革命の遊牧民  トロツキ

                                           

 

           宮内広利

 

 

 

 

政治思想を見分ける目安は、「国家」をどう扱っているかということである。国家の解体または開放の方に目が向いていれば、それでよしとしなければならない。なぜなら、政治的国家こそが、近代社会がうみだした最大の遺制にほかならないからだ。この遺制が残っている限り、歴史は次のステップに上ることはできない。つまり、資本主義社会を超えることができないということだ。トロツキーでいえば、永続革命、世界革命の思想が国家の解体と抵触しているかどうかで、その評価が決まるとおもえる。

近代国家を閉じようとするあらゆるもくろみは、いまや、すべて知の反動にほかならない。それがブルジョア国家であろうと、プロレタリア国家、人民民主主義国家、国家連合と名称は何であろうと変わりない。支配者たちは、民主主義、自由主義、プロレタリア独裁や人民民主主義の名前を名乗っているにすぎない国家主義者でしかないのだ。また、トロツキーの場合、国家の解体の構想は、レーニンの思想をなぞって、赤軍(常備軍)を廃止して、全人民武装で肩代わりする主張や、労働組合の軍事化の思想となって表われた。もっと大きなテーマとしては、堕落したスターリン主義官僚の廃絶を掲げた第二補完革命を主張した。

しかし、トロツキーには、史上はじめてプロレタリア革命を完遂したロシア革命にたいする愛着が、彼の聡明な眼を曇らせていた。ともすれば、スターリン主義者に投げかけるインターナショナリストとしての自負も、現実は、生産手段の国有化や計画経済の唱和で相殺されている。確かに、ボリシェヴィキの伝統を拒否したスターリン主義者にたいする攻撃は激しく、的を得ていることもあったが、多くは、彼が提案した反スターリン主義のスローガンは、スターリン主義の相似形であることが多かった。だから、左翼反対派も含め、ロシア革命独自の思想が産まれた。これは、マルクスのコミューンの思想からは、決して出てこない概念だ。だが、わたし(たち)がトロツキーに興味を魅かれるのは、なぜ、トロツキーではなく、スターリンが党内闘争で勝利したのかということである。トロツキーには何かが欠けていたのか。トロツキーは、理念と現実の狭間に落ち込んだのではないか。それが、大衆とともにありながら、一般大衆を味方にすることができなかった最大の理由であるような気がする。

ソ連邦が崩壊してから15年以上経過している。この間、レーニンが省みられることもなく、まして、トロツキーの思想に意味をみいだす人などいなかった。しかし、彼の思想に取り柄があるとすれば、何といっても「世界革命」へと越境する姿勢であった。つまり、現在に遺産が隠されているとすれば、それは「永続革命」論しかない。

トロツキーにとって、近代民族国家を超えることがいかにむつかしいかを体得したのは、理論を産みだしたときではなく、その理論を実地に移すときに、スターリンとエピゴーネンのような矮小な岩盤ではなく、ほんとうの歴史の岩盤にぶちあたり、それを穿つという作業が課題として残されたときである。民族国家という岩盤が残されている限り、トロツキーとともに、わたし(たち)も、定住を拒まれた革命の遊牧民として生きているのではないか。あらゆる意味において「革命」をみつめることは、「国家」を解体することであるからだ。「国家」が解体しない限り、それにたいして反措定した思想はいつまでも生き残る。

1 出 自

 

 トロツキーの本名は、レオン・ダヴィドヴィチ・ブロンシテインといい、トロツキーはペンネームである。このトロツキーは、ウクライナの広大なステップが広がるヘルソン県イワノフカ村で、1879年10月26日に生まれた。兄弟は、兄、姉、妹の4人兄弟である。両親はそこで8人の子を産んだが、そのうち4人だけが生き残った。4人の子供たちは、幼くしてジフテリアや猩紅熱で死んだ。奇しくもスターリンも1879年(12月21日生)生まれである。父のダヴィド・ブロンシテインは、ユダヤ系の富農だった。母は、町のユダヤ系小ブルジョアだった。

イワノフカ村は、小麦と羊の王国であった。その分だけおよそ文化的な匂いを欠いた小村であった。ユダヤ人であったが、両親は刻苦して蓄財し、3,000エーカの土地、製粉工場、脱穀場をもち、常雇いのほかに、農繁期には延べ数千人もの出稼ぎ労働者を使う、この地域では有数の富農になった。トロツキーの少年時代は、辺鄙な農村にある小ブルジョアの家庭の平凡な子供時代であった。生涯の最初の9年間、彼は生まれた町からほとんど出たことがなかった。

トロツキーの父親は、最初は小規模な、後には大規模な自営農となった。父親は少年の頃、南部の広大無辺のステップ地帯に幸福を求めて、ポルタワ県にあるユダヤ人の町から家族とともに移転してきた。その頃、ヘルソン県とエカテリノスラフ県には、40ほどのユダヤ人農村居留地があり、約2万5千人の住民が生活していた。学問はないが、金持ちになることを目標にして、率先して農業労働の先頭に立ち、たゆまぬ労働をつうじて、次第に地位を昇っていった。父と母は働きづめの生涯を送った。たまに喧嘩をすることもあったが、総じて非常に仲むつまじかった。もっとも、二人は違った家柄の出であった。母は町の小ブルジョアの家の出で、そういう家は、あかぎれだらけの手をした農夫を見下していた。土地と家畜と家禽と製粉所は、両親のあらゆる配慮を要求した。農場労働の波浪は家庭の情愛を飲み込んでいった。家庭内には優しさというものがなく、特に、トロツキーの幼い頃はそうであった。父は知力の点でも意志の強さでも、文句なしに母より優れていた。また、人間としての深み、自制心、如才なさ、いずれの点でも母より優れていた。年を経るにつれて、父も次第に厳しくなった。生活の大変さ、事業の拡張とともにつのる心労、とりわけ1880年代の農業恐慌のときの心労、そして子供たちからうけた幻滅のせいであった。

この父は、ロシア革命後まで生き続けたが、そのころにはきわめて豊かになっていた。1921年、息子の指導したロシア革命が、彼の土地を奪ってしまい、父親が白軍と赤軍の脅威から逃れて、80歳でモスクワまで歩きとおして、人民委員になった息子に、就職先を頼むことになる。彼は息子の活躍ぶりを、モスクワ郊外の小さな国有製粉場の管理人として眺めながら、1922年の春、チフスで亡くなった。母親は1910年に亡くなっていた。

トロツキーは、ユダヤ人を両親にもっていたが、イワノフカ村では、完全に自由農民の子であった。トロツキーは「私の少年時代は飢えも寒さも知らなかった」と書いている。

そのような恵まれた環境に育ったトロツキーは、ユダヤ人としての差別には縁遠かった。ユダヤ人として差別される社会・経済環境は、彼のユダヤ人定住区には存在しなかったからである。わずかに少年時代のトロツキーが、ユダヤ人差別を感じたのは、1887年に制定された、ユダヤ人子弟が中等教育機関へ入学する場合の定員割当10%という枠であった。これで、ユダヤ人が高等中学校に入るのは、ほとんど絶望的であった。しかし、トロツキーは、オデッサの1年予科へ通っただけで、聖パウロ実科学校へ6年間通い、ずっと首席を通した。一時、友達をかばって、先生に抵抗の姿勢をみせた首謀者とみなされて、退学処分をくらったが、再入学を許された。彼の学生時代の思い出は、冷淡さと官僚的形式主義への違和感であった。この学校で、現存秩序にたいする嫌悪の種を播いたと回想している。

トロツキーの自伝『わが生涯』にも、ユダヤ人差別を感じさせる表現はどこにもない。彼は自伝に「民族的要素は心理のなかで独立した場所をしめていなかった。なぜなら、日常生活の中で、そのことかが感じられることはめったになかったからである」と述べている。オデッサは、当時、50万の人口のうち14万人がユダヤ人であった。このオデッサでの生活のなかで、大ロシア人のもとで暮らすドイツ人、ウクライナ人、ユダヤ人相互が、ときおり隠された排外主義が、表面に顔を出すことがあったが、それが、トロツキーに特別な印象を残した。こうした民族的不公正が、現体制に不満を抱くようになる隠れた動因のひとつになった。トロツキーは自尊心が強く、短気だったこと、それと他人と折り合っていくことが苦手だった。彼の自尊心は高く、人より優れた、より知識のある者にならなければならないという考えは、ますます重たく彼の胸を締めつけた。

しかし、それよりもむしろ、特権階級の子弟と、貧困により学校にもいけない子弟たちとの差別の方が心に深く沈殿した。トロツキーは、特権階級の恵まれた子弟であり、頭のよい模範学生であった。だからこそ、金ぴかの制服制帽で誇らしげに町を歩いていたトロツキーが、工場帰りの13歳ぐらいの少年に、痰をひっかけられた事件の衝撃は大きかった。少年は社会的抗議の感情を、彼にぶつけたのだ。彼の心の奥底には、警察的ロシアのなかでも、最も警察的な都市だったオデッサの象徴であり、金ぴかの車に乗って拳を振り上げ、大声で叫びながら、疾走する市長の後姿と、おびえた少年の姿が、いつまでも消えなかった。ユダヤ人差別はないかわりに、支配者と被支配者、権力者と無権力者との階級間の対立の姿が、より一層、トロツキーの柔らかい心を刺激した。虐げられた人々にたいする共感と、社会的不正に対する怒りである。これらは理論を身につける前に、大きな爆発力をもった心象の蓄えをつくりだしていた。あとは時代が引火させればよかった。

しかし、彼の環境は、政治的なものとは無縁だった。政治的見解をもっていなかったし、持ちたいという欲求も全くなかった。だが、無意識的な傾向としては反体制的だった。トロツキーの少年時代は、田舎でも都会でも、環境は小ブルジョアジーそのものであった。そこでは主要な努力は、金儲けに向けられていた。田舎に反発したのも、都会に反発したのも、そのためであった。トロツキーはこうしたものを、自分から激しく突き放し、永久に縁を切った。

ともかく、トロツキーの幼年時代は、ペテルブルグやモスクワから隔絶し、イワノフカ村から一歩も外にでることのなかった9年間と、そして、都市オデッサでの7年間は、ほかの恵まれた平凡な少年の生活と、ほとんど変わりばえのしない生活といえた。トロツキーは大人になってからも、ユダヤ人であることの意識の痕跡はほとんど見られない。これは自分が意識的に隠しているだけかも知れないが、自分の出自を公然と、「プチ・ブルジョア」と規定しており、ユダヤ人問題に関しては何の回答もない。いつも、彼は、自分はロシア人でもなければユダヤ人でもない、「社会民主主義者だ」と答えたという記憶が残っている。トロツキーの好んで使うのは「インターナショナリスト」という言葉であったが、この言葉が、ユダヤ人という言葉に免疫を与えていたのかもしれない。学生時代から、トロツキーは言葉への愛着から、作家、ジャーナリスト、芸術家に魅かれる自分を見つけ出していた。

トロツキーが、聖パウロ実科学校の7年生として通った学校は、オデッサではなく、ニコラーエフにあった。ニコラーエフで学んだ1896年は、青春時代における転換の年になった。トロツキーは、ここで保守主義の装いを脱ぎ捨てて、左翼に転じた。そのころナロードニキ主義とマルクス主義の対立する流れが、激しい思想の渦を形成していた。

トロツキーと父親との相克は、長い間、この問題をめぐって展開された。父はトロツキーが技師になることを望んでいた。利発なトロツキーを後継者として期待していたのだ。そのようなたくましい父親も、息子が革命家になるとともに、激怒と心痛を繰り返した。その間の父子の相克、断絶も、当時の青年としては、ありふれた現象の一齣であった。彼は何よりも、自分自身を捜し求めていた。トロツキーは、はじめナロードニキ主義に心酔していた。彼らの聴講会を開いたり、雑誌の刊行を行ったりした。

 

2 出 発

 

 明らかに時代の雰囲気は変化し、そのことが、革命的プロパガンダへと足を踏み出すのを急速に促した。1896年、ペテルブルグで職工の大衆ストライキが勃発した。これはインテリゲンチャの士気を鼓舞した。労働者の重部隊が目覚めつつあるのを感じた学生たちは、以前よりも大胆になった。1897年2月、ヴェトローヴァという女子学生が、収監されていたペテロパウロ要塞で焼身自殺をした。この悲劇が、あちこちの大学都市で騒動を起こし、逮捕と流刑があいついだ。トロツキーが政治活動に手を染めたのは、この「ヴェトローヴァ事件」を契機としたデモが、世間を騒がしているさなかだった。そこで、サークルを作った。労働者はよく集まったが、指導者と文献が不足していた。『共産党宣言』はよれよれになった手書き複写版のものが一冊しかなかった。やがて、自ら文献をつくり始めた。声明文や論文を書き、次にそれらを活字体でこんにゃく版に書き移した。

トロツキーの政治組織への関わりの出発点は、1897年、18歳の頃、ニコラーエフ市で、「南部ロシア労働者同盟」を組織したときから始まる。「南部ロシア労働者同盟」は、思想的には、ナロードニキ主義や初歩的なマルクス主義が、現状にたいする漠然とした労働者の反抗気分と調和してできたものであった。だが、この組織は、1898年1月28日の大量検挙で、指導的メンバー26名全員が逮捕され、壊滅寸前に追い込まれてしまった。わずか10か月の短命な組織活動であった。関わりをもった逮捕者は200名以上におよんだ。

こうしてトロツキーは、監獄生活を経験する。2年半もの間、ニコラーエフ、ヘルソン、オデッサ、モスクワと監獄を転々とし、そののち、主犯格の4名の被告は、東シベリアへ流刑4年の判決を受ける。レーニンのことを初めて耳にしたのも、レーニンの著書『ロシアにおける資本主義の発達』やマルクスの『資本論』を研究し始めたのも、モスクワの中継監獄のなかであった。また、トロツキーが、ニコラーエフの労働運動に関する小冊子を執筆して獄外に流したのも、そこだった。その間、1898年3月1日、ミンスクで社会民主労働党の創立大会が開かれた。参加者はわずか9人だったが、たちまち逮捕の波に飲み込まれた。

 1900年秋、シベリアの流刑地、数千のツングース人の住むウスチ・クート村へ到着した。シベリア出発前に、彼は、同志の姉で、しばしば激論をかわしていた6歳年長のアレクサンドラ・リヴォーヴナ・ソコロフスカヤと、ユダヤ教の戒律にのっとって、モスクワの中継監獄で結婚し、流刑地が離れ離れにならないようにした。村には100軒ばかりの木造の小屋があった。彼らはそのはずれに住むことにした。流刑地は、冬にはマイナス44度にもなる酷寒の地である。夏になるとブヨに悩まされた。そこには、何人もの流刑者がいた。ナロードニキ、マルクス主義者、アナーキストなど流刑者同士が、陰湿ないざこざをおこしていた。また、恋愛のもつれから前途に絶望して、猟銃自殺をした流刑者もあった。流刑囚の大きな居留地には、どこでも多数の自殺者の墓があった。定期的に送り込まれ知り合いになった人のなかに、ジェルジンスキーやウリツキーなどの若い革命家がいた。トロツキーはイルクーツクの新聞『東方評論』に寄稿しはじめた。原稿は好評だった。トロツキーが、ナロードニキからマルクス主義者に脱皮する過程は、次のように内省されている。

 

《1890年代まで、ロシア・インテリゲンチャのかなりの部分は、ナロードニキにどっぷりはまり込み、資本主義を否定し、農民の共同体を理想化していた。その間、資本主義はかたっぱしから戸口をたたいてまわり、インテリゲンチャに対し、将来におけるあらゆる物質的安寧と強大な政治的役割を約束した。ブルジョア・インテリゲンチャにとって、自らを忌まわしい過去と結びつけていたナロード二ズムの臍の緒を断ち切るためには、マルクス主義の鋭い刃が必要であった。そこから、前世紀の最後の数年間にマルクス主義が急速に普及し勝利を収めるという事態が生じたのである。》

                        『わが生涯』 トロツキー著 森田成也訳

 

こうして彼は、マルクス主義へと傾斜を深めて行った。トロツキーが、シベリアの辺鄙なところで、マルクス主義の議論をしていたころ、政府の内部でもイデオロギー闘争が生じていた。1901年2月、宗務院は、レフ・トルストイを教会から破門した。トルストイにたいして、処女受胎や聖餅を通じて化体される精霊について、信じるよう要求したのである。彼は6つの罪を犯したとされた。国家の重鎮たちは、革命家を犯罪者とみなしていただけでなく、頭のおかしな狂信者とみており、自分たちは、健全でまともな思想の代表者であると考えていた。

国家にたいする反乱があちこちで起きはじめた。先導者の役割を演じたのは学生だった。テロ戦術に関して論争がおきた。流刑囚の中のマルクス主義派は、テロリズムに反対の立場をとった。こうして2年の年月が流れた。運動は地下から街頭へと流れ始めていた。シベリアでも、社会民主主義組織(シベリア同盟)が、鉄道の線路にそって結成されていた。トロツキーは彼らのために、檄文やビラを書いた。革命運動は大きく広がりはじめたが、ばらばらなままであった。トロツキーは、中央集権的な党を創設する必要性を、痛切に感じていた。そのころ、遠くに、同じ問題意識を持っている者がいることを知った。レーニンの『なにをなすべきか』を手に入れ、『イスクラ』発刊に心躍らせたのが、この時期であった。

 トロツキーは、流刑地からの脱走を決意する。しかも、妻と二人の娘ジーナ(1歳)とニーナ(生後4ヵ月)をシベリアに残して、脱走するというのである。脱走を勧めたのは、妻の方であったという。彼女にとって、革命的義務は他のあらゆる考慮を、何よりも個人的なそれを圧倒した。その妻は、けなげにも藁人形をベッドに入れて、脱走の時間かせぎをしてくれた。この妻とは、これ以降、離別することになる。イルクーツクにやっとたどり着き、シベリア鉄道に乗り込んだ。友人から渡されたトランクのなかには、シャツやネクタイのほか、偽造の旅券が入っていた。彼はとっさに、「トロツキー」と書き込んだ。オデッサの監獄時代の看守に、トロツキーという男がいたのを思い出したからである。それ以降、彼は、レオン・ブロンシテインという名を捨てた。脱走後、サマーラで、『イスクラ』に正式加入して、ここで「ペロー」(ペン)という偽名をもらい、国外に出た。オーストリア国境を越え、チューリヒについたトロツキーは、この亡命中に、二度目の新しい妻ナターシャと結婚した。 

 

3 『イスクラ』時代 

 

チューリヒ、パリ経由でロンドンに入ったのは、1902年の10月の早朝だった。さっそくトロツキーは、憧れのレーニンとその妻クループスカヤに逢いにいった。彼らはクレールからの手紙によって、トロツキーのことを知っていて、来るのを待っていた。クレールは、サマーラで『イスクラ』の組織にたいして、トロツキーのことを「ペン」という名前で公式に紹介しておいてくれた。だから、トロツキーが着いたとき、「ペンがやって来た」という声で迎え入れられた。朝早く寝起きをおそったにもかかわらず、レーニンは上機嫌で彼をもてなし、台所でお茶を出してくれた。そして、初めてのロンドンの街を道案内してくれた。レーニンは橋の上からウェストミンスターやその他の有名な建物を教えてくれた。レーニンは、「あれがやつらの有名なウェストミンスターだ」という意味のことを言った。トロツキーは非常に感激したが、ロンドンの建築物にはほとんど関心がなかった。レーニンにしても、そんなことのために、長い散歩に連れ出したわけではなかった。

レーニンの目的は、トロツキーのことをよく知り、それとなく試験することだった。トロツキーは、レーニンの質問に答えて、流刑や流刑者の中のグループについて詳しく語った。レーニンは、「だが、向こうではベルンシュタインの政策に関して意見の相違はなかったのか?」と聞いてきた。トロツキーはベルンシュタインやカウツキーの本を、モスクワの牢獄や、流刑地で、どのようにして読んだのかを語った。自分たちのうち、マルキストの誰ひとりとして、ベルンシュタインに賛成するものはなかった。いわば、カウツキーが正しいのだということを、当然のこととみなしていたと語った。トロツキーは、さらに、ボグダーノフの哲学的小冊子をどんなに興味をもって読んだかを、レーニンに語った。レーニンは、自然の歴史的考察はいいが、プレハーノフが唯物論的でないといって同意しなかったので、自分の意見を持っていないと答えた。

トロツキーが、レーニンの著書『ロシアにおける資本主義の発達』において用いられた統計的資料の膨大さのことを讃えると、レーニンは「そうだ、実際、あれは一朝一夕にでき上がったものではないからな」と少し照れくさそうに答えた。

このロンドンで、リヴォーヴナ・ソコロフスカヤは、トロツキーのために、ザスーリチ、マルトフやそして『イスクラ』の発行人になっていたブリュメンフェリトと同じ家で、少し離れたところに貸間をみつけてくれた。こうして、トロツキーの短いロンドン生活が始まった。ザスーリチは、トレーポフ総督暗殺未遂事件の勇敢な女性テロリストで、マルクス、エンゲルスと文通していた経歴をもっていた。彼らは互いに親密な交友関係をもって、レーニン編集長のもと、『イスクラ』の編集に携わっていたが、マルトフの思想に対するトロツキーの低い評価は、その例外だった。これはおそらく、レーニンの影響によって、そのような評価が生まれたものだと推定される。明らかにレーニンとマルトフの間には、すでに冷ややかなものが流れていた。レーニンは「強硬派」であり、マルトフは「穏健派」だった。マルトフは、その頃、レーニンの親しい同僚であったが、彼と肩をならべていては、どうも気が落ち着かない様子であった。

『イスクラ』の政治的指導者はレーニンであり、新聞の主要な編集長はマルトフだった。当時の人の回想によれば、トロツキーは、汚れた鼻眼鏡をずりおちそうにかけて、『イスクラ』の編集に携わるマルトフを、「ロシア社会民主主義のドブロリューボフ」と呼んでいたという。だが、このマルトフは記者としては、大変有能だった。彼は、ちょうど話しをするときのように、すらすらと止まることなしに際限なく書きまくった。

トロツキーは『イスクラ』の既刊号と、同じ編集部が出していた雑誌『ザリャー(暁)』をむさぼるように読んだ。まもなくして、トロツキーは『イスクラ』に寄稿しはじめた。最初は短い記事を書き、やがて政治論文や社説すら、執筆するようになった。ホワイトチャペルで講演をはじめ、外部世界との関係を取り計らってくれたのが、ロンドンの古い住人であるアレクセーエフだった。当時、社会民主主義の思想的中心はドイツであって、正統派と修正主義者との闘争の行方を緊張して見守った。トロツキーは、公式のレポをたずさえて、パリ、ブリュッセル、リエージュ、スイス、ドイツなどに講演旅行に赴いた。公式のレポのテーマは、「史的唯物論とは何か、かつ、社会革命党員は、いかにそれを理解しているか」というものだった。

 レーニンは、プレハーノフらと「労働解放団」をつくって活動していた。プレハーノフは、輝かしきマルクス研究者であり、ヨーロッパ規模の人脈をもっていた。プレハーノフと並んで大きな権威があったのは、ザスーリチとアクセリロートだった。しかしながら、この時期には、すでにプレハーノフには衰退期が始まっていた。プレハーノフの力を奪ったものこそ、まさにレーニンに力を与えたものであった。革命の接近がそれである。プレハーノフは、マルクス主義の宣伝家であり論争家であったが、革命的政治家ではなかった。革命が迫ってくればくるほど、プレハーノフは、はっきりと足元の基盤を奪われていった。これが、若い活動家にたいする彼のいらだちの根底にあった。

レーニンは、日常の組織的、政治的活動において、できるだけ古参派から、何よりもプレハーノフに束縛されたくないと思っていた。彼は、すでに、プレハーノフと鋭く対立しており、特に、党綱領の草案を仕上げるなかで、その対立は激しかった。ザスーリチによれば、レーニンとその師プレハーノフとの対立は、噛んだら放さないブルドック(レーニン)と、敵をさんざん振りまわして放り出す猟犬のグレイハウンド(プレハーノフ)の違いに喩えられたが、この対立は『イスクラ』編集部の2派(3対3)の力関係から産まれた。老人組のプレハーノフ、ザスーリチ、アクセリロード対若手のレーニン、マルトフ、ポトレソフ(クループスカヤは局付秘書)というバランスのとれた編集局の対立ができあがっていたのだ。ザスーリチとレーニンも対照的で、ふたりの間には共感がなかったばかりでなく、お互いに体質的に違ったものであると感じていた。

それへ飛び込んできた迷った小鳥がトロツキーということになって、両者の対立はますます激しくなった。トロツキーを編集陣に加えることで、レーニン派が多数派を占めようとする戦術的な配慮をしたため、23歳のトロツキーに対するレーニンの過大ともいえる期待が集中してきたのだ。トロツキーは、ロンドン滞在中にプレハーノフと一度逢っていた。だが、ひとよりも敏感に、その場の空気の冷たさを感じた。正式な編集局入りは、プレハーノフの反対に遭い、党大会まで延期されたが、(党の分裂があり実現しなかった)、これ以後、プレハーノフとトロツキーとの対立は、消しがたいしこりが残った。以後、トロツキーは、非公式の立場で、審議権を与えられて編集会議への列席だけは認められた。大会が近づき、結局、編集部をスイスのジュネーブに移した。この頃のレーニンについて、どのように見ていたか、トロツキーは次のように分析している。

 

《このもっとも力強い革命の操縦者は、政治のみならず、理論的著作や、哲学的、言語学的研究においても、同一の理想つまり目標によって、逆もどりしないように制御されていたのであった。おそらく彼は、歴史の実験室が作りだした、もっとも極端な功利主義者であったろう。しかしながら、彼の功利主義は、広範な歴史的ひろがりをもったものであった。彼の個性は、そのために平板な貧弱なものになりはしなかった》

                      『レーニン』 トロツキー著 松田道雄訳

 

 大会代議員が到着し、彼らとの間で、絶え間なく集会がもたれていた。審議のおもな点は、規約の問題だった。その際、組織的構成において最も重要ポイントは、中央機関紙(『イスクラ編集部』)と、ロシア国内で活動している中央委員会との相互関係だった。トロツキーは、編集部は中央委員会に「従属」すべきであるという考えを持っていた。ロシアの『イスクラ』派の大多数もそういう意見だった。しかし、「それはまずい」とレーニンは反対した。「勢力の比較からいえばその反対だ。両者の力関係はそうじゃない。われわれは確固たる中核であり、思想的にもわれわれの方が強力だし、われわれがここから指導するんだ。彼らがどうしてロシアからわれわれを指揮できるかね」。レーニンの組織構想は、トロツキーに多少の疑念を起こした。しかし、これらの問題をめぐって、党大会が分裂することになろうとは、夢にもおもわなかった。

「しかし、それでは中央機関の完全な独裁ということになりませんか」とトロツキーは尋ねた。「そうなれば、何が悪いというんだい。現在の状況では、それ以外にやり方がないんだ」とレーニンは答えた。レーニンにとって大切な問題は、中央機関を、将来、どういうふうに組織するか、ということだった。中央機関は、現実には、同時に中央委員会の役割を果たさなければならなかった。レーニンは、従来の6委員を、これ以上続けることは不可能であると考えていた。ザスーリチとマルトフは、どの論争でもほとんどいつも、プレハーノフの側についた。だからよくいっても、3対3であった。三人一組のチームは、どちらも委員のひとりでもやめさせようとはしなかった。それで、レーニンは反対の方針をとった。委員会の拡張だ。レーニンは、トロッキーを7人目の委員として入れ、7人委員会をつくる予定だった。レーニンは、すでにトロツキーを、7人目のメンバーとして推薦し、それに反対したプレハーノフを除いて、皆に承認されていた。7人目の委員の登場は、プレハーノフの目には、老人3人にたいして若輩者が4人と映った。

 そして、ある代議員が、ロシアで『イスクラ』と並行して、大衆機関紙を発行することが必要だと強調した。レーニンとトロツキーは、これには断固反対を表明した。社会民主党の思想の通俗的単純化をもとにして、特殊な集団が形成されはしないか、危惧したのである。プレハーノフはその意見に反対した。これに、また、トロツキーが反駁して、あとでもプレハーノフと仲はよくならなかった。

1903年、ロシア社会民主労働党の第二回大会が、ベルギーのブリッセル市の労働者協同組合の倉庫で、秘密裏に行われた。第一回大会は1898年、ミンスクで開かれたが、代議員はわずか9名、党創立宣言、党名決定と3名の中央委員を選出しただけで、3日間の幕を閉じた。だから、今回が、実質上の党創立大会といってよかった。この大会こそが、実質的なロシア社会民主労働党の基本方針を決定すべき重大な大会であった。この大会には、議決権をもつ43名の代議員、審議権をもつ14名の代議員が出席していた。ところが、この事実上の創立大会で、ロシア社会民主労働党は、ボリシェヴェキ(多数派)とメンシェヴィキ(少数派)に分裂してしまったのである。

 大会は、プロレタリアート独裁を定式化し、終局目標に社会主義社会の実現をめざす最大限綱領と、ツァーリズム打倒、ブルジョア民主主義革命など当面の目標を規定した最小限綱領を採択した。しかし、党組織に参加することを党員の必須条件とした党規約をめぐる激しい対立や、ブンド問題で紛糾し、それに警官の干渉がはいって、ロンドンに場所を移して、二十数日間も続けられた。

 大会が進むにつれて『イスクラ』の主要幹部のあいだの対立が、次第にあらわになってきた。「強硬派」と「穏健派」への分化が、表面化してきたのだ。意見の相違は、まず、最初、規約第一条をめぐって、すなわち「誰を党員とみなすか」をめぐって起こった。レーニンは、党と非合法組織を一致させることに固執した。マルトフは、非合法組織の指導のもとで活動する人々をも、党員とみなすことを望んだ。レーニンは、党の問題において、不定形さを排し、輪郭をはっきりさせることを望んだ。マルトフは曖昧さに流れる傾向があった。

 この問題におけるグループ分けが、その後の大会のすべての進行を、とりわけ党の指導機関の構成を決定づけた。レーニンのトロツキー抱きこみは、大会中も続けられたが、トロツキーは拒絶した。ついに、大会が分裂したとき、それは参加者の誰にとっても、予期せざることだった。党内闘争が極端に先鋭化した理由は、古い人たちが、レーニンを弟子としてしかみておらず、その成長と意味とを誤って評価したためだということがわかる。アクセリロードと他のメンバーの精神状態を、もっともよくあらわすのは、次の言葉である。「どんな蝿がやつを刺したんだろう」。レーニンが、ロシアの中に地盤を用意しているということだった。レーニンの老人たちとの衝突は、避けられないものだった。組織において、特に、実際問題の取り扱いにおいて、革命へ向かう心構えが、根本的に違っていたのだ。

 レーニンは、『イスクラ』編集部から、ザスーリチ、アクセリロードを除外しようとした。トロツキーは、両者にたいして畏敬の念を抱いていただけではなく、個人的にも親密な関係にあった。レーニンにしても、二人の過去を高く評価していた。だが、レーニンは、二人が未来への途上において、ますます障害になっていくだろうという結論に達していた。それはトロツキーには、とうてい受け入れることのできない感情だった。この二人と仲のよかったマルトフは、レーニンの編集局3人案に反対して、6人案に固執した。それでも、結局、レーニン、プレハーノフ、マルトフの3人案の指導委員会が採択された。

この間のトロツキーの心の動きを、彼は次のように振り返っている。

 

《私に対するレーニンの態度は非常に好意的なものだった。しかし、まさにその彼が、私にとって一体のものであった編集部を、そして『イスクラ』という魅力的な名前をもった編集部を、今や簒奪しようとしているものと私の目には映った。編集部の分裂という考えは私には冒瀆的なものであるように思われた。革命的中央集権主義というのは、厳格で、有無を言わせぬものであり、激しい要求をつきつけてくる原則である。それは、昨日まで意見を共にしていた個々人やグループ全体に対してさえ、しばしば容赦ない形をとる。》

                      『わが生涯』 トロツキー著 森田成也訳

 

 ここで、トロツキーは、レーニンの政治的性格との断絶を持っていたというのだ。つまり、組織論において、レーニンが中央集権主義をもっていたことを、当時は、気づかなかった。革命政党にとって、どれだけ厳格で有無を言わせぬ中央集権主義が必要であるかを、完全には理解していなかったと、あとで振り返っている。「3人制」は、レーニンが、「革命理論の問題では、プレハーノフを自分の見方につけ、革命的政策の問題ではマルトフを自分の見方につけるという努力ででてきた」案とトロツキーは把握していた。また、『イスクラ』発行を、亡命20年の老人革命家たちが、文筆的仕事として従事しているのにたいし、レーニンが、革命行動の直接の武器として認識していたことも、トロツキーは知っていた。しかし、トロツキーには、50歳を越えた老人たちへの特別な親愛の情を、政治に名を借りて、切り捨てることがどうしてもできなかったのである。古参派は、レーニンにたいして「新米のくせにうぬぼれが強い」というような憤激をもらしていた。しかし、レーニンには、明確な目的意識をもった自覚があった。それが、彼を指導者としての立場に立たせたのである。レーニンはプレハーノフを味方につけたが、プレハーノフは信頼できる仲間ではなかった。同時に、レーニンはマルトフを失った。そして、永遠に彼と別れた。マルトフとともに、新『イスクラ』はメンシェヴィキに移った。

 この編集部選挙で、トロツキーは、ザスーリチ、マルトフとともに、猛烈な野次をとばして、レーニンの演説を妨害した。トロツキーは、この段階では、50歳を越えた老革命家ザスーリチを編集局から追放し、なぜ、「3人制」のなかに、プレハーノフとマルトフをレーニンが容れたかが、深いところでは分かっていなかった。レーニンのように、人間関係をすべて、革命への貢献度合いを中心にすえて、冷静にそれを実現するための、巧妙きわまる老獪な戦術を身につけていなかったのである。

トロツキーは、第二回党大会の分裂の際には、メンシェヴィキの側に立った。トロツキーは、革命のさなか、1917年の第六回大会でボリシェヴィキ党に中央委員会のメンバーとして迎えいれられるまでの14年間、レーニンの率いる党組織とは、別の道を歩むことになる。その間、レーニンとトロツキーの間には、激しい非難と、冷たい黙殺があった。あまりに遠くを見つめる冷徹なレーニンの視線が、経験の浅い青年にとってはあくまで判断の外側にあった。

こうしてレーニンとトロツキーは離別した。ボリシェヴィキとの訣別は、指導者レーニンへの激しい批判となって火を吹いた。トロツキーが『われわれの政治的任務』(1904年9月刊)でレーニンに浴びせた罵言の激しさは、メンシェヴィキのうちでも、これほど激越な批判はしたものがいないほど、ボルテージの上がったものだった。これは、レーニンの臓腑に、失望と落胆をおりまぜて浸透していった。レーニンにとっては、期待していたこの有能な青年の罵詈雑言は、飼い犬に手を噛まれた感さえ覚えさせた。批判の対象になったのは、レーニンの『なにをなすべきか』から『一歩前進、二歩後退』にいたる一連の党組織論である。

前衛党の組織に関するレーニンの構想は、従来の西欧ヨーロッパのそれと非常に異なっていた。これはレーニンが、ロシア土着の革命的伝統を再生、発展させたのだということを、ぬきにしては考えられない。土着のアジア的思想には、高度に中央集権的な絶対主義的官僚政府が対応していたのである。その上、レーニンには、かつてのナロードニキ運動にあった革命に全生命をかけた初期のテロリストの勇気と、豪胆と完全な没我献身に伴う秘密陰謀家集団への高い評価があった。したがって、レーニンは、ドイツ社会民主党の凡庸な議会主義や組合主義にたいして、このような伝統的なストイシズムをもって対極に置いた。

したがって、レーニンの『なにをなすべきか?』には、それが、あまりにも一般大衆の生活感覚と根本的に異なり、職業革命家の特異な生活のイメージを彷彿させる濃密さがあった。これは、第二インターナショナルの「経済主義」とか「ベルンシュタイン主義」とかにたいする批判以前の問題であった。そして、レーニンは、いわば、中央集権絶対主義、ナロードニキの密集性、極端な政治主義、組織の内閉性、労働者の自然性への階級意識の外部注入と、職業的革命家の組織の密集性の強調と、党内民主主義の欠如、鉄の統制、厳格な党内規律の密閉性のどれひとつとっても、マルクス主義が、歪曲された否定的イメージとして、息がつまるような封建的専制主義の窮屈さのなかにすっぽりと押し込めてしまった。

 ここに表現されているのは、少数の単一の意志で統一され、かたく結合した内閉的な陰謀グループの組織連合体を求める心性である。これは、ツァーリ体制に対抗するうえで、最小限の犠牲で組織を守るため、やむをえずとられた体制というよりも、組織を開かれた形で結合する風土や歴史意識が、もともと欠けていたなかで、自然にイメージさせた擬似組織体なのだ。だから、党員勢力の拡大を図るということを無視して、専制主義的秩序をきわだたせ、自由主義的知識分子や一般の大衆が、立ち入るすきをなくしている。

この点が、トロツキーには、現実のプロレタリアートにたいして、閉じられた党にみえた。だから、レーニンは、「経済主義者」的労働組合主義は、自然発生的であるがゆえに、まだ階級意識が低く、政治闘争ができるまで高めるために啓蒙をすることが必要であるというが、実際に「経済主義者」に対置したのは、「プロパガンディスト」でしかない。そこでは、「経済主義者」ときめつけ、ストライキもデモも無駄だというのであれば、大衆との結節点をなくして、党が大衆のなかで、実効ある活動を行われえないのは自明であった。

 

《委員会はどの点においても大衆と結びついていない。ストライキ闘争を指導していないし、街頭行進を呼びかけも導きもしていないのである。直接の戦闘的刺激を欠いた委員会活動は、ますますビラの印刷と撒布に帰着することになる。組織は、この機能に適合した技術的装置にますます退化しつつある。ビラの撒布そのものも、結局は最小の抵抗の線に沿って進み、大衆から組織が断絶しているので、たえず、労働者を避けて通っている。》

            『われわれの政治的任務』 トロツキー著 原暉之訳

      

ここでは、レーニンの階級に対する理解の仕方に、問題があるとトロツキーは見ていた。レーニンが階級というとき、まず、組織された意識(階級)であり、知識の上下関係が、党との距離を測る尺度になる。だから、より知識を高めるための啓蒙活動を活発にすることが、党に大衆をひきつけさせる方法なのだ。ところが、トロツキーは、階級は意識のみで存在するのではなく、党との結びつきは、大衆の組織された意志をとおしてなされるのであるという。階級のなかの最も意識的な意志を、政治的影響力の形で組織する一歩一歩の戦術的歩調が、彼らの政治的感受性を高め、新しいプロレタリア群を層として押し出すことにつながるというのである。

「経済主義者」と対照的に、レーニンのような「政治主義者」は、「経済主義者」と裏腹に、階級の客観的利害と主観的利害のあいだに横たわる「へただり」に眼をそむけ、政治的戦術の問題を無視してしまうのである。こうして「経済主義者」が、プロレタリアートの後からついていくので精一杯で、プロレタリアートを指導しないとすれば、「政治主義者」は、自分自身が代行的にプロレタリアートの任務を遂行するので指導しない。こういう「政治主義者」の代行主義は、党の組織が党を代行し、中央委員会が党の組織を代行し、最後には、「独裁者」が中央委員会を代行することに帰着すると、トロツキーはいう。

トロツキーは、政治的代行という加速的方法を拒否しなければ、コミューンと全く正反対に、プロレタリアートにたいする独裁=ジャコバン主義が横行することになるとまで言い切っている。意識にもとづく特権意識の転倒こそ、マルクスのコミューン型国家の基本であったはずだった。それは、官吏のリコール制や普通選挙制にも、よく現われている。それをロシアのマルクス主義を名のる党派において、大衆とのコミニュケーション方法の倒錯を伴って、いわば、大衆とは無知蒙昧であり、この大衆を革命化するには、インテリゲンチャがつくりあげた知識を、外部から注入することが必要であるなどという考えが定着すれば、そのあげく、階級意識による指導―被指導の絶対的な格づけを産み出すのは自明である。ここにおいて、知識は、個々人の組織的序列をつくるばかりか、党と大衆の間に主従関係をつくってしまう。党員は、階級意識の成熟度で計られ、大衆は、党との関係を同じ計測器で計られてしまう、非民主的な因習の原因をつくってしまったのはレーニンだ、というトロツキーの見方は、スターリンにたいしても通じる方法的斬新さを伴っていた。

まもなく1904年9月、トロツキーはメンシェヴィキとも絶縁する。メンシェヴィキのなかに、二つの路線が浮上してきた。衝突は、自由主義にたいする態度と、ボリシェヴィキにたいする態度という二つの点をめぐって繰り広げられた。トロツキーは自由主義者が大衆に依拠しようとする試みを、容赦なく排撃するべきだという立場に立ち、それゆえ、ロシア社会民主労働党の二つの分派の統一をますます要求するようになった。一方の、リベラリストも革命の主体として取り込もうとするメンシェヴィキの態度が、その対立の原因である。

組織を離れた彼は、自分の責任ですべて行動しなければならなかった。ロシアでは、南部で全土にわたって力強いストライキ運動に覆われていた。その上、農民運動がますます頻繁に起こるようになった、大学は騒然としていた。日露戦争は、一時的に運動の発展を中断させたが、ツァーリズムの軍事的瓦解は、たちまち革命の力強い推進力になった。メンシェヴィキ、とりわけザスーリチは、ますます自由主義者に希望をかけるようになった。自由主義者の祝宴カンパニアがたけなわであった。1904年の秋、トロツキーは、ゼネラル・ストライキだけが活路を開くことができる。そして、その次にくるのは、自由主義に対抗して、大衆の先頭にたつプロレタリアートによる蜂起だと考えていた。この立場は、メンシェヴィキからの離反に、一層拍車をかけた。1905年1月9日「血の日曜日」事件が起こった。彼は2月には、もうキエフに潜入していた。こうして、1905年の革命へ飛び込む、有能な青年革命家トロツキーの行動が始まった。

 

4 1905年の革命

 

1905年の2月、トロツキーは危険をおかして、ロシアへ入国した。そして、12月3日、革命の敗北で逮捕されるまで、彼は、次々と移り変わる革命の風景のなかに溶け込み、緊張と希望に満たされ、彼の非凡な能力が、確証される日々を送った。彼は、この年、「永続革命」論の形成と実証の過程に入り込んでいた。このとき、トロツキーは、早くも「永続革命」論の原型をつくりあげていたのだ。トロツキーが、ロシアに入国する直前に書いた『1月19日以前』を、レーニンは、パルヴスと組んだ無駄口たたきのトロツキーと批評した。この批評には、めずらしく、レーニンの感情が直接的にほとばしり出ている。トロツキーよりずっと遅く、1905年11月8日にロシアに帰ったレーニンは、そこで、また、成長したトロツキーと出会うことになる。

1905年1月、パリ・コミューン以後、最初の革命がロシアで勃発する。1905年の第一次ロシア革命は、ロシアにおける革命の最大の試練であった。この革命はボリシェヴィキとメンシェヴィキの分裂の直後におこった。この分裂は一時静まっていたが、決して解決されてはいなかった。トロツキーが、革命の現場に密着し、ロシアの民衆の意識の息づかいの推移を見ることができる場所にいたことは、彼の革命理論の形成に、有利な影響をもたらした。1905年の革命は混合的なものであった。それは恣意的で古色蒼然たる専制にたいする、ブルジョア自由主義者と立憲主義者の反乱であった。それはまた、「血の日曜日」の残虐行為によって点火された、労働者の叛乱でもあり、その結果が、最初のペテルスブルグ労働者代表ソヴェトの登場につながったのである。

1900年に始まった世界恐慌は、資本主義世界を、自由競争の時代から独占資本主義=帝国主義の時代へおしすすめる契機となった。前近代的諸関係の支配するアジア的な遅れた広大な農村と、アメリカをすらしのぐほどに生産の集中度が高い先進工業地域、そして、人民の完全な政治的無権利と全能のツァーリズム、20世紀初頭のヨーロッパ-ロシアは、こうして現代世界の諸矛盾の最も先鋭な焦点となり、この矛盾は、ロシアの労働運動と農民運動を、「ヨーロッパの革命運動の前衛」としての高みに押し上げた。1900年から1903年にかけて、ロシアの労働運動の規模は一層拡大し、次第に政治闘争の色彩を帯びるとともに、しばしば武装闘争の形態をとって、ツァーリズムの警察、軍隊と衝突した。1902年には、ウクライナからヴォルガ中、下流地方、グルジアにかけて、土地を要求する農民の反地主闘争が激しく起こった。

政府は、人民の闘争の高揚に、血の弾圧をもって報いた。このような事態を背景に、ナロードニキの流れをくむインテリゲンチャたちは、1901年に「社会革命党」(エス・エル)を結成し、「戦闘団」をつくって、政府要人にたいするテロリズムを実行した。この「エス・エル戦闘団」は、1904年7月に、内相プレーヴェを爆弾で暗殺した。だが、専制の危機を実際に早めたのは、テロリストの爆弾よりも、日本軍の砲火だった。

1904年2月、日露戦争が開始された。1905年の革命は、日露戦争と切り離せないものだった。日露戦争は、ロシア政府にとっては、次第に騒擾化していくロシアの民衆の注意を外にそらすという意義をもっていた。だから、戦局が悪化すれば、それだけ国内の危機を深める結果につながった。案の定、戦局は、陸上でも海上でもあいついで敗退し、専制政治の無能と腐敗が、大衆的規模で露呈された。社会のあらゆる階級の人々が、政治的自由もなく、効率的でもない制度に、愛想をつかしていた。

戦争は、中国と朝鮮の分割をめぐる軍事的、封建的帝国主義のツァーリズムと、若い資本主義国日本との戦争であったが、レーニンは、他民族にたいする敵愾心をあおり立て、専制政治に向けられた人民の不満を、外に逸らそうとする排外主義の宣伝と闘った。また、「なによりも平和を」というスローガンにとどまって、この戦争がもたらす専制の危機を革命のために利用しようとしないメンシェヴィキと、彼らの新『イスクラ』を批判した。レーニンは、はっきりと専制ロシアの敗北に期待していた。ここに、第一次世界大戦の勃発に際して、彼がとった「革命的敗北主義」と、「帝国主義戦争を内乱へ」転化させる戦略の原型があった。国内では工場のストライキや農民の暴動によって、深刻化しつつある社会的危機の転換期でもあった。

当時、ペテルブルグには、会員9千人を越える「ペテルブルグ-ロシア工場労働者会議」という組織があり、これは警視庁とペテルブルグ保安警察が金を出して作らせたズバトフ主義団体のひとつで、その指導者は奇妙なきわめてロシア的な人物、半ば社会事業家で、半ば警察のスパイともいうべき、ガポン僧上という演説がうまい坊主がいた。

1905年1月3日、ペテルブルグのプチロフ工場で、ストライキがはじまった。このストライキを指導したのは、ガポンの「工場労働者会議」だった。このストライキは、急速にペテルブルグ全市に広がった。このなかで、ガポンは、当面の思惑を越えて発展する労働者の要求に突き上げられて、1905年1月9日の早朝、15万人以上の労働者と農民が、ガポンに率いられ、ツァーリにたいし、苦しみをやわらげ、憲法を制定してほしいとの請願書をもって、ツァーリのいる冬宮に向かってデモンストレーションをしていた。彼らは、ツァーリの肖像をかかげ、「神よ、皇帝を救いたまえ」を歌いながら、行進していた。当初、警察当局は、これに干渉しなかった。ところが、突然、待ちかまえていたツァーリの軍隊と警察が、これを機関銃とライフル銃の砲火によって迎えた。ついで、コサック騎兵があらわれて群集を踏みにじった。実に1千名以上が殺され、2千名以上が負傷した。

このいわゆる「血の日曜日」の残虐行為は、労働者の心に憤激を点火した。ロシアにおける1905年革命の反乱の始まりを予告するとともに、ペテルブルグの労働者の心理状態を一変させた。この事件によって、ツァーリにたいする人民の信頼が、決定的に崩れたのである。今や、雇主の背後に帝制国家がひかえていることが、万人の目にも明らかになった。いまや、ロシアでは、基本的な自由を求める運動でさえ、革命的手段によらずには、不可能だということが、誰の目にも明らかになったのである。「血の日曜日」の教訓は、ペテルブルグ以外のところでも学びとられた。労働者のストライキと武装蜂起、農民暴動は、このときから全国に爆発的に広がった。すべての大都市でストライキが起こった。春から夏にかけて自然発生的で統制のとれていない、しばしば極端に非情な暴力的な農民たちの広汎な叛乱がおこった。

6月には戦艦ポチョムキンの乗務員が暴動をおこして艦を乗っとった。8月になると、皇帝は、労働者と農民ぬきの、立法諮問機関にすぎない「ブルイギン国会」という餌を吊り下げた。おそれをなした政府は、9月に日本と屈辱的な講和を結んだ。10月には欺瞞的な民主主義を餌に、革命側の分断工作を行った。10月10日から始まった全国ゼネストは、政治的スローガンを掲げており、モスクワからたちまち全国に広がった。多くの都市の街頭では、軍隊とのあいだで衝突が繰り広げられた。トロツキーが、ペテルブルグに到着したとき、10月ストライキの最盛期であった。ストライキの波はますます拡大したが、大衆的な組織によって指導されない運動は、成果なく水泡に帰す恐れがあった。武装蜂起に移行することはなかったが、それでも度を失ったツァーリ政府は、10月17日、ブルジョア的な内容の、憲法に関するツァーリの宣言を発布した。これらがツァーリ側から提出されるたびごとに、戦線に亀裂と動揺が産まれた。

メンシェヴィキが、500人につき一人の代表を選ぶ革命的機関の選出を、スローガンに掲げていることを知らされた。しかし、ボリシェヴィキは、党と競合することをおそれて、超党派の組織の選出に、断固として反対していた。ボリシェヴィキ指導者のセクト主義的態度は、レーニンが11月にロシアに戻ってくるまで続いた。こうして、ペテルブルグ労働者代表ソヴェトが成立した。

トロツキーは、ソヴェトによる活動によって逮捕後、『1905年革命・結果と展望』(1908~09年執筆)を書いた。ここにトロツキーの『永続革命』論の概略が示されていた。

トロツキーは、ロシアの絶対主義的専制政治の金融的、軍事的力量は、ロシアの自由主義者をも圧倒し、盲目にした。なぜなら、ロシアにおいては、発展しつつあるブルジョア社会が、西ヨーロッパの政治的制度の必要性を覚えるようになったとき、すでに専制政治は、ヨーロッパ諸国のすべての物質的諸力で武装していたからである。それは絶対主義の軍事的、金融的力量が、ロシア革命にたいするどんな機会をも排除しているかに見えた。しかし、実際の事態は全く逆であった。20億ルーブルの予算と、80億ルーブルの負債と、武装した何百万の軍隊をもつ中央集権化した国家は、国内統治の必要性など、社会的発展のための最も基礎的な必要もみたさなくなり、存在し続けることができた。こういう状況が続けば続くほど、経済的文化的発展の必要と、政府の政策との間の乖離はますます大きくなる。こうした権力は、革命の可能性を閉ざしたのではなく、それから脱出する唯一の道を開くことになる。こうして社会発展の全過程は、革命を不可避にした。

では、革命の推進力とは何か。近代ロシアの都市人口は、爆発的に増加した。社会的分業の結果、人口の増大と生産性の発展とは、都市手工業の発展の基礎になるはずだった。ところが、ロシアの場合は、先進諸国からの圧力の結果、その基礎は、直接、大規模な資本主義的工業に捉えられた。ロシアにおける資本主義は、手工業制度から発達したのではなかったのだ。この近代都市の人口の中核は、分化した賃労働者階級だった。工場性工業の組織は、ブルジョア民主主義の基盤を、足元から切り捨てることになった。西ヨーロッパの以前の革命では、ブルジョア民主主義は、都市小ブルジョア、手工業者、小商店主に基盤をおいていた。ところが、ロシアでは、プロレタリアートが、大きな政治的力量をもつのは、ロシアに流入する莫大な外国資本に依存していたからである。一方、ツァーリ絶対主義は、乞食化した農民を、世界の証券取引所への貢納者に変え、重税によってプロレタリア化させ、ますます貧困化させた。

公債のみが、ヨーロッパの資本が、ロシア国内に導入される唯一のものではなかった。貨幣そのものが、商業=産業資本の形でロシアに向かった。この時期、ロシアの絶対主義は、いわば西ヨーロッパ諸国の直接的な圧力のもとで発展したといえる。ロシアの都市が、とるにたらないブルジョアジーによる経済的役割しか演じていなかったとき、絶対主義政府はすでに、巨大な常備軍を有し、中央集権化した官僚的金融的機構をもち、ヨーロッパの銀行家にたいして、償還不可能な債務関係に陥っていた。プロレタリアートは見る間に、集積された。そのプロレタリアートと絶対主義との中間に、外国のブルジョアジーがいた。

そして、トロツキーは1789年、1848年、1905年の革命を、それぞれ比較している。1905年の革命は、従来のフランスやドイツの革命とはちがっていた。ロシア全土に、労働者代表ソヴェトが発生したことである。しかし、革命を武装することが、プロレタリアートの双肩にかかっていた。かつての闘争は、ブルジョア民兵が武装したが、それと同じではなく、最初からなによりも、プロレタリアートを武装することが必要であった。

革命は、政治権力のための闘争における社会的諸勢力間の強さの公然たる尺度である。国家はそれ自体目的ではない。しかし、国家は社会的諸関係を組織したり、分解したり、再編したりするための手段である。そのため、政党は政治権力の獲得に努め、かくして国家を、自らがその利害を代表している階級のために利用しようとする。プロレタリアートにとって、資本主義の発展は、プロレタリアート独裁へ向かっての発展であった。

当時、マルクス主義者のあいだの常識からいえば、経済的な後進国が、先進国よりも早く、労働者が権力に到達することは、不可能であると考えられていた。だが、プロレタリアートの独裁を、技術的発展と、国の資源とに自動的に依存すると考えるのは、「経済的」唯物論の偏見のひとつであるとトロツキーはいう。資本家が権力を握るほど強くなければ、労働者の民主主義、つまり、プロレタリアートによる政治的支配を樹立することは不可能だろうか?そんなことはない。生産諸力と政治的力量との関係は、比例していない。実際、ロシアはとるにたらないブルジョアジーにもかかわらず、強力な革命的プロレタリアートが眼前にいる。そして、プロレタリアートが権力を握った場合、ブルジョア革命の防壁を前に打ち砕かれるのか。これも否である。革命の勝利で主導的な役割を演じた階級の手に、つまり国家はプロレタリアートに移行する。その場合、非プロレタリア的社会集団の代表者が、政府に参加することを排除するものではない。しかし問題は次の点にある。だれが政府の政策の内容を決定し、だれが政府内で多数派を形成するか?

 

《このような政府をプロレタリアートと農民の独裁とか、プロレタリアートと農民とインテリゲンチャの独裁とかあるいはさらに、労働者階級と小ブルジョアの連立政権、等々と呼ぶことはできようが、しかし、依然として次の問題は残る。すなわち、誰が、政府そのものの内部で主導権を掌握し、それを通して国の主導権を握っているのか?そして、われわれが労働者政府について語る場合には、主導権は労働者階級に属すべきと答えるのである。》  『1905年革命・結果と展望』 トロツキー著 対馬忠行・榊原彰冶訳

 

権力についたプロレタリアートは、農民の前に、彼らを解放した階級として立ち現われる。ここでは、農民によって実行された土地関係の革命的な変化(没収)の承認も意味する。このような条件のもとでは、ロシアの農民は、革命の最初の困難な時期に、プロレタリア体制を維持することに利益を見出すだろう。しかし、農民がプロレタリアートを押しやって、自らその地位にとってかわるということはありえないだろうか。トロツキーは、歴史的経験から、それは不可能であるとみなした。したがってトロツキーにとって、「プロレリアと農民の独裁」という考え方は、実際上、問題にならなかった。ここに、レーニンとの、最初の分岐的があった。レーニンは、ツァーリズムにたいして徹底的な勝利をおさめるためには、「プロレタリアートと農民の革命的民主主義独裁」の樹立を主張した。 

ブルジョア革命は、プロレタリアートを先頭にした農民、小ブルジョアジーが、革命主体になるというテーゼは、資本主義への革命は、ブルジョアジーが主体というメンシェヴィキ的公式からは、とうてい産まれないレーニンの革命図式であった。

 しかし、レーニンは、きたるべきロシア革命(第一次革命から1917年の2月まで)をブルジョア民主主義革命の期間とみなし、この革命によってうちたてられるべき権力は、「プロレタリアートと農民の革命的民主主義独裁」であるとした。だが、その場合、プロレタリアートに支持された小ブルジョア民主主義共和制から、農民に支持されたプロレタリアートの独裁にいたるまでの、あらゆる組み合わせの可能性を考慮し、独裁の政治機構の中軸を不確定のままに残したのである。

これは当時の、ロシアのプロレタリアートの成熟度が未完成であったこと、また、レーニンによれば、ロシアの農民の革命的伝統とエネルギーが独特なものであったこと、それゆえに、農民と労働者のどちらが革命闘争において指導権をにぎるか、明白に予見できなかったからである。政治革命主体は、国家権力を掌握できるまで、主体的力量を高め、習熟しなければならないということを、レーニンが最大限の必要条件と考えた結論であった。

レーニンは、ブルジョア革命を完遂するための革命主体としては、その革命によって、より多く利益を得るはずのブルジョアジーによる権力の獲得ではなく、「政治革命」としては「プロレタリアートと農民の革命的民主主義独裁」を提起したのである。これは、レーニンが、ブルジョアジーは、ブルジョア革命があまりに徹底的に行われ、旧時代の遺物を一掃してしまうようなことになれば、プロレタリアートとの闘争を早め、それが完遂されて展開されることは、不利と考えていたためである。だから、ブルジョアジーは、ブルジョア革命も、不徹底になされることを望んでいたことを、レーニンがよく見抜いていたのである。

このトロツキーとレーニンの描くイメージどおり歴史は進まなかったが、徹底して「永続革命」論を主張したトロツキーとの相違がよく現われている。

トロツキーは、権力をにぎったプロレタリアートは、社会的および地位の諸関係の民主主義的再編によって政治的清掃を行い、軍隊を解散し国民民兵が組織されるより前に、選挙で選ばれた責任ある公務員体制が導入されるという。もちろん、労働者民主主義は、労働日の長さや農業問題、失業問題に取り組む。しかし、プロレタリアートの政策は、日毎に深まり、その階級的性格を明確にしていく。そして、階級的政策になっていくにつれて、国民を構成する諸部門間の敵対は、一層発展する。プロレタリアートは階級闘争を農民内部にももち込み、そのことによって農民の利益共同体を破壊しなければならない。農民の原始的性格は、プロレタリアートにたいする敵対的側面に転化するとした。

同盟者からの反対に遭遇しなければならないプロレタリアートの政策の二つの特徴は、トロツキーにとっては、集散主義と国際主義であった。プロレタリアートは一度、権力を手にしたら、最後まで闘う。その武器のひとつが集産主義の政策である。

急進的な民主主義者は、ロシアにおける労働者政府という考えを、夢のようだとみなしているだけでなく、「革命の前提がまだ見当たらない」という。それはほんとうなのか?

トロツキーの答えの第一は、生産の集積と技術の発展と、大衆の間での意識の発展とは、疑いもなく社会主義のための本質的な前提条件である。しかし、これらの関係は、一方の完全な発展は、他方の完全な発展と両立しない。社会主義の諸前提条件とは、単に平等な分配という問題ではなく、計画的生産の問題である。そのための社会的分業の発展と、機械制大規模生産は存在しており、これが社会主義経済の土台になる。

また、この社会主義は一国においてのみでなく、世界的規模において有利なのである。しかし、第二に、社会主義が実現されるためには、その上に社会的勢力が必要である。資本主義の階級的対立のうちに、その客観的な地位によって、社会主義の実現に利益を有し、敵対的な利益や抵抗に打ち勝つことができる強力な社会勢力が必要である。それらはプロレタリアートのうちに見出されるしかない。そのプロレタリアートは、どれほどいれば実現されるのか?これは数字では表わしえない。確かなことは、手工業労働者より大工業のそれが重要であり、都市労働者は農村労働者より重要である。労働者の政治的役割は、大規模生産が小規模生産を支配し、工業が農業を支配し、都市が農村を支配する。以上から引き出される結論は、経済的発展、工業の成長、大企業の発展、都市の成長、工業プロレタリアートの増大は、すでにプロレタリアートの政治権力を目指す闘争のためのみでなく、この権力を勝ち取るための舞台装置が出来上がっていることを示している。第三はプロレタリア独裁の問題である。主体的条件としては、この階級が客観的な利害を自覚していることである。革命的階級の自覚的な行動としての権力の獲得である。

 

《労働者階級の社会主義的政策は、ロシアの経済的諸条件の下で、どの程度まで適用しうるだろうか?それは、ロシアの技術的後進性につまずくよりも早く、政治的障害にぶつかるだろう。ロシアの労働者階級は、ヨーロッパ・プロレタリアートの直接的な国家的支持がなければ、権力にとどまることはできないし、その一時的支配を永続的な社会主義的独裁に転化することもできない。この点に関しては一瞬間といえども何ら疑うことはできない。》   『1905年革命・結果と展望』 トロツキー著 対馬忠行・榊原彰冶訳

 

自らの意識的手段に任せるなら、ロシアの労働者階級は、農民が彼らに背をむけた瞬間に、反革命によって、不可避に圧しつぶされてしまうとトロツキーは言う。その政治的支配の運命を、したがってロシア革命全体の運命を、さらにロシア革命全体の運命を、ヨーロッパ社会主義革命の運命とむすびつける以外に選ぶべき道はない。

以上が初期の「永続革命」論のデッサンであった。トロツキーは1905年の革命の総括をふまえて、ロシアの民衆の爆発的昂楊を「永続革命」論として集約した。トロツキーは、1905年の革命は1917年の革命の総稽古であったという。だからこそ1917年の諸事件には、揺るぎない決意と、完全な確信をもって参加できた。

10月30日に、皇帝は、立法議会を設置して、個人の不可侵、信仰、言論、集会、結社の自由を認めるという宣言を発表した。トロツキーは、この時期(10月20日)、「すべてが与えられ、何も与えられていない」と書く。10月宣言の空疎さを、これほど簡潔に力強く宣言した論文はめずらしい。しかし、これ以降、ペテルブルグの昂楊は萎んでしまう。農民の再昂楊は、翌年からである。

すでにその当時、レーニンは、「プロレタリアートは闘争しつつあり、ブルジョアジーは権力にしのびよりつつある」と述べている。それ以来、すべての自由主義グループは、革命を中断して、10月宣言の限られた成果を受け入れ、約束された憲法の施行をはかるという考えに、ますます、つまずいていった。このことは、10月党員の場合は、特にそうであったが、カデット(立憲民主党)のばあいも、ほとんど同様であった。直接的な革命的行動の主導権の流れは、次第に労働者階級の党の側に移った。

 

5 ソヴェト権力

 

 ペテルブルグ・ソヴィエトは、労働者階級の組織の中心になった。トロツキーは、精力的に革命の前進への論陣を張った。彼は、ボリシェヴィキとメンシェヴィキの戦闘的な人々と協力して闘った。目の前にはペテルブルグの労働者の巨大なうねりが拡がっていた。亡命先で起こった活動家同士の些細なセクト争いが、遠く霞んでしまうような大衆の存在感にトロツキーは酔った。1905年10月13日夜、先進ヨーロッパにもかつて存在しなかった、大規模なゼネラル・ストライキが開始される直前に、ソヴェトの第一回総会が開かれた。ソヴェトとは、数十万の集団を活動的な組織的紐帯によって結合させた無党派の組織であった。生産過程、つまり、工場を基礎に、500人につき1名の割で選出された代議員よりなる直接民主主義の統治機関である。今まで、ロシア以外のどこにも考えられなかった新しい人民の自己権力の発生であった。革命諸政党、諸セクト、特に、首都ペテルブルグのボリシェヴィキ中央委員会は、ソヴェトを対抗組織とみなして反対勢力にまわった。逆に、メンシェヴィキは協力的だった。ノンセクトのソヴェトは、このような政党のセクト主義や大衆引き回しなどの弊害を打ち破り、広範な労働者のエネルギーを結集するために、つくらねばならなかった組織であった。

この時期の書かれた多数のアピール、宣言、決議を見ると、何よりもトロツキーの傑出した文章力が光り輝いていた。11月13日、メンシェヴィキと協力して、大規模な政治機関紙『ナチャーロ(出発)』を創刊した。発行部数は日をおってどころか、時間をおって拡大した。トロツキーは、それ以外に、ペテルブルグ・ソヴェトの公式機関紙『イズベスチヤ(通報)』の社説を書き、多数のアピール、宣言、決議を書いた。レーニンのいないボリシェヴィキの『ノーヴァヤ・ジーズニ(新生活)』は、ぱっとしなかった。トロツキーの人の心を鷲づかみにつかむ、文体のうまさと力強さに何よりも驚く。動揺しているリベラリストにたいする批判は辛辣だった。

そして、労働者にたいしては、未来への展望と闘いの実在感の自覚をもたらし、しかも、当面の行動目標を率直に指し示す。兵士たちには、屠殺場に向かう牛さえ、足をふんばって抵抗するではないかと、煽動する。農民にたいしては、1月9日の「血の日曜日」事件を持ち出し、ツァーリ帝制の実体を暴き、労働者への援護を訴える。様々な対象に様々な種類の文体を持ち出し、多数のアピール、宣言、決議を綴っている。彼の文章家の資質が、天才的煽動家として花開いている感がある。この点に関しては、おそらく、レーニンでさえ及ばなかった。最初のソヴェトが存在した52日間、ソヴェト会議、執行委員会、絶え間ない会合、新聞への執筆などで、ぎっしり仕事がつまっていた。彼は渦のなかをぐるぐる回っていただけでなく、渦そのものをつくり出していた。あらゆることが駆け足で行われたが、結果はそれほど悪くはなく、非常にうまくいったことも多々あった。

ソヴェトは巨万の大衆を立ち上がらせた。労働者はみなソヴェトを支持していた。農村では騒擾がおこり、ポーツマス講和の後、極東から戻ってきた部隊でも同じだった。だが、近衛兵とコサックの部隊は依然として強大だった。革命が勝利するための諸要素はすべて揃っていたが、これらの諸要素はまだ成熟していなかった。10月宣言が発布された翌日の10月18日、ペテルブルグ大学の前には、闘争の余韻から冷めやらぬまま、最初の勝利の感激に酔いしれた何万という人々が集まっていた。トロツキーはバルコニーから、中途半端な勝利はあてにならないこと、敵はなお非妥協的であること、前方に罠が仕掛けられていることを大声で訴えた。そして、ツァーリの宣言をずたずたに引き裂いて、風のなかに放り投げた。だが、このようなたぐいの政治的警告は、大衆の意識に軽い引っ掻き傷程度の跡しか残すことができなかった。

12月3日の夕方、ペテルブルグ・ソヴェトは軍隊に包囲された。出入口はすべてふさがれた。トロツキーは、数百人の代議員に向かって叫んだ。「抵抗はするな。だが武器は敵の手に渡すな!」彼らが手に持っていた武器は拳銃だった。すでに四方を近衛連隊の歩兵、騎兵、砲兵で包囲されていた会議場のなかで、労働者は武器を使えないようにした。プロレタリアートは、このとき初めて、敵を打倒し粉砕するためには、もっと別の何かが、もっと強力で仮借のない努力が必要なのだということを、身にしみて痛感した。

10月ストライキの部分的な勝利は、政治的意義のほかに、計り知れない理論的意義をもたらした。プロレタリアートの革命的ヘゲモニーが、争う余地のない事実として姿を現わした。彼は、永続革命の理論は、最初の大きな試験に合格したとみなした。

最初のソヴェトの議長は、若手弁護士のフルスタリョーフであったが、政治的には何ら指導的役割を果たさなかった。彼が逮捕されたのち、幹部会が選出され、トロツキーが議長になった。

この間、『ナチャーロ(出発)』と『ノーヴァヤ・ジーズニ(新生活)』の両新聞は、ブルジョアジーの側からの批判にたいし、お互いを擁護しあっていた。レーニンが到着したあとでも、トロツキーの永続革命に関する論文を擁護した。ボリシェヴィキの中央委員会は、レーニンも参加した中で、分裂は亡命という条件下で生まれた結果であって、革命の諸事件は分派闘争からあらゆる基盤を奪い去った。これと同じ路線をメンシェヴィキもとった。ソヴェトにおけるメンシェヴィキは、最初の時期には、せいいっぱい左に足並みをそろえようとした。彼らに転換が訪れたのは、反動の最初の一撃が下されたあとのことである。メンシェヴィキが公然と悔い改め、ソヴェトの政策を非難しはじめたとき、トロツキーはその政策を、ロシアの新聞、ドイツの新聞で擁護し、ついで、ローザ・ルクセンブルグのポーランド語新聞で擁護した。

このときトロツキーは、ボリシェヴィキとメンシェヴィキの二つの党派の外側に立っていた。ここでトロツキーは、ロシアの歴史的発展の特徴をとりだすことからはじめている。レーニンの帰還はあまりに遅すぎた。それで、ボリシェヴィキは、革命のイニシアティブをとることができなかったのだ。10月14日、トロツキーは、ソヴェト第二回総会に出席し、ソヴェトの組織は爆発的に増大してきた。10月17日、トレーポフの軍隊が、ソヴェト総会を解散させた。同日、ロシア皇帝が憲法制定宣言に署名した。翌18日、トロツキーは、勝利を祝うのはまだ早い。「約束手形は純金と同じ重みがあるだろうか?自由の約束と自由そのものとは同じだろうか?」と演説した。その上、軍隊を首都25ヴェルスタ以遠へ追い出せと主張した。さらに、政治犯の釈放、警察全体の罷免、人民軍の創出がソヴェトの決議となった。今や、ペテルブルグ・ソヴェトを動かしているのは、トロツキーであった。彼はソヴェトの出す宣言や決議文を、ほとんど自分で書き上げ、ソヴェトの機関紙を編集した。しかし、革命は明らかに退潮化し始めていた。トロツキーの期待していた兵士の叛乱も、孤立しておこったため、弾圧された。ツァーリ側には、まだ、ツァーリに忠誠を誓う強力な軍隊、警察機構が多く残っていた。

メンシェヴィキとトロツキーの指導のもとに、2か月にわたって輝かしい会談が続けられたが、そのあげく、このソヴェトは、7週間、52日間の短命で終わった。トロツキーを含むソヴェトのほとんど全員が逮捕された。12月3日に逮捕され、57週間の監獄生活ののち、終身流刑となってシベリアへ送られる。だが、彼らは逮捕されるまえに、新聞の自由と8時間労働日を要求し、租税の不払をよびかけ、外国の投資家にたいして、革命が勝利すれば、帝制の時代の外債は棒引きにするという警告を発した。

モスクワではもっと激しい闘争がおこなわれた。モスクワ・ソヴェトでは、ボリシェヴィキが多数を占めていて、12月22日には武装蜂起がおこり、9日間にわたって全市を支配したが、遂に、残酷な弾圧に屈した。国内の他の地方でも、あいついで散発的な蜂起がおこったが、組織的な叛乱はこれが最後であった。こうして、ごまかしの立憲政治が始まった。

 だが、レーニンは1905年の事件によって、革命政党の組織上の弱点が暴露されたことに気づいていた。1905年の事件は、土地を深くすきおこし、何世紀ものあいだの偏見を根こそぎにした。1905年は、何百万もの労働者、何千人もの農民を、政治生活と政治闘争にめざめさせた。だが、「革命的エネルギーが活用されず、生みだされた力が、しばしば孤立」した。個々ばらばらな闘いの中で「むざむざと」浪費されたことは明らかであった。

それ以来、レーニンは、ソヴェトこそは、労働者階級の活動の中心点だと考えるようになった。1905年には、1ダース以上の都市に、ソヴェトが発生した。ロシアには、本当の代議政府はなく、地方政府さえもなかった。国会は決して実質的な権力をもっていなかった。ソヴェト、つまり、工場代表と労働者階級組織の代表の会議だけが、地方における唯一の自発的な民主制度であった。ソヴェトは、政治理論家が安楽椅子に腰をおろしながら考えだしたものでもなければ、党の宣伝家の公約から生まれたものでもなかった。それはまさに、自然発生的に生まれたものであった。それはまず、最初は都市の工場労働者のなかから産まれたが、元来は、農村共同体やアルテリ(小生産者のギルド)によって、もっともよく代表される、最下層の民主組織と自治制度の永年の伝統に根ざしていた。

 最初のソヴェトは、ペテルブルグとモスクワの工場に発生した。ソヴェトの原理は、真の共同体でさえあれば、農村にでも軍隊にでも軍艦にでも、適用することができた。ソヴェトの拙速主義的方法、つまり、公開の集会での挙手による選挙、リコール権の制定、上級機関の間接選挙は、投票箱に立脚する最も精巧な立憲制度よりも、はるかに効果的に、労働者のための真の民主主義を実現した。ソヴェトは大衆に理解できるようなやり方で、政治を大衆のものにした。

ソヴェトは、とりもなおさず、西欧化された自由主義者のつくりだした異国風の議会と手を切ることを意味した。そして、レーニンによれば、これが、また、ソヴェトを擁護するもうひとつの論拠であった。ソヴェトの選挙区は、工場とか連隊とかいう生きた単位であって、議会制民主主義のような地理的な地域ではなかった。本当に実在するものは、労働共同体であって、自由主義経済学者の考えているような孤立した個人ではない。ソヴェトは、抗議と宣伝の演壇として役立つだけでなく、革命を組織化するセンターにも役立った。

1905年にペテルブルグ・ソヴェトは、革命的宣言と約束のすばらしい広場になった。モスクワ・ソヴェトは武装蜂起を組織し、指導した。地方ソヴェトから県及び全国の機関にいたるまで、間接選挙の方法によって、単純で柔軟性のあるピラミッド機構をうちたてることができたが、これは国会設立の複雑な制度よりも、はるかに簡便で、ロシアの代議制度の伝統に合致していた。農民の自治共同体の共同社会という、古い人民主義者の夢は実現されなかった。資本主義が農村に侵入したために、この共同社会の基礎となるはずの農村共同体が破壊されたのだ。だが、自主組織と自治制度の伝統は、最近、都市へ移住したばかりで、まだ、農村と密接なつながりをもっていたロシアのプロレタリアートの中に、再び出現して、古い夢が新しい形で生かされた。マルクス流に解釈されたコミューン型国家と、ロシアの擬似農村共同体は、ロシアの共産主義の形成とソヴェト権力の確立に確かに貢献した。レーニンは、ロシアで起こりつつあった事件の成り行きを、辛抱強く見守っていた。レーニンは、これを新しい革命的権力機関の萌芽、人民蜂起の機関とみなした。

更にまた、統制のとれていない、しばしば極端に非情で、暴力的な農民たちの広範な叛乱もあった。しかし、所詮、1905年の革命は、専制にたいするブルジョア自由主義者と立憲主義者の反乱にすぎなかった。したがって、革命は立憲主義導入という譲歩とひきかえに、易々と鎮圧されたのだ。

ソヴェトの壊滅後に出てきた国会の開設の構想は、政党政治の開幕、つまり、ロシアの民主主義の実現に見えたが、革命敗北後の反動期に蕾のまま枯らしてしまった。その民主主義の実体は反動的、保守的なものだった。

逮捕された被告トロツキーの法廷演説は、堂々としていた。検察側の告訴理由は、ソヴェト執行委員会は、武装蜂起を目的として、ペテルブルグのプロレタリアートを武装させたということであった。トロツキーは、ただ武装を目的としただけではなく、兵士の革命側への参加、つまり、叛乱の可能性への期待をもっていたと語り、大衆の死ぬ覚悟こそが、人民蜂起の勝利を保証するのだと述べている。民衆から離れ、ただ、民衆の権利をふみにじり、抑圧するだけのロシア国家に対する、民衆の蜂起の権利こそが、真の民主主義、つまり、革命的民主主義の実践であることの正当性を主張している。26歳の青年は、この時すでにロシアの最も先鋭な革命指導者に成長していたのである。終身シベリアへの流刑の判決は11月2日に下った。

 

6 永続革命論

 

 トロツキーは、大衆蜂起による旧権力の打倒と新権力の樹立、つまり人民の専制政治をめざした。その条件として、何よりも武装の問題、それも労働者の武装だけでなく、軍隊の叛乱による人民側への移行をめざしていた。そのかわりに、従来の革命で行われてきたバリケード戦術が、動員と組織の面での役割を、すでにもっていないと判断した。動員はストライキによって、組織は工場と革命政党によって肩代わりさせられると説いた。彼は、永年の亡命生活で、古い革命の固定観念に縛られてしまった陰謀的地下工作に、みじめな伝統しか見なかった。これからの革命においては、このような「地下病」から脱却することなくして、革命の成功はおぼつかないとおもえた。それは、革命理論についても同様だった。大衆に寄り添い一体化した理論、これが先決であった。日露戦争の即時停止、普通、平等、直接、秘密投票による憲法制定議会要求の旗を掲げた政治ストライキの実行、その実現のためにこそ、人民民兵の創設等が必要だった。

 トロツキーの眼には、もはや、プレハーノフなど、訓詁学者のマルクス主義の歴史的発展段階論と、その各段階に照応した革命論は、古臭い陳腐なドグマ以外には映らなかった。しかも、トロツキーにとって、我慢ならなかったのは、ブルジョア革命とプロレタリア革命を別々の段階としてとらえ、当面するロシア革命はブルジョア革命、したがって革命の担い手はブルジョアジー、プロレタリア革命はまだ当分先のことだとみなす教条的マルクス主義者たちの言動であった。プロレタリアートの要求を、ブルジョア的枠組みにはめこもうとする見方は、ツァーリ権力からも、また、ブルジョア側からも提出された。その上、革命家を自称する人々からも主張されたのである。トロツキーは、『1905年革命・結果と展望』のずっとのちに、『永続革命論』(1929年執筆)を書いた。それは次のように革命の戦略と戦術を明確に指し示している。

トロツキーの永続革命論の骨子は、すでに1905年の決定的事件以前に組み立てられていた。1905年の革命において、レーニンによれば、労働者と農民の共同蜂起は成功した暁には、「プロレタリアートと農民の民主主義的独裁」をもたらすにちがいなかった。しかし、これはいまだかつて歴史上に存在しなかったゆえに、戦略的仮説の問題であった。だから、プロレタリアートと農民との政治的関係がどのようなものになるかについて、レーニンは予め答えることをしなかった。

しかし、トロツキーは、「プロレタリアートと農民の民主的独裁」という公式に反対した。真の独裁は、いずれの階級に属するかという問題を、未解決にしていたからである。そして、トロツキーは、農民は、プロレタリアートやブルジョアジーから独立した政治的役割を果たすことはできないと結論づけた。その理由は、小商品生産者として、資本と賃労働の間を動揺しているためである。そして、トロツキーは、ロシアのブルジョア革命は、プロレタリアートが、幾百万という農民の支持によって、革命的独裁権力を手中に掌握した事態においてのみ、はじめて解決しうるとの結論をだした。トロツキーのその独裁の内容は、農業革命と国家の民主的改造を徹底的に遂行することであった。ただし、問題はそれだけではない。権力を獲得したプロレタリアートは、必然的に農民の私有財産関係一般にも深く食込む。すなわち、社会主義的手段の道を進むべきだとした。

 

《永続革命論は、われわれの時代における後進国ブルジョア諸国の民主主義的任務はプロレタリアートの独裁を直接に導き、プロレタリアートの独裁は社会主義的諸任務を日程にのぼせるということを指摘した。この理論の中心思想はここにある。プロレタリアート独裁への道程は長い民主主義の時期を通過するというのが伝統的見解であったとすれば、永続革命の理論は、後進国にとって、民主主義への道はプロレタリア独裁に通じているという事実を立証した。かくして、民主主義は、何十年にもわたって、錘をおろす体制とはなりえないのであって、むしろそれは社会主義革命への直接の序曲となるであろう。それぞれは互いに一連の鎖によって結び付けられている。このようにして、民主主義革命と社会の社会主義的改造とのあいだに、革命的発展の永続性が生じてくる。》

                   『永続革命論』 トロツキー著 姫岡玲治訳

 

その場合、問題は、ロシアに社会主義革命の機が熟しているかどうかではない。全体としての世界経済とヨーロッパの経済とに、機が熟しているからだ。ロシアにおけるプロレタリアートの独裁が、社会主義に到達するかどうか、どのような速度で、いかなる関係でなるか等は、ヨーロッパおよび世界資本主義のこれから先の運命にかかっているとした。

 一般的な「マルクス主義」は、一つの歴史的発展の図式を案出した。それによれば、後進国においては、あらゆるブルジョア社会は遅かれ早かれ、いずれは民主主義体制を確立する。そして、その後に、民主主義的諸条件の下で、徐々にプロレタリアートを組織し、社会主義に向かって前進するというのだ。彼らは、いずれも民主主義と社会主義とを社会の発展の全く別個の段階であるばかりでなく、互いに遠くかけはなれたものであるとみなした。

しかし、トロツキーは、第一の法則として「歴史的立ちおくれ」が歴史を逆転することがあることを、ロシア的発展の特殊性として強調した。

 

《後進国は先進諸国の跡を追わざるをえないが、しかし、事物を同一順序にしたがってうけとりはしない。歴史的立ちおくれの特権は―かかる特権が事実存在する―一連の中間的段階全体をとびこえ、すでに用意されているものはすべて特定の日付に先んじて採用することをゆるし、それどころか、むしろそうすることを余儀なくさせる。蛮人たちは、突然彼らの弓と矢をすてて銃をとる。彼らはそうすることを余儀なくさせる。》

              『ロシア革命史』 トロツキー著 山西英一訳

 

この「歴史的立ちおくれ」こそが、後進資本主義国ロシアに、最も先進的なプロレタリア革命を産むのである。このような特権を産んだ理由はなぜか。後進国は先進国の辿った歴史発展のコースをそのまま後追いするだけならば、後進国は永遠に先進国に追いつくことができない。しかし、後進国は、先進諸国の物的、知的収穫を同化するのである。後進国が、先進国の発展した技術、文化、社会体制を一挙に受け入れる際、生じる摩擦、衝撃そして反作用の大きさが、構造的矛盾と脆弱性となってあらわれるのである。トロツキーによると、ここからもうひとつの法則が現われてくる。

 

《歴史的法則は、衒学的な図式主義とは完全に違っている。歴史的過程の最も普遍的な法則である不等質性は、後進国の運命の中に最も先鋭に、かつ最も複雑な形態となって現われる。後進諸国の未開文化は、外部的必要の鞭の下に、飛躍することを余儀なくされる。こうして、不等質性という普遍的法則から、いま一つの法則が生まれるのである。われわれは他に適切な名称がないゆえ、それを複合的発展の法則とよんでよかろう。つまり、発展の諸段階の集合、個々の段階の結合、古い形態とより現代的な形態とのアマルガムのことである。》         『ロシア革命史』 トロツキー著 山西英一訳

 

 トロツキーのいう「複合的発展の法則」こそが、ロシアという後進農業国に、急速なスピードですすむ高度工業国家化と、厖大な外国借款、外国資本流入をおこし、ロシアのブルジョアジーとともに、プロレタリアートにたいしてさえ、独特な歴史的刻印をおし、前者のブルジョア革命への異常な恐怖と、後者の、革命への熾烈な渇望が、プロレタリアートにソヴェトをもたらし、ブルジョア革命のヘゲモニーを掌握し、同時にプロレタリア革命をも、連続一段階で推し進めるというのである。つまり、このアマルガムこそが、社会主義革命を、永続的に行う永続革命論の第二の法則を特徴づけるのである。後進国においては、ブルジョアジーの前に、ブルジョアジーの代わりに、労働者階級が実際に権力を掌握できるという考えは、圧倒的多数のマルクス主義者にとっては、乱暴な白昼夢とおもえた。1905年の蜂起において、ロシアの労働者が、コミューンの日々のパリの労働者をも凌駕する巨大な革命的決意、革命的エネルギー、革命的勇敢さを発揮したあとでさえ、そうであった。レーニンでさえ、このトロツキーの考え方を受け入れなかった。

レーニンは、資本主義の発展に導くブルジョア民主主義、農業革命の段階が、社会主義的段階の問題が提起される以前に不可欠であるという考えに、固執していたからである。それは「プロレタリアートと農民の民主的独裁」という戦略に収斂した。このレーニンの方法が、ボリシェヴィキが1905年から16年にかけて闘った戦略だったのである。レーニンは、1917年の2月革命をうけて、ようやく「四月テーゼ」で、プロレタリアート独裁の樹立へと転換した。だが、トロツキーは、すでにこの段階で、レーニンの「プロレタリアートと農民の民主的独裁」のあやまりを見抜いていた。

レーニンは、土地革命というブルジョア的民主主義的革命を遂行することを任務としているのだから、この独裁はプロレタリアート以外の諸階級、諸階層の政治権力によっても構成されるべきであり、政策上の必要性から、農民をも独裁の主体にした。これにたいして、トロツキーは、それは、独裁権力の本質を左右するものではなく、むしろ、プロレタリアートのみが、政治的=国家的なヘゲモニーを貫徹する点にこそ、革命権力の本質にかなうと論駁したのは全く正当であった。

しかも、トロツキーは、これら後進国のみでは、社会主義建設に成功することは、不可能であるとした。そして、トロツキーは、無限の長期間にわたって、また、不断の内部闘争において、すべての社会的諸関係は変革されるという。内戦と対外戦争の勃発は、平和的改造の時期と交互にあらわれる。社会主義革命の永続的性格は、ここに存する。そこで、永続革命の第三の法則は、社会主義革命の国際性は、抽象的原理ではなく、世界経済の性質、生産力の世界的発展および階級闘争の世界的規模の理論的ならびに政治的反映である。それは「世界革命」の主張となって噴出した。

 

《社会主義革命は民族的基盤において始まる。しかしそれはこの基盤の上では完成されえない。民族的枠内におけるプロレタリア革命の維持は、たとえソ連邦の経験が示すように長くつづくものであっても、それは一時的な状態にすぎない。孤立したプロレタリア独裁にあっては、内部的および対外的諸矛盾は増大する成功とともに、不可避的に成長してゆくのである。これから抜け出す道はただ一つ、先進諸国のプロレタリアートの勝利のみである。この立場から見れば、国民的革命は自己完結的な全体ではない。それは国際的鎖の一環にすぎない。あらゆる一時的な起伏にもかかわらず、国際革命は永続的過程をあらわすのである。》         『永続革命論』 トロツキー著 姫岡玲治訳

 

ロシア革命は、ブルジョア的目標に当面しているが、そこにとどまることはできない。革命は、プロレタリアートが権力を掌握しない限り、ブルジョア的課題さえも解決することができない。そして、プロレタリアートが、その手中に権力を掌握すれば、革命のブルジョア的な枠組みに閉じこもっていることはできない。自己の勝利を確保するために、前衛的プロリアートは、その支配する最初の日から、依然として、資本家階級の手中にある生産手段の国有化に向かって、中断することなく移行する。徹底的な介入を封建制のみならず、ブルジョア的所有にたいしても、行わねばならないのだ。その際、プロレタリアートは、革命闘争の初期に彼らを支援していたすべてのブルジョアジーの集団とだけではなく、その権力獲得に協力した広範な農民大衆とも、敵対することになる。

しかも、圧倒的多数を農民人口が占める後進国では、労働者政府のおかれた状況が直面する矛盾は、国際的規模でのみ、プロレタリアートの「世界革命」の舞台でのみ、その解決を見出す。ロシア革命の狭いブルジョア民主主義的な枠を、歴史的必然によって突破するならば、勝利したプロレタリアートは、「民族国家」の枠組をも突破せざるを得ない。すなわち、ロシア革命を「世界革命」の序曲とすることを、意識的に目的化しなければならないというのである。

ロシアで勝利した革命権力は、敵対的な資本主義の包囲のなかで、一時的に孤立する。そこで、勝利をおさめた革命がはたすべき課題は何か。社会主義が別の国であらたな前進を成し遂げるまでの「息継ぎ期間」なのか?もちろん、一国の狭い枠内で階級なき社会の建設を達成しようとする試みは、反動的ユートピア的妄想であり、破滅的結果をもたらす。スターリニズムが、1920年代のロシアの物質的条件の不可避的産物でないことは確かである。エルネスト・マンデルは、「世界革命」に世界的規模での不均等発展と複合的発展法則を適用しようとしている。

 

《換言すれば、世界革命の過程は、爆発点に達しつつある「一国的」階級闘争の連鎖であると同時に、それ自体としての有機的統一的過程であって、資本主義世界市場の有機的統一性の裏返しにほかなかならないのである。この統一性を源として、生産諸力や資本の運動がますます国際化するとともに、階級闘争もまた国際化するのである。階級闘争の国際化の進展―これは機械的統合や完全な同時性を意味しているのではない―は、国際的戦争をもたらすばかりでなく、国際的階級闘争(すなわち一国から他国へと急速に波及する革命)、国際的反革命、そして国際的内戦をももたらすのである。》

『トロツキーの思想』 エルネスト・マンデル著 塩川喜信訳

 

これらにたいして、スターリンは、1924年秋に、「一国社会主義」論、民族社会主義論を定式化し、これをもって、トロツキーに攻撃をしかけた。しかし、民族的に孤立した社会主義社会の建設をめざすことは、たとえ、いかなる一時的成功を収めようとも、生産諸力を資本主義に比較してさえ、遥かに後退させるのは自明なのだ。

それでは、トロツキーはこの社会主義革命の世界化を、どう認識していたのか。彼の世界認識の基本は、世界は、諸国民経済の総計としてではなく、一つの強大な独立した現実としての世界経済、それは国際的分業し世界市場によって創出され、今日においては国内市場を支配している世界経済から出発しなければならないという。資本主義社会の生産諸力は、とうの昔に民族国家的境界を越えてしまっている。世界経済は、同様な諸国民経済の総計にすぎないとするのは誤りである。また、民族的特殊性を顔面のいぼのように、「一般的側面を補足するにすぎない」とするのも誤りである。実際には、民族的特殊性は、世界的過程の基本的諸側面の独特な結合である。この独創性は、多年にわたって、革命的戦略にたいする決定的な意義をもちえる。後進国のプロレタリアートが、先進諸国のプロレタリアートより早く、権力を獲得した事実を想起すればよい。異なった諸国の経済的諸特徴は、決して従属的な性格のものではない。このことは、イギリスとインド、また、アメリカとブラジルを比較してみても分かる。しかし、国民経済の諸特徴は、いかに大きなものであっても、結局は、世界経済という一層、高度な現実のうちに諸構成部分として大きく組み込まれるのだ。

スターリンは、民族的諸特徴は、一般的諸特徴の単なる「補足」と言っているが、これは、資本主義の「不均等発展の法則」にたいする、スターリンの無理解と連動するものだ。この不均等発展の法則は、スターリンによって、最も基本的で、最も普遍的なもののように主張された。そのスターリンが、民族的特殊性は、歴史的発展の不均等性の最も一般的な産物であり、いわばそれの究極の結果であるということに気がつかないとトロツキーは指摘する。

 

《異なった経済部門、異なった階級、異なった社会制度、異なった文化領域等の不均等な発展-これらすべてが民族的「特殊性」の根底に横たわっている。民族的社会形態の独創性はその形成の不均等性の結晶化にある。十月革命は歴史的過程の不均等性の最も壮大な表現であった。十月の転覆を予測した永続革命の理論は、まさに、抽象的形態においてでなく、ロシアの社会的および政治的特殊性の物質的結晶化における歴史的不均等性発展の法則にもとづいていたのである。》  『永続革命論』 トロツキー著 姫岡玲治訳

 

 トロツキーは、このような世界経済地図のなかにおいて、ボリシェヴィキが権力を掌握することによって、ロシアを世界経済から排除することができるなどとは、決して信じなかった。国家権力は、経済的諸過程の受動的反映ではないからだ。国家権力は上部構造的秩序の武器であるのだ。だから、権力がツァーリとブルジョアジーの手から、プロレタリアートの手に移っても、それによって世界経済の諸過程も諸法則も廃絶されはしない。国際的分業と近代的生産力の超民族的性格は、ソヴェト経済にとって、それらの重要性を保持するばかりでなく、ソ連経済の上昇度に従って、それを二倍にも三倍にもする。あらゆる民族的資本主義は、その発展の過程において、また、従って、その内的矛盾との闘争において、「国外市場」、すなわち世界経済の予備軍に転化していく程度をますます増大させる。資本主義に内在する永続的危機から生じる制御しがたい膨張は、ついには資本主義にとって致命的な力になるときまで、前進する力を構成する。しかしながら、未曾有の発展速度の可能性を切りひらく、ソヴェト工業の集中的性格と、世界経済の予備軍の正常な利用の可能性を排除するソヴェト経済の孤立性との間に、新たな巨大な矛盾が発生する。このソヴェト経済の深刻な危機は、資本主義によって創出された生産諸力が、民族的な市場に適合せず、国際的規模においてのみ、社会主義的に整合・調和せしめられうることを想定せざるを得ない。

 しかしながら、国際プロレタリアートによる権力の奪取は、単一の同時的行動ではありえない。10月革命は、不可避的に数十年にわたるところの「世界革命」の第一段階としての正当性をもつ。第一段階と第二段階との中間期は、期待していたよりかなり長いことが想定される。にもかかわらず、それはあくまでも中間期であって、民族社会主義的社会の自足的建設の時期に変えられるものではない。孤立した労働者国家の現実主義的綱領は、世界経済からの独立を達成するという目的を、自ら設定することはできない。

 「最短期間」に民族社会主義社会を建設するという目的にいたっては、なおさらのことである。テンポは国内的・世界的経済諸条件に従った、最も有利なテンポを達成し、プロレタリアートの地位を強化し、来るべき国際社会主義社会の民族的要素を整備し、同時に、何よりも先ず、プロレタリアートの生活水準を組織的に向上せしめ、農村の非搾取大衆との団結を強化することである。この展望は、全準備期間を通じて、すなわち、先進諸国の勝利的革命が、ソ連邦を現在の孤立状態から解放するまで有効である。

 「複合的発展の法則」は、「永続革命」論を正当化した。なぜなら、後進国特有の社会構造は、その二重化をもたらし、それがメダルの表裏になって、プロレタリアートが、農民層を牽引し、ブルジョア革命とプロレタリア革命の一段階同時革命を進めることになったのである。その理由は、資本主義生産過程における経済・社会構成が急激に変貌する時代のなかでは、国民的な規模においても、生産性の高い部門が低い部門を牽引していくのは自明であり、低い部門は高い部門に吸収されるか、より生産性を高めることによって、高い水準を維持しようとする。いずれにしても、資本の運動は、高い生産性の部門を主軸をおいて回転しようとする。これを、時間性のなかに置きなおしてみると、先進国と後進国の生産性の差異自体が、先進国の基準にそって変化していくのであり、決して逆はありえない。当時のロシア国内の場合で見てみると、先進国は高度工業化国家であり、後進国は農村である。経済的領域においては、水は必ず高いところから低いところに流れる、これに例外はない。だから、資本主義の法則性にしたがうなら、経済的効率、生産性の高いところを基準において歴史は進まなければならないし、実際に進んでいくのである。この点については、漠然としたものであったかもしれないが、歴史の進化に対する感受性の問題であり、トロツキーのその感性は正確だった。

 そして、トロツキーの理論の最も優れたところは、マルクスの理論の適用と拡大を意図し、異なる角度で、「世界革命」を構想することによって、民族国家を「解体」しようとしたことである。特に、「世界革命」の希望をヨーロッパ、とりわけ、ドイツを中心に賭けていた。だが、結果的には、その挫折と敗北がドイツにファシズムをもたらし、孤立したソ連ではスターリン主義を産んだ。

マルクスは、プロレタリアートは、ブルジョア革命のプロレタリア革命への成長、国民的革命の国際的革命への成長のために闘わなければならないと主張した。彼は1848年ドイツ革命の結果と展望について言う。《民主主義的小ブルジョアが革命をできるだけ早く、しかもせいぜい上述の要求の貫徹をもって終わらせようとするに反して、われわれの利益及びわれわれの任務は、大小の有産者階級が、ことごとくその支配から押しのけられ、国家権力がプロレタリアートによって奪取され、プロレタリアの結合がただ一国においてのみならず、支配的なすべての国々において、プロレタリアの競争を廃止し、すくなくとも決定的な生産力をプロレタリアの手に集中するまで、革命を永続せしめることである。》

こういうマルクスにたいして、国家を「解体」しようとした政治家(革命家)は、レーニンを含めて数えるほどしかない。だが、レーニンは、トロツキーとちがって1915年8月、「世界革命」について判断停止させた。

レーニンは、資本主義国の経済的、政治的発展が不均等性に行われるから、革命は、はじめ1か国、多くて数か国で行われるという結論をくだした。この法則をはじめて、世界革命の展望に応用した。彼によれば、経済的および政治的発展の不均等性は、資本主義の無条件的な法則である。ここからして、社会主義の勝利は、はじめは少数の資本主義国で、あるいはただ一つの資本主義国ででも可能である、という結論がでてくる。この国の勝利したプロレタリアートは、資本家を収奪し、自国に社会主義的生産を組織したのち、他の資本主義世界にたいして立ち上がり、他の国々の被抑圧階級を自分のほうにひきつけ、それらの国々で資本家にたいする蜂起をおこし、必要な場合には、武力に訴えても(革命戦争)搾取階級とその国家に反対して行動するであろう、というテーゼを提出したのである。

レーニン著『ヨーロッパ合衆国のスローガンについて』(1915年執筆)と『プロレタリア革命の軍事綱領』(1916年執筆)には次のようにある。

 

《一国での社会主義が不可能であるというまちがった解釈と、そのような国と他の国々との関係についてのまちがった解釈を、生みだす恐れがあるからである。経済的および政治的発展の不均等性は、資本主義の無条件的な法則である。ここからして、社会主義の勝利は、はじめは少数の資本主義国で、あるいはただ一つの資本主義国ででも可能である、という結論が出てくる。》

『ヨーロッパ合衆国のスローガンについて』レーニン著 レーニン全集刊行委員会訳

 

不均等発展は帝国主義時代に、一層、激化するとはいえ、マルクス、エンゲルス時代(自由競争的産業資本主義の時代)にも存在した。それにもかかわらず、なぜ、マルクス、エンゲルスは「世界革命」を唱えたのか。おそらく、当時のイギリスは、世界を支配していた。いわば、資本主義の先進的、世界支配的地位にあったため、イギリスが世界の中心である限り、イギリス中心の世界が、放射線状に拡散する革命を思い描いたといえる。ところが、レーニンの時代は、帝国主義を深く分析し、立ち入るにしたがって、世界は、より不均等発展が一層、激化し、トロツキーとちがって、イギリス一国のみの世界把握を想定することができなくなったのである。そこで、レーニンは、世界革命を放棄し、「一国社会主義」論に乗り替えたのだ。だが、レーニンは「一国社会主義」を唱えたとして、のちのスターリンの「一国社会主義」論とどこが違うのか。スターリンは次のように述べている。

 

《結論はこうです。すなわち、われわれは、西欧における革命の勝利がなくても、自分の力で社会主義社会を建設しとげることができるが、しかし国際資本の襲撃からわが国の安全を保障することは、わが国一国だけではできない-そのためには、西欧のいくつかの国々の革命の勝利が必要である、ということになります。わが国で社会主義を建設しとげる可能性ということと、国際資本の襲撃からわが国の安全を保障する可能性ということとは、別の問題なのです。》 『レーニン主義の諸問題によせて』スターリン著 田中順二訳 

 

スターリンの一国社会主義の思想は、軍事的孤立のみに限って、他国の援助を求めており、生産力の経済・社会的な世界性と単一国家(国民的境界)の矛盾から、国家の解体や死滅をめざす思想をすべて捨象してしまっている。その結果からいうと、経済・社会的には「国家社会主義」に陥ることは必然で、国家機構の抑圧廃止や官僚の廃絶の問題が全く省みられていない。世界的分業、ソヴェト工業の外国技術への依存、ヨーロッパ先進諸国の生産諸力のアジアの原料への依存等は、世界のいかなる一国においても、独立した社会主義社会の建設を不可能とする。それにひきかえ、レーニンが、直線的なインターナショナリズムの観点をもっていたというのも曖昧な概念であり、少なくともレーニンが実効性の観点から、微妙なニュアンスで、「世界革命」の思想をスライドさせたことは事実である。

国家の解体、世界革命の放棄をしたこういう国家をもって「コミューン型の半国家の理念をもったボリシェヴィキ党の集団に国家権力を掌握された近代民族国家」と呼ぶのである。民族国家である限り、そして民族国家を超える思想をもたない限り、いずれ愛国主義的にもなるし、排外主義的にもなる。「国家」と「社会主義」が矛盾するところで、スターリンは矛盾を感じなかったが、おそらくレーニンなら矛盾をうけとる度量があった。

しかしながら、同じトロツキーの論理には、ロシアという一国を中心にすえて、先進諸国の各々、経済、社会、国家機構、文化のもつ歴史的・時間的蓄積を空間化して、同次元に並べた認識をもっていた。いわば、これは「時間の空間化」の手法であり、これが、現在の民族国家をいとも簡単に超えて、権力を手にして、世界地図を前に、生産様式、生産力、社会、国家機構、文化を直線に横切り、「世界革命」までの平坦な道のりを駆け抜けるイメージを描いた。だが、いうまでもなく、時間は空間化されると同時に、「空間は時間化」されなければならない。スターリンの方が正しいとはおもえないが、「世界革命」は、重層化しないと、平板な先進国待望論か赤軍による革命戦争に終わってしまう。トロツキーとスターリンとの対立のほんとうの根はここにあったとおもえる。

一国革命から世界革命に、空間的に駆け抜けることはできない。なぜなら、民族国家として偏在している国家は、ただ、空間的、地域的に分けられているだけではない。それぞれの国家が重ねてきた生産様式、生産力、社会、国家機構、文化などの構成要素の違いが、折り重なって存在している。そして、それらの要素が、歴史的段階を形作っているのである。

従って、先進国と呼ばれる国には、後進国の要素がすべて詰まっていると考えたほうがよい。それは、歴史が、それぞれの発展段階を踏んで、先進国に登りつめたのであるから当然である。たとえば、Aという先進国家には(a.b.c.d.e)の構成要素があれば、より低い段階の国家においてはB(b.c.d.e)、C(d.e)とそれぞれの階梯差による段階がある。だとすると、この国家別、地域的空間は、時間化すれば、C→B→Aの順に高度化している。つまり、世界は空間的な視覚のみでなく、時間的に組み替えて眺めることができるということである。これが世界史的認識に基づく革命思想の意味なのである。したがって、「世界革命」を想定する場合、「場所的」にのみ、他国との単純な連合国家を考えることは、世界史の視点を欠落してしまうことになる。やろうとおもえば、その国の生産様式、生産力、社会、国家機構、文化にみあった、ブルック圏の積み重ねを前提にするしかないのだ。世界革命が起こるとするなら、政治的には一国規模でおきるが、世界規模にするためには、時間をまたがって、同レベルのブロック圏に「重層的」にするしかないのである。トロツキーの「世界革命」は、ドイツの革命の頓挫で、期待はずれに終わったかのようにいわれているが、ほんとうは、世界の時間化構造の理解が欠落していたため、最初から失敗に終わる運命にあったのである。

少なくとも、トロツキーには、ナショナリズムと、本当のインターナショナリズムの関係を、レーニンの思想のニュアンスを介して、理解していたことを、うかがわせる文章がある。

 

《ロシアプロレタリートの歴史の基礎に農民の要素があるように、レーニン主義の基礎には農民の要素がある。…中略…ここで農民の要素はプロレタリア、われわれの歴史、いやわれわれの歴史ばかりでなく、すべての歴史の中でもっともダイナミックな力の中に反映し、そうしてレーニンはこの屈折に対して法的な表現を与えたのであった。この意味においてレーニンはナショナルな要素の指導者である。…中略…人間は未知の通路によってパーソナリティに形をあたえるものだ。これはまだ科学によって説明されていないが、この未知の通路によってレーニンは、ナショナリズムから、人類史の最大の革命的行動に必要なすべてのものを受けとったのである。すでに久しく国際的理論的表現を得ていたところの社会革命が、はじめてレーニンの中にその国民的体現をみいだした。それだから、レーニンはことばの真の意味において、世界プロレタリアートの革命的指導者となったのである。》    『レーニン』 トロツキー著 松田道雄訳

 

トロツキーの無意識の言葉は、レーニンのナショナリズムにたいする理解が、空間の時間化にクロスする地点があったことを匂わせている。トロツキーの推論が正しいければ、トロツキーには、時間の空間化しかなかったが、もしかしたら、レーニンには、時間の空間化と空間の時間化の双方向の理解があったかもしれなかった。これは、トロツキーとレーニンのナショナリズムとインターナショナリズムの理解のすれ違いに終わった。

見方をかえれば、トロツキーをインターナショナリストと呼ぶなら、レーニンは、ナショナリストであるがゆえに、インターナショナリストであったというように、解釈できるのだ。ナショナルな要素を捨象するインターナショナリズムは存在しない。つまり、架空なのだ。また、インターナショナリズムを捨象するナショナリズムは、ただの民族国家主義でしかない。スターリンとトロツキーの隙間に、レーニンのあるべき場所があった。この狭間の認識が、ほんとうの革命の難所であった。

反対に、トロツキーの展開された思想のうち、従来のマルクス主義者になかった卓抜な発想は、「政治革命」と「社会革命」を区別したことである。これは、政治を機械的に経済に従属させないことで、マルクス主義の「経済主義」化から脱皮しているということであった。この過程を図示すると以下のようになる。

ここで、トロツキーが言っているのは、ブルジョア革命はブルジョアや農民が政治主体になって行う必要がないということである。プロレタリアートが主導権を握った政治主体として、「政治革命」によって政治権力を掌握する。そして、そのプロレタリアートの権力

 

政治革命(政治主体)

 

社会革命の対象

 

世界性か一国性か

 

プロレタリアート

(小ブルジョア、農民の支援)

ブルジョア革命

 

一国性

 

プロレタリアート

 

プロレタリア革命

 

一国性

 

世界プロレタリアート

プロレタリア世界革命

世界性

 

は、ブルジョア「社会革命」にとりかかる。時をうつさず、プロレタリアートの権力は、プロレタリア「社会革命」にもとりかかることになる。ただし、このプロレタリア「社会革命」は、ロシアのような後進国では、国際的規模の「政治革命」を媒介するから「世界プロレタリアート」が政治権力を掌握した上で、「社会革命」としてプロレタリア世界革命を同時並行的に行うということになる。こうして、「永続革命」論は、ブルジョア革命→プロレタリア革命→プロレタリア世界革命が連続的に行われることを指示している。だが、トロツキーの論理は、ロシア革命の後進性が、世界史の概念のなかに位置づけられていなかった。そこに、時間と空間のかすかな齟齬を産みだす原因になった。

 1905年の2月から10月までの期間、トロツキーは、みずから文筆の仕事と称しているが、実は、革命の現実と格闘しつつ「永続革命」論をつくりあげている最中であった。しかし、当局では、トロツキーが首都に潜伏していることは知られていた。5月1日のメーデーで妻が逮捕された(「十月宣言」後釈放)。トロツキーは急遽、フィンランドに逃れた。

 

7 亡命生活

 

 トロツキーにとって、第二の監獄サイクルが始まった。それは最初のときよりずっと楽に乗り切り、条件も比較にならないほどよかった。しばらくの間、クレストゥイ監獄に入れられ、次にペトロパブロフスカヤ要塞に、最後に未決拘置所に入れられた。シベリアに送られる直前に中継監獄へ入れられた。それらの期間を合計すれば、15か月になる。そして、同じように堅いベッドの上で、骨やすみにフランス文学を耽読した。この間に、トロツキーは、『1905年革命・結果と展望』を書いた。彼は、ひそかにシベリア脱走を計画していた。皮長靴の底に旅券と金貨を隠していたのである。獄中では系統的に学習し、執筆活動に打ち込む貴重な時間だった。未決拘置所に移されたのち、弁護士との面会が許可された。獄中で書いた原稿は、弁護士が書類鞄に入れて獄外に持ち出した。ボリシェヴィキの新聞は、並々ならぬ共感をもって、このパンフレットを迎えてくれたが、メンシェヴィキの新聞は沈黙で迎えた。

 労働者代表ソヴェトの公判は、1906年9月19日に、ストルイピンの野戦軍法裁判が猛威をふるっている時期に開かれた。約400人もの証人が喚問され、そのうち200人以上が出廷し、1か月にわたり次から次へと列をなして、証言を行った。法廷がトロツキーの要求した元老院議員ロプーヒンの喚問を拒否したとき、公判のボイコットを行った。トロツキーは監獄へ戻された。欠席のまま判決が言い渡された。判決は無期限の流刑であった。

今度の流刑地は北極圏のオブドルスク村であった。14人の流刑囚に52人の護送兵がつきそい、さらに大尉と警察署長、コサックの下士官がいた。約40台ものソリをつらねて目的地に向かった。トロツキーは、途中の流刑地ベリョーゾフで坐骨神経痛にかかったふりをして、病院に入れられた。トロツキーはこの病院から、西の方角へ向けて脱走した。トナカイのソリにのって、ひたすらウラル山脈を目指した。この旅が一週間続いた。タイガとツンドラ地帯を800キロも走破するスリルに満ちた旅であった。それからウラル鉄道に乗って、1907年3月2日にはペテルブルグへ潜入していた。ペテルブルグの新聞では、彼らの流刑生活を記事にしている最中であった。そして、国境を越えて、またもや妻といっしょにフィンランドへ逃亡した。

 フィンランドには、レーニンもマルトフも住んでいた。トロツキーは隣村に住んでいたレーニンとマルトフを訪れた。1906年4月、ストックホルムの第四回党大会で実現したボリシェヴィキとメンシェヴィキの統一は、再び深い亀裂を生みつつあった。革命の退潮は続いていた。妻と息子はロシアに残し、トロツキーは10年間にもおよぶ長い亡命の旅に出た。

 1905年の革命後、ツァーリズムの報復によって、弾圧と抑圧が激しさを増した。むきだしの反動の嵐が、ロシアを舞った。トロツキーはこの亡命生活のことを、選択の問題ではなく必然性の事件と考えた。そうすれば、潜行生活が首を絞めているときでさえ、楽観的でいられることを発見した。そして、「われわれはすべてに耐えるだろう……」と決意を述べている。このトロツキーが、再びロシアに姿を現すのは、1917年5月4日である。1905年と同じような舞台装置が整えられていたロシアに、吸い寄せられるように帰国する。1917年の2月革命から10週間ほど経った時である。レーニンの帰国はトロツキーのちょうど1か月前、4月3日にやはりペトログラードに姿を現した。

 トロツキーと親しかったルナチャルスキーは、トロツキーのことを非常に評価していた。レーニンに見劣りすると考えてはならないと賞賛した。レーニンをさえ凌いでいる側面があるのだ。それは、電光石火のように東奔西走し、すばらしい演説を行い、命令の進軍ラッパを吹き鳴らし、弱った軍隊に活を入れて回る役柄は、誰も真似ができないことを知っていたからである。1905年革命敗北以後の10年間の亡命中に、トロツキーはどれだけ成長し、戦線に戻ってくるのだろうか。

1907年の第五回党大会は、ロンドンにある社会主義派の教会で開かれた。ボリシェヴィキとメンシェヴィキの合同大会だった。参加者の数も多く、日程は長期間におよび、喧騒と混沌に満ちた大会であった。革命は下火になっていたが、ロシア革命への関心はイギリスの政界ですら非常に大きかった。大会が始まって間もなく、控え室で一人の男に呼び止められた。背が高く、ごつごつした、頬骨が突き出た丸顔の男で、丸い帽子をかぶっていた。「私はあなたの崇拝者です」、彼は愛想のいい笑みを浮かべて言った。「崇拝者?」、トロツキーは、当惑げに聞き返した。実は、トロツキーが獄中で書いた政治パンフレットのことを言っていたのである。その相手こそ、マキシム・ゴーリキーだった。トロツキーは、「申し上げるまでもないと思いますが、こちらこそあなたの崇拝者です」と挨拶を返した。当時、ゴーリキーはボリシェヴィキに近い立場にいた。いっしょにいたのは、有名な女優のアンドレーエヴァだった。彼ら三人は連れ立って、ロンドン見物にでかけた。

 また、ロンドン大会でトロツキーは、1904年から知己を得ていたローザ・ルクセンブルグとより親しくなった。トロツキーとローザとの関係は、あまりにも会う機会がなかったから、それほど親密というわけではなかった。彼女は、小柄で、病弱ではあったが、高貴な顔立ちと、知性に輝く美しい瞳をもち、その勇敢な性格と思想は人々を魅了した。彼女の正確で容赦のない張りつめた文体は、その英雄的精神を映し出す鏡であった。彼女の性格は多面的で豊かなニュアンスをたたえていた。革命と熱情、人間と芸術、これらすべてが、多くの弦をもった彼女の心の琴線に触れることができた。いわゆる永続革命について、ルクセンブルグは、トロツキーの立場を代表していた。大会の控え室で、この問題をめぐって、トロツキーとレーニンの間で、冗談半分の論争が起こった。代議員たちがまわりにびっしり取り巻いた。レーニンはローザのことを評して言った。「それというのもすべて、彼女がうまくロシア語を話せないからだよ」。「その代わり、彼女はマルクス主義語をうまく話しますよ」とトロツキーは切り返した。代議員たちは笑った。

 大会のなかで、トロツキーは、ブルジョア革命におけるプロレタリアートの役割、とりわけ農民にたいするプロレタリアートの関係について、自分の見解を述べる機会を得た。レーニンは、結語のなかで、この問題に関してこう述べている。「トロツキーは、現在の革命においてプロレタリアートと農民が共通の利害を有しているという観点に立っている」、したがって、「この点で、ブルジョア諸政党にたいする関係という問題に関し、基本的観点の同一性が見られる」。

 ペテルブルグから来ることになっていた妻と落ち合うために、トロツキーは、1907年夏にロンドンからベルリンへ向かった。 

 そして、妻と別れトロツキーは、シュトゥツトガルトの第二インターナショナルの大会へ出席した。この大会では、まだ1905年のロシア革命の息吹が感じられた。大会は左に向かって整列していた。しかし、革命的方法への幻滅もうかがわれた。ロシアの革命家にたいする興味は衰えていなかったが、その興味の中には、多少の皮肉っぽいニュアンスが込められていた。1902年にトロツキーが大英博物館に出入りできるよう取り計らってくれたイギリスの代議員クウェルチは、シュトゥツトガルト大会の場で、そのときちょうど開かれていた外交会議を「強盗の集まり」と呼んだ。この発言は、ドイツ宰相フォン・ビューロー公のお気に召さなかった。ヴュルテンベルク州政府は、ベルリンの圧力に屈して、クウェルチを国外追放にした。たちまちベーベルは途方に暮れた。ドイツ社会民主党は、この追放に反対するいかなる行動にも出なかった。抗議のデモさえなかった。インターナショナルの国際大会は、学校の教室のようなものと化してしまった。無作法な生徒が教室から追い出されるが、他の生徒は押し黙っている。ドイツ社会民主党の厖大な党員数の背後には、無力さの影がはっきりと感じられた。

 1907年10月、彼はウィーンに戻った。まもなく、妻が息子を連れてやってきた。新しい革命の波を期待して、ヒュッテンドルフの郊外に住居を定めた。それから長い間、待つことになった。7年後に彼らをウィーンから押し出した波は、革命の波ではなく、全く別の波、すなわち第一次世界大戦の波だった。

 トロツキーがカウツキーの家で、ヒルファーディングと知り合ったのは、1907年夏のことだった。当時、ヒルファーディングは、その革命性が最高潮にあった。だが、このことは、彼が、ローザ・ルクセンブルグとカール・リープクネヒトと同一歩調を取っていたということではない。しかし、ロシアに関しては、他の多くの者と同様、最も極端な結論を納得する気持ちがあった。彼は、『ノイエ・ツァイト(新時代)』に掲載されたトロツキーの論文を賞賛した。その論文は、まだ国外に脱出する前に、ロシアの出版物から翻訳されたものだった。さらに、彼は、思いがけないことに、会ってすぐに「俺、お前」の仲でいこうと持ちかけてきた。そのせいで、端から見ると、表向きは親しそうに見えた。だが、その親しさには、いかなる政治的、道徳的基盤もなかった。

ヒルファーディングは、当時、不活発で受動的なドイツ社会民主党のことを非常に見下した態度で語り、それとの対比で、オーストリア社会民主党の積極性をひきあいに出していた。しかしながら、その批判は内輪だけのものでしかなかった。公式には、ヒルファーディングは、ドイツの党に奉仕する文筆官僚以上ではなかった。ヒルファーディングは、ウィーンにやってくるとトロツキーを訪れ、日が暮れるとトロツキーをカフェへ連れ出して、オーストリアのマルクス主義の友人たちに引き合わせたりした。トロツキーもベルリンへ行くと、ヒルファーディングを訪れた。あるとき、ベルリンのあるカフェでマクドナルドと会った。通訳をしてくれたのはエドゥアルト・ベルンシュタインだった。ヒルファーディングが質問をし、マクドナルドがそれに答えていた。トロツキーは心のなかで、彼ら3人のなかで、社会主義という言葉で理解しているものから、最も隔たっているものは誰だろうかと考えた。それには答えが見つからなかった。

 1917年の革命の後、ブレスト=リトフスク講和交渉のとき、ヒルファーディングから1通の手紙を受け取った。別にたいしたことは期待していなかったが、それでも多少の興味があって、封を切った。何といっても、それは、十月革命後、西欧の社会主義者からはじめてきた直接の声だったからである。この手紙のなかで、ヒルファーディングは、ウィーンの「博士」連中のうち、捕虜となった人物の釈放を求めていた。そのなかで革命については、一言も触れられていなかった。それでいて、手紙は「君」という呼び方で書かれていた。ヒルファーディングにとっては、十月革命もブレスト講和交渉も、身内をとりなしてもらうための機会にすぎないのだ、ということをすぐに受け入れることができた。

ヒルファーディングは、トロツキーがこれまで面識がなかったウィーンの友人をたくさん紹介してくれた。オットー・バウアー、マックス・アドラー、カール・レンナーといった面々である。最初のうちトロツキーは、うやうやしい注意深さで、彼らの会話に耳を傾けていた。だが、すぐに不審感が混じり始めた。これらの人々は革命家ではなかった。それどころか、彼らは革命家と正反対のタイプの人間だった。彼らの声色にさえ、俗物根性が感じられるような気がした。これらの人々から受けた最初の印象は、その後、深まるばかりだった。これらの人々は、多くの知識をもち、日常の政治的実務の範囲内では、立派なマルクス主義の論文を書くことができた。だが、彼らはトロツキーにとって、およそ住む世界の違う異質の人々であった。交際範囲が広がればひろがるほど、この点にたいする確信が強くなっていった。トロツキーは、これらの人々の俗物根性と革命との関わりに、何か不潔なものを感じた。

 

《彼らは、仲間内でのうちとけた会話の中では、論分や演説におけるよりもはるかにあけすけに本音を語り、時にはあからさまな排外主義的感情を、時には小金持ちの高慢さを、時には警察に対するうやうやしい畏れを、時には女性に対する下劣な態度を、さらけだした。そのたびに私はあっけにとられて、心の中でこう叫ぶのだった。「何という革命家だ!」

…中略…こうしたつき合いを通じて私は、いかに異質な諸要素が同一人物の心理の中に共存しうるかを、そして、体系の一部を受動的に認識することと、その体系を総体として心理的に感得しその体系の精神で自己を再教育することとのあいだに、いかに巨大な距離があるかを理解するようになった。》 『わが生涯』 トロツキー著 森田成也訳

 

 トロツキーは、ここで明らかに二重の勘違いをしている。ひとつは、彼らはもともと職業「革命家」ではないのだ。もうひとつは、彼らのマルクス主義と、実生活の俗物根性には、何の関係もないのだ。彼らは、そういう内在的な意識を、マルクス主義の観点から内省したことも、分析したこともないのだ。マルクス主義と実生活はメダルの表と裏の関係になっている。トロツキーの求めている倫理的態度を、彼らにあてはめても、とうてい無駄だった。学問というもの自体への取組姿勢が異なっているからである。もうひとつの誤りは、生活全体を覆う概念として「革命家」という職業を初めて意識的につくったのは、レーニンである。つまり、レーニンは、日常の24時間全部を、革命に没頭するに近い生活状態を理想化した。しかし、これは自己欺瞞でしかない。それは求めても、求められない虚像の生活なのである。つまり、二重の勘違いとは、ひとつはトロツキーの側に責任があり、もう片方は、彼らの俗物根性と学問との関係のなかにあるのである。こういう勘違いはトロツキーのみに限らなかった。ボリシェヴィキそのもの、あるいはもしかしたら、十月革命そのものの中にも、もともと内在していた矛盾といえる。だから、革命後の異端者狩りや粛清の波は、彼らの影を鏡にうつした虚像でしかなかった。

ウィーンに住んでいた7年間というもの、これらの指導者たちとの誰とも、心を割って話すことができなかったと、トロツキーは振りかえっているが、それで正しいのである。心を割って話すのは、あぶくのように消えてなくなる虚像ではなく、しっかり生活に根をはった実像としての労働者たちで十分なのだ。それができなければ、革命でもなんでもない。

そのあと、トロツキーは、マルクスとエンゲルスの往復書簡を取り上げて、俗悪さのないほんとうの「神経のすみずみまで浸透している革命的見識」の見本と理想化して、自分と重ね見ようと試みている。そして、それに答えるのに、トロツキーは、精神的高潔、貴族性、革命的優越性なる言葉を、マルクスとエンゲルスに贈呈している。しかし、マルクスにしてもエンゲルスにしても、ほんとうは普通のありふれた人間だった。ただ、その思想が時代をこえて人々に影響を与え、普遍性をもったにすぎないのだ。「革命家」という聖像化した言葉が、マルクスやエンゲルスに一番似つかわしくない。それが分かるためには、トロツキーに憑いている何かを落とすしかなかった。

 トロツキーとオーストリア社会民主党との関係は、トロツキーが排外主義に公然と反対したということで、一層、悪化した。それは1909年のことである。バルカン諸国、特に、セルビアの社会主義者と会ったとき、何度となく怒りにみちた不平を聞かされた。そして、オーストリア社会民主党の機関紙『アルバイター・ツァイト』の排外主義的攻撃を非難していた。そこで、トロツキーは『ノイエ・ツァイト』に、『アルバイター・ツァイト』

の排外主義を非難する論文を書いた。カウツキーはためらったすえ印刷にまわした。ところが、その論文がでたとたん、オーストリア党の指導部のあいだで、トロツキーにたいするすざまじい憤激の嵐が巻き起こった。

 オットー・バウアーをはじめとするオーストリア・マルクス主義者は、みな会話のなかでは、国際部の責任者に行き過ぎた面があることに同意していた。彼らの態度は、ヴィクトル・アドラーの意見を反映していた。アドラーは、排外主義的な極端さを大目に見つつも、それに賛成しているわけではなかった。しかし、いったん図々しい横やりが外からはいると、すべての指導者たちはたちまち心をひとつにした。これらの人々は、革命など信じていなかったし、戦争が起こりうるとも信じていなかったのだ。それから6年後、オーストリア=ハンガリーにも外交政策があることを、彼らは認めざるをえなくなる。だが、戦争が始まると、彼ら自身、ロイトナーやそのたぐいの排外主義者たちに教え込まれた最も恥知らずな言葉で語り始めるようになる。

 ベルリンでは、ウィーンとは違った空気が支配していた。学者先生の滑稽な大物気取りはほとんど感じられなかった。民族主義はさほど強力ではなく、少なくとも、多民族国家であるオーストリアほど、頻繁かつ声高に現われる理由に乏しかった。民族的感情は、一定の時期までは、党のプライド、自分たちこそ最強の社会民主主義政党であり、インターナショナルの牽引車であるというプライドと溶け合わさっているように見えた。ロシア人は、遠くからドイツ社会民主党を理想化していた。ベーベルとカウツキーの名前は、畏怖の念をもって口にされた。当時は、ドイツ社会民主党にたいする争う余地のない魅力にとらわれていた。

 ベルリンでは、毎週開かれていた左派の会合に、何度か出席する機会があった。会合は、毎週金曜日にレストラン「ラインゴルト」で開かれた。会合の中心は、フランツ・メーリングで、カール・リープクネヒトも顔を出していた。そこに初めて連れて行ってくれたのはヒルファーディングである。彼は、当時はまだ自分のことを左派だとみなしていたが、ローザ・ルクセンブルグを毛嫌いしていた。メーリングは顔面神経痛を患っていたので、頬をぴくぴくさせながら、自分の本のうちどれがロシア語に翻訳されているか、皮肉っぽく尋ねた。ヒルファーディングが、会話のなかで、ドイツの左派のことを革命家だというと、メーリングはさえぎって、「われわれが革命家だって?革命家というのは彼らのことを言うんだよ!」と、あごでトロツキーの方を指した。

 トロツキーが初めてカウツキーに会ったのは、1907年である。彼のところへ連れて行ってくれたのはパルヴスであった。ドキドキしながら、ベルリン郊外のフリーデナウにある小ぎれいなアパートの階段をあがった。青く澄んだ目をした白髪の陽気で小柄な老人が、ロシア語で「今日は」と言いながら、トロツキーを迎えた。特に魅力的だったのは、そのどっしりした落ち着き払った態度であった。当時における彼の有無を言わせぬ権威と、そこから生じている平静さの結果だった。彼の敵は、カウツキーのことを、第二インターナショナルの「教皇」と呼んだ。カウツキーは、自らの理論的使命を、改良と革命を和解させることに見出していた。しかし、彼自身が思想的に形成されたのは改良の時代だった。彼にとって現実とは、改良のことにほかならず、革命はぼんやりした歴史的展望にすぎなかった。

カウツキーは、マルクス主義を出来合いの体系として受け入れ、それを学校教師のように通俗化して普及させた。大事件は彼の手に負えないことがわかった。彼の没落は1905年革命から始まっていた。カウツキーとの会話は、ほとんど実りのないものだった。彼の知性はぎこちなく、無味乾燥で、機知に乏しく、心理的洞察に欠けており、評価は図式的で、冗談は月並みだった。これと同じ理由で、カウツキーは演説が極端に苦手だった。

 カウツキーとローザ・ルクセンブルグの対立が、公然と爆発したのは、1910年、プロシアの選挙権獲得闘争の問題をめぐってであった。カウツキーはこのとき、敵を打倒する戦略に対抗して、敵を消耗させる戦略という戦略原理を展開した。問題は二つの非和解的な態度にあった。カウツキーの路線は、ますます深く、現存体制に順応していく路線であった。この場合、「消耗」するのは、ブルジョア社会ではなく、労働者大衆の革命的理想主義であった。あらゆる俗物、あらゆる官僚、あらゆる出世主義者たちが、カウツキーの側についた。カウツキーはこうした連中のありのままの姿を覆い隠すために、観念的な外套を織ってやった。

 戦争が勃発したとき、政治的な消耗戦略は塹壕戦略によって押しのけられた。カウツキーは、平和に順応したように、戦争にも順応した。それにたいし、ローザは、自分の理念に忠実であるということが、いかなるものであるかを身をもって示した。

 カウツキーのアパートで開かれた、レーデブールの60歳の誕生日祝いの日のことである。10人ほどの来客のなかに、すでに70歳になっていたアウグスト・ベーベルがいた。ここで、トロツキーは、ベーベルと妻のユリアに初めて会った。カウツキーはじめとする参会者は、老ベーベルの言葉の一語一語に聞き入っていた。ベーベルは、その人格のうちに、ゆっくりだが、着実に台頭しつつある新しい階級を体現していた。この痩せた老人は、全身、単一の目標に向けられた我慢強い揺るぎない意志でできているように見えた。その思考、その雄弁、その論文と著書において、ベーベルは、直接的で実践的課題に役立たないような精神的エネルギーの支出を全くすることがなかった。そこに、彼の政治的パトスの独特の美しさがあった。わずかな自由時間に学び、一分一秒を無駄にせず、厳密に必要なものだけを貪欲に吸収しようとする、そういう階級をベーベルは体現していた。ベーベルはバルカン戦争と世界大戦のあいだのブカレスト講和条約の最中に死んだ(1913年)。

 カール・リープクネヒトは全く違ったタイプの人間だった。トロツキーと彼はめったに会わなかったが、知り合いだった。ベルリンにあるリープクネヒトのアパートは、ロシア亡命者の司令部だった。ドイツの警察がツァーリズムに奉仕したことに抗議の声を上げなければならないときには、われわれはまず、何よりもリープクネヒトのところに集まった。すると、彼は、すべてのドアとすべての頭をノックして回った。リープクネヒトは教養あるマルクス主義者であったが、理論家ではなかった。彼は行動の人であった。衝動的で情熱的で献身的な気質の持ち主であった彼は、政治的直感、大衆と状況に関する勘、イニシアティブを発揮する比類なき勇気をそなえていた。彼こそはほんとうの革命家だった。まさにそれゆえに、彼は、官僚的単調さが支配し、何かというとすぐ退却する姿勢にあったドイツ社会民主党の本部では、いつも半ば余所者であった。

 1908年10月、トロツキーはウィーンで、広範な労働者層を対象にしたロシア語新聞『プラウダ』を発行し始めた。この新聞は国境を越えて、ひそかにロシアに届けられた。この新聞は、いいときで月に2回程度の頻度で、3年半にわたって発行された。『プラウダ』における協力者は、のちにソヴェトの著名な外交官になるA・A・ヨッフェとスコベレフという学生で、のちにケレンスキー政権の労働大臣になった男である。そのほか、一時、『プラウダ』の書記を務めていたのはヴィクトル・コップである。彼はスウェーデンのソヴェト公使になった。

 1914年8月1日、ドイツはロシア宣戦布告した。これで第一次世界大戦がはじまった。8月4日の帝国議会で、ドイツ社会民主党が軍事公債に賛成投票したことを知った。この投票は、トロツキーにとって生涯において最も悲劇的な体験のひとつになった。トロツキーは、ロシア人亡命者拘禁の危険を避けて、スイスのチューリヒへ2か月間滞在した。彼はそこで『戦争とインターナショナル』を書いた。これはドイツ社会民主党に矛先を向けたものである。次いで、1914年11月19日、トロツキーは新聞の特派員としてフランスに入った。フランス社会党は士気沮喪状態にあった。誰もが排外主義に傾いていた。トロツキーは、次のように述べている。「社会愛国主義を含む公式の政治思想にたいする優越感は一日たりともわれわれから去ったことはないが、それは不当な思い上がりの産物ではなかった。この感情のうちにはいかなる個人的なものはなく、それはわれわれの原則的立場から出ているものであった。われわれは高いやぐらの上に立っていた。批判的な観点こそが何よりも、戦争そのものの見通しをより明確に見定めることを可能にした」。トロツキーは1914年の秋以来、あらゆる公式の予言に反して、戦争が絶望的に長引き、ヨーロッパ全土が、戦争によって破壊されるだろうと、来る日も来る日も自分たちの『ナーシェ・スローヴォ』の中で主張した。

 1915年9月5日~8日の間、スイスのツィンメルワルト国際会議が開催され、トロツキーも参加した。この期間は嵐のような日々だった。レーニンを先頭にした革命的左派と、代表者の多数派が属していた平和主義派とは、トロツキーが起草した共同宣言をめぐって何とか合意した。レーニンは、会議の最左翼の立場に立っていた。多くの諸問題で、レーニンは、ツィンメルワルト左派内でも、ただ一人の立場をとっていた。トロツキーは多くの基本問題で、ツィンメルワルト左派に近かったが、形式的にはそこには属していなかった。このツィンメルワルトにおいて、レーニンは、将来の国際行動のための跳躍台をしっかりと築きあげた。彼は、ここで革命的インターナショナルの最初の礎石を据えたのである。リープクネヒト自身は、来ていなかった。彼は監獄の虜囚となる以前に、すでにホーエンツォレルン軍の虜囚の身だった。リープクネヒトは、平和主義的路線から革命的路線への急激な転換を示す手紙を会議に送ってきた。

 会議についてツィンメルワルトの地から、外部に書き送ることは、時期尚早に刊行物に発表されて、代表者たちが国境を越えて帰国する妨げになりかねなかったので、厳重に禁止された。それでも、数日もすると、それまでまったく知られていなかったツィンメルワルトの名前は、世界中に広く知れわたるようになった。ツィンメルワルト会議は、各国の反戦運動の発展に大きな刺激を与えた。ドイツでは、スパルタクス団がその活動を一層広く展開した。フランスでは、「国際連帯回復委員会」が形成された。パリのロシア人居住地の労働者たちは、『ナーシェ・スローヴォ』の周囲に団結し、財政難などさまざまな困難の中でこれをささえてくれた。ツィンメルワルトで、トロツキーとレーニンを隔てていた、基本的には二次的な意見の相違は、その後の十数か月間に解消された。

 そうこうしているうちに、トロツキーの頭上には暗雲が立ち込め始めた。ドイツの手先だと非難する記事と声明が掲載されはじめたのである。匿名の脅迫状がますます頻繁に届くようになった。非難も脅迫も出所は、疑いもなくロシアの大使館だった。印刷所のまわりには、始終、不審な人物がうろつくようになった。

次いで、フランスのパリに1916年10月まで滞在し、国外退去命令を受け、スペインへ、そして、1917年1月にニューヨークに滞在した。この間、1915年9月、スイスのチンメルワルトで開かれた、世界大戦に反対する第一回国際社会主義者会議に、レーニン、アクセリロードらとともに、トロツキーも出席した。そこで、有名な「チンメルワルト宣言」の原案作成にたずさわった。この宣言は、平和、自由、友愛と社会主義をめざす闘争に立ち上がることを格調高く、ヨーロッパの労働者に呼びかけていた。また、アメリカにおいては、トロツキーは、直ちに左翼団体の機関誌『階級闘争』刊行のため、熱心に活躍した。第一号が4月15日発行と決定し、トロツキーが宣言を起草して発行準備をしている途中で、ロシアで2月革命が勃発したというニュースが飛び込んできた。そこで、3月27日、トロツキー一家はアメリカを離れた。いっしょにアメリカにいたブハーリンも、日本経由でロシアへ帰国した。のちに、トロツキーとブハーリンは、スターリンをはさんで対立するが、最後にはともに、スターリンの犠牲にされる点で、同じ運命を共有していた。だが、今は二人とも、革命に夢をはせ、一路ロシアに向かっていたのである。

 しかし、トロツキー一家は4月3日、カナダのハリファックスで、イギリス海軍に家族全員が逮捕され、下船させられ、トロツキーのみ、マムハーストの収容所に入れられる。レーニンがペテルブルグに着いて、政府および臨時政府反対の会議に現れたというニュースを、トロツキーはこの強制収容所で聞いた。そして、ようやく4月29日に釈放され、5月15日ロシアに到着した。トロツキーのこの10年間の亡命生活は、1905年の革命の解説と来るべき革命の理論的予測に捧げられた。

だが、この期間、彼自身きわだった動きをしていない。亡命期間中、トロツキーは、ボリシェヴィキとメンシェヴィキの合同に労をとったが、無駄に終わってしまった。また、彼は、ヨーロッパの多くの高名な社会主義者と交友をもった。カウツキー、ローザ・ルクセンブルグ、カール・リープクネヒト、ハーゼ、アドラー、ベーベル、ジョーレス、ロスメル等、ドイツ、フランスの社会主義者、そして、多くのロシア人亡命革命家たちである。しかし、第一次世界大戦の勃発は、この交友関係を破壊した。その多くが「祖国防衛主義者」となったからである。そのなかには、プレハーノフのみならず、トロツキーが最高の敬愛を払っていたザスーリチやクロポトキンもいた。メンシェヴィキの多くも同じ道に立つことができなかった。 

 

8 革命前夜

 

 トロツキーが帰国した1917年5月15日、ロシアのベロオストロフの駅には、統一国際主義派とボリシェヴィキ中央委員会の代表団が迎えにきていた。メンシェヴィキからは「国際主義派」からさえ、誰も来なかった。到着一日目からトロツキーの前に控えていた問題は、ボリシェヴィキと協力して、メンシェヴィキおよびナロードニキと闘うことだった。ペトログラードのフィンランド駅では、盛大な歓迎を受けた。フィンランド駅からまっすぐソヴェト執行委員会の会合に向かった。当時の議長のチヘイゼはそっけなく挨拶した。ボリシェヴィキは、1905年の革命の中心人物だったペテルブルグ・ソヴェト議長のトロツキーを、執行委員のひとりとして推薦した。しかし、メンシェヴィキはナロードニキとひそひそ協議した。その頃は、この両派が、革命のあらゆる機関で圧倒的多数を占めていた。結局、審議権をもったメンバーとして執行委員会に入れることが決定された。執行委員の身分証明書を発行してもらった。一家は苦労したあげく「キエフ荘」という旅館の一室に落ち着いた。そのあとブルジョア的な大邸宅に腰をおちつけた。

この時期のソヴェトと1905年のソヴェトとは、まるで様子が違っていた。なぜなら、1905年のソヴェトは、ゼネストのなかから生まれ、ストライキの指導者が、直接、ソヴェトを代表した。しかし、今回の二月革命は、軍隊の暴動によって、労働者がまだソヴェトを作っていないさきに、勝利を獲得した。執行委員会は、革命の勝利後、ソヴェトよりさきに、工場や兵営から独立して、委員自身によって結成されたのであった。執行委員会がその誕生の日から享有していた巨大な権威は、委員会が1905年のソヴェトを継承しているという外観にかかっていたのである。

トロツキーが、レーニンの「四月テーゼ」を知ったのは、ペテルブルグ到着の2、3日後である。『プラウダ』の編集局を訪問する手はずを、カーメネフと決めた。トロツキーが、このテーゼに全く賛成する旨、レーニンに告げたのは、5月17日または18日のことである。「四月テーゼ」は、現在の状況は、プロレタリアートの自覚と組織性が不十分なために、権力をブルジョアジーに渡した革命の最初の段階から、プロレタリアートと貧農層の手中に権力を渡さなければならない革命の第二段階への過渡期とみなした。そして、議会制共和国ではなく、全国にわたる、上から下までの労働者、雇農、農民代表ソヴェトの共和国に目標を設定した。この時は、ソヴェトに占めるボリシェヴィキは、まだ少数であり、また、何よりもボリシェヴィキ自身が、レーニンのテーゼに抵抗した。

当時、ロシア国内にいた党指導者は誰ひとりとして、プロレタリアートの独裁、社会主義革命という路線を考えてもみなかった。レーニンの到着の前日に、数十人のボリシェヴィキが集まった党協議会は、民主主義を越えて進もうとする者は一人もいなかった。スターリンは、グチコフとミリュコーフの臨時政府を支持し、ボリシェヴィキとメンシェヴィキが合同する路線をとっていた。これと同様な、または、もっと日和見主義的な立場に立っていたのが、ルイコフ、カーメネフ、モロトフ、トムスキー、カリーニンおよびその他すべての指導者であった。カーメネフとルイコフは、レーニンに抵抗を試みた。

スターリンは黙って脇に退いた。当時、スターリンが、自分の昨日までの政策に評価を下して、レーニンの立場への道を切り開くことを試みた論文はひとつもない。彼は、ただ、沈黙していたにすぎない。彼は、革命の最初の1か月における自分の不幸な指導によってすっかり信用を落としていた。そこで、彼は陰に隠れることを選んだ。彼は、レーニンの見解を擁護するような発言を一切しなかった。彼は脇に退き、待機していた。革命の理論的、政治的準備の最も重大な数か月間、スターリンは政治的にはまったく存在しなかった。

レーニンは、党のあわれな指導者に反対して、党の大衆に向かって訴えていた。彼は「古参ボリシェヴィキ」にたいして系統的な闘争を開始した。「この連中は、新しい生きた現実の独自性を研究するかわりに、暗記した公式を繰り返すことによって、わが党の歴史においてみじめな役割をすでに一度ならず演じてきた」と、当時、レーニンは書いた。トロツキーは、レーニンがいなかったときのボリシェヴィキの体たらくを次のように非難している。

 

《1917年はじめ、彼らは自分の判断で行動しなければならなかった。状況は困難であった。そのときこそ、彼らはレーニンの学校で何を学んだか。また、レーニンがいなくても何ができるかを、示さなれければならなかった。このとき、ジュネーブのレーニンとニューヨークの私とが一致して定式化した立場に自力で到達した者が、この連中の中に一人でもいたら、その名をあげてもらいたい。一人の名もあげることはできない。レーニンが到着するまでスターリンおよびカーメネフによって編集されていたペトログラードの『プラウダ』は、視野の狭さ、洞察力の欠如、日和見主義の記録文書として永久に残ることになった。》             『わが生涯』 トロツキー著 森田成也訳

 

二月革命はブルジョア革命であるという教条的理解が、ソヴェトの役割を、臨時政府の監督機関の地位に甘んじさせたのである。1917年3月に、彼らのうち誰一人として、小ブルジョア民主主義的左派の立場以上に進んだものはいなかった。歴史の試験に合格したものは一人もいなかったのだ。トロツキーが、レーニンの「四月テーゼ」に賛成したのは当然であった。このテーゼは、いわば、「永続革命論」のレーニンによる継承にみえたのである。トロツキーがレーニンの路線に合流することを妨げているものは、革命家としての面子以外ではなかった。

十月革命の準備は全速力で進められた。トロツキーは、ペトログラード・ソヴェトの議長になった。敵対していたソヴェト中央執行委員会は、ペトログラード・ソヴェトがボリシェヴィキのものになるやいなや、印刷工場の所有者の協力を得て、ペトログラード・ソヴェトから新聞を取り上げた。数日後に新聞を発行できるようになった。その新聞に「労働者と兵士」という名をつけた。トロツキーの生活は集会の渦のなかにあった。集会は、工場、学校、劇場、サーカス場、街頭、広場で行われた。聴衆は、労働者、兵士、働く母親、街の青年、首都の抑圧された下層住民だった。会場はぎっしりうまり、人々はひしめき合っていた。どんな疲れも、ひとつの熱狂した群集の張りつめた雰囲気の前ではふっとんでしまった。群集は自分たちの進むべき道を知り、理解し、発見することを欲していた。

1917年5月初め、トロツキーがペトログラードに着いたとき、レーニンが乗ってきた「封印」列車に関する中傷キャンペーンは、最高潮に達していた。ドイツ経由で帰ってきたというので、スパイ容疑をかけられたのである。これは、同じ時期に帰国したトロツキーにも中傷が浴びせられた。6月5日、第一回全ロシア・ソヴェト大会が開催された。その際、トロツキーは、力強く、品位をもってスパイ容疑の弾劾声明をおこなった。トロツキーの声明は満場の拍手をもって迎えられた。忘れてはならないのは、大会代議員の10分の9が敵で占められていたことである。

しかし、臨時政府はトロツキーを、ドイツのスパイとして逮捕した。しかし、コロニーロフの反乱によって、大衆の革命的高揚があまりにも強力だったので雲散霧消してしまった。ペトログラード・ソヴェトにおけるボリシェヴィキの数は、日毎に増加した。ソヴェトは千人を越える代議員を抱えているが、幹部会の選挙を行い、ボリシェヴィキがソヴェトの構成人員の半数以上に達していることがわかった。トロツキーはソヴェト議長の席に再びついた。

トロツキーが「個人」としてボリシェヴィキに入るか、または、彼がリーダーをつとめる革命団体メジライオンツィ(ペテルブルグ市地区間連合)を引き連れて入るかの選択が残された。このメジライオンツィという団体は、ペテルブルグで3,000人、軍隊組織内に1,000人のメンバーを擁する団体で、そのなかには、ウリツキー、ルナチャルスキー、リャザーノフ、ヨッフェ、カラハン、ポクロフスキーなどの優秀な革命家、労働者を抱えていた。

もともと、メジライオンツィは、1913年、革命的社会民主主義派の組織的統一と非合法党を原則に結成されたもので、ボリシェヴィキとメンシェヴィキに分裂した党の下部からの再統一を志向して結成された一派である。彼らは、第一次大戦開始にあたっては、インターナショナリストの立場から戦争に反対し、ツァーリ打倒をスローガンにしていた。ロシア国内では、旧ボリシェヴィキのユレネフが指導していたが、1915年には、「帝国主義戦争を内乱へ」のスローガンをかかげ、プレハーノフ派と絶縁し、亡命中のインターナショナリストたちの指導的立場にあったトロツキーを中心に、再編成されたものである。

 ボリシェヴィキは、すでに大政党に育っており、党員20万人を擁していたから、トロツキーとしては、実質的に「吸収」されるよりほかなかった。トロツキーは、到着第一回目の演説から、「ボリシェヴィキとインターナショナリスト」という言葉を使ったが、それを略して「われわれボリシェヴィキ国際主義者は」というようになった。こうして、政治的な入党が、組織的入党に先立った。5月22日、レーニンからトロツキーらへのボリシェヴィキ党加盟の希望が表明された。組織的入党はなくても、以後、行動は一心同体となった。正式な加盟は、7月に予定された第六回党大会で可決されることになっていた。

 7月闘争と弾圧のため、7月26日に党大会は開催された。レーニンは、地下に潜伏して指導に当たっていた。この大会で、トロツキーとウリツキーは、中央委員に選出された。トロツキーは、各所の集会で、満員の聴衆を前にして、深夜まで何時間も、見事な演説をこなした。レーニンも、また、この合同はすべて優秀な分子を吸収したと喜んだ。レーニンとトロツキーの合同は、ボリシェヴィキの巨大化を意味していた。マンデルは、その著『トロツキーの思想』のなかで、「トロツキーが組織問題にかんして『レーニン主義者』となったまさにその瞬間に、レーニンはロシア革命のダイナミックスの問題にかんして『トロツキスト』になったのである」と述べている。トロツキーは、再び、ブルジョア連立政府の標的になった。7月闘争後の弾圧のためである。レーニン、ジノヴィエフは地下へ潜り、トロツキー、ルナチャルスキー、カーメネフ、コロンタイらは、ともに逮捕された。このころのケレンスキーは、全能であるかのように見えた。

 トロツキーは、地下に隠れていたレーニンにも密かに逢っている。トロツキーは、レーニンに代わって、合法面のボリシェヴィキ党の演説まで行っていた。レーニンが地下から民衆の前に公然と姿を現すのは、十月革命の武装蜂起直前である。この間、レーニンは、地下から党を指導するとともに、『国家と革命』を書きすすめていた。その中では、パリ・コミューンの直接の延長線上に、1905年革命のソヴェト、1917年革命のソヴェトを位置づけている。革命が勃発して未完におわった第7章には、1917年のソヴェトが、メンシェヴィキと社会革命党によって汚辱、衰退をまぬがれなかったとしている。現実的で有効な人民の自己権力としてのソヴェトを、人民の創造力が世界史上はじめて産みだしたが、今や、臨時政府と癒着し、帝国主義戦争遂行を叫んで、平和、自由、パンを求める民衆の声を圧殺するのに狂奔する。そのようなソヴェトの現状を直視し、真の人民の権力機関としてのあるべきソヴェトを、ロシアに実現することを理論化することが、『国家と革命』の目的だった。

 地下のレーニンと地上のトロツキー、この組み合わせは、ボリシェヴィキにとって偉大な力となった。トロツキーは、1905年の時よりも、はるかに高い次元で、再び、その名声を獲得することになった。トロツキーのレーニンへの傾倒、信頼、尊敬、それにひきかえ、他のボリシェヴィキの指導者たちへの冷然たる無視または軽蔑は、対称的にあらわれている。そのころ、トロツキーとともに演説をしてまわっていたルナチャルスキーは、トロツキーの雄弁を誰も比肩できないとして、次のように表現している。

「印象的な風貌、見事で雄大な身振り、力強い話のリズム、大きくてまったく疲れを知らぬ声、顕著な均斉感、言いまわしの文学性、イメージの豊富さ、刺すような風刺、高みに舞い上がるようなパトス、まったく抜群の、その明晰さにおいて真に鉄のような論理性-ここにトロツキーの演説の真髄がある。」革命へと民衆を鼓舞しようとする時、一片の文書や指令が通じるものではない。指導者の魅力、そして、じかにその顔を見、その口から吐かれる演説が、民衆の蜂起への決意をつくりあげる、その見本がトロツキーにはあった。

軍事革命委員会によって、政府機関は、兵士と水兵と赤衛隊の部隊の手で、次々と奪取していった。一部の大臣は逮捕された。政府は従来どおり冬宮で会議を開いていた。実質的には、政府はもはや存在していなかった。冬宮は10月25日中に、軍隊によって徐々に四方から包囲されつつあった。

 

9 10月革命の勝利 

 

 8月24日にはじまったコルニーロフ反革命叛乱は、ケレンスキー政府の無条件支持を求めることを余儀なくさせ、ソヴェト傘下の革命的軍隊、そして、7月闘争後弾圧されていた赤衛隊の反撃で失敗に終わった。この叛乱鎮圧は、ソヴェトの力量を実証した。そして、軍隊の政府への信頼感を失わせた。こうして、9月以降、ソヴェトの急激な革命化が

「ソヴェトのボリシェヴィキ化」によって始まった。

 ペトログラード労・兵ソヴェトは、協調派の支配する幹部会の不信任と改選を可決(9月9日)し、9月25日に保釈出獄したばかりのトロツキーを議長とした新幹部会を選び、「全ロシア労・兵ソヴェト大会は、真に革命的な政権を樹立するだろう」と決議した。モスクワもこれにならった。9月28日の労・兵ソヴェト合同総会は「全権力をソヴェトへ!」を決議した。ソヴェトのボリシェヴィキ化は、各地、各都市の労働者ソヴェト、兵士ソヴェトで急速に進んでいった。しかし、ソヴェトのボリシェヴィキ化が、必ずしもレーニンの路線と一致していたわけではない。ボリシェヴィキ党の中央委員会すらもそうであった。「四月テーゼ」当時のレーニンの孤立は、9月半ばにレーニンが「武装蜂起」を提起した際にも同様に発生した。トロツキーは、レーニンを支持し続けた。二人の間の唯一の食い違いは、ボリシェヴィキ党の権力奪取と、ソヴェトの合法性をどのように結びつけるかという点だけであった。

 トロツキーは、ペトログラード・ソヴェトの議長就任演説で、ソヴェトの合法性を尊重し、各政党にたいする自由の精神で運営すると述べ、常任委員会を政党の実力に比例して選んだ。真の民主主義原則は、ソヴェトにおいてこそ、実行されなければならないと考えていたからである。しかし、中央委員会の態度は、レーニンにはあまりに受動的でぐずぐずしているように見えた。躊躇のあらゆる兆候、日和見と不決断のあらゆる怯懦にたいするレーニンの警戒と焦慮は、極限に達した。9月12日~14日の地下からのレーニンの党中央委員会およびペトログラード、モスクワ両党委員会宛の手紙には、ボリシェヴィキは両首都の労・兵ソヴェトで多数を占めたので、国家権力をその手に掌握できるし、また、掌握しなければならないと述べていた。レーニンは、トロツキーらが、ただちにほんとうの陰謀をはじめ、反対者を急襲して、権力を奪取すべきことを要求した。

新権力が講和を結び、農民に土地を引き渡し、自由と民主主義を国民に保証するならば、ボリシェヴェキは、誰にもくつがえされない政府をつくれるとの自信に満ちた言葉だった。この手紙では、マルクスの「蜂起は戦闘術である」との言葉の意味を、理解するよう求めていた。この言葉は、さらに、9月13日~14日執筆の党中央委員会あての手紙のなかでも、さらに強調されていた。

しかし、ボリシェヴィキの大半は、権力問題をソヴェト以外の諸団体を含めた会議(予備議会)で、議会主義的に解決しようとの路線に固執していた。そのため、レーニンのボリシェヴィキ党による武装蜂起、権力奪取には冷淡だった。党内闘争は発展して、予備議会の問題に関連して起こった。二つの方法、一つは権力をとろうとし、他は憲法会議で反対派になろうとする傾向である。これはきわめてはっきりしていた。予備議会ボイコット派、つまり、レーニン路線の先頭にはトロツキーが立ったが、9月21日の民主主義会議ボリシェヴィキ代議員団会議では、長時間の激論の末、予備議会参加派が77対50で勝った。党中央委員会もこの決定を承認した。地下のレーニンは焦慮と憤激のなかにあった。そののち、レーニンの恫喝ともいえる手段で、予備議会ボイコットが、党中央委員会で決まった(10対1、反対はカーメネフ)のは、10月5日のことであった。トロツキーは、大衆の革命意識を反映せず、反革命クーデター準備の契機になりかねない予備議会ではなく、ソヴェト大会の革命化をめざす闘争を主張した。

 

《もしわれわれが10月に権力を獲得しなかったならば、われわれはけっして権力を掌握しなかったろう。10月前におけるわれわれの力は、この党こそが他の党がなしえないものを行なうであろうと信じた大衆が、どんどんはいってきたということにある。もしも大衆がその瞬間において、われわれ党がしりごみし、ことばと行ないとが合致しないということを知ったならば、ちょうど社会民主党やメンシェヴィキから大衆が逃げ去ったように、2、3か月のうちに彼らは党から逃げていっただろう。》

                                      『レーニン』 トロツキー著 松田道雄訳

 

レーニンには焦慮と、不安と不信感が生じていた。革命を救ったのは、この焦慮かもしれなかった。レーニンは、身を隠しているフィンランドから、9月中旬、合法面のペトログラード、モスクワの党委員会および中央委員会あてに、「ボリシェヴィキは、両首都の労働者・兵士代表ソヴェトで多数を占めたので、国家権力をその手に掌握できるし、また、掌握しなければならない」と書き送ってきた。しかし、党は動かなかった。レーニンは、焦慮してフィンランドからヴィボルグ区へ潜入し、10月7日にはヴィボルグ区からペトログラード中心部に入り、武装蜂起をためらうことは破滅に等しいと強調した。10月10日、レーニンの出席した中央委員会において、武装蜂起の決議がなされた。その決議には、蜂起成熟の条件として、全ヨーロッパに世界社会主義革命が成長しつつあり、そのため、ロシア革命圧殺のために、ケレンスキー政府が単独講和を結ぶ可能性があり、首都のドイツ軍明け渡しも考えられること、ソヴェト内でボリシェヴィキが多数を占めたことなどが挙げられた。これらは、すでに9月以降、何度となく地下のレーニンが訴えてきたものであった。

この決議は、レーニン、トロツキー、スターリン、ウリツキー、スヴェルドロフ、ジェルジンスキーら10名が賛成、ジノヴィエフ、カーメネフの2名だけが反対に回った。この二人の考えは、10月20日召集予定の全国ソヴェト大会で、より一層、ボリシェヴィキ党の力を打ち固め、「全権力をソヴェトへ!」の条件をつくることが先決というものだった。

では、蜂起はいつ行うか。レーニンは、ソヴェト大会に関係なくボリシェヴィキ党がイニシアティブをとって武装蜂起を行うという考え方をもっていた。ペトログラード市には、5万に近い労働者、兵士党員をもっていた。10月蜂起において最大の問題だったのは、ソヴェト内で多数派になったボリシェヴィキが単独で武装蜂起を行えるか、という問題だった。レーニンは、ともかくソヴェトに関係なくボリシェヴィキの単独行動を急いだ。しかし、ソヴェトには、左派エス・エルや旧メンシェヴィキ、無党派層もいた。ソヴェトに参加している労働者、兵士、農民にしても、三つの層で構成されていた。@いかなる条件下にあってもボリシェヴィキに従ってくる者、Aボリシェヴィキがソヴェトをとおして行動する限りは、ボリシェヴィキを支持している最も多数の者Bソヴェトがボリシェヴィキに支配されているにもかかわらず、ソヴェトに従っている者である。このような層は、政治的水準だけでなく、社会的構成でも分けられた。

こういう中で、ボリシェヴィキが、ソヴェトの名目を抜きにして、単独で突出した行動はできにくかった。なぜなら、スローガンはあくまで、「全権力をソヴェトへ!」だったのである。ボリシェヴィキの中央委員の多くも、そう考えていた。ただ、レーニンだけが、これ以上、蜂起を遅延することは危険であるばかりか、破滅的であると考えた。ソヴェト大会をまつことは「児戯に類する形式主義であり、革命の裏切りである」。ソヴェトか、党か、という問題にたいして、レーニンは、二者択一の態度をとっていたが、彼は、党が独自のイニシアティブをとる方向を、断固として支持した。ここには何らかの原則的な対立があるわけではなく、それを同一の基礎、同一の状況、同一の目標の上に立つ、蜂起に対する二つの接近方法の問題であった。だが、いずれにせよ、これは二つの異なる接近方法であった。これにたいして、トロツキーは次のように考えていた。

 

《ボリシェヴィキ党の力をボリシェヴィキが指導するソヴェトの力と同一視することは、明らかな誤りであろう。ソヴェトはボリシェヴィキよりはるかに強力であった。とはいえ、ボリシェヴィキなしではソヴェトは無力なものに変わったであろう。ここには何ひとつ不思議なことはない。党とソヴェトとの関係は、革命期には、ボリシェヴィズムの巨大な政治的影響とその狭い党員組織との関係によって、不可避的に一致しなくなったのである。梃子を正しく使えば、人間の腕は実際の力の何倍もの重さのものをもちあげることができる。だが、人間の腕がなければ、梃子は単なる棒にしかすぎないのだ。》

『ロシア革命史』 トロツキー著 藤本和貴夫訳

 

 トロツキーの梃子をソヴェトに喩え、人間の腕をボリシェヴィキに喩えているこの箇所は、当時は、レーニンのように単なる時期の問題で済ませられたが、のちのちソヴェト権力をめぐる党、官僚機構との関係を決定する試金石になった。なぜなら、ここで「曖昧な二者択一」を行ったつけが、党とソヴェトの関係の曖昧さ、あるいは権力の実体がソヴェトではなく、人民委員会と厖大な官僚群に占められるきっかけになったからである。ここでの記述は、革命後、スターリン主義が台頭し、亡命を強いられた後の1930から1932年にかけて書かれたことでも分かるように、トロツキーは、その点を見逃してはいなかった。

トロツキーは、「全権力をソヴェトへ!」のスローガンが、ボリシェヴィキの一貫したスローガンであった以上、ソヴェトの合法性を最大限活用することをねらい、ソヴェトが武装蜂起を承認することによって、この革命の正当性をより高め、ボリシェヴィキ一党のみの武装蜂起ではないことを印象づけようとしたのである。にもかかわらず、ソヴェトの形骸化はここからはじまったのである。

トロツキーは、10月25日をソヴェト第二回大会の期日に決定した。当日にソヴェト大会は、権力の問題を決定し、労働者と軍隊とはそれまでにうまく準備しておいて、大会を支持すべきものとした。ソヴェトは権力に攻撃をしかけている。しかし、こちらのアジテーションは、敵が、ソヴェト大会を解散させようとするようにもっていくべきであった。そうなれば、結果として仮借することなく抵抗して、弾圧に反対する必要がおこってくるからであった。そのような条件のなかでは、政府がペトログラード・ソヴェトに、ほんのわずか手をつけただけでも、こちらは決定的に立ち上がりえるだろう。それにたいして、レーニンが恐れていたことは、敵が小さいながら、決定的な反革命分裂を、軍隊におこさせて、むこうから先にこちらを奇襲してくることだった。敵が、突然に党と、ソヴェトをその手中に入れて、ペテルブルグの指導的中枢をおさえたならば、敵は革命運動の頭をはね、次第にそれを無害なものにすることだった。だから、レーニンは「待ってはならない。ぐずぐずしてはいけない」といい続けた。

いわば、トロツキーは、レーニンとはちがって、蜂起に人民権力の正統的行動の権威を賦与しようと考えていた。ペトログラード・ソヴェト議長の要職にあり、かつ、党中央委員であり、しかも、レーニンの武装蜂起に賛成しているトロツキーは、このとき彼独自の戦術を付加しようとしていたのである。こういう正当性を保つためにも、ペトログラード・ソヴェトの正式な付属機関として、10月12日に軍事革命委員会をつくり、市の防衛を名目に、ソヴェトの攻撃的な軍事力操作の計画をひそかにおしすすめていたはずだったのである。この委員会は、20日から活動を開始したが、ソヴェトの機関とはいうものの、革命派のみからなる革命の司令塔として重大な意義をもっていた。

こういう背景のなかで、9月の終わりか、あるいは10月のはじめに、スハーノフの家で、中央委員会の夜の会議が行われた。レーニンは武装蜂起の反対者を攻撃する前に、蜂起を、ソヴェト第二回大会と結びつけようとするものに襲いかかった。誰かが、「われわれは10月25日を蜂起の日と決めた」というトロツキーの演説を彼に告げたのである。これにたいしてレーニンは次のように言った。

 

《「第二回ソヴェト大会はなんの興味もない。大会はなんの意味をもっているのだ。それが実際行われるだろうか、この場合、大会が何をすることができるか。われわれは権力を奪取しなければならない。そしてわれわれは大会に結びつけてはならない。…中略…蜂起は絶対に大会以前に大会と無関係に始めなければならない。党は武装した手をもつて権力を奪取しなければならない。しかるのち、われわれは大会で論議しよう」》

                                  『レーニン』 トロツキー著 松田道雄訳

 

トロツキーは、このレーニンの意見に異論をもっていた。党は大会と無関係に、大会の背後で、自らの責任において権力を奪取することは、誤りであるとおもっていた。そうすれば、労働者の態度の上にも影響を及ぼすし、兵士たちは大会を通じてのみ党を知っているにすぎないのだ。大会と関係なしに、大会の権威に守られずに行われたならば、守備隊の中に危険な困難を導き入れるだろう。それに、ソヴェトの他の党派、社会革命党とメンシェヴィキの存在を無視できないはずだ。トロツキーの異見は、正しかった。これは権力の奪取だけの問題ではない。ソヴェトの権力についての将来の立場が、ボリシェヴィキとどうなっていくか。一党派とソヴェトという権力機関の関係について、のちのちよく考えておくべき問題だったのである。権力獲得後の国家は、当然、ソヴェト国家になるはずだ。党とは本来区別するべき権力機構を癒着させることは、のちのコミューン型国家の構想と比較しても、ずれてしまうからだ。

結局、中央委員会には、三つのグループが形成された。第一は、党による権力奪取に反対するものである。「あらゆる権力をソヴェトへ」というスローガンを反古にしてしまうからである。第二は、レーニンのソヴェトと無関係に、ただちに蜂起を組織すべきことを要求した。第三は、蜂起を第二回ソヴェト大会と緊密に結びつけることが必要だと考えた。したがって、党大会が行われるまで蜂起をのばそうと欲したのである。

結局、蜂起は10月15日より遅くてはならないという意味の決定が通過した。その日をいつにするかは討議されなかった。事件の推移が、早晩、それを決めてくれるだろうと考えていた。それができるだけ早いほうがいいことは、すべての人が一致していた。中央委員会のその日の主要な討論は、蜂起一般に反対したメンバーとの間で戦わされた。当時、迷っていた反対者たちにたいして、レーニンは果敢に論争した。

 軍事革命委員会と連立政府側の軍管区総司令部との対決は、10月21日から始まった。この二つの権力のどちらが、市守備軍を掌握するか、また、守備隊はどちらの権力を選ぶかが問題であった。23日には、ペテロバウロ要塞が、軍事革命委員会のコミサールの就任拒否にでた。この要塞は、戦略的にも重要なため、この要塞の反応は、革命側に一瞬、陰りを投げかけた。しかし、トロツキーが急遽かけつけ、説得し、要塞は革命側に移った。このペテロバウロ要塞守備隊と騎兵第9連隊のソヴェト支持(22~23日)で、事実上、革命は終わっていたのである。すでに、軍事革命委員会の指揮下に武装労働者4万、赤衛隊2万、そしてバルト海艦隊水兵があった。これで、首都で連立政府と軍管区司令部の命令どおり動く軍隊は、ほんの一握りのコサックや士官学校生徒しかいないことが明瞭になった。トロツキーが1905年の革命の教訓として、軍隊を叛乱の側に獲得することを、常に革命勝利の第一条件にしていたことが、ここペトログラードで実現されたのである。10月革命の特徴は、幸運な事情の組み合わせで、プロレタリアートの前衛が、公然と叛乱をおこす寸前で、首都の守備軍を革命側に獲得したことであった。10月革命に力学というものがあるとすれば、この兵士との結合の効果であった。レーニンも10月25日の夜になってはじめて、進攻している革命がスムーズにいっていることを納得して気持ちを落ち着けた。

 10月25日午後8時半、冬宮攻撃が始まり、午前2時10分、臨時政府閣僚全員逮捕で終わった。臨時政府は、完全に打倒された。同じ25日午後10時40分、第二回全国労・兵ソヴェト大会が開かれていた。26日午前3時10分、再開された大会は、「全権力をソヴェトへ!」は実現されたことを宣言した。こうして10月革命はペトログラードで完全に勝利したのである。これは明らかにボリシェヴィキのクーデターの勝利だった。眠れない夜が明けて翌朝になった。

 政府を組織しなければならなくなった。「何と名づけようか」とレーニンが口火を切る。「ただし、『大臣』はだめだ。醜悪で使い古された言葉だ」。トロツキーはこう発言した。「『コミッサール(委員)』ではどうでしょう。ただし、今やコミッサールはあまりに大勢いるので、最高コミッサールではどうでしょうか。…いや、『最高』は響きがよくないから、人民委員ではどうでしょうか」「人民委員か。それはいいかもしれないな」とレーニンが同意した。「それでは、政府全体は何と呼ぼうか」「「会議」もちろん会議にきまっています。…人民委員会議ではどうでしょう」「人民委員会議か」と、レーニンはトロツキーの言葉を引き継いで言った。「そりゃ、すばらしい。実に革命の匂いがするじゃあないか!」

 党中央委員会の会議で、レーニンは、トロツキーを人民委員会議の議長に指名することを提案した。トロツキーは即座に立ち上がって、異議を申し立てた。それほどこの提案は、唐突で不適当なものだと思われた。レーニンは頑として譲らなかった。「なぜ、いけないんだ。君は権力を奪取したペトログラード・ソヴェトの議長だったじゃないか」。トロツキーは、討議抜きで、この提案を退けるよう申し出た。そして、問題はそのように処理された。

 権力の獲得は政府内における自分の職務という問題をも提起した。トロツキーは、このことを今まで一度も考えたことがなかった。そのため、この問題は、トロツキーに不意打ちをくわせたのである。

10月革命の後、レーニンは、憲法制定会議の問題を持ち出した。2月から10月の間、臨時政府もソヴェトも、新憲法を起草するための伝統的な民主的手続きである憲法制定会議を要求していた。そして、11月12日が選挙の日と決定された。そして、レーニンもその選挙をあえて取り消そうとは望まなかった。あるいは、取り消せるほど自分が強力であるとは思わなかった。革命後、レーニンはこの選挙を延期しなければならないというようになった。18歳以上にまで選挙権を拡大しなければならないから、新しい選挙人名簿を作らなければならないというのだ。これには反対意見が多かった。レーニンは、臨時政府に関する限り、憲法制定会議は一歩前進だが、ソヴェト権力に関しては一歩後退だと言った。左翼社会革命党がボリシェヴィキと共同戦線を行ったとしても、ボリシェヴィキは少数であることが分かっていたからである。レーニンは憲法制定会議を解散しなければならないと思っていた。左翼社会革命党も解散に同意した。

選挙民が圧倒的に農村的であったことから予想されたように、投票の結果は、絶対多数がエス・エルのものとなり、520議席中、267議席を占めた。ボリシェヴィキは161議席を得、残りは多数のグループからなっていた。1918年1月5日に議員が集まったとき、労農政府はペトログラードに確固としてうちたてられており、2か月前の農村地帯の混乱した気分を代表するような団体のために、この労農政府が退位するなどとは考えられなかった。この会議は多くのとりとめのない熱弁を拝聴して、その夜遅く閉会した。そして、政府は、この会議の再開をソヴェト権力によって実力で阻止した。これは、決定的瞬間であった。ロシア革命は、ブルジョア形式的民主主義の慣習に背をむけたのである。プロレタリア独裁への移行の準備の時期に、デモクラシーは最高の批判の基準、最後の逃げ場所、冒すべからざる神殿になったのである。それこそは、ブルジョア社会の最後の偽善であった。こうして、ブルジョア民主国家は崩壊した。デモクラシーを支持するちょっとした哀れむべきデモがあったのみだ。

革命後、トロツキーは、政府の外にとどまろうとし、党の機関紙の指導を引き受けたいと申し出た。勝利後の精神的な疲れも、そうしようとした原因かもしれなかった。彼は困難で危険な手術を終えた外科医のような気分であった。手を洗い、白衣を脱ぎ、休息したかった。レーニンは隠れ家から到着したばかりだった。そこで、レーニンの復帰と自分の疲労との時期が重なっていたことが、短い間でも舞台裏に引っ込みたいという願望をかきたてた。しかし、レーニンは、今は、反革命との闘争こそ主要な課題だ、と言って聞き入れなかった。内務人民委員に就任することを求めた。とっさに、トロツキーは自分の出自がユダヤ人であることを述べた。「出自がユダヤ人であるというような、余計な武器を敵の手に渡す値打ちがあるだろうか」と言った。これにたいし、レーニンは、ほとんど憤激せんばかりに言った。「われわれは偉大な国際的革命をやっているのだ。そんなくだらない事柄に、どんな異議があるのか」とたしなめた。

 トロツキーはスヴェルドロフをはじめ、何人かの中央委員の支持を得た。レーニンは少数派だった。彼は肩をすくめ、ため息をつき、非難するように軽く頭を振って、どこの官庁にいようと、反革命と闘うことに変わりがないと考えて何とか納得した。しかし、トロツキーが機関紙の世界に移ることは、スヴェルドロフは断固として反対した。「そこにはブハーリンを据えよう。レフ・ダヴィドヴィチはヨーロッパに向けるべきだ。外交問題を引き受けてもらおう」と言った。「いったいどんな外交問題が今われわれにあるというのかね」とレーニンは異議を唱えた。しかし、レーニンはしぶしぶ同意した。トロツキーも、しぶしぶ同意した。こうして、スヴェルドロフの提案によって、5か月間、ソヴェト外交の先頭に立つことになった。トロツキーは協力を申し出た同志に、次のように答えている。「われわれにどんな外交上の仕事があるというのかね。世界各国の人民に向けていくつかの革命的声明を出したら店じまいするよ」。もちろん、トロツキーは、自分の立場をわざと誇張し、現在の重点が外交にあるわけでは全然ないということを強調したかったのである。

 主要な仕事は、10月革命をさらに発展させ、それを国全体に広げ、ケレンスキーやクラスノフ将軍のペトログラード進攻を撃退し、反革命と闘うことであった。

 最初の時期には、およそ1918年8月頃まで、トロツキーは、人民委員会議の全般的活動に積極的に参加していた。レーニンは、経済、政治、行政、文化のあらゆる側面に法令によって性急に応えようとしていた。官僚的な規制にとりつかれていたのでなく、党の綱領を権力の言葉で展開しようという願望に動かされていたのである。各種の法令がどの程度機能するかも分からなかったが、行政的な意味以上に宣伝的な意味をもっていた。

レーニンは、こうした新しい権力が何であるか、それは何を望んでいるのか、その目的をどのようにして実現しようとしているのかを、人民に急いで伝えようとしていた。彼は、見事な粘り強さで問題を次々処理し、会議を招集し、専門家に問い合わせ、自分で各種の本を読みあさった。トロツキーは彼に力を貸した。レーニンには自分の遂行している仕事が後世に受け継がれるというきわめて強い確信があった。偉大な革命家である彼は、歴史的伝統の意義を理解していた。われわれが権力を持ちこたえられるのか、それとも打倒されるのかを予測することは不可能だった。いずれにせよ、人類の革命的経験をできるだけ明確にしておく必要があった。いずれは、他の人が来てわれわれが計画し、開始した事業に依拠して、新たに前進するであろうことを期待していた。最初の時期における立法活動の意味はこのようなものであった。同じ理由から、レーニンは、社会主義および唯物論の古典をできるだけ早くロシア語で出版することを要求した。

 人民委員会議は、最初の時期は、その都度、メンバーを更新することがしばしばあった。何もかも始めからやらなければならなかった。「先例」を見つけることは不可能であった。レーニンは、人民委員会議を5、6時間ぶっ通しで根気よくつとめたが、人民委員会議は、当時、毎日開かれていたのである。様々な問題が、通例、準備もなく、ほとんど常に緊急事項として提出された。会議が始まるまで、問題の本質が人民委員会議のメンバーにも議長にも分かっていないことが多かった。討議はいつも短く圧縮して、報告も10分程度とさだめられていた。それでも、レーニンは、いつも必要な進路をさぐりあてた。彼は時間を節約するために、短いメモ用紙を会議参加者に回し、あれこれの問題について問い合わせた。これらのメモは、人民委員会議の立法方法において書簡の要素がきわめて広範囲できわめて興味深い役割を果たしていたことを物語っている。レーニンは、頃合を見て、常に意識的に、単刀直入な言葉で表現された決議事項を読み上げた。それで、討議は、完全に終わるか、または実際的な提案の具体的な検討に入るかした。レーニンの「諸項目」はたいてい法令の基礎となった。

 こうした仕事を進める上で必要なのは、創造的想像力である。人間や事物や現象をありありと想いうかべる能力にあった。これこそ、特に、革命の時期において、立法者、行政官、指導者に必要な想像力である。レーニンの強みは、主としてこの現実的想像力にあった。スモーリヌイ時代の荒々しい混沌とした時期の法令は、新しい世界の宣言として永久に残るだろう。その間に、内戦、食糧、輸送などの具体的課題が、ますます前面に出てきた。それで、これらすべての問題について、各種の特別委員会が設置された。それらの委員会は、まず、新しい課題を直視し、問題の入口で足踏みしている官庁を動かさなければならなかった。数か月の間、トロツキーは、こうした一連の委員会の先頭に立つことになった。輸送委員会、出版委員会、食糧委員会、その他多数の委員会がそれであった。

 

10 ブレスト=リトフスク講和交渉

 

 トロツキーは、革命直後には初代の外務人民委員として、次いで、陸海軍事人民委員として活躍した。しかし、革命の進行は、トロツキーの事情を待ってはくれなかった。レーニンは、最初、内務人民委員を提案したが、断られたため、外務人民委員を薦め、トロツキーが引き受けたことになっている。

平和に関する布告が10月26日のソヴェト大会で採択されたとき、ロシアが掌握していたのはペトログラードだけであった。11月7日にトロツキーは無線電話を通じて、協商国および中欧諸帝国(ドイツ、オーストリア=ハンガリー)に全面講和の締結を提案した。これにたいし、協商国側の諸政府は、ロシア軍総司令官ドゥホーニン将軍に、ロシアが単独交渉の道をこれ以上進むならば、「きわめて重大な結果」を招くであろう、と通告してきた。トロツキーはこの脅迫にたいして、すべての労働者、兵士、農民への呼びかけをもって答えた。11月22日に、バルト海から黒海にいたる全戦線における停戦協定に調印した。そして、あらためて協商国側にたいし、われわれとともに講和交渉を行うよう提案した。回答はなかったが、もはや脅迫もされなかった。協商国の諸政府も、何事かを理解したようであった。

講和交渉は、平和に関する布告が採択されてから1か月半後の12月9日に開始された。ソヴェト政府の代表団は、冒頭で民主的講和の原則に関する綱領的声明を出した。相手側は、会議の中断を要求した。会議の再開は先へ先へと延期された。四国同盟(ドイツ、オーストリア=ハンガリー、ブルガリア、トルコ)の代表団は、ソヴェト政府の宣言にたいする回答を作成する際に、あらゆる種類の困難を内部で経験していた。12月25日に回答があった。四国同盟の諸政府は、講和の民主的定式、すなわち、民族自決の原則にもとづく無併合、無賠償の講和という定式に「賛成」した。

ロシアの大衆は、ドイツの回答を信用していなかったが、それでもこの回答を革命の巨大な道徳的勝利であると理解しようとした。翌日の朝、ロシア代表団は、ドイツ外相キュールマンが中欧諸帝国を代表して提示した法外な要求をもって、ブレスト=リトフスクから帰ってきた。「交渉を引き延ばすためには、引き伸ばし役が必要だ」と、レーニンは言った。トロツキーが、和平交渉を始めたのは、ドイツ、オーストリア、ハンガリーおよび連合諸国の労働者政党を立ち上がらせたいがためであった。このために、こちらは和平交渉をできるだけ引き伸ばして、ヨーロッパの労働者に、ソヴェト革命のおもな事実とその平和政策を理解させる時間をかせがなければならなかった。そこで、彼の強い要請によってトロツキーがブレスト=リトフスクに出発した。トロツキーにとって、今回は拷問を受けに行くような気分であった。自分とはまったく異質の人々の中にいることは、いつもぞっとさせたが、今回は特にそうであった。2月7日のブレストの会議ではもはや牧歌的なものは全くなく、トロツキーは過去を振り返って次のように述べた。「われわれは、ドイツおよびオーストリア=ハンガリーの公式の報道機関が、われわれに時期尚早のお世辞をふりまいたことを遺憾に思う。それは講和条約を成功裡に進めるにはまったく不必要なことであった」。この問題においても社会民主党は、ホーエンツォレルン家の政府およびハプスブルグ家の政府の影にすぎなかった。ハプスブルグ家に従属したマルクス主義者たちは述べた。社会民主党の指導者たちは、自発的にオーストリアとドイツの資本の鎖に自らを縛りつけるとともに、自国の政府がその鎖を力づくでロシア革命に押しつけるのを助けた。この紳士たちは、昨日まで、「インターナショナル」の同志だったのである。この時期を自覚的にくぐりぬけた人々は、たとえ政治情勢がどう変動しようとも、社会民主主義が歴史的には死んだことを、最終的には理解した。

 トロツキーはこの機会に、重要な問題での見解の相違は、ずっと以前から知られているばかりか、戦時中にトロツキーにたいして欠席裁判で禁固刑の判決をくだしたドイツの法廷によって証明されていることを指摘した。場所柄をわきまえないこのような指摘は、最大級の無礼なふるまいという印象を与えた。高官たちの多くは息をのんだ。ドイツ側のホフマン将軍は答えた。「いや、もうたくさんだ。」欺瞞的な友好関係は、素っ気ない、公式のものに変わった。交渉は長期化の構えをみせ始めた。会議はしばしば中断し、中断はときには数日間も続いた。12月25日、ドイツ外相のキュールマンの提案で、ドイツによるポーランド、リトアニア、バルト海沿岸およびフィンランドの占領は、民族「自決」の一形態にほかならないことを証明しようとした。ドイツ側のこのような高圧的な態度の秘密は、キュールマンが、たぶん、ソヴェト政府側が彼と調子をあわせるつもりでいるとあらかじめ固く信じていたことにあった。ボリシェヴィキは平和を求める闘争のおかげで権力を獲得した。彼らが権力を維持することは、講和条約という条件のもとにおいてのみ可能である。彼はどんなことがあっても、12月25日の民主的原則を手放そうとしなかった。

 その頃、ソヴェトの革命軍は、順調にウクライナ地方に進み、ドニエプル川の進路を切り開きつつあった。そして、ソヴェト軍はキエフを占領した。トロツキーはレーニンから届いた無線電報を示した。そこでは、ソヴェト軍が1月29日キエフに入ったこと、見捨てられたラーダの政府は行方をくらましたこと、ウクライナ・ソヴェト中央執行委員会が国の最高権力として宣言し、キエフに移ったこと、ウクライナ政府は、ロシアとの連邦関係および内外政策において完全な一致を承認したことが述べられていた。

 ロシアの前線の兵士たちは、この戦争を続ける理由はなかった。彼らは家に帰りたかった。家族のもとへ、土地へ、そして彼らに土地と自由を約束した革命へ帰りたかった。条件つきにでもあえて戦争を続けることをいう兵士はいなかった。どんなことがあっても平和、ただ平和であった。兵士は群れをなして塹壕を放棄した。戦争の継続が不可能であることが明らかであった。ロシア側がこれ以上戦争することができないことが分かっていた。革命戦争の不可能性ということについて、トロツキーとレーニンの意見の相違は少しもなかった。二人は、ブハーリンをはじめとする「革命戦争」の使徒たちを、同じような困惑をもって見ていた。

 しかし、これに劣らず重大な問題があった。ドイツ政府はまだ戦うことができるのだろうか。革命になったらから戦争をやめたのだが、その一度やめた革命を、ドイツ人は攻撃し始めるだろうか。どうすれば、ドイツ兵士の精神状態を発見することができるだろうか。どこまでわれわれにたいする戦争に深入りできるのかということだった。ドイツにおける1月ストライキは分裂が、すでに始まりかけていることを示していた。だが、そのエネルギーはどのくらいあるのか。一方において、労働者革命は、戦争はすんだということを宣言した。他方においては、ホーエンツォレルン家は、平和を望んでいる革命にたいして、攻撃をかけよと命令している。2月革命および10月革命は、ドイツの兵士にどのような影響を与えたのだろうか。これらの問題には、まだ、答えがでていなかった。答えは交渉の過程で見つけるほかなかった。そのどちらかを選べと、ロシアはドイツの労働者と人民に呼びかけねばならないのではないか。だが、そのためには、交渉をできるだけ引き伸ばすことが必要であった。ヨーロッパの労働者に、ソヴェト革命という事実そのもの、特に、その平和政策を十分に理解する時間を与える必要があった。

ドイツの社会民主党反対派の中にも、ボリシェヴィキが、ドイツ政府によって買収され、今、ブレスト=リトフスクでやっているのは、ホーエンツォレルン家との闇取引で筋書きどおりの喜劇にすぎないという噂が流れていた。この物語は、フランスやイギリスではもっとよく信じられている。したがって、トロツキーは、単独講和に調印する前に、たとえ調印がわれわれにとってまったく避けられないものであるとしても、ソヴェト政府とドイツ支配層との間に不倶戴天の敵対関係が存在することの明白で疑う余地のない証拠を、ヨーロッパの労働者に示すことがどうしても必要であると考えた。

こうした考えにもとづいて、トロツキーは、次のような定式に表現される政治的デモンストレーションを行うことを考えついた。すなわち、「われわれは戦争を中止し、軍隊を復員させるが、講和には調印しない」というものである。もし、ドイツ帝国主義が、わが国に軍隊を向けることができない場合には、それは、計り知れない結果をもたらす巨大な勝利を、われわれが得たことを意味する。だが、たとえ、ホーエンツォレルン家に、まだ、わが国に攻撃を加える能力があったとしても、われわれはいつでも手遅れになる前に降服することができるだろう。トロツキーはカーメネフをはじめとする代表団員と相談し、彼らの同意を得た上で、レーニンに手紙を書いた。レーニンの返事は、君がモスクワに帰ったときに相談しよう、というものであった。レーニンは、トロツキーにたいして次のように応酬してきた。このときのレーニンとトロツキーのやり取りは次のとおりである。

 

《「もしホフマン将軍がわが国に軍隊を差し向けるだけの力がないのであれば、大いに結構なことだし、それに越したことはない。しかし、そうなる見込みはほとんどない。ホフマンは、バイエルンの富農から特別に選抜した連隊をわれわれに差し向けるだろう。それに、わが国を攻撃するのに大部隊が必要だろうか?君自身が塹壕の中は空っぽだと言ったではないか。そういうときにもしドイツが戦争を再開したら、どうなるのか。」(レーニン)

「その場合、われわれは講和に調印せざるをえなくなるでしょう。しかし、その場合には、われわれには他に活路がないということが誰の目にも明らかになります。このことだけでも、われわれとホーエンツォレルン家とのあいだに秘密の関係があるという作り話に、決定的な打撃があたえられるでしょう。」(トロツキー)

「もちろん、その案には、それなりの長所がある。しかし、それはあまりにも危険すぎる。もし、われわれがドイツの革命の勝利のために破滅しなければならないとしたら、われわれはそうするべきだろう。ドイツ革命は、わが国の革命よりはるかに重要だからである。しかし、それがいつ起こるのかは、誰にもわからない。今のところはわが国の革命よりも重要なものは何もない。何が何でも、わが国の革命を危険から守らなければならない。」(レーニン)》            『わが生涯』 トロツキー著 森田成也訳

 

問題そのものが難しかったのに加えて、党内事情も極度に困難であった。党の指導者層の間には、ブレストの講和条約に調印することに反対する非妥協的な態度が支配的だった。ロシアの新聞に掲載されたブレストの講和交渉に関する速記録が、そのような気分を助長し、先鋭化させた。それは、革命戦争というスローガンを提起していた左翼共産主義グループの中に、最もはっきり現れていた。党内闘争は日毎に激化した。この事情が、レーニンをひどく当惑させた。闘争はのちに広められた伝説に反して、トロツキーとレーニンの間ではなく、レーニンと党の指導組織の圧倒的多数との間で起こった。

この闘争の基本的な争点は、次の二点であった。第一の問題は、革命の運命にかかわるものであり、革命政権が、現在、「革命戦争」をおこなうことができるかということであり、革命の軍事的敗北の危険より、党の分裂のほうがまだましだ。第二の問題は、一般に、革命政権が帝国主義者と協定を結ぶことは許されるのかというものであった。この二点について、トロツキーは、全面的にレーニンの側に立った。彼とともに、トロツキーは第一の問題については「できない」と答え、第二の問題については「許される」と答えた。意見の相違に関する最初の、より広範な討議は、1月21日に党労働者活動家の集会で行われた。この三つの見解が明らかになった。

@       レーニンは、交渉をさらに引き延ばすよう努力するが、最後通牒をつきつけられた場合には、ただちに即時署名に賛成するよう主張した。

A       トロツキーは、ドイツの新たな攻勢という危険を冒しても、交渉を決裂にまでもっていくことが必要であり、もし降伏しなければならないとしたら、すでに相手の公然たる武力行使に直面した後でなければならないと考えていた。

B       ブハーリンは、革命の舞台を広げるための戦争を要求していた。

レーニンは、革命戦争の支持者にたいして、きわめて激しい闘争を行ったが、トロツキーの提案については、思慮深くおだやかに批判を加えただけであった。レーニンは、彼の不機嫌をかくして和解したように見せた。革命戦争の支持者は32票を獲得し、レーニンは15票、トロツキーは16票集めた。投票のこの結果は、党内の支配的な気分を十分反映していなかった。党の上層部の中では「左翼」は、この集会におけるよりもはるかに強力であった。トロツキーの定式が一時的に勝利したようにみえたのは、党が明らかに署名反対であり、その中間の解決法というものが、署名への橋わたしになるかもしれないと思われたためであった。レーニンは、最終決定を延期することが、自分の見解の勝利を保障するものだとみなしており、事実そのとおりであった。党と国家のすべての指導機関の中で、レーニンは少数派であった。

人民委員会議が、戦争と講和に関する意見を表明するよう地方ソヴェトに提案したのにたいして、3月5日までに200以上のソヴェトが回答を寄せてきた。これらのソヴェトのうち講和に賛成したのは、二つの大きなソヴェト(ペトログラード、条件つきでセヴァストーポリ)だけだった。これにたいして、多数の大きな労働者の中心地(モスクワ、エカテリンブルグ、ハリコフ、エカテリノスラフ、イワノヴォ・ヴォズネセンスク、クロンシュタットその他)は圧倒的多数の票決で、交渉決裂に賛成を表明した。それが党組織の全体的な気分だった。左翼エス・エルについては言うまでもない。この時期に、レーニンの見解を実行に移すことは、党を分裂させるか、クーデターをおこすかしない限り不可能であった。にもかかわらず、レーニンの支持者の数は、日毎に増大した。このような状況の中で、「戦争でもなく、講和でもない」という定式は、客観的にはレーニンの立場への架け橋だった。この橋を党の大多数がうなだれて渡ったのである。

1月22日の中央委員会の決定的な会議で、トロツキーの案は採択された。すなわち、交渉を引き延ばし、ドイツ側が最後通牒をつきつけてきた場合には、戦争の中止を宣言するが、講和には調印せず、そのあとの情勢に応じて行動するというものだ。2月10日、トロツキーは、戦争は終わったが、講和は存在していないと相手側に宣告した。

ドイツおよびオーストリア=ハンガリーの代表団は、「トロツキーの声明で提案された

状態は、受け入れざるを得ない」という結論に達した。相手側の雰囲気の反響を察知して、代表団は、ドイツ軍は攻勢に出ないという印象を抱いて、ブレストからモスクワへ帰った。レーニンは、「彼らは、われわれをだまさないだろうか」と尋ねた。トロツキーは、不確かな返事をした。彼らが偽るようには思えなかった。レーニンはそれに満足した。

だが、1週間の休戦期間が切れる2日前、トロツキーはブレストにとどまっていたサモイロ将軍から、電報による知らせを受けた。ホフマン将軍の言明によれば、ドイツ軍は、2月18日12時以降、ソヴェト政府との戦闘状態に入るものであり、サモイロ将軍にたいしてブレストから退去するよう提案してきたとのことだった。

レーニンは、「今となっては以前の条件で調印するしかない。それもドイツが前の条件のままで同意すればの話だ。」トロツキーは「この攻撃が事実であり、単なる脅しではないことをわからせるためには、ホフマンに実際の攻勢を開始させなければならない」と従来どおり述べた。「いや、いかん」レーニンは反対した。「こうなれば、1時間も無駄にしてはならない。実験はすんだのだ。ホフマンは戦いがっているし、戦うことができる。条約の調印を引き延ばすことはできない。この獣はすばやく跳びかかってくるだろう」。

2月17日にレーニンは、中央委員会の会議で次のような予備的な問題を票決にかけた。「もしドイツの攻撃が現実のものとなり、しかもドイツ国内における革命的高揚がやってこない場合、われわれは講和条約を締結すべきであろうか」。ブハーリンと同意見者は棄権をもって答え、クレスチンスキーは彼らに同調して投票した。また、ヨッフェは反対の票を投じ、レーニンとトロツキーは賛成の票を投じた。その翌朝、トロツキーは、講和条約調印の用意があるという電報をただちにドイツに打つという、レーニンの提案には反対票を投じた。

だが、2月18日にドイツ軍はその日のうちに攻勢を開始し、全戦線にわたって攻撃に転じた。数日のうちに、ドイツ軍は、ラトヴィアとエストニアを占領し、ロシア軍の軍事物資を奪い、ウクライナと白ロシアのかなりの地域を占領した。ソヴェト権力が帝国主義者の砲火のなかで壊滅する脅威が現実的になってきた。その晩には、トロツキーは、ドイツに電報を打つというレーニンの提案に賛成の投票をした。今や、すでに、ドイツ軍が攻撃を開始したという事実が、全世界に知られているということに、疑う余地がなかったからである。

 

《レーニンとトロツキーは二人きりで話した。「私は外務人民委員を辞職したほうが、政治的に都合がよさそうだと思うのですが」「なぜだ。そんな議会主義的な方法をもってきたくはないよ」「だが私がやめると、ドイツ人に、われわれの政策が急に変わったような印象を与えるでしょう。そしてそのことはわれわれが本気で署名し、条約をまもると彼らに信じさせるでしょう」レーニンは考え深そうにいった。「おそらくそれは重大な政治的論点だね」》              『レーニン』 トロツキー著 松田道雄訳

 

2月21日、ソヴェト政府は、ドイツの新しい講和条件を受け取ったが、それは講和の締結を不可能にすることを、意図的にねらったとしか思えないようなものであった。ロシアの代表団がブレストに到着したときには、条件はさらに苛酷になった。ウクライナとフィンランドの事態の進展は、戦争の側におおきく傾いた。1時間ごとに悪い知らせが届いた。ドイツ軍がフィンランドに上陸し、フィンランド労働者にたいする弾圧が始まっているという報告が届いた。レーニンはひどく興奮していた。フィンランドの労働者を犠牲にしても、レーニンは降伏の道を最後まで進むことを決意していた。レーニンは、中央委員会で過半数を得ておらず、決定はトロツキーの一票にかかっていたので、レーニンが反対を一票上回る過半数を確保できるように棄権した。トロツキーは、もし、降伏が講和をもたらさない場合には、われわれは、敵によって押しつけられた、革命の武装防衛の中で、党の戦線を整えるだろう、と論じた。状況は実際に悲劇的であった。革命は進退きわまっていた。

 3月3日、ソヴェト政府代表団は、講和条約を読みもせずに、それに調印した。3月21日、条約はドイツ帝国議会によって批准された。

とはいえ、この時期のトロツキーにこの任務がふさわしかったかどうかは分からない。というのは、この間のブレスト=リトフスク講和交渉で、彼は「戦争もせず、講和もせず」と宣言し、ドイツとの交渉を打ち切り、その結果、ドイツ軍の再進撃を誘発するような言動をとった。この講和交渉でのトロツキーの任務は、何よりも憲法制定議会の結果待ちと交渉引き延ばしにあった。ドイツ革命への期待があったからである。一方の、憲法制定議会では、ボリシェヴィキは少数派であることが明白になったため、制憲議会を暴力的に解散した。ドイツの革命も思いどおりにはいかなかった。そこで、この講和交渉には、いろいろな見解が錯綜した。革命戦争を継続するというのがブハーリンで、「講和もせず、戦争もせず」のトロツキー、そして、講和批准を急いだのが現実主義者のレーニンだった。

結局、レーニンの線に落ち着くことになった。この条約のおかげで、ボリシェヴイキは、帝国主義干渉戦争への準備のための時間をかせぐことができた。だが、その代償に、ポーランド、リトアニア、ラトビア、白ロシア、大ロシアの相当部分がドイツ軍に占領された。ウクライナはオーストリアとドイツの植民地になった。このような経緯からトロツキーの外務人民委員の在任期間は、わずか5か月たらずであった。トロツキー方式によって、より屈辱的な講和を結ばなければならなくなった、という思いが党内に強く残った。 

 

11 赤軍建設

 

 ブレスト=リトフスク講和条約の調印は、トロツキーの外務人民委員辞任の発表から、政治的意味を奪い去った。ロンドンからチチェーリンが到着し、トロツキーの代理となった。3月13日になってようやく、トロツキーの外務人民委員の辞任が発表された。それと同時にトロツキーは、軍事人民委員および設置されたばかりの最高軍事会議の議長に就任した。こうして、レーニンは目的を達した。彼は、ブレスト講和における意見の違いをめぐって出されたトロツキーの外務人民委員辞任の申し出を利用したが、それは、もっぱら、状況において形を変えたものの、自分の当初からの構想を実現するためであった。国内の敵が陰謀から軍隊へと戦線の形成へ方向転換したので、レーニンは、トロツキーが軍事の先頭に立つことを望んだ。トロツキーはそれにたいして、異議を唱えようとした。「それじゃ、誰にやらせるんだ。名前をあげてくれ」と、レーニンは強く迫った。よく考えた上でトロツキーは承諾した。

 職務の交替は、政府所在地の移動と時期が重なった。1918年3月12日に、政府はペトログラードからモスクワへ移った。トロツキーがモスクワに到着したのは、軍事人民委員に任命された翌日のことだった。

トロツキーは、軍事活動にたいする準備はできていたのだろうか。もちろん、できていなかった。トロツキーはツァーリの軍務に服務したことさえなかった。トロツキーが軍事問題に取り組むようになったのは、バルカン戦争中、数か月のあいだ、セルビア、ブルガリア、その後、ルーマニアですごしたときからであった。しかし、そうした取組みはすべて、問題を純粋に軍事的に扱ったものではなく、政治一般の事柄として扱ったものだった。世界大戦を含めて一般に、すべての問題を軍事問題に近づけたが、問題になっているのは、何よりも政治の延長としての戦争であり、その道具としての軍隊であった。軍事の組織的、技術的問題は、トロツキーにはまだ重要なものではなかった。そのかわり、兵営、塹壕、戦闘、野戦病院における軍隊の心理学に、トロツキーは大いに興味をもった。このことはあとで非常に役立った。トロツキーの場合、旧軍隊の遺物を完全に一掃し、その代わりに、まだ、設計図がどんな本にも書かれていない新しい軍隊を戦火のもとで建設することであった。

 トロツキーは自分を戦略家だと少しも思わなかったが、革命によって党内に生じた戦略的ディレッタンティズムの洪水を許す寛容さを、少しももっていなかった。デニーキンとの戦闘、ペトログラードの防衛、ポーランドのピウスツキの戦争において、独自の戦略的立場をとり、それを主張して、あるときは司令部と、あるときは中央委員会の多数派と争った。しかし、それらの場合でも、戦略的立場を決定したのは、純粋に戦略的な観点ではなく、政治的・経済的な観点であった。ただし、高度な戦略的問題は、それ以外のやり方では解決できない、といわなければならない。

軍事人民委員部はクレムリンの外にあったが、そこで、トロツキーは、単に、軍事の仕事だけでなく、党活動や著述活動などを含めて、大部分の仕事を行った。仕事は多忙をきわめた。軍事関係の仕事は、時間の主要な部分を占め、その部分は、時とともにますます大きくなっていった。トロツキー自身が、仕事を初歩から学ばなければならなかっただけに、なおさらそうせざるをえなかった。技術や作戦の分野では、何よりもまず、しかるべき人物をしかるべきポストに据え、彼らにそれぞれの力量を発揮させることを、自分の任務とみなしていた。軍の創設における政治的、組織的な仕事は、党の仕事と完全に一体化していた。このやり方でしか成功の可能性はなかった。

しかし、トロツキーが国際干渉戦争で果たした役割は、歴史的に偉大なものであった。彼は、軍事戦略家でもなければ、軍事の専門家ではなかったが、軍事専門家の意見によく耳を傾け、適格な判断を下して、味方を勝利に導いた。内戦は、トロツキーを人民委員会議の仕事から引き離した。彼は、1920年まで2年半、機関車にのってウクライナ、ボルガ、スモレンスク、ロストフ・ナ・ドヌー、ペトログラードなど危機的な戦場や重要作戦の現場をかけめぐった。トロツキーの列車が来るというだけで、疲弊した労農赤軍は、元気を取り戻したといわれている。この列車には、自動車や大砲、武器、医薬品、パンフレットが積まれ運ばれた。また、内部には図書館や電信・電話局、浴室などが設けられていた。 

 トロツキーの軍隊観は、プロレタリア革命の成功のためには、当然、プロレタリアの軍隊を持たねばならず、それを一歩進めて、全人民の武装にまで到達しなければならないという信念が、一貫していた。この考えは、レーニンの『国家と革命』にかかれたコミューンの軍隊観の延長線上にあった。1918年1月15日の布告によって、ソヴェト労農赤軍が創設され、その役割は次のようになっていた。「ソヴェト権力の砦となり、近い将来において常備軍を全人民武装によって取り替えるための礎石となり、ヨーロッパにおける来るべき社会主義革命を支援する」ということであった。つまり、あくまで、全人民武装への基盤となる過渡期の軍隊が労農赤軍であった。一方で、国内外の反革命と帝国主義軍隊の干渉と戦い、他方で、休戦と講和による旧ロシア軍の脱走兵の激増、戦闘意欲の衰退という内部崩壊を乗り越えるためには、一挙に全人民の武装を唱えることは、空論にならざるをえない。しかし、現存する軍隊の徹底的な民主化を行うため、まず、指揮官の選挙制がとられることで、軍隊内に動揺が広がった。こうして、旧軍隊を基礎とした新軍隊の建設が不可能であることから、ロシア革命の過程で生まれた志願兵制の赤衛隊の新たな編成がはじまり、1918年1月に、労働者=農民赤軍の正式名称が与えられたのである。

 全人民の武装にいたる核としての労農赤軍の特徴は、志願兵制、民主的諸組織の推薦という条件、月50ルーブリの給与、万一の場合、家族への補償などが決められた。しかし、この志願兵士の家族への物質的補償は、飢餓と貧困に苦しむ一般のロシア民衆にとって、きわめて特権的待遇だったことも事実であり、逆にいえば、そのような好待遇を保障しなければ、志願兵を集めることができなかったことを意味している。

 1919年3月の第八回党大会におけるトロツキーの軍隊建設のテーゼを見ると、全人民的民兵の実現はきわめて近い将来の歴史的時期に委ねると述べているだけであるが、決して、諦めたというわけではない。トロツキーは、志願兵制の労農赤軍は、旧軍隊の崩壊のなかで、戦闘能力のある部隊を創設する唯一の手段だと位置づけ、一方、民兵については、「可能な限り兵舎外で、つまり労働者階級の労働環境に接近した条件下で、義務軍事訓練を基礎とした労働者と貧農の軍隊建設」の必要を述べているにすぎない。

あくまで、トロツキーは、日常的労働環境にある労働者、貧農の非正規軍的軍隊化、つまり、労働しつつ軍事訓練にいそしみ、武器と補給を一手にまかないうる勤労人民軍の軍制化を構想し、また、この民兵軍は、軍事能力において、はるかに現兵士より優れていることの必要性を強調している。また、正規軍については、軍コミサールと兵士細胞の緊密な関係の重視と、旧帝制ロシア軍指揮官の採用も、コミサールを通じた確固とした中央集権的な党の政治統制のもとに行われることなどを主張した。

これにたいし、スミルノフら「軍事反対派」は、旧指揮官の採用や、帝制軍復活の可能性をもつ規律の確立に反対した。軍事問題に関する反対派は、すでに、赤軍創設の数か月の間に形成された。その基本的立場は、選挙制を擁護し、専門家の登用や鉄の規律の導入や軍隊の中央集権化等に抗議することに帰着した。彼らは、中央集権化した軍隊は、帝国主義国家の軍隊であると主張した。彼らによれば、革命は陣地戦を放棄するだけでなく、中央集権化された軍隊も放棄しなければならない。革命は全面的に運動性や果敢な突撃や機動性にもとづいているとされた。そして、その戦力は、少人数の独立した部隊であって、あらゆる種類の武器を組み合わせ、基地には束縛されず、住民の共感に依存し、自由に敵の背後をつくとされた。一言で言えば、革命の戦術は、小規模な戦争の戦術であると宣言されたのである。彼らの主張は抽象的であり、内戦の本格的な経験が、こうした偏見の誤りをすぐに証明した。中央集権化された組織と戦略の方が、地方的な軍事的分散主義や連邦主義より優れていることは、戦闘の経験によってあまりにも早く明白になった。

トロツキーは前線にいたため、この大会に出席できず、ソコロニコフが主報告を代行した。結局、両者間で妥協が図られ、トロツキーのテーゼは、棄権1票で可決された。

 この大会でのトロツキーのテーゼは、党の一元的統制下の軍隊建設が主軸となっており、全人民の武装は世界最強の軍隊と述べられているだけで、中間項の具体的プラン、たとえば、党支配と組織機関の民主主義との関係がほとんど、触れられずじまいであった。

 このようなトロツキーの構想は、国内戦の集結が目前に迫った1920年3月のロシア共産党第九回大会では、軍隊の労働化、労働の軍隊化の構想となって展開された。国家の政策が、防衛から国内の経済建設重視へと転換するなかで、厖大な赤軍兵士を産業へ転換しなければならない状況が生まれてきた。トロツキーはこの機会をとらえて、民兵制度への移行を主張したのである。

トロツキーは、従来の巨大な軍隊建設が、平時にはなかった労働力の引き抜きによって、戦時態勢をつくってきた。(彼は帝政ロシアの常備軍132万人が、戦時には700万人になったことを指摘している)つまり、「常備軍」は、国の経済発展と矛盾する。それにひきかえ、民兵制度が基本的に有利な点は、それが防衛と労働を分断せず、軍隊と労働者階級とを分離しないことである。

だが、トロツキーは、「だから民兵は安上がりですむ」という考えには納得しなかった。なぜなら、彼の構想では、民兵こそ最強の武器と戦闘力をもつ最新鋭武装集団でなければならないからである。文化水準が高く、また、最新兵器の補充と厖大な予備、貯蔵を行い、有事には迅速に軍隊として機能し、生産のマイナスを最小限にくいとめることが、近代軍隊の条件なのである。したがって、この軍隊と労働の合一のためには、指揮官すら産業配置に応じて分配され、彼らを経済生活に参加させ、労働組合機関に接近させなければならないと説明している。彼の提案した「民兵制度への移行に関するテーゼ」には、民兵制度の本質は、軍隊の生産過程へのあらゆる限りの接近というところに眼目があった。そのため、一定の経済地域における生きた人間の力は、同時に、一定の軍部隊の生ける人間の力になるという。だから、「民兵部隊(連隊、旅団、師団)は、自己の割り当て地域において、工業の地域的配置とパラレルになっていることが必要になる。

 これにたいして、トハチェフスキー、フルンゼなどの優れた赤軍指導者たちは、世界革命をめざす、帝国主義軍隊に勝るとも劣らぬ、最新鋭兵器で完全武装された赤軍の再組織を唱え、トロツキーの民兵移行論に激しく反対するようになる。トロツキーの民兵制への移行は、満場一致で採択されはしたものの、その構想は、国家の死滅、階級なき社会をめざすための全人民武装のビジョンを、理想のキャンパスに描いたものであり、ロシアの勤労人民の意識からは、はるかにかけ離れていると思われていた。こうして、軍隊の労働化、労働の軍隊化は、ネップという経済の大転換のなかで、次第に基盤を喪失していくことになったのである。

 

12 クロンシュタット叛乱

 

 1921年にクロンシュタット要塞で起こった叛乱は、ソヴェト政権下で起きた最初の大規模な人民叛乱であり、戦時共産主義の矛盾、国内戦の災厄が、集中的に現われたことを示していた。革命の栄光につつまれていたクロンシュタットの叛乱は、世界的な問題となった。革命後の現実は、労働者にとって、労働の軍隊化として現われ、労働者の民主主義は立ち消えになっていた。また、ボリシェヴィキの官僚化への叛乱の意味もこめられていた。

1921年2月には、モスクワの労働者ストとデモは、ペトログラードへ波及し、    3月1日には、15,000名の水兵、兵士、労働者の集会が、クロンシュタットでもたれるまでに盛り上がった。そこには、集会、結社、言論、出版の市民的自由、政治犯の釈放などのほか、ソヴェトが、真に労働者と農民の意思を体現していないことへの不満と是正要求がこめられていた。この叛乱は、3月18日ボリシェヴィキによって、残酷に弾圧された。ソヴェト側の死者は約1万人、叛徒側は死者600人、負傷者1,000人、捕虜2,500人を数えた。

 トロツキーは、軍事人民委員として化学兵器の使用、さらには、砲弾と気球による毒ガス攻撃さえ計画していたといわれる。事実、クロンシュタットの戦闘は、国内戦の最も流血の激しい戦争に匹敵した。叛徒たちが最も憎悪した指導者はトロツキーその人であり、「トレーポフの化身」、「流血の赤軍元帥」と罵られ、彼の肖像画は剥がされた。また、コミンテルンの議長ジノヴィエフも攻撃の対象になった。それは、この二人がユダヤ人であるがために、レーニンとは異なった憎しみを叛徒からかうことになったのだ。

バルト艦隊水兵には、反ユダヤの伝統の強いウクライナおよび西部辺境出身者が多かった。叛徒の指導部クロンシュタット革命委員会によれば、トロツキーは「彼自身のものとは異なる民族の」何千という罪なき人々の死に責任があるとされていたし、また、革命の受益者はロシア人労働者、農民ではなく、ユダヤ人そのものであると考えていた水兵も多かった。そして、ユダヤ人革命家がロシア人を牛耳っていると受け取り、攻撃してくるソヴェト軍に向かって、「ユダヤ人どもをうちのめすためにわれわれに合流せよ。われわれ労働者と農民が耐え忍ばなければならなかったのは、彼らの呪うべき支配なのだ」と呼びかけたりした。

叛徒の多くが軍服を着た反ボリシェヴイキの庶民であったが、ボリシェヴィキ側は、叛徒はメンシェヴイキ、エス・エル支持者、その背後に白衛軍の将軍そして国際反革命勢力の存在を指摘し、苛酷な弾圧の口実にした。攻撃の総司令官は、ロシアのナポレオンといわれた旧ツァーリ時代の名将軍トハチェフスキーだったが、彼もまたユダヤ人であった。

クロンシュタット要塞の叛乱の鎮圧は、トロツキーの構想の破綻を暗示するものであった。 スターリンによれば、氷上渡河作戦の決行は、融水が反革命の支援を可能にするため、「瞬時に、強力な、決定的な一撃を与えることを余儀なくされた」という。

 そして、また、この鎮圧の最高責任者として、亡命後のトロツキーには、厳しい非難が浴びせられた。後年、トロツキーが、スターリンの専横と敵対者の弾圧、粛清を外国から指弾したとき、彼もまた、背後からあびせられる「お前もスターリンと同類ではないか」という弾劾を受けなければならなかった。スターリンの圧制を批判するトロツキー自身が、スターリンの先駆者であったのではないか、とヨーロッパ、アメリカの知識人や200万人におよぶ亡命ロシア人たちは弾劾した。

1929年刊の自伝『わが生涯』には、クロンシュタット鎮圧の顛末はほとんど触れられていない。1937年7月6日、亡命先のメキシコのコヨアカンのトロツキーは、目的(革命ロシアの擁護)は、手段(クロンシュタット弾圧)を正当化できるか、という質問にたいして、次のように答えている。「手段が善であるのは、それによって自然の人間に対する支配力の増大および人間が人間に対する支配力の根絶がもたらされる場合である。この広い歴史的な意味においてのみ、手段は目的によって正当化される」。「すべての手段は、その目的の性質によって決まる。もし、その目的が人類の解放である場合には、虚偽、反逆、裏切りなどはけっして適切な手段であろうはずがない」。

ここには、肯定も否定もしていないトロツキーの言葉が捻じりだされている。そのため、目的(革命ロシアの擁護)そのものが、本来どういうものであらねばならないかの基本的な認識が欠けている。それは、もう一方で、大上段にふりかざされた革命ロシアの擁護などということは、小さな目的でしかなかったことを内省している自分がいるからだ。その擁護すべき革命ロシアとは、労働者、農民、水兵たち自体のことではなかったのか?

 トロツキーは、革命家は常に中傷されるが、その偽善的憤慨こそ、階級闘争の一つの武器だとし、クロンシュタットには、叛乱前夜、最良の革命水兵らは、島から撤退しており、残留していたのは、政治教育のない、革命への献身を忘れた大衆にすぎず、「叛乱は、特権的な食糧の割当てをえたいという欲望」から出たのであり、「この運動は反革命的性格を帯びており、しかも叛乱分子は要塞にあった武器を奪取したために、武器によって粉砕せざるをえなかった」と述べている。このような矮小な回答は、亡命ロシア人たちのトロツキー攻撃を一層盛んにした。そのなかには、ボリシェヴィキに失望し、海外に逃れた多くの旧革命家たちも含まれていた。そして、トロツキーにたいするこの背後からの攻撃をスターリン陣営は、興味深く傍観していたのである。

 翌1938年1月15日、再びトロツキーは、クロンシュタットを論じ、この叛乱は「労働者の都市とプチブルジョアの農村との諸関係における歴史的エピソードのひとつで、このエピソードは、革命中の階級闘争の全般的展開過程との関係でのみ理解できる」と述べ、即時鎮圧の緊急性は、首都ペテログラード管轄下の海軍要塞で生じた叛乱であったことによるものと強調している。そして、ロシア革命とは、農民にたいするブルジョアジーとプロレタリアートの影響力をめぐる激しい階級闘争であったとし、クロンシュタット・ソヴェト自体、過半数がエス・エルとアナーキストで占められ、ボリシェヴィキは半分以下、メンシェヴィキは一人もいなかったと述べた。そして、革命的クロンシュタットの意識水準は、1921年段階では、かなり赤軍の水準を下まわり、派手なベル・ボトム型ズボンをはき、スポーティな髪型をした、完全な堕落分子となっていたと述べている。つまり、叛徒が、決して革命的立場に立った、やむをえざる決起ではないことを強調している。トロツキーによれば、この叛乱は、「社会革命の苦難と、プロレタリア独裁の厳しさに対するプチブルジョアの武装された叛乱以外のなにものでもなかった」のである。

 このような考え方は、叛乱当時のトロツキーの言説から一貫している。鎮圧は当然だったし、むしろ、「発火した火を出火と同時に消しとめることが義務だと考え、それによって、犠牲者の数を最小限に抑えることができた」からである。ここで、トロツキーは、ほんの数年前、クロンシュタットが、臨時政府に反旗をひるがえし、いま、トロツキーが語ったと同じことを、ケレンスキーが語ったことを、無意識に隠そうとしている。わたし(たち)には、革命といえば、すぐ反革命を憎み、また、再び、革命、反革命の条件反射の生活を繰り返してきた職業革命家には、こういう自己撞着が分からなくなっている典型例を見るような気がする。

自分たちのやってきたことは革命的だが、クロンシュタットの水兵の連中のやったことは、単なる矮小な目的の個人的な叛乱にすぎない、その行動は、赤軍の教育より劣るなどという口ぶりをする人間を探そうと思えば、すぐ傍にいる。スターリンだ。クロンシュタットについて、あれこれ弁解がましいことを語っているトロツキーは、スターリンと同じ土俵に立っていた。この場合のトロツキーとスターリンが同じなのは、彼らの中で「革命」とか「反革命」とかいう言葉が、その日の出来心でクルクル変わるところにある。少し考えれば、ソヴェト革命が成功したのか失敗だったのかを、クロンシュタットの兵士の心の中をのぞきこんで判断できたはずなのに、彼らは、官僚的で事務的な事件対応しかできなかったのだ。革命は、こういう間歇的におきる「不平」、「不満」によって、その成否を量らざるをえないし、その以前に、そういう兵士や労働者の意見や不満を吸収する国家と社会のシステムをつくることが何より必要であったはずだ。ここにいるのは、ただ、すべてを穏便にすませたいための一心で、事務的な態度で、クロンシュタットの水兵にたいして、特権的な暴力を行使してみせた官僚でしかない。そして、形だけで祖国の革命を防衛しようとする保身の対応のみが残った。

このようなトロツキーの回答では、当然のことながら、アメリカ、ヨーロッパの知識人からトロツキーの責任の免罪をかちとることはできなかった。彼らの見解のなかでは、革命一般と暴力の限度、という観念的思考から、さらには、トロツキーの個人的責任を、どうやってとろうとするのか、という見解まで含まれていた。1938年7月6日、トロツキーは、「ふたたびクロンシュタットの弾圧について」の一文を書き、クロンシュタット弾圧の個人的責任について述べている。そして、政府の一メンバーとして、また、叛乱鎮圧は必要と考えていたがゆえに、鎮圧には責任があるが、「私個人はクロンシュタットの叛乱の鎮圧にもまったく関与していなかった」と述べている。さらに、トロツキーは、「クロンシュタット叛乱鎮圧の行き過ぎを非難されると、革命で行き過ぎを望まない人は、革命一般を拒否しうる、しかし、私には革命を拒否しないがゆえに、クロンシュタットの鎮圧については全面的な責任を負うものである」と述べている。まさに、人の生命より革命が先にあった。ここで、トロツキーは、強権的な鎮圧を悪ときめつける人は、はじめから革命を望んでいなかった。しかし、自分は革命を望んでいたがゆえに、善とも悪ともいいきれない立場であると言っているのである。

一体、トロツキーにとって革命とは何なのかという質問を浴びせたくなる。だが、ここでトロツキーがこの問題について、微妙な心の揺れを表明しているのは明白である。この叛乱は労働組合論争の中で発生したこと、トロツキーを激しくこの論争で批判していたジノヴィエフ当人が、クロンシュタットを管轄するペトログラード党委員会議長であったこと、また、弾圧の行き過ぎについては、ジェルジンスキーの管轄下にあったことなどを主張し、言い訳をしている。亡命先でスターリンの誹謗中傷を受けながら、スターリンにたいするとおなじ批判を受ける立場は、複雑な感情の起伏を感じさせるものがあった。

 

13 労働組合論争とネップ

 

 クロンシュタットの叛乱は、第十回党大会(1921年3月8日~16日)開催直前に勃発した。大会参加の代議員のうち、320名が大会途中で、叛乱鎮圧のため抜けだし、15名が戦死した。そして、この党大会はソヴェト共和国内に「全世界の資本家と帝国主義者に支援される敵の軍隊がいないという条件のもと」(レーニン)で開かれた。苦しい3年半の国内戦、第一次世界大戦から延べ7年間の戦争を経て、やっと戦争から抜け出した社会条件のなかにいたにもかかわらず、その矢先に叛乱がおきたことは、象徴的であった。政策は大転換しなければならなかった。

 この大会では、困窮農民の状態改善や労働者の救済措置が決議され、穀物の割当徴発は食糧税に代えられ、富農の育成が図られた。先進資本主義国の利権や、自由な商取引が認められた。いわゆる新経済政策(ネップ)への転換である。当時のロシアにとっては、生産力の早い回復と向上は、民衆の不満を解決する不可欠の課題であった。そして、この生産力向上のための新たな方法として、労働組合論争が起こったのである。

 新たな経済政策に即応した労働政策のあり方は、トロツキーにとっても重要課題であった。赤軍の建設者としてのトロツキーは、労働組合のあり方について独自の見解をもっていた。戦時共産主義は、革命国家の祖国防衛に一元化された絶対的、中央集権的な指導、統治のもとにおかれた厳しいメカニズムであったが、このような国民生活の軍事化ともいうべき桎梏からの解放要求は、1920年4月はじめの第九回党大会で、ピークに達した。

その際、本来の労働組合の姿が検討され、9月には、労働者反対派が姿を現した。もともと、労働者国家を前提に組織された労働組合は、当然、労働者の権利擁護と、反体制を主目的にした資本主義国の労働組合とは、性格を異にしている。しかし、この本質的相違の問題は、戦時共産主義という異常事態下では、論議される余裕がなかった。そして、内戦終了とともに、生産力の急速な回復を至上命題とされたこの時期に、労働組合のあり方が浮上してきたのである。戦時共産制の時期のトロツキーは、当然、経済と労働の軍事化の推進者であった。また、労働組合に関しては、党が国家機関を通じて労働組合を指導、支配し、労働組合独自の役割を否定し、その意味で、労働組合の民主制を無視した。もし、工業が労働者に必要な生産物を国家の保障に頼るとすれば、労働組合は国家による産業管理と生産物配分のシステムの中に組み込まなければならない。そこに、労働組合の国有化の問題の本質がある。この問題は、戦時共産主義体制をとる限り不可避にでてくるものであり、その意味でトロツキーは労働組合の国有化を擁護した。

 労働組合論争は、1921年11月、党中央委員会政治局のレーニンおよび全ロシア労働組合中央会議議長トムスキーにたいするトロツキーの論争が発端である。トロツキーは、労働の軍事化を要求し、そのモデルとして運輸(鉄道、水運)労働者の組合を挙げた。もし、レーニンがトロツキーと鋭く対立しなかったなら、労働組合論争は起きなかった。トロツキーのトムスキー批判が、中央委員会内部の怒りを呼び起こした。労働の軍事化のため、労働組合を揺さぶって再編し、労働組合の必要性の強調、労働組合の民主制、自立性を主張する労働組合グループを、トレードユニオニズムとかカウツキー主義等のレッテルを貼って、一喝するようなトロツキーの態度は、対立を感情的次元にまで高めて、亀裂を深め、結局、中央委員よりなる「緩衝グループ」まで組織せざるをえなかった。

 トロツキーの労働組合危機論は、労働組合の生産における地位と役割が、無規定、二重性となっており、労働組合機構と工業管理機構が並列的に存在している点、国家・経済機関と労働組合機関が相互に対立、強化されているため、労働組合内部に国家にたいする契約という態度が保持されていること、労働組合の重要問題は、党からの指示と国家からの組織的、物質的援助が必要である等、具体的な危機克服策を内容としていた。トロツキーはそれらの主張を、あくまで生産力向上のための労働組合のあり方として論じ、労働振興の内部転換を遂げた労働組合には、労働者民主制を広範囲に適用することを含めていたことである。生産民主制、勤労者の自立性、選挙制の可能な限りの広範な適用という原則と、労働の軍事化、重点主義との間にはいかなる矛盾もなかった。

軍事化はすべての意識的労働者および革命的農民の指導下でのみ実現できるからである、と考えるトロツキーは、赤軍建設の成功に学び、労働者の革命意識を過大に評価したといえる。彼は、生産をあげるための方法として軍事化を唱え、かつ、民主制導入は革命的意識をもつ労働者にとって当然と考えていたことは強調されねばならない。責任の明確化、つまり単独責任制や、規律強化、そして、上から下までの指令遂行型の生産のもつ一定の迅速化が、トロツキーの労働の軍事化構想であり、当面、最も必要とされるプランと信じられていた。ただ、この考え方からすれば、労働者国家での労働組合の役割は、生産増強という一面に限定されて考えられていたことはまぬがれない。したがって、労働民主制も、生産民主制であり、生産を至上目的にした限りでの民主制であった。そして、任命制などを含め、党の指導下の労働組合こそが、新しい労働者国家のあり方であるとしたのである。

 この労働組合論争は、第十回党大会(1921年3月8日~16日)で最終決着がつき、レーニンら9名の中央委員と労働組合委員会1名を加えた「10人政綱」が、圧倒的多数を得ることで、幕を下ろした。

この論争の結果をみれば、トロツキーの基本的構想をとおして流れているのは、党を、軍、労働組合を問わず、すべての国家機関の最上位におき、実質的な共産党独裁を志向するものであった。もちろん、軍隊の民主化、労働組合の民主的諸権利は、唱えられたが、この場合、まず、党の一元化志向のもとで、中央集権的民主主義の実現が、当然のこととして前提とされていた。

ネップを採用せざるをえない客観的経済状況と、それを渇望する民衆感情を考慮すれば、トロツキーの構想は、あまりにも国家機構に緊張関係を維持し続ける強権的な性格をおびているように映った。また、労働者の革命意識を過大評価しすぎていた。なぜ、トロツキーは、ストイックにさえ見える政策に固執したのか。それは、彼の「永続革命論」にもつながっており、つまり、「世界革命」に賭けたロシアの国家と社会は、「世界革命」を行うための、過渡的なあるべき姿を理想化する必要があった。そういう一面が、ロシアの民衆の意識から、次第に遊離していく原因になった。戦争は終わったと民衆は考え、本来の自由の実現と労働組合にも民主主義を享受しようとする意識は、トロツキーのこれから「世界革命」を目指す原則的な立場と、どうしようもなく齟齬をきたしはじめていた。トロツキーは常に、プロレタリア民主主義を語り、一党独裁の正しさを語り、他方では、農民やプチブルジョアの危険性に警告をしてやまなかった。トロツキーは、絶え間のない危機感におそわれながらも、いつのまにか、孤立感をつのらせていった。

 

14 レーニンの死

 

 レーニンは、1921年の終わり頃、健康状態が悪化した。彼は、時間のかなりの部分をモスクワ郊外の村で過ごすようになった。彼の健康状態は悪化しつづけた。1922年3月には、頭痛がひどくなった。しかし、医者はいかなる具体的な疾患もみつけだすことができず、長期の休養を指示した。そして、5月の初めに、彼は、最初の卒中に見舞われる。しかし、その後、一時、レーニンは健康を回復した。7月にはもう起き上がることができるようになった。10月に入ると、レーニンは、公式に仕事に復帰し、政治局と人民委員会議の議長をつとめ、11月には綱領的演説を行った。これは彼の血管組織にとって重い負担となった。レーニンの病気を機に、レーニンとトロツキーに隠れて、目に見えない陰謀の糸が張りめぐらされつつあることに、レーニンは感づいていた。

 

《実は、スターリンは、レーニンと近しく接触するようになってから、とくに10月革命後は、レーニンに対する陰にこもった、無力な、それだけにいっそう憤懣やるかたない反抗心を抱きつづけていた。彼は嫉妬深い巨大な野望を抱いていたにもかかわらず、自分が知的にも道徳的にも二流であることを絶えず感じないわけにはいかなかった。》

                       『わが生涯』 トロツキー著 森田成也訳

 

 この頃から、国家の官僚主義、中央委員会組織局の官僚主義にたいするレーニン、トロツキーの反撃が始まった。まず、中央委員会に、官僚主義と闘争する委員会を設置することを計画した。この委員会は、官僚の背骨であるスターリン派を粉砕し、トロツキーがレーニンの代理人になる(トロツキーが人民委員会議議長のポストの後継者になる)ことを可能にすることであった。この関連で、レーニンの「遺書」の意味が明らかになる。レーニンは、その中で6名の名前をあげ、一語一語よく言葉を選んで、各人を特徴づけている。明らかにこの遺書の目的は、誰が指導的職務を果たすかを、明確に指摘するために書いたもので、留保条件によって幾分それが和らげられている。ただ、スターリンにたいする特徴づけのみが、他と異なる調子で、それは、後で書かれた追記の中では、まったく最悪の評価となった。

 ジノヴィエフとカーメネフについては、1917年の10月蜂起に反対したことを、彼らの本質にねざしたものであったと述べている。ブハーリンはマルクス主義者ではなく、スコラ学者であるが、周囲から好感をもたれている。ビャタコフは有能な行政官であるが、政治家には向いていない。最も有能なのはトロツキーであるが、彼の欠点はその自信過剰にある。スターリンは粗暴で、不誠実で、権力を乱用する傾向がある。分裂を避けるためにはスターリンを解任する必要がある。以上が、遺書の要点であった。遺書の最後の数行が書かれたのは、1923年1月4日である。

 レーニンは、スターリンを書記長のポストから解任するだけでなく、党の面前で失格を宣告する準備をした。外国貿易独占の問題、民族問題、党体制の問題、労農監督部の問題、統制委員会の問題に関して、レーニンは、第十二回党大会の場で、スターリンという人間に体現された官僚主義、官僚たちのなれあい、独断専行、粗暴さにたいして仮借ない打撃を与えるために、ねばり強く準備をしていた。1923年の初めなら、中央委員会にたいするトロツキーとレーニンの共同行動は、確実に勝利を収めていたにちがいない。また、この時点なら、急速に形成されつつあった分派、すなわち、一国社会主義の官僚、機構の簒奪者、10月革命の不当な相続人など、ボリシェヴィキズムのエピゴーネンたちに攻撃を加えることによって、占領することは十分に可能であった。

 しかし、この途上において障害になったのは、レーニン自身の健康状態だった。そして、「レーニン=トロツキー連合」という構想が、他の政治局員には知られていなかったが、こうしたなかで、トロツキーは、党と国家におけるレーニンの地位を狙った個人的闘争と受け取られることを嫌った。レーニンの個人的な健康状態という不確定要素は、党全体にとっての不確定要素であった。暫定的状態は長引いた。これはエピゴーネンたちにとって好都合だった。空位期間中、スターリンが書記長としての機構の元締めになったからである。その間、レーニンにたいして、スターリンがますます信頼を裏切る行動をとった。

 スターリンは、グルジアにおける自分の足場を確保するために、レーニンや党中央委員会全体に隠れて、オルジョニキーゼの手を借り、党中央委員会の権威で正体を隠し、党の最良分子にたいする組織的クーデターを行ったのである。レーニンは、秘書たちにグルジア問題の完全な資料を集めさせ、自分の意見を述べようとした。レーニンは、第十二回党大会のなかで、スターリンの政策を例にとって、党の前で、仮借なく、プロレタリア独裁の官僚主義的変質の危険性を暴露したかったのである。

しかし、その前に、レーニンは、またも麻痺状態に陥り、話すことも書くこともできなくなってしまった。スターリン派は、一層、結束を固めた。暫定的な状態が続いた。スターリンは、機構の実権を握っており、機構内の人為的な抜擢や降格は、すさまじいテンポで進められた。「トロイカ体制」(スターリン、ジノヴィエフ、カーメネフ)は、自分たちが思想的に弱いと感じれば感じるほど、また、トロツキーを恐れれば恐れるほど、それだけ固く結束を深めた。

 1923年初頭、第十二回党大会が迫っていたが、それにレーニンが出席する望みは、ほとんど絶たれた。レーニンの容態は急激に悪化し、「トロイカ」体制をおびやかす危険はなくなった。「トロイカ」の手法は、トロツキーの目には、それ自体、政治的堕落を意味するものだった。トロツキーも、その年の秋から冬にかけて、インフルエンザのあと、不明の高熱のため寝たきりですごした。そのトロツキーとレーニンが寝たきりの間、「反トロツキズム」にたいする論争(新路線論争)が続いていたのである。

それはまさに冷たい政治的陰謀だった。秘密の政治局(7人組)が結成され、そこにはトロツキーを除く政治局員に加えて、最高国民経済会議議長のクイブイシェフも入っていた。その参加者たちは、連帯責任によって結ばれていた。彼らは、お互いに論争はせず、同時に、トロツキーに反対する機会を探すことを示し合わせていた。地方組織の中にも同じようなセンターがあって、モスクワの7人組と結びつけられていた。党と国家の幹部は、系統的に「反トロツキー」というただひとつの規準のもとに、選び出されていた。陰謀家たちはほのめかしによって行動していた。あれこれの地位の候補者には、何が求められているかを察することが要求された。それを察したものは昇進した。こうして、特殊な形の出世主義が生まれた。そして、レーニンの死がこの陰謀に、完全な行動の自由を与え、これを公然化した。

それは、1923年以降、コミンテルンでも進められ、トロツキーにたいしてどのような態度をとるかによって、指導者が失脚させられ、別の指導者がその地位に任命された。

 才能に恵まれたトロツキーがなぜ失脚したのか。そして、なぜ、スターリンが主役として生き残ったのか。トロツキーは、それについて次のように答えている。革命の理念や気分が、指導層と大衆の両面で失いつつあるからだ。革命の初期の理念は、人々にたいする影響力をいつのまにか失っていた。この過程は、組織された部分を含む労働者階級にまで及んでいた。そして、権力機構を構成している階層の中から、その階層独自の目標が現れ、機構そのものとのあいだに分裂が生じた。その分裂は、最初は政治的なものではなく、心理的なものであった。10月革命のスローガンは、まだ、忘れられていなかった。だが、別の心理が膨らみ、一時的だったその目標が、最終目標に転化しはじめた。ここに新しい人間類型が生まれた。

かつては、ボリシェヴィキという人間類型があったが、党や国家の人間は、とっくに大衆から遊離し、今は、彼らの階級的本能は風化している。なぜなら、緊張が去り、革命の遊牧民が定住生活に移ったとき、自己満足的な役人の感情と趣味が目覚め活気づいたからだ。しかも、レーニンが病気で倒れ、どっちつかずの暫定的状態が、中断をはさんで2年以上続いた。

もし、革命の発展が高揚期に向かっていたときならば、この遅延は、トロツキーなど左翼反対派に有利に作用した。しかし、革命は国際的な規模で敗北につぐ敗北を喫し、その遅延は、一国的改良主義に有利に作用し、スターリンの官僚制を、自動的に強化した。永続革命論にたいする俗物的で無知でまったく愚劣な攻撃は、このような心理的な源泉から生じた。スターリンは、このような転換期のシンボルだった。彼が現役の主役を続けていたということは、スターリンを特徴づけるより、むしろ、政治的に後退した衰退期を特徴づけている。スターリン主義とは、何よりもまず、革命の下降期に非人格的な機構がつくりだした人間類型なのである。

1924年1月21日午後6時50分、レーニンは54歳で死んだ。革命の勝利からわずか7年であった。その時、トロツキーは転地療養するため、スフミに向かっていた。チフリス駅で列車にいた。レーニンの死去を伝える電報をスターリンから受け取った。トロツキーは、クレムリンと連絡をとった。彼の問い合わせにたいして、次のような答えが返ってきた。「葬儀は土曜日。いずれにせよ、間に合わない。治療を続けられたし」。選択の余地はなかった。しかし、実際には葬儀が行われたのは日曜日であった。それまでには十分、モスクワに戻れるはずだった。トロツキーは葬儀の日取りを欺かれたのだ。

「党はみなし児になった。労働者階級はみなし児になった。……どうして前進したらいいのか。どうやって道をみつけたらいいのか。迷子にならずにすむだろうか。同志よ、レーニンはもはやわれわれとともにはいない」。トロツキーのレーニン哀悼の言葉である。

 そして、トロツキーの名声は、まさに、このレーニンの死とともに、確実に転落していった。レーニン存命中のトロツキーは、政府と党の要職を占めた。レーニンの支えを失ったということだけに原因があるのではない。同年齢のスターリンとの対立が、党の分裂を引き起す恐れがあることは、生前、レーニンがもっとも憂慮した点であった。この両者の対立が、「永続革命」論と「一国社会主義」論という、革命後のロシアの進むべき路線対立となって、水面上にでてきたのである。この対立には、両者の性格上の対照的な違いにも起因していた。それは、いわば、理想主義者と現実主義者、インターナショナリストとナショナリストの違いとも言いかえることができる。

 1924年秋、「文献論争」というものがあった。反対派ではなく、トロツキー本人を対象にした反トロツキズム・キャンペーンだった。中傷、捏造、歪曲が、冷たい溶岩のように噴出した。レーニンにたいする態度は、教会のヒエラルキーの頂点に上り、トロツキーの抗議にもかかわらず、革命的な意識にふさわしくない侮辱的な「霊廟」が建てられた。防腐措置を施された彼の遺体は、生きたレーニンに対抗するために、さらにはトロツキーに対抗するための武器として利用された。大衆は呆然とし、圧倒され、意気消沈した。党は沈黙を強いられた。党にたいする機構の独裁体制が確立された。トロツキーはまだ病床にあり、沈黙を強いられた。

 1925年1月、トロツキーは軍事人民委員の職務を解任された。5月には、利権委員会議長、電気技術局局長、工業科学技術局議長に任命された。スターリンとその助手のモロトフは、トロツキーの周囲に直接のサボタージュを組織した。それで、電気技術局局長、工業科学技術局議長の職を解くよう求めた。その間に、「トロイカ」体制のひび割れが起こった。部分的でも国際的な視点を守りぬこうとした、ジノヴィエフとカーメネフの試みは、官僚たちには、二人が二流の「トロツキスト」になったかのように見えた。

この二人はまもなくスターリンと敵対するようになる。カーメネフは、モスクワの公式の指導者と見なされていたが、スターリンに抵抗を試みたとたんに、宙に浮いた存在になった。レニングラードでは、労働者が富農と一国社会主義の路線に憤激した。この階級的抗議は、ジノヴィエフのような高官の反乱と一致した。こうして、新反対派(レニングラード反対派)が生まれ、そのメンバーには、ナデージダ・コンスタンチノヴナ・クルプスカヤも加わっていた。彼ら自身が驚いたことだが、ジノヴィエフとカーメネフが、反対派が行ってきた批判を繰り返さざるをえなくなり、やがて、「トロツキスト」の陣営に数えられるようになった。

ジノヴィエフとカーメネフは、「トロツキスト」が、1923年以降、自分たちとの闘争において正しかったことを、公然と認めた。二人はトロツキーの政綱の原則を受け入れた。二人の背後にレニングラードの何千もの革命的労働者がいることを考えれば、二人と連合しないわけにはいかなかった。しかし、ジノヴィエフは、結局、逃げ出した。

 1926年春に、トロツキーは妻をつれてベルリンに旅行した。この年の間、党内闘争はますます激しく展開された。秋頃には、反対派は党細胞の集会に公然と打って出た。機構はこれにたいして、猛烈な反撃を加えた。思想闘争は、行政的操作にとって代わられた。労働者細胞の集会に電話で党官僚を招集すること、集会に動員される自動車の洪水、クラクションを鳴らした威嚇、口笛による組織的な野次、壇上の反対派にめがけた怒号等、主流派は、その物理的集中と弾圧の脅しで圧力を加えた。党員大衆は、何かを聞き、知り、言う以前に、分裂と破局におびえた。反対派は後退せざるをえなかった。10月16日に、反対派は、自分たちの見解を正しいとみなし、この見解のために党の枠内で闘う権利を留保しはするが、党の分裂の危険を引き起こすような行動はしないという趣旨の声明を出した。それは、党内にとどまり、党に奉仕したいという反対派の願望を党員大衆に示したものだった。

 すでに、1927年のはじめ頃には、ジノヴィエフは、スターリンに降伏する気になっていた。しかし、そこへ、中国から衝撃的な事件が飛び込んできた。スターリンの犯罪性が明白になり、それがジノヴィエフとそのあとについていった人々の降伏の時期を遅らせることになった。中国にたいするエピゴーネンたちの指導は、ボリシェヴィキの伝統を踏みにじったものであった。中国共産党は、ブルジョア政党である国民党に加入させられ、その軍事的規律に服従させられた。ソヴェトの創設は禁止された。また、中国共産党員は、土地革命を抑え、ブルジョアジーの許可なくして労働者を武装させないよう勧告された。

 トロツキーは1925年から、共産党員を中国国民党から脱退させることを要求していた。1927年4月に、スターリンは、党の集会で、蒋介石と連合する政策を擁護し、蒋介石を信頼するよう呼びかけた。それから、5、6日後に、蒋介石は上海の労働者と中国共産党を血の海に沈めたのである。スターリン=ブハーリンの政策は、革命の粉砕を準備し、国家機関の弾圧によって、蒋介石の反革命活動を護った。

 反対派は、モスクワにおいて蒋介石に反対して、中国の労働者を擁護するために地下活動を行っていた。1923年のドイツ革命の敗北、1926年のイギリスのゼネストの挫折、このあとに起こった中国の失敗は、国際革命にたいする大衆の失望を強めるだけかもしれない。そして、この失望こそ、スターリンの一国改良主義的政策の心理的源泉に役立っているとみていた。

 それでも、反対派は強くなった。思想的により結束力を固め、数が多くなったことは明らかだった。蒋介石のロシアにおける同盟者スターリンは、完全に面目を失った。彼に残されたことは、反対派を組織的に粉砕することによって、上海の労働者の粉砕を補足することだけだった。トロツキーたちの周囲には、何千何万という新しい世代の革命家たちが集まってきた。彼らは10月革命によって政治活動に目覚め、内戦をなし遂げ、レーニン的な中央委員会の大きな権威の前に、直立不動の姿勢をとっていた。そして、1923年以降に初めて、自力で考え、批判し、マルクス主義の方法を事態の進展に適用しはじめ、革命的イニシアティブをとる責任を引き受けることを学んだ。

 1927年末に予定されていた第十五回党大会が近づくにつれて、党は歴史の岐路に立っていることを強く感じるようになった。凄まじいテロにもかかわらず、党内には、反対派の主張を聞きたいという願望が目覚めた。モスクワやレニングラードの様々な場所で、反対派代表の話を聞くために、20人から100人、200人と集まった男女労働者、学生の秘密集会が行われた。モスクワとレニングラードにおけるこれらの集会には、全部で約2万人の人々がやってきた。党中央委員会は、反対派の集会を力によって、解散させなければならないという呼びかけを、労働者にだした。スターリンは流血の決着を望んでいた。1927年10月に、ソヴェト中央執行委員会の定例会議がレニングラードで開かれた。その時、大衆のデモが行われた。デモは全く予想外の方へ向かった。トロツキーらの意見を聞きたがっている数千人の群集が集まっていたのである。

 10月革命の10周年を祝うモスクワのデモがあった。反対派はプラカードを掲げて、全体のデモ行進に参加することに決めた。プラカードのスローガンは、「砲火を右に向けよ。クラーク、ネップマン、官僚、反対。」「レーニンの遺言を実行しよう。」「日和見主義反対。分裂反対。レーニン党の統一を守れ。」だった。1927年11月7日、反対派のこうしたプラカードは手から奪われ、引き裂かれ、殴打された。第十五回党大会は、反対派全体の除名を決議した。除名された人々は、ゲ・ペ・ウの管理下におかれた。

1917年10月革命から、トロツキーが党を除名され(1927年11月15日)、翌年1月、永い国外亡命の口火となるアルマ・アタへの追放まで、わずか10年しかたっていなかったことになる。

 

15 スターリン主義との対立

 

 レーニンが存命の間は、トロツキーの孤立は、レーニンの調停者的機能により、目立つものではなかった。トロツキーの必要以上の刺激的、挑発的、侮蔑的なライバルにたいする言動も、レーニンの戒告と、ライバルにたいする弁解で、大規模なひび割れにはいたらなかった。ところが、後ろ盾とみなされたそのレーニンが死んだ。これで、トロツキーとレーニンの対立は一挙に浮上した。スターリンは、すでに、レーニン在世中に党書記長の地位を占め、着々と、派閥を形成しつつあった。トロツキーには、このような政治的意欲は、スターリンに比べてきわめて乏しかった。トロツキーの性格は、本質的に非政治的なものがあったのかもしれない。

 レーニン死後のスターリンの「一国社会主義」論は、巧みな手直しで補強されていった。1924年5月刊の『レーニン主義の基礎について』の初版では、権力の奪取は一国で可能であるが、社会主義建設は一国では不可能とされていた。しかし、10月刊の再版では、大幅に訂正され、権力奪取はもちろん、引き続いて行われる社会主義建設も一国規模で可能となっていた。ただし、他国からの援護が保障されることが必須とされ、社会主義の最終的勝利は、一国では不可能と改められ、大々的に、このテーゼが広められていった。そして、1926年1月の『レーニン主義の諸問題によせて』にいたる1年8か月の間に、トロツキーの「永続革命」論を批判し続け、「一国社会主義」論は、一応の理論的完成を遂げるのである。

 トロツキーは、ヨーロッパの先進国革命に、ロシアの将来を賭けた世界革命をあくまでも求めた。これにたいして、レーニンの思想の正統的継承者としてみずからを自認していたスターリンは、レーニンもまた、「一国社会主義」論の主唱者だったとして、トロツキーに激しい批判を加えた。スターリンは、トロツキーの永続革命が、ロシア革命における農民の役割と、プロレタリアートのヘゲモニーの思想の意義とを過少評価したばかりでなく、さらに、マルクスの「永続」革命思想を変形させ、これを実践に役ただないものとしてしまったと攻撃した。

ここから、トロツキーの農民無視論あるいは農業問題無理解論がでてくる。しかし、トロツキーは、農民を無視しているわけでは決してなかった。彼は、ロシアが、圧倒的多数を農民が占める後進国であることを、骨の髄まで知っていた。それゆえ、彼は、農民を重視し、また、そのプチブルジョア的存在が、社会主義をめざす労働者にとって、敵対的な存在に転化することを危惧した。ここに、ネップにたいするトロツキーの姿勢、特に、富農(クラーク)層にたいする先鋭な警戒心が出てくるのであり、ネップ政策下における工業化の促進が提起される理由があった。

 ヨーロッパ先進国の革命に期待を抱いていたのは、トロツキーだけではなかった。レーニンも初代コミンテルン議長ジノヴィエフも同じだった。1919年4月、トロツキーは、ロシアのプロレタリアートの革命的長子権は、一時的なもので、イギリス、フランス、ドイツのプロレタリアートの力は強大になっていることをみれば、今日、コミンテルンの中心はモスクワにあるが、明日は、ベルリン、パリ、ロンドンへ移るであろうといい、「ロシア労働者階級の独裁は、ヨーロッパの労働者階級がわれわれをヨーロッパ・ブルジョアジーの経済的枷、ことに軍事的枷から解放してくれるとき、後者を打ち倒したのち、その組織とテクノロジーをもって、われわれを援助してくれる時、ロシア労働者階級の独裁は、強化されて、真の、全面的な社会主義建設を発展させることができるであろう。それと同時に、指導的な革命的役割は、もっと大きな経済力と組織力をもった労働者階級の手に移るだろう」と述べた。

 ところが、1924年の段階は、期待をかけたヨーロッパ革命の展望が、もはや消滅しかけた時期であった。一方、1921年以降のネップの進行過程は、このヨーロッパ革命の挫折で方向を失い、革命的情熱だけではどうしようもない経済建設を、資本主義的要素の大幅な是認という形で、解決しようとする一時的政策だった。1926年になって、トロツキーは、ロシア民衆の保守化傾向が強まり、プロレタリアートが、革命的展望と広汎な一般化を、非常に受け入れなくなっているという事実は無視できないと述べ、旧革命世代は、自己満足と静けさを、新世代は、伝統、権威、規律、つまり法と秩序にしばられることを望んでいること、これらの精神的停滞感を背景に、官僚主義が発生していることを警告した。そして、ロシアにおけるブルジョア的要素復活の目印として、革命的エネルギーの低下、労働者階級の保守的ムードの増大、社会主義に関心をもっていない農民の動向を上げている。

 レーニンの晩年中から続いていたスターリンとトロツキーの対立は、レーニンの死後、一挙に過激化し、「一国社会主義」論対「永続革命」論という理論対立の様相を帯びるが、その帰趨は、革命情勢の衰滅したヨーロッパ情勢、および、この情勢に強く影響を受けたロシアの民衆の深い徒労感と方向感覚の喪失を、どのような方法で、どちらがより強くひきつけるかにかかっていた。

いわば、スターリン主義、すなわちロシアにおける政治的反革命の勝利は、基本的には、1918年~23年の時期における世界革命の部分的敗北の産物だった。対立の根は、もともと政治と大衆意識そのものの対立にあり、その交点でいろいろな政治家同士の対立が交錯した。まず、スターリンとトロツキーの対立を軸として、ジノヴィエフ、カーメネフの反トロツキー=スターリン連合からはじまって、トロツキー陣営への両者の転換、「政略結婚」とさえいわれた1926年~27年の合同反対派の結成、ブハーリンとスターリンの連合によるネップ推進と、スターリンの左翼化、ブハーリンの切捨て、トロツキーのブハーリン擁護など、権力の中枢では、闘争の様々な組み合わせを垣間見せた。

 ただ、トロツキーに関していえば、レーニン死後、わずか4年で、党を除名され、国外追放されたということは、単に、理論の敗北というにとどまらず、トロツキーが、ロシアのプロレタリアートに要求した理想があまりに高く、戦後の民衆の即物的な経済生活を第一に考える現実意識から離反していったということがいえる。当時の民衆がおかれていた場所は、本質的には、いま、ここで、よりよき生活を確保するのに手一杯であったということである。これにたいして、トロツキーは、さらに国際プロレタリアートの使命を負荷しようとした。民衆に、世界革命の実現をいくら呼びかけても、彼らには、今は、ともかく生活水準の向上をめざすことにしか関心がなかった。

 1920年代半ばからはじまった工業化論争で、遅れた農業国ロシアの工業化戦略をめぐって、鋭い対立が発生した。第一は農業重視型、第二は農・工業均衡発展型、第三は重工業重視型である。トロツキーは第三の型に属していた。ブハーリンは、はじめは第一、次いで第二へと移行する。そして、スターリンはこの三つの型を、1920年代にわたって、右から左へと走り抜けた。20年代前半、党中央の農民寄り政策を唯々諾々と認めていたようにみえた目立たない指導者スターリンは、20年代末には、最も左側の流れを突き抜け、かつての左派を瞠目させるほどの、激しい政策を遂行していくことになる。

国際的革命という援助がなければ、後進国ロシアにおいては、労働者階級は権力を維持できないということは、10月革命の前後においては自明のことのように考えられていた。そして、権力を失うことは、一般には、資本主義の復活、ロシアのブルジョアジーの経済的、政治的権力の復活と同義である。だが、歴史は予期しない方向に進んだ。革命後の最初の革命の波の敗北は、実際に、労働者階級が、直接的政治権力の行使を失うという結果をもたらした。だが、この権力は、ロシアのブルジョアジーの手中に陥ることにはならなかった。権力は新しい特権的社会層、ロシア労働者階級自体から澱のように発生してきたソヴェト官僚の手中に帰したのだ。

このような官僚層は、革命後、ヨーロッパの革命的高揚が、社会主義革命の勝利をもたらさなかったことにより、ソヴェト・ロシアを、帝国主義諸国のなかに孤立させ、ロシアの労働者階級を無力化させたところから発生した。しかし、ソヴェト権力の基礎の決定的な崩壊には到らなかった。資本主義国との力関係の均衡が、ソヴェト国家の極度の歪みをもたらしたにせよ、生き残る余地を与えた。

一方、国内戦、干渉戦における赤軍の勝利、旧ロシア・ブルジョアジーの弱体化、農民の無力化、これらが結合して、権力をめざす新たな資本家階級の再登場のプロセスを、レーニンやトロツキーが予測したよりも、はるかに緩慢な、弱い形をとって現われた。ロシア・プロレタリアートとロシア・ブルジョアジーが並行して弱体化したことから、ソヴェト社会のなかは、新しい不安定な均衡が生じた。ソヴェト官僚が、政治的・社会的権力を独占するに到ったのは、こうした事態の結果であった。

トロツキーは、1920年代初期移行、ソ連で蔓延しはじめた官僚支配を反革命と呼び、その反革命過程の本質を、フランス革命の転換期のスローガンであった「テルミドール」と同質性の比喩として使った。これは、フランスの先例と同じく、ロシアのテルミドールも現実の反革命だった。それは、いうなれば、革命内部における政治的反革命だった。ただし、トロツキーによれば、ロシア反革命も、社会・経済的分野にも重要な影響を与えたが、革命前の所有関係、生産関係の復活に導くことはなかった。

レーニンの『国家と革命』の定式からいえば、相対的少数者の権力への復活を阻止しようとする大多数の人々の国家は、相対的少数者に奉仕し、支配階級による大多数の搾取と抑圧を防衛する国家を特徴づけている肥大化や、反動的暴力の度合いとは無縁のはずである。しかし、これをソヴェト・ロシアに適用すれば致命的誤りに陥る。では、なぜ、国家制度や官僚は再生産され維持されつづけるのか。

その第一は、レーニンが『国家と革命』において言及した「大多数」は、プロレタリアートではなく、それはむしろ、労働者と農民の半プロレタリア、貧農、中農層等から成り立っており、均質性をもっていない。それらは社会階級の異質なブロックであって、利害関係は同一ではないのである。ここから、相対立する利害関係者間の論争を調停する必要性が出てくる。消費物資が乏しく、全般的に貧困であるような条件のもとでは、ソヴェト官僚はその任務にたいして物質的特権を強要する。

第二には、安上がりで弱い国家機関という概念は、労働者階級がソヴェトという枠組みのなかで、伝統的な国家の機能を行使できることを前提にしていた。それは、また、労働者の自主管理が拡大するための条件を前提にしている。しかし、3年間の内戦と干渉戦から登場したソヴェト機構の条件は、極度に不利だった。労働者階級は、数的、質的にも弱体化していた。物資の欠乏と貧窮によって、多くは政治活動から退いていった。そこで、労働者の技術や文化水準が相対的に低かったため、プチ・ブルジョア技術者や専門家への不均衡なまでの依存が生じた。これらの要因が、権力の肥大化と官僚による権力の独占につながった。つまり、労働者たちはソヴェトから追い出されたのではなく、次第にソヴェトから去っていったのである。

その上、現実のソ連社会は、社会矛盾に満ち、消費の分野において緊迫しているから、社会的な闘争の根が廃絶できない。だから、官僚の権勢は必要だし、そのため国家を廃絶できない。いわば、社会主義の勝利は最終的であるとも、決定的であるともいえないのである。また、必要なものをすべての万人にではないが、革命当初にくらべて、つつましやかではあるが、物質的水準が高まり、少数者に特権を与え、多数者を駆り立てるまでにはなった。これが生産力の向上と官僚の増大との相関関係であった。それだけではない。官僚自身がこの不平等をつくり守っているのである。つまり、自らの特権を守るための機能が、日々、社会の貧困から発生しているのである。

 こうして、ソヴェト官僚は、革命後のロシアの表玄関に姿を現した。レーニンから見れば、解体されていなかった古いツァーリズム時代の国家機関の強力な残存物であった。だが、工場、国営商業、国営運輸、通信企業の職業的管理人たちを含む管理者の集団は、工業化が加速されたとき、うなぎのぼりに増大した。そして、ソヴェト国家と軍隊の各機関の職員および党機関の政治的、社会的権力の独占に執着する特権的支配層、彼らは、異質性をもつにもかかわらず、全体として単一の社会階層に統合されたのである。レーニンは、早い段階から、ソヴェト国家の官僚的堕落の危険に気づいていた。すでに1921年の時点で、レーニンはロシアの国家を「官僚主義的歪みを持った労働者と農民の国家」として捉えていた。レーニンは、生涯の最後の年には、ソヴェト官僚の増大に心を悩まし、彼の政策が官僚を誕生させたのではないかとみずからを責めた。

 レーニンの死の直前、直後に、トロツキーと左翼反対派は、ソヴェト国家の官僚化にたいする闘争にたちあがった。ボリシェヴィキの指導者たちと、労働者階級の活動家の理論教育と階級意識の高度の水準から考えて、彼らの多くは、現存する状況はボリシェヴィズムがめざしたものと一致していないことや、ロシアの労働者階級が実際に国家権力を行使しているとはいえないことを感じざるをえなかった。しかし、このことに気づいていたのはごく一部の人々に限られていた。だから、こうした認識は、表立って表現されることもなかったし、ソ連共産党の政策を急展開させるために、政治的積極性をもつグループに結びつくこともなかった。ここにスターリンと官僚の影の勝利の根拠があった。

普通のボリシェヴィキ指導者や活動家が抱いていた幻想は、ソヴェト国家の堕落の可能性を否定するものではなく、こうしたプロセスを防ぐのに十分な対抗力が、党のうちにあるという甘い幻想だった。彼らは、党がますます空っぽな殻だけに縮小されており、プロレタリアートとますます切り離されているということを理解もせず、直視したいとも思わなかった。そして、ソヴェト国家の官僚化は、闘うボリシェヴィキ党によって中途でストップさせられるのではなく、逆に、ボリシェヴィキ党自体の官僚化によって促進され完成させられた。

 官僚化からぬけだす道すじは、官僚主義化の原因と、それに反対する手段の冷静な評価を前提にしていた。それは、労働者階級が政治的に受動的になっていることが主な原因だった。そこで、トロッキーの同盟者や友人は、つまり党内民主主義の拡大を論点とした。これはスターリン、ジノヴィエフ、カーメネフの強硬な反対にあったが、党指導部に正式に採用された。スターリンの採用した政策とは全く別の、政治的、経済的、社会的な政策の選択肢があったことは自明である。もし、こうした政策が勝利していれば、まったく異なるソ連邦が台頭し世界も全くことなっていた。すなわち、1920年代を通じて、また、30年代の大半において、ソ連指導部は世界革命を助長する力を持つことになった。

トロツキーは世界革命の次の突破口までの「息継ぎ期間」を獲得するというレーニンの政策を踏襲していたが、しかし、この「息継ぎ期間」に、ソヴェト労働者の階級意識、政治活動のレベルが増大したならば、息継ぎの意義は増大していた。ところが、この「息継ぎ期間」に全く反対のことが起こった場合には、ソヴェト官僚の完全な勝利と世界革命の破産が待っていることになる。だからこそ、1923年から33年にかけてトロツキーは、党内分派闘争に全力を集中した。しかし、この闘争における彼の敗北は、重大な結果を招いた。

 左翼反対派の敗北は、ソヴェト共産党内部の分派の敗北であるとともに、ソヴェト社会、政治と共産主義インターナショナル内部における敗北であった。したがって、それは1936年~38年のボリシェヴィキ活動家たちの粛清で頂点に達するプロレタリアートの敗北と、政治的反革命の勝利に連結していたのである。

 スターリン主義官僚の独裁の台頭を分析するためには、もっと、その官僚の性格、ソヴェト社会やソヴェト国家の性格を正しく理解することが必要であった。その点でトロツキーは成果を生み出した。トロツキーは、ソ連邦でおこっている事態は、資本主義と社会主義の間の過渡期社会であるが、それ自体としては、資本主義の復活でもなければ社会主義でもない。官僚は、労働者階級内部における確固とした特権的階層ではあるが、新しい支配階級ではない。また、新しい生産様式(官僚的集産主義)の登場でもない。この社会形態は、官僚主義化の過程によって、暴力的に歪められているが、自らを再生産するような社会的規範の形態を生み出していない。ソヴェト国家は極度に歪められているとはいえ、労働者国家としてとどまっている。官僚は生産関係を常に歪め、腐敗させ、その内的論理を掘り崩している。官僚支配の特殊な様式と、その支配の代償として横領した様々な特権は、最適の経済計画の要求とは暴力的に衝突する。

 トロツキーは、こうして官僚の反革命性の範囲を確定した。官僚の役割は、新たな社会主義革命を回避するために、資本主義と協調するという意識的政策において反革命である。また、ソヴェトの現状を「社会主義」と同一視することが、西欧のプロレタリアートの社会主義革命への出発準備に及ぼしている破滅的影響において、反革命的である。国内的には、労働者階級の極端な非政治化とアトム化が、反労働者政策の継続(大衆の抑圧、残忍な労働立法、ボリシェヴィキ活動家の抹殺、社会的不平等の増大、自立的労働組合活動の抑圧)の結果として生じている。官僚主義的・中央集権的計画がソヴェト経済にもたらした厖大な浪費と組織の混乱は、同じような反革命的方向にはたらく長期的影響を生み出している。

 そして、トロツキーがとった対抗策をマンデルは次のように述べている。

 

《レーニン以後のソヴェト社会にかんする上述のような首尾一貫した分析から、トロツキーは、新たな政治革命、すなわち10月革命の主要な経済的成果を維持し強化しつつ、官僚の独裁権力を排除し、ソヴェト社会を徹底的に民主化し、そして政治権力をプロレタリアートの手中に復帰させるような革命を準備すべきである、という結論を引き出した。このような権力は、複数政党制を包含する民主的に選挙されたソヴェトを通じて行使されるであろう。…中略…こうした政治革命がどのようなものであるのかは、1956年10月から11月のハンガリー革命と1968年から1969年2月にかけてのプラハの春がきわだって示している。この労働者階級の大衆的反乱が両者ともソ連の軍事介入によって粉砕されたことは、再びみたびソヴェト官僚の反革命的性格を確証するものである。》

『トロツキーの思想』 エルネスト・マンデル著 塩川喜信訳

 

 1925年12月、第十四回党大会は、ロシア共産党名をソ連邦共産党(ボリシェヴィキ)と改め、スターリンの「一国社会主義」論を採択した。翌26年10月、トロツキーはジノヴィエフとともに、党中央委員会政治局からはずされ、その翌年1927年11月12日、両名はソ連邦共産党を除名される。トロツキーらの最後の闘いは、1927年11月7日のロシア革命10周年の記念パレードにおける、ささやかなスターリンの政策への抗議の声にすぎなかった。トロツキーの支持者の数は党員73万名のうち6千名にすぎなかった。合同反対派の綱領に賛成した人数も当初、2万から3万と予想されていたが、実際は、5千から6千にすぎなかった。これはトロツキーの影響力が、きわめて底の浅いものだったことを証明している。

そして、トロツキーは、自分が中傷で追い詰められているにもかかわらず、「頭を高くそびやかして、かれらを無視」しているだけであった。彼は、彼を非難する中央委員会に出席しても、いつもフランスの小説を読んでいたともいう。また、「一国社会主義」論が採択された第十四回党大会でも、トロツキーは挑発を沈黙で受け流し、ただ一つの抗議、不同意の身振りもしようとしなかった。トロツキーの性格をよく示しているエピソードであるが、このことは政治家としての責任を放棄しているといわれてもしかたがない。反対派敗北の原因は、すべての段階で不決断、不統一、戦術的鈍感性、組織的不手際を示し、全能の党組織の手に操られてしまったことである。

 

16 亡命生活

 

 暗殺されるまでの11年6か月の亡命生活は、文字どおりヴィザなき流浪の旅であった。正確にいえば、ヴィザを出ししぶる各国政府に、その国のトロツキー支持者が、有力筋のコネを通じて圧力をかけ、期限付きのヴィザをようやく入手する。次の行き先は全く分からないという有様だった。こうして、トロツキーは、トルコ、フランス、ノルウェー、メキシコと亡命の旅を続ける。トロツキーの亡命国と滞在期間は次のとおりである。

  1928年 1月モスクワからアルマ・アタ(カザフ共和国の当時の首都)へ国内追放 

  1929年 1月アルマ・アタからトルコへ国外追放 2月12日イスタンブール着

  1933年 7月トルコからフランスへ 7月24日マルセーユ近くのカシ着 

  1935年 6月フランスからノルウェーへ 6月18日オスロ着

  1936年 12月ノルウェーからメキシコへ

  1937年 1月9日タンピコ港着 1940年8月の暗殺までメキシコ郊外のコヨアカンで生活。

 亡命11年半のうち、トルコのプリンキポ島の生活が4年6か月、最後の亡命地メキシコが3年7か月、この二国だけで8年以上暮らしている。トロツキーが第二の故郷と考えていたフランスは2年たらず、ノルウェーも1年半にすぎなかった。トルコでは、マルマラ海沖の小島に、フランスではパリに住むことさえできず、ノルウェーでも厳重な監視下におかれた。終わりはオスロ郊外36キロの一寒村に拘禁されるという状況は、かつて革命前のトロツキーが送った、二回の自由な亡命生活とは似て非なるものがあった。ソ連圏内の国内追放地アルマ・アタでは、約260キロむこうの中国領への逃亡計画を考える自由があったが、ヨーロッパへの亡命は、新たな監禁生活といってもよいものだった。

 トロツキーを受け入れた政府は、必ず、ソ連政府から厳しい警告を受け、受け入れの報復として政治的、経済的な締めつけを覚悟しなければならなかった。また、亡命先では、ヨーロッパのブルジョアジー、王族、貴族たちが、革命の張本人として、そして、ロシア皇帝一家の殺害者として、トロツキーを憎悪が取り巻いていた。トロツキーは、これにたいしては、処刑は不可欠の措置であったが、自分は公開裁判を主張したと答えた。その上、各国の共産党もまた、モスクワの指令により、トロツキーの即時退去の大デモンストレーションを展開しつづけたのである。

 中央アジアの中ソ国境に近いアルマ・アタから、トロツキー夫妻と長男セドフ三人が厳重な警備のもと、トルコへ追放された時は、まだ、ソ連国籍であったため、安全であった。レーニンの後継者とまで目された人物である。トルコ警察も、身辺警護と監視を怠るわけにはいかなかった。

 ソ連政府がトロツキーらの国籍剥奪の措置を公表したのは、トルコ滞在4年目の1932年2月10日であった。トルコ政府によるトロツキーのソ連への強制送還さえも心配されるようになった。トロツキーにとっては、プリンキポ島の生活は、激動するヨーロッパの中心から離れすぎていたし、生活費をかせぐために書いた『わが生涯』の英訳、出版をめぐって出版社との間に、裁判沙汰になっていた。トロツキーはここで、『わが生涯』と『ロシア革命史』を書いた。

 トロツキーの忠実な秘書の一人によれば、トロツキーの白髪がめっきり増え、ダンディな服装にも注意をはらわなくなったのは、1933年前半の頃だったという。さらに、ベルリンで長女のジーナがガス自殺をしたという情報も入っていた。特に、気が滅入っていたのはこの頃である。とりわけ、1933年5月、ゴーリキーがイタリアから帰国途中、イスタンブールに寄港したのに、トロツキーに逢おうともしなかったのには、寂寥感が残った。

また、デンマークの学生たちの招きで、10月革命15周年記念講演をするために、8日間のトランジット・ヴィザを手に入れた時、その延長に反対してデンマーク政府に圧力をかけたのが、古い友人の駐スウェーデン大使のアレクサンドル・コロンタイ女史だったこともショックだった。今はイデオロギーを異にしていても、かつての革命仲間としての友情が、依然、維持されているとトロツキーは考えていたにちがいない。アルマ・アタの国内追放時代には、まだ、沢山の友人たちに手紙を出し、また、返事も受け取ることができた。

 彼のロシア国外追放理由は、刑法第58条第10項、反革命活動とりわけ武装蜂起準備であったが、この根拠のない理由が、ソ連国民に信じられることはないと、トロツキーは考えていた。つまり、ソ連国内で、どれほど自分が危険人物であるかを分かっていなかったのだ。たまたまイスタンブールに滞在していたトロツキーの忠実な部下で、詩人で戦略家のブルームキンに、国内の反対派グループへのメッセージを托し、結局、ブルームキンを処刑に追いやってしまったのである。1930年代前半のトロツキーをめぐるソ連国内状況の異常な険しさへの配慮と警戒心を欠いていたとしかいいようがない悲劇的事件であった。

彼はロシアから遠く切り離されていると感じ取ったことが、プリンキポを離れ、ヨーロッパの中心に行きたいという気持ちになったのかもしれない。フランスへの滞在許可は、自伝『わが生涯』のフランス語訳者モーリス・パリジャニーヌの手回しで、ダラディエ政府から得られたが、この訳者は、トロツキーの翻訳に「僭越にもノートと個人的註記」をつけたとして、トロツキーの激しい叱責をあび、削除を余儀なくされた誠実な翻訳者でもあった。だが、フランスでも、トロツキーにたいする厳しい眼に変わりがなかった。右翼系新聞とフランス共産党機関紙『ユマニテ』は、ダラディエを「急進的ファシスト」と呼び、上陸予定地のマルセーユで行われる予定のデモンストレーションは、トロツキーの身辺に危険がおよぶとの理由で、急遽、上陸地を変更しなければならなかった。このフランスで『フランスはどこへ?』が書かれた。そして、1934年4月、秘書のルドルフ・クレメントの交通事故が理由で、滞仏中のトロツキーの追放キャンペーンが一層激しくなり、ついに、4月17日に、ドゥメルグ新政府は、トロツキーにたいして追放を宣言した。作家のアンドレ・マルローや歴史家のジャン・リシャール・ブロックなどの熱心な擁護にもかかわらず、彼はフランスをあとにしなければならなかった。彼はノルウェーに向け出発したが、ここノルウェーでも事情は同じだった。唯一の収穫は『裏切られた革命』がノルウェーで書かれたことだ。

ソ連政府は、トロツキー亡命の延長は、ソ連、ノルウェー両国の友好関係を損なう可能

性があると恫喝し、貿易関係者たちが、トロツキーの追放に動き出した。政治活動放棄を拒否したトロツキーにたいして、監禁措置がとられ、ラジオは取り上げられ、手紙もすべて検閲された。そして、1937年1月9日に、メキシコのタンピコ港に到着し、1940年8月の暗殺まで、メキシコ郊外のコヨアカンで生活した。この最後の亡命先で、伝記『レーニン』と『スターリン』が書かれ、発刊された。

 トロツキーの迫害は、亡命地のどこでもついてまわった。それは、彼が、自らの政治的主張を変えず、あらゆる場所で、あらゆる機会をとらえて、その主張の正当性を唱えたからである。どんな迫害をうけようとも、政治的活動を止めようとは決してしなかった。アルマ・アタ当時、スターリンから和解が提案されたが、トロツキーは一蹴した。それは、条件として、トロツキーの政治活動の停止が含まれていたからである。彼にとって、政治活動の停止は、最高の屈辱であり、精神の死を意味したのである。ソ連国内では、スターリンの強権的な農業集団化と重工業化の強化が社会不安を起こしていたほか、トロツキーを首謀者とする反革命、反国家の捏造裁判が、繰りひろげられていた。トロツキーの友人、同志たちの多くが、途方もない冤罪で死に追いこまれていた。

このようなスターリン主義の確立は、ソ連の外交政策、国際共産主義運動にも深刻な影響を与えていた。このため、トロツキーのコミンテルン批判は、一層、激しくなった。つまり、トロツキーは、ソ連の国内、対外政策のすべてを統一的にとらえ、その反社会主義的な路線の是正を求め続けねばならなかったのである。同時に、彼は、各国亡命地で、共産党内外のトロツキーに共鳴する分子に、細かい指示を与え、迫りくるファシズムの脅威を説き、「社会ファシズム論」の誤りを説明し、そのことによって10月革命を生んだソ連を擁護しなければならなかった。

わたし(たち)の理解を越えているのは、トロツキーが決して、ソ連邦を「革命の祖国」と信じて疑わなかったことである。トロツキーを国外追放し、スターリン化がいくら進んでも、あくまで、「革命の祖国」ソ連邦を救おうとした態度である。彼には、革命の祖国が幻影であるとは信じられなかった、というより信じたくなかったのである。なぜ、それほどソ連邦にこだわるのか。ソ連邦が、堕落した「擬似社会主義国家」でしかないのであれば、擁護する理由はないではないか。この点が暗い疑問となって、わたし(たち)の心にしこりをのこす。

トロツキーは、著述活動によって、生活費や『反対派ブレティン』など、各種機関紙の経費を捻出しなければならなかった。のみならず、彼自身は、常にソ連邦の秘密警察と亡命先の監視と、襲撃の対象とされていた。トロツキー自身、拳銃を身辺から手離さなかった。現在の時点から、トロツキーのこの十余年の生涯をみてみれば、非常な悪条件のもとで、彼の古典的著作が次々と産まれたことに驚かざるをえない。これら以外にも、亡命中の執筆、発表した諸論文は、厖大な量にのぼる。そして、トロツキーのこのような旺盛な活動こそが、スターリンが最も恐れていたことなのである。そして、この活動を封じるためには、彼自身の肉体を抹殺する以外には方法がなかったのである。

 だが、亡命後のトロツキーの活動は、すでに、ロシアを離れ、あらゆる要職からはずされた一外国人亡命者にすぎない以上、所詮、文筆をつうじての批判の役割しかできなかった。このような亡命後の活動は、遠く、厚い壁をめぐらしたソ連邦に向かって、いくら大声で叫んでも、反トロツキーのキャンペーンが、国家組織を動員して徹底的に行われ、トロツキスト狩りが、執拗に行われている鎖国国家ソ連邦には、ほとんど有効性をもたないことは明白だった。トロツキーも、ソ連邦で真のマルクス主義者が、地下活動をすることは、異常な困難をともなうことを自覚していた。

1937年9月に彼は書いている。「地下活動は生き生きした大衆が存在してはじめて可能である。今日、この条件は、ソ連邦にはほとんど存在しない。労働者たちが官僚制を憎んでいることは確かだが、彼らはまだ新しい道を見出していない」。トロツキーの活動は、こうして外国から、しかも地下活動の全くないソ連邦に向けて行わなければならなかった。まるで、虚空に向けて放たれた矢のようだった。この事実は、トロツキーの言説が、ただちに、ソ連邦において呼応することを期待するのは不可能な現実を意味した。しかし、彼の有効性は、確実に存在した。亡命後の活動は、鋭い言説をもって、社会主義の諸矛盾をえぐりだし、スターリン主義の発生の根源を明らかにし、コミンテルンの致命的誤謬を左翼の立場から指摘した先駆者になったということである。

 トロツキーは、フランス滞在中の1935年2月7日から、日記を書きはじめる。だが、万一、この日記が敵側に漏れることをおもんばかって、細心の注意を払って書かなければならなかった。子供たちへのスターリンの報復的迫害、心痛した妻の病臥、トロツキー自身の「顔つきまで、ときには一日のうちに変わってしまう」神経性の病気のことまで記載されていた。ときには、棺のうえに横になったレーニンが、医者の名前をあげて、診療を強く勧めてくれる夢までみている。また、彼は亡命7年目を回顧して、いまの亡命に比べて一度目(1902~1905)、二度目(1907~1917)の亡命が、自由に革命活動ができ、思えばしあわせな時代だったとなつかしんでいる。

 トロツキーは、明らかに疲労し、そして、老いを感じている。ツルゲーネフを読んでいたレーニンが、人間の一番の大罪は、55歳以上生きることだよ、と言った言葉を書きとめ、また、ラジオから流れてくるワグナーの楽劇「神々の黄昏」に耳を傾けながら次のように記す。「『それを癒す薬草はない』と、老いと死についてエンゲルスは書いている。誕生から墓場までのあいだにかかる、峻厳なる人生の円弧の上には、すべての出来事、すべての経験がならべられている。人生を形づくるのは、この円弧なのだ。このアーチがなければ老年はないだろう、だが、青春もまたないだろう。老いは『必要』なのだ、そのなかに経験と叡智が宿るのだから。そして、結局、青春があんなに美しいのも、老いと死があるからだ」。

トロツキーは、明らかに、老いと死に思いをはせ、自分の人生を逆にたぐりよせながら、青春の存在をなつかしみ、再確認している。それは、また、すばらしい青春に対比して、老いの悲惨さを噛みしめ、歯を食いしばって耐えている姿であるともいえよう。55歳以上生きることは大罪だといったレーニンは、大罪寸前の54歳で死に、トロツキーは、この日記を書いている時、すでに56歳を越えていた。この諦観をふまえながら、なおかつ、彼はスターリンを弾劾し続ける。

 また、日記にはこういう記述がでてくる。「私に対して遺恨をはらすというスターリンの欲求は、まったく満たされたことがないのだ。彼は、いわば形而下的な打撃を加えはした。だが、精神的にはまだなにもやり遂げてはいない。私は仕事を放棄してもいないし、『非を悔い』てもいないし、孤立してもいない。反対に、歴史は新たに飛躍しようとしていて、それをとどめることは不可能なのだから。それがスターリンにとっての異常な恐怖の源泉なのだ。この野蛮な男は、思想を怖れている。その爆発的な力を知り、それを前にした自分の弱さがわかっているからだ……」。

 トロツキーは、あくまで思想の力を信じていた。思想が巨大な力を秘めていることを確信していた。しかし、彼のおかれた立場は、放浪する一亡命者のそれであった。彼を支える人々は、組織された各国共産党や、その影響下にある巨大な労働組合に比べれば、あまりにも非力であるかに見えた。だが、渾身の力をふりしぼって出された思想の評価は、信じる人の数では計れない。そこに、非力であるはずの思想の真の力が産まれてくる。現実を凝視すればするほど、トロツキーは、思想の剣を研ぎすまし、より激しくスターリンとスターリン主義に力を奮って闘いをいどんでいったのである。

 

17 裏切られた革命

 

 トロツキーは10月革命を生み出した史上最初の「労働者国家」ソ連邦の将来について、深く憂慮していた。それは、ソ連邦時代、「反党文書」として地下出版を余儀なくされた『ロシアの実情と共産党の諸任務』と題された合同反対派政綱(1927年9月初旬)に明瞭に示されている。余儀なく採用されたネップによって、富農(クラーク)層やネップマン、そして官僚が急速に成長し、労働者国家の官僚主義的歪曲が深化していることである。トロツキーが、農村のクラークの台頭に異常な注目をはらったのは、逆に、労働者階級と貧農層の地位が弱体化し、資本主義的傾向への転換を願う勢力が、増大している恐怖であった。スターリンらの犯罪は、このような危機の現実を直視し、民衆に訴える代わりに、この重大な事実を隠蔽し、敵対的勢力の増大を過小評価しているところにあった。

実質賃金の上昇は、1925年秋以来、ストップしたままであり、労働は、悪条件のまま放置されている。そのしわよせが、非熟練労働者、季節労働者、婦人、青少年に集中している。労働組合の官僚化がすすみ、執行機関から現場労働者が排除され、党支部書記、工場経営者、工場職場委員会議長のトロイカの従属下におかれている。とりわけ、トロツキーは、ロシア農村における資本主義復活の動きに敏感に反応し、スターリン、ブハーリンらの農村の資本主義的分子の力にたいする過少評価、激しい農民分化の進行、クラークへの希望の寄托と、雇用労働者、貧農の過少評価を厳しく批判する。「農業でいま進行している階級闘争において、党は言葉によってだけではなく、行為においても、また、農業労働者、貧農と中農の下層大衆の側に立ち、クラークの搾取の野望に対抗して、彼らを組織しなければならない」。「農村における個人的土地保有と賃貸小作の増大を、集団的農場経営をもっと急速に発展させることによって相殺しなければならない」。

 トロツキーは、工業化の大胆かつ革命的な解決のための財源を捻出するため、国民所得の適切な運用、私的企業およびクラーク経営への重税、寄生商人と私的企業の手中に流れ込んでいた流通経費の削減、非生産的官吏支出の削減、外国貿易の独占、官僚の整理と適正配置など、10項目を列挙している。彼によれば、工業化のペースが遅い直接の原因は、財源の欠如ではなく、「欠如しているのは正しい政策」であった。同時に、トロツキーが不安におもっていたのは、官僚群の増大と、これら役人群が隊伍を組み、都市と農村の富裕分子と手を結んで一般民衆を支配しつつある現実であった。

 革命の中から生まれたソヴェト機構の内部は、「一連の全く反動的な過程が進行」し、この労働者の直接統治機関は、政治、経済、文化など、もろもろのものについても、実質的な労働者の解決機関としての姿から、ますます遠ざかりつつあった。彼は、官僚のソヴェト支配に対抗して、労働者民主主義の一層の発展が、緊急に必要であると強調している。いまや、党内民主主義は死滅しつつあり、それが大衆組織における労働者民主主義全般の死滅を導きつつある、との危機意識である。「立身出世主義、官僚主義、不平等が、近年、党内に増長してきただけでなく、たとえば、反ユダヤ主義のような異邦の、階級に敵対する淵源からでた不潔な濁流が、党内に流れ込んでいる」。この事実に眼をつぶるどころか、積極的にこの傾向を推進しているのが、ほかならぬスターリンであり、そのエピゴーネンたちであった。スターリンの熱狂的支持者こそが、党、国家、労働組合、協同組合などあらゆる機関内に寄生する官僚特権層にほかならない。その出自はさまざまであり、なかには、労働者との接触を絶った元労働者の官僚もいる。彼らすべてが、民衆を上から支配、統制、管理している者たちである。そして、この危険性を指摘する者たちこそ、いまや弾圧されているのだ。

 この変質したソ連邦の現状は、亡命後、トロツキーによって、さらに追求される。そして、『裏切られた革命』(1936年刊)では、生産手段は国家に属し、その国家は官僚に属すとの考えから、労働者による官僚的専制政治の打倒、いわゆる「第二の補足革命」の必要性を訴えるようになる。そして、官僚独裁政治をソヴェト民主主義におきかえ、批判の権利と、選挙の真の自由の復活、多党制、労働組合の蘇生と復活とならんで、「分配のブルジョア的方式」の必要最小限の制限、社会的平等への志向が唱えられている。『裏切られた革命』においては、ソ連邦労働者の官僚にたいする敵意が公然化しない理由として、官僚を追い出せば、計画経済が崩壊するとの危惧が存在しているという。それが、ソ連邦での政治闘争の休止、官僚の一次的安定の原因であると考えていた。

レーニンは、1917年10月のロシア革命の前夜に書き上げた『国家と革命』のなかで、パリ・コンミューンの経験に関するマルクスの分析に論及している。レーニンの描いた構想はこうだ。社会革命と政治革命が、最終的に国家を消滅させるものであるとした、そのためのプロセスは、プロレタリアートは、まず、ブルジョア国家から政治権力を掌握し、政治的支配権を手に入れ(プロレタリアート独裁)、国家を支配階級として組織された武装したプロレタリアートに変えなければならない。これがプロレタリア革命によるブルジョア国家の「廃絶」である。その際、このブルジョア国家からプロレタリア国家への転換は、暴力革命をぬきにしては不可能である。そして、プロレタリアートは国家権力、中央集権的な権力組織を必要とする。それはブルジョアジーの抵抗を抑圧するためであり、社会主義の新たな経済的体制を創出する作業において、圧倒的多数の住民、農民、プチブル、半プロレタリアートを組織化するためである。

そして、革命により奪取した国家機関は、でき合いの国家機関を、自分自身の目的のために使用することはできない。新しいプロレタリアートの国家機構は、常備軍の廃止、公職者の公選制、すべての役職のリコール権の対象にすることなどである。特に、レーニンがこだわったのは、議員報酬や高級国家官僚の俸給の引き下げなど、官吏の経済的特権の廃止の問題であった。なぜなら、新しい国家では、だれでもが官吏であることによって、だれもが官吏でない社会の原則が、新しく産まれるからだ。そうなれば、官吏の仕事は、通常の労働者の賃金で遂行できる程度にまで、簡単な機能になる。これは、従来の国家ではなく、プロレタリア「準国家」または「半国家」に移行したことになる。ここでは、国家は、従来の特定の階級を抑圧するための特別な権力という枠組みをこえ、すでに本来の意味では国家といえないものに変質している。

ただし、その準国家または半国家は、あくまでも過渡的な国家であり、すぐさま国家の「死滅」に向かって歩を進める。なぜなら、社会主義の終着駅とは、国家死滅の過程であるからである。「準国家」、「半国家」では、プロレタリアは、上から国家官僚の指揮をうけることもなく、それにかえて、すべての人々が国家の任務を支えるようにならなければならない。そのためには、国家行政の機能を単純化し、それを住民の大部分に務まる「監督と会計」という単純な作業に変える。また、出世主義を完全に排除するため、国家行政ポストを労働者と同等の賃金にするのである。これがプロレタリア革命を成就するための第一段階である。

そして、言葉の厳密な意味において、国家の「死滅」というのは、社会全体の名において生産手段が社会化されたあと、この段階になると、資本家の抵抗もなくなり、資本も階級も消滅し、すなわち社会主義社会が成就した後の段階である。その過程を、国家が「死滅」をはじめる段階と呼ぶのである。なぜなら、階級対立のない社会では、抑圧を必要としないので国家も必要ない。存立条件そのものを失うからである。だから、プロレタリアートに必要な国家は、「死滅していく国家」、ただちに死滅しはじめ、必ず死滅するように設定されている国家のみである。

 次に、レーニンは、国家の「死滅」の経済上の原理の問題を明らかにした。レーニンは資本主義社会から共産主義社会の間にある移行期をとりあげた。それは、政治的にはプロレタリア独裁でしかありえない。しかし、資本主義を母体としてこの世に生まれたばかりの共産主義社会は、共産主義社会の第一段階=社会主義社会と称すべきものである。この経済的段階は次のようなものである。

 

《生産手段はすでに個々人の私有を脱し、社会全体のものとなっている。社会の各構成員は、社会に必要な仕事を決められた量だけこなし、かくがくしかじかの仕事量をやり遂げたという証明書を社会から受け取る。そしてこの証明書に基づいて、消費財用の公共の倉庫から、しかるべき量の生産物を受け取るのである。したがって各労働者は、社会的ストックに充てられた労働量を控除された上で、社会にもたらすのと同じだけのものを社会から給付される。》      『国家と革命』 レーニン著 角田安正訳

 

これはマルクスの説明からみて、依然として「労働に応じて」消費財を分配せざるをえないという点で、「ブルジョア的権利」にとどまっているとレーニンはいう。したがって、共産主義の第一段階は、まだ、十分に公正と公平をもたらすにはいたらない。

次の共産主義社会のより高度な段階=共産主義社会に達すると、分業とは訣別し、頭脳労働と肉体労働の対立も解消され、人間社会の生産力が飛躍的に発達する。そうなれば、「各人は能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」ことができるようになる。こうなってはじめて、国家が完全に「死滅」する終局の段階にいたる。ブルジョア的権利の視野の狭さを克服されるこの段階になってはじめて、生産物の分配についても、各人が受け取る生産物の量を、社会の側から規制する必要がなくなるからである。これが国家の完全な「死滅」につながっていく経済的な段階である。

 国家にたいして、プロレタリア革命がいかなる態度をとるかは、レーニンは、このようにその原則を明瞭に示した。しかし、歴史は皮肉にもレーニンの思惑とはまったく対極のソヴェト国家をもたらしたことをおしえている。レーニンは、「ソヴェト」をパリ・コミューンのコミューンに模擬した。ところが、政権奪取した国家そのものは、死滅するどころか、党と官僚組織を抱きこみ、ますます肥大化し、テロと粛清と相互不信の恐怖政治が渦巻く政治、思想が産まれている。その後のソ連邦の歴史は、レーニンの思想をことごとく裏切った。

なぜこのような国家になってしまったのだろうか。レーニンとともにロシア革命を指導し、やがて左翼反対派となったトロツキーは、スターリンによるソ連邦追放後、『裏切られた革命』で、スターリンをやり玉にあげてそう書いた。ソヴェト体制は、もともと、党が官僚にたいして牽制していた。官僚が国家を動かしていたとしても、党がその官僚を統制していた。党がつねに官僚とあるときは、公然と、また隠然と闘っていた。ところが、スターリン一派が、自らつくった機構に党を従属させ、しかもその機構を国家機構と癒着させることによって、責任の二分状態を破壊してしまった。こうして、官僚専制の全体主義体制はできあがった。スターリンの勝利は、スターリンが官僚にたいして奉仕をおこなったからこそ確保されたという。そして、トロツキーは、次のように続けている。

 

《たしかにソ連の理論家や創建者たちは、国家はまったく透明で弾力的なソヴェト体制のおかげで社会の経済的・文化的進展の諸段階に応じて平和的に変形し、溶解し、死滅していくことができると期待していた。しかし実は現実はこんども理論が期待していたより複雑であった。後進国のプロレタリアートが最初の社会主義革命を遂行するという運命を負わされた。あらゆるデータから判断して、プロレタリアートはその歴史的特権にたいして第二の、補完的な革命-官僚絶対主義にたいしての-をもって報いなければならないであろう。      ……中略……

 問題はひとつの支配的徒党を別のそれととりかえることではなく、経済の管理と文化の指導の方法そのものをあらためることである。官僚専制はソヴェト民主主義に席をゆずらなければならない。批判の権利と真の選挙の自由を復活させることが国のいっそうの発展の不可欠条件である。それはボリシェヴィキ党をはじめとするソヴェト諸政党の自由の復活と労働組合の蘇生とを前提とする。経済に民主主義がとりいれられるということはさまざまな計画を勤労者のためになるように抜本的に検討しなおすということを意味する。経済問題の自由な審議は官僚の誤りとジグザグがもたらす間接費を低下させるであろう。高いおもちゃ-ソヴェト宮殿とか新しい劇場とか見てくれのいい地下鉄とか-は労働者用の住宅のために押しのけられるであろう。「ブルジョア的な分配基準」は厳密にそれを必要とする範囲だけに限定され、社会の富の増大につれて社会主義的平等に席をゆずっていくであろう。官位はただちに廃止され、勲章などというくだらないおもちゃは坩堝行きになる。青年は自由に呼吸し、批判し、誤りをおかし、おとなになる可能性を手にする。科学と芸術は枷から解き放たれる。最後に対外政策は革命的国際主義の伝統に立ちかえる。》

              『裏切られた革命』 トロツキー著 藤井一行訳

 

 少なくともトロツキーにとっては、レーニンの掲げた国家像を裏切ったのは官僚専制であり、スターリン主義であった。彼が第二補完革命の対象とするのは、官僚絶対主義であり、スターリン主義のことをさしていた。レーニンの想定したプロレタリア独裁の体制は、そもそもの誕生のときから、すぐさま古い意味での「国家」である機構をやめるはずだった。官僚機構としての国家は、プロレタリア独裁の初日から死滅しはじめる。ところが、この国家は死滅しなかったばかりか、死滅しはじめようともしなかった。この前提が狂ってしまった。そればかりか、史上かつてなかったように、官僚が大衆に席をゆずって消滅するどころか、大衆のうえに君臨する無統制の権力に転化してさえいる。マルクスやレーニンが描いた労働者国家の構想と、スターリンがつくりだした国家の間には、かすみがかかったような遠い距離がある。

それはなぜか。トロツキーは言う。以前に支配していた階級の残滓ではなくて、《物質的な欠乏、文化的な後進性、およびそこからでてくる「ブルジョア的権利」の支配-もっとも直接的にかつ鋭く各々の人間をとらえる分野、つまり個人の生存の保障という分野での-のようなはかり知れぬほど威力のある諸要因なのである。》と。

 つまり、トロツキーの主張しているのは、レーニンの国家理念が、ソ連邦が帝国主義戦争と、内戦による国土の荒廃という歴史的地盤のうえで、先進資本主義国家におよばない経済的後進性と、国際的孤立性のなかにいることを前提にして、問題提起していなかったということである。しかも、レーニンをはじめ、初期の革命コースのなかに「一国における社会主義」など想定していなかったのである。しかし、革命的危機は、ヨーロッパに社会主義革命をもたらさず、現実には、国際的な支援もなかった。レーニンが「息継ぎ期間」と考えていた期間が、こうして歴史的時間となってあらわれたのだ。このため、資本主義にさえおよばない低い労働生産性が、不公正な分配とカースト制度をまねいた、という。

トロツキーによれば、ソ連の歪曲は、こうして理由づけられる。しかも、当の国家官僚はそのことを理解していないし、理解しようともしない。なぜなら、その無自覚が、彼らの特権を保障するものだからだ。だから、官僚はその経済・外交政策上のジグザグな失敗を覆いかくす。だからこそ、社会主義の原則に反していようと、「社会主義を完成した」などという、嘘を嘘でかくすことを繰り返すのだ。

 しかし、トロツキーから見れば、こうした官僚は、ある面では、プロレタリアートの反動によってはぐくまれた。革命のあとの長引く疲労と失望が、大衆を次第に離反させていったのだ。革命的な英雄主義が、無気力と出世主義へと席をあけ渡した。くわえて、コミンテルンの誤った指導にもとづく、ドイツや中国の国際的な革命運動の敗北が、大衆に失望感をあたえた。官僚が機構の凡庸さの最高の表現として、スターリンという指導者を選びだしたのは、そういうときだ。その結果、その官僚たちは、ボリシェヴィキ党を打ち破り、その墓堀人となった。これが「ソヴェト・テルミドール」の実体であった。かつてのボリシェヴィキ党は死に、体制は全体主義が支配した。

対外政策においても、ソ連邦は、「一国社会主義」論が「世界革命」論を退けた。トロツキーは、10月革命を世界革命の序章とみていたが、みずからが、世界の発展に大きく依存しているにもかかわらず、それを放棄した。ソ連邦の敗北は、世界プロレタリアートの主力部隊の敗北であった。官僚はソ連邦を《ヨーロッパ=アジアの現状維持の体制の中に含めることによってソ連邦の不可侵に保険をかけるという考え》に到達したのである。

 そして、トロツキーの掲げた社会主義の理想は、なぜ裏切られなければならなかったのか。トロツキーによれば、その悲劇は、もともとロシアにおけるプロレタリア革命が、資本主義の最も弱い環から誕生したことに由来するという。この国のプロレタリアは未成熟であり、それに加えて内戦と国際的孤立があいまって、工業、農業の生産手段の国有化・国家集中に着手したものの、資本主義をこえる経済的条件どころか、資本主義の労働生産性にも及ばない劣悪な環境条件に陥った。消費物資の絶対的な不足は覆いようもなく、できたばかりの労働者国家は、貧困の一般化をまねき、大衆の消費生活を直撃した。

そのような物質的、文化的条件のなかで、国家の機能を「死滅」させることは、とうていできなかった。レーニンが、国家の「死滅」という言葉で考えていたのは、物質的、文化的な条件が、国家を必要としないまでに高度化していることが前提にあった。だから、そのような条件がないところで、国家は「死滅」するどころか、官僚専制支配を永続化させ、あわせて、官僚はその特権を再生産させる動因になったのだ。

ここにおいて、トロツキーは、ソ連邦のこうした「堕落せる労働者国家」を打破するための第二補完革命を不可欠としているとした。ソヴェト民主主義が官僚体制にとってかわらなければならない。そして、経済機構に民主主義がとりいれられることによって、さまざまな計画を勤労者のためになるように、抜本的に検討しなおすことが必要である。いままで経済問題は、官僚の統制のもと自由な審議がなされなかった。そして、「ブルジョア的権利」ではなく、経済的平等の理念が見直されなければならないという。

 トロツキーは、官僚専制国家ソ連邦を、資本主義と社会主義の中間にある矛盾を含んだ過渡期社会であるといった。そこでは、生産手段の国家的所有が不十分であるが、いまだ社会的変革は、所有関係と社会主義の意識が生き続けている。その一方で、「ブルジョア的な分配基準」があらたな根拠になりつつある。官僚は社会的特権層となっており、無統制な社会主義と、無縁なカースト制度になっている。矛盾が増大すると、資本主義に後退する可能性もある。そして、最後に社会主義に向かう途上においては、労働者が官僚を打倒しなければならないだろうと結んでいる。

 トロツキーはこの過渡期の国家の矛盾した状態を、次のように定式化している。@生産力は、国有財産に社会主義的性格を与えるには、まだまったく不十分。A窮乏に起因する原始的蓄積への傾向が、計画経済の無数の毛穴から吹きだしている。Bブルジョア的性格を残す分配規準が、社会の新しい差別の基礎をなす。C経済成長は勤労者の状態をのろのろ改善しているが、一方、特権者は急速に形成されている。D官僚は社会的対立を利用して、社会主義とは相容れない、何の統制も受けないカーストへ転化した、そのカーストの象徴がスターリンである。E社会革命への意識は大衆の間に残っている。F矛盾の一層の発展は、社会主義か、資本主義かの方向をとる。G反革命の勝利には、労働者の抵抗打破が必要。H労働者が社会主義に向かうためには、官僚の打破が必要。そして、この問題の解決は、ソ連邦国内と世界双方の舞台での、生きた社会的努力の闘争が決定するだろう。

ドイッチャーも、トロツキーと似た観点から、ロシア革命の変節を描いた。ドイッチャーは、ソヴェト・ロシアの革命を「未完の革命」として、持続と断絶の両面から次のように追認している。そのひとつは、ロシア革命は、ブルジョア革命と社会主義革命を結合したものだった。だからこそ、この二つの革命の衝突が、その後のソ連邦の国内体制を支配した。これは労働者と農民の対立として、あとあとまで尾をひいた。その上、生産力の社会的編成のブルジョア化ができていないところに、計画経済をもちこんでしまった。

 

《ロシア革命の困難は、ロシアがまた未開発国におこるすべての社会主義革命に固有な矛盾にもとらえられたため、いっそう重大になった。マルクスは、ブルジョア社会の子宮のなかで成長し、成熟する社会主義の胎児についてかたっている。ロシアでは、社会主義革命は妊娠のずっと初期の段階で、胎児がまだ成熟するひまもないうちに介入した。その結果は、死産ではなかった。しかしまた、社会主義が生育することができる力をもった肉体でもなかった。》 『ロシア革命50年』 ドイッチャー著 山西英一訳

 

このことは、ロシアが社会主義の必要条件として、豊富な物資と公共施設をもっていなかったこととつながる。つまり低開発国の社会主義を標榜する政権が、同様に当面する事態のなかにいたのだ。こうして欠乏は不平等を産んだ。これにくわえて、何年にもわたる世界大戦と内戦、外国との干渉戦のため工業化は遅滞した。このなかで、労働者階級は内戦で分散し、内部分解がはじまっていた。その階級は、基盤をなくして、もはや社会的勢力としては存在しなくなっていた。これが、体制の官僚的堕落の起源であると、ドイッチャーはみなしている。このような状況下では、「プロレタリア独裁」とか「ソヴェト民主主義」は空洞化したスローガンにすぎなくなった。労働者階級が不在のあいだ、官僚はプロレタリアートにかわって「独裁」を行使する代理権を獲得したのである。ここに、官僚独裁、無統制の権力および権力の腐敗が待っていた。

その上、表向きの、一時しのぎの方便にすぎなかった単一政党制が永続化した。これは、明らかにレーニンやトロツキーの当初の意向や思想に、根本的に反していた。体制の変容は革命の思想の堕落であった。やがて、人々は、社会主義とは、国有化と計画経済のみでなく、スターリンの個人崇拝、特権主義、反平等主義、国家の警察化と裏腹であることをおもい知らされることになる。スターリン主義は、公式の理論になったため、社会主義とマルクス主義の堕落とともに、国際的にも、西欧などの労働運動にも、たれ流され、甚大な影響を及ぼした。ロシアでは、革命の熱望と革命の現実は、ほかのどこよりもはるかにかけ離れていた。革命はこの矛盾をひたすらかくすため、さらにテロルと粛清を、拡大再生産させねばならなかったのである。

 ここでは、多くの歴史家とおなじように、トロツキーと区別がつかないほど、うりふたつの論理が語られている。つまり、資本主義が未成熟なまま、プロレタリアートが政治権力を掌握したということ、また、それが国際的孤立の代償をはらわねばならなかったこと、そして、その貧困の一般化が、官僚化をまねいたことなどである。しかも、それらが、トロツキーが、当初、考えていた革命のイメージを大きく歪めた(堕落させた)というのである。ここにあるのは、内外の社会的情勢が、社会主義の道をゆるさず、不可避に社会主義への所定のコースを、大きく逸脱せざるをえなかったということである。こうして、現実は当初の「理想」と大きくくいちがってしまった。

 だが、わたし(たち)は、そのような「現実」が「理想」を裏切った(堕落させた)などという「歴史」概念は、「解体」されなければならないとおもう。なぜなら、それは悪しき教条主義につながるし、「理想」は「現実」に沿うようにつくられるべきであるとおもうからである。また、その「歴史」概念には、現実のソ連社会にたいする目線の錯誤がかくされているからである。

ドイッチャーは次のように述べている。

 

《ロシアにとってこの発展は、戦争、軍備競争、そして官僚的浪費によって、必要以上にはるかに困難にされたが、その発展のあいだ、つねに新しい矛盾が生まれた。そして、手段と目的がたえず混同された。国富が蓄積されつつあったとき、生産者でもある消費者大衆は、引きつづく、そしていっそう悪化さえした欠乏と貧困にさらされた。…中略…最初、革命によってつくり出された社会的、政治的制度は、国民の物質的、文化的存在の現実の水準の上に、高くそそり立っていた。ついで、その水準が高まるにつれて、社会的、政治的秩序は、官僚とスターリニズムの重みによって、その下へ押し下げられた。目的さえ、手段の水準へ引きおろされた。階級なき社会の理想的イメージは、この過渡期のみじめな困窮と、富の原始的蓄積のむき出しの必要とへ引きずりおろされた。》

『ロシア革命50年』 ドイッチャー著 山西英一訳

 

ここには、革命の持続性に対するシンパシーと同時に、その歪曲にたいする憤りの流れのままに、奇妙にねじまがった論理がある。ドイッチャーは、ここで社会的優先の順序の逆転や、目的と手段の混乱をみつけだしているが、目的が「理想」的イメージで、手段が物質的困窮や官僚制としてあるのであれば、本来なら、これは、全く逆でなければならない。まず、目的であるのは、「国民の物質的、文化的存在の水準」の「現実」的な向上であり、そのために「理想」はどうあるべきかが問われなければならないはずだ。にもかかわらず、ドイッチャーは、ブルジョア社会の未成熟としての不利な条件と、国際的孤立が欠乏や不平等を産んだ。このため、あらかじめ描かれたイメージにそって「現実」は推移しなかったという。ほんとうは、これと全く逆の発想で、歴史は描かれねばならない。そういう欠乏や世界大戦があったからこそ、実は、革命は「理想」を必要とし、必然化したのである。この認識の必要性は、ドイッチャーのみならず、トロツキーも含めて、あらゆる革命者に通じる。

ドイッチャーは、労働者と農民の二つの階級の結合が、やがて革命後のロシアの矛盾を拡大したというが、それは結果からみた推論であり、プロレタリア革命が起こったのは、当時の大衆の経済状況と、長引く世界大戦による疲弊という、それ自身、他の歴史には還元できない理由があった。そのことを頭においておかないと、トロツキーら、左翼反対派からみると、歴史はすべて陰画になってしまう。まるで、ほんとうのあるべき歴史と、そうでない歴史がふたつあるかのような錯覚をおぼえてしまうのだ。歴史がふたつないのと同様に、「現実」はひとつしかない。ひとつの「現実」が、その不可避性におされて「理想」を産みだしたのである。そして、「現実」はスターリン主義官僚を産みだし、そこから脱出するため、みずからの「理想」が力をえたのである。

ドイッチャーは、「理想」の鏡をとおして歴史をみている。だからこそ、「現実」は逆立ちして映るのであり、それ自体、「理想」と「現実」の逆立ちである。まず、「現実」があり、その不満や願望が宗教を産むのとおなじように、「理想」という現実の吐息を生む。ここでは、まず、「理想」があって、それとは逸脱した現実の理由づけを、あれこれさがしまわっているのだ。ここで、ドイッチャーは、正しいことを正しく言ってしまっている。しかし、ドイッチャーが批判するスターリン主義官僚たちだって、ドイッチャーと同程度の歴史認識をもっていたのはまちがいない。だからこそ、逆説的にテロルや収容所をつくったのだ。それは誰のせいでもない。それ自身、彼らが頑固にもっている「理想主義」の所産なのだ。

 トロツキーは、官僚制度にたいしては、資本主義にさえおよばない低い労働生産性が、不公正な分配とカースト制度をまねいたと、その成り立ちをとらえている。にもかかわらず、わたし(たち)の見方によると、「ソヴェト・テルミドール」以前へ大衆の意識改革を切望しているかにみえる。スターリン主義官僚は、現実を捩じ曲げ、虚偽の情報をたれ流しながら、無責任にもジグザグな政策を大衆に押しつけた。この官僚は、かつての支配階級が、生産力を一定の水準まで引き上げて、打倒されていくという歴史的役割を演ずることもなく、ソ連邦経済のブレーキになっている。しかし、こういう結果を招いたのは、トロツキーの思想が、自己弁護する理由の余地なく、ソヴェト・テルミドールを避けるための必須の条件である「国家の解体」の思想を欠如していたからである。そこに帰着する。

トロツキーのおかれた立場は、ドイッチャーとはちがう。彼の言動は、ロシアの「現実」そのものであった。革命の只中で革命を指導した。その点、理想と現実の狭間に逃げ込むことは許されなかった。もちろん、トロツキーであっても言い分がある。もともとロシアにおけるプロレタリア革命が、資本主義の最も弱い環から誕生したことに由来する。また、プロレタリアが未成熟であり、それと内戦と干渉戦と国際的孤立があいまって、工業、農業の生産手段の国有化・国家集中に着手したものの、資本主義をこえる経済的条件どころか、資本主義の労働生産性にも及ばない劣悪な環境条件にあった。消費物資の絶対的な不足は覆いようもなく、できたばかりの労働者国家は、貧困の一般化をまねき、大衆の消費生活を直撃した。そんな物質的、文化的条件のなかで、「国家の解体」をさせることはとうていできなかったというように。

これは、もともと、トロツキーの「国家の解体」の思想が片翼飛行になったためで、「世界革命」の理念の不備と交差してしまったからである。また、「国家」というものの本質が、何ら理解できていない段階で、「世界革命」という言葉を、構造的に捉えていなかったからである。マルクスにとっては、「国家の解体」は、大衆の生活利害を向上し、物質的・精神的豊かさと一致していた。「国家の解体」とは、大衆の生活水準が少しでもよくなることと同義である。だからこそ、マルクスは「国家の死滅」をもって人類の前史が終わると言ったのである。人類の経済的生活、文化的生活が向上するための条件としては、「国家の死滅」が最終の段階である。このことが、忘れられ、逆転してレーニンのように「国家の死滅」が、経済的生活の改善の結果とみなされたときから、トロツキーの「国家の解体」と「世界革命」の理念の片翼飛行は避けられなかった。

国家と国家の関係は相補的であり、また、構造的でもある。そもそも、トロツキーの「世界革命」の理念は、ソ連邦の国際的孤立の中から産まれた。にもかかわらず、その理念は「国家の解体」を目標に掲げた国家であった。当然、その「国家」=「人民委員会議」は他国に開かれ、自国の一般大衆にたいしても開かれていることが必須条件だった。しかし、トロツキーたちには、国家を開くことが、プロレタリア独裁の崩壊やドイツ軍の侵入、干渉国の侵略とオーバーラップして、国家の敗北や大衆の離散と同様に受け取られたのである。国家が開かれることが、官僚主義を廃絶し、他国との講和を促進することにつながり、大衆の生活に、何の影響も及ぼさないにもかかわらず、支配階級としてのプロレタリア独裁の名目上、自国を閉じてしまったのである。そして、当然、相補的に他国の国家も不可避に閉じられ、大衆意識の自由な交流にも蓋をし、閉塞感をともなうことになったのである。

トロツキーとボリシェヴィキの理念そのものに、最初から歪みが生じていたとしか考えられない。そういう位置から、スターリン主義を非難することは、絶対できないはずだ。「国家を閉じ」ようとする最後の意志が、スターリンに体現されているとすれば、いわば、トロツキーの思想もその鏡にすぎないからだ。

その上、トロツキーは、10月革命の生んだソ連邦が、社会主義の成果として、生産手段の「国有化」と「計画経済」という資本主義にない体制を樹立したことに、強い愛着と誇りを抱いていた。しかも、トロツキーは、官僚支配層は、労働者にとって、自分たち自身の獲物を一時、見張っている番人にすぎないという。しかし、トロツキーはここで、「国有化」と「計画経済」とを絶対視してしまっている。この革命が唯一獲得したものとしての「国有化」と「計画経済」を、ぶらしてはならない軸であるかのように経済政策を考えているが、果たしてそうだろうか。マルクスは生産手段の社会化を唱えた。マルクスが言いたかったのは、資本制社会において必要だったのは、恐慌の理論でも、労働力商品の理論でもなかった。資本の私的所有を対象にし、その回復運動が共産主義であるととらえ、次のように述べている。

 

《コミューン(パリ)は、多数者の労働を少数者の富とするところの、あの階級的所有権を廃止しようとしたのである。それは、収奪者の収奪を目指したのである。それは、いまでは主として労働を奴隷化しこれを搾取する手段となっているところの生産手段、即ち土地と資本とを、単なる自由で且つ協力的な労働の要具に転化することによって、個人的所有権を一個の真実とすることを欲したのである。》

『フランスの内乱』マルクス著 木下半治訳

 

マルクスは、すべての企業を「国有化」し、「計画経済」を適用するなどということは、一言もいわなかったはずだ。『共産党宣言』の中で、唯一、言っているのは、国家的所有は、国立銀行によって信用を国家の手に集中すること、およびすべての運輸機関を国家の手に集中する二項目だけだ。いはば、マルクスの主意は、公的な企業で、そうすれば生産性が大幅に上がると見込まれるか、大衆の必需消費生活のうち家計に占める比重が大きく、しかも、リスクがともなう部門に限って、国家的所有を認めただけなのである。

生産手段の社会化とは、革命化した政治的大衆が、政治の舞台から下降して、大衆そのものに戻った場所で、自主管理を行うことなのである。アナルコ・サンジカリズムは、政治的国家に対抗する「政治的」拠点を必要とするが、ソ連邦のように大衆が、国家の権力を掌握したならば、企業や農業を国有化や計画経済の方向に大衆の生活を上昇させる必要はないので、「国家を解体」し、そのまま政治的衣装を脱ぎ捨てた「ソヴェト」を分散して、やがて「ソヴェト」自体も地域のなかに溶けこむように、自主的な労働者管理を行うことで十分なのである。これが、トロツキーの思想と異なって、「ソヴェト」と政治的国家の関係にたいする、ほんとうの理解なのである。なぜなら、「ソヴェト」そのものが政治的機関であるにはちがいないからだ。したがって、「国家の死滅」の対象には、当然、「ソヴェト」そのものも含まれるはずだ。そして、そうなるためには、その前提として、初めに「国家の解体」を直ちに行うべきであったのである。

そして、ソ連邦のもうひとつの課題は、革命後の「ソヴェト」が何ら権限をもたず、レーニンを議長とする人民委員会議に、すべての権力を寄託してしまったことである。もともと、国家としての権力は、ソヴェトにあったはずだ。それがいつのまにか、人民委員と各省庁の官僚の手に実務を移管してしまったのである。「国家の解体」ができなくなった理由のひとつはこの点にある。

次に、トロツキーに伏在する誤謬は、「国有化」と「計画経済」そのものにたいする評価の問題である。トロツキーにとっては、革命の成果そのものである生産手段の「国有化」や「計画経済」その他の獲得物は、帝国主義から死を賭して守らなければならない貴重な財産であった。だから、祖国防衛論(ソヴェト国家防衛)は、トロツキーの一貫した主張であった。そして、スターリン的な特権官僚階層を打倒することによって、はじめて革命の獲得物は、労働者、農民に還元されるものと考えられていた。しかし、国家が国民経済を牛耳ることになれば、それ相応の官僚の肥大化は、まぬがれないのは自明である。もともと、生産手段の「国有化」と「計画経済」の思想が、官僚の一掃と矛盾しているのである。生産手段の「国有化」や「計画経済」がなくなれば、官僚自体不要になる。また、逆に、官僚がいなくなれば、生産手段の「国有化」や「計画経済」は姿を消し、社会化された労働が産まれてくるのである。そのためには、トロツキーは、スターリン主義官僚批判をする前に、「国家の問題」とその構造を検討すべきであった。トロツキーの必要以上の革命の祖国防衛論(ソヴェト国家防衛)の誤りの根拠もここにある。

トロツキーは国有化擬制論にも反対し、「計画経済」と存亡をともにする「国有化」は万人の利益にかなった現実的な力であり、擬制ではないと考えていた。そして、計画経済にもとづく経済の進歩こそ、ある程度まで、官僚に権力の源泉を提供するが、また、この経済の進歩こそが、逆に、官僚主義者の専制と寄生性に反逆すると考え、第三の社会形態をソ連邦に求める必要はなく、すでに確立された所有関係を、基礎にする補足革命で十分であるとしたのである。ソ連邦に必要だったのは、補足革命ではない。だからこそ、1991年まで70年も要したのである。

 ところで、『裏切られた革命』が刊行された頃、ソ連邦では、有名な「スターリン憲法」(1936年)草案が審議されており、この年の11月の第八回臨時全連邦ソヴェト大会で満場一致で採択された。そこでは、搾取階級はすべて一掃され、生産手段の社会的所有が、新しい社会主義制度の揺るぎない基礎として確立されたこと、つまり、社会主義制度は勝利したと宣言されている。新憲法は、ソ連における一国社会主義の勝利宣言を法的に確認したものだった。

 スターリンの一国社会主義の勝利宣言と、トロツキーの同時点での考えとは、どれほど隔たっていたのか。トロツキーには、ソ連邦は、資本主義と社会主義の中間にある矛盾した過渡期社会であり、社会主義への前進も、資本主義への逆行も可能な社会と捉えていた。官僚は、社会主義と相容れないカーストに転化し、社会主義革命は裏切られたが、大衆の意識のなかには、依然として生きつづけ、矛盾が爆発すれば、官僚は反革命として、労働者は革命として立ち現われる。国内と世界の「生きた社会的勢力の闘争」によって、ソ連邦の帰趨は決定されるだろうと述べていた。

更に、亡命中のトロツキーにとって、重大な問題は、このような官僚カーストの牛耳るソ連邦の対外政策、つまり、国家としての公的な外交政策と、コミンテルンを通じてのソ連共産党の「私的」な外交政策、つまり、ソ連邦という一国社会主義防衛に、各国共産党の独自政策を、すべて従属させるような外交政策が、ヨーロッパの危機、とりわけファシズムの台頭に手をさしのべている、という点にあった。

 1938年、第四インターナショナル創立協議会で、「過渡期綱領」が採択された。それによると、より明確に、資本主義復活を日一日とすすめているテルミドール的官僚の打倒が主要な政治的任務とされ、ソ連邦における新しいスローガンは、社会的不平等と政治的抑圧の打倒となるだろうとされた。そして、ソヴェトから、官僚と新しい貴族を叩き出し、本来のソヴェトの姿をとりもどすこと、つまり、労働者、一般の集団農民、農民および赤軍兵士代表のみによって構成されるべきと主張している。

死の3か月前、彼は、ソ連邦の労働者たちへ手紙を書き、ソ連邦の「寄生虫的官僚」の一掃のために、労、農、兵がこぞって「蜂起」を起こし、10月革命を、全世界に拡大しようと訴えている。そして、このような「蜂起」を準備するための組織として、第四インターナショナルへの結集を呼びかけている。

だが、官僚を、寄生虫の一面のみから見ることは正しくない。それは、過渡期社会の必然的な本質的な問題であり、「叩き出す」ことによって解決できる問題ではないからだ。だから、このトロツキーの官僚認識は、彼の「世界革命」の思想と密接に関連していると考えるべきである。先進国の革命、あるいは同時に起こった革命なら、国家機関として官僚を必要としないはずだからである。もし、トロツキーが、ロシアの革命が、「世界革命」として頓挫したから、官僚主義が発生したと考えていたとしたら、まだ望みがあった。

 そして、生産手段の「国有化」や「計画経済」は、官僚を産む原因にもなると考えたなら、トロツキーの主張は矛盾していなかった。また、生産手段の国有化、計画経済で、労働者の非能率、不経済、低労働生産性を解決しうると考えているが、これも、その後のソ連邦の歴史が証明してくれている。トロツキーは、レーニンの『国家と革命』を実地に移した鏡姿の幻影を見ているのかもしれない。しかし、確かなことは、マルクスの思想、またはパリ・コミューンの思想とは根本的に背馳しているということだ。

マルクスはトロツキーのような頓馬なことはいわなかった。官僚がなくなること、役人として一般労働者から特別扱いされることそのものにメスを入れ、世界革命の視野から世界史的に労働者革命を遠望していたのである。そのために、トロツキーに不足していたのは、「世界革命」と「国家の解体」の世界史的意義であった。

 さらに問われていたのは、この官僚群が階層に属するのか、階級として現われているのかという問題点があった。1937年11月、左翼反対派の同志クレポーのスターリン主義官僚は、搾取階級であるとの見解を論駁した。その際、トロツキーは、国有化された計画経済をとりだし、生産力の比類ない発展の可能性を秘めたすぐれた体制をもつ国として、ソ連のことを捉えていた。そして、官僚制は、マルクス主義的な意味での、つまり生産手段の所有という意味での階級ではないとみなしていた。であるがために、ソ連の体制は帝国主義と同質ととらえてはならず、日本、ドイツとソ連の戦争には、後者の防衛にまわらなければならないというのである。

 このようなトロツキーのソ連防衛論は、いうまでもなく、トロツキー支持者の間に深刻な亀裂を生ずることになった。とりわけ、1939年8月のポーランド分割を決めた独ソ不可侵条約の締結と、同年11月のソ連のフィンランド侵攻は、世界の反ファシズム知識人を唖然とさせ、ソ連邦からの離反を招いた。そして、ソ連邦の本質についての疑義を噴出させることになった。しかし、それでも、トロツキーは、ソ連邦防衛の姿勢を崩すことがなかった。ソ連邦のこの行動は、労働者が行ったものではなく、一部の官僚、軍人などのスターリン主義者が行ったことであり、ソ連邦の本質においては、「プロレタリアートが支配しているものの、被抑圧階級としてとどまっている」ことに原因があるというのである。そして、戦争そのものの抑圧の原因は、世界帝国主義の側にあり、抑圧の伝達機関は官僚制であると述べている。これは、トロツキーが「支配階級にして同時に被抑圧階級」というソ連邦の労働者の位置づけを、ソ連防衛論の根拠にしたものである。このトロツキーの言葉をいいなおせば、ソ連は理念としては労働者国家であるが、現実には一部の官僚に支配され、帝国主義国家との戦争もいとわない国家だというのだ。こういう、本質と現象の使い分けによって、けなげにも、トロツキーは、スターリニストと、一般の労働者、農民の立場を区別しようとした。

 

18 インターナショナリズム(第四インターナショナル)

 

1933年7月、トロツキーは次のように書いている。

 1923年に形成された左翼反対派は、コミンテルンを改良し、これをマルクス主義的批判と内部における分派活動をつうじて再生させることを、自己の任務としてきた。しかし、ソ連邦のスターリニスト官僚は、法外な力で自らを武装し、自己の階層の利益を、歴史の発展の要求に反して守りぬくことにぬかりなかった。しかし、この改良の方針は間違ってはいなかった。ボリシェヴィキ・レーニン主義の再生に機会を与えたからである。しかも、ボリシェヴィズムは左翼反対派の中で生きていることが、確認できたからである。今後、左翼反対派の出発点は、第三インターナショナル(コミンテルン)の歴史的崩壊を出発点としなければならない。このように言ったトロツキーは、その舌のねもかわかぬうちに次のように言う。

 

《ソヴェト連邦の存在は、労働者国家として極度に堕落しているにもかかわらず、現在においてなおはかり知れない革命的な意義をもつ事実である。ソ連の崩壊は全世界において、恐らく来るべき数十年にわたって、恐るべき反動をもたらすであろう。最初の労働者国家を維持し、再生し、強化するための闘争は、社会主義革命のための世界プロレタリアートの闘争と不可分に結びついている。スターリニスト官僚の独裁はソ連の後進性(農民の優勢)と西方におけるプロレタリア革命の遅延(プロレタリアートの独立した革命党の不在)の結果として生じた。こうしてスターリニスト官僚の支配は、ソ連におけるプロレリアート独裁の堕落のみならず、また全世界におけるプロレタリアの前衛の恐るべき弱化をもたらした。》  『第四インターナショナル』トロツキー著 大屋史朗訳

  

  ソ連邦は堕落しているにもかかわらず、その存在が革命的な意義をもっており、その崩壊は、世界に多大な悪影響をもたらすというのである。なぜ、堕落したソ連邦を崩壊させることが、全世界のプロレタリアートの前衛を弱化させるのだろうか。ここでは、トロツキーの一番駄目な点が露出している。史上はじめて誕生した「労働者国家」ソ連邦を擁護することが、あたかも輝く中心の星のまわりをまわっている大小の国家を、自ら指導することが、唯一の革命の摘出子であるかのように、世界の革命的プロレタリアートの必須の任務と考えているところだ。この信念は、がん細胞のようにトロツキーの内臓深く食い入っている。しかも、ソ連邦を「労働者国家」と呼ぶことが、ほんとうに正しかったのかどうかは、現実のロシアの大衆が決めることだ。もしかしたら、大衆には「国家資本主義」あるいは「擬似社会国家主義」としか映っていないかもしれない。彼が「労働者国家」と呼ぶ根拠は、生産手段の国営化と計画経済を実施した初めての国家ゆえである。

なぜ、そんなにソ連邦を防衛しなければならないのか。なぜなら、西欧でのプロレタリアートの革命が勝利することがなければ、ソ連邦は軍事的脅威から防衛することも、社会主義を存続させることもできない。世界から孤立化するようなことになれば、ソヴェト体制は、すぐに崩壊する危険性があることが前提になっているからだ。だから、世界のプロレタリアートは、ソ連邦に注視し、支援をしてほしいといっているのだ。

それでいて、トロツキーにとっては、今や、そのボリシェヴェキが産みだした「労働者国家」が、スターリン主義官僚によって歪曲され、生産力の停滞と物質的不公平を生み、その上、生命線であったはずの「世界革命」を放棄してしまった。そのマルクス主義からの逸脱に、最大の問題があるといっている。現在のソ連共産党は、党ではなく、統制されることのない官僚の手中の支配装置である。ソ連共産党の枠の内外で、二つの基本的党、すなわちプロレタリア的党と、テルミドール・ボナパルティストの党の分子の結集が起こっている。そして、真のプロレタリア的インターナショナルの再生がなければ、ロシアのボリシェヴィキ・レーニン主義者は、自分たちの力ではボリシェヴィキ党を再生させ、プロレタリアートの独裁を救うことができない。

だから、この逸脱したマルクス主義にもとづく、第三インターナショナル(コミンテルン)も、当然、対外的に誤った判断にもとづき、ドイツの革命を流産させ、スペイン、フランスの人民戦線でも敗北をもたらした元凶である。トロツキーは、これらの原因は、すべて、スターリン主義者の誤った対外政策からでているというのだ。そして、本来の「労働者国家」に戻すには、ソ連邦に第二の政治革命を起こすことによって、スターリン主義官僚を打倒することである。そのため、「第二の世界党」あるいは「第四インターナショナル」を創設することが、世界プロレタリアートの拠点として、世界革命と結合して、ソ連邦を崩壊から救うことができる唯一の方法と言っている。

 わたし(たち)が違和感をもつのは、スターリン主義者に支配されたソ連邦が指導する第三インターナショナル(コミンテルン)の堕落ばかりではない。トロツキーの「革命の祖国防衛」、「労働者国家」という言葉にも、同様な違和感をもたざるをえない。たとえ、トロツキーの言うように、スターリン主義者を放逐したとしても、その革命の祖国から指導-被指導される「構造」そのものに何ら手を触れていないことに、ソ連の逆立ちした「ナショナリズム」の変種を見るからである。トロツキーには分からないかもしれないが、この「構造」こそが、スターリン主義そのものなのだ。この限りで、トロツキーも、単なるスターリン主義者のひとりに過ぎない。トロツキーにとってのインターナショナリズムとは、裏返されたソ連邦のナショナリズムでしかなかった。

たとえ、第四インターナショナルに変わろうと、名称の変更によっては、第三インターナショナル(コミンテルン)が、ソ連邦(革命の祖国防衛)を守るために、各国共産党の戦略、戦術を翻弄し、ドイツ革命を流産させ、そのあげく、ヒトラーと握手をした汚れた歴史的事実をぬぐうことはできない。また、世界革命の名目をつけて、その自国人民の利害を無視して、ソ連邦は、指導・支持・助言、そして戦略の問題にまで首を割り込んで、そのあげく、ソ連邦=擬似革命国家が、衛生国または中・小国から利益を収奪してきたのである。

わたし(たち)は、ほんとうは、もっと早く、レーニンやトロツキーが敷いたレールの歯車を、逆に廻さねばならないことに気づかなければならなかったのだ。革命の問題は、見ようとしなくても、インターナショナリズムとナショナリズムの角逐の問題として捉えなければならなかった。現在、国家が、民族国家として境界を区切られている限りにおいて、「政治革命」は、民族国家の単位に制約されるのは自明であり、階級の対立は、(反)国家の意志をとおして現れてくるものであり、ほんとうをいえば、世界プロレタリアート主体という概念などは、幻想の中にしか存在しない。本来、一国の革命は、誰からの命令・指図をうけるものでもなく、自国人民大衆の利害と要求を第一義に考え、自らの方法で、独自に革命に取り組むべきなのである。でなければ、自国人民大衆は、支配階級のみならず、その上、第三インターナショナル(コミンテルン)からも、二重に疎外された歴史は、東欧世界でも、わが国の戦前、戦後の一時期においても、切実な体験をしてきたはずである。そういう擬似インターナショナリズムの壁を乗り越え、自国の自立した革命を志向すること、それこそが、真の意味でのインターナショナリズムなのだ。

それなのに、レーニンやトロツキーは、その上、世界革命のための「革命戦争」という概念まで捏造した。これは、人民の生命や財産よりも、戦争によって革命のために絶対化する意味において、革命そのものの理念を裏切っていることが分かっていないのである。「祖国防衛戦争」も「革命的敗北主義」も、人民の生命を軽んじる点で同等である。これらを要約すると次のようになる。

 

@       1917年のロシア革命により、史上初の自称「プロレタリア国家」が誕生した。

A       ただし、後進国における社会革命は不可能ということで、トロツキーは先進諸国の援助を期待する世界革命をめざした。

B       そのためには、国際的な組織を作って、他国の革命を援助(干渉)する必要があった。そこで、第一次世界大戦において「祖国防衛主義」に走った第二インターナショナルに対抗して、第三インターナショナル(コミンテルン)を作った。

C       そのうちに、ロシア革命の官僚主義化が進み、スターリン主義を生みだした。スターリン主義は、その自己保身からでた日和見主義、テロル化によって、世界革命を望まなくなった。それにたいしてトロツキーは、スターリン主義体制を裏切られた革命と呼び、スターリン主義テルミドール官僚を打倒し、第二補完革命をめざした。

D       自国のスターリン主義者に牽引される第三インターナショナル(コミンテルン)も、いつのまにか、ソ連邦ナショナリズムに侵食されはじめた。他国の革命勢力に圧力をかけたりはするが、世界革命を実際に成功させるような理念も信念も失った。そればかりか、自国の利益を擁護するためには、他国の人民大衆の闘いを圧殺するようになる。これにたいしても、対抗するため、トロツキーは第四インターナショナルをつくろうとした。

E       西欧先進国における革命の相次ぐ挫折で、そのうちスターリン主義者は、ボリシェヴィキの綱領であった世界革命の理念を完全に放擲し、自前の「一国社会主義」を夢想しはじめた。自国のみで社会主義、共産主義があたかも完成したかのようなプロパガンダが、世界をかけめぐった。

F       だが、インターナショナリズム、ナショナリズムに関する考え方自体は、スターリン主義者とトロツキーの考え方は相似形である。なぜなら、民族国家の枠組みを通り越して、念仏のように一方は、「世界革命」を他方は「一国社会主義」をとおして直線的な民族間の併合を唱えているからだ。

 

1938年9月3日、コミンテルンと訣別してから5年目、パリ郊外で第四インターナショナル創立協議会が開かれた。採択された「過渡期綱領」には、次のような言葉がある。「プロレタリア革命の客観的前提条件は、成熟しているだけではない、いささか腐りはじめている」、「人類の危機は革命的指導部の危機に還元される」。そして、「人類文化の危機にまでなっているプロレタリア指導部の危機は、ただ、第四インターナショナルによってのみ解決しうる」。10月28日、ニューヨークの創立記念集会に、トロツキーは、メキシコのコヨアカンからメッセージを寄せた。アメリカ政府が、トロツキーの入国を許さなかったためである。そのなかで、「われわれの目的は勤労者と被搾取者の、社会主義革命による完全な物質的、精神的解放」であり、第四インターナショナルは、「社会主義革命の世界党」であるとの確信を述べている。

 

19 「社会ファシズム」論への糾弾

 

 トロツキーの亡命期間は、ファシズムの台頭から第二次世界大戦勃発までの時期にあたっている。そして、彼の祖国ソ連邦では、スターリン主義の確立、大粛清、二つの五ヵ年計画の遂行、そしてスターリンの神格化の時期であった。スターリン主義に批判を浴びせつつあったトロツキーは、コミンテルンのファシズムの台頭にたいする対応についても批判した。早くから、ドイツにおけるファシズム勝利の可能性を感じとり、ドイツ共産党および、ドイツ・プロレタリアートに決起を促した。そして、ファシズムの、ソ連攻撃の危険性に警鐘を乱打した。

 しかし、トロツキー以外のだれも、ファシズムの本質と、それが労働者階級と人類の文明にたいしてもっている脅威について、把握しているものはいなかった。ファシズムと対抗する正しい戦略と戦術を描きつつ、労働運動に警告したものはいなかったのである。ファシズム、すなわち帝国主義国における政治的反革命の勝利は、マルクス主義を含む現代の社会思想にとって、スターリン主義と同様に、概念的理解の困難なものであった。しかし、ここでも、この新しい、おそるべき現象の説明において、トロツキーは、彼の同時代人にぬきんでていた。彼以外の誰も、間にあううちに、ファシズムと対抗しうる正しい戦略と戦術を詳細に描きつつ、労働運動にたいして、この脅威にむかって決起すべきことを警告した者はいなかった。

1930年9月、トロツキーは、プリンキポから、ドイツの情勢がきわめて重要な岐路にさしかかっており、国家社会主義が着実に力を増大していることを指摘した。それは、コミンテルンの致命的誤謬に責任があった。ファシズムの台頭は、ドイツ国内の深刻な社会的危機が、プチ・ブルジョアを、その平衡感覚からはじき出している事実と、大衆を導く革命政党の不在という二つの事実から説明できた。大衆運動としてのファシズムは、「反革命絶望の政党」であるとし、このおそるべきファシズムの力量を、ドイツ共産党は過少評価していたのである。

 トロツキーは、社会・経済的形態とイデオロギー形態が対応していないことを指摘した。すなわち、前資本主義的時代の非合理な思考、気分、偉大な力へのあこがれが、ブルジョア社会の潜在的部分で生き残っているという事実について理解していた。これには、貧窮化の脅威を受けている中産階級が、とりわけあてはまるが、ブルジョアジーの一部や没落した知識層、そして、労働者階級の遅れた層においてさえ、そうである。

トロツキーは、他の誰よりも早く、次のような社会的、政治的結論を導き出した。すなわち、緊張が増大し、社会経済的な階級矛盾が、ますます堪えがたくなっているという条件のもとでは、中産階級と、前述した社会階層の相当な部分は、強力な大衆運動に融合し、カリスマ的指導者に盲目的に服従し、資本家階級とその国家機関の一部によって武装し、その血のテロルと脅迫によって、労働運動を粉砕する破壊手段として利用されることがありうるというのである。こうした現象は、ブルジョア社会の危機の一時的解決になる。しかし、長期的には、資本主義の安定化は、一国のみにおける過度の収奪によって、再生することはできない。労働者階級を粉砕し、抑圧された社会を樹立したとき、ファシズムは、そのおそるべき力量を、外部に向けざるをえない。すなわち、新しい植民地と半植民地を獲得し、帝国主義的競争国を従属させ、全人類を隷属化し、世界を支配するという企てに乗りださざるを得なくなるのだ。

 ファシストのイデオロギーと政治集団は、資本家階級の直接的な必要からは、まったく独立し、独占資本主義と労働組合という両勢力の中間で、粉砕されつつある中産階級のいらだちと絶望を母体にして産まれた。そして、経済的危機の深化、大企業にとって、ブルジョア民主主義の主要な特性を緊急に除去しなければならない必要性、ブルジョア社会が一連の緊急な経済的目標を達成しようとすれば、政治的中央集権化をさらに強化しなければならないという客観的必要性、独裁者候補の少なくとも誰か一人にたいする一定レベル以上の大衆的支持、これらの諸条件が交叉して、独占資本をして、ファシストを主に支持しようとする気持ちを起こさせるのである。

ここでいえるのは、ブルジョアジーが、ブルジョア民主主義を排除しようと試みるかもしれないということである。このようなおそるべき敵に対抗するために、ブルジョア最上層の最も階級意識の高い代表者たちは、ブルジョア民主主義を解体するためには、必要不可欠と考えられる、暴力的な試練の結果いかんによっては、自分たちの生活や財産、そして権力を失わなくてもすむチャンスがあると、確信している。こうしてファシストの力量が増してくるが、いまだ、権力奪取に至らない期間には、ブルジョアジーの指導者たちは、ファシストの危険に関連して、労働者階級や労働運動のなかでおきていることに関心をはらう。そのとき、労働者が分裂し、受動的となり、尻込みしたり、労働者組織にたいするファシストの攻勢にたいし、強力な抵抗と反撃が行われないような場合、このような徴候が露呈したときこそ、ファシストはより簒奪を早める。

 だからこそ、ファシズムの台頭にたいして、その最初から、労働者階級の自由な組織、ストライキ権、その他基本的民主的自由を防衛する闘争によって、精力的な打撃を加えることが必要なのである。こうした断固たる、統一した、精力的な反撃は、連鎖反応を呼び起こし、政治的雰囲気を変える。それはファシストが、プチ・ブルジョアジーを、実際に獲得するかどうかについて、より懐疑的にし、ファシストにたいする大衆的支援を弱め、中産階級の相当部分を中立化し、さらには労働運動と社会主義の側へ移行する可能性を高める。そうすれば、ブルジョアジーも、ファシストを支持するという彼らの意思は、彼らの政治路線の主要な要素ではなくなり、再び予備的戦術になるほかない。

 これらすべてのチャンスや機会は、プロレタリアートの統一と、階級的自立に依存していた。もし、労働者階級が政治的に分裂したままであれば、社会民主主義者と共産主義者が、ファシストに対抗して一致団結するかわりに、相互に争っていれば、また、もし、共産主義者が、ファシストとの戦いで勝利する以前に、社会民主主義者を打倒しなければならないと信じていたとしたら、さらに、もし、社会民主主義者が、共産主義者の暴力がある限り、「ファシストの暴力」を中立化することができないと感じていたとしたら、すなわち、この闘争の重みが、抽象的、セクト的な面子のために、忘れられていたとすれば、ファシストの増大するテロルにたいして、断固たる効果的反撃を加えるチャンスを失ってしまうのは自明であった。いくばくかの得票数の増大に狂喜するのではなく、それをはるかに上回るファシズム支持者の急速な増大に目を向けることを、説明することこそが、第一義的に必要なはずだった。しかしながら、これらの逆転現象こそ、トロツキーの多くの警告にもかかわらず、ドイツでおこった事態である。

 こういう事態を招いたのは、コミンテルンの「社会ファシズム論」にもとづくものであった。この「社会ファシズム論」は、もともと、スターリンが、1924年9月に、社会民主主義とファシズムは対立物ではなく、双生児であると定式化したテーゼにもとづいていた。スターリンは、ファシズムを、軍事技術的範疇であるだけでなく、社会民主党の積極的な支持に立脚するブルジョアジーの戦闘的な組織であり、社会民主党は、客観的には、ファシズムの穏和な一翼と位置づけていたのだ。このテーゼが、コミンテルン第六回大会の1年後の1929年7月、第10回執行委員会で正式に採択された。このテーゼにもとづき、これ以降、社会民主党は、コミンテルンの方針どおり、ドイツ共産党の主要打撃の対象にされた。

トロツキーは、コミンテルンのいう、ナチスと社会民主党を双生児とする「社会ファシズム論」を全くの誤謬と認め、放棄し、反ファシズム統一戦線の緊急性を訴えなければならないと主張した。にもかかわらず、彼らは、ナチスにたいし、労働運動の頂点から底辺にいたるまでの、戦闘的な武装せる統一戦線の結成を怠った。それがいまだ十分に可能であり、高度に効果的であったときにさえ、拒否したのである。そして、1933年1月、ドイツ労働者階級は、何の抵抗もなさないまま、ヒトラーを政権の座につけてしまった。世界最強の大衆的労働者組織が、戦わずして屈服した。これこそドイツの悲劇であり、ドイツ労働者階級の自信と階級意識を粉砕してしまう打撃であった。

 ヒトラーの勝利は、ヒトラー自身の力というよりも、むしろ、スターリンの犯罪的愚行による影響の方が、より大きいとトロツキーはいう。ソ連邦の改良的方策から、スターリニスト官僚の打倒、労働者による第二の補足的政治革命の必要性を訴えたのが、1936年の『裏切られた革命』であった。それと並行的に、コミンテルンの改良方針の破棄、新インターナショナルの創設が、トロツキーの目標になっていく。なぜなら、ヒトラー政権成立後も、コミンテルンは、ドイツ共産党の政策を正しいものと決議(1933年4月)し、労働者に敗北の責任を転嫁したのである。ついに、トロツキーは、同年7月に、新しいインターナショナルの必要性を公然と宣言した。だが、第四インターナショナルの創設には、このあと5年の歳月を要した。

 ドイツ共産党が、「社会ファシズム」論から脱却するためには、ヒトラーへ政権を、社会民主党に主要打撃を加えた土産として贈呈したのちでなければならなかった。コミンテルンとドイツ共産党は、自らの凶悪な敵に手を貸して、社会民主党を攻撃し続けたのである。そして、同時に、「社会ファシズム」論の誤謬をついたトロツキーと、その支持者たちを、モスクワの指令に和して弾劾、攻撃しつづけたのである。

 トロツキーは、1933年6月、国家社会主義は、プチ・ブルジョアジーの怨念の結晶であり、ヒトラーの一部分には、この憎悪にこり固まったプチ・ブルジョアジーの全体が含まれているとする。論文『国家社会主義とは何か』は、ナチズムの構成要員と、その勃興理由を、文学的に表現したものだが、ナチズムの旗をかかげた者たちが、ヒトラーのように、第一次世界大戦で戦傷を負った中下級士官層に属すること、彼らの英雄主義と苦悩が、祖国から何の褒賞も得られず、特権も与えられなかった憤怒の深さを指摘する。彼らのプロレタリアートと、革命にたいする憎悪の根源もここにあった。

第一次世界大戦で、塹壕のなかで戦うわれわれを、背後から斬りつけたのは、労働者たちではないかと彼らは意識していた。しかも、ワイマール共和国は、民主主義のあり方をめぐって、果てしない議論の場にすりかえてしまった。ともかく、破産した人間、溺れた人間、傷痕をもった人間、生々しい打撲傷のある人間、これらの人間が、国中にいっぱいいた。彼らの一人ひとりが、テーブルを拳骨でたたくことを求めていた。つまり、圧倒的多数のドイツ国民が、秩序と鉄腕を求めるような政治、経済状況が、ドイツには充満していたのだ、とトロツキーは述べている。この『国家社会主義とは何か』は、ナチス党が第一党になった一周年のために書かれたものであるが、迫力あるファシズム分析として評価しうる。

 ヒトラーの政権掌握前夜のトロツキーの危機感にふれる論文を読むと、その先見性の確かさに驚かざるをえない。1932年4月、まだナチス党が第一党になる前、ヒトラーの権力掌握が間近いことを述べ、そのことは戦争を意味し、それは、ポーランドにたいするものでも、フランスにたいするものでもなく、ソ連邦にたいする戦争であると断言している。そして、ヒトラー・ドイツの軍事介入の条件が完全に熟するのは、1933年~34年と想定している。歴史は、この独ソ戦の開始を、1941年6月まで引き伸ばしたが、トロツキーの、ファシズムにたいする危機の予知と、その推移の大筋は、トロツキーの危機と警告が無視されたことの負の現実となって、ほぼ正確に進行していったといってよい。

 コンテルンの致命的な情勢判断の誤診、それにもとづく的をはずした行動指針によって、ヒトラーを易々と権力の座につかせ、労働者を金融資本の棍棒をもって殴殺しはじめた。この現実を語るトロツキーの口調は、暗澹たるものであった。ドイツ共産党が、つい最近まで、ファシズムと闘う条件として、まず、社会民主党の打倒、「事前的敗北」を要求したことを忘れたかのように、社会民主党に統一戦線を勧告しようとする、その時、すでに、ドイツ・プロレタリアートは、壊滅状態で潰走していた。トロツキーの構想した統一戦線は、このような受動的なものではなく、積極的防衛の意味をもった統一戦線のはずだった。それでも、トロツキーは、可能な限り、後衛戦の組織化を考え、ドイツを囲むオーストリア、チェコ、ポーランド、バルト三国等の国々のプロレタリアートの地位を防衛し、ファシスト・ドイツを、プロレタリアートの城塞の強力な環で包囲し、周囲に武装したプロレタリアートの陣地を構築することを訴えている。ドイツにおけるファシズムの勝利は、スターリン主義官僚の挽歌となって、歴史に明瞭に刻印づけられた。

 その後、情勢を打開しようとして、ファシズムや別の形態での反動的独裁の危険性にたいする全労働者階級の統一戦線戦術は、フランスでもスペインでも行われた。1934年2月6日、右翼の攻勢を引き金として、社会党と共産党の統一戦線が実際に結成され、フランス社会の力関係とダイナミックスを、少なくとも3年間は完全に逆転した。労働者階級の力量は飛躍的に増大した。ついに、1936年6月の工場占拠をともなうゼネラルストライキにより、フランスは社会主義革命の一歩手前までいった。

スペインにおいても同じように、1934年の反動攻勢が、聖職者の半ファシスト的構造を一翼に含む右翼政治を生みだしたが、これは、労働者階級の強力な統一的反撃を呼び起こし、まず、1934年10月の失敗に終わった蜂起に始まり、ついで1936年前半の相次ぐ大衆闘争の高揚、そして最後には、1936年7月のファシスト軍事クーデターにたいする回答として、大都市のほとんどすべてと、農村の相当部分に勃発した社会主義革命の萌芽を生みだしたのである。

 しかし、フランスとスペインの両方の場合とも、労働者階級のこうした単一の攻勢がもっていた、巨大な潜在的エネルギーは歪められ、私有財産制およびブルジョア国家と完全に両立できる路線へと流し込まれたのである。これは事実上、社会民主党、スターリニスト、そして労働組合指導部(そしてスペインにおいては大衆的アナーキスト運動の主要な指導者たち)の側における意識的な階級協調路線であった。1935年以降、スターリン指導下の共産主義インターナショナルは、反動にたいして、「自由主義的」ブルジョアジーとブロックを結成するという、古めかしい戦略のすべてを引き継いだのである。この人民戦線政策は、改良によっては決して清算されえない、資本主義経済とブルジョア民主主義の総体としての根底的構造的危機と一致して生じたものであるが、労働者階級が権力を獲得しうる、もう一つのチャンスを、1918年~23年の時には社会民主党の誤りによって、そして、今回は主として、スターリン主義の誤りによって、失ったことを意味した。だが、それだけではない。反動とファシズムの攻勢による労働運動の壊滅は、実際に回避されたのではなく、単に引き伸ばされただけなのだということを、同時に意味していた。

 スペインでは、スターリニストと改良主義者が、共和派陣営内部において社会革命を粉砕したのち、ファシストが内戦で最終的勝利をおさめた。フランスでは、労働者階級の力量の巨大な蓄積は、人民戦線政府の相次ぐ屈服と、それに引き続く労働者階級の意気沮喪によって崩壊した。1936年6月のゼネストからわずか2年ののちには、1938年9月のゼネストは不発に終わり、労働者階級の自由は縮小させられ、共産党の非合法化や労働組合の機能麻痺が生じた。そして、1940年にペタン将軍の、老衰したボナパルト体制が労働者からのなんらの抵抗もあわずに権力を獲得したときに、第三共和国は恥ずべきことに自ら生贄になったのである。

 1929年~33年のドイツにおいて、統一戦線をめざしたトロツキーの闘いと、1929年~38年のフランスとスペインにおいて、人民戦線に反対した彼の闘いとの論理的連関を理解することは、決定的に重要である。組織された労働運動にたいする直接的脅威としてのファシズムの台頭は、ブルジョア議会制民主主義の深刻な構造的危機と一致しており、これはまた、資本主義経済と、ブルジョア社会総体の深刻な構造的危機と結びついていた。このような情勢のもとで、ファシストの危険にたいする抵抗を、あらゆる犠牲を払っても、ブルジョア議会制度を防衛することと結びつけることは、すでに死の苦悶にあえいでいる制度の存続に、すべてを賭けることであった。政治的分野における、そして同様に、経済的分野における労働者階級の獲得物を、普通選挙権も含めて、すべて反動にたいして防衛することは正しいことであるが、これを没落しつつあるブルジョア民主主義国家機関の防衛という、狭い範囲に限定することは自殺行為であった。

 もし、労働者階級の組織と自由の防衛に成功することによって、蓄積されたエネルギーが、ブルジョア民主主義とブルジョア社会の危機を、社会主義革命によって解決するためのエネルギーとして用いられないとすれば、その時には、この力量自体が急速に減退し、崩壊する。ファシストは、一時的に後退したとしても、巨大な戦闘力を発揮して、積極的成果が生みだされことで、意気沮喪した労働者階級にたいして、再び、攻撃をしかけるだろう。資本主義の極度の危機のもとで、ブルジョア民主主義に未来はなかった。

プロレタリア独裁が取って代るか、右翼の独裁へと崩れ落ちるか、どちらかなのである。この教訓を拒否した結果は、スペインにおいて、イタリアやドイツにおける不統一が生みだしたと同じような、悲劇的で高価な、そして長く続く敗北をもたらしたのである。

 トロツキーが、ヨーロッパの亡命先で、迫りくる世界戦争の確固とした見通しを説きつづけ、ドイツと日本への警戒を語り続けた予知は、優れた情勢判断にもとづいていた。1937年7月の盧溝橋事件直後、トロツキーは、日本の軍事的勝利が仮にあったとしても、それは歴史的エピソードにすぎず、中国民衆の抵抗は年を追って大きくなるだろうとし、日本の軍事的破局は社会革命をもって終わるだろうと、『反対派ブレティン』に書いている。そして、ソ連邦では、支配的徒党の自己保身よりも、国家保身の利害が優越し、ソ連邦は中国の味方になる。日本軍国主義の敗北は不可避であり、それほど遠い将来のことではないと断言している。トロツキーは、中国問題にも深い関心をもちつづけ、コミンテルンの中国政策の誤りを糾弾しつづけた。インド、ラテン・アメリカも、彼の射程に入っていた。

 第二次世界大戦は、1年後に迫っていた。同時に、彼の暗殺計画は、スターリンによって着々とおしすすめられていた。

 

20 トロツキー暗殺

 

 トロツキーの最後の亡命地メキシコの、メキシコ市コヨアカンという高級住宅地の一角、カルメン区ウィーン通り45番地、ここで、かつて陰惨な暗殺劇があった。1940年8月20日夕刻、トロツキーはこの家の書斎で、青年ラモン・メルカデルの打ち下ろすピッケルで脳天を打ち砕かれ、死んだ。机には毀れた丸い眼鏡、ファシズム関係の書籍、吹き込み器が残されていた。スターリンは、メキシコという地の果てに追い込んだトロツキーにたいしてさえ、慎重な暗殺計画を密かに着々とすすめていたのである。

 第一の暗殺事件は、5月24日未明、有名なメキシコ画家、ダビッド・アルファロ・シケイロスを隊長とする20数名の襲撃である。シケイロスらの襲撃は、外部から集団で屋敷に闖入し、機関銃を乱射する方法をとった。しかし、トロツキーの防御は、望楼の建設をはじめ、すべて、外部からの攻撃に対処するものであったから、失敗に終わった。内部は、トロツキーの信頼する友人と支持者で固められていたはずだからである。また、シケイロスの自白によれば、襲撃事件は、トロツキーへの脅迫、国外退去の手段として行ったとしている。しかし、ソ連邦からの圧力で、メキシコ共産党が関与していたのは確からしい。

第二の暗殺事件が、8月20日の個人テロルである。ラモン・メルカデルは外部からの襲撃が不可能であることを知っていた。そのため、内部に入り込んだ。トロツキーの女性秘書の婚約者として接近し、ラモン・メルカデルが、トロツキーに自分の論文を読んでもらうようになるまでに、永年の偽装工作を行った。そして、トロツキーは、この青年を信頼してしまうようになっていた。そして、熱心に暗殺者の論文を読んでいる背後から、柄を短くしたピッケルを取り出して、トロツキーの頭めがけて振り下ろした。

犯人がパリへ来たトロツキーの女性秘書シルヴィア・アゲーロフと知り合ったのは1938年6月か7月のことである。彼は、シルヴィアに近づき、肉体関係を結び、シルヴィアの跡を追ってニューヨークに来て、週給50ドルのイギリス系輸入会社のマネージャーとしてメキシコに赴任してきた。そして、トロツキーに、シルヴィアの婚約者ジャクソンとして接近した。暗殺決行当日、二人はトロツキー邸に、アメリカへ旅行する挨拶に行くため、コヨアカンを訪れるつもりで待ち合わせをしていた。メルカデルは、シルヴィアを放置して、単独でトロツキー邸へ入った。

シルヴィアがジャクソンを伴ってトロツキーを訪問したのは1940年3月末のことである。その後、彼は、政治的無関心を装った一商社マンとして、トロツキー一家の信頼をかちとることに成功した。トロツキーの友人アルフレド・ロスメルまでが、彼の自家用車に乗せて空港までおくってもらうほどだった。

ジャクソンがピッケルを頭に撃ち込んだとき、トロツキーは、ジャクソンにつかみかかり、凄絶な格闘となった。妻のナターシャは、隣の部屋から恐ろしい叫び声が聞こえたのでいくと、トロツキーの顔は血でおおわれ、手は弱々しげに垂れていた。食堂のマットの上に寝かせると、トロツキーは弱々しい声で「ナターシャ、君を愛しているよ」と懸命になって言った。ジャクソンの供述によれば、トロツキー殺害後、自殺しようと考えたという。ジャクソンことメルカデルは、トロツキーを崇拝していたあまり、現実のトロツキーに失望して犯行に及んだ、と一貫して主張し続けた。トロツキーに死が訪れたのは、1940年8月21日午後7時25分であった。遺言は「私は第四インターナショナルの勝利を確信していると友人たちに伝えてほしい……前進せよ」であった。

ジャクソンことラモン・メルカデルは、1943年4月16日、メキシコ第四刑事法廷で懲役20年の判決を下された。1960年釈放、チェコへはいり、68年以降、ソ連に住み、1978年10月19日、キューバのハバナにおいて64歳で死んだ。この時、かつての26歳の青年は、がんに冒されたあわれな一老人になっていた。彼の生涯の仕事は、革命家トロツキーの暗殺だけに捧げられたといってもいい。

トロツキーが、メキシコの大西洋岸タンピコ港へ上陸したのは、惨殺の3年7か月前の1937年1月9日のことである。トロツキーとその妻ナターシャが、最初に住んだのは、通称「緑の館」と呼ばれる、トロツキー邸から4ブロック、ロンドン通りとメキシコ通りの角にある石塀を緑で塗った大きい屋敷である。メキシコの著名な画家であるディエゴ・リベラ夫妻が、この緑の館をトロツキー夫妻に明け渡したのである。

トロツキーが国籍を剥奪されてから、7年余、トルコ、フランス、ノルウェーと放浪の旅が続いた。どの政府も、ソ連との外交面で恫喝を加えられ、トロツキーに出国してもらいたかった。だから、トロツキーはノルウェーから他に出られるとは思ってもみなかった。ところが、1936年12月9日、メキシコ政府から、突然、ヴィザが届いたのである。メキシコでは、彼は暖かく迎えられた。トロツキーは、メキシコの国内問題に干渉しないと、カルデナス大統領と約束をまもり続けた。トロツキーは、モスクワで行われているスターリンの粛清裁判が、全くの捏造であることを証明する闘争をはじめた。「緑の館」で、さっそく、1937年4月10日から17日の間、反モスクワ裁判を開いた。

この反モスクワ裁判は、アメリカの哲学者のジョン・デューイが議長となって行われたため、デューイ委員会と略称されている。委員は7名、そのなかにはリープクネヒトとともに、ドイツ帝国議会の議員で、カール・マルクス伝の筆者オットー・リューレ、サッコ・ヴァンゼッティ事件の弁護にあたったジョン・F・フィナーティ、作家で編集長のスーザン・ラフォレット女史などがはいっていた。この裁判の目的は、モスクワ粛清裁判がトロツキー不在のままで行われ、すべてトロツキーの差し金で陰謀が行われていることを検事と被告が証言しているのにたいし、はたして、トロツキーがそのような行為を行っていたのかどうかを、トロツキーに訊問することで明らかにしようとしたのである。この反裁判が開催されたのは、アメリカのレオン・トロツキー擁護委員会の力によるところが大だった。その背後には、真実を明らかにしようとするアメリカ国民の強い欲求が働いていた。トロツキーにかぶさる罪が、有罪か、無実か、捏造か、真実か、が世論の後押しで、この裁判を開かせた。

モスクワで開かれた二つの裁判で、トロツキー有罪の論拠とされていたのは、次の5点だった。@ソ連指導者暗殺計画の準備(キーロフ暗殺を含む)Aソ連経済の破壊を目的とした産業サボタージュの組織Bソ連軍事力崩壊を目的とした分裂、破壊、殺害計画Cソ連の降伏をねらったドイツ・ファシズム、日本軍国主義との秘密関係D社会主義経済を破壊し、ソ連を資本主義に再建するための諸活動

つまり、ソ連転覆陰謀のすべてが、トロツキー個人から発しているというのである。トロツキーは、この反裁判に全力を傾注した。この裁判記録そのものが、トロツキーの生涯をかけた反スターリン闘争の歴史にほかならなかった。委員会の結論は、1937年9月21日、ニューヨークで公式に発表された。モスクワ裁判は、フレーム・アップであり、トロツキーとその息子セドフは、起訴された特別の18項目すべてにわたって無罪であるというのである。これで、トロツキーは無罪になった。しかし、モスクワの裁判は、この判決に耳をかさず、次々とトロツキー反革命陰謀の加担者として、革命家たちを処刑していった。

トロツキーは、第四インターナショナル創設後、わずか2年しか生きることはできなかった。葬儀のため、彼の遺体をアメリカに運ぶことも、アメリカ政府は拒否した。トロツキーは死後もまた、亡命生活を送らねばならなかったのである。最後にトロツキーは言っている。「たとえもう一度人生をやり直すことができたとしたら、ためらうことなく同じ道を選ぶだろう」。そして、トロツキーは、一生、思想的に定住することなく遊牧民として生きた。                               

 (了)       

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<参考文献>

 

 

 

『わが生涯』       トロツキー著 森田成也訳             岩波文庫  2000

『トロツキー』      菊池昌典著                        講談社   1982

『われわれの政治的任務』 トロツキー著 原暉之訳               講談社   1982年 

『ロシア革命史』     トロツキー著 藤本和貴夫訳   講談社      1982年 

『永続革命論』      トロツキー著 姫岡玲治訳    現代思潮社  1976年 

『ロシア革命史』     トロツキー著 山西英一訳             角川文庫    1975

『ヨーロッパ合衆国のスローガンについて』レーニン著 レーニン全集刊行委員会訳大月書店     1957

『1905年革命・結果と展望』 トロツキー著 対馬忠行・榊原彰冶訳     現代思潮社 1967年 

『トロツキーの思想』 エルネスト・マンデル著 塩川喜信訳  柘植書房    1981

『裏切られた革命』    トロツキー著 藤井一行訳         岩波文庫    1992

『国家と革命』 レーニン著 角田安正訳                  ちくま学芸文庫 2001

『ロシア革命50年』 ドイッチャー著 山西英一訳                岩波新書    1975

『共産党宣言』 マルクス・エンゲルス著 大内兵衛・向坂逸郎訳 岩波文庫  1989年 

『第四インターナショナル』トロツキー著 大屋史朗訳     現代思潮社 1971  

『経済学・哲学草稿』   マルクス著 城塚登・田中吉六訳  岩波文庫   1978

『フランスの内乱』    マルクス著 木下半治訳      岩波文庫   1973

『レーニン』       トロツキー著 松田道雄訳     中公文庫   2001