズレであった。執行委員会は、参謀本部にヴェルサイユ攻撃に関する作戦計画を提出させた。国民軍参謀ロセルが口を開いた。その計画は、ヴェルサイユを3方面から攻撃しようとするもので、右翼軍はベルジュレ、フルーランスの指揮の下にジェンヌヴィリ半島からヴェルサイユに向かい、中央軍はウードが指揮をしてムード経由の最短距離をとり、左翼はデュヴァルの軍が、シャティオン台地を通って攻撃する編成をとった。

ヴェルサイユの方では、ラ・マリューズ将軍の第一旅団、デロージャ将軍の第二旅団を武装させ斥候を出せという命令を受けた。やがて、全軍が厳戒体制をとった。

4月3日午前6時30分。国民軍はベルジェールの交差路に達した。装備、補給、増援部隊など、十分な戦闘準備もなく、コミューンの軍事委員会とろくな事前打ち合わせもせずに立てられたこの作戦は、三方向からヴェルサイユを攻撃するというもので、夜のうちにあわただしく、戦闘配置が行われた。砦から砲撃が始まった。八門の砲から撃ちだす砲弾で、国民軍はたちまち混乱におちいった。30名ほどの負傷者は出たものの、攻撃は続行された。第一軍の右翼にあった第二軍はナンテールに向かって進攻中であった。モン・ヴァレリアン砦からの砲撃は続くが、国民軍は小さなグループをつくり、野や溝を越えて接近した。10時5分ロシュネルは、ヴィノワに弾丸がとどかないところまで避難すると報告する。11時以降、砦の砲台からの砲撃は不活発になった。

ヴィノワ将軍は、ガリフェに行動を命じる。ガリフェは自分の騎馬隊2連隊と、新政府側のサン・ジェルマン国民軍を、マルリー及びシャロトゥーに向かって移動させる。国民軍はすでにセーヌの対岸沿いに進んでいる。モン・ヴァレリアンからの砲撃は、そこまではとどかない。シャトゥーからガリフェ将軍は増援を求めると同時に、現在、対岸の国民軍は3千で、攻撃を急いでいないようだと報告する。その国民軍から武装したままの兵士3名が川を渡ってきた。彼は、彼らの煽動による軍の謀反をおそれている可能性がある。

国民軍の本隊はなお南に向かい、ヴェルサイユまでわずか5マイルというブージヴァルまで進んだ。ところが、この地点で軍の動きは停まってしまう。ヴィノワ将軍が増強部隊を率いて、移動してきたのである。それと、両軍とも弾薬が乏しくなったという理由もある。しかもヴィノワが率いてきた予備軍団の第114連隊は、あのブーランジェ大佐の指揮下にあった。彼はわずか1,400の兵をもって、フルーランスの7~8千の軍と戦った。第113連隊も応援に駆けつけてきた。その上、もとプロシア軍の基地であったラ・ジョンシェールの丘の上の砲台からも発砲が開始された。

国民軍はパリに向かって後退を始めた。隠れていた国民軍の兵士はすべて射殺された。この残虐行為を、単に部下の興奮の結果と片付けるわけにはいかない。なぜなら、第113連隊の方は同じような任務を果たしながら、温和で妥協的な行動をとったからである。

ジェンヌヴィリエ半島を退却するも国民軍を、デ・プルイユ将軍の騎兵師団が追跡する。そして、第二軽騎兵連隊隊長ドゥマレが、フリーランスを捕らえてこれを殺害した。彼の最後を伝えたのは、副官のアミカル・シプリアノであった。彼はフルーランスとともに、シャトゥー近くで本隊から離れてしまった。シプリアノは奇跡的に助かるのだが、フルーランスの方は力尽きて、居酒屋で眠り込んでいたところを捉えられ、隊長によって首を切り落とされてしまったのである。しかもシプリアノによれば、残りの死体は肥料車に積まれてヴェルサイユに運ばれた。見物にあつまってきた婦人たちは、笑いながら、日傘の先でそれを突っついた、という。ティエールのパリは、現実的な「卑賤な多数」のパリではなく、亡霊のパリであった。内乱をただ快適な娯楽とみなし、戦いが行われているのを望遠鏡で眺め、大砲の発射を数え、演戯がパリの芝居小屋で行われるのと同じに見なしていたのだ。そこに倒れた人々は、芝居ではなく実際に死んでいたのだ。負傷者の叫びは、真剣な叫びだったのだ。そして、その上、全体の物事はきわめて歴史的だった。

もともとこの戦闘にはベルジュレの軍に誤った情報分析があった。モン・ヴァレリアンの指揮官に工作がしてあって、彼は、コミューン側に寝返っており、攻撃を一切妨害しないという見込みがあった。それだからこそ、モン・ヴァレリアンからの激しい砲撃が始まったとき、その砲火にさらされながら、国民軍の将兵は叫んだのである。「裏切りだ!」。

コミューン軍の右翼は、このようにして敗退した。左翼のデュヴァルの軍はどうであったか。早い出発が、彼に有利にはたらいたかにみえた。早々と警告を受けているにもかかわらず、この方面のヴェルサイユ軍は、シュビエル師団もデロージャ旅団も、完全に緊張感をなくしていた。デュヴァルは、シャティオンから進んでヴェルサイユに近づき、ヴィラクーブレに達した。あわてて迎撃体制をとったデロージャ軍を、ペショ旅団が支援した。戦闘は激しくなかった。デュヴァルは、大砲ももたず、敵の砲撃をいち早く避けて後退したからである。国民軍の捕虜は50名、ヴェルサイユ軍の死傷者は13名であった。国民軍はシャティオンまで引き下がった。ウードの指揮する中央軍は、ムードンまで快調に前進した。

弾薬も不足しているのに、この軍には、一種の楽観論が支配していた。ベルジュレの右翼軍と同じく、遠いモン・ヴァレリアンの砲台が、いつかはその砲首を、ヴェルサイユの方へ向けるだろうと考えていたのである。ムードンの前には多くの国民軍が集まってきた。ただ、命令系統もはっきりしないため、この集結は、何ら計画性がないものであった。ヴェルサイユ側に奪われたパリの国民軍あての通報の中に、彼ら自身が書いている。「命令を与える指導者なし。国民軍将校はうろたえている」。しかも、集まってきた他の部隊の連中は「羊の群れ」のように頼りない。

少し西のバ・ムードンでも同じような状況だった。クリューズレはそこにいた。ムードンを守っていた憲兵隊は、旧プロシア軍の砲台からの砲撃の援護をうけながら、弾薬の追加を要請するほど射ちまくっていた。ウードは辛うじてムードンの城館から、彼らを追い出した。だが、憲兵隊は、砲台からの援護で、何とか村を持ちこたえた。ラ・マリューズ旅団海兵隊、陸戦隊、それに歩兵部隊を合わせて、約9千の援軍が到着したのはそのときである。城館はたちまち奪回された。国民軍はパニック状態に陥り、イシイに後退した。結局、この日の終わりに、国民軍はデュヴァルの軍数千が、シャティオンの保塁に、ベルジュレは1万人とともに、アスニエールに、そして大多数の兵は、ウードのいるイシイの村に後退している、と報告した。ティエールは、電報を各地に打って勝利を告げる。

4月4日、シャティオン方面に、国民軍の出撃があるとの情報にもとづき、ヴィノワ将軍はヴェルジェ師団の中の1旅団を、ムードンにいるファロン将軍への増強部隊として送ることを命ずる。ファロンは、ムードンとシャティオン両方面からの出撃に備えることになる。シャティオンの保塁への攻撃は、ペショ旅団がペレ師団とデロージャ旅団の支援のもとに行われた。ベショ旅団の第70混成連隊が、正面に殺到する。側面のデロージャの第109連隊は、国民軍の背後に廻った。この隊の中で、不思議な光景が見られた。デロージャの幾人かの部下が、銃の床尾を上にして、つまり、銃を逆さにもって上げたのである。これは降伏のしるしである。将軍はその一人に近づくと、ピストルでその頭を軽く打って叱った。「君は間違いを犯している。戦友。これが最後の射撃というわけではないのだ」。

クリューズレの方でも、同じような出来事があったことを知った。政府軍が、「共和国万歳!」という叫びをあげた。国民軍もそれに応じて叫び、同時に銃の床尾を上げて闘う意志のないことを示した。そこで、ヴェルサイユ軍が近寄ってきた。ところが、彼らは国民軍に対して降伏を命じた。発砲が起こった。あとは両軍ともに大混乱におちいった。どちらが発砲したかは不明だが、国民軍は謀られたとおもったに違いない。保塁の守備隊は降伏した。ペレ将軍が生命を保証したからである。だが、捕虜の処刑は、ヴィノワの指示どおりに実行された。捕虜をヴェルサイユまで護送する任を負ったペレの1将校が、抗議したにもかかわらず、ヴィノワ自身がその中の3名に対し、直接、刑の執行を命じた。クラマール付近で捕らえたデュヴァルと、その将校2名にたいしてである。4月7日ヴェルサイユ軍はヌゥイーのところからパリの西部に行くセーヌ河上の通路(ヌゥイー橋)を奪取した。

パリの城内では、悲しみばかりが、どんよりした雲のように、おおきくパリ市民の上に覆っていた。コミューンは宣言する。「ヴェルサイユ政府は、戦争と人類の法の外にいる。われわれは復讐のために力を用いざるを得ない。…人民はいかなる犠牲を払おうと、目には目を、歯には歯をもって報いよう」。

城外で血が流されているとき、パリ市内には、痛ましい葬列の光景がみられる。市街を長い行列が進んでいく。戦闘で死んだ犠牲者を、最後の住居へと連れて行くのである。行列の先頭には、喪の布をつけた太鼓とラッパが、国民軍の音楽を奏でながら進む。その行列の後には赤旗をなびかせた葬儀馬車が続く。この公式の葬列の最後は、脱帽し、緋色の飾帯を巻いたコミューンの代表団であった。その後に続いて、男女、子供のおびただしい民衆の重々しく、沈んだ、悲しげな顔が延々と続くのである。行列の通る沿道は、市民たちの悲痛な目差しで埋めつくされた。

パリの市民は3日の夕刻まで、味方の勝利を確信し、落ち着いて朗報を待っていた。それだけに、敗北とフルーランス、デュヴァル虐殺の報から受けたショックは、甚大だった。復讐に燃え立つ民衆は、パリの大司教ダルボア、マドレーヌ教会司祭ドゲリーら、反革命派を人質として逮捕した。コミューンは、ヴェルサイユ軍による捕虜射殺を止めさそうとして、4月6日に「捕虜ないしはコミューンの正当な政府の支持者の処刑に対して、直ちにその2倍の人質の処刑をもって報いる」。いわゆる人質に関する布告を出すが、それは、実際には字句どおりに行われず、効果がなかったばかりか、コミューンの名誉を汚す汚点とみなされる結果になった。戦争の悲惨さは、捕虜の問題だけに集約されるものではない。

4月3日、「国民軍中央委」の宣言があった。それには、敵がもはやプロシアではなく反動家たちであること示していた。4月5日から数日間、小競り合いや、情報にもとづく軍の移動はあったものの、前線はしばらく冷静さをたもっていた。しかし、この静けさはイシイ砦の攻防に始まる本格的なパリ進攻の前の、つかの間の休息時間であった。

しかし、4月4日の火曜日、真夜中の1時前、イエズス会が経営するサント・ジュヌヴィエーヴ学校は、武装した国民軍によって、完全に包囲された。18番地の戸を激しく続けさまに打つ音がした。修道士がでてきて、鍵をとってくると言って校長室へ行った。その間、ラッパの音が3回鳴り響き、すべての窓を狙った一斉射撃のすざましい音が響いた。戸が開けられた。校長のデュクードレ神父は、抗議が無意味なことを知った。国民軍の兵士が夜中、この学校と修道院を捜索した。校長が、いかに否定しても、ここに武器が隠されているというのである。徒労に終わった彼らは、今度は、そこに住んでいる人々を、人質として捕らえた。捕らえられたイエズス会員たちは、デュクードレ校長を先頭に、列をなして、国民軍の兵士に挟まれながら、警視庁へ向かって出発した。神父8名、修士4名、それに使用人7名であった。尋問の後、校長は独房に、他のものは拘置所の大部屋へ入れられた。4月6日に、彼らは、コンシエルジュからマザの監獄に移された。そこはコミューンに関係した人々にとって忘れ得ない名前となった。

彼らと共に、パリ大司教ダルボワの姿があった。元議長ボンジャンをはじめとして民間人も多くいた。13日にはセーヴル通りのイエズス会の本部で逮捕された者も連れてこられた。4月の初めにはじまった人質の逮捕は、5月に入っても続き、やがて凄惨な結末を用意するのである。救出活動がない訳ではなかった。不幸な事態を避けようとして、コミューン内部の知り合いを通じて、肉親を、友人や上司を救出する努力は見られた。そのうち幾つかは成功したが、大勢は変わらなかった。

自ら人質の身でありながら、コミューンとヴェルサイユの間を仲介しようとしたのは、パリ大司教ダルボワであった。大司教は、ここ数ヶ月のフランスの運命を最も憂えているひとりであった。彼は3月2日に教皇ピウス9世に手紙を出している。人質はヴェルサイユ軍の捕虜射殺にたいするコミューン側の報復措置であったから、ダルボワ大司教は4月12日に、ブランキの旧友であるベンジャマン・フロットの運動によって、大司教代理をティエールのもとに送ることができた。

ところが使者のことを、ティエールは忘れてしまって、面会すらできなかった。ダルボワ大司教は、さらに、軍の無謀な行為にたいする抗議の手紙を、モンマントルの司祭ベルトーにもたせてやるが、14日付のティエールの返事には、「私に注意喚起された事実は全く誤りです」という回答しか返ってこなかった。

敗北の教訓から、指揮の統一の必要性を認識し、コミューンの軍事委員会は、若干の組織変更をした。国民軍陸軍省と執行委員会がともにあるべきだということで、同委員会は陸軍省に席をもつことになった。コミューン側の総司令官は、ロセルと交代するまで、陸軍省代表にクリューズレがなった。彼は責任感の強い26歳の有能な士官であったが、そのためか、あまりに傷つきやすい性格が弱点だった。補佐役としてポーランド人のドンブロフスキーやウロブレフスキーらの有能な指揮官を登用した。

こうして、パリの第二次攻囲がはじまる。最初の攻撃は4月11日であった。シセー将軍の第二軍団が、シャティオン台地に陣をとった。それでも、イシイ及びヴァンヴの砦にたいする、これが作戦の開始だった。この地域の重要性は、両陣営にとって好守の要であったのである。国民軍が、このイシイ、ヴァンヴを確保し、さらにムードンに進出すれば、ヴェルサイユは正面にあり、逆に、ヴェルサイユ軍にとっては、軍の主力をここに集結させることで、パリ軍の出撃を阻止できるばかりか、その土地の高さを利用して、砲撃も、また、パリ攻撃の指揮をとることも可能になるのである。しかし、この日、ヴェルサイユ軍は南部の攻撃にたいして将軍ウードによって手痛く撃退された。

この軍事的攻囲は、プロイセン軍のそれとは異なった性格を持っている。パリの北から東にかけては中立的なドイツ軍の占領地帯で、ここでは戦闘はない。戦闘はもっぱら西と南の郊外に限られる。4月18日に、第二軍団の工兵隊の指揮官リヴィエール将軍は、イシイ砦を占拠するためには、最低で20日間、おそらくは30日間かかるであろうという見込みを計画した。砲台を作るのに4日、砲撃に6日、砦を徐々に破壊するのに10日は要するというのである。したがって、砦が落ちるのは5月8日から18日の間ということになる。実際、イシイが手に入るのは5月9日であるから、この計算はほぼ正確であったことになる。

その間、ヴェルサイユの首脳陣は、パリ奪回の準備に全力を注ぐことになる。4月23日にはマクマオン元帥は、早くもパリ市内における作戦行動について、たとえばバリケードは正面から攻めてはならず、家々を通って側面攻撃を行うことなど、細かい指示まで与えている。

明らかに、パリ・コミューンは、発足以来、状況の力におされて市権力の領域をこえた権限を行使しはじめた。その多くは、3月18日以降の「国民軍中央委」のとった臨時措置を踏襲したものだが、常備軍の廃止、公務員の選挙制の原則、特に、大臣にかわり議員による諸官庁の集団指導制等がそれである。だが、現実化してきたコミューンの権力は、定式化できずに終わってしまった。その訳は、コミューン議会が、目前の緊急な仕事に忙殺されていたこともあったが、「自由なパリ」という漠然とした民衆的解放感に、議員全体がつつまれていたからでもある。『フランス人民へ』という文書が残っている。これは綱領ではないが、議会では満場一致で採択されていたものだ。今日ではコミューンの遺言ともみなされている。マルクスが『フランスの内乱』でコミューン国家を分析したとき、主な材料に使っているのもこれである。この宣言には、「達成されつつある革命の性格、理由、目的」をパリ及びフランス全体に知らせることを目的としたものだが、全体の調子は「コミューンの絶対的自立性」を強調している。

その内容は、予算編成権、全コミューン吏員の選出権、個人や良心の自由の保障、コミューン行事への市民の不断の参加、国民軍の組織権などである。これは、あらゆるコミューンがもつべき「固有の権利」であるが、パリの場合には、この権利を活用して、行政的・経済的改革の施行、教育・生産・交換・信用の発展、「権力と財力の普遍化」を実行してゆく意志のあることを表明している。中央政府は抑圧的であってはならない。というのは、政治的統一の否定ではない。「連合コミューンの代表」によって構成される中央政府のもとでの統一は、自発的で自由な結合となるはずだ。

これまで、この宣言は、連合主義を明言しているため、プルードン主義の勝利とみなされてきた。あるいは、「統一」への言及があるため、「ジャコバン主義」への若干の譲歩、妥協がみられるとも、解釈されてきた。この宣言の起草者は、無党派だが、インター系にやや傾いているヴァレスと、ネオ・ジャコバン派のドゥレクューズである。しかし、これらの解釈は現実に合致していない。要するに、この宣言は、プルードン的連合主義とジャコバン的中央集権主義との妥協とか、あるいは一方の勝利とかでなく、コミューン議会内のあらゆるグループが「3月18日」以後に、民衆にみなぎっていた「自由なパリ」の解放感を共有していたことを証明するものだったのである。

それは、第二帝政の抑圧的な中央集権を否定する点で、連合主義であると同時に、その解放の喜びを、全フランス人民が共にあずかる点で、統一主義である。この宣言に示されるコミューン国家のおぼろげな輪郭は、既存のイデオロギーが、大衆運動の高揚のなかで、いったんすべて溶解されたことを物語っている。いいかえれば、コミューン議会の諸グループは、「自由なパリ」の解放感を、全国へ拡大していく方向において、コミューン国家を定式化する点で一致した。これは抑圧的な権力を破砕した大衆革命そのものの定式化であり、その分、「自由なパリ」の孤独、「自由なパリ」の防衛は、まったく予想されておらず、したがって、コミューン議会の大衆運動にたいする「指導」という問題が脱落している。

4月30日の市町村選挙を目前に控えて、ティエールは、4月27日に、国民議会の壇上から田舎芝居の大見得をきった。「われわれはフランス人の血を流すべき理由は、パリの共和制にたいする陰謀以外にはない。これらの不届きな武器を握っているものから離せ、そうすれば、ただ、少数の犯罪者のみを除く宥和条例によって戦いは直ちに停止されるであろう」。「クレマン・トマおよびルコント将軍の血を流したもの以外に犯罪者がいないのは不幸中の幸いではないか?」。ところが、市町村会議員のうちそれに同意したのはほんのわずかであった。フランスの新選出市会はボルドーにおける対抗的議会をもつて、ヴェルサイユの簒奪議会を公然と批判したのであった。

その時、ティエールにたいして、ビスマルクから決定的な講和の催告がやってきた。フランクフルトで、ビスマルクは彼らに二者択一をつきつけた。帝政の復活か、それとも講和条件の無条件受諾か、というのだ!これらの条件のうちには、賠償支払期間の短縮と、プロシア軍によるパリ要塞の占領を継続するかということが含まれていた。プロシアは、このようにして、フランスの内政の最高権威者として承認を求めた。その代わりに、彼は、パリ殲滅のために捕虜となっているボナパルト派軍隊を釈放し、援助を与えると申し出た。このような餌はティエールと全権大使たちにパクリと飲み込まれた。彼らは、5月10日に講和条約に調印し、18日にヴェルサイユ議会をして批准せしめた。

コミューンは連合主義的綱領の趣旨に沿って、ガンボン、シャラン、アルノーらを代表に、地方に派遣し、救援を求める一方、4月28日、インターナショナルのアンドレ・レオ夫人の起草した『農村労働者への宣言』を発した。コミューン派は、農村対策をおろそかにしたとよく指摘されるが、この宣言によれば、「労働者と農民の同盟」の必要性が、認識されていたことがうかがわれる。実際、セーヌ県付近の農業の資本主義化が進んだ地方では、農業労働者や貧農の間に、パリ・コミューンへの連帯の動きも見られた。しかし、全国的にみれば、長年、はぐくまれてきた低い教育水準、脱政治主義、カトリック教会の教権的支配などのために、農村はヴェルサイユ側にひきこまれ、パリを見殺しにするか、パリに敵対していた。農民はボナパルト派であった。なぜなら、大革命は農民の眼中において、彼にたいするあらゆる利益とともに、ナポレオンのうちに具象化されていたからである。この幻想は第二帝政のもとにおいて急速に崩壊しつつあったのであるが、この幻想、この過去の偏見は、農民階級の生々しい利害と緊急の必要にたいするコミューンのアピールに、いかにして耐ええたのであろうか。

4月末から、パリの危機が日程にのぼってきたとき、4月19日の宣言に見られるコミューン国家の「綱領」的な側面には、何ら修正がくわえられることなく、そのまま残されながら、危機への対応という実際面の必要性において、コミューン以前の二つの潮流が再現してきた。これを最も深刻に浮き彫りにしたのが、「公安委員会」の設置問題であった。

コミューンの中で、指揮系統を明確にするため、「公安委員会」の設置の可否が問われ

はじめたが、それは、あくまでフランス革命時のテロリズム(恐怖政治)の遺物であると同時に、スターリン体制の秘密警察の代用にもなりかねないものでしかなく、まったく不要であった。にもかかわらず、この問題はあとあとまで尾を引いた。ヴェルサイユ軍の軍事的圧力が強まってきた4月28日に、これはネオ・ジャコバン派議員のジュール・ミオによって提案された。公安委員会は、すべての委員会にまたがる広範な権限を持ち、「コミューンにたいしてだけ責任を負う」特別の委員会である。たちまち賛否の激論が始まる。賛成派は緊迫した情勢下に、迅速な措置をとるには、このような強力な中央集権機関が必要だという。これにたいして反対派は、フランス革命の追憶にしがみつく時代錯誤の独裁制で、無効なばかりでなく、人民主権の侵害だという。連日の激論のすえ、5月1日、コミューン議会は賛成45、反対23で提案を可決した。

公安委員会のメンバーには、アントワーヌ・アルノー、ランヴィエ、メリエ、フェリクス・ピア、シュルル・ジェラルダンの賛成派ばかりが選出された。反対派は抗議のため選出投票に加わらなかったからである。こうして公安委員会は発足したが、あまり効果があがらず、イシイ要塞陥落の5月9日に改選された。今度は投票に加わったが、やはり多数派ばかりが当選した。多数派と少数派の対立が高まるなかで、ついに22名の少数派は、5月15日にいわゆるコミューン議会への出席ボイコットを宣言した。こうしてコミューン議会は、分裂という深刻な事態を迎えた。公安委員会は、いくつもの重大な過失を犯したが、公安委員会を戦争の只中に引き入れたのは大きな誤りだった。

5月8日、ヴェルサイユ軍大砲の弾がパリ市内に撃ち込まれた。このヴェルサイユ軍によるパリの砲撃は、パリ市民をこの上もなく憤激せしめた。ヴェルサイユ派のトロシュ、ジュール・ファーブル、ジュール・フェリーらは、かつて、パリの砲撃を「近世史の記憶する最大の汚辱」と呼んだ。ティエールも、1840年12月、パリ要塞法案の審議に際して、パリの砲撃は考えられないこととしている。彼はまた、パリの砲撃に際し、「パリ市民よ、政府はコミューンのいうようにパリを砲撃しないであろう。政府はただ大砲を発射するのみであろう」と言って、パリ市民に裏切りを要求した。

綱領問題については、インターナショナルの連合主義が、コミューンの前半を主導してきたといってよい。しかし、4月3日以降の内戦の再開と、ヴェルサイユ軍の残虐行為とは、大革命時の恐怖政治を想起させ、コミューンの力関係を次第に、多数派の革命独裁の方に傾けた。

この分裂の理由は、これまで、コミューン以前からあったジャコバン派、ブランキ派の革命独裁論と、インター派の連合主義論との対立が、ここで改めて表面化したものだといわれている。これにたいして、別の見方が注目されている。ジャック・ルージュリが反論を出して、分裂の原因は、権力の集中か分散をめぐる問題ではなく、集中のあり方、さらにいえば、公安委員会に選ばれそうな人物への不信という人間関係のもつれがあったというのだ。60年代の抽象的な議論は、大衆革命という新たな現実の前で、ひとつのコミューン論に現実化した。その意味で、コミューン議会の分裂は、二つのコミューン論の対立ではない。

 それに、コミューンの軍事指導は、当初から混乱していたが、戦況が緊迫するにつれて、コミューン議会、大衆組織それに職業軍人の三者が入り混じって、ますます複雑な様相を呈してきた。はじめコミューンの成立と同時に、「国民軍中央委」は、全権力をコミューン議会へ「返還」したにもかかわらず、国民軍の指導、監督権を保持しようとした。それは、「国民軍中央委」が、市民兵の自発的連合体である民衆組織の性格上、直接民主制に固執したからである。

二つの競争勢力が、委員会に対抗してではないまでも、少なくとも彼らの前に立ちはだかっていた。ひとつは、冷静を保っている勢力、インターナショナルであった。その連合会議が3月15日に、再組織されており、それは「国民軍中央委」と連絡を保っていたが、「国民軍中央委」の傾向に不信をもったため、真に協力がなされるようになったのは、3月23日以降である。

もうひとつの勢力は、「国民軍中央委」である。この委員会の人々は、3月18日に勝利を収め、コミューン選挙までの困難な期間の空隙をうめてきた。彼らは、パリ市民にたいして適正な支援を与えた。そして、3月29日、彼らは身を引くことを発表したが、にもかかわらず、30日以降、「国民軍中央委」は2回の会議を開き、再組織化を行った。4月7日、同委員会は、再度、真剣な強い言葉でその引退を確認した。しかし、ヴェルサイユ軍との戦闘が、その約束を忘れさせ、危機が増大するにつれて同委員会は、すべての組織、すべての指揮権を監督すべく乗りだしてきた。

5月4日、軍事代表委員ロセルが、8日にはコミューンが、組織委員会を通じて「国民軍中央委」が軍事行政を握ることを承認した。そのとき以来、作戦の指揮に、一層、介入することになった。しかも、状況の論理が、「国民軍中央委」をもっと遠くまでひきずっていくことになった。5月21日、グレリエの機関紙『広報』によって、「国民軍中央委」は、パリ市民に「48時間以内に各人の住居に帰ること、この期限が過ぎると、公債証券と公債登録台帳は焼却されるだろう」と命令した。このようなテロリズムの威嚇は、さまざまな公共建築物の火災からの救出、さらに5月23日、叛徒からも弾圧軍からも、耳を傾けてもらうことのできなかった平和へのよびかけと矛盾するものだった。 

しかも、軍事指導は、武器や食料調達やスパイ容疑者の逮捕などの範囲も含むため、混乱は、コミューン議会管轄下の区行政局と、「国民軍中央委」の下部機構の軍団評議会との末端の対立にまでおよんで、重大な危機に直面した。パリの唯一の兵力である国民軍は、熱情や勇気においては優れているが、規律面ではほとんど無秩序に近い。このため、議会は軍団評議会の恣意的行為に憤慨し、これらの解散を決定したが、実効は上がらなかった。議会から陸軍省代表に任命された職業軍人のクリュズレもまた、国民軍を規律ある正規軍の形に編成替えしようと努力するが、「国民軍中央委」からは「独裁者的」「軍隊主義」との攻撃を受けた。

しかも、4月30日、クリュズレは、軍事指導について「国民軍中央委」はもちろん、コミューン議会にたいしても、専門家的な不遜な態度をとり、軍事独裁の意図があるということで、その独走的な行為が、議会の不信をかって罷免された。クリュズレにかわって陸軍省代表に任命されたロセルの態度も、ほぼ同じであった。ロセル任命の直後、「国民軍中央委」は、陸軍省代表を廃止して「国民軍中央委」から、それにかえるとの強硬意見があった。「国民軍中央委」の中には、「暴力的にコミューン議会を倒すための実力行為」の主張さえあった。この結果、陸軍省代表が作戦面の軍事指導、「国民軍中央委」が「行政」を担当するという、あいまいな協定が成立し、「国民軍中央委」の権限はさらに強まった。

さらに、ロセルは、彼なりに最善を尽くしたが、5月9日、辞任を申し出、告発を受け、クーデタを企てたのち、友人のCH・ジェランダンとともに、姿をくらました。彼は、メッツにおけるバゼーヌの反逆によって、「降伏することのできるような将軍をその仲間にもたず、かくも卑劣にフランスを敵の手に引き渡した人々に嫌悪を抱く」党派に移った。

5月10日、ドゥレクリューズが替わって、陸軍省大臣に就任した。彼は就任に当たって

「彼らが戦うのは自由のため、社会的平等のため、フランスと世界との解放のため…諸君の勝利が全人民の救済となるであろう。世界共和国万歳!コミューン万歳!」と声明を発表した。彼は、5月25日まで、その地位にとどまることになったが、この日、彼は、バリケードの上にのぼって、自らストイックな死を選んだ。その後も、この軍事的指導の混乱は改善されないまま、破局へ近づいた。「国民軍中央委」の問題は、単なる権限争いだけにとどまらない。大衆組織の矜持と自負があり、結果的にはマイナスになったが、軍事面でコミューン議会を突き上げて、強力な措置をとらせようとしたのである。コミューンの中核である「国民軍中央委」と、各組織との連繋が不十分だったため、政治力の機動性を発揮できなかったのは確かである。 

 コミューン議会への不信は、「国民軍中央委」のみでなく、クラブにも次第に強まってきた。もともと議会は、直接民主制を尊重して、「強制委任」のたてまえをとっているにもかかわらず、議員の多忙のため、選出地域の住民との接触を怠りがちになっていた。また、ヴェルサイユへの警戒のため、議事内容の公開が、はじめはおこなわれず、ようやくそれが『官報』にではじめたのは4月15日からである。コミューンの政策がかならずしも十分に実施されず、とくに軍事面で不手際がではじめると、民衆のあいだからコミューン批判の声が高まりはじめた。戦況が緊迫しはじめた4月末から5月はじめにかけて、クラブがめだって増えていた。この時期のクラブが、おしなべて直接民主制を強く表明していることは、この人々の気持ちを代弁していた。明らかに熱情にあふれた公衆は、3月18日以後に、又は再開されたクラブの会議にしげしげと通っていた。

「サン-タンブロワーズ愛国クラブ」は、コミューン議員のクラブへの出席を要求し、「第五区革命クラブ」は、クラブの提案にたいし、議会が返答することを要求している。そのほか、「医学院」のクラブ、モンパルナスでサン・ニコラ・デ・シャンに設置された「人民の友」のクラブ、モンマントルのサン・ベルナールに設けられた「革命」のクラブ、バティニョルのサン・ミシェルに設けられた「社会革命のクラブ、「ニコラ・デ・シャン・クラブ」は、議会が毎日2時間を、陳情書の検討にあてることを要求している。5月3日に開会式が行われ、オルガンで「マルセイエーズ」と「出陣のうた」が奏でられたサン・ニコラ・デ・シャンの「ジャコバン」クラブなどがあった

この風潮のなかで、「モリエール公会堂クラブ」のイニシアチブで「クラブ連合」がつくられ、5月5日に11のクラブが加盟して、第一回集会が開かれている。その目的は、クラブ間の意見を調整して、コミューン議会へ伝えるためで、明らかに、議会への大衆的圧力を強めるねらいがあった。このようにして、クラブはヌイイー守備隊の人々のいいなりに動き、彼らのために寝具と食料を手に入れた。サン・タンプロワーズのクラブ「デ・プロレテールは、その会員のなかの6名に、減俸に関する調査と、投機師に関する調査とを委嘱した。諸クラブは、部署の放棄、徴兵忌避者、怠慢な士官を告発し、その反面では、寡婦、負傷者を保護する措置を求め、また、戦闘員の家族のための住居、安い石炭、公設質屋に入っている抵当物件の無償請け戻し、逃亡ブルジョアの住宅と財産の没収、必需製品の徴発を要求した。諸クラブはコミューンのとった社会的施策に賛同し、さらに他の施策を要求し、あるいは提案したが、そのための経費は、フランス銀行から多額の融資がなくてはできないものだった。諸クラブは、コミューンの労働政策の基礎、あるいはその結果としての、労働組合のあらゆる示威運動を支持した。コミューン派のパリの諸クラブにおいて、婦人たちの演じた役割は、「パリ防衛ならびに負傷者看護のための婦人同盟」が証明しているように、その積極性は失われていなかった。

クラブと人民の諸組織のなかで、たとえば、エリザベート・ドミトリエフのように、インターナショナルに属する多くの指導者が活躍した。このように、コミューンは、強力な人民的潮流によって、あらゆる面から圧力を加えられていたのである。この流れは、パリの住民のイデオロギー上の要求と、物質上の必要とを満足させるのに役立つような措置の採用を、コミューン議会にたいして促さずにいなかった。そこには、プロレタリアート独裁の基本的な輪郭が、ほぼ描きだされている。数はもっと少ないが、力強い政治活動を示したのが、カフェであった。まず、カルティエ・ラタンのカフェ及びモンマントルのカフェなど、そこでは政治家、文学者、ジャーナリスト、風刺漫画家などの接触が保たれた。

コミューンと大衆組織との間のコミニュケーションの手段として役立ったのは、3月18日以降、雨後の筍のように続出した70余に及ぶ各種大衆新聞である。ジャーナリストと風刺漫画家は、いずれも諸新聞を自由に操っていた。新聞の数は反動的な、それにもかかわらず、不安定な形で存続していた諸新聞にたいする相次ぐ禁止の結果、3月の初めより少なくなっていた。ロシュフォールの『合言葉』、F・ピヤの『復讐者』、P・グルッセの『自由人』、ヴェルモレルの『秩序』、J・ヴァレスの『人民の叫び』、アンドレ・レオ夫人を主筆とする『社会主義共和国』、マロトーの『社会革命』、A・アンベールとM・ヴュイヨームの寄稿していたヴェルメルシュの『ペール・デュシェーヌ』、パスカル・グルーゼの『自由人』など、これらの大衆新聞は、編集者であるプチ・ブルジョア的知識人の持つ限界や弱点を免れなかったが、読者投稿欄を広く空けて、労働者の寄稿を歓迎し、彼らの要求をできるだけコミューンに反映しようとした。

 このようにして、集団的精神状態が形づくられ、維持され、激化されたが、そこには婦人や子供たちも加わっていた。1789年や1848年のときと同じように、婦人はコミューンの期間中、いたるところで活躍した。しかも、ルイズ・ミシェルやエリザベート・ドミトリエフのような女性だけではなく、労働組合の婦人活動家、前線部隊の婦人従軍商人、女性で編成された戦闘員、あるいはのちに「婦人石油放火犯」という十把ひとからげの非難に包まれる主婦たちが、それだった。このおそるべき時期に、多くの人々が愛しあい、多くの人々が結婚した。子供たちも、また、コミューン派の戦列のなかに入っていた。アルフォンス・ドーデの小説だけでなく、公式の資料によっても、子供たちの心理は明らかにされる。すなわち叛乱の終わりに、651名の子供が逮捕されたが、そのうち237名はおよそ16歳以下であり、226名が15歳以下、103名が14歳以下だった。そのなかには、8歳が1名、7歳が1名あり、87名が裁判に付された。5月の血の週間のなかで、子供たちや婦人たちも処刑されたのだった。

大衆運動は、軍事独裁を生み出す可能性をもっていた。人民主権の最もラジカルな直接民主制が独裁をもたらすというのは矛盾しているようにみえるが、それが革命権力の亜種としての軍事独裁の特徴なのである。この可能性は、陸軍省代表クリュズレの場合に、わずかにみられ、彼が議会から罷免されたのも、「独裁者」という不信をもたれたからだが、戦況がもっと緊迫してきたロセルの段階になって可能性は、さらに強まってきた。

ロセルと親交があった一活動家マルティネの回想録によると、4月末ごろから、ロセルの周辺にネオ・ジャコバン派議員シャルル・ジェラルダン、ブランキ派議員リゴ、ドンブロフスキー、ウロブレフスキーらの将軍連、民衆新聞『ペール・デュシェーヌ』編集長のヴェルメルシュ、国民軍中央委のエドゥアール・モローなどの小グループが形成され、独裁の陰謀がすすめられていたという。ところが、ジェラルダンは、公安委員会メンバーに選ばれて陰謀への熱意を失い、リゴは、ブランキの釈放の待機論にかたむき、ロセル自身は陸軍省代表に任命された。

ロセルの基本方針は、国民軍の素人部隊を効果的な戦闘部隊にかえること、すなわち、兵士や家族やクラブや居酒屋からきりはなして編成し、有能な旧軍人を任命制で起用することであるが、この方針は、「国民軍中央委」の反発を受け、議会からも支持を受けなかった。ロセルの「国民軍中央委」への接近は、おそらく5月4日夜に決意されたものとおもわれる。これはまったく手段としての接近だったが、それに踏み切らせたのは4日のムーラン・サケ稜堡、5日のクラマール稜堡の陥落という戦況の悪化だった。ロセルがイシイ要塞の防衛に専念している8日、彼の部隊再編案を権利の侵害として抗議に来た軍団長たちは、ロセルとの口論の末、翌日、「進撃の用意がある」1万2千の兵をコンコルド広場に集めると、確約した。

だが、その夜、その数が無理なことを通告してきた。万事休すと判断したロセルは、コミューンあてに辞表を提出したため、そのコピーを新聞へ送った。ブランキ派のダ・コスタによれば、8日夜からの一連の行動はクーデタ計画であり、コンコルド広場に集められた部隊は、ヴェルサイユ軍への進撃ではなくて、コミューン議会への急襲のためだという。

9日朝にイシイ要塞の陥落の報をうけたロセルは、彼自身の言葉によれば、「気休め」のためコンコルド広場に行くが、5千人の「みじめな群」を見出すにすぎなかった。ついで、ロセルは「国民軍中央委」へ行って、辞任理由を説明し、彼に全権を与えることを議会へ要求しようとの申し出を拒否して、そこを去った。議会から逮捕状がだされたロセルは、市内に潜伏し、ドゥレクリューズとひそかに連絡をとって、助言を与えたが、コミューン殲滅後の6月にヴェルサイユ側にとらえられ処刑された。ロセルがめざした軍事独裁は、反革命ではない。しかし、軍事的有効性を最優先するロセルの職業軍人的な思考が、大衆革命というコミューン革命の本質の理解をさまたげたのは明白である。

 公安委員会は、少数派が予言したように、何の実績も上げなかった。ただし、少数派の予言した独裁制のためではなく、「国民軍中央委」の反発や、ロセルの独走のため独裁機関にすらなれなかったためである。少数派は、その後も、しばらく議会内にとどまるが、はたして少数派の主張する「指導委員会」が、公安委員会よりも効果的であったかどうかは分からない。ともかく、次第に濃厚になるセクト抗争のなかでさえ、「少数派宣言」による分裂が生じたのである。

これは「区のなかへ身を退ける」こと、つまり大衆運動の中への回帰の宣明だった。この二つの革命路線のうち、明らかに少数派が、コミューン革命の本質を体現しており、大衆運動により近いようにおもわれる。しかし、民衆の反応を見ると、少数派を支持しつつも、その自重を要望する声が隠れた声としてあった。特に示唆的だったのは、5月20日に第4区のテアトル・リリックで開催された住民集会である。ルフランセなど4名の少数派議員の説得にもかかわらず、集会の空気は、ただ1人の多数派議員アムルーの主張にかたむき、少数派議員のコミューン議会への復帰を要請した。この大衆の反応の仕方は何を示しているか。彼らは、基本的には大衆運動を重視する少数派に親近感を示しつつも、同時に、その議会活動を見捨てた行動を「強制委任」の放棄とうけとった。彼らがコミューン議員に望むのは、大衆運動の尊重であるが、それへの同調ではなく、あくまでも大衆の願望を強力・迅速に実行することであった。少数派議員はその後、この大衆の声におされて5月21日の議会に、ほとんどが復帰した。しかし、それはヴェルサイユ軍のパリ進入の日であり、コミューン議会最後の会議であった。その点に関して、柴田三千雄は、次のようなことを言っている。

 

《このようにみるならば、コミューン議会は有効な指導性を発揮して民衆の要望にこたえることにより、軍事独裁を防止するという点では一致しながらも、多数派は中央集権的な独裁体制を樹立し「恐怖政治」をしく方向に解決を求め、これに反発して少数派は、直接民主主義の本義へ回帰することによって革命のエネルギーを汲みあげようとした。これが分裂の意味である。この二つの態度はコミューン以前の「政治革命論」と「社会革命論」の二潮流とまったく無関係ではない。しかし、革命指導というまったく新たな現実に直面して、民衆運動に内在する直接民主制と恐怖政治という二つの契機のいずれを優先させるかという革命路線の次元で生じた新しい事態であり、彼らが未解決のまま後世へ残した課題であった。》        『パリ・コミューン』 柴田三千雄著

 

 公安委員会の設置問題ひとつで、「政治革命」か「社会革命」の問題にすりかえたり、直接民主制と恐怖政治が、対の概念で提出されたりするのは、論理の飛躍・転換と組み替えとしか見えない。コミューンと社会主義の関係は、大いに関係があるが、柴田によると、第一インターの社会理論・運動が、唯一、その正当性をもっていたことを述べている。パリ・コミューンの中全体のなかでは、第一インターは全く微弱だったため、コミューンの大勢としては、社会主義運動ができなかったかのような言い方をしている。さらに、労働者の意識が未熟であったことが、それを証明するかのようにもいっているが、それは明らかな間違いである。すべての党派が解体することがなしとげられ、「政治革命」が完成することこそ、コミューンの意義が社会主義革命の契機につながるのである。

 以前から、「政治革命論」と「社会革命論」の対立が、コミューンを通じて顕在化した。斜めに見れば、「政治革命論」が勝利したかのようにみえるが、実際は、「指導された蜂起」ではないのだから、自然発生的な蜂起とよべる。だからこそ、どちらも予想しない現実に突き当たったということになる。だから、ここには「政治革命論」と「社会革命論」の両者をつつみこむ事態となったのである。

 パリ・コミューンの社会的措置を担当したのは、「労働・工業・交換委員会」であり、インター派が、この委員会の席を占めた。この委員会がおこなった措置には、労働者のみを直接の対象としない一般的な施策がある。それには、家賃支払いの全面的延期や、戦災家族のため逃亡市民の空家の接収、金融政策として満期手形の無利子・分割払い、貧民救済策として公認質店の抵当物件の売却停止や低額の生活必需品の無償返還等が上げられる。これらの措置は、下層市民から強い歓迎を受けたが、食料委員会がとった価格統制や配給制度と同様、特に社会主義的政策というべきものではない。労働者の生活に直接関係する立法としては、罰金制度の廃止やパン職人の夜間業務禁止令もある。これらも、いわば、社会主義的ではない。

 社会主義の問題をめぐって、第一インターの内部では、マルクス、プルードン、バクーニン各派が、指導権をめぐって、しのぎをけずっていたコミューンの時代は、理論だけでも現実だけでも、おさまらない時代だった。直近の第一インターの大会は、バーゼルで1869年に開催された。もともと、フランスのインター派は、最初から「政治」活動に不信感があった。したがって、パリ・コミューンが労働運動でない大衆運動によって成立し、コミューン議会のなかでは、社会的解放にあいまいな展望しかもたないネオ・ジャコバン派やブランキ派が多数を占める事態をむかえて、インター派の切実さは深まらざるをえなかった。関わりたくないが、それでも「政治」や「軍事」に関わらなければならないディレンマのなかで、一人ひとりが戦っていた。すなわち「政治」を否定して、社会的解放を達成するはずの、コミューンの政治形態が、古いままの「人が人を支配する」政治形態であってよいのか、目的のために有効であれば手段はどのようなものでもよいのかという自問自答が、ほんとうに生まれたのはこの時期だった。ある程度の矛盾なら、コミューンの開始当初からあった。だが、コミューンの成功に気持ちをとられ、問題の本質を見失っていただけではないのか。それほど深刻な問題であった。それは、この戦争でみずから生死をさまよう重さとともに、ますます、体の沁を埋めていくような感覚であった。

しかし、戦況が緊迫する4月末からこれは重大問題となってきた。彼らが「少数派宣言」を発して大衆運動へ復帰しようとしたのは、あまりに張り詰めていたディレンマに耐え切れなくなったからである。そして、インター派は、コミューンの全体がみえるようになった時点で、「労働・工業・交換委員会」を拠点にして、コミューンに社会主義的な実質を与えようと努力した。パリの大衆から出される社会的要求は、食料・住宅などに関するものが多かったが、中には例外的に労働者固有の要求も含まれていた。

 

《労働の経済的解放のもとにでなければ、コミューン憲法は一個の不可能事であり、一個の欺瞞であったであろう。生産者の政治的支配は、生産者の社会的隷属の永続と併存しえない。コミューンは、だから、階級の存在が、従って、階級支配が、よってたつその経済的基礎を根こそぎにするための槓杆として役だつべきであった。一度び労働が解放されれば、各人は労働者となり、そして生産的労働は階級的属性であることをやめるのである。》

                     『フランスの内乱』 マルクス著 木下半冶訳

 

マルクスは続けて言う。コミューンは、多数者の労働を少数者の富とするところの、あの「階級的所有権」を廃止しようとした。それは、収奪者の収奪を目指した。いままで、労働を奴隷化しこれを搾取する手段になっていた生産手段、即ち、土地と資本とを自由で協力的な労働の用具に転化することにすることを欲した。だが、労働者階級は、コミューンから奇蹟は期待しなかった。彼らは出来合いのユートピアから出発しなかった。彼らがめざすより高度の形態を完成するには、長い歴史的過程の闘争を覚悟しなければならなかったのだ。彼らは崩壊しつつある旧いブルジョア社会が孕みつつある新社会の諸要素を解放すること以外に、実現すべき理想などをもたない。

だが、労働委員会はこの要求に応えて、これを当時の社会主義の課題である「労働の組織化」への方向へ舵取りをしようとした。その最も代表的なものは、4月16日の法令である。これは、企業主がヴェルサイユへ逃亡したため、放棄されている工場を接収し、この経営を、そこの労働者の協同組合にゆだねようとするもので、まず、それに必要な調査のため、核になる労働組合に、調査委員会の設置を促すものであった。企業家には、将来、彼がパリに帰還したときに、組合側が補償金を支払って、最終的に工場を譲渡されることになった。この法令は放棄工場しか対象としないことや、補償金を支払うために、これまでは不徹底な措置とみなされ、その理由が、インター派に残るプルードン主義の後遺症のせいにされてきた。

しかし、4月16日の法令は、国防上の必要から、武器製造に限られていた民衆の愛国主義的な緊急措置を、労働者の自主管理という一般的な政策へ拡大した点に意義があった。また、放棄工場に限られたことは、コミューン下の大衆運動が労働者ばかりでなく、多くの親方層や企業主をも含んでいたために、やむを得ぬ措置であった。労働者組織の重視は、国民軍の被服の発注にも認められる。約17万の国民軍の制服を、コミューンははじめ、私的企業家に発注していた。その入札価格が安いためである。これにたいして、服仕立工の協同組合から、低価格は低賃金の犠牲に立脚するものであり、革命の本義にもとるとの苦情が労働委員会に寄せられた。このため、5月12日に、議会は、フランケルの主張で従来の発注を修正し、協同組合へ優先的に注文することを決定した。また、4月16日の法令にみられる労働者の「自己管理」という思想は、市営または国営からコミューンの直接監督下にはいったタバコ、造幣、国立印刷所、いくつかの武器製造の工場などで見られるようになった。特に、ルーブルの武器工場では、工場長をはじめ、全役職が、選挙で選ばれ、それらの代表者たちで構成される「工場評議会」が、工場の運営にあたった。直接民主制の原理が、工場内で適用されたわけである。このようにパリ・コミューンの「労働・工業・交換委員会」は、この段階における社会主義の課題である「労働の組織化」を実現するために工夫していた。ただ、労働および労働の解放という巨大な任務に直面したのであったが、社会主義社会の土台石を置くには、72日間のコミューンの生命にはあまりに短かった。

しかし、このために、コミューンの社会主義への過渡期の性格まで否定してしまうのは誤りである。社会主義にとって、パリ・コミューンは、最初の実践の舞台であった。そして、この実践を通じて、社会主義は後世の運動に、意味のある少なくとも二つの体験を残した。第一は、社会主義における「政治権力」の役割の問題である。国家を解体して社会主義の実現を考えてきたインター派は、はからずもコミューンという権力を用いて、その第一歩を踏み出すことになった。労働者の組織と労働運動が低下し、一般的な大衆運動の形をとってきた情勢下に、インター派は、大衆のなかから出された具体的な諸要求を「労働の組織」という社会主義的な方向へ編成していくために、労働委員会のイニシアチブを必要としたのである。放棄工場の接収、国民衛兵制服の発注、女性の生活協同組合の創設など、すべてそうである。これはインター派にとって、未知の経験であり、活動の新たな認識を開かせるきっかけとなった。たしかに、インター派の一部は、公安委員会とのこじれから「政治革命論」へ、さらに激しい敵意をもやす方向へ向かったが、他の面では無意識にマルクスに接近し、フランスにマルクス主義が導入される一因も作っていた。

第二は、労働委員会の社会主義政策にとっての障害は、時間の不足や議会多数派の熱意のなさばかりではなかった。この政策方向と大衆意識のあいだにズレが生じていた。このズレは、労働規律を要求する社会主義立法と、近代的規律をきらう当時の伝統的気質の労働者とのズレとして現われた。国民軍兵とおなじように、労働者にも無規律があることがはっきりした。71年の4月下旬から、再び、労働者の組織化が進行するが、大衆運動全体のなかで、労働者組織の占める比重は大きくない。これは、帝政末期の労働運動の高揚期とコミューン革命とが直線的につながっていたこともあって、地盤の変化をいやでも感得した。第一インターは、帝政末期の労働運動の高揚期を基準にして、運動の拡充の目安としてきた。これは労働者的な社会主義を標榜する活動家の組織で、連合評議会が中央機関となり、市内の各地区に支部をつくっていくものであり、1870年9月には13にすぎなかったが、その後に新設ないし再建され、71年5月には、少なくとも32に達していた。しかし、増加数にもかかわらず、労働者の組織が弱体化したため、支部の活動から、地区の一般の大衆運動に重点を切り替えることになり、また、コミューン成立後は、主なメンバーが議員活動に専念した。概して、インターの活動は、独自な組織の拡充策としては、顕著なイメージを示しえなかった。

 したがって、パリ・コミューンの大衆運動は、労働運動とも異なるし、その基盤、生活実態の基本について、改めて認識の変更を求められたのである。労働者の固有の組織ではなく、地域を単位とするコミューンは、一般住民の組織を主要な基礎としていた。これは、コミューンの難点としてあとあとまで、問題点が残った。もともと、第一インターの推進に当たっては三つの系列の転換期があった。

第一は、1870年9月4日の後に、各区に作られた監視委員会で、その中央連合機関が「20区中央委」である。これは大衆組織とはいっても、インター派、ブランキ派のほか、無党派の人々からなる積極的な活動家たちの組織で、その主要メンバーは、コミューン議員になったため、その後の「20区中央委」の活動はいちじるしく低調となった。しかし、監視委員会は、各区の活動の中核的存在であり、多くの大衆地域では、区の行政を掌握した。

第二は、休戦後に産まれた国民軍連合で、共和主義ないし愛国主義で結ばれた無党派の大衆組織である。その中央機関の「国民軍中央委」は、コミューン選挙で「20区中央委」に主導権をゆずったが、コミューン成立後には、軍事指導の権限をめぐって、コミューン議会の競争相手となった。その下部組織が、各区ごとの軍団評議会であり、区行政をめぐって当然に、監視委員会の対抗勢力となった。

第三は、各地区に生まれた民衆「クラブ」である。国民軍連合は大衆組織とはいえ、その基盤は、国民軍連合に結成された市民に限られているのにたいして、これは、文字どおり各地区の男女市民の、しかも、コミューン革命の運命に関心をもつ民衆の組織であった。クラブの萌芽は1868年に各地域に産まれた「公共集会」であるが、国防政府成立後の集会の自由によって、公共集会よりも恒常性をもつクラブが、学校、劇場、公会堂、キャフェなどに誕生した。クラブの設立の指導権をとったのは、インター派の多い監視委員会、ブランキ派、ジャコバン派などの活動家集団で、そのためクラブには、若干の特定の傾向があるが、しかし、若干のブランキ派の小クラブを除いて、クラブは特定活動家の道具ではなく、地区の自発的な民衆を主体とする大衆組織であった。彼らは、居酒屋やキャフェでのうさばらしをここへもちこみ、新聞を朗読したり、弁士の演説を聞いたり、時には、自分で発言することのなかで、同じ地区の住民同士の連帯感を確かめあったのである。クラブへの出席規模は分からないが、70年10月のベルヴィルの1クラブの回状に、約100名の署名がある。おそらくこれは中規模と推定できる。また、クラブの組織は、単純なものが多いが、有名な「ニコラ・デ・シャン・クラブ」のように、半月交替の事務局、毎週2回の会議、正当な理由のない連続3回の欠席者の除名など、かなり厳格な規約をもつクラブもあった。

この1870年秋の状況は、次のようなものであった。ボナパルト国家の崩壊は、普仏戦争の敗北によってもたらされたのである。したがって、大衆運動の噴出は、社会的要求ではなく、むしろ「祖国防衛」という「愛国主義」に鼓舞されて発生した。帝政から共和制への移行は、共和派議員の自発的意志ではなく、議会外の大衆運動の介入と圧力によって行われた。2月革命と異なって、この革命は、帝政の軍事的敗北の負債をひきついでいる。したがって、国防政府と大衆運動との関係は、政府がよく国防遂行の任に耐えうるか、という点をめぐって推移した。革命派の諸グループと大衆との間には、まだ大きな距離がある。ネオ・ジャコバン派は、もともと民衆との接触度が薄く、ブランキ派は、まだ閉鎖的な秘密結社にとどまっている。インター派は、1870年はじめの弾圧と、戦争による生産活動低下のため、活動基盤が後退していた。これらの諸グループが、愛国主義に鼓舞される大衆運動とどう結合していくかが課題であった。だが、9月4日以前から1792年の「反乱のコミューン」の再現を主張していたブランキ派にしても、ドレリューズらのネオ・ジャコバン派にしても、新政府にたいしては、慎重な態度をとった。「フランスを外敵から救え」の合言葉によって、共和主義と国防を代表するスローガンで、革命諸派は政府協力を暗黙の合意にして成立した。彼らはこぞって、すべての愛国的市民に党派を超えた団結を呼びかけた。

48時間以内に、国民軍9万人の市民が志願し、二百近い軍団が組織され、国民軍総数は約34万、254大隊に膨れ上がった。武装し訓練を行い、ついにコンコルド広場で閲兵式が開催された。壇上から見守るトロシュ将軍の心境は複雑だった。正規軍と同じことができるのかという思いと、彼らが、いつ、群集の中へ入り込むかわからない不安によってである。戦況はおもわしくなかった。スダンから南下したドイツ軍、第三、第四軍団が、パリの前に到着したのは9月18日であった。パリの攻囲がはじまるのである。さらに政府は、防御工事を施すのを故意に怠ったばかりか、パリをプロイセン軍の包囲するにまかせた。ヴェルサイユ、ストラスブールも敵軍の手におちた。中部以北のフランスは、プロイセン軍に四方八方かから蹂躙された。国防政府は、この間、時々思い出したように、見せかけだけの小規模な包囲網への出撃を試みては、あっけなく退却し、これを成功した偵察戦と言ってのけた。

トロシュ将軍が、そこに投入したのは9月に7万5千の歩兵、10月終わりに15万5千と123門の大砲、加えて訓練不足の11万5千以上の青年遊動隊、きわめて不揃いな254軍団に分かれた34万3千人の国民兵である。しかし、この30万余の国民軍は、劣悪な装備しか与えられず、ろくな訓練もうけずに、放置されたままの状態だったのである。正面のドイツ軍18万は、ただちに堅固な防御陣地を築いた。国防政府の作戦計画は「トロシュ計画」とよばれ、パリの軍を西方に出動させ、ロワール軍と合流させようとするものだった。この計画を実現させるためには、二つの条件が必要だった。まず、トロシュを信頼すること、第二に、政府のメンバー間の合意を得ることである。しかも、パリの人々の無条件的な支持である。

コミューン議会以上にパリの巷は、3月18日の自然発生的な熱気が、人々の気持ちを伝播し高揚させていた。『人民の友』、『ペール・デュシェーヌ』などの大衆新聞が刊行され、民衆クラブも誕生した。3月28日のコミューン宣言を、花と音楽の「祭り」として演出した民衆は、コミューンの短い日々を「祝祭」でうずめようとした。4月末、小ブルジョア共和派のフリー・メーソン連合が、コミューン側になびいたことが決定した日には、攻囲中の最大の祭りだった。破壊作業にも参加した。第9区のルイ18世の贖罪礼拝堂の破壊、第11区のギロチン台の焼却、ティエール邸が破壊された。

ヴァンドーム広場のナポレオン圓柱の倒壊は、「ラ・マルセイエーズ」と「出陣の歌」が沸き起こる中、5月16日5時半に倒された。コミューンは、自分がまさに創始しつつあることを意識していた歴史の新紀元を明白に画するために、一方では勝利したプロシア軍の眼前において、また、他方では、ボナパルト派将軍の指揮するボナパルト派軍隊の眼前において、軍の栄光のある巨大な象徴であるヴァンドーム圓柱を引き摺り倒したのである。大衆は、次々と革命の祭りを盛り上げた。また、破壊ばかりでなく、画家のギュスターヴ・クールベが、装飾職人まで含めた芸術家の連盟をつくり、「政府の庇護と特権から解放された芸術の自由な表現」をスローガンに、新しい芸術運動を起こした。演劇会、音楽界についても、帝政の芸術から市民的美徳にかえようと努力した。また、詩も産み出した。ジャン・バティスト・クレマン、ウージェーヌ・ポティエ、アルチュール・ランボーなどの詩人が、政府への怒り、解放の喜びなどを歌い、節をつけられ、シャンソンとして大衆に歌われた。大衆が最も好んだシャンソンは、クレマンが帝政下に作った「さくらんぼの熟れるころ」で、今日でも愛唱されている。

しかし、4月16日の再選挙が終わってから、コミューン内部の対立や確執が目立ってきた。たとえば、4月17日の会議では、戦局に関する詳細な報告を求めた何人かの議員が、軍事代表委員のクリューズレが、2日前から欠席していることを非難し、釈明を要求した。コミューンと軍事代表委員との軋轢の一端である。また、この会議では、16日の選挙で選ばれた新議員ヴィアールを、保安委員会の代表委員に任命しようとしたとき、ラウル・リゴーが反対した。この任命は、かなりの議員が、リゴーの権力乱用を批判しており、そのため、保安委員会のメンバーであるリゴーのそばに、もう一人委員をおこうとしたものである。

これらの対立は、4月19日の会議でも再燃する。軍事代表委員クリューズレは、激しい攻撃を受け、議会にたいして辞任を申し出た。リゴーもまた、保安代表委員の辞職を主張し、執行委員会と保安委員会との間の争いを浮き彫りにした。議会はいずれも辞任を受けつけず、3名のメンバーからなる特別委員会に調査検討を委任することになった。

コミューンと軍事代表委員との対立は深刻になり、4月22日、ジュールドは、コミューンが、軍事委員会にクリューズレ将軍を監視し、誤りをおかしたら、処断することを要求すると述べた。結局、コミューンは、軍事委員会に、軍事代表委員会の運営に関する調査を行わせることになった。この日、クリューズレは、ヌイイにおける停戦の処置をすることを決めた。コミューン議会では、クリューズレが窮地におちいっていた。議員が保有する兵力を質問したとき、曖昧な答え方しかできなかったのだ。情報の精密さについて、当然、非難の声が上がった。4月24日、リゴーにかえて、クールネを保安委員会の代表委員に任命した。停戦の実施は延期され4月25日になった。この日の会議ではコミューンの権限にたいする「国民軍中央委」の交渉があらためて問題になり、シャレンがクリューズレの罷免を要求した。

4月末から、ヴェルサイユ軍の攻勢が増してきた。戦闘は4月末まで、決定的な動きはなく、ややヴェルサイユ側が押し気味に圧力を加えた。ヴェルサイユ軍は、パリへの突破口を西南部のポワン・ドゥ・ジュール拠点に向け、これを保護するイシイ要塞に、次第に砲撃を集中しはじめた。イシイ砦を中心に激しい攻防戦が展開された。イシイに関して、パリとヴェルサイユとでは、報告に非常な食い違いがあった。両軍が一進一退を続けていた。だから、パリは、攻囲といっても、東から食料の供給ができたため、政府がパリを完全屈服させるには、封鎖ではなく軍事的突入しかなかった。双方の兵力は4月下旬までは、ほぼ互角であった。

コミューン側は、公式には20万人の国民軍をもっているはずであるが、服役拒否、編成の不手際で、実勢力は6万に満たない。しかし、豊富な武器に恵まれており、特に、砲兵は優秀な技術をもっていた。また、パリの城壁の周囲に点在する要塞は、6つのうち5つを確保していた。4月27日、コミューンは、イタリア大通りにあるブレア教会の撤去に関する布告を採用した。コミューンが、当初から反教会、反聖職者、反宗教的な運動であったことは明らかであった。しかも、この教会は、1848年6月に2月革命で闘った大衆を過酷な手段で弾圧し、パリ労働者の手で殺されたブレア将軍を記念して建てられたものだからということだった。

同日、執行委員会は重要な決定を行った。いままでいくつかの管理機関は、給料及び賃金に関し、罰金あるいは天引きの方法を用いた。こうした身勝手な人を困らせる天引きを命令で取りやめることにしたと発表した。また、4月28日にも、コミューンは布告を出した。パン製造所における夜間労働に関して、朝5時以前に労働することはできない旨、布告を出した。この4月28日の会議は、盛りたくさんの議論が展開された。第一は、国民軍内部の対立に関してだった。将校相互も関係が悪かった。こうした点を上げ、軍規の粛清を求めた。アヴリアルは、砲兵隊の無秩序な状態を強調した。ブランシェがアヴリアルを支持して発言した。「人びとの心の中では、コミューンは失われた」。彼は、軍団の中にコミューンを嘲笑する者がいること、そのある者は武器を捨て荷物をもって、すでに姿を消したことなどを上げた。

次の議題は、公安委員会の創設の問題だった。大革命がそうであったように、反革命家、反動家にたいする闘いは、時として過激な手段を許容する傾向を産む。それは、状況が深刻化するにつれ、コミューンの内部に起こる変化として現われる。執行委員会が、ブランキスト、ネオ・ジャコバン派を中心に構成され、その革命的コミューンの性格を色濃くしたのもつかの間、大革命の核となった公安委員会をもちこもうというのである。ジュール・ミオが行った提案は、戦況の重大性を考慮し、早急にもっとも抜本的かつ精力的な手段を必要とすることから、「公安委員会」を直ちに創設するということだった。個別的投票で、コミューンが任命する5名のメンバーによって構成される。すべての特別委員会にたいし、もっとも広汎な権限が、この委員会に与えられるというものであった。この提案は、議論の末、24対17の投票の結果、採用された。だが、コミューンをさしおいて、この委員会が、独裁権をもつことを警戒する意見が相次ぎ、論争は4月30日に持ち越された。アルノーとロンゲが、公安委員会ではなく、コミューンのいっさいの布告を実行させる専門の委員会を設けることを提案した。

マロンは「監督委員会」の設置をもち出した。彼らは「公安」という名に恐れを抱いて

いたのである。投票は26票の同数で、決定は翌日に延期された。5月1日は、この投票で始まった。ブランキ派のミオらよる公安委員会の設立提案は、伏在していた多数派と、少数派の対立を、決定的な亀裂へと導く直接の契機になった。ルフランセ、クレマン、フランケル、ヴェルランら主としてインターナショナル派の議員は、公安委員会を無用の過去の遺物として批判し、人民に直接責任を負うコミューンが、独裁的機関にその権限を委譲することは、人民主権の侵害であるとして、ミオ案に強硬に反対した。しかし、ミオの提案は、これらの反対派を押し切り、5月1日、採択された。62票のうち「公安委員会」に賛成するもの32名反対は28名であった。この反対者たちは、少数派の社会主義者であった。討議の中で、この委員会に、広汎な権限を認めることへの危惧がみられたので、ヴェジニエが「コミューンのメンバーは、コミューンの裁判管轄以外にはいかなる裁判管轄の前にも召喚されることはない」という項目を付加することを提案して、それが投票のきめてになった。

提案全体にたいする投票結果は、68名が投票して、賛成は45名、反対は23名であった。続いて、この委員会を構成する5名のメンバーの指名が、分離、個人的な選挙によって行われ、次の5名が選ばれた。アルノー、ランヴィエ、メリエ、ピア及びCh・ジェランダンである。棄権者が多かった。5名の指名の前に、抗議文を議会に提出してすでに退場してしまった議員もいた。他の棄権者も抗議文を提出した。この時、以降、少数派議員の多くは、会議にあまり出席しなくなり、評議会・諸委員会の開催数と開会時間がめっきり減った。公安委員会そのものも、軍事独裁化をねらう「国民軍中央委」や「陸軍代表」ロセルの対立をふかめ、個人攻撃に身をすり減らした。そのため、有効な革命防衛手段が何一つできなかった。議会のディレンマは、革命的手段に優先権を与えることによって、新しい社会秩序を築くか、反乱の時代の英雄的過去を忘れて、平和的な自治コミューンの上に、経済機構の第一歩をおくかにあった。5月9日の会議で、ドゥレクリューズは、この公安委員会を「引退に追い込む」ようコミューンに要求する。「それは言葉だけである」。だが、議会は秘密会議で、これを廃止するのでなく、強化する決定をした。第二次公安委員会が発足し、メンバーとして、ランヴィエ、アントワーヌ、アルノー、ガンボン、ウードそれにドゥレクリューズが加わった。将軍であり、ブランキストのウードの加入は、この委員会の独裁化への徴候をはっきりさせた。5月9日、「公安委員会は期待されたことに何も応えなかった」というドゥレクリューズの厳しい批判によって、公安委員会は改組され、前委員のアルノー、ランフィエに、ガンボン、ウード、ドゥレクリューズが新たに加わり、「第二公安委員会」が構成された。ただし、まもなくドゥレクリューズがロセルに代わって「文官軍事委代表」に推されたため、12日、彼の後任として多数派の強硬分子ビリオレが、公安委員会に入り、少数派との葛藤はますます深めた。

 コミューンは、さらに三つの決定を行った。ひとつは、軍事代表委員として民間代表を任命することであった。これはロセルが辞任したためで、ジュール・ヴァレスの推薦するドゥレクリューズが、46票中42票を獲得して任命された。そのため、彼はこの職務と公安委員としての仕事は両立できないとして、後者を辞退した。公安委員会のメンバーに、彼にかわってビリオレが加わる。第二は軍事法廷を作ることで、この構成メンバーは、直ちに、軍事委員会によって任命される。第三は公安委員会を市庁舎内に常置することであった。

4月28日には、また、軍事代表委員は、首都防衛計画を発表した。それによると防衛兵力を二つに分ける。一つは、パリ市外において敵と戦う戦闘部隊であり、もう一つは、パリ市内で防衛態勢をとる常駐国民軍である。前者の市外防衛兵力はさらに大きく二つの命令系統をもつ部隊に分けられる。第一はサン・トゥーアンからポン・デュ・ジュールの地域を防衛する軍でその指揮権は、ドムブロフスキイ将軍に与えられる。第二はそのポン・デュ・ジュールからベルシーにいたる一帯の防衛を担当する軍で、ヴロブレフスキイ将軍を総司令官とする。各総司令官はただちに、総司令部に軍事顧問会議及び憲兵本部を設置する。いかにも、おくればせながら、軍事代表委員がこの防衛体制を発表したのは、戦局がいよいよ逼迫し、パリの不安が増大していることを表わしていた。責任をもつべきコミューンは、その中で顕著な成果もあげられず、次第に孤立しているのを感じていた。この日、コミューンが地方の人民にあてた宣告には、その危機感がよく現われている。

4月29日、イシイ、ヴァンヴの両要塞、ポン・デュ・ジュールの陸橋付近でのヴェルサイユ軍の大攻撃が報じられた。明らかにその攻撃力が強化されているという印象は、パリ側の報告からも推察できた。

こうした中で、5月15日、ルフランセ、クレマン、ロンゲ、フランケル、パンディ、トリドン、ヴァレス、ヴァイアン、クールベら、コミューンの最も優れた指導者を含む22名の少数派委員は、「少数派宣言」として知られる次の声明をだした。「パリ・コミューンは「公安」の名を与えた独裁の手中にその権力を譲り渡した。コミューンの多数派は、その投票によって、責任を負えないことを自ら宣言し、われわれの状態の全責任を、この委員会に引き渡した。多くの市民がそのために毎日死んでいく。われわれの偉大なコミューンの大義に忠実に、われわれはおそらくあまりに等閑視されてきた、われわれの区に引き込もるであろう」。この少数派のボイコット戦術は、多数派を、一層、革命独裁とテロルの方向に追いやった。「公安委員会」の設立に多数派がこだわるのは、パリ・コミューンを事実上の「革命政府」に転化しようとする試みがあったからである。

少数派やルフランセやブノア・マロンは、コミューン敗北の責任を、主として多数派に帰している。しかし、次のような見方が一般的であった。

 

《しかし、これは、明らかに一面的でセクト的な独断であろう。たしかに「公安委員会」の設立は、いたずらに恐怖政治の過去の思い出にすがる時代おくれの発想の産物ではあったが、せまりくる敵軍を前にして、革命派の結束こそ何よりも肝要であり、少数派はむしろ既成事実となった公安委員会をもりたてて、防衛に全力を注ぐべきであったであろう。インターナショナルの支部連合や、これに近い民衆クラブの多くが、革命戦士の統一と団結を、どんな犠牲を払っても維持する必要を訴え、少数派の欠席戦術を「脱走」と受けとったことは、マロン自身も認めている。》 『パリ・コミューン』 桂圭男著 

 

 桂の判断では、皆も一生懸命やっているのだから、少数派もそれにおくれるなという尻たたきぐらいにみえるが、実は、この問題は、セクトの色分けに関係する以上に、革命論において重要な意味をもっているのである。いわば、なぜ、コミューンを選んだかという根本的な問題点にまでいきつく性質のものであった。「革命的コミューン」ができるぐらいなら、クーデタでもよかったはずではないか。したがって、ブランキやネオ・ジャコバン政治が、中央集権的な強権政治をもちこむのは明らかである。それは、ブランキの思想や大革命の際、ロベスピエールが行ったことを見れば、はっきりしている。ジャコバン専制政治やプロレタリア専制政治が、戦争から身を守るという口実のもとに、味方に責任をなすりつける、権力の名をかりた最低の産物であることは、フランスの大衆なら、ほとんど誰もが知っているはずだ。

コミューンは、「プロレタリア独裁か」という設問は、政治権力の抑圧機能の度合いで

判断されるのではなく、政治権力の性格によって違いが判断されるということが、皆には理解できなかった。つまり、恐怖政治との区別がつかないまま、それとからまって、「プロレタリア独裁」の問題が提起されたのだ。コミューンの成立当初の趣旨からいえば、「プロレタリア独裁」であるのに間違いない。だが、それは、ここで各党派が議論している問題とは、次元も対象も異なっていたのである。それにしても、戦争が劣勢においこまれると、なぜ、こういうふうな自己防御的な考え方が台頭してくるのかわからない。公安委員会がやることといえば、反対派の弾圧、新聞の発禁処分そして密告の奨励である。戦時であろうが平時であろうと、こんなことをすること自体、最低の反革命行為が煮詰まった結果であると考えなければならない。

 さらに、コミューンの内紛を複雑にしているのは、「陸軍省軍事委代表」ロセルと「国民軍中央委」が結託して、軍事独裁政樹立の陰謀があったかどうかということである。4月30日に、国民軍の指揮権を握ったロセルは、一方で、イシイ要塞に兵力を送り込み、同時に市街戦に備え、広場、大通りにバリケードを構築するなど、当面する任務をこなしているように見えたが、一方、「国民軍中央委」の内部では、「邪魔で無能なコミューン」にたいするクーデタ計画が、野心家のエドアール・モローらの手で、ひそかに練られていたという。ロセルは、職務妨害を受けた「国民軍中央委」に接近して、乱れた指揮系統を統一したいと考え、5月1日、公安委員会のブランキ派委員シャルル・ジェラルダンの仲介で、ひそかにモローと会談した。その結果、軍事クーデタについて、合意が成立した。コミューンの「おしゃべりと無策」にうんざりしていたドンブロフスキー、ウロブレフスキーのポーランドの両将軍も、クーデタに参加した。5月3日、モローの手で「軍事上のすべての権限を『国民軍中央委』に譲り渡す」ことを要求した最後通告が作成された。翌4日、公安委員会との激しいやりとりがあったのち、ロセルは、陸軍省の行政権を「国民軍中央委」にひきわたし、自分は軍事指揮権のみを保持することを、コミューンに認めさせた。5月9日のイシイ要塞の陥落は、クーデタ決行のための絶好の機会と受け取られた。市庁舎を急襲、占拠するため、総閲兵と称してコンコルド広場に、1万2千名の国民軍の動員令状を発した。しかし、この最後の決定的段階に到って、ロセルはにわかに変心した。予定した兵力が集まらなかったことも、かれの逡巡の原因であった。彼は突如として身を翻し「軍事委代表」の地位を辞任すると発表し、新聞に書き送った。改組した公安委員会は、5月10日、ロセルの個人的反感を抱くピアの要求をいれ、一切の責任をロセルに転嫁し、かれの逮捕令状を発した。

 こうして、「国民軍中央委」との敵対とも絡み合って、多数派対少数派の抗争も激化し、コミューンは、一路、自壊と破滅への道を進んでいった。これらのコミューンの内紛が、ヴェルサイユ側にますますつけいるすきを与えた。ティエールは、ボルドーで予定されていた、内戦の平和解決のための全国都市会議の開催を禁止し、指導者を逮捕させ、パリと地方都市を完全に分断することに成功した。また、フロットらを介して、数次にわたって行われた人質の交換に、ブランキを釈放させようとする交渉も、ティエールによって無視された。ダルボア大司教の親書を携えて、パリから送り込まれ、人質の解放を行おうとしたラガルド師は、固い誓約にもかかわらず、パリに帰ってこなかった。捕虜フランス兵の送還に伴い、軍隊の漸次の増加はヴェルサイユ軍にたいして決定的優越を与えた。この優越は、4月23日にティエールが、コミューンから申しだされた交換、即ち、パリ大司教その他の人質としてパリに捕らえられている一連の僧侶全部と、たった一人のブランキとの交換のための交渉を中止した時にすでに現れていた。こうして、ブランキ1人と人質全員を交換するという最後の提案も、冷たく拒否され、5月13日、交渉は最終的に決裂した。ティエールは、パリに血の償いをさせる口実を得るため、大司教の処刑をむしろ望んでいたのである。いままで慰撫的であり、二枚舌的であった彼は、いまや突然厚顔になり、威嚇的になり、乱暴になった。

 コミューンの難しさは、コミューン内の「公安委員会」をめぐる葛藤(ネオ・ジャコバ

ン派とインターナショナル派)および「国民軍中央委」との敵対的な関係に集約される。

もうひとつ重要なのは、コミューンと自称しながら、「社会革命」(社会的・経済的解放)がほとんど進んでいなかったことである。コミューンは、政権獲得後の経済・社会構成の革命の具体的プランをもっていなかったのではないか、という疑念が頭にのぼる。一部の工場の自主管理は試行したものの、所詮、社会全体のものになるためのツールをもっていなかった。だが、ほんの少数の有能な人々の力によって、コミューンは、人民の政府の試みのスケッチを行っていた。たとえば、営業主に放棄された仕事場の経営再開に関するものである。放棄工場に協同組合を設置して、これを労働者に引き渡すことである。たしかに、営業主にたいする賠償金は予定されていたが、個人財産に対する一種の攻撃であったが、それで、コミューンが当時において具体的な共産主義的な道の第一歩を記したというわけにはいかないが、共産主義の概念の整理ができるきっかけになったことにはちがいない。また、「集産的な譲渡できない資本をもつ連帯責任の組合によって労働を組織する」心構えをしていた機械並びに金属労働者によって、推進力が与えられた。仕立工、高級家具師、釘工、ボルト工、部品工も同じく推進力になった。

ただし、これまで述べられてきたこと、これから労働の組織に関連して指摘されるであろうすべてからみて、やはり、政治形態のうえで、新しいものであった。しかし、マルクスによって明確に示された、経済・社会構成の変革等については、ほとんど手がとどかなかったが、それは民衆の切実な家賃、手形、質屋などの措置など、あらゆるささやかな日常的現実に取り巻かれ、その気質と方法との矛盾につきあたり、コミューンの意義を明らかにしつつも、希望をもたらすような本来の任務を、具体的に完成するだけの時間がなかった事情もある。さらに、戦闘状況は、四囲の状勢によるものであるが、それ以上に、その理念が、多くのひとびとにとって不明確であったことが、何より影響している。だが、コミューンはプロレタリアートの発想にもとづく体制に向かっての、多かれ少なかれ一貫した熱望によって導かれてきたのであって、それが、近代国家の機能の充足のかわりに、労働者問題に真の力強さをもたらし、この問題を社会正義と平等主義的組織という否定できない精神をもって、解決しようと試みたことだけは確かである。
 もし、コミューン側が、ヴェルサイユ軍との戦闘に勝利していたら、コミューンは正常に機能したか。社会主義としてのコミューンの意義は失われないが、当時の生産力と生産関係の水準のなかにおいては、不可能だった。また、地域主義又は地方主義に陥って、自力では革命できず、他都市のコミューンの成立に向けて援助し、連携せざるをえなかった。連邦制の意義はその点にしかない。また、コミューン側がヴェルサイユ軍との戦闘に勝利していたら、ドイツとの講和条約の締結を、最優先課題として取り組んでいたことは間違いない。パリ・コミューンの発端が、ドイツとの戦争と、その終結の問題から派生したものだからである。

また、一部の人が危惧したように、コミューン側が、ヴェルサイユ軍との戦闘に勝利していたら、ドイツ軍が進攻して、パリを破滅に導くおそれはなかったか。ドイツ軍については、彼らが戦争の再開を強く望みでもしない限り、彼らは講和条約の締結に関して、ティエールの代わりにコミューンの代表が対応しても、何の重要性も与えなかっただろう。ドイツ軍は、むしろ内政問題に巻き込まれまいとしていた。

 

8 コミューンの最終戦

 

ティエールの側は、首都に秩序を確立するため、あてにできるのは、パリからつれ帰った士気沮喪した軍隊と、パリ周辺の城塞ないしは地方から引き上げてきた若干の徴集兵とで全部で2万2千人のみだった。しかし、ティエールは3月18日の失敗をそのままにしておくことはできなかった。彼はまもなく、63,503名の人員と、2,400名の士官を結集することができたが、これは、パリ地域に維持できる兵員の数を、最高4万におさえた仮講和条約の許容する数字を上回るものであった。彼は、秩序を再建するために、より多くの兵員を得ようとしてビスマルクと折衝し、3月28日の協定によって、8万名の許可を得た。そして、最後には、17万名を獲得するに到ったが、そのうち13万名の兵士は、J・ファーブルがフランクフルトで行った交渉により、ドイツの捕虜収容所から返してもらったものである。

ビスマルクの悪意ある好意と、ティエールの一徹な復讐心の力で再建されたこの軍隊に、ティエールは指揮官として、マジャンタ公マクマオンを任命したが、(4月6日)、彼は、最近、捕虜収容所から帰ったばかりであり、敗軍の将ではあるものの、議会のお気に入りだった。ティエールは、彼自身が1840年に、パリの城壁の堅固さを経験で知っていたので、十分に弾薬を備えた強力な攻城砲を集中させた。

こうして、あらゆる権謀術数を使いわけながら、5月10日、フランクフルトの対独講和条約に調印し、捕虜の大量送還をうけて、パリ攻略の準備を完了した。5月8日、ティエールは、パリ市民にたいして最後通牒をつきつけ、パリ市民を抑圧している「少数者」に烙印をおして、パリ市を明け渡すことを要求した。この文書が晴れがましく掲示され、公表されてまもなく、公安委員会は、ティエールの邸宅の破壊を決定した。調停者の行動は、コミューンの擁護者の力を弱めずにおかなかったが、コミューンはこれをなすがままに放置していたし、ヴェルサイユはあくまで非妥協的だった。

ティエールは、共和派がパリの虐殺にたいして、みてみぬふりをする口実を必要とした。彼は5月18日になっても、中流階級和解論者の代表団に向かって答えた。「叛徒が降服する決意をするならば、パリの城門は、一週の間、クレマン・トマおよびルコント両将軍の暗殺者を除いて、総べての人々に対して、開け放たれるであろう」。ところが、マクマオンがティエールにたいして、間もなくパリへ入城することができるであろうことを保証するや否や、議会に宣告して言った。「自分は法律を手にしてパリへ入城し、そしてわれわれの兵士の生命を犠牲にし、われわれの公の記念碑を破壊した悪人ばらに対して、完全な贖罪を要求するであろう」。そして、決定的な瞬間が近づいた時、彼は、議会に向かって「私は無慈悲であるであろう!」といい、パリに向かっては、パリは宣刑されていると言った。何と、ティエールにとって、コミューンは、人民自身の政府ではなくて、一握りの犯罪人の簒奪だったということなのだ。幾月かの間、コミューンが、やってきたことは、悪鬼のような血に飢えた本能を、その苦悩の時代に発揮するために、しばらくの抑制と人道の仮面のもとに注意深く隠蔽してきたかのようであった。

彼が3月18日に、モン・ヴァレリアンの占領を行わなかったのは軽率であったが、彼以上にこれに注意をはなわなかった「国民軍中央委」の軽率さを、彼は利用した。しかもティエールはドイツ軍のなかに、有効な協力者を見出したのだ。フランス政府の長官は、パリの崩壊後に、こんなにも援助を要請しているドイツとまた戦争するようなことはしない、と約束したのも同然であった。外交、軍事、戦術の面で、ティエールは、すべて用意したが、そのなかには、モントルトゥー砲台の8日間での建造、スパイ、密偵の使用が含まれていた。また、国民にたいしては、彼の新たな共和的信念を認めさせ、議会にたいしては、彼を秩序の擁護者に仮装して、報復者と見なされるようなことのない彼の政治技術が含まれていた。さらに、参謀本部の精神的、政治的諸傾向は、首都と敵対する議会の意図と一致していたし、また、なまなましい敗戦の償いは好ましいとはいえないが、叛乱したフランス人にたいする成功のうちに見出そうとする、口には出されない感情も、おそらくは考慮に入れなければならない。

ティエールにたいして、パリ市民の意見が、次第に激化していったのは何ら不思議ではない。最初のうちは、あらゆる種類のひやかし、あらゆる性格の戯画であった。それが、徐々に憎しみが現われ、広がっていった。

正規のほとんど職業的な軍隊であるヴェルサイユ軍に向き合うのは、「コミュナール」という集団的あだ名をつけられた連盟兵である。それは志願兵(国民軍)の軍隊であり、もう一方の旗のもとに戦う軍隊であり、この軍隊は軍国主義的な考え方を全くもっていないことをティエールは知っていた。連盟兵の126個大隊は、アペル将軍によれば、77,800名の現役国民軍、106,909名の駐屯衛兵、前者にたいしては3,649名以上の士官、後者には7,933名の士官を集めていた。

紙の上ではかなりの数字であるが、それはだいぶ割引いてみなければならず、おそらく4万名ばかりの戦闘員に還元されねばならない。兵員の出血を前にして、コミューンは、その最後のときになって、17歳から35歳までのパリ市民全員を戦列に加えようとする措置をとった。コミューンは「徴兵忌避者」をきびしく取り締まったが、おもいどおりにすることは、とてもできなかった。したがって、ヴェルサイユ軍に対する首都の抵抗が、ひとにぎりの人々によって、遂行されたことは認めなければならない。

これらの人々「30スー」(日当のこと)は、あらゆる悪事、まず酒癖、そのなかに前科者を含んでいることなどで、非難されてきた。その速成軍隊の名称や、その奇妙な制服、活発な示威運動は、皮肉の的になっていた。選挙で選ばれた士官の服装、はでな飾り、袖章、それに軍事的訓練が短いことなどが、嘲笑を浴び、飾り緒をつけた参謀勤務のむやみな増加がよく批判された。しかし、パリがおかれていた精神的・物質的状況を考慮に入れるなら、パリがよく防衛され、身の毛のよだつような市街戦ののちでなければ、退けなかったという事実は否定できない。連盟兵の先頭に立った指導者たちも、彼らが浴びせられてきた非難のすべてに値するのだろうか。

軍事代表委員としてのクリュズレは、1843年の士官学校出身であり、虚栄心の強い冒険家だったが、ともかくクリミヤとアメリカで戦争を学んでおり、軍法会議を設置することによって、国民軍の内部に秩序と規律を尊重させようと試みた。彼は、イシイの城塞が陥落したさいに罷免され、マザに監禁された。作戦の遂行自体は、最初は、しばしば勇敢な、最も多くの場合は、凡庸な一群の人々に委ねられた。コミューンは、ヴェルサイユにたいして、パリの城壁の外ばかりでなく、その内部においても戦わねばならなかった。まず、裏切りの疑いが、自然発生的に生じ、あるいは敵の手によってひきおこされた。アシ、クリュズレ、ロセルが告発されるか、もしくは罪を告白した。ドンブロフスキーは、スパイのヴェーセと関係をもっているとされた。そのほか、二重スパイ、たとえば参謀長でティエールの手先だったバラル・ド・モントーは、バリケードのプランや軍需品の蓄えについての情報を提供し、5月3日以降は、ひそかに軍隊をパリに導入させるための提案を行った。

戦争には調停はつきものだ。調停者は裏切り行為ではなかったが、彼らの試みは確信ある人々の士気を幾分減退させた。4月の初めに労働組合会議連盟、次いで『パリの将来』紙の事務所に設けられたパリの諸権利擁護共和同盟、第五、六、七区の自由業のパリ市民、『人民の叫び』紙の声を通じての、プルードン主義者P・ドニ、パリ選出の代議士、特にV・シェルシェル、フリーメイスンの主だった人々は、4月の4日から12日にかけて、和平の工作を休みなく行った。しかし、ティエールは、叛徒があらかじめ武装を解くことを要求し、休戦という考えを拒否した。そして4月14日、国民議会は、497票対16票で自治体法(パリには旧来の例外的制度をとどめる)を可決した。ヴェルサイユの側に善意があるようには思えなかった。だが、調停者はくじけなかった。のちの戦闘の際、ヴェルサイユにおける停戦の交渉のときに、共和同盟連合は、活動を再開し、商工業国民同盟、ついでソー及びサン・ドニの各区の区役所グループがこれに続いた。シェルシェルは和平の提案を行い、ヴィクトル・コンシデランがこれに続いた。その間に、ボルドーでつくられたある委員会は、フランスの諸都市の代表者会議を準備した。フリーメースンはその立場からより直接的な示威運動を組織し、それは4月29日に国民軍の前哨陣地でも行われた。そこに一晩中、彼らの旗をなびかせたのだった。

しかし、コミューンの軍事的失敗が明白になった5月には、いくつかの試みが成功するはずがなかった。ティエールと国民議会は依然として頑なだった。共和同盟連合が、国民議会の憲法上の権力を否認する決議を思い切って可決したその日、(5月16日)、議会はフランスの政体として、共和制を決定的に承認するようにというペイラとその仲間たちの提案を退け、議事発議委員会にティエールの邸宅再建に関するジョベール伯の提案を付託し、ティエールのうえに聖母の加護の垂れるように、全国で唱える祈りの言葉についてのド・ムラン伯の報告に耳を傾けたのだった。

『フィガロ』紙が日程を組んでいたヴェルサイユ軍のパリ突入と、虐殺の起こる直前、リヨンとボルドーの大会は、可能なる和平の諸要件として、「敵対関係の中止、コミューンの解散、パリにおける市会の選挙、全フランスにおける立憲議会の選挙」を提示したが、これはいずれも議会の欲しないところであった。こうした考え方に反対して、実際に戦争が行われたのである。

この戦争は、もう一つの戦争のさなかに展開された。というのは、結局のところ、フランスとドイツのあいだに正式な講和がまだ結ばれていなかったのである。ヨーロッパのおごれる秩序のために動いていたドイツは、この内乱に対して、真の中立精神を適用することはできなかった。北部と東部の城塞を占領していた将軍が、パリ市民にたいして敵意ある態度をとり、新たな砲撃をもってパリを脅迫し、城壁の周囲に、真の防疫線を設けたその当初から、そのことは明らかだった。この将軍は、外務代表委員のP・グルッセが、被占領城塞の返還を求めようとして奔走したのにたいして、これを鼻先であしらって拒絶した。彼はのちに、退却して避難所を捜し求める敗北者たちを、市内に追い返したり、勝者に引き渡したりした。

 3月30日、ガリフェ将軍の巧みな指導による偵察隊が、国民軍をクルブヴォワの円形広場から撃退した。次いで4月2日、ベルジュレ、ウード、デュヴァルが、ヴェルサイユ攻撃計画を作成し、クリュズレがそれを実行することになった。ベルジュレは大規模な作戦にたいして、ヴェルサイユ軍は、クルブヴォワ及びピュトーに対する攻撃をもって応じ、国民軍は、算を乱してヌイイー大通りに退却した。さらに、パリに向かって進撃するのに有利な陣地を占領した。3日には、敗北はもっとひどかった。ベルジュレがピュトーからビュザンヴァルに向けて進んでいるとき、突如、モン・ヴァレリアンが、砲弾をあびせた。しかし、フルーランスは、ほんのわずかの兵員とともに、ヴェルサイユに向かって前進したが、国民軍はウードの指揮する地区を除いて、まもなく散りぢりになった。フルーランスとデュヴァルは、略式裁判で、前者は3日にシャトゥーで、後者は4日にプティ・ビセートルで処刑された。この処刑について、マクマオンはもっとあとになってから、5月5日付の書簡で否認しているようであるが、それはおそるべき人質の訴訟手続のきっかけを作ることになった。

 パリの大司教ダルボワ、マドレーヌ教会の司祭ドゲリー師を含む若干の聖職者が、4月3日に逮捕された。彼らは、監獄で3月18日以降に逮捕された巡査や憲兵たちと一緒になった。また、1848年に果たしたその役割が、ひとつも忘れられていない破毀院の院長ボンジャンとも一緒だった。4月5日、この日『自由人』紙に書いたオリヴィエ・パンの煽動につづいて、コミューンは、ヴェルサイユ軍の非人間的なやり方を論難し、報復を告知する声明文を決定した。報復については、ユルバンの提案した同じ日の政令によって、その適用条項が定められた。特に第5条は冷酷なものだった。しかし、この政令は一度可決されたものの、死文にすぎないように見えた。ただし、人質との交換によって、ブランキのパリ帰還を獲得するための交渉を、ヴェルサイユとのあいだに開始するのに、この政令を利用したブランキストにとってだけは、そうではなかった。交渉はその血なまぐさい意味をこめて、再び表面に現われてくる。

 国民軍は、ヴィノワの小部隊と戦闘を交えた。今やティエールの計画の実行を託されているのはマクマオンの大軍であり、ヴィノワは予備師団を指揮していた。ヌイイーを占領し、南方の城塞を破壊し、まず接近を、次いで最後の突撃を可能にするような強力な砲列を集中しなければならなかった。4月24日までは、攻囲軍と籠城軍との間には、短い交戦と激烈な砲撃しかなかった。

フリー・メーソンは、パリ権利擁護連盟とともに、ヌイイーからの撤退ができるように、4月25日午前9時から午後5時まで一時停戦を求め、実現した。4月25日、一時停戦によって、ヌイイーの住民は、ひどい砲撃を受けた町を立ち退くことが許された。26日の夜、イッシー・レ・ムーリノ、ビランクールにおける市街戦が起こった。ヴェルサイユ軍が、国民軍の稜堡であるイシイ要塞に接近する。また、29日には、イシイ城塞付近の激戦があった。イシイ城塞は、ほとんど完全に敵に包囲され、砲弾で粉砕されたイシイ城塞を国民軍は放棄したが、30日、ロセルが指揮をとりイシイ城塞を再占領した。ロセルは指揮官のラペルシュに答えて、ワーテルローにおけるカンブロンヌ将軍と同じように、騎士的なやりかたで、城塞をヴェルサイユに返すことを勧告した。  

4月30日、相変わらず南方から激戦の報が届く中、コミューンは、ついに、クリューズレの解任を決定し、執行委員会において討議され、彼の逮捕を承認した。もともと、クリューズレが、問題の人物であったこともあるが、主な責任は、イシイ砦の保持を危うくしたことが、彼の油断や判断力の不足にあるとしたのである。彼の替わりに、ロセルが臨時陸軍代表委員の座についた。クリューズレの更迭は、公安委員会設置に向けての、議会内の活発な動きと無関係ではありない。コミューンの権威の失墜を憂慮する議会は、4月28日のミオの提案を、無視することはできなかった。公安委員会は、翌5月1日に正式に発足することになる。

4月30日、ルーブルにおいて、各県の共和同盟が召集した大集会が開かれた。地方に生まれパリに在住する市民10万名の総会である。彼らは、コミューンを援助し、精神的支持と、可能な範囲における、実質的協力をあたえることを決議した。

こうして、パリの日々は過ぎていった。前線からの戦死者を迎えての葬儀、ヴェルサイユ軍の攻撃と応戦ぶりを伝える毎日の報道、コミューン議会内部の対立、パリの壁を埋めつくすおびただしい貼紙、物資の不足、飛び交う不穏な噂、高まる危機感、すべてがパリの人々をいらだたせた。実際には、パリ市民の生活は、それほど異常な事態であったわけではない。劇場は、コミューンの最後の日まで開いていた。古典からヴォードヴィルまで出し物もいろいろあった。ただ、観客層が変わった。つまり民衆が劇場へ行きはじめたのである。野外でも屋内でもよく音楽界が開かれた。春の花々が咲き、木々の葉が薄緑に光る中を散策する人も、カフェで談笑し、議論に花を咲かせる人も見られたし、立ち話をするおかみさんたちのおしゃべりも、子供を叱る声も聞こえた。平時とちがうのは、少数の例外を除いて、発刊と廃刊をくりかえす新聞の多種多様さと、その熱っぽい表現や論調であり、また、カフェより多かったクラブの繁盛ぶりだろう。クラブの集会には教会が使われることが多かった。ニコラ・デ・シャン教会、ジェルマン・ロークセロワ教会、サン・ミシェル教会、サン・ベルナール教会を使用したクラブは、相当な人数を集めた。コミューンは、本質的に反宗教的であった。3月18日の革命が、ティエールと気脈を通じる教会の陰謀とする説もあったから、教会を革命の敵とみなしたのは当然だった。しかし、はからずもクラブの盛況が、そこここに教会との奇妙な妥協の光景を作り出していた。

そのパリに向かって、ティエールは着々と総攻撃の準備をしていた。遅々として進まない軍の進攻ぶりに文句をいうものもいた。だが、ティエールの説明は、いつもこうだ。「政府はわが軍の兵士の力と血を無駄にながさないようにその計画を推進中である」。しかし、何より、現状では軍が無能力のため、これ以上、迅速に確実な前進が不可能だという現実的な判断があったのである。自分で立てた「教義」に固執するこの行政長官が目論んでいたのは、砲台からの砲撃で、パリ進攻の突破口がひらくという一点であった。準備はほぼ完了し、本格的なパリ進攻は目前に迫った。
 ロセルを辞任に追い込んだ直接の原因は、もとより戦況の深刻な悪化であった。ロセルはウードに、イシイ砦を死守することを命じた。前任者と同じく、彼も、ここが防衛の要であると信じていたのである。だが、5月2日の夜、クラマール駅付近で激しい戦闘が起こった。ヴェルサイユ軍は、クラマール駅とイシイの館を占領し、そこに国民軍と砦との連絡を絶つための塹壕を掘った。ロセルはこの状況を、執行委員会に報告したのち、ラ・セシリア将軍にビエーヴル川の左岸とセーヌ川の間にいる軍を、その砦とともに指揮することを命じ、クラマール駅を奪回し、イシイ砦を確保するよう支持した。彼は、歩兵隊の再編成を考えていた。すでに、4月30日にウードにたいし、各400名程度の大隊5大隊をもつ連隊を2個連隊、5月1日には、ドムブロフスキーに3連隊、ベルジュレとラ・セシリアにも幾つかの連隊を組織するよう命令をくだしていた。

ところが、ロセルは、この軍の改革を中央委員会に報告していなかった。これが、委員会内部で論議をよんだ。15名の憲兵隊隊長が討議に参加したが、ロセルの案の実施は軍体内に分裂をもたらすものとして、否定的な意見が圧倒的であった。これがまた成立したばかりの公安委員会を動かすことになる。彼を飛び越えて、公安委員会が、直接、ドムブロフスキイ将軍にあてて、パリ最高司令官への任命を告げたとき、ロセルの孤立化ははっきりした。

彼は公安委員会にたいして厳重な抗議をする。「私が軍事代表委員に任命されて以来、何度となく、軍司令部の中には、異なった権力機関からばらばらな命令が入りこんできた。特に、昨日は、プロシアの軍使によるわが要塞の訪問及び視察の許可が、私に相談もなく、また、私が認められるようなやり方とは全く異なるやり方で決められた。原則として、外国あるいは相手側の将校による要塞訪問は、純粋に軍事的問題なのである」。抗議は続く。「今日はついに、私の司令官としての活動で最も重大な機構(要塞司令部)のひとつを廃止し、軍事作戦の遂行に当たって、私の部下のひとりに全権を与えることにより、公安委員会は、軍事代表委員としての私の立場を著しく軽んじ、私が組織しようとするものを完全に解体し、将来は、軍事作戦のきわめて決定的な指導権をもって、責任ある代表としての私の立場を不可能にし、また、無力化するに違いない…」。パリ危急のときに、コミューン内部の、しかも軍の最高指揮権をめぐるこうした対立が、5月を迎えたパリの空をますます曇らせていた。

5月1日の夜に、イシイ館を占拠したのは、第42戦列連隊の大隊と、第35連隊の1大隊(この方面はいずれも予備軍団)であり、300名を捕虜にした。同時に行われたクラマール駅の占拠に向かったのは、第22猟兵隊で、彼らは、ここで60名を捕虜にしたが、その中には、12名の政府軍の脱走兵と、ベルギー人一人が含まれていた。脱走兵とベルギー人は、臨時軍事法廷に引き出され、全員死刑の宣告を受けて、処刑された。コミューンに参加した外国人のうち、ベルギー人に関しては、305名が参加している。

5月5日、ヴェルサイユ軍は海兵隊を交えて、イシイ砦の背後にあるイシイ公園の壁を越えた。同時に、側面のイシイ村に侵入して、抵抗する国民軍とはげしく射ちあった。それはまさしく市街戦であった。国民軍は家から家へと移動して応戦し、窓から家具を道路に出して、即席のバリケードをつくり、教会や病院やオワゾー修道院、それにウードが司令部を設けている高校など、比較的大きな建物に拠って、ヴェルサイユ軍に銃撃を加えた。

しかも、砦やヴァンヴ村から砲撃を受けて、師団長のファロン将軍は、この地点を保持するのは困難であると打電する。そもそもこの予備軍団は、3月18日以降、つねに最前線におかれて戦い続けており、その疲労は限界に近かった。とくに塹壕堀りに従事する兵の損失がめだち、また最も信頼をうけていただけに、いつも突撃隊の先頭に立たされる海兵隊に犠牲者が多く出た。その反面、彼らはこの地域の事情に明るく、地理的な知識も豊富だったので、簡単に撤退させるわけにはいかなかった。ファロン将軍はそのために解任されなかったといわれている。

イシイ砦の戦闘はコミューンのもっとも英雄的な戦いの挿話として伝えられている。おびただしい銃砲撃に、砦は原型をとどめないほど破壊された。その中で、国民軍は、迫る敵を迎撃した。死者や負傷者が続出した。アルサス人ヴェツェル大佐は、彼を嫌うウードからの後退命令に逆らって、ここにとどまって、壮烈な戦死をとげた。次々に、指揮官が代わる。ついには、工兵隊の将校さえ指揮をとるにいたった。激戦は7日いっぱい続いた。

不思議な現象がおこった。7日の夜から、静かな時間が流れていった。ロセルとドンブロウスキーは、過酷な条件のなかで、なおも抵抗を続けるイシイ城塞を出て、逆襲を行う計画をたてる。

そして5月8日が明ける。ロセル、ドンプロウスキー計画は実行に移すことができなかった。必要と判断された12,000名の兵を将軍たちが集めることに失敗したのだ。朝、イシイ村の教会が占拠される。これをきっかけにヴェルサイユ軍の猛砲撃が始まる。それは、延々、午前中いっぱい続き、最後の一発が発射されたのが午後1時であった。砦から国民軍がぱらぱらと逃げていくのがみえた。すでにきわめて少数の守備兵しか、そこにはいなかったのである。それにもかかわらず、ヴェルサイユ軍は、この日、イシイ砦を占領しなかった。翌日、9日も午後になって、ビアデッリ大佐の率いる第38混成連隊の1部隊がおそるおそる砦に接近し、そこに守備兵もおらず、地雷もないことを発見した。100門以上の大砲、食料の山、多数の軍需品が残されていた。兵士たちはティエールの指示により食料を分配した。

ついに、5月9日イシイ砦が陥落した。14日にはヴァンヴ要塞を奪取した。これはヴェルサイユ政府にとって、軍事的勝利という意味だけをもつものではなかった。4月30日オーベルヴィリエ砦で、一つの会見がなされた。ドイツの占領地区総督フォン・ファブリス将軍の幕僚のひとり、フォン・ホルシュタインが、当時、まだ、軍事代表委員だったクリューズレを訪ねたのである。これは打診であった。ビスマルクはフランスの内戦がいっこうに解決の気配がみせないことに、一種の疑惑と期待を持っていた。疑惑とは、ティエールのパリ進攻計画が実現しないのは、故意に引き延ばしているのではないか、という点であった。長期にわたって戦いを継続することにより、仮平和条約の期限を崩し、反乱鎮圧を口実として軍隊を再建するつもりではないか。そのために現在、ブリュッセルで行われている、平和条約締結交渉が進んでいないのではないかということだった。フォン・ファブリス将軍は、ビスマルクの意向を受けて、フランス共和国外務大臣ファーブルにたいし、ドイツ陸軍は、パリの全面的占領ができなかったことを怒っており、この騒乱を好機としてその報復を行うかもしれないという脅しをかける。ビスマルクの期待は、パリとヴェルサイユの和解の調停に立つことにかけられた。クリューズレは、ドイツ陸軍が、ヴェルサイユにコミューンの位置を引き渡したり、これを封鎖しないという確約をとった。ドイツ側は思ったより柔軟なパリの姿勢に、調停の可能性を発見して、交渉の継続を望んだ。だが、2度目の会見は実現しなかった。クリューズレが失脚したからである。クリューズレやロセルの軍事指導が効果を上げなかったのは、その個人的能力のほかにも理由があった。

国民軍は勇敢な戦士であるが、規律をきらい、数日間、闘うと勝手に持ち場を放棄して帰宅するという気風も影響していた。さらに、指揮官がひっきりなしに選挙で交替した。この兵士を厳格な規律で編成しなおそうとすると、権利の侵害であると「国民軍中央委」から反発を受け、議会からは軍事独裁だと不審をかった。

ビスマルクは、ファーブルにたいし、ドイツ軍は騒乱の激化により、フランス政府に保証を要求し、必要とならば、占領期間を延長すると通達する。もし、それができないなら、ドイツ軍がフランス軍にかわってパリを占領して、秩序の回復を待つ。いずれにせよフランス政府は、仮講和条約下の義務を全うしていない。この最後通告は、5月7日に出されている。ファーブルは、もしドイツ軍がパリを占領すれば、フランスは別な政府を樹立させるだろう、しかも、それは帝国の復活に違いないと考える。そこで、彼は早急に協定を結ぶことを申し出て、ビスマルクを喜ばせる。協議の結果、ドイツがなお占領を続けることが承認され、さらにフランスはドイツに最恵国待遇を与えることが約束された。また、ビスマルクと交渉してドイツ捕虜の大量送還に成功し、4月中旬にはマクマオン元帥を総司令官とする約13万人の正規軍を要した。帰還兵士たちは、ヴェルサイユ近くの兵営で住宅と隔離され、パリ絶滅のための再教育を受けた。

ビスマルクの圧力に対応するためには、内乱は共和国政府自らの手で解決する必要がある。そうしたファーブルの追い詰められた立場を一挙に好転させたのが、イシイ砦の占領であった。それは「プロシア人にやらせてくれと頼まずに、自分の仕事を何とかやりとげることができる」という自信と利益を政府に与えた。

次の目標はパリ西方、ポワン=デュ=ジュールである。

5月19日には、パリ城外百ヤードの地点に長い壕が掘られた。9月20日、重攻城砲をふくめて、ヴェルサイユ砲兵隊によるパリの防塞および国民軍陣地の砲撃がはじまった。セーヴル門にかかる浮橋を粉砕した。ドンブロフスキー指揮下の国民兵のブーローニュ森への攻撃計画は、ヴェルサイユ軍の兵力が圧倒的に優勢なため、成果をおさめなかった。

パリ侵入は、5月22日か23日に予定され、城壁を登るための梯子が集められていた。

驚いたことに、この日、テュイルリ宮殿の庭園では、コミューン戦没者の寡婦と遺児を救済するための大音楽隊が催されていた。

コミューンのときの、民衆の願望や要求を理解する前に、民衆の集合的な意識を見てみる必要がある。リサガレーは、「血の週間」への突入直前のパリの異常ともいうべき楽天的な相貌を描いている。パスティーユ広場にはお菓子の露天がならび、回転台がにぎやかにまわり、軽業師の呼び声が高く、陽気な雰囲気がみなぎっている。ルーブル美術館はいつものように公開され、夜ともなると劇場はどこも毎晩大入り満員だ。

コンコルド広場に掘られた塹壕の土手に、市民が芝生を植え込み、この作業を大勢の人々がじっと見物している。わたしたちの予想を裏切って、パリの民衆が危機を目前にして呑気なたたずまいをしているのはどういうわけか。ジョルジュ=ルフェーヴルがかつて、フランス革命期のサン・キュロットや農民の戦闘的な行動が、実は既存の権利や生活を脅かされるとの危機感からでた防衛的行為であって、攻撃そのものを目的としたものではなかったと指摘したが、これがコミューン期の民衆にとってもあてはまっていた。

20区中央委のコミューン樹立運動が、大量の大衆動員ができずに挫折した後、パリ民衆が、はじめて政府にたいして、激しい批判的態度を示したのは、休戦という「裏切り」への憤りであったし、「3月18日」は、まさしく政府の挑戦への防衛であった。「血の週間」のバリケードも、防衛の象徴である。

このパリの陽気さの秘密は、アンリ・ルフェーヴルが適切にいうように、「祝祭」というスタイルのなかにあった。しかし、アンリ・ルフェーヴルは、なぜに「祝祭」がコミューン固有のスタイルとなったかを説明していない。「祝祭」とは未来への思惑や、構想、行為の実際的効果という日常的な配慮から解放される行事である。だから、もし、民衆が「3月18日」の事件のひきおこす反響を慎重に考慮したり、あるいはヴェルサイユへの進撃という戦略的判断をとったとすれば、おそらく、「祝祭」のスタイルは生まれていなかった。しかし、民衆は局地的・直接的な権利や生活の擁護で充足し、ヴェルサイユ側の反応やコミューンの行く末という全体的問題について、あれこれ計算せず、防衛の成功をただちに「祝祭」に転化させたのである。

 柴田三千雄は、コミューンに参加した民衆意識の特徴について、「警戒」、「暴力」、「お人よし」の三つをとりあげている。まず、「警戒」とは公民証の提示をもとめた件については、革命の真正化をめざした象徴的行為であるとし、その上、「攻撃的感情」より「防衛的感情」が優越したといっている。

また、「暴力」についても、たしかにティエール邸の破壊や、ヴァンドーム広場のナポレオン像を倒壊したが、それは儀式的意味をもっていたにすぎない。なぜ、フランス銀行を押収しなかったのか。また、パリの富豪の邸宅を略奪しなかったのも、それらが、彼らの生活が直接おびやかされると感じなかったためであるとしている。

「お人よし」も暴力と裏腹な関係にあるもので、民衆の特有な無邪気さ、善良さと理解すべきだといっている。これらは、民衆運動の基本的単位が、自立的な組織であることに起因している。民衆にとっては、生身で感じうる局地的な地域共同性がすべてであり、彼らが生きる現実であった。局地的な共同性の中では、民衆は家族や子供は実生活のなかで互いに認知しあっていることで充分なのであり、それが、法律的・制度的に認知されているかどうかはたいした問題ではないのだ。このように考えると、コミューンの観念が明らかになる。コミューンとは、このような実生活の発露なのである。彼らにとって、コミューンが自治体なのか、政府なのか、どんな制度的意味をもっているかには関わりがなかったのだ。人民主権とは制度化されない不定形なもので、末端の地区組織と議会とのあいだで、制度的な権限が分配されるようなものではない。それは、クラブにおいても、コミューンにおいても、国においても同様である。民衆の意識の中では、「コミューンの自立、自己完結」というプルードン的テーゼと「一つにして不可分なる共和国」というジャコバン的テーゼが一致する。

この大衆の政治意識は、直接民主制である。コミューン選挙に関して、第11区の「社会主義的・民主的・共和的選挙委員会」の文書はこれを明示していた。「国家とは、直接的・組織的な普通選挙で任命されリコールされる受任者が構成する国民公会を通じて、みずから統治する人民のことである。人民はすべての憲法や属法の討議や批准の権利を保留する」とある。これは「強制委任」の考えである。

演奏が終わったとき、一人の国民軍参謀部の士官が演壇にのぼり、聴衆に次のように挨拶した。「市民の皆さん、昨日、ティエールはパリ侵入を約束しました。彼は侵入しなかったし、これからも侵入することはないでしょう。来週日曜に開かれる次回の大音楽界に、どうぞまたお揃いでお出かけ下さい。」パリ市民の間には、たとえ正規軍が侵入しても、3月18日のように、民衆と手を握るだろうという楽観的な空気がみなぎっていた。

敗戦のコンプレックスに加えて、パリの反乱のため帰郷が遅らされたという恨みが重なり、大部分が農民出身の正規軍兵士が、このパリにおいて市民への憎しみに燃えたち、まさに血に飢えた凶暴な野獣と化していたことを、パリ市民は素朴にも知ろうとしなかったのである。

運命の5月21日午後1時頃、ここに配置された国民軍の怠慢のために、デュカテルという名の土木監督に導かれて、サン・クルー城門に守備隊がいないことを知って、ほとんど気づかれずにパリに侵入した。市中へ入ったそれからのヴェルサイユ軍の進撃は続き、しかも急速だった。トロカデロは奪われ、セーブルとヴェルサイユへの門は開かれた。第16区のあとに第15区が占領された。これから「血の1週間」が始まった。

「軍事委代表」のドレクリューズの手で、ようやく次のような『市民へのアピール』が作成された。

「パリ市民へ。国民軍へ。市民諸君軍国主義はもう沢山だ。金モールをつけ、軍服の縫い目を金ぴかにした参謀将校はもうごめんだ。人民に席を譲れ!腕まくりした戦士に席を譲れ!革命戦争を告げる時の鐘は鳴り渡った。市民諸君。諸君の代表たちは、諸君とともに闘い、必要とあらば、諸君と共に死ぬであろう。コミューンは諸君に期待する。諸君もコミューンに期待せよ」そして、「パりを売ることはできるが、それを引き渡したり、打倒することはできない」で結ばれている。軍国主義とか、飾り立てた将校とは誰のことか。国民軍にたいするコミューンの自己批判なのか。いずれにせよ、それは反撃の姿勢ではなく防御の姿勢である。この声明の効果かどうか、国民軍の軍団が、それぞれの自分の区にもどり、あるいは兵士たちが、国民軍の外套を脱ぎ捨てて、労働服やフロックコートに着替え、将校が将校帽の代わりにひさしのついた帽子や、普通の民間人の帽子をかぶる現象が、そこかしこで見られた。だが、平服を着た戦闘員は、勇気にも闘士にも欠けてはいなかった。

しかし、すでにドレクリューズ、ドンブロフスキーは死の覚悟を固めていた。時間は午後3時から3時半ごろのことである。たちまちトゥロカデロを占領した。ドゥエ将軍が、ポワン・ドゥ・ジュールにはいったのは、6時頃であった。ベルトー師団は、9時頃オートゥイユ門を背後から占領した。ドゥーエはヴェルジェ将軍の部隊に、セーヌを見渡せる公演トロカデロの高台を占領させた。さらに、警官隊の一部と第99混成部隊の偵察隊が、夜陰に乗じて、ギュイヨン通りのバリケードに近づき、ちょうどその時、見回りに出てきた指揮官を捕らえた。

本隊につれてこられると、この捕虜は合言葉を含めてすべての情報を伝えた。それから、もとのバリケードに戻り、彼は部下に降伏をすすめた。全員がこれに従った。さらに偵察隊30名が前進し、ベートーヴェン通りにある地下火薬庫の警備隊を急襲し、100名を捕虜にした。その中にはコミューンのメンバーのアシーがいた。別の小隊は、イレネ門を奪い、守備兵を捕虜にした。その中には、馬車で視察にきた国民軍の上級将校2名もまじっていた。トロカデロに向かったヴェルジェの部隊もここを占領し、捕虜1,500名と大砲1門を獲得した。ここのバリケードは、まだ、未完成だったのである。

だが、砲兵隊はここから伸びている大通りと、コンコルド広場、セーヌ左岸に砲身を向けて大砲を配置した。翌朝には、国民軍が眠っている練兵場と、陸軍士官学校がその砲火を浴びることになる。

午後4時をすぎてから、防衛司令官ドンブロフスキーは、敵軍侵入の知らせをうけた。この出来事に関して、その現場でも、軍事委員会でも、コミューンにも、何の報告も対策もなかった。幾人かの人々がわれにかえって、ドレクリューズを先頭に、城内の抵抗の諸条件を準備したのは、やっと5月21日から22日のかけての夜になってからだった。

コミューンは、パリにおけるヴェルサイユ軍との市街戦を想定しての防衛計画をつくっ

ていなかったにちがいない。自分たちの掌中で戦闘が行われたにもかかわらず、あまりにあっけない幕切れになったのは不思議である。彼が、いくつかの緊急措置をとったのち、コミューンに急を報じたときには、夜になっていた。

コミューン軍はその間、何をしていたのだろうか。なぜ、パリ防衛にもっと綿密で、もっと効果的な計画をたて、さらに厳重な警戒網をつくらなかったのか。ドウレクリュズは信じがたいことに、ヴェルサイユ軍の侵入を否定し、警鐘を鳴らすことさえ禁止していたのだ。したがって、ほとんどの市民は何が起こったか、気づいていなかったのである。

このニュースが公式に発表されたのは、翌22日の朝のことだった。ラッパが鳴り、やっと警鐘が打たれた。3月18日の主舞台であり、コミューンの象徴的牙城だったモンマルトル、しかし、そこにはあのときの興奮も熱気も、そして肝心の活気に湧いた民衆の姿もみえなかった。優秀な国民軍兵士たちのほとんどは、すべて最前線に出撃していた。

だが、前進する強力なヴェルサイユ軍によって、彼らは分断され、四散する。トロカデロの高台を砲撃するはずの大砲も火を吹かない。抵抗のために出撃しているものの、それは迎撃とさえ言えないほど弱体であった。22日、パリは落ち着きをとりもどし、抵抗が組織される。だが、この抵抗は、敗北を予定しているような、各地区を拠点にして組織される。それでは、とうてい正規軍の進撃に組織的に対応できる作戦や集団的行動を期待することはできなかった。彼らはいまや、自分の土地、自分の街を守ることに挺身するのである。パリには130,000名のヴェルサイユ軍がいる。彼らは、市の西部、エトワール、エリゼー、士官学校などを占拠した。彼らは、北部からモンマントルを脅かす。

5月23日の早朝、散発的で指揮の統一を欠いた抵抗があるにすぎない。ヴェルサイユ軍は、モンマントル、バチニョル、第18区、中央地区などを占領する。第19区、第20区、左岸、市庁舎が抵抗を続ける。5月23日から24日の夜の間、パリは燃えた。ヴェルサイユ軍の砲火が引き起した最初の火災は、消しとめられた。しかし、コミューンの消防夫たちは消化に追われる。火災のあるものは、ヴェルサイユ軍の兵隊や彼らの武器によって引き起こされ、また、あるものは挑発者やスパイによって引き起された。コミューン派は、軍事上の理由から、家々やいくつかの街全体に火を放つ。重要な道路には全くバリケードがなかった。稜堡にいる国民軍の狙撃兵たちは、命令もなく、射撃の目標も定まらずにいた。その中の幾つかの隊は包囲を恐れて、銃をもったまま、ラ・シャペルやラ・ヴィレット方面、あるいはまっすぐに丘の背後の数マイルにあるペール・ラシューズの墓地に向かって移動した。

もう正午である。南方から第5軍団が頂上に向けて前進を続けていた。幾つかのバリケードを、近くの家々を利用して側面攻撃をしかけながら突破していった。この政府軍の大群は短時間でモンマントルの丘を掌握した。

この日、公安委員会、国民軍中央委員会は、市庁舎に残る少数のコミューン評議員とともに、ヴェルサイユ軍兵士にたいして、次のような『兄弟へのアピール』を発した。「兄弟よ。圧制者どもにたいする人民の偉大な闘いの時が到来した。労働者としての大義を忘れてはならない。3月18日の諸君の兄弟のように行動せよ。諸君もその一部である人民と結合せよ。……共和国万歳。コミューン万歳。」この兄弟への訴えかけは感動的だが、決して聞き入れられることはないであろう。

5月23日という日はドンブロフスキーの死及び幾多の戦慄すべき出来事によって、ドラマチックに彩られている。この小、別働隊は、パリ中央部とセーヌ左岸に進出を開始した。第4軍団がマドレーヌに向かってゆっくりと進んでいた。ここは、一度歩兵隊の少尉が守備兵を射殺して奪ったが、すぐに奪回されていたのである。第4軍団は、左側にいたクランシャン将軍の第5軍団と合流した。ノートル・ダム・ロレット教会の近くであった。第4軍の右翼は、シャン=ゼリゼとサン=トノレ郊外地区に入った予後、軍によって支えられていたが、なお、コミューンの闘士のブリュネルの反撃をうけていた。

ブリュネルは100名足らずの兵とともに、ロワイヤル通り、テュイルリー段丘、ヴァンドーム広場を抑えていたのである。ドウーエの部下は例によって、付近の家々をめぐって接近し、守備兵に射撃をしかけた。ブリュネルはただちにロワイヤル通りに火を放って、彼らの行動を妨げた。結局、ヴェルサイユ軍は夜おそくなって、ヴァンドーム広場を占領しただけであった。しかも、それはブリュネルが、ティルリーに火災を起こし、市庁舎からの命令で兵を引いたあとのことであった。コミューンは、防御手段として火を用いた。彼らは、大通りをヴェルサイユ軍にたいして遮断するために、火を用いたのである。ヴェルサイユ軍が、その前進に当たって、その砲弾を用いたのと同じように、彼らの退却を擁護するために火を用いたのである。もし、防御軍が退却せねばならぬとすれば、焼き払われるということは、常に、世界のあらゆる正規軍の戦線にあるあらゆる建築物の不可避な運命である。ティエールはパリを攻撃したとき、それを放火と叫ぶのだろうか。しかも、コミューンは、その敵がパリの人民の生命について毛頭心配せず、ただ、彼ら自身の建築物について心配しているのを知っていた。

セーヌ左岸には第2軍団と予備軍団が進出してきた。ほとんど抵抗なしに、彼らは官庁街に入り、陸軍省、文部省、電報局を占拠した。すでに、戦闘は凄惨な様相を示し始めていた。ボシュ将軍の直接指揮下にあるヴェルサイユ軍は、住民から聞きつけた情報にもとづき、家や庭をさがし廻って国民軍を捕らえ、道路だけを守っている国民軍を急襲して、彼らを刺殺した。猟兵1分隊を指揮していたある将校は、ベルシャス通りのバリケードを取り、「自分の手」で5名の国民軍を殺した。3月18日にモンマントルにいたプーサングの指揮する別の猟兵隊は、電報局に奇襲し、守備隊はもとより、局員も、酒保係まで含めて、全員を銃剣で刺し殺し、ひとりも逃がさなかった。ボシュの軍は、バック通りまで制圧地域を拡げたが、あまり深入りしすぎて、十字砲火を浴び5名が戦死、8名が負傷して、ブリュアの海兵隊2連隊に救われた。一方、バイヨンヌの兵営から進んできたラクルテル師団は、クロウ・ルージュの交差点で国民軍によって前進を阻止された。ここは、ヴェルランとリスボンヌによって夜まで持ちこたえた。

さらに遠い左翼方面では、ル・ヴァソール=ソルヴァル師団が、線路とメーヌ大通りの間の細い道を通って進入してきたが、サン・ピエール広場にある国民軍の大砲と、教会の塔の上にある山岳砲1門によって一掃されてしまった。第二旅団は、砦に沿って進み、その側面に出た。おそらく市街で行われた戦闘中、最も激しい交戦が数時間にわたって展開した。

ブーランジェ大佐が残っている守備隊に突撃をかけて、その多くを殺した。教会の塔から射撃していたものは、全員射殺された。自分の店の中からうつ射った男も同然だった。捕虜は数百人にのぼった。メーヌ大通りをこうして占拠したヴェルサイユ軍は、ついで、モンパルナスの墓地及びダンフェル広場を奪い、さらに北上してリュクサンブール庭園に到る幾つもの狭い道に入った。ここから国民軍の最大拠点パンテオンに攻撃をかけようとしたのである。パリはすでに、硝煙と血のにおいの中にある。

ティエールとその猛犬どもの行為に匹敵するのはみつけるには、スルラとローマの二つの三頭政治の時代にまで遡らなければならない。三者とも同じような冷然たる大衆的殺戮、同じような、虐待における年齢と性との無視と、同じような捕虜の拷問制度、同じような人権剥奪、ただし今度は、一階級全部のだ。同じような一人も逃すまいとする潜伏指導者たちにたいする野蛮な狩り、同じような、政治的、私人的な敵の密告、同じような、争闘に全く無関心なものの屠殺に対する無関心だ。そして、これらが、ローマ人とは違って、法律と文明の名において行われたのである。静穏な労働者のコミューンは、秩序の猛犬どもによって、突然、修羅場に変えられたのである。新しいより高い社会の崇高な理想によって人々の瞠目を集めていたパリ・コミューンは、労働の隷属の上に基礎をおく、極悪な文明が、その犠牲者たちのうめき声を全世界に広がる反響によって、中傷の叫び声のうちに惑溺させたのであった。

5月24日に、パリ攻撃の中で一つの変化があった。第一軍団のモントードン師団が、ドイツ軍の許可を得て、防衛陣地の外側を大きく迂回して、北部地域からパリに入ったのである。こうして、パリ市民が休戦条約にひっかかっていると思い込んでいたに相違なく思って、ほんの軽く守っていたにすぎなかった殺到することを得させた。これまであちこちで精力的に続けられた防衛が力を弱める。糧食と弾薬の補給が不足する。ヴェルサイユ軍は、フランス銀行、証券取引所、ルーブル宮を手に入れる。国民軍は、第11区とビュット=ショーモン、ビュット=オ=カイユ、ベルヴィルといった高台のほうに後退する。これらの地域では、防御が可能であるからである。

この日、総司令官ラミロー将軍は、マクマオン元帥にたいして、前進を止め、翌日1日、部下を休息させたいと申し出ている。23日にかなりの活躍をした第5軍団も、その動きがはっきりと鈍ってきた。従軍記者フォルブによれば、オースマン環状路には、25人の国民兵しかいないので、ほんの2分もあれば奪取できるのに、彼らはそうしようとしない。その代わりに、家を一軒一軒爆破したり、窓から中を乱射したりしている。しかも第5軍団の左翼は、第一軍団の右翼と連携しているので、後者がとまっていれば、そう休息に動くことができない。結局、この軍団が制している地域は、第10区の南西部と第2区の北東部であった。その最前線はストラスブール環状路及びサン・ドニ門近くまでということになる。

第4軍団がその少し南に位置をとり、レ・アルまで軍を進めている。その予備軍が、ヴェルジェハリヴォリ通りに沿って進んだが、この通りには火災が発生しており、前進が困難であった。夕刻になって、ヴェルジェはようやく燃えさかる市庁舎の周辺地域を占拠することができた。それからルーブルと、パレ・ロワイヤルの消火作業に従事し、さらに火につつまれた大蔵省に入って、重要書類を持ち出すことに成功した。

第二軍団の動きも緩慢であったが、この日の目標であるパンテオンを占領した。ラクルイル師団が南から進んでこれを側面攻撃し、モーベル広場に達し、ル・ヴァソール=ソルヴァル師団が北から、これを包囲したのである。リュクサンブール宮を占領したのは、海兵隊の一大隊であった。守備隊の姿がなかったのである。バテュエル旅団の第17l猟兵隊が庭園を、猛烈な援護射撃に援けられて制圧した。スーフロ通りには、三つのバリケードが構築されていた。第一のバリケードは簡単に、ヴェルサイユ軍の手におちた。

ただ、それからは攻撃軍の前進が鈍り、パテュレル将軍、第38連隊のビアデッリ大佐が負傷した。南方からシュビエル師団が、エコール・ノルマルの庭と周辺を通って、パンテオンに向かった。これを援護したのは、アベ・ド・レペ通りの大砲と狙撃兵であった。猟兵隊及び第38混成連隊は、スーフロ通りのバリケードを、正面攻撃では落とせなかったので、これと平行したクジャ通り及びマルブランシュ通りを進んで、側面攻撃を試みた。

この機に及んで、「国民軍中央委」は、国民議会とコミューンの同時解散、大都市の代表からなる暫定政府による憲法制定議会選挙などを骨子とする、和平提案を発表したが、この現実ばなれした敗北主義的提案は、国民軍の士気を弱めたばかりでなく、「国民軍中央委」の持つ日和見主義的本質をさらけ出しただけだった。

バリケードの国民軍は、サン・ジェルマン環状路とエコール通りのヴェルサイユ軍によって、退路をたたれることを恐れ、その多くが退却した。退却できなかったもの、退却を望まなかったものは、虐殺された。ビアデッリ大佐は誇らしげに言う。「わが連隊は400名を殺した。わが方の損害死者1名、負傷者27名。」結局、この日の前線は、北駅とモンスゥーリー公園を結ぶ線ということになる。最初の数時間に比べると、その前進の速度は次第に落ちてきている。

この緩慢さが国民軍に態勢を立て直す時間を与えた。パリの東半分には無数のバリケードが構築されている。その中でコミューンが、直接、指揮権をにぎっているものはほとんどない。この日、市庁舎とその周辺からの撤退を決定したコミューンは、総司令部を第11区役所に移転させていた。ドゥレクリューズはあまりにも第一線から遠いとして抗議したが、聞き入れられなかった。コミューンはもはや、組織としては機能せず、ただその熱烈なメンバーや支持者の個人的な活動にたよる状態にあった。たとえば、はじめアルジェリア歩兵部隊に入り、ついで俳優のマネージャーになり、それから第10国民軍憲兵部隊司令に就任したリスボンヌ、ジャーナリストでコミューンのメンバーであるヴェルモレル、労働者の闘士であり、インターナショナル・フランス支部の代表的存在であり、コミューンでは財政代表委員であったヴァルラン、もと正規軍将校で、のち国民軍将校となり、コミューンのメンバーであるブランキストのブリュネルその他、少なくとも100名ほどの堅固な意志と勇気をもった人びとが闘っていた。彼らは、ただ、無鉄砲に戦ったわけではない。なるほどバリケードを守る同志の多くの生命が失われた。そして、いまやますます狂暴化しつつあった非武装の男女や子供の虐殺は、その頂点に達した。後装銃ではもはや十分迅速に殺しきれないので、敗者は幾百人ずつひっくるめて、榴弾砲で撃ち殺した。

さらに、かつて民衆蜂起の防止を配慮のひとつとして立てられたにちがいない、パリの都市計画、すなわち、オースマン計画による道路の拡張が、パリ・コミューンでは、反乱側に有利に働いて、大砲を移動させ、道路に据えて迎撃することができた。すなわち、それはバスティーユとフォーブール・デュ・タンプル通りの間をカバーする。この城の外堀の役割を果たす運河にたいするのは、さしずめヴェルサイユ軍第一軍団ということになろう。ヴロブレフスキイは、南方から移した強力な兵力をもって、セーヌ左岸のビュット・オー・カイユに布陣する。ここはパリ城壁のちょうど内側で、ビエール川を望む高台であるため、砲撃にはきわめて有利な条件を備えている。これと戦端を開くのはシセー将軍の第二軍団である。

「国民軍中央委」とパリの諸権利同盟連合は、24日になっても、まだ和解を夢見ていたが、最後の戦いを戦っている彼らには理解できなかった。

5月25日におけるこの地点の戦闘は、城砦に沿って迂回したル・ヴァソール=ソルヴァル師団と、パンテオンからイタリア広場を通って前進したシュビエル師団による挟撃作戦で始まった。第一師団第一旅団のリオン将軍は、午後、早く、バュット・オー・カイユ市周辺の主要な国民軍の拠点を次々に攻撃する。このため、100名たらずの国民軍将兵はセーヌ川を渡って退却し、他の守備隊はイタリア広場に武器を捨て、ジャンヌ・ダルク広場で降伏する。その数約700名であった。そのあとで多くは許されて家に帰った。左岸の他の地点、モンルージュ砦、ビゼートル、イヴリーは占領された。マルクスは凄惨な戦闘の様子を詳しく聞いていた。

 

《1848年6月におけるブルジョアどもの残虐行為さえ、1871年の言語道断的な破廉恥行為の前には三舎を避ける。パリの住民が-男も、女も、また子供も-ヴェルサイユ軍の入城後、8日間闘った時に示したあの自己犠牲的な英雄主義が、彼らの目的の偉大さを反映していることは、なお正規軍兵士どもの鬼畜的行為が、彼らをそのお抱え用心棒としている、あの文明の固有の精神を反映しているのと同じである。まことに、光栄ある文明だ-その大問題は、戦いが終わった後に、それが作り出した死骸の山をいかにして片づけるか、ということなのだ。》  『フランスの内乱』 マルクス著 木下半冶訳

 

セーヌ右岸のこの日の目標は、シャトー・ドー広場とバスティーユ広場であった。リスボンヌが300名の連盟兵と死守するシャトー・ドーム広場は、ヴェルサイユ軍第5軍団のクールシー旅団に頑強に抵抗した。クールシーの部下は、この広場の三方の建物を占拠し、そこからマスケット銃で、守備隊に一斉射撃を浴びせた。国民兵はついにバリケードを放棄し、ヴォルテール広場に向かって退却した。リスボンヌもヴェルモレルも重症を負った。

第11区役所では、コミューンの残存評議員22名によって、最後の評議会が開かれた。持病と老衰と過労でやつれ果てた「軍事委代表」のドゥレクリューズの痛々しさが、すでに、戦闘が徒労であることを物語っており、しかも国民軍は自分をほとんど当てにしていないことに絶望していた。この老ジャコバンは、戦闘のあと、ひとりでプランス・ユージェーヌの大通りの端にある放棄されたバリケードの方へ下りていって殺された。

おそらく、第15l臨時編成連隊の兵士によって射殺されたのであろうといわれている。サン・マルタン運河に向かった第5軍団が、その運河に接する地域を占領したのは24日の夜から翌朝にかけてであった。右翼の第4軍も、同夜、運河の線に達し、翌26日いっぱいかけて、リシャール・ルノワール環状路を制圧した。地の利をえながら、国民軍は、これらの進出をはばむことができなかった。バスティーユ広場周辺の国民軍は、さすがに、ヴェルサイユ軍予備軍団をしっかりと阻止していた。ここは、サン・タントワーヌ通りと、フォーブール・サン・タントワーヌ通りの道の端及びロケット通りに築かれた大規模なバリケードによって守られていたのである。そこで25日の1日かけて、ヴェルジェの師団が、サン・タントワーヌ通りを挟む狭い道をなんとかたどりながら、マレー地区を通って前進し、小部隊を国民軍の背後に廻らせた。それは25日の夜のことである。この日からヴェルサイユ軍の略式軍事裁判による捕虜の大量処刑が開始された。

ファロンの予備軍団は、セーヌに沿って進んだが、そこでバスティーユとペール・ラシェーズの墓地からの国民軍銃砲撃と、倉庫の火災にあって立ち往生した。ファロンは増援部隊を送らざるを得ない。第35、42歩兵連隊は、応急に作られた歩道橋を通って、運河を渡った。小編成の砲艦隊からの砲撃と、セーヌ左岸からの砲撃の援護を受けながら、彼らは、ベルシー橋までの一帯を掃討する。ついでリヨン門と、マザの監獄を占拠する。それまで激しい砲撃にあって左岸を渡れなかったデロージャ旅団も、ベルシー橋を夜のうちに渡ることができた。マクマオン元帥の命令が通達される。バスティーユ攻撃は、直接正面からの攻撃を避けて、広場を取り巻く地点に残されている国民軍の拠点を包囲する作戦である。

そこで、ヴィノワは、部隊をトローヌ広場に向け背後から攻撃する。第一軍団はゆっくりと左に廻りロトンド広場を占領する。ラ・マリューズ旅団とラングリアン旅団は、セーヌの河岸とサン・タントワーヌ郊外地区の間にある幾つかの道路を占拠する。その背後から、デロージャ旅団が、ちょうどセーヌの北になる陣地沿いに大きく迂回する。レピオー大佐の第109戦列歩兵連隊は、ベル・エール駅とその近くの堡塁に付属する小さな建物を占拠する。

堡塁にいた15名と、建物にいた10名が逮捕されて射殺された。中に酒保係とその娘が含まれていたという。ついで、デロージャ旅団はベル・エール駅から鉄道の高架橋を通ってバスティーユに向かう。その下の道にはマリューズの軍が、これを支援すべく同方向に行進を始めた。バスティーユが眼下に見下せる駅に着くと、銃撃戦が開始された。その結果、国民軍はサン・タントワーヌ郊外地区に後退していった。ヴェルジェ軍の一部はボーマルシェ環状路を奪い、広場とその左側に建っている国民軍仮兵舎を攻撃した。

主力となった第37混成連隊は、この重大な戦闘で、死者7名、負傷者49名を出したに過ぎなかった。その日遅くなって、トローヌ広場も占領された。ヴェルサイユ軍左翼では、第一軍団の第119連隊が、ロトンド広場の包囲攻撃を行い、国民軍は広場に面した丸屋根の税関の建物を放棄して敗走した。こうして、この日の戦闘は、ほぼ終了し、第4、第5軍団はサン・マルタン運河沿いの地域に駐留して、ここを確保する任務についた。残りの目標は、翌27日の戦闘によって達成される。

 ビュット・ショウモンは第一軍団によって包囲され、第一軍団に属する外人部隊の攻撃を受けて陥落した。ペール・ラシェーズ墓地をほとんど抵抗もうけずに占領したのは海兵部隊であった。この両方の地帯も守備隊の数がきわめて少なく、武器弾薬も欠乏していた。だが、不思議なことに、すぐ近くのサン・タンボワーズ教会には、大量の物資が貯蓄されていたのである。コミューンの総司令部があるヴォルテール広場にある第11区区役所が、次の攻撃目標になった。今やヴェルサイユ軍はバスティーユ広場からも、シャトー・ドー広場からも、トローヌ広場からも存分に砲撃を加える余裕がある。その集中砲火の中で、区役所は放棄された。夜になって国民軍最後の拠点であるベルヴィルの北方で、激しい戦闘が起こった。国民軍はベルヴィル及びメニルモンタン環状路に通じる幾つかの通りに集結して、勇猛果敢な反撃を試みたが、絶対優勢なヴェルサイユ軍の包囲攻撃を受けて、四散した。5月28日の朝早く、リラ門の近くにいた第一軍団と、予備軍団のデロージャ旅団が、西方に転回してベルヴィル、メニルモンタン、シロャロンヌに向かった。

コミューン側の体制はこうだ。徹底してコミューン擁護の信念を固めた人びとが、最後の抵抗の場にしたのは、まず、アングレーム通りで、ここはカメリナと国民軍第209連隊が、次は、ベルヴィル通りの行き詰まりの地点で、これはヴァレスと第191大隊が固め、さらにフォーブール・デュ・タンプル通りでそのままで、ここはヴァルラン、フェレその他が迎撃の指揮をとった。他にもコミューン最後の行き残りの無名の人々が、窓辺に銃を構えて戦いに備えている。ヴェルサイユ軍は、いつものように砲撃によって戦端を開いた。

マクマオン将軍は、この戦闘に当たり、モンマルトルの砲兵部隊にたいして砲撃を命令した。2マイル以上はなれた地点からの砲撃である。砲弾は、オーベルカンフ通りの角にある国民軍の拠点に向かって発射された。両側からの猛烈な砲火を浴びて、国民軍は、地下の穴倉に逃げ込んだ。ベルヴィル通りの一端で、きわめて堅固なバリケードに拠る国民軍と、第35連隊との間で、激烈な戦闘が展開された。降伏勧告を拒否した国民軍にたいして、攻撃軍は圧倒的な射撃で、優勢を保った。国民軍がこのバリケードを放棄すると、ただちに次のフォーブール・デュ・タンプルのバリケードに移って、抵抗を再開した。

追撃した第35連隊が、ここに銃弾の雨を降らせると、彼らは、さらに、次のバリケードで抵抗を続行した。サン・モール通りのバリケードである。コミューン側は、やっとここで白旗を上げた。全部のものの殺戮が不可能だと分かった時、その次にきたものは、大衆的逮捕と多数の捕虜のうちから勝手気儘にひきだされた犠牲者の虐殺と、軍法会議への出頭をまつべき大収容所への残余のものの拘禁とであった。攻撃の主力となった第三大隊が武装解除し、1,500名を捕虜とした。ラ・マリューズ旅団は、アクソ通りで同じく、1,500名を捕らえると、さらに前進して、メニルモンタンに入った。抵抗はなかった。デロージャはペール・ラシェーズ近くで、2千名を捕虜にした。ピュエブラ広場では800名が降伏し、戦闘は終わった。ティエールが長い準備を重ねたパリ奪回の全作戦は、遂に完了したのである。5月28日午後2時コミューン側の最後の銃声がやみ、市街戦は終了した。翌29日、孤立した東部のヴァンセンヌ要塞も降伏した。

 

9 エピローグ

 

「血の週間」が終わり、パリには秩序が回復した。だが、それは軍隊を銃殺部隊に変えただけの白色テロの秩序であった。ヴェルサイユ軍の死者877名、行方不明183名。コミューン側の死者は、正確には不明だが、3万人は下らないと推定されている。この中には、戦争に倒れた者のほか、戦闘後の無数の虐殺者が含まれている。投獄者は43,522名であった。1871年ののちは、フランスの労働者と彼らの生産物の専有者の間にはいかなる可能な平和も休戦もありえない。《しかし、戦いは幾度となく、ますます大きな規模で勃発するに違いない。フランス労働者階級は、近代プロレタリアートの前衛にすぎないのである。労働者のパリは、そのコミューンとともに、新社会の光栄ある先駆者として、永久に讃えられるだろう。その殉教者は、労働階級の偉大な胸のうちに祭られているいるのだ》。(マルクス)    

5月末まで続いた即決裁判で処刑されたのは、1万5千とも2万5千ともいわれているが、一切文書が残されていない。虐殺をまぬがれた約4万5千人は、荒縄でしばられ侮辱をうけながら、ヴェルサイユまで連行され、廃船まで利用した収容所に、家畜同然の待遇でつめこまれた。この裁判は24の軍事法廷によって、4年がかりで行われたが、裁判中の被告の死亡は967名にのぼっている。この軍事裁判記録は、陸軍省の穴倉に放置され、第二次大戦後にようやく史料部にいれられ、いまは、研究者に公開されているが、長期間の放置のため、多くがだめになり、約1万5千名の調書が残っているだけである。裁判の結果は次のようになっている。

ヴェルサイユ側の損害は、4月3日から5月28日まで、877名の死者をだした。国民軍はおそらくその4倍の犠牲をだした上に、さらに、その後の弾圧の犠牲者がこれに加わる。40万の小銃、1,500の大砲を、ヴェルサイユ軍は戦利品として捕獲した。       

 

 

投獄者   43,522名

    このうち予審で釈放  7,213名

    起訴した者  36,309名 うち女性819名  子供 53名

    このうち証拠不十分による起訴無効 23,727名

    無罪   2,445名

    有罪  10,137名   内訳  死刑   93名 

                      無期  251名

                      流刑4,586名   

                     残りは禁固刑

 

 

パリ・コミューンとは何だったのかという設問にたいして、今のわたしなら磯見とともに、こう答えることもできる。

   

《それでも彼らが目指し、民衆が求めていたのは単なる政治的共和制ではなかった。…中略…それなら政治的共和制でない共和制とは何か。ドレフェス事件に関係したシュルル・ペギーはそれを神秘的共和制とよんだ。パリ・コミューンの人びとが、ティエールの解決に満たされないものがあったとすれば、それは多くの仲間が殺された恨みばかりでなく、無意識のうちに求めていたもの、それは彼ら自身にも分からないものが無視され抹殺されたことによる。「無名の人びとが織りなしている網」とペギーは言う。ペギーやシモーヌ・ヴェイユにとって国家は単なる政治体制ではなかった。「根」の思想といういかにもフランス的な自分の存在への意識が理解できたとき、パリ・コミューンの普遍性が生まれ、歴史的な意味も豊かになるというのは言い過ぎだろうか。コミューンに希望をかけた人々は秩序を破壊した。しかしその破壊の中に次元の異なるもう一つの秩序が隠されていたのである。》                『パリ・コミューン』   磯見辰典著 

 

 パリ・コミューンが出現したとき、維新から間もない明治4年の日本は、幕藩体制のあとを受けて、コミューンがまさに否定しようとしていた天皇制集権国家への道を歩み始めようとしていた。その後、わたしたちも100年の間に、権力政治と戦争の昭和に振りまわされ、沢山の死者を歴史の影に残した。だからこそ、当時のパリの民衆が、自らの血で書いた歴史の頁に残したパリ・コミューンという言葉の中に、同じような希望を託し、信じることを求める一群の人々がいることを確認することができた。

だが、この時代のパリの歴史は、大きな渦巻きのような過渡期の只中に位置づけられていた。その時代の風を敏感に感じたパリが、無意識に未来に向かって飛んだ場所にコミューンがあった。しかも、そのコミューンは、自らの体内に刻印され、しぼりだされた「心の根拠」に従順に従ってできたものだった。パリ・コミューンは偶然にうまれたのか、それとも、その必然性があったのかと問われれば、わたし(たち)なら、19世紀の終わりの必然性とともに、それ以上の確証をもって、フランスの「根」の思想の根強さを感じずにはおれない。いわば、土着思想としてのコミューンのことだ。そして、そのこと自体が、世界史に向かって開かれていることを物語っている。なぜなら、パリ・コミューンこそ、世界で最初の自立した階級闘争の代名詞であるからだ。

わたしたちは、人類に向かってコミューンが問いかけたか何かを探すために、歴史の原点に返りつつ、現代思想として捉えなおす価値をもっていることを確認する作業を求められているのではなかろうか。

                                    (了) 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<参照文献>

 

『フランスの内乱』  マルクス著 木下半冶訳   岩波文庫  1973

『パリ・コミューン』  柴田三千雄著       中公文庫   1982

『パリ・コミューン』  磯見辰典著        白水社      1987

『パリ・コミューン』  桂圭男著         岩波新書    1978  

『革命とコミューン』  滝村隆一著        イザラ書房  1979

『パリ・コミューン』 ジョルジュ・ブルジャン著 上村正訳 白水社      1998

『パリ・コミューン』 H・ルフェーヴル著 河野健二・柴田朝子訳 岩波書店1968

『パリ・コミューン』 ア・イ・モロク編 高橋勝之訳 大月書店    1971年 

『国家と革命』 レーニン著 角田安正訳             ちくま学芸文庫 2001